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物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-05-15

『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)2013年 John Curran監督 自分探しの一人旅が、女性にも拡大しているのだろうか?

奇跡の2000マイル [DVD]

客観評価:★★★3つ

(僕的主観:★★★3つ)

■あらすじ

1977年に、ロビン・デヴィッドソン(ミア・ワシコウスカ)という女性が、オーストラリア西部の砂漠地帯約3000キロを横断すを横断しようとするところから物語ははじまります。彼女は用意周到に、ラクダを手に入れるためにラクダ牧場で2年ほど無休で働き、ラクダ4頭を手に入れます。そして愛犬一匹とともに、アリススプリングスからインド洋に向かって徒歩で冒険をはじめます。先立つものがほとんどなかったため、ナショナルジオグラフィックのスポンサーを受け入れます。人間嫌いの彼女は、いやいやながら同行の男性カメラマンを受け入れます。カメラマン役は、スターウォーズ新作のアダム・ドライバー。7か月に及ぶ命を懸けた砂漠踏破は、彼女がなぜ日常を捨てて人間嫌いになって、この一人旅に身を投じたのかの過去が少しづつ明らかにされてゆく。


■自分探しの一人旅が、女性にも拡大しているのだろうか?

最近、町山智浩さんのラジオにはまっていて、紹介されているのを片っ端から見るように頑張っているんですが、多すぎて見切れていません(←多すぎて、無理(笑))。とはいえ、2週間で15本は見たから、頑張っていますよね!(笑)。さて、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)2013年。『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』2014年と、女性が、自分探しで冒険をするという系統の話で同じ。連続で映画化されることから女の子、女性の「自分探し」が一般化したともいえる気がします。もちろん、そもそも、1977年に原著は出ているわけですが、一般化という意味では、この映画は大きな波のように感じます。たしかに、町山さんも指摘されていますが、男性がこういった自分を探すために、放浪するという形式の本は、昔からたくさんあって、僕らの世代だと沢木耕太郎さんの『深夜特急』が、やはり有名ですよね。とはいえ、約20年以上前、僕もかなりのバックパッカーでしたが、世界中いたるところに女性で一人旅をしている同じようなバックパッカーは、男性比率は少ないもののそれなりにいました、日本人の女性でさえも。けれども、普通の人が旅に出るよりはちょっと、ぶっ飛んでいる人が、行くという感じがまだあった気がします。でも、こういう風になると、誰でも普通の人が行く、という感じになっていく感じがします。ちなみに、Tracksは、Wildに比較すると、マジな冒険家的な匂いがします。そもそもお父さんも探検家ですし、準備の念の入りようは、半端ない。けれども、Wildのほうは、人生どん底になって傷ついた女性が、ふと思いつきでロングトレイルに挑むという感じで、こちらのほうが圧倒的に、その場のノリ的な感じで、Cheryl StrayedのWild: From Lost to Found on the Pacific Crest Trailのほうは、2012年ですから、実に35年くらいの差があるわけで、そりゃ動機は全く違うよな、と思います。この二つは、見比べると、冒険家が冒険を望む感じと、一般の人が心の傷をいやしたくなったり自分を見つめたくて、どこか遠いところへ行くことの違いが現れていて興味深いと思います。ちなみに、女性の冒険家もたくさんいて、『日本奥地紀行』『朝鮮紀行』を書いた19世紀のイギリスの冒険家イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird)さんとかもいるので、冒険が男性の専売特許というわけではもちろんない。けれども、それが世俗化して行く過程では、男性の盛り上がりと少しタイムラグがある気はしますね。やはりじわじわと、現代は女性が権利を拡張している感じがしますね。

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■エゴイズムとセルフからの脱出を描く脚本の1970年代と2000年代(現在)の違いを感じる

ちなみに映画としての評価なんですが、両方とも、僕としては、面白くなかった。映画としての出来は、どちらもいいので、根本的に悪いという意味ではなく、僕との間隔にはヒットしなかったという言い方が正しいだろうか。広大なPCTやオーストラリアの砂漠が、ただの心象風景の舞台のようで、ほとんど意味を感じられなくて、要は心の問題の話だからだと思うからです。なので、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』のほうが、そこに極端にフォーカスしている分潔く、ああ、自分探し、自分癒しなんだなというのははっきりわかってまだ見れた。けれども、『奇跡の2000マイル(原題:Tracks)』のほうは、その背景説明が、あいまいなので、いまいち。子供時代に抱えたトラウマが原因、遠因になって、極端な旅に出かけていくという動機の構造は、同じ。また、物語的なカタルシスとして、自然を進む過程で、自分と向き合い、断片的な過去がフラッシュバックして、自分を内省するというドラマトゥルギーも同じ。けれども、『奇跡の2000マイル』は、微妙にはっきりと原因がわからないので、かなりの部分想像力に頼ることになるし、彼女自身のふるまいに、エゴが強く出る部分はあっても、エゴが解放されるような解放感を感じられないので、なんだか不完全燃焼になってしまう。なので僕の好みとしては、両作品とも、とても評価は低い。ただしこれはもちろん観点の問題もあって、アダルトチルドレン的な「心のトラウマ」と向き合って、自分自身を探していく心理過程に興味がある人にとっては、けっして悪くない作品だろうと思う。そもそも、自分を探すために必要なことは、「一人っきりになって孤独を感じること」で、それによって余計な世間や社会の雑音が聞こえなくなるので、自分に向き合うしかなくなって、心の問題を深堀できるからです。そういう意味では典型的な作品。


実際は、母親が自殺して、叔母にあずけられて厳しい寄宿舎生活をしていて、そのために飛び出してヒッピーになっていたというのが裏にあるのですよね。全部描かれていないので調べるか本を読まないとわからないのですが。これって、まさに1970年代の話なんですね。なので、あきらかにヒッピーの仲間とつるんでいたことが描かれている。なので、この作品は、カウンターカルチャー的な文脈で本来は読み取るものなんだろうと思います。少なくとも著者は、そういう動機で、生きている。わかる人のはとても良くわかるカルロ・カスタネダとかそういう流れですね。かといって、時代的にこの感覚もかなり古いし、僕はカウンターカルチャーは、とてもエリート臭の強いもので、世俗化して一般化してきている現代の人々には、臭みが強すぎるので、それをあまり描かなかったように感じます。それはそれで正しいかもです。

The Active Side of Infinity

ちなみに、「自分探し」と「大自然」という組み合わせを考えるならば、脚本の終着点としては、大自然の中に一人孤独でさらされる経験や、映像を打ち出すことにより、自己(セルフ)が、宇宙の中では相対的に小さなもので、こだわる必要があるのだろうか?という諦観や悟りとまでいかないまでも、自己の相対的卑小さを描いていくことが、感覚の変容という観点からの王道のストーリーだと僕は思う。ようは、自分探しの根本原因は、強すぎるエゴ・セルフをどのように解体して中和するのか、というところに物語のドラマトゥルギーがあると思うのです。強すぎるとすれば、それをいかに弱くできるかがダイナミズムだと思うのですよ。というか、強いものを強く描くと、英雄の大冒険スペクタクルになってしまうと思うんで、あまりにテーマや現代的文脈にあわない。


ところが、どちらも、自分が、自分以外の「何かによって生かされている」という感覚が、あれだけ巨大な自然の中で生きていながら全く感じられず、本当にいまいちの映画だった。アボリジニが出てきて、宇宙の大きさを感じられないなんて、よほど原作が、エゴイズムなんだろうと思ってしまう。特に、Tracksの主人公の、スポンサーや自分をサポートしてくれる写真家に対しての、ぞんざいな扱いは、いったい彼女は何様なんだ?とずっと思う感じだった。もちろん、自分探しなんだから、それは仕方がないのかもしれないが。これは、監督の興味が、「自分探し」の部分に偏っていて、大自然そのものをを表現するというところに、重きを置いていないからだと思う。もちろん、監督らが、もともとそういう意図で撮ったといわれてしまうと、それまでなのですが。

わたしに会うまでの1600キロ [DVD]

でも、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』のほうは、やはりとても現代的文脈ですよね。2012年日本が出ているのもあって(実際に Pacific Crest Trail を歩いたのは1995年)、冒険家的なにおいやカウンターカルチャー的な自分探しのぶっみゃくいがまったくしない。いっそ潔く、自分探しにフォーカスしている。まぁ、そもそも Pacific Crest Trailは、砂漠が多いので、なんも考えられないというのはあるんですけど。


あっと、いま思いついたんですが、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』は、どちらかというとトラウマからの解放を描いていて、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)は、自己実現を描いている感じがしますね。なので、同じ自己の探求、自分探しの葛藤としても、両者に非常に違いがある。


僕は、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)のロビン・デヴィッドソン(ミア・ワシコウスカ)には、とても嫌な感じがしたんですよね。それは、同行していたジャーナリストの男性に対する扱いが非常にぞんざいで、エゴイスティツクに見えたからです。ただし、ここが評価で難しいところなのは、彼女のこういうをエゴがいやらしい自分ばかり見ているいやな人間ととるのか、、、しかし同時に、ほぼ生きるか死ぬかというレベルの大冒険にほとんどすべてを捨てて飛び込んでいるスケールと気合の大きさは、否定できないものがあって、このスケールのデカさを評価するのか、そうでないのかによって、評価が180度変わる気がします。


ノラネコの呑んで観るシネマ

わたしに会うまでの1600キロ・・・・・評価額1700円

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-856.html


ちなみに、ノラネコさんの『わたしに会うまでの1600キロ』は、1700円と評価が高い。自分探しの旅の寓話として評価すると、この評価には納得する。また、シェリル・ストレイドのほうが人間的に、とても共感する。人生どん底になって、旅に出るというのは、とてもよくわかる。こちらのほうが、エゴに臭みがない感じがするんですよね。冒険家的なテイストがある、ロビン・デヴィッドソンには、俺が俺が、的な自我が感じてしまって、主人公を好きになれなかった。


1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1


前にこう言うのを書いたんですが、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)には、1970年代のカンターカルチャーやアメリカンニューシネマなどの系譜の、「支配されたくない」「ここから脱出したい」というような、抑圧からの解放を強烈に志向するテイストを感じますね。見ていて、『欲望の翼』のラストシーンのような印象を受けました。ということは、僕の中の文脈では、これは、「何かから逃げていく」文脈に感じるんだろうと思います。


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ちなみに、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』のほうは、逆で、逃げているものからもう一度再生を志向して、一歩を踏み出す印象を受けます。このあたりが、1970年代と2000年代の同じ「逃げる」ことに対しての志向性の違いに感じます。


Tracks

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ちなみに、男性版のこれらとの比較も考えてみたいですよね。自分探し。大自然放浪系。

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

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2018-05-05

『ゆるキャン△』(2018) 京極義昭監督 原作あfろ どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性

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客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)


さて同じ2018年の最初のシーズンに放映されていたこれ。毎週、『宇宙よりも遠い場所』と同時に二話見ていました。


『宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180415/p1


この記事は、上記の記事の続きの記事です。これ同時代性がすごく感じられて、見ていて、興味深かったです。しかし、日常系の料理の仕方としては、全然違っているので、物語としては感触は全く違います。『ゆるキャン△』は、まさに日常系の典型的なもので、いってみれば女の子が戯れているだけなので、この文脈を体感できない人には、物語性がないので、意味不明に感じてしまうかもしれませんね。興味深いのですが、例えば10-20年後、『ゆるキャン△』や『けいおん』などの作品群を、文脈の同時代性なしに、わかるのでしょうか。というのは、物語におけるドラマ性がかなり配されているので、結局何が目的なのか?、何を目指して、何に収束するのかが、不明瞭なので、ある種の無意識の背景リテラシーがないと、この物語はいったい何の物語なのかと、理解できないのではないかと思ったりします。この辺は、感性もあるので、とても人の属性やその人の内的テーマによるとは思いますが、ドラマ性がないものは、かなり見る人を選ぶ気がします。


『ゆるキャン△』がどういう話かといえば、『まんがタイムきららフォワード』(芳文社)にて、2015年から連載されている漫画をベースにしています。オフシーズンの一人キャンプが好きな女子高校生の志摩リンが、キャンプを楽しむ日常を描くもの、といえると思います。そこに、転校生の各務原なでしこに出会い、彼女が同好会である「野外活動サークル(野クル)」に入部して他のメンバーたちとの交流も描かれる、といったところでしょうか。特筆すべきは、snsでいろいろな情報がやり取りされていて、一人キャンプが好きなりんは、必ずしも他のメンバーたちと一緒に行動しているわけでも、群れているわけでもないのに緩やかにつながっているさまが描かれているところでしょう。


と書くと、これが日常系なのがよくわかると思います。というのは、ドラマ性が非常薄いのがわかりますよね。どこかに行こうという目的もないし、サークルを結成して、何をするという目的があるわけでもない。今この時の関係性や、やっていることを楽しんでいる「その感覚」を描写しているだけです。だから、ドラマの展開力が非常に薄い。『よりもい』が、そもそも不可能に見えるティーンエイジャーの女の子が、南極に行くという強い目的をもって、そこに体当たりしていく困難を描くドラマ性と比較すると、この両作品のドラマ性の差が如実にわかると思います。

ゆるキャン△ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)


■『ゆるキャン△』に示された、どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性


『ゆるキャン△』は、なので日常系・無菌系の文脈なしでは、いまいち何をいっているのわからない系譜のものになると思うのですが、この作品の日常系としての出来の良さ以外のポイントで、文脈として注目したポイントは、SNSの使い方です。前回の『よりもい』で関係性について到達した結論は、結局、一周回って、心の中に絆があれば、どこにいようが(ばらばらで一緒にいなくてもいい)問題ないということでした。ましてや、SNSなどのサービスが共時的に体験をできるシステムが整いつつあるので、それが「目に見える」。えっと、順番は逆じゃないんですよ。りんちゃんとなでしこの関係が、LINEで描かれていて、遠くにいても「同じところにいるような」関係性が、生まれた!のではないんです。関係性が内在している、、、言い換えれば絆が生まれていれば、仮にSNSのようなサービスがなくても、そこに絆の共時性はあるはずなんです。今までそれが見えなかったし、記録に残らなかっただけ、なんですよね。それが、あぶりだされて、目に見えるようになっただけ、なんです。この絆の「目に見える」というところの演出が、とても素晴らしかったのが、『ゆるキャン△』のアニメでした。そして、これは演出だけにとどまらず、大きな文脈の中のある種の結論として、機能していると僕は考えます。


これは、ぼっち、というテーマのアンサーです。


上で話しましたね。ぼっちであるのは、一人でいることとか「状態」ではなくて、心の在り方なんだということ。りんちゃんは、あれだけ仲良くなっても、ソロキャンをやめません。なぜって、一人でキャンプするのが好きだからなんです。一人でいるから、独りぼっちというわけではない。それが端的物理的に最終回で描かれているのは、りんちゃんとなでしこが、特にお互い連絡もしないで、個別にソロでキャンプに出掛けて、行き先が一緒で出会ったことは、彼らの関係性が絆までレベルアップしていて、もう特に言葉で語り合わなくても、とても思考や行動がシンクロしやすくなっているさまを描いているんですよね。あそこに、SNSいらないと思うんですよ、実際は。ただテクノロジーがあるので、それが目に見えるように炙り出されている現代性を見せているだけ。


関係性の確認や強度が増すことを、最後の締めに持ってきていること、それが内面の問題だけで決着をつけるのではなく、行動の結果として目に見せるというのも、演出の特徴でした。キマリと親友のめぐっちゃんの最後のシーンは、まさにシンクロしますね。『ゆるキャン』と。


ここで何が問われているかといえば、「友達」との「関係性」の行きつくところは何なのだろうか?ということ。その結論としていきついた友達との関係性の「絆」というのは、目に見えもするし、見えなくもあるが、『ゆるキャン△』ではっきりと明示的に描かれているように、同質的で、同調圧力的で、みんなと一緒に行動ること「ではない!」というのが重要です。なので、ぼっちに見えることは、何ら怖いことでもなければ、実際には、ぼっちですらない。前回の記事で語ったように、順番は逆なんですよね。友達をが欲しいというのが先に来るのではなくて、自分の好きなことの内発性を突き詰めていくと、「それ」を通して他の人間とつながる可能性が生まれて、それが蓄積され積み重なることによって、絆に変わっていく。絆に変化した関係性は、本物だから、同調圧力などとは関係ないところにあるので、どこへ行っても、一緒でなくとも、何の問題もありません。それはある種のセーフブランケットになる。


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■『広く弱くつながって生きる』ことの認知

佐々木俊尚さんの最新の本が、『広く弱くつながって生きる』でした。少し前に、この言葉は出てくるようになりました。『弱いつながり』。もともとは、アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッターが1970年代に提唱した「弱い絆”The strength of weak ties”」ですね。1970年代当時は、実際に分析したときには、日本では強い絆のほうが転職に効果的との結論が出たらしいです。同調圧力が強烈に機能していれば、それはそうだよな、と思います。けど、それから、40年以上たって、アメリカ型のアソシエーション社会になりつつある日本において有用な概念だと思う。日本的な中間集団は、企業共同体が強固に維持されている時は、機能したのですが、それが壊れてくると、中間集団的な共同体の存在しない日本では、むきだしの個人が、現実にさらされる恐怖空間になる。これは、日本が、成熟先進国のステージにどっぷりつかってきていること、またアメリカが持つ宗教共同体などの中間共同体構築の伝統や、欧州のような再帰的な努力が全くされていないがゆえに、起きることなんだろうと思います。だから、むき出しの個人が、さびしくてさびしくて仕方がない。結果、自殺率が急上昇したりして、高止まりする。


上記の話をした、絆ってのにも、要はレベルがあるって話ですね。あと、何を通して絆を維持しているか?という話。


強固な関係性を持つ絆は、まぁいってみれば、特徴的なのが家族ですよね。夫婦とか、、、、、ということで、恋人とか親友というのが、みんなほしくなるんです。強い絆が崩壊しているから。ちなみに、80年代以降の20年間は、まさに家族の絆、家族の関係性が、崩壊していく様を描く物語が頻出していました。そこで製造された感覚が、アダルトチルドレンですね。要は基盤となる絆を持っていない人は、スタート時点で、相当のハンデを背負ってしまう。実際のところ、社会は回っているので、こうした最低限のリソースは、僕は社会にはまあそれなりにあるんだろうと思います。なので、実は、社会全体に共有されるテーマではないと思うんです。実存を脅かすくらいに、尊厳のリソースが少ない人は、社会のある程度のパーセンテージでそれ以上は増えていない気がします。ただし、1990年代ぐらいから、特に『新世紀エヴァンゲリオン』のブレイクの頃は、これまで日本社会では誤魔化せていた、個人が現実に直接、ブランケットなしで向き合う恐怖というのが、いきなりむき出しに感じられたパラダイムシフトの時代だったんだと思います。この辺はよく考えなければいけないポイントですが、明らかに会社共同体の崩壊(永遠の年功序列や終身雇用の幻想が維持できなくなった)ことや、家族の絆と思われていたものが、単に奴隷のように拘束されていただけで、特にさしたる理由もなくて、お金やきっかけがあれば解体してしまう思い込みだったことも、この辺りでは意識されます。この辺りはまさに映画や様々な物語で激しく描かれましたね。


けれども、それひと段落つきつつあるのが、いまなんじゃないかな、と思います。これは、個人の孤独が感じなくなったとか、貧困層が減っているということではありません。むしろ逆で、じわじわとこれらの物理的な厳しさは激しくなっているとは思います。けれども、既に、こうした個人がむき出しの現実に孤独に向き合わなければならなくて、そこには家族とか恋人とかの幻想の関係性は、ナチュラルボーンにはもらえないんだ、そんな世界は甘くないんだという、個人の自立の認識が、ある程度自明的になってきたんじゃないかあな、と思うのです。


じゃあ、、、、個人は孤独だ、家族とかナチュラルボーンに、生まれついて持っているものは、あまり期待することはできない。しょせん幻想だから。


という環境が当たり前だと思うようになった環境下で、どうすれば、幸せに生きれるだろうか?ということ。


それはやっぱり、目標(=好きなこと)を持つこと。目標は、別に社会的成功や立身出世などの功利的なことと結びつく必要はない。ただ単に、好きなこと、それをやっていると楽しいと思えること。これならば、そこには、それをなくしてしまう「変数」が存在しないから。いいかえると、恋人とか家族とかは、期待に裏切られるということがありますが、、、、好きという内発性は、裏切られにくいのです。僕は、アニメや漫画が好きです。読んでいると、幸せな気分になります。それは、社会的な成功や成長とは何にも結びつかないし、誰にも評価してもらえません。けれども、期待していないので、裏切られることがないんです。なので、凄く重要な、僕の「根源」となります。そして、それは、まさに尊厳。セルフエスティームであり、自信。自分が、自分であることは、好きなことを喜んでいるという反応の中にあります。そして、そういうのが同じように好きな人たちが、集まると、、、それは、自覚的共同体だと思うのです。共同体というには、小さいかもしれないですが、それを弱く緩やかにつなげたり、誰かがアンカーとなって場を形成したり育てたり。そういうのが、結局、楽しさの手ごたえとなり、それが自信と自尊心を涵養し、同じものを持った自家発電できる人同士の緩やかな絆になっていく、、、というのが、現代の絆の在り方じゃないの?って気がします。


もちろん、絆にはグラデーションがあります。確固とした家族の絆、恋人との絆、会社での絆、とか過去にあったものがなくなったわけではありません。僕の中のイメージは、タコ足みたいなもの。軸足を強いものに強烈に依存するような、一本足打法ではなくて、様々な軸足をもって、一つ二つ折れたり曲がっても、全体が倒れてしまわないという感じです。


近代社会では、むき出しの個人がリアルに触れて、家族や国家などの共同体の幻想がぶち壊されて、ボロボロになるというモチーフがたくさん出てきます。それは、これが事実だから。これにどうあらがうのかが、現代社会の最重要テーマの一つ。大体の政治家が、家族の復活を解くのですが、これはすなわち、旧来の差別構造など温存でもあるので、けっこう微妙。かといって、リベラルに様々な差別構造を是正していくと、すべてがフラットになって、関係性がタイトに結びつく契機がどうも失われていくみたいなんですよね。そうすると、近代の理想である「入れ替え可能性」は、いいかえれば、誰でもいいので、あなたでもなくていい、という実存感覚や自尊心の喪失を招きやすい。。。。という中で、あなたはどうやって、自尊心を確保しますか?そして、どうやって、他者とつながりますか?というようなことが、実は我々の生きる世界の大きなテーマなのかなーと思います。


という中で、『よりもい』みたいに、特別な目標を、頭をひねり出して、仲間と共有して、唯一性を獲得するってのも一つの手法。やってやれないことはない、ってやつですね。ちなみに、ここで重要なのは、世界で初めて南極点に到達する!とかいった社会的意義のある事じゃなくていい、ということですね。ここではもっぱら心の問題を解決すること、友達との関係性を深めることのために、目的や目標が使われています。逆じゃないのが、現代的ですね。目標が優先するならば、友達や大事な人を切り捨ててでも、そこへ到達するのが正しいことになります。これは、デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャルネットワーク』(最近見た)とかまさにそうでしたね。部活ものでよく描かれる葛藤ですが、目的と仲間とどっちが大事なの?という問いかけ。ちなみに、『よりもい』は、もともと日常系からきているので、日常系の答えは、目的と仲間ならば、目的レスの仲間のみ、というのが結論でした。けれども、そこにスパイスとして目標が困難でチャレンジングであればいいとしたところに、なかなかのスパイスがあると思うんです。これ、古き成長主義路線に戻っているんですが、単純じゃないんですね。ようは、優先順位が逆転しているんですよ。ちなみに、『ソーシャルネットワーク』のFACEBOOK創業者のマーク・ザッカーバーグとかピーターティールなど、こうしたビリオネアが、ガンガン周りを切り捨てて、何を目指しているのか?というのは興味深い論考で、それは今度書きます。


そんでもって、『ゆるキャン△』なんですが、これは、日常系の学園の中で無時間性という問題に対する答えですね。


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『あずまんが大王』の呪いと僕らはよんでいますが、学園の中の時間が止まった状態を、卒業というエンドポイントを仕込むことで、時間が止まれない罠をこの作品は作りました。けれども、学園の中の「繰り返される日常」は簡単に永遠的な、回帰的な時間に回収されてしまいやすい。けれども、そうじゃない!とする物語の展開を考えるのならば、卒業してお仕事的なものに向かう『『NEW GAME!』』や『SHIROBAKO』に分岐しうるし、また僕はこの趣味系統のものにシフトすると、ちゃんと自立して大人になって卒業して、時間は流れていても、それでも同じ趣味でつながっていられるという意味で、なかなか座りがいいものだと思っています。ちなみに、佐々木俊尚さんがロングトレイルにはまっているという話をしていましたが、緩やかに回帰的な、明日もそれほど変わらない日常を黄昏的に生きていくという意味では、こういったキャンプやロングトレイルなどは、非常に親和的があるテーマなのだろうと思います。とても似ている日常が繰り返されていくが、そこにはじわじわと、時間は流れていて、そして、たぶん、彼らが大人になっても、その絆は緩やかにつながっていて、なかなか途切れない、、、、。途中で、彼らが大人になったという、夢落ちでしたが、シーンがありましたが、社会的地位がどう変わろうと、数年に一度だろうと必ず会うだろうという、緩やかな関係性の感じは、まさにこのテーマにふさわしい感じでした。


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■参考

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130603/p2

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130406/p2

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2018-04-22

『42 世界を変えた男』(2013 USA) ブライアン・ヘルゲランド(Brian Helgeland)監督  暴力ではなく、耐えることによって共感を生み、世界を変えていく戦略

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客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)

アフリカ系アメリカンの素晴らしい映画が、オバマ大統領の登場以後、頻出している。そこを注目すると、アメリカの動きが強く感じられる。なので、探しては見るようにしているのだが、町山智彦さんのラジオでの紹介を聞き、いてもたってもいられなくなって、『42 世界を変えた男』を見る。これは、Jackie Robinsonの伝記映画。ジャッキーロビンソンは、アフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーとしては1884年のMoses Fleetwood Walker以来63年ぶりにメジャーデビューを果たした。といぅても、近代的な整ったメジャーリーグの事実上の初の、メジャーリーガー。デビューは、1947年4月15日。その近辺からの約1年間を切り取ったお話。なので、1947年の4月15日は、メジャーリーグの全選手が、背番号42になる。永久欠番の番号。ちなみに、もともとは、ロサンゼルス・ドジャースは、ブルックリン・ドジャースで本拠地がNYですね。ドッジ(dodge)というのが、ドッチボールのようなひらりと避ける、という意味で、トロリー(路面電車)を避けて歩く意味で、ブルックリン市民を、Trolley Dodgersと呼んだことから、名前の由来になったそう。


最初、非常に驚いたことがある。それは、これが、公民権運動(African-American Civil Rights Movement)、キング牧師の登場よりもはるか前だということ。しかもアメリカが極端に保守化したはずの1950年だよりも前だ、ということ。先日、『グローリー/明日への行進』(原題: Selma・2014)を見たのですが、1965年のセルマからモンゴメリーへの行進血の日曜日事件を描いていて、ここでのアフリカ系アメリカ人への差別は、いまだ凄まじいものでした。ノーベル平和賞を受賞し、ケネディ、ジョンソン大統領の下で、リベラリズムが進んでいる状況下でされも、南部の激しい黒人差別は、まったくやまないのです。最終的には、連保政府の強制によって、この差別状況にメスが入れられていくのですが、この熱い時代よりも、はるか前の時代であるという背景の理解すると、ジャッキー・ロビンソンと、黒人をメジャーリーガーにしようとした、ハリソン・フォード演じるブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャー・ブランチ・リッキー(Wesley Branch Rickey)の凄さが何倍にも跳ね上がります。リソン・フォード演じるブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーが素晴らしかった。いつもは省エネ演技のやる気なさが目立つ彼だが、素晴らしい熱演。感動する。というか、1947年という時代に、ブランチ・リッキーが、黒人をメジャーリーガーにさせようとしたことは、そして、それをやり抜いて、成し遂げたことは、信じられないくらいすごいことです。アメリカ人にとっては、ほとんど常識のようにジャッキーロビンソンデーを知っているというのは、当然の偉業に思えます。ちなみに、MLKの記念日と並んで、子供たちが小学校でならったというので、これはアメリカ社会にとってとても大事なことなのでしょうね。ちなみに、敬虔なキリスト教徒であるリッキーGMが、黒人に差別的な態度をとる他球団のGMに対して、将来死んで天国に行くときに、神様の前でも同じことが言えるのか!と、黒人だったから排除した、奴は人間じゃないから!と!!というようなことを怒鳴るシーンは、胸に響いた。韜晦しているリッキーGMは、将来黒人の中産階級が増えてきているので、マーケティング的に必要だよ、金のためだよ!と何度も言うのですが、、、そのセリフの奥に隠れる激しい情熱に見ていると本当にグッときます。けれども同時に、彼は、間違いなくその通りの世の中の人口動態や構造が変わることを見越して、先を読んで、この大事業に乗り出しているのだろうとも思います。いやはや、カッコよすぎですよ、リッキーさん。その他にも、南部の田舎に遠征に行くときに、ある白人選手が、田舎の地元から脅迫常務が来ているんで、自分はいけない、何とかしてほしいと訴えるのですが、リッキーさんは、ばさっと、凄まじい量の手紙を積み上げて、これが殺人予告の脅迫状だよ、自分と球団宛ての、というのです。そんな1枚くらいの脅迫状なんか気にしてられないよ、と。しかし、とても不思議だったのは、南部の激しい憎悪と差別意識と比較して、なぜ、ブランチ・リッキー(Wesley Branch Rickey)が、そのような意識を、動機を持つことができたのか、というのが不思議でした。黒人も同じ人間であり、同じキリスト教徒であり、神様の前で最後の審判の時に良心に恥じることがしたくないという強い動機があるのは、よくわかるのですが・・・・・しかし、同じ経験をして、同じ立場でも南部では、憎悪と差別が、深い文化と伝統として根を下ろしているのです。それがなぜだったのか、というのは、とても興味深い。もっとこれらの作品を見ていきたいと思います。


また、ブランチ・リッキーの思いに、正しい形でこたえたジャッキーロビンソンも素晴らしかった。彼は、正義感が強くてかなり行動派。これまで軍隊でも、彼が、非常に白人の差別的な態度に対して反抗的で、かつ切れて対応していたのが、先に描かれています。なので、実際は、短期で、切れやすかったんだろうと思います。ところが、メジャーリーガーになってから、彼は一切そのような態度を捨てるんですね。契約するときに、リッキーに、「黒人だからといって差別されるのを、だまってみているようなガッツのない人間になれれというのか?」というのに対して「耐え忍ぶガッツが欲しい」というリッキーの言うことに、ちゃんと従うんですね。そして、そのずっと耐え忍び続ける姿は、その後のMLKの無抵抗主義の思想と相通ずると感じます。我慢し続けて、いつの間にか敵だったチームメイトや人々が、ジャッキーに共感して、仲間として受け入れていくのは、まさに人間の真理だと思った。シンパシーは、ギリシャ語の苦しみからきていて、苦しみを共有するとき、人は相手を仲間と認めるというのは、素晴らしい言葉でした。ガンジーもそうですが、時に臆病ともいえるような無抵抗主義が、長期的には、変わるのが不可能様なものを変えてきた様や、ヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールのブラックパンサー党やマルコムxなどの武闘派組織では世界を変えられないさま、また、背後にこうした武闘派組織がいたからこそ、無抵抗主義に意味が生まれたことなど、この時代の公民権運動の戦略は、社会改良のヒントにあふれている壮大なチャレンジです。ちなみに、野球のチームメイト、という人数の少ない組織で、アフリカ系アメリカ人を敵視しているチームメイトが、外側からドジャースという一つの組織として差別されるのを目の当たりにして、言い換えれば自分のドジャースの一員であることで差別されて脅されるのを体験することにより、そのさらに激しい差別を黙して耐えるジャッキーロビンソンの姿に、うたれて、感染していく様は、人が人に与える影響というものは、非合理なこういうものなんだ、と強く実感する話でした。


全然話に関係ないのですが、いまひそかに自分の中で富野由悠季監督のガンダムサーガを理解しよう!強化月間(2018年4月)なのですが、『新機動戦記ガンダムW』の絶対平和主義を唱えるサンクキングダムのリリーナ・ピースクラフトを見ていて、キャラクター的に、頭がおかしいとしか思えない人なんですが、絶対平和(戦わない)を唱えながら超兵器であるヒイロとがガンダムに「やっておしまいなさい!」と戦争をけしかける(笑)というか暴力で平和を達成しようとするです。相いれない二つの事項を、平気で矛盾して保てるから、なんだか器がでかいように見るんだな、と感心したんですが。こういう歴史を見ると、時代的トータルでは、無抵抗主義、非暴力主義がリードするんだけれども、それが意味を持つには、背後に激しい闘争も辞さない勢力と勢力争いしていて、もし、非暴力勢力が力や支持を失った場合、民衆の力がどう暴発するかわからないという脅しのような構造があるからこそ、意味を持つんだよな、といつも思う。なので、ジャッキーロビンソンからマーティンルーサーキングにつながる無抵抗主義の系譜と場別に、ブラックパンサー党やマルコムXを同時に見ていないと、人類の歴史というものを見誤ると思うので、この辺りは同時に見るのをおすすめします。

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ちなみに、主演のチャドウィック・アーロン・ボーズマン(Chadwick Aaron Boseman)は、ティチャラ役で『ブラックパンサー』に出演することになります。この流れを知っていると、うおってうなります。オバマ大統領登場周辺からのアフリカ系アメリカの歴史を反映した物語群は、本当に素晴らしいものがあります。そして同時に、ほんの10年もしない前まで、黒人奴隷の厳しさを描いた作品というのがほとんどなかったこと、アメリカの恥部を映画ではほとんど描いてこなかったことを考えると、本当にこういう国家の、民族の、歴史の恥部というのは、描くのが難しいものなのだ、と思います。いやはや、、、、まだ親が奴隷でしたというような人がたくさん生き残っていること、ほんの1960年代までの公民権運動前の南部のJim Crow lawsなど、ついこの前まで壮絶な差別がまかり通っており、リンカーンの奴隷解放宣言と、マーティールーサーキングの公民権運動を経てさえ、まだ現代のような状況だということを考えると、本当にこの問題は根が深いもので、知れば知るほど震撼します。


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■過去の記事

『ヘルプ 』(原題: The Help 2011 USA) テイト・テイラー監督

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130114/p1

『Lee Daniels The Butler/大統領の執事の涙(2013 USA)』アメリカの人種解放闘争史をベースに80年でまったく異なる国に変貌したアメリカの現代史クロニクルを描く

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150207/p1

それでも夜は明ける12 Years a Slave(2014 USA)』Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150120/p1

『Straight Outta Compton(2015 USA)』 F. Gary Gray監督 African-American現代史の傑作〜アメリカの黒人はどのように生きているか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150915/p1

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2018-04-15

『宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!

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客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)

キマリこと玉木マリの主人公の視点から物語は始まる。南極を目指す少女・小淵沢報瀬(こぶちざわしらせ)と出会うことにより、何となく退屈な日常の、どこかへ行きたいという気持ちに、具体性がが生まれ、そして、「ここではないどこか」という否定形ではなくて、「そこ=南極」というはっきりとした具体的な場所に、キマリたちは突き進んでいく。

とてもコンパクトでまとまっている傑作なので、ぜひとも「いま(2018年)」に見たい作品なので、頑張れる人は、ぜひとも見ることをお勧めします。あとで対比で説明する『ゆるキャン△』と比べてとても見やすいと思います。同じ日常系・無菌系の特徴である少女がたいてい4人いて、その関係性のみで話が展開するという作品は、通常の意味ではドラマトゥルギーが弱いので、ある種の文脈や、関係性のみにフレームアップすることに安らぎを覚えるという感受性をベースにしないと、何が面白いの?という感覚に陥りやすいのですが、『よりもい』は、南極に行くという非日常の目的がセットされており、そこに向かって物語が収束していく展開力があるので、主軸が4人の関係性だとしても、ほぼだれでも見れる作品になっていると思うので、どなたにも(いいかえれば男女問わず)お勧めです。特に、これは地味ではあろうと思うのですが(どれくらい売れたんだろう・・・・)、文脈的にアンカーとなるエポックメイキングな作品だと思うので、見て損はないです。放映時点で、かなり話題になった作品なのですが、2010年代の代表的な意味文脈を感じるからだとと思います。時代的なコンテキストは、空気として流れていってしまいやすいので、こうしてブログのような形でメモしておくと、全体像や時代の変遷についてのアンカーになっていいと思う。小説家の坂上秋成さんが、俺は俺の南極に行くと、稚内に飛んでいた時は、ぐっと来た(笑)。しかも、それが、最終回であっさり、キマリの友人に先を越されているあたり、この作品のシナリオのコンセプトがちゃんと貫徹されているさまがよくわかります。


ちなみに、ネタバレなので、いつも通り、そこはご意識ください。



坂上さんの文脈を僕が理解しているわけではないのですが、アニメや物語をリアルタイムで見続けていると、時代的な何かの到達点に感じるのは、たぶん誰しも感じたんだろうと思います。



文脈や考え方は同じではないかもしれませんが、時代的な何かの変化を感じさせる意味を感じる作品でした。


今の時点で、僕が考えて考えたことを以下にまとめてみたいと思います。


■日常と非日常をつなげるために必要なのはアイディアであって、アイディアがひねることができれば、人はどこへでも行ける


2018年の4月の時点でこれを見ている時には、やはり『らき☆すた』(2004)『けいおん』(2007-2009)『ゆゆ式』(2013)(などの日常系、僕らの言葉でいう無菌系の類型の到達の一つに見えました。空気系、日常系、そして無菌系の最先端作品として、『宇宙よりも遠い場所』と『ゆるキャン』の2作品が、今期の代表作だろうと思います。よりもいの、特徴的なのは、日常系のインフラストラクチャーに土台は乗っかりながら、舞台も、目指すところも、南極という非日常という部分。この辺りの絶妙のスパイスは素晴らしかった。

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ええとですね、どういう風に感じたかの構造的なものを言葉にするとですね、、、まず最初に、空気系(ここでは無菌系とかの区別は置いておきます)といわれるような、2000年代にたくさん登場してきた、少女たちが、たいてい4人ほど、戯れるだけという物語を思い浮かべてほしいのですが、これの舞台は、学園でした。要はクラスメイトなんですね。たいてい。凄く特徴的なのは、これが時間が止まったかのような学園生活の一コマが切り取られており、『あずまんが大王』の呪いとでもいうべきか、卒業はするのですが、この世界観。ここで重要なことは、代わりのない永遠に続くかのような繰り返される日常の中で、重要なのは女の子だけで戯れて、無邪気に笑いあっているということでした。ここで重要な感覚は、学園の世界から外に出ない、同じ繰り返しの中にたゆたっていることを肯定的にとらえることでした。これをもう少し抽象的に俯瞰してみると、目的意識が存在していない、ということでした。たとえば、ジャズギタリストを目指していたけいおんのあずにゃんは、ぬるい高校の素人の部活に取り込まれて、少なくとも、劇中では、孤独を貫いて、学園の外の価値観であるジャズのプロを志向するような振る舞いはいっさいありませんでした。ここでは、目的意識がないことこそ!賞揚しているようにみえます。

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過去の経緯を話すと長くなるので、そこはラジオで解説されている部分で、お願いします。

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簡単に言えば、それまでの物語類型で、少年が竜退治をする・・・・英雄になるという目的式の大きな課題の一つである戦争のない世界をつくる、人間が悪であることを否定するということ、、、この辺りもめんどくさいので、簡単にえば、目的意識をもって頑張り続けることに、その結果が、人類の終末という、身もふたもないことに必ずつながるさまを見せられ続けて、少年が英雄を目指すことに、疲れ果ててしまったんですね。この少年が、英雄が疲れ果てて、物語の主人公にあきらめたことと、これが日常系の男の子の視点がなくなって、少女たちだけが、学園生活の中で戯れるという物語空間に接続していくには、ラブコメの変遷、セカイ系の変遷を経るのですが、そこまで細かいのは置いておいても、直感的にはつながると思うのです。

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ようは、目的意識をもって未来のために生きて目的の奴隷となることを拒否する、または、そういった目的を持って頑張っていてもブラック企業の奴隷になるだけで、この世界の構造は結局とのころ、思っていたような英雄になって世界を救うことなどできないという絶望感にとらわれた時に、今この時を生きる、目的などという遠い抽象的な概念ではなくて、目の前の具体的なだれかとの関係性の変化こそを最も大事なものとして、そこにフォーカスして見れば、目的からすればごみのようなどうでもいい切り捨てる対象だった、その関係性が、実は、本当に大事なもの、自分が帰るところ、生きる実感をもたらしてくれる場所だった、、、、それへの気づきの極端な戯画化が、日常系という学園の中で4人の少女がただ戯れて無邪気に遊んでいるだけの物語という類型を生み出してきた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・だとすると、おかしいと思いませんか?。



日常系の重要なポイントは、学園の中から、どこにも行かないこと、だったはずです。「どこか」という具体的な場所を設定したら、それは目的です。目的の奴隷になるのを拒否したのが、この類型の始まりだったとすれば、よりもいが、いかにおかしな物語構造をしているかわかると思います。


だって、具体的などこか、それが、ここでいう日常=学園という安定した空間から、最も「遠い」所をし想定しているからです。この時点で、この作品は野心的です。


4人のキャラクターが、単純に、女子高生ではない、というのも重要です。4人ともが、同じ学園に属していません。一人は、ドロップアウトしたフリーターだし、一人は学年の違うアイドル、キマリこと玉木マリを視聴者の感情移入のポイントである「何もない普通の人」と設定すれば、南極へ行くという非日常の目的意識の世界に生きている小淵沢報瀬(こぶちざわしらせ)は、全く違う人種です。4人の属性が、これほど違い、共通性を持ちにくい設定にしているのも、ちなみに、学園生活をドロップアウトしたフリーター、ニートをテーマとするのは、セカイ系寄りのテーマ(東のエデンを見よ!)ですし、アイドルというのは、アイカツやアイマスなどの女の子のシンデレラストーリーのリノヴェート版です。そう考えると、この属性の構成が、とても古いテーマ、というか、セカイ系などの主人公、英雄に動機が失われてしまう前のテーマにつながることが感じられます。たとえば、学校をドロップアウトしたニートを、笑い飛ばしたり、そういう穏やかな日常もいいよ!と笑うのが日常系であって、それをシリアスに悩み、その理由を追求し、再生を希求するのは、明らかに古い目的意識の強いテーマです。ほんの数話ですが、この問題にはっきりとよりもいは、答えを出していて、それもとても繊細な物語構成だと思います。

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話が、少し飛んだので、元に戻ると、南極という、日常の学園生活の対極に位置される具体的などこかを目的としてセットして、そこに向かって時系列的に収束する形で物語が展開するのは、回帰的な並行する永遠の日常の時間をメインテーマとする日常系の作品の反対に位置するものです。


にもかかわらず、4人の少女の関係性のみが、やはり物語のテーマであり、最後までそこにぶれることがないのは、はっきりと日常系の類型を示しています。


構造的に言うと、日常と非日常というものが、特に対立するものではなく同時に描かれている。目的意識のある直線的な切迫した時間感覚と回帰的ないつまでも変わらない日常時間間隔が、同時並行的に、繊細に描かれている。分析的に考えると、


A)玉木 マリ(たまき マリ)/三宅 日向(みやけ ひなた)-回帰的な永遠の日常


B)白石 結月(しらいし ゆづき)/小淵沢 報瀬(こぶちざわ しらせ)-目的意識のある直線的な時間感覚


こう分けられる。こう分けると、それぞれの自意識のテーマ、小さなエピソードの積み上げが、すべて、はっきりとこの問題意識に貫かれていることが読み取れると思います。まずは主軸のキマリは、今日と、明日が変わらない、何物でもないちっぽけな自分を変えたくて、そこから抜け出たくて「ここではないどこか」に行こうとします。それが、はっきりと焦点をもって、具体的な目的意識に昇華するのは、小淵沢報瀬と出会うからです。彼女は、自分の母親を南極で亡くしており、なんとして南極に行こという強い意志で生きています。しかしながら、この永遠の日常のような学園世界で、強い目的式(私はお前たちとは違う!)という意識を持てば、それだけはじかれ、孤立し、孤独の世界を偏屈に生きることになります。この二人が出会うということの意味は、お互いが、回帰する時間⇒直線的時間感覚(キマリ)と、直線的時間⇒回帰する時間(しらせ)の全く異な意識をお互いに伝えあい、感染しあう過程になっています。キマリは、しらせと出会うことによって、生きることの意味を、目的をもって生き、他と違うことを誇らしげに示すことを学びます。逆に知らせは、一人だけで生きていく目的の奴隷ではなく、それを等身大の仲間と共有して、今この時を大事にして生きることを学びます。お互いが逆パターンで感染して影響を与えています。ちなみに、キマリの本当にお決まりの手あかにまみれた、ここではないどこかに行きたいという気持ちに明確に形を与えて、それが、しかも宇宙というファンタジーの非日常の大冒険になるよりも、さらに行くのが難しいところでありながら、そこにそのまま、関係性の物語を持ち込める状況を考えついたのは、この脚本は、秀逸すぎます。


三宅日向(みやけ ひなた)のエピソードは、典型的なドロップアウト、ニート系統のぼっちの物語です。これは後で出てくる『ゆるキャン△』のリンちゃんのテーマと同じですが、大きく違う点は、ニートだけにとてもネガティヴに、一度道を踏み外して、友達に裏切られて、ぼっちになって、孤立していくこと、もう一度信頼をすることが怖くてできなくなってすくんでいる時の怖さが描かれています。ネガティヴに時間が止まってしまっているのが、彼女の問題点です。一昔前の、アダルトチルドレンのトラウマの物語類型ですね。シンジ君のお話です。もう一度普通に生きるために、、、言い換えれば、普通の時間感覚に戻るために、彼女は、南極まで、、、、言い換えれば世界の果てまで行く必要がありました。彼女の壊れてしまった動機、、、、他者を信頼するという能動的な第一歩の踏み出しのために、彼女は、世界の果てまで具体的に行く必要があり、そこに行って初めて、彼女のは心の壁を超えることになります。これは、まさにセカイ系・脱セカイ系にあったテーマで、繰り返される永遠の日常という、繰り返される地獄(ネガティヴにとらえると)をどのように脱出できるかが、問題意識でした。そして、この繰り返される閉じ込められた世界というのは、動機のなくなった主人公の心象風景であったのは、スカイクロラでもうる星やつら・ビューティフルドリーマーでも村上春樹の作品でも、いま振り返るとはっきりしています。動機を失った人が、再び動機を調達して、生きる気力を取り戻せばどうすればいいのか?の出口を探す旅が、セカイ系の問いかけであったのは、いまから振り返ればわかることです。ちなみに、この全体の中ではそれほど大きくないエピソードは、とても秀逸な、結論を示していて、僕は素晴らしいとうなりました。日向は、裏切られた友達に裏切られて高校を辞めたのですが、当然にこの裏切られ友達との関係修復をどうするか?がテーマになると思いきや、この、いってみれば日向をスケープゴートにしていじめて同町圧力をかけてきた高校に残った(勝ち組に見える)友達のほうを、ばっさり切り捨てるんです。もう友達じゃない、、、というか、そもそも友達じゃなかったので、私の居場所はそこではなかったんです、と高らかに宣言して(正確には友達・キマリたちがしてくれた)彼らを切り捨てます。問題点を、克服するのではなくて、ああ、そもそももともとそこの居場所が間違っていたんだ、と切り捨てたんです。これは、同町圧力で、復学するのが正しい!とか、仲良くするのが正しい!という日本的学園同町圧力の地獄のテーマでは、はっきりとしした答えなのですが・・・・通常は、これは負け犬の、セリフです。だって、高校から逃げ出したんだし、友達との同町圧力のゲームに勝ち残れなかったわけですから。だから日向は、過去の友達というか高校の同級生と顔を合わせたくないし、うじうじしているのは、自分が負け犬だというのが、顔を合わせた時に発覚してしまうからですね。このゲームに勝つ方法は、ほぼ一つしかないんです。学校の評価軸以上の評価軸を示したときに、ゲームの勝ち負けが逆転します。また、日向の心の動機レスなものを、癒して、前に向けてくれる仲間、友達がそばにいて、明らかにそれが、過去の人間関係より質が高いと思える時に、ゲームとしては、勝った!感が漂います。まぁ勝ち負けで人生生きているわけでは本当はないんですが、高校生活という学園同町圧力ゲーム・・・・日本的お友達の世界は、そういう勝ち負けのゲームをしているんです。なので、自分が嫌でも相手は、そういうルールを押し付けてきます。けど、このエピソードは、ほんの2話ぐらいで、完全に勝ちだ!と思わせる(視聴者に感じさせる)のに成功していると思うんですよ。それは、南極に行く!!!という社会的な、日常の、当たり前の価値観のスケールを振り切れたことを実行していること、それを、仲間と一緒に時間を共有していること(=帰る場所があること)がある状態で、日向ではなく、キマリが相手に行ってやることで、こりゃもう、高校やめた日向のほうが、充実してないか?というのが、はっきりわかってしまうんです。その具体的な状況設定の中で、私にもうかかわるな!宣言は、負け犬の遠吠えではなくて、高らかな勝利宣言になるれうんです。そして、心の迷宮、繰り返される永遠の日常の地獄を抜け出すには、実は、物理的に、とんでもない遠くまで行くことが効果があるというのは、物語でもそうですし、実際の人間でも同じだと僕は思っています。ようは、心の問題というのは、抽象的なものに惑わされているコンセプチュアルなことなので、身体性、フィジカルなものに戻れ!というのがこの系統の出口です。殺し合いのバトルロワイヤルや格闘技系の暴力、セックスや薬などにこの話が行きやすいのは、心に閉じ込められたら、現実に戻るには、身体性を再獲得するのが当然の帰結だからですね。けど、取り戻そうとするときの強度は、極端なものが必要です。このアダルトチルドレンのトラウマ回復の物語、動機が失われたものの再獲得の物語が、、、、僕とLDさんがブログで、理論上もっとも救われな人をどう救済するかまで追い詰めていった物語が、こうもあっさり数話のありきたりの具体的な、よくある普通の話にコンパクトにまとめられているさまは、この問いかけが、この類型が、ここまで洗練されて、既に重要なテーマではなく、その先に受けても作りても進んでいることを示していると僕は思い、感動しました。


白石結月(しらいし ゆづき)のエピソードは、まさに、僕は友達はが少ない、のそのまんまです。究極、彼女が欲しているものは、ずばり、友達です。でも、友達って、いろいろな角度からの問いがなされていて、一つは、それってただの同町圧力の地獄じゃねえの?という問いで、これは日向の日本的学園世界のテーマと同じ基本構造でもありますね。日本で友達というと、直ぐこの、同調圧力をかけてくる圧力という装置とどう違うのか?というのがテーマになります。それだけ、学園の教室の世界というのは、同調圧力の地獄なんですねぇ。そしてすぐスクールカーストの序列の話になるんですが、ゆづきは、そもそもアイドルとして学園に具体的に所属できていないので、何をもって友達というのか?というテーマにシンプルに絞られます。彼女が深刻になりにくかったのは、彼女がアイドルという外の世界に、言い換えれば学園とは異なる社会的な評価軸で確固たる地位を占めていたからですね。これは、『SHIROBAKO』などのお仕事ものに、学園世界での閉塞感からの脱出が向かっていたのと同じです。

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とはいえ、友達が、できない、、、、、それってのは、生きている充実から、仲間外れにされているのではないか?という風な不安と恐怖が、ゆづきには、つきまとっています。これ、リア充爆発しろという例のスクールカーストの問題意識のパラフレーズですね。つまりは、より価値のある人生、より充実した人生は、どこにあるのか?というときに、友達がいることなのではないか、という仮説があって、それでみんな苦しむんです。ちなみに、『ゆるキャン△』のリンちゃんのテーマは、これにしっかり答えていて、いやいや、自分の好きなことがあると、ボッチでも楽しいし充実してて何の問題もないんだよ!という2018年の現在の到達点として、友達が少ないとか言っているのは、実は問題意識の順番が間違っているんですよ。リンちゃんは、好きなことを、ボッチで、一人だけでやるのが好きなんです。好きだから充実しているんです。自己完結していて、それは、ボッチではないんです。ボッチではないのだけれども、、、、ここが面白いところで、好きなことを繰り返していると、そのことを好きな人と出会うことがあって、好きなことが一緒の人と、一緒に好きなことをやる(ただし最初は別々でなければならない)というのが、実は本当の友達なんだ!と話なんです。ここでは、dependent(依存)とindependent(独立)の話がされていると僕は思っています。というのはですね。友達が欲しい!!!という人は、依存の対象を探しているだけなんですね。だからどこまで行っても負け犬だし、本当の友達には出会えない。


順番が逆だったんです。


孤独を恐れずに、好きなことを探し出して、そこで充実を得る。いってみれば、自分を内発性を探す。内発性というのは、依存しないで、独立しているものです。自家発電ですから。そうして、自分の中で自己完結している同士が、同じものを好きな人と、同じことを、あれ「この人も同じことしている」と気づくことで、いつの間に一緒にやっている、、、自然に時間と空間を何となく共有している、それが友達なんです。順番がすごく重要なのはわかるでしょうか。独立の意思で、自分が好きなことをしている同士が、たまたま偶然に重なったことで、友達というものは「なる」んです。作ったり、獲得したりとかそういうものじゃないんです。偶然、自分がしたいことと重なっているだけ。それが、重なっていく事実性の中に、あれ友達じゃん!という気づきが生まれて、その独立性と内発性をベースに、お互いに等身大に踏み込んで関係性を層度に結ぶことで、、、それは本当の友達、になっていきます。なので、自分が好きなことをやりたいことを探す前に、友達が欲しい!というのは、最悪の悪手になります。


ちなみに、友達ができたからと言って、人生が充実するかはわからないという言い方もできます。が、これは、順番が上記のようにされていれば、解決してしまっている話なのが分かりますよね。だって、好きなことをやっている充実を共有するのが友達ということになれば、友達ができた時点で充実しているはずです。友達を、非独立の依存対象として、充実する何かをもたらしてくれる道具として探しているので、友達(しょせんは依存対象の同調圧力装置)ができても、なんら充実することなく、同調圧力の承認ゲームの道具として利用されるだけになり下がるのです。ちなみに、僕は自分の子供の教育をするときに、常に心掛けているのが、承認のゲームで負けないように、承認をたっぷり与える(要は声に出してほめまくる・行動で称賛を示しまくる・できるだけ根拠なく)ことと、君の好きなことはなんですか?といつも聞き続けること。人生は、自分の大好きなこと、それだけをやっていれば満足で、サバイバルできる何かを探す旅なんだ、でも、簡単には見つからないから数十年かけて探さなければいけないゲームなんだと教えるようにしています。日本は、承認リソースが弱い国なので、承認リソースをたっぷりもっている人間は、ものすごくゲームで強くなります。そして、大好きなことをやり続ける喜びは、自己承認ループを作り出して自己発電できるので、友達とか全く必要なくなります。そして、逆説的ですが、友達なんかいらない!という充実をしている人の周りには、友達が群がります。それも、自分で自分を承認できる、かっこいい友達がですね。そういうゲームのルールなんです。

この系統の話は、『僕は友達が少ない』で、ラブコメの類型から、実は欲しいのは、恋人ではなくて友達だった、という話は、あれはリア充系の物語で、どうすれば充実できるか?を探すときに、恋人ができてしまえば、まぁそれはいいかもしれないけど、そうできなかった場合には、どうすればいいのか?という話。また恋人関係が、依存系のアダルトチルドレンのトラウマ補助装置にすぎないのでは?という疑念がぬぐえないからなんじゃないかな、と思います。対幻想、ラブロマンスの系統においては、依存や勘違いによるカップル成立も、それは物語の一つだし、強度の一つになりうるので、恋人関係を出口に持ってくると、より健全な形で、平衡状態で、言い換えれば恋愛のような狂気に突き動かされている勘違いの幻想状態ではなくて、充実を求めるならば、やはり友達という一段幻想・思い込み度合いが低いほうが、ふさわしいという感覚があるんだろうと思うんですよね。それは、正しいと思います。ラブコメの展開が、常にヒロインだけが報われる序列の構造から、たくさんのタイプの女の子に競わせる並列の構造になって、それがハーレム構造になったけど、、、そこから男の子がいなくなって(笑)少女たちだけの関係性の物語として日常系に接続されてくるのは、まさに、恋愛による対幻想の強度が、依存関係で成立しても一向にかまわなく、まさにその勘違いの窮まっている状態でも、二人しかわからない世界、外からの客観的物差しが入らないからこそ対幻想なんで、OKというのは、ちょっと求めているものとは違うんですね。それはそれで、一つの美しいロマン=幻想なんですけれども。でもリア充、人生における充実をテーマにしていくと、友達のほうが、物差しとしては正しいという直感は正しかったんですね。けど、それは友達が先に来るのではなく、やりたいこと、好きなこと、が先に来ないといけない。

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でも、やりたいことがない場合は、どうすればいいのか?


というのが、この問題の大きな特徴です。いいかえれば、やりたいことがない!、わからない!というのが。だから、友達という、わかりやすやすそうなものに飛びついて、同調圧力の奴隷となり下がりやすいんです。ゆづきのシュチュエーションは、社会人の状態と似ていますね。仕事があって、友達との時間を確保できないので、同調圧力の世界からはじかれてしまう。なので、孤独になるんだけど、忙しいので、友達を作る暇も、維持する暇も、好きなことを探す暇もない。なので、彼女は、不安定で、さびしいを思いを抱えて生きています。僕は、なんだから見ていて、笑ってしまいました。悪い意味ではなく、ああ、これってのは、僕らそのものだな、と。友達が欲しいから、そのためには、やりたいこを探さなければいけないけど、別にやりたいことが思いつかない。じゃあどするか?というのは、キマリの構造と同じです。キマリの場合は、変わらない日常をどう抜け出すかという悩みでしたが、アイドルとして日々目的に向かってアクティヴに生きているゆづきにしても、結局同じです。目的の奴隷になっていて、自分で主体的に生きている感覚がない。そこから抜け出すにはどうすればいいのか?。処方箋は、同じなんですよね。


遠くへ、行けばいい。具体的には、難しければ、難しいほど、非日常的なほどいい。


ただし、結構、難しい条件なのは、一緒に行く仲間も同時に探さなければいけない、という部分です。でもこれは簡単。しらせが、強烈な目的を持っているから、一緒の夢を見ればいいだけなんですよね。


こう見てくると、それぞれの4人が、けっこう異なる属性というか、現代的なテーマをそれぞれに抱えた存在で、それぞれがそれぞれに感染、影響を与えることで、新しいチャレンジに向かう構造になっている。そして、それは、南極に行くということ。僕は、これがすごく秀逸だと思いました。


というのは、南極という、宇宙よりも遠いところという非日常の場所に具体的に向かいながら、その非日常感覚は、ほとんど感じられない。理由は単純で、「そこに行く」という物理的な難しさが、感じられないからだ。あっさり、行けてしまっている。では、南極という具体的な場所が、ただの背景であって、幻想というか空想上の書き割りの舞台かというと、それも違うと思うのだ。ここには、ちゃんと、深く、具体的な意味があり、プロセスがある。ここでは、観念上の何かの成長や壁を超えるために「世界の果てに行く」というものと、具体的にフィジカルに、遠いところに行くということが、ちゃんとミックスで考えられている。だから、セカイの果てに行くという観念上の目的が到達すると、心象風景が塗り替わるというセカイ系的な、心の問題のブレイクスルーが感じられるし、同時に、その過程で関係性のドラマを積み重ねて相互に感染、踏み込みがあることで具体的な友達と、「代替することが困難な唯一性」を獲得することに成功している。えっとね、『ゆるキャン△』のリンちゃんの場合は、好きなものが先にあるという内発性を生まれつき持っているという設定でした。けれど、いま現在ない人は、どう探していいかわからない。だとすると、一生友達はできません(笑)。だからどするかというと、ほぼ行くのが不可能な場所に行くという非日常性を共有することで、そこで行われている関係性の踏み込みは、青春時代ならどこでもあるような一億分の一の(涼宮ハルヒ)意味のないものかもしれないけれども、その場所が、まったく再現できないような特別なひねりが加えられているので、代替ができない意味を付与されることにって、特別なものになる。それは、友達だよね。だって、唯一性がやどっていて、他の人には簡単に再現できないものは、特別だもの。その非日常の特別さを、1/4のスケールだとすれば、それはもうほぼ唯一性といってもいい。それを、南極という目的地で作り出すところは、見事!と唸りました。

ゆるキャン△ 1 [DVD]

ここには、現代的な、非日常の容易さと困難さの、在り方がよく描かれていると思う。


容易さという意味では、冒険家の南谷真鈴さん、Jade Hameisterさんや、イモトさんのヴィンソンマシフ(南極最高峰)登頂など、結構手軽に、といったらいいすぎではあるが、少なくともアムンゼンの頃のほぼ死ぬか生きるかの人類未踏競争のレベルの非日常感とは、ハードルが違う。彼らは命を懸けて、人類の未踏の地に旗を立てようとしたフロンティアの冒険者だが、昨今の冒険家の在り方は、違う。何が違うかといえば、僕は動機が違うと思うのだ。それは、日常の延長線上で、日常をより楽しくエンジョイするためのupdateであって、非日常に行ったきり帰ってこない片道切符の冒険ではないと思うんだ。この微妙なニュアンスの違いわかってもらえるだろうか?。彼女たちが、命をかけていないとか、困難ではない、楽なことをしているといっているわけではない。そうではなくて、既に人類にとっては既知の場所で、 それでも同じような極端な非日常の過酷な体験を求める理由は、どういうものだろうか?ということです。受け取る我々にしても、「わざわざそんなところに行く必要がない」にもかかわらず、なぜそれを選び取るのか?という目的、動機にレイヤーがあるんです。

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既に既知の場所に、そこに行く必要もない日常に生きる普通の人が、それでも行くには、アイディアとソリューションがいります。いっていることがわかるでしょうか?。そこは、「人類という括り」ではすでに既知の場所で、未知の場所に行くという冒険は存在しません。その状況下では、最年少とか、女子高生とか、5大陸単独性はとか、さまざまな微細な条件の差異をおうことになります。だって、もう「いくことができる」という可能性は証明されているわけですから。

自分を超え続ける―――熱意と行動力があれば、叶わない夢はない


でも、かといって、スタート地点がすごく遠くにいる、よりもいの、普通の高校生、何の準備もない高校生が、そこにいたるにはどうすればいいのか?と考えれば、一ひねりが必要になります。


この場合は、テレビのアイドルの体験記という形で、テレビ放映するという形で、彼らは南極に行くチャンスをつかみ取ります。Youtuberか!!(笑)。ここで僕が言いたいのは、それが妥当かどうかとかそういうことではなくて、ある種のアイディアをひねると、現代の世界は、不可能に思えるような非日常の出来事も、日常にダイレクトの接続できるのだ!という、これまでの激しい断絶のあった、日常と非日常の接続の感覚が、ひと昔とは全く違うのだ、ということを、いいたいんです。小川一水さんが、『第6大陸』で、月に民間企業を作るために、結婚式場!というアイディアをひねり出したように、非日常を非日常の過酷なままでいくのではなく、日常に接続していく感じ。

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そう、非日常を日常に取り込み、日常を輝かせるためのスパイスとして、使っているんです。そういう意味文脈で、これは、あきらかな日常系・空気系・無菌系という類型の現代的アニメーションだと思う。


そして、ここには、たとえ、宇宙よりも遠いところであろうと、アイディアによって、簡単にくことができてしまうという現代の非日常の容易さが描かれている。月だって、不可能じゃないでしょう。技術的には、楽勝で可能なんだから。既に既知だし。アイディア次第なんですよ。けれども逆に言うと、なんでそんなことをするのか?という動機の調達、また、アイディアには文脈がいります。しらせが、お母さんが南極で死んだから、そこに行きたいというドラマトゥルギーをもっているように、何かのプロセスをデザインするには、内発性のスタート地点、シード・種がいるんです。それを探し出すことは、自分というオリジナルを探し出す行為で、それこそが難しい。何かをする理由が、あまりないのが現代社会なんです。



■どんな非日常な世界に行こうとも、人間にとって最も大事なことは、人間関係の関係性に敏感であり、心の中の絆をどう昇華していくかということ


そして、この感覚を描くことで、日常系の本質である、関係性にフォーカスするというテーマが、そのまま非日常の世界に具体的に動きながら描かれることになります。僕は、この日常から非日常に移動するときの、その断絶の大きさがすごく少なくなっていること、非日常にあっても、本質的に人の幸せにとって元も大事なことは結局は「人間同士の関係性である」というこが、はっきり示されていて、これは素晴らしいと思います。



究極のテーマは、二つあって、一つは、しらせのお母さんの死んだ場所に行くこと。抽象的に言えば、簡単で、遠い南極という場所で死んでしまって死体もない母親の不在が、しらせには、よく実感できない。それを探しに行くという物語。でも、実際は、彼女にとって、これは本当はどうでもいい話なんですよね。だからこそ、南極に初上陸したときの第一声が「どうせいけっこない」とバカにしていた周りの同級生たちへの、世間への恨みつらみでの解消の「ざまーみろ!!!」という叫びでした。これは本当によくわかっていると、唸りました。彼女にとって、既に南極に行くという行為は、意地になっているだけで、自分とほかの人間との差異を感じるためだけの、思い込みになっているんですよね。そもそも、不在がちだった母親が、まだずっと不在だという感じがするだけで、母親が死んだ実感というものはないのだから、死んだということが「わからない」というのが彼女の心象風景なんです。それの決着がつかないことのいら立ちを、南極に行く!という極端な行為でフラストレーションをぶちまけているだけなんです。要は目的と手段が入れ替わっているんですね。お母さんの死を実感する、納得するために南極に行ってみたいという目的のための、手段である南極に行くという行為そのものが、その難しさによる目的化してしまってて、それに対する世間の攻撃に対する当てつけが、彼女の存在意義なってしまっていたんですね。だから、本気ではあっても、冷静さや計算や、異なるアプローチをしようとするひねりがない。だから、一人だけだったら、行けなかったでしょう。キマリに出会って、行動に柔軟性が出たからこそ、アイディアが出るようになっていったわけですから。だから、世間の馬鹿にするやつらを見返した!という目的化した手段の達成で、もうしらせは、満足なんです。ざまーみろ!と溜飲が下がってしまっている。ましてや、その途中経過で、特別な時間を共有することで、友達ができて、孤独が癒されているわけで、もうこれ以上は、彼女には必要ないんです。だって、それこそ、お母さんの死体でも具体的に見つけない限り、死なんて実感できないでしょう。それは、さすがに無理だし。所詮、アイドルのレポーターできているわけで、そこまで本格的に雪山を行くわけではないですし。。。。。なので、関係性を深める物語にフォーカスして、大事なものが、唯一性の宿る空間と時間の中で、当たり前の関係性を深めることなんだというエピソードが繰り返されます。それは、この物語の本質なんで、何ら問題ないわけです。それは、このプロセスで、生まれてくる関係性の結果としての絆が、これからの生きるよすがに、希望になっていくということ。


・・・・・と思っていました。そしたら、最後にメガトン級のエピソードですよ。


南極基地に、残されてたPCがあって、それがお母さんのだったんです。電源が落ちていた、そのPCを立ち上げたら、、、、、、何百通もの、お母さんが開かなくなったメールアドレスに送ったしらせのお母さん宛てのメールが、一気に受信されていくんですね。


それではっきり、、、、見ているほうも号泣で伝わりますよ!!!


もう、お母さんは、この世にいないんだって!!!


そこには、彼女の母親の不在の間、積み重ね的な彼女の孤独が、内発性を、、、、、彼女が彼女たらしめる思いが、形として、具体的に、積み重ねられたものの爆発として、目に見えます。そして、この思いが、彼女を南極に、セカイの果てに連れてきて、これからの人生を生きる希望を、、、友達の絆を手に入れます。このシーンで、いっきに心象風景が、塗り替わっていき、彼女の中で、母親の不在を悩む子供時代が、一気に過去になっていくのが感じられます。そこには、お母さんのメッセージがあったり、死体を見つけたとか、そういう何も特別なことはありません。ただ、母の死後、誰も受信しない彼女のメールアドレスに、子供が何年も何年も、膨大なメールを打ち続けていたのが、Wi-Fiにつないだので受信された、というただそれだけのことです。けど、この物理性、、、、もう泣きますよ。先ほど言ったように、しらせの、止まった時間を動き出させるためには、異なる人生に自分を連れていくきっかけで、必要なのは未来でした。そして、それは友達の絆という形で、未来を獲得してしました。そもそも、ほぼ不可能な、母親の不在を実感するなんて劇的な心象風景の、過去の清算ができるはずがありません。。。。。けど、それが一気にできたんです。いやーこれは、行動を起こしたからこそできた奇跡です。しかも、何一つ、奇跡でないところがいい。だって、メールを送って、それを受信した、というだけの事実なんですから。



もう一つは、キマリと親友のめぐっちゃんの話です。キマリはトロい子で、めぐっちゃんは、キマリを下に見て、見下すことで、親友のふりをして不毛な永遠の日常を耐え忍ぶスキルを維持していました。こういう関係性が、被支配されていると思われていた決まりが、内発性を獲得して独立して生きる容易になった瞬間に、壊れます。さて、壊れて、キマリは飛たったので、すっかり忘れて、そんなエピソードも最初にあったな、と忘れていました。まぁ、いちおう、めぐっちゃんの汚らしい心も告発されて、本人も自覚して、友達でも何でもない、ものだったんだという結論で終わると思っていました。ラスト数秒までは。だって、尺的に、残り数分で、日常に戻ってきた、キマリが彼女と仲直りする理由がないじゃないですか。だって、キマリには、もうかえがたい親友が3人もいるんで、そんな昔の同調圧力の道具にされていたやつなんか、いらないわけですよ。キマリがどんなに優しい子で、許しても、それは、許しただけで、構造が逆転しただけで、何ら友達ではありません。裏切った、ということ、はそれくらい重いことだし、それが目に見えて、表に出てしまったらもう欺瞞の関係すら維持できません。。。。。



と、そう思っていましたよ、ラスト数秒までは。



この文章の最初に書きましたよね。友達の絆を作る方法は、好きなことが見つからないなら、めっちゃくちゃ遠くへ行け!(笑)って。



その過程を、共有出来たら、それは、もう唯一性の関係・・・・言い換えれば友達だって。友達とは、時空間を共有すること、が定義ですが、もう少し言い換えると、観念のレベルと行動レベルがミックスされていないと、だめなんですね。頭で思うだけなら、どんな欺瞞もできる。けれど、それが行動に移され、時間が積み重ねられると、なかなかウソや欺瞞で隠せなくなるのです。それこそが、時間を共有すること。



それは、自分から内発的に、動いて、あがいて、頭をひねって、解決策を、裏技のようなひねりのある回答を導き出す行為。



めぐっちゃんは、なにをしたか?



最後のワンシーンで、、、、、ああ、ここもlineというかsnsが本当にいい働きをしている。



南極から日常の家に帰ってきたキマリの携帯のラインに、めぐっちゃんから、写真が届くんですよ。



北極にいるぜ!って(笑)


素晴らしいでしょう?。これって、キマリの強い思いを受けて、今までの自分をネガティヴさを告発される構造になってしまった(キマリが意図していなくとも)ことうけて、彼女は暴発してしまって、人間の汚さを露呈させてしまいました。これ、キマリが、こんんか告発をしなければ、こんなひどいことにならなかったでしょうから、めぐっちゃんも被害者ですよね。まぁとはいえ、差別の構造を壊せば、抑圧している側は、告発を受けるわけですよ。けど、このテーマを、告発を、めぐちゃっんは、真摯に受け止めて、その先をにつなげるんですよ。彼女が、あの時点で北極に行くには、はっきりいって、物凄いバイトをしたり、努力があったはずです。でもそういうのを一切見せず、結果の写真だけ、送りつけてくる。


やべ、この子、めっちゃ、いい子じゃん!!!泣けてきた。



いやはや、完璧な作品でした。最後の百万円の使い方とか、ほんとうにひねりが効いている。

「一緒にいられなくても


一緒にいられる。


だってもう私たちは私たちだもん」。


このキマリのセリフは、見事でしたね。絆を構築できれば、場所なんて関係ない!といえるんです。でも、そういえるためには、遠くに行かなければいけなかったという矛盾。いやーいいはなしだ。



ゆるキャン△の話に続く。


ゆるキャン△ 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

2018-04-08

物語マインドマップ 9.新世界系の登場〜新たな竜退治へ

はじめます。

2018-03-28

『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』 宇野朴人著  ミクロとマクロのバランスをちゃんとハードSF的に描きながら、それでもキャラクターのドラマが書ける素晴らしい作家

ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXIII (電撃文庫)


客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)

■世界はマクロの複雑さにチャレンジするべく漸進していると僕は思います。

先日、富野由悠季さんの『聖戦士 Aura Battler ダンバイン』(1983-1984)を見ていて、16話:東京上空、17話:地上人たち、18:閃光のガラリアのあたりで、異世界バイストン・ウェルから東京に戻ってきてちゃうシーンがあるんですが、ここで、主人公のショウ・ザマは、両親にあうんですね。けれども、オーラバトラーの戦闘で東京に多数の死者が出ており、彼の両親、とりわけ母親はそれが受け入れられなくて、「彼は私の子供じゃない」と言い続けるんですが、途中で本音が「私の築き上げてきたキャリアをどうしてくれるのよ!」と叫んで、ショウ(見ている観客も)は、自分の母親に一度も生まれてから愛されたことがないんだ、圧倒的に自己愛優先で息子を息子として直視していないことが、ありありと見えてしまうんですね。この辺の、ディスコミュニケーションというか、親子が多いのですが、とにかく人の「分かり合えなさ」を描くさまは、富野由悠季は、とてもねこっちくて、胸をざわつかせる描写を繰り返し繰り返し執拗に描いています。これって『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジ君にいたるアダルトチルドレンが量産される理由ですよね。要は、親といえども個人のエゴで生きており、全く子どもなんか、というか他者なんか見ていやしねえ、という。まぁ、これは悪い側面での事実だと思うのですが、この典型的パターンを執拗に描いて、それが、最終的には、死に至って、永遠に解決つかないさまを見せつけるというパターンが冨野さんには多いといつも思うんですよね。この人の分かり合えなさの強烈な認識が、1985年の『機動戦士ゼータガンダム』のカミーユビタンくんの精神崩壊、発狂エンドにつながっていくわけですが、物事の根本的なところ、人が分かり合えなくて、その「どうしようもなさ」は、大きくマクロに波及していき、最終的には殺しあう、カタストロフ(戦争)を止めることはできないという大きな認識につながっていくのが、彼の世界観だと思います。もちろん、人の革新などのニュータイプなどの発想は、この人間は殺しあう、戦争をするものであるという悪をどう超えるか、という冨野サーガの大テーマに結実していくわけです。

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というか、僕が言いたいのは、冨野さんの話ではなくて、戦記物やマクロの作品を描くと、こうした「マクロメカニズムによってもたらされる帰結のどうにもならなさへの無力感」というものが、必然的に出てきます。マクロというのは、人類史レベルの、政治や経済などの、個人の意思ではどうにもならないことのつながりの連鎖の波及によって起こる出来事というのは、個人ではどうにもあらがえないんだ、ということ。まぁ、これは事実です。浅田次郎さんが、大正生まれの人間の人生をターゲットに物語を描くそうなんですが、それは、この世代の日本人は、特に男性は、ものすごい死傷率なんですよね。もちろん大戦争があったからです。浅田さんのお父様の世代になるわけですが、このなんでかわからないものを書いてみたい、と思ったというのは、とてもすごい大きな動機だと思うんですよ。えっと話がそれたんですが、ことほど左様に、マクロメカニズムによって発生する連鎖による、特に大きな出来事、、、例えば戦争とかにおいては、個人の意思なんて吹き飛んで行ってしまうし、特に、物語の世界では、個人の夢や欲望など、本当に小さいミクロの思いが、ずたずたに引き裂かれていくく物語をよく見ます。英雄というのは、こういったマクロの出来事に、帰結をもたらすように関わる個人なんですが、とにかく、もし戦争などのマクロの出来事がなければ、小さなすれ違いで済んだことが、どんどん拡大していき、人生を引き裂き人を不幸に陥れていきます。

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まぁ、リアリスティツクに考えると、物語自体は、巨大な解決をもたらすご都合主義の装置(デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina))なので、悲劇の物語の類型にも乗っ取るし、かつマクロの波及の「どうにもならなさ」の表現として、どうしても個人が犠牲に不幸のどん底に落ちていく物語が多い。ましてや物語の主人公や英雄と呼ばれる人々が、個人レベル、ミクロレベルに幸せになるというのは、ありえないなぁという定款が、戦記物のような戦争を扱った作品には、多い気がします。


けど、僕は、橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』(2010-2012)や『ガッチャマンクラウズ』(2013)などで、ずっと、考えてきた文脈は、英雄一人にすべてのマクロの問題を解決させるというような物語の類型を、どうにかして超えようという流れを昨今の物語には感じます。LDさんとの物語マインドマップの講義「3-1.竜退治の彼岸〜富野から庵野に至るロボットアニメの戦史」で、冨野監督の、戦争をする生き物である人類を何とか超えることができないかという切なる願いが、すべてボロボロに裏切られていく過程を見ました。ここでは、長く説明しませんが(講義をぜひ聞いてください)、我々は、物語のアーキタイプ(元型)として、人類が悪と戦って倒す(=物語のアーキタイプとしての竜退治の系譜)物語が、どんどんインフレしていき、倒すべき悪をより、強くしていくインフレスパイラルの頂点で、究極の全である天使より「人類そのものが悪なのだ!」という告発を受けることになります。これが、倒すべき究極の悪だとすると、それをどうすか?ということが、絶望的な戦いとして物語の系譜で追及されてきました。これに一つの解決をもたらした系のルートの説明はここではしません。これが解決できなかったルートとして、圧倒的な巨大な存在である天使からの「人類は悪であり滅ぶべき存在である」という告発に絶望的な戦いを挑んだのが『伝説巨人イデオン』(1980)でした。これが最終的に、解決不能なルートである!と、絶望に満ちた形で、ゼータガンダムのカミーユは発狂エンドを迎えます。

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さて、この大きな物語類型の系譜の枝葉として、僕は、社会的に巨大な問題に対して、その解決を「英雄=主人公」だけに依存する形式に対するフラストレーション、違和感があると思っています。いいかえれば、朴には、なぜ、主人公、英雄ばかりが、そんなに社会の複雑な課題を引き受けて苦しまなければならないのか?、なぜ、マクロの課題が主人公の実存にリンクしてしまい、最後には崩壊に至ってしまうのか?、それ以外の道はないの?という、感覚があります。上記のLDさんが示した大きな太い幹の系の一つに、なぜその問題を主人公(ミクロの一人だけ)が抱えなければいけないのか?という問題意識を見ます。もちろんこの人類が悪だという告発に対する巨大な答えの一つとして、脱英雄譚の物語があるのですが、メインに行く前に、こういった巨大な問題を抱えるのが、なぜ一人でなければいけないのか?という問いは重要な物語作劇上の問いだったと僕は思うのです。


これに対して、はっきりと意識したのは、やはり『まおゆう魔王勇者』でした。これは、善と悪の二元的対立を永久にクリア消す運動の中に生きている、魔王と勇者が、ある時、この善と悪が殺しあう永久運動の世界から、その外に出れないか?と問いかけたことから物語始まります。魔王が、勇者に問いかけます。「あの丘の向こう」が見たくないか?。「まだ見ぬ地平を見て見たくないか?」と。これは、素晴らしい問いかけでした。この問いには、殺しあう運命に支配された物語に役割から、自分たちも自由になれないだろうか?という強いメタ意識があります。メタ意識は、なぜ生まれたのか?というと、この世界が繰り返し同じことを繰り返しているので、それを超えるのはどうすれば?と考えたことによります。物語の主人公たちもそうですが、受け手も同じです。また、これか?と思うからです。繰り返されると、その先が人は見たくなるものなのです。ここでは、英雄に頼らない世界を作るという物語の系譜として、『まおゆう魔王勇者』のメイド姉のエピソードは、くわしく語らないので、下記の記事を読んでください。


まおゆう魔王勇者 文庫 全5巻完結セット (エンターブレイン)

メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1


これが正しいとかではなくて、物語の一つの系として、英雄・主人公に世界の責任をすべて押し付けることの卑怯さが、この辺りからとても意識されるようになってきていると僕は分析しています。社会的な背景分析やアナロジーは、too muchなので、そこは割愛しましょう。まぁ、わかると思いますが、この問題意識に対して、ストレートに、『天鏡のアルデラミン』は意識されているのがわかると思います。そもそも、イクタ・ソロークは、英雄になんかなりたくない。英雄になると、殺される、過労死する、と何度も最初の最初からいっており、この物語の大きなテーマとして、マクロの課題を押し付けられる人間、英雄=主人公が、人生を摩耗されて使いつぶされていくことへの、強い拒否があります。そのことを認識すると、下記の僕が指摘している問題意識がつながってくるとは思いません?。

ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン (電撃文庫)


この理由は、物凄くよくわかるところが、この作品の人間関係における、救済が何から来るかの射程距離が凄い長いことを感じさせるんです。それほど複雑な設定を感じないので、これは設計力というよりは、作者の宇野朴人さんの人間理解力、人柄ゆえでしょうなーたぶん。えっとね、ハローマ・ベッケル、エルルファイ・テネキシェラ、ジャン・アルキネクスのキオカ側の物語を見れば、トラウマによって、人の動機を支配する洗脳、、、洗脳よりももっとひどいかもしれない、けど、トラウマによって人生が追い詰められて、人生を使い潰してしまう系統の非常によくあるくらいエピソードを設定を背景に持つキャラクターばかりだ。こういう激しいトラウマによって人生を駆動している人々は、物語に登場させると、通常「死によって解放される」以外は、選択肢がないものです。


いつも思うんです。確かに、物語の主人公たちは、「どうにもならないマクロの流れ」で人生を、自分を壊して死んでいく、その刹那の輝きが美しい、と。グインサーガで、イシュトバーンのあのせつない若かりし頃を見ていると、殺人王、僭主として最悪の不幸に落ち込んでいく姿は見るに忍びなかった。けど、それにあらがらいながら、マクロの巨大な流れに乗り、戦い、贖い、立ち向かっていくのが人生と思いました。



とりわけ、皇帝シャミーユの問題意識は、まさに、この問題を、ミクロレベルだけではなく、国家、歴史レベルのマクロの問題意識に接続したときに起きる問題です。カトヴァーナ帝国という、国としての命脈がつきている腐った国家の指導者として、それではどうするか?という問い。既にこの作品では、主人公たちに高い歴史認識、社会工学的な認識があり、帝国が既に国家としての寿命を終えてしまっていること、国の持つアンシャンレジームが、既に国を長期に繁栄させることができないことが、はっきり認識されています。なによりも、イクタやシャミーユなどの為政者レベルの人間が、そのことを常識のように認識しています。歴史的にも、この世界において、キオカ共和国の多民族国家の原理、科学的思考をベースにする理念が、超長期的には、人類の在り方としては正しく、そちらが発展することも、為政者レベルは認識しています。けど、、、、しかし、、、、そんなことがわかったところで、じゃあ、そうするかは、難しい。ちなみに、こうした腐った帝国が、滅びるモデルを考えれば、どう考えても、ハードランディングとしては、フランス革命であって、国が血で血を洗う内戦になって、総崩れで崩壊していくことになります。そうした社会的に背景の中で、その国を指導する立場にある指導者は、どうすればいいか?と、この物語は問いかけるわけです。フランス革命の歴史でもいいですし、大日本敵国の崩壊でもいいですが、あらがえない歴史の大きな波にのまれてボロボロに崩れ去り、血で血で洗う殺しあいを人類は経験してきました。なので、基本的には、戦記物には、そういう物語が多い。というか、よほどご都合主義的でない限り、リアリティとしては、それを超える方法は、なかなか見つからない。建国の物語のファンタジーなんかであれば、強い英雄が出て国をよくしました、めでたしめでたし、で終わりますが、社会的に細かい構造の描写をすると、それはなかなかできなくなります。とりわけ、カトヴァーナ帝国は、近世に近いレベルの時代背景があり、官僚制度が発達し、既に軍官僚によって国が隅々まで統治されており、貴族から為政者のレベルだけではなく、民衆もどっぷり軍官僚のシステムに依拠していて、そこから自立できないさまがたっぷり描かれています。なので、クーデターが起きやすい状態なんですね。南米の国々や、1930年代の日本のような状況なわけです。なので、為政者としては、絶望的な、民衆による自立を育成する「絶対王政による上からの啓蒙主義」になるわけですが、その時間的余裕がほとんどないことも、既に為政者はわかっています。さて、この状況でどうするか。歴史を見ると、三部会しかないんですよね。要は、議会による民衆の自立を促す構造ですが。。。。。まぁフランス革命では、血で血で洗うボロボロの結果を招きました。腐りきったアンシャンレジームの変革や、科学的近代的思考の導入、枢軸国的な上からの近代化になれた奴隷意識などなど、一回ガラガラポンしないと、どうにもならないのです。この同じテーマを、描いていたのは、流血女神伝シリーズですね。結局、ルトヴィア帝国は、このぎりぎりのラインを、超えることができずに、革命によって崩壊してしまいました。ドミトリアス皇帝は、まさに、問題に早くから気づいていた英明な君主でしたが、結局のところ、気づいているだけではどうにもならず、英明で頭のいいだけでも、どうにもなりませんでした。この世界観では成功例の一つとして、ユリ・スカナのバンディーカ女王による、上からの近代化が描かれていますが、この英明な絶対王政の啓蒙君主は、力でクーデターを成功させた強大の権力の持ち主で、かつ長期間にわたって最高レベルの政治を敷き続けた女傑でもあります。僕は、オーストリア・ハプスブルグ帝国のマリア・テレジアを連想しますね。そんな彼女も、自分の死と後継者問題で、結局のところ問題を先送りしただけという風にも取れます。戦記物やマクロを描く物語では、この近世のぎりぎりのラインが描かれることが昨今多くて、それは、くしくも栗本薫が言ったように、ファンタジーの戦記物として、「英雄がまだ英雄でいいられた最後の時代」だからなだと僕は思います。この後は、国家や世界の歴史は、一人の英雄によってひっくり返ることはなく、ある種の歴史の必然や、巨大なメカニズムによって世界が動いていくことになるからです。そこに個人の意思が介在する余地は、非常に少なく、なかなか一人の主人公が主観として眺めることができて、マネージ、制御できるような物語世界を描くのが難しくなります。

流血女神伝 帝国の娘 前編 (集英社コバルト文庫)


こうした背景が、シャミーユには降りかかるわけです。


彼女が、軍政に近い、凶暴な絶対王政の君主として、軍と官僚を支配下に、力で置くのは、ある種必然です。帝国で「下からの自治、自立運営」が育っていない地域では(旧枢軸国的だなー)、それしかないんです。おお、以前書いた、昭和天皇の話とすごい重なります。


『知られざる皇室外交』 西川 恵 著  天皇陛下の持つ時間と空間に広がりを持つ視野とその一貫性に深いセンスオブワンダーを感じました

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180210/p3


『裕仁天皇の昭和史』山本七平著/英明で啓蒙的独裁君主を望んだ戦前の日本

https://ameblo.jp/petronius/entry-10001941342.html

裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか (Non select)


状況はそっくりですね。昭和天皇と。軍によるクデーターにより、いつ自分が暗殺されるかわからないこと。軍の傀儡政権になり下がりやすいこと。政治家は、君側の奸ではないが、常に君主を利用しようとしていること。そしてなによりも、もっとも、民衆が凶暴で無知で、そして、どうしようもないほど虐げられていること。。。。ちなみに、少し設定は異なる時代のものになりますが、マクロの大きな波がミクロの人生をどうしようもなくさらってしまう、その無力感というか、切なさをこれでもかと描いているファンタジーは、沢村凛さんなどがいいと思います。これ、泣けます。



『黄金の王 白銀の王』 沢村 凛著 政治という物は、突きつければこういうものだと思う。けど、こんな厳しい仕事は、シンジくんじゃなくても、世界を救えても、ふつうはだれもやりたがらないんじゃないのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120126/p1


『瞳の中の大河』 沢村凛著 主人公アマヨクの悲しいまでに純粋な硬質さが、変わることができなくなった国を変えてゆく

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20111217/p7


黄金の王 白銀の王 (角川文庫)


僕の問題意識が伝わっているでしょうか?



さて、ではどうすれば?となります。今まで見てきたファンタジーの戦記物とは、結局のところ国が崩壊して、マクロもミクロもズタボロになるというのが、結論でした。少なくともご都合主義ではなく幸せにになった話を、見たことがない気がする。時代的に、世界の善を証明する不可能性からアダルトチルドレン的な生きる意味の消失につながる物語類型はあったので、僕の視聴、読書歴がそうだというだけかもしれませんが。


そのなかで、『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』には、読んでいてすごく希望が持てるのです。それは、作者がマクロとミクロのバランスをちゃんと計算して、俯瞰して見ている仕掛けがそこかしこに見えるからです。ずっと書いているのですが、イクタ・ソロークが熟女好き&マザコンで、ロリコンじゃないところなどは、よくよく考えていると思うんですよ。実に自然に、彼が、シャミーユに手を出さずに見守ることができるという関係性を作り出しているんですが、手を出すこと、、、抱いてしまうことは、それは対等になることではあるんですが、同時に同じレベルまで下りて行ってしまい、救済するということが、、、、そうでなくともシャミーユの持つミクロの課題は、マクロの課題と不可分に結びついている人なので、ものすごく難しく、というか不可能になってしまうんですよね。そういう設定を最初から考えておかなければ、こういう風な描写にならないと思うんですよ。この辺は前のブログの記事で書きましたね。これはとてもミクロ的な関係性の話なのは分かりますよね?。イクタのマザコンなのは、彼の過去からきている人格の重要な部分ですが、この設定、それで人妻ばかり狙っている遊び人の設定は、もちろん、彼がヤンウェンリーや無責任艦長タイラーなどの類型の将軍で、普段ダラダラしていて、およそ真面目とは程遠いとか、そういうダメな人間として描くが、戦争はめっぽう強いという部分が、カッコよさやコミカルさを生み出すというたぐいの類型ですが。

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でも、これは、要はただのヒーローなんですよね。けれども、イクタのヒーロー、英雄像への認識は、かなりメタ的で手が込んでいます。すべての英雄は過労死するという言葉にあるように、英雄というものがマクロの奴隷であることを彼ははっきり認識しています。この時点でかなりメタ的で、単純なヒーローにはなりえない。しかしながら、マクロの奴隷であることをメタ的認識したヒーローは、基本的に碇シンジ君のように動機を失います。というか動機を失うのは言い過ぎなのですが、ようは、「なぜ英雄にならなければならないのか?」、個人の幸せのほうが大事なのではないか?ということが、テーマというか頭に上るようになるんですよ。なので、逃げるということが常に意識を上るわけです。しかし、シンジ君のおめでとうもそうですが、この逃げるのは悪手です。だって、結局幸せはどこにあるのかというと、自分の「大切な人たち」面識圏内の関係性の中にあるということは一つの真実で、それをずたずたに破壊するのがマクロなんですよね。たとえば、彼は父と母を失っていますが、軍事の天才であった父バタサンクレイであっても、所詮英雄としてシステムに組み込まれるしかなく、それを拒否するときには、死しか逃げ道がありませんでした。なので、大事なものを守るためには、マクロを改良するしかないという結論に、結局なるのです。特に、イクタにとっては、マクロの殉じるのが人生と定めている相手を魂の半神と認識してしまっており、そうしたら、戦うしか方法がないんですよね。マクロの奴隷から逃げるには、本気でマクロと戦うしかなくて、それはもう奴隷そのものなんですね。。。。


という、構造的な英雄の問題点、ミクロとマクロのはざまで、ミクロ(=大事な人と関係性)を守るためには、マクロ(=ミクロを破壊してしまう大きな波)を何とかするしかないという構造。要は戦うしかないんです。


しかし、、、、マクロとの戦いは、どれほど優秀であっても、それに人生をささげることになるがゆえに、ミクロから引き離されてしまうというジレンマが起きます。


という射程距離が、既に最初からセットされているのが、素晴らしいと思ったんです。ああ、最先端の物語なんだな、と。英雄にも人権はある!とでもいいましょうか(笑)。基本的に、英雄、指導者、リーダーには、人権がないというのが、大衆の発想です。英雄、勇者といった選ばれた人々の、彼らの個人としての幸せwどう考えるか?または、個人が救う世界なぞ、しょせん個人をいけにえに捧げ続ける社会にすぎないわけで、そんな個を無視した社会はだめなんだ!というのが、大きな人類の流れだと思うのです。もちろん、そういう単純な正義感は、衆愚政治とヒトラーを生み出すわけで、人類は手痛い代償をはらっていて、そんなに単純じゃない。


このダブルバインドの制限ある構造で、それではどうすれば?世界を変えられるか、世界をアップデートできるか、個人は生存戦略をできるかぁ?というのが、現代の物語の最先端だと僕は思います。



■ミクロとマクロのバランスをちゃんとハードSF的に描きながら、それでもキャラクターのドラマが書ける素晴らしい作家


前巻は、僕の読書歴の中でも最高レベルのSF体験だったようで、何度も読み返しています。


ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXII (電撃文庫)


ハードSFの定義をどう考えるかは様々ではありますが、この巻が、とてもSF的なエピソードを扱っていることは疑いようもありません。タイトルにあるように、この作品の世界観、「この世界がこうあること」の謎が説明されます。この世界がマクロ的にどのように形成されたかを「解き明かす」ものは、ハードSFといっていいのではないかといつも僕は思います。けれども、わかると思うのですが、マクロ的なテーマ、特にこうした実感を超えるようなハードSF的なテーマというのは、まさにその通りで、「実感することが難しい」ものなんです。だって、グレッグ・イーガン(Greg Egan)やジェームズ・グレアム・バラード(James Graham Ballard)とか、話は物凄い面白いのですが、ミクロ的にキャラ萌えしたり、キャラクターの関係性に一喜一憂したりはしないでしょう。あくまで主要なテーマが、マクロ的なものだからです。もうちょっとわかりやすいのでは、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』とかですね。このバランスってとても難しくて、良質のハードSFは、やはりテーマによっている。まぁ、テーマそのもののコンセプトを描くことこそが目的なんだから、そんなミクロのキャラクターの信条とかどうでもいいんだよ!といってしまえばそうなんですが、僕は、出来れば両者が絡まっている話が見たい。

んで、ネタバレになってしまうんで、まだ読んでない!という人は、避けてほしいんですが、宇野朴人さんは、このあたりのバランスがとてもいい人だと僕は思うんですよ。タイトルと、その終着地点としての「この世界の秘密」が解き明かされたXII巻を読めば、この作品が最初から計算されたSFの物語であることがわかります。「ねじ巻き」の意味が、アルデラミンの意味が最初読んでいる時も、アニメを見ている時もさっぱりわからなかったんですが、ここへ来てそれがすべて解き明かされます。この辺りは、物語を読んでほしいのですが、これだけ綿密に設計されたSFであるにもかかわらず、キャラクターのミクロの関係性がとても豊かなんですよね。実際、このマクロの謎解きと同じくらいに、謎解きのエピソードに出てくる立花博士と助手のサプナ物語は魅力的でした(とういうか、超好きすぎる!!!)。前回も書いているのですが、ぐだ×マシュにしかぼくには見えないんですが(笑)、この二人の話、、、サラッと書いてあるけれども、けっこう百合の恋愛話としても、というか愛の話としても、深い話だと思うんですよね。立花博士って、世界すべてを愛している人で、こういう科学者的な人は、個人に愛を向けることがありえない性格の人なんだろうと思うんですよ。この人が、それでも、節を曲げて個人の愛を受け入れるには、世界を救う級のことがあって、かつもうどうしようもない世界が滅びるぐらいのことがないと、個人に愛を向けないと思うんですよね。だから、サプナは待つしかかっただろうし、それは成就しないはずの愛だったんはずなんですが、まさに世界が滅びて、世界を救済しちゃって、ギリギリのところまで来て、ついに、、、となる。これ、とてもドラマチックな恋愛エピソードだと思うんですよね。この情緒的なミクロのお話が、ハードSFのマクロの謎解きにちゃんとリンクしている。これ、素晴らしいと思うんですよねぇ。これはこの作者の魅力だと僕は思います。

さてこうして見ると、僕には最初に思った残念な点が一つある。それは宗教について、、、「この世界が僕らがいいる世界とは全く違う現実なんだ」ってことを描写する「怖さ」や「凄味」が弱いことです。というのは、この社会は、フラクタルシステムが形成されてから1000年の時が経過しているという設定ですね。かつ、教団?が「この世界は終わりつつある」ということを伏線でいっていることから、フラクタルシステム「自体」のメンテナンスや開発改良は、どうも現代の人類の手に余るようになんですね。ということは、この教団って、このシステムをベースに生まれたある種の管理のための宗教なわけです。中心のシステムに手を入れられないとすれば、科学ではなく「宗教」になっていくはずなんです。意味は失われて儀式にいろいろなものが変更されているはず。そうであれば、これほど世俗的な感覚が残っているよりは、主人公たちに、僧院への強烈な畏怖や恐怖などの感情があるはずなんですよね。でもそういうのが全然ない。また、そういった宗教性を演出しようとすると、明らかに僕らには理解できないなんらかの感覚が描けないと、、、

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110213/p1

『フラクタル』 (FRACTALE)  A-1 Pictures制作 山本寛監督 環境管理型権力からの脱出を人は夢見るのか?

ちなみに、この物語は、そのあたりのところはうまいと思います。女性が軍隊になぜか多く進出しているなど、実にさらっと描かれている点でも、その根拠が実によく考えられていて、これがちゃんとしたSF作品なんだ、としみじみも思わされます。この作品が、ライトノベル、たくさんの人々に支持される物語でありながら、そのあたりの大衆のエンターテイメントのバランスを持ちながら、コンセプチュアルなハードSF的な設定をブレイクダウンして、バランスが保てていることに、僕はこの作者の才能を感じます。


■ライフリング(rifling)施条(しじょう)が変える世界〜第一次世界大戦の軍事革命をさかのぼる

さて、この作品で僕は、とても「次世代の物語の扉を開くヒント」のようなものを見ている気がします。上記で、本来は救われるはずがないシャミールの救済可能性について、とても設計されているところが、僕はとても興味深いものとして考えています。というのは、この手のファンタジーの戦記モノにおいて、マクロに圧倒されるミクロの悲劇というのは定番のようなもので、よほど戦記もの作品類型をメタ的に考えておかないと、通常の英雄物語を描いた時点で、それを超えることができなくなるものだからです。この英雄物語をどう乗り越えていくかという視点を、LD教授は、1)テクノロジーのイノヴェーションによって世界が変わる、2)情報圧縮論-物語技術自体の進歩が必要という視点を提出しています。この辺りは長くなるので、また整理は今後に譲るとして、おおざっぱに言うと、この世界が戦争を繰り返して殺しあう繰り返す仕組みの中にある時、「それ」を乗り越えるためにはどうすればいいのか?というテーマを考える時に、主人公(=英雄一人)の問題ではなく、これが「みんなの問題」だと認識すること、また世代を超える時間がかかることであるという認識を持つことで、ヒーロー濃度を下げるという方向性がどうも取られているとしています。これは『まおゆう魔王勇者』や『魔法先生ネギま』、ガンダムサーガで見事に描かれていく問題意識なのですが、この問題認識が『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』がはっきり示されていることが、見て取れます。

新装版 魔法先生ネギま! コミック 全19巻 セット

この脱英雄譚の物語類型は、最前線のものなので、このテーマがすべてビルトインされているのは、僕は古典的な戦記ものの作風の中で、素晴らしいと思うのです。まずは、なんといっても、皇帝シャミーユの問題意識です。彼女は、カトヴァーナ帝国が、軍事官僚制の中で、民衆が自立意識、自治の参加意識をもって国政に参加していないことが、国が傾いていく根本原因の一つだと認識しています。だからこそ、議会を活発化させようとしたり、各地の自治制度を機能させるような背策を次々に打ち出しています。そして、フランス王国の最末期と同様に、既にそれが「もう遅い」ことであって、中国の皇帝制度と同じで、一度根本を破壊しなければ、国が自立意識を取り戻すことは難しいとも認識しています。ああ・・・これ、浅田次郎さんの『蒼穹の昴』の西太后の話と全く同じですね。これは、言い換えれば、英雄が世界単独で救える神話の時代と、英雄一人では世界を変えることができな近代的な世界との過渡期を描いている作品になるわけです。

蒼穹の昴(1) (講談社文庫)

フランスのマリーアントワネットでも、清朝の西太后でも、流血女神伝のドミトリアス皇帝でも、基本的に、この過渡期の物語で、統治者側に生まれついた人で救われた人はまったくいません。単純に史実でさえも、そんな人は見えないし、当時その先の出来事が見えていなかった中で、「その先」の次のパラダイムを予期して手が打てるほどの凄い人はいないからです。パラダイムの変化期、異なるシステムへの移行期は、先が見えない真っ暗な世界で、人は右往左往するしかなく、たいていは、マクロの冷酷で残酷な波にさらわれていくことになります。少なくとも「旧来の価値観」の側に生きている人が、生き残ることはほぼ皆無に等しいのです。王が、英雄が世界の中心でなくなるかと木の時代に生きるファンタジーで、まともに国家やマクロを描けば、それに押し流されることしか描けないからです。しかし、あきらかに、皇帝シャミーユは、このあたりの問題意識を深く理解しています。彼女の人生が暗く影を差すのは、多民族国家キオカ共和国の理念を、幼少期に目のあたりにしているからですが、逆に言えば、時代の大きな流れが、既に科学と多民族を許容できるキオカの理念には勝てないことを、ちゃんと理解しているということになります。これ、これまでのファンタジーにはない、国家レベルの政策のマクロ認識だと思うのです。途中の巻で、マシュー・テトジリチの実家に帰るエピソードがありましたが、封建国家の封建領主と、そこに派遣される派遣官僚の統治の具体的なねじれなど、いやはや、難しい言葉で書かれていないのですが、この人、とても政治哲学に明るい、、、というか、政治哲学を政治哲学的に抽象論で語る人は、別に頭がいいというわけでもなく、いやむしろ悪い人なんですが・・・・・そうではなくて、具体的に物語とエピソードとキャラクターでちゃんと説明しているのです。これ、作者が素晴らしいと僕は思います。こうでなければ、物語を書いている意味がない。戦記ものを書く人は、マクロが先行して、小難しいことを小難しいレベルで描いてしまい、キャラクターが全く生きていない、自由に動かないケースがほとんどなんですが、この人はその両方が、ちゃんと物語とキャラクターの次元で書けていて、僕は唸りました。


また、『まおゆう魔王勇者』がとても自覚的だったのですが、世界が変わっていくことは、イノベーションによって、科学によって具体的に起きていること、この作者ははっきりとわかっている。抽象論で描くのではなく、たとえば、トルウェイ・レミオンという主要人物は、これからの戦争が、射程距離の長い銃兵が重要な働きを為す時代が迎えることを、軍隊という組織レベルで理解しているのですが、これはまさに、ライフリング(rifling)/施条(しじょう)が、軍事革命として、軍事の在り方を一変させていく第一次世界大戦のころの世界の変化と同じものです。『まおゆう』で、繰り返される殺し合いの・戦争のメカニズムの、あの丘の向こうを見たいと思った時にどうすればいいのか、と問う時に、その答えは技術による社会のインフラストラクチャーの変化、という視点が導入されました。僕はこの時の記事で、世界を良くしようという意識にとって最も大事なのは、社会をどのように具体的に変えていくかの、社会工学の意識であり、少なくとも過去の世界の設定のファンタジーを描くのならば、「どのような具体的な技術の変化が」「どのような波及効果を生み出したか」をトレースすれば、大きな物語のヒントとなると書きました。ちなみに、未来ではありますが、ガンダムサーガの未来において、地球連邦政府を安定的に生み出して、継続させるには、3つの地域それぞれにエネルギーを確保自律運営できる軌道エレベータという解決策が出されているのですが、これは、クラークの『楽園の泉』などで人類の貧困や殺し合いの主要原因の一つであるエネルギー確保の安全保障問題について終止符を打つ科学的解決方法としてメジャーなものであるからです。

楽園の泉

レミオンのライフリングの効果は、砲兵の威力が加速度的に増していく軍事革命の始まりです。今はまだライフルですが、これが、巨大な砲に適用されていくことは間違いありません。というか歴史的な事実だし。という部分は、作者は見事に理解しています。だから最新刊で、威力の増した砲撃によって、要塞を守る拠点防衛がまったく成り立たなくなる様を、兵たちにまざまざと見せつける訓練シーンが、出てくるわけです。いやはや、この人は、良くよくわかっているなぁと唸ります。戦記ものを描くにあたって、近世から近代にいたるあたりを設定した場合、このテクノロジーのイノヴェーションによる軍事革命が、第一世界大戦を誘発していくことは、意識しなければなりません。ちなみこの辺のグレートウォーの技術的背景を、とても分かりやすく、見事にマクロ的に解説しているのは下記の本で、これは物凄いおすすめの良書です。

日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか

この英雄物語をどう乗り越えていくかという視点を、LD教授は、1)テクノロジーのイノヴェーションによって世界が変わる、2)情報圧縮論-物語技術自体の進歩が必要という視点を提出しているという話だったのですが、僕はこのアルデラミンという作品のなかに、様々な1)と2)の萌芽というか種のようなものを感じます。近世から近代にいたる戦記ものを描く時に考えなければならない要素がワンセットで認識されている。このことが物語レベルで人口に膾炙してきたのは昨今で、まだまだメジャーとはいいがたいのですが、やはり『まおゆう』が大きかったと思うのですが、近代的な技術が持ち込まれた中世レベルの国家が、どう変質していくのか、、、これは、「小説家になろう」の異世界に現代のテクノロジーを持ち込むパターンの物語の思考方法にも、色濃くあると思うのですが、様々なそうした物語が描かれてきて、消費者の物語リテラシーが上がってきていることが原因ではないか、と思うのです。いいかえれば、2)のLDさん的な物語に技術が進歩している、と。


このあたりの問題意識は、


国家の次元として、帝国や王国は維持できない。なぜならば、民衆の自治意識、参加意識が育まれなければ、国が官僚組織に寄生するだけの寄生虫になってしまい、複雑になっていく社会の要請にこたえることができなくなるからだ。かといって、上からの改革を為せば、民衆はさらに寄生虫になり、自助努力ができなくなっていく。ちなみに貴族政治による腐敗が、軍官僚による統治の効率性によって生まれているなど、なかなか社会工学的に興味深い視点で描かれています。


また銃のライフリングに代表される軍事革命により、中世から継続している戦争の在り方が一変する。この中には、戦死者の桁数が跳ね上がる近代戦争の発展が含まれており、このためには、軍事の科学的な進展のスピードアップ、大量生産、それに関連する常備軍のや徴兵制の必要性などが絡んでくる。そうであれば、民衆の参加意識が高いキオカ共和国に圧倒的に長期的には分があることがわかります。



このあたりの問題意識は、すべて、作者に認識されているし、、、、なによりも、主人公たちシャミーユやイクタ・ソローク、ジャン・アルキネクスなど為政者たちが、これを、明確に認識しているところが素晴らしい。彼らは、自分たちがどんなゲームをしているかとても自覚的です。そしてなによりも、イクタ・ソロークが、最初からこのゲームをメタ的に克服するためにはどうすればいいのかと、強く意識しているのも素晴らしい。もちろん、スーパーマンとしてそれを知っているわけではなく、バダ・サンクレイが国家により殺されていることなど、育ちとしてミクロの性格形成で、英雄になることが、どういうことかをちゃんと「距離をもって達観できている」ことから来ます。うーんとねぇ、この達観した感覚は、大局観や歴史的な鳥瞰視点なんですが、物語の中でこの視点を強く持っていた人は、有名な人では、やっぱりヤン・ウェンリーですね。田中芳樹さんの歴史に残る傑作『銀河英雄伝説』の主人公です。ただ、ヤンは、あまりに歴史仙人(笑)的で、どうしようもないマクロの波に抗い、世界を変えるという野心はあまり持っていなかったのですが、これがなぜかと言えば、彼が技術的イノヴェーションによるインフラストラクチャーの変化というものを前提に入れていないからなんですね。自由惑星同盟は、数百年単位で、技術の変化がありまりません。

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)


でも、百年単位で技術の変化がないということは、我々の生きる現代では、ありえないと思います。



うーん、まだまだ書きたいことがあるのですが、長くなりすぎたので、いったんここまでにしておきます。「ここ」は、僕が次世代の物語を考えるときに、コアになる最前線の部分なので、がっつり、これが反映されているエンターテイメントが見れて、僕はとても幸せです。というか、立花博士とサプナのエピソードはほんとよかったなー。



『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXII』 宇野朴人著 僕はこの宇野さんという作者がとても大好きです。彼は世界の美しさを知っていると思います。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20171020/p1

『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXI』  宇野朴人著 どのように人々の参加意思をつくりだしていくのだろうか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20170109/p2

『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』 宇野朴人著  安定した戦記モノで、マクロとミクロのバランスがとても良いです!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20170109/p1



コミックス途中で完結してしまったのですね、、、楽しみにしていたのに、、、、。


ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン VII (電撃コミックスNEXT)

2018-03-24

物語マインドマップ 8-2.脱英雄譚〜ガンダムのテーゼと“彼岸“のさらに先の物語

本日のラジオ、もうすぐはじめます。