Hatena::ブログ(Diary)

物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-08-16

『風立ちぬ』ラジオ〜宮崎駿が首尾一貫して本当に描きたかったもの

【漫研ラジオ】

http://www.ustream.tv/channel/manken

http://www.ustream.tv/recorded/37376403(録音です)


8/16の本日22時ごろから?たぶん海燕さんとLDさんと、宮崎駿監督の『風立ちぬ』に関するラジオをします。

おわりました。

凄い、発見があった。

データは、今度LDさんがあげてくれると思います。

最後の、結論の一番いい部分は、3時間超えたので、、、録画できていないかもですが・・・・

今回のラジオで最も面白かぅたのは、漫画版の『風の谷のナウシカ』が、宮崎駿にとって重要な位置づけじゃないんじゃないかというくだりだった。ちゃんとロジックと流れを追ってきかないと言っていることの真意がうまく伝わらないかもしれないが、僕等は、漫画版の『風の谷のナウシカ』は、日本エンターテイメント史上のエポックメイキングな重要な作品ととらえている。僕の文脈でいえば善悪二元論お彼岸まで到達した作品であり、その答えを出しき切った作品でもある。物凄い作品なのだ。


・・・・が故に、とうぜんに、当たり前のように、宮崎駿は、これを超えるという過去のロジックの接続する作品を見せてくれる、と信じていた。LDさんは、それを、罪を引き受けた大人を描いてくれるはずだと信じていた、というような表現をしていた。・・・・しかし、『風立ちぬ』を解析してて、彼が書きたかったキャラクターというのは、そこには全く興味がないんだ、ということがよくわかった。・・・考えてみればすべてのデータはそろっているのに、「そこ」に思い至らなかったのは、衝撃だ。


でも、ナウシカの「あそこ」までの世界観に到達して、それが、なんというか刺身のつまとか枝葉とまでははいわないが、あまり重要じゃないなんて!!!思いもよらなかった。でも単純に過去の作品をシンプルに眺めれば、それ魔間違いなくそうなんだよね。確かに連載中の漫画版ナウシカは、義務感で書いていたのよくわかる、あっさりとした中断が何度もあったもの。


永井豪さんですら『デビルマン』を書いてしまって、、、そう「書いてしまった」後は、何度もあの善悪二元論のエンドに立ち返る、、、あえて言うのならばあの類型にとらわれることになって、実質「次」が書けなくなるんだけれども、、、石ノ森章太郎の天使編のように。けれども、そういった『筆の止まり』というか、立ち止まりが、宮崎駿には全くなかった。だからこそ「次!」という意識だったのだが、そうか、、、、最初から彼は、そんなもの目指していなかったのか、、、首尾一貫して書きたいものは変わっていなかったのか、、、というお話。・・・にもかかわらず、「それ」をして、ナウシカの次が描かれることになるとは、、、。

サイボーグ009 [カラー完全版] 1968-69 天使編


あとは、僕の話はかなり後半3時間目の最後の方で、このへんの記事にかけなかった話をがーっと口頭で解説しています。(2)をかくエネルギーがないと悟ったので。これらの視点の総合として、上記の宮崎駿が本当に描きたいものが浮かび上がっているのですが・・・。最後の最重要な30分は、録画終了後に話されたはず、、、というのが、いつもの物語三昧ラジオクオリティ。


■宮崎駿の私小説として〜戦前の大金持ちはみな共産主義に転ぶ

■現実とファンタジーをシームレスに描くことで人の内面が捉える主観的な現実を描写

■意外に息子はいい仕事をしたのだな?と思った。『コクリコ坂』の世界との接続について

■悶絶の宮崎ヒロインの結晶としての菜穂子


風の谷のナウシカ 7


■関連記事


『風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

『コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 普通のアニメ制作会社になろうとしているスタジオジブリ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110826/p2

『フラガール』 李相日監督 いまの日本映画の魅力が凝縮

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017996846.html

『ALWAYS 三丁目の夕日』  山崎貴監督  昭和30年代のテーマパーク

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017194528.html

『借りぐらしのアリエッティ』 米林宏昌監 脚本を絞り込んで青春映画になったローファンタジーの佳作

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100731/p1

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080823/p4

【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090710/p2

【映画版エヴァ破考察 その弐】 庵野秀明は、やっぱり宮崎駿の正統なる後継者か!?〜「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090719/p2

2013-08-12

『半東一利と宮崎駿の腰抜け愛国談義』 

半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 (文春ジブリ文庫)

『風立ちぬ』というのは、昭和を振り返るというか歴史を見ている物語なので、そこへの入り口は無数にあると思うんだけれども、こういう経験者で、、昭和のあの古き日本の香りを受け継ぐ人の会話は、とても楽しい。たぶん日本文学や歴史が好きな人にはとてもたまらない本だろうと思う。宮崎駿というのは不思議な人で、趣味がえらい古臭いというか、古き文学のかほりみたいな、あの辺の匂いがとてもするんだよね、この人のエッセイを読むと。対象としているアニメ市場の人の日常にはない感じなんだよね。なんかこのギャップいつもいいなーと思っています。


ちなみにこの本で、とても印象に残ったのは、宮崎駿さんの父親や祖父の時代を描きたかった、、、というくだりで、というのは、世界大恐慌なんて言っても、1930年代の日本は近代最高の到達地点まで反映していた時代で、あと海軍軍縮交渉のために鉄が余って、その余った鉄を使ってのものすごいインフラストラクチャーが整備された時代で、、、あの時代の日本は、本当に良かった、楽しかった、というあの時代を生きた人の感想が残っていて、、、そういえば、僕、祖父も似たようなことを言っていたっけ、、、戦後の我々の視点からすると、1930年代から1940年代って、生き地獄のような腐った人い時代のように見えるけれども、彼らが生きた日常はそんな単純じゃなかった、というのは、まさにおっしゃる通りで、宮崎さんが単純に戦争の話とか『火垂るの墓』みたいなものの再現をしたくなかった、、、そうではないものを描きたかった、、、というようなことをかいているのは、凄くよくわかる理路だと思った。


というのは、LDさんの悪の系譜の話で戦後日本のエンターテイメントの話を聞いた結果、絶対悪、純粋悪を求めていった結果、その問答自体には袋小路になっていった、、、という話を昨日聞いたが、これは僕の善悪二元論の話で、究極のハルマゲドン、、、純粋善と純粋悪がぶつかる話になると話が止まって、そこを超えられなくなるという話と同じことで、そうなった時に、結局は、そういった究極の二元思考自体がお払い箱になり、、、日常がグレーなまま良くも悪くも続いていくことを肯定して、生きることの肯定となっていくとなる、、、とこのロジックの分析を続けている物語三昧は、語ってきたんですが、、、ここでいっている、昭和モダニズムの頃の日本社会って、そういう部分もあったし、人の生活って、基本はそこだよなって感じがしたので、なるほどなーと思いました。このへんは、『風立ちぬ』ラジオを、海燕さんとLDさんと、近々するので、その時に是非。


ああ、半東さんの昭和史を読みたいなーーと思いつつ、、、中々時間が取れない。もう手元にはあるので読むのは間違いないんだが。。。。せっかくだから、ゆっくり読みたいと思いつつ、、、

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

2013-08-02

『風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦

風立ちぬ [DVD]


評価:★★★★★星5つのマスターピース

(僕的主観:★★★★★5つ)

■宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠のあたらなる表現への挑戦

大傑作だ。全編、僕はじわっと半泣き状態だった。それにしても、ずっと胸が熱くまったままだった。批判もあるだろうと思う。しかしそれくらいギリギリなエッジにトライしているということだろう。この作品は、宮崎駿という大巨匠をして、エポックメイキングな作品になると思う。それは、これが単純にこれまでの彼の持っていた技術や世界観をすべて総まとめにしたというだけではなく(それだけでもすごいのだが)、それを超える新境地に達しているからだ。この年齢で、ここへきてで、壮大な「その先へ」のチャレンジ。さすが、宮崎駿、としか言いようがない、絶句する。ついこの前まで、後継者がいないななどが主要な批評のテーマだったんだが、そんな子余はぶっ飛んでしまうくらいの最前線感覚。素晴らしかった。しかも、全編大日本帝国の鮮やかな日の丸の戦闘機の美しいシーンの連続は、、、、これ、ウルトラ左翼にして共産主義者の人が作ったの?と心底疑いたくなる(苦笑)。もう凄くて、腰が抜けそうだよ。めっちゃくちゃ挑戦的なテーマで、宮崎駿ほどの巨匠でないと、とてもではないけれども通らなかった企画だし、ありえない作品だ。テーマは全く別のところにあるとはいえ、これが強烈なナショナリステッィクな受け取られ方をしてもぜんぜんおかしくないもの。いやまじで、韓国や中国でどう評価されるのか、、、超やばいよ、これ(苦笑)。日本も国内は価値が分裂しているので、、、、ファミリー層向けのブランドで、ここまでの爆裂爆弾(笑)、もうほんと、宮崎駿の凄さにあきれます。・・・・しかし、、、マーケティング的にも、これは、凄い見事なはまりだと思う、、、。

…でも、それはすべて結果論ですね、一言でいうと、宮崎駿が、ごまかしなしにひたすら自分が作りたいものをつくりたいように作ったという作品だろうと思います。ここまで、いっさいの逃げなし、というのは素晴らしい。まず、子供には全く受けない理解できない、左翼でコミュニストなのに兵器賛美、兵器大好きのオンパレード、ヒューマニズムに回収することが不可能な人物の自己実現への強いコミット、、、、これまでの宮崎駿の意匠、表面をすべて全否定するような、赤裸々ストレートな物語。素晴らしかった(苦笑)。


僕はポニョの記事で、最近の宮崎駿の作品は「脚本の統合性がない・断片的である」ところが、残念だといったことを書いています。ポニョなんかは、それを超えてのイメージの奔流があって、それでも素晴らしいという肯定の評価ですが、脚本で本質的にいたいことが明快でないのは、事実だと思っていました。「とはいえ・・・・」というのは、どんなに肯定しても二番煎じの評価です。しかし『風立ちぬ』は違います。見事な論理性。しかも、日本人の我々の歴史的事実に立脚した上で、人類のモダニストとしての夢と現実に連なる普遍性。そうか、これが、、、、ほんとは、これが言いたかったし描きたかったのかぁ!!!と心底驚きました。素晴らしい作品い出会えて、、、神様ありがとう!と叫びそうです。そして、、、、『未来少年コナン』と漫画版『風の谷のナウシカ』で描かれていた、エンターテイメントにはするのが難しいと思われていた「あの領域」への切り込みです。ああ、ここへきて、最初期のテーマの本質的な問いに戻ってきたのだな、と感心します。


っと、背景解説書かずに煽ったので、次へ行きます(笑)。



■『未来少年コナン』『もののけ姫』と続くモダニスト(近代主義者)の夢と現実をついに日本人が生きてきたリアルに接続


実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。


その理由は、「意味が分からないから」だった。


精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間出来背負い転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。


もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの本流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。


そして、、、、この『風立ちぬ』は、「それ」が、見事なレベルで両立している、凄まじい傑作だ。もう年齢で、たぶんちゃんとしたものは作れまい、ぐらいに思っていたが、凄すぎる凄まじすぎる大巨匠の意欲作・超大作だ。5年ぶりの作品だが、5年かかったということなのだろう。

ハウルの動く城 スタジオジブリ 英語版[DVD] [Import]

さて『ハウルの動く城』に戻ろう。僕は、この作品の爆撃機による絨毯爆撃のシーンを見て、このシーンの、、、、なんというか「美しさ」というか魔力に魅了されました。作品としては、言いたいことがわからないイメージの奔流なので、特に見返したいとも思わないし、心にも残りませんでしたが、何か「その部分」だけはいつも違和感というか、引っかかりが存在していました。そして、戦争というマイナスでネガティヴなものへのなぜか感じてしまう美しさの憧憬もよくわかりませんでした。そう、、、それは美しいのだと思うのです。近代という名の魔力の美しさ。スペインの爆撃を描いたゲルニカは、ピカソが衝撃を受けて書いたものですが・・・僕は、やはり美しいと思いました。湾岸戦争の最前線の爆撃の映像出凄まじい爆撃がされている光が美しかったように。それは、マイナスのものであっても、人類の力だからです。そして人間の叡智が結集された技術の光だからです。近代のこの魔力の美しさを感じない人は、この部分は、嫌悪する部分でしょうね。たとえば、リーフェンシュタールの『民族の祭典』。これは大学の授業で、大画面で見ましたが、、、胸が震えるほど感動しました。しかし、、、これって、ナチス礼賛のために造られた映画なんですよね。。。。基本的に、巨大な構築物、建築物や、大衆の動物的脊髄反射を高揚させるマス演出などなど、、、近代に特徴的なテクノロジーとマスにライトアップを浴びさせるものは、人類の「凄さ」ってのを感じさせるんだろうと思います。そして、その「凄さ」ってのは、善悪の彼岸の力なので、非常に影の部分もまた色濃いんですよね。こういう美しさと陰惨さの組み合わせを持ったモダン特有の美と力は、いまだ人類を支配する大きな力でありエネルギーだと僕は思います。文脈的には、ナチス・ドイツやドイツ第三帝国のモダンカルチャーがどうしてもその基盤になってしまいやすいので、なかなか肯定的には出せないものですけれどもね。

民族の祭典【淀川長治解説映像付き】 [DVD]


宮崎駿は、その本質で、モダニストです。WW2以降である我々は、単純なオポチュニストのモダニスト(=近代主義者)ではいられない屈折を持ちますが、彼は、その原初のスタート地点であるモダニストの、美しさ、気高さ、面白さ、凄さを十分い知りつくし、描き続けてきました。彼の壮大な物語の世界観は、常にこの究極のモダニストたちが、肯定であれ否定であれ、確固としたポジションで存在し続けます。このモダニストの美しさへの狂気と、それへの深い悔恨の組み合わせこそが、彼のコアの一つだと僕は思っています。以前に書いたことがありますが、『未来少年コナン』のブライアック・ラオ博士、『もののけ姫』のエボシ御前が、そのシンボライズされるキャラクターです。漫画版風の谷のナウシカにでてくる墓所を創りだした科学者たち、ラオ博士の科学者グループ、そのどれもが、科学の人類の英知で、世界を変えることができると信じたモダニストの究極の姿です。


僕はこれらモダニストのことを「設計主義的なもの」と呼んでいます。人間の英知と科学を結集すれば、世界を変えられると信仰し、それを実行する人々です。近代教とも科学教ともいってもいいかもしれません。クラークなど初期のSF作家たちにもこの系統を感じます。この話は、宮崎駿に関することを書くときにいつも書いているので、過去の記事から抜き出してみましょう。モダニストとは何ぞや?、設計主義的なものとは何ぞや?と。

ちなみに近代思想の根本は、すべて共通の基礎を持っていて、それは「世界は可視化でき計量できる!」というサイエンスの思想です。言い換えれば、人間が「神」の代わりにこの世界を再創造できるのだ!という人間本位(ヒューマニズム)に貫かれている思想のことです。僕は、これを「設計主義的なもの」と呼んでいます。つまり、世界は、自分たちの手でよくできるんだ!という指向性です。この究極の具体例が、コミュニズム(共産主義)であることには

異論がないと思います。


中略


■答えの出ないと結論付づけられた世界でなお答えを探す

ちなみに、天才宮崎駿さんは、すでに思想的結論として、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、設計主義的に世界を良くしようとする善意の執行者(=現世に存在する神と言い換えてもいいかもしれない)を、ナウシカが、誰にも黙って殺してしまうという(苦笑)、究極の神殺しを行うという形で、既に結論を出してしまっているんですよね。これって、最高の自己批判で、ものすげぇカッコイイと僕は惚れこんでしまいます。


そういう意味で、そこまでやっておきながら、まぁ気持ちはわかるが今更コミュニズムもなかろう、とは思うんですが(苦笑)。ただし、近代社会とは、世界を人間自身の手でよりよくしていこう!という社会改良の意思で支えられているものなので、たとえその最終結論が間違っていてさえも、『もののけ姫』のエボシのように、この世界の不合理さと闘っていかねばならないという、二重思考的でアンビバレンツな世界なんですね。そして、その「答えの出ないと結論づけられた世界で、なお答えを探すという」ことがすなわち、物語のドラマツゥルギーが最も輝く、現実でリアルなものなんだ!と僕は思うのです。なぜならば、それが僕たちの住む世界の誠実なコピーとなるから。


えっとここで何が言いたいかというと、理由1)のサマライズなんですが、宮崎駿さんの思想的基盤は、「世界を人間の手でより良くしていこうという設計主義的な近代思想の原初的な形」です(←かってに決めつけてるっ!(笑))。これが、コミュニズムの核心部分とニアリーイコールになるんですね。だから、具体的にそれを表現しようとするととっても左翼くさくなる。まぁもともと、あの時代の人ですしねー。しかも、かといってソビエト共産主義の大失敗を経ている現代なので、それが微妙に屈折して、「親子どもが名前で呼び合うフランクな家族」みたいな、それって本質か?のようなリベラルの仮面をかぶる出し方になるんですね。そして、それを上回る「凄み」を出してくれないと、いや、つまらないから、それ、みたいな白けた気分になってしまうんですよ。内容の是非ではなくて、上から説教されることのウソ臭さです。


ちなみに、つまらない理由1の結論として、ようは宮崎駿の左翼的センスというものは、マンガ版の『風の谷のナウシカ』での神殺しの結論のように、物凄い尺をつかって、読者がついてこれないほど難解な深みへ誘い込ませるながら、


・設計主義的な、人が人の手で社会をよくしていこう!(=ヒューマニズム・人間本位)という理想


・しかし設計主義的な動機が大規模になると、必ずスターリニズムやクメールルージュのような全体主義に辿り着くアイロニー


というもう、どうしてそんな「正しい動機(=ひとが人の苦しみを救おう!)」から出発して、そんなひどい結末に至るんだよっ!というこの世界の本当に苛酷な真実を描いたときに、こそ、この系統の脚本の思想的「凄み」に到達するんですね。だから、尺が短い作品では、そもそもこの脚本を使ってはいけないんです。2時間ぐらいでは、しんどいですよ。そうでなくとも分りにくすぎて、これって、消費者が理解しないんですよ。それこそ、『もののけ姫』級の圧倒的な映像のパワーとか、そういうものがいるんです。だからこのテーマは、映画では、破綻しやすいと思うのです。


『ハウルの動く城』などを見ると、この思想を描くと、断片しか描けず、まとめきれないで散漫な作品になってしまういい例だと思うんですよ。この作品は、意味不明だもの。脚本的には。


『崖の上のポニョ』にも、世界を滅ぼそうとする魔法使いが出てきて、これって全く説明していないんですが、未来少年コナンのブライアック・ラオ博士や、ナウシカの世界を作った高度文明の科学者たちや、そういったキャラクターの正統なる後継者としか思えないんですよ。でも、たぶんこれを説明していると、消費者がついてこなくなる。だけど、彼の思想的系譜から言って、出さないのはもう許せない(笑)。となって、説明なしで出すんですね。ハウルもそうだったと思います。そうなると、脚本的に意味不明になるんですよねーーー。ぼくは、ちょっと思うんですが、この辺で人生の終幕として、死ぬ気で、テレビシリーズをやってみるのはどうか?って思いますよ、この脚本を最高のクオリティで、2年で50話くらいで(笑)。まぁしんどい割にもうからないかもしれないですが(苦笑)。



『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5


宮崎駿を理解する時に、このモダニストの目指した夢と挫折という文脈を抜きには、不可能だと僕は思っています。今回の作品にも、イタリアのカプリーニ伯爵、ドイツのユンカース博士、日本の堀越次郎と飛行機への夢と戦争への協力という分かちがたいものに対してのスタンスが、はっきりと描かれており、宮崎駿の全作品の奥底に流れる基礎だと僕は考えています。この3人は、自分の愛する飛行機への情熱に対して、3人それぞれの人生を歩みました。この辺の調べれば調べるほど味が出る組み合わせなあたりもとてもしびれます。


■少年を主人公に作ることのできない時代からの脱却

宮崎駿の思想遍歴は、上記のモダニストとしてのコアである


・設計主義的な、人が人の手で社会をよくしていこう!(=ヒューマニズム・人間本位)という理想


が軸になっています。彼が兵器が好きなこと、飛行機が好きなことは、あれが人類の技術の結晶だからです。モダニストは、基本的に、大規模な建築物とか技術によって生まれるとんでもない大きなものとか、技術がなければ不可能であったものが好きなものなんです。それは、人類の英知を感じるからなんじゃないかな、と思います。そして、この技術の発達があればこそ、人は空が飛べるようになったりするし、たとえば、橙乃ままれの『まおゆう』で新しい農法技術の導入やとうもろこしの大規模農業の展開などのシステムが、キラキラ輝いて、貧しくしいたげられた人々を救う兆しとして希望を感じさせるのです。技術の発展がなければ、人は貧しいままですから。


しかし・・・・


・しかし設計主義的な動機が大規模になると、必ずスターリニズムやクメールルージュのような全体主義に辿り着くアイロニー


しかし、モダニストが進める技術の際限のない発展は、人の手に余る膨大な力を生み出してゆき、それはコントロールを失う運命にあります。物語の世界で類似系を探すまでもなく、WW1とWW2で凄まじい災禍を経験した我々人類は、それをよく知っているはずです。たとえば、とても構造的に似ているので何度も上げますが、橙乃ままれの『まおゆう』では、善意で貧困のために苦しむ世界の発展を進めようと、さまざまな技術を導入していく魔王の姿は、まさにエボシ御前と同じく、善意溢れる先導者でした。しかしながら、その結果、余剰生産物が人を支えることが可能になり、あふれた人々を利用した国民皆兵が、巨大な戦争を動員を可能にしていくことになってりします。またマスケット銃が広く広がり戦争の犠牲者のけたを跳ね上げて、人類の滅亡を招きかねない構造と危機をもたらすようになっていきます。

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」


これは、我々が生きる世界の現実です。そしてもう一歩踏み込んでいうのならば、技術というものの本質(=両義性)です。


WW1-WW2以降の、僕らが住む世界の構造は、このようになっています。善意と熱意と希望によって、人類を、世界を、より良くしていこうとして、それは技術の力によって可能になりました。しかしながら、その技術自体、、、その巨大なプロメテウスの火は、コントロールし切れず、それまでのものとは桁が違う悲劇と、世界の崩壊と滅亡の可能性を、その構造に孕むようになってきてしまっています。核ミサイルや原子力がその典型的なものですよね。


というこの構造をベースに考えると、宮崎駿の思想遍歴が、とてもクリアーになります。『未来少年コナン』の時点で、既に彼は、自分が大好きな、飛行機などの科学技術の際限のない発展の果てに、どんな世界が待っているか・・・・はっきり言って、それが世界の滅亡でしかないことを理解しています。『未来少年コナン』は、そのものずばり、最終戦争で世界が滅びた後の世界を描く物語でした。アレクサンダ−・ケイの『残された人々』というSF作品にインスパイアされてつくられているこの作品の選択は、彼の最初期にすでに現在と同じ結論に辿り着いていることがはっきり示されていると思います。全てが明らかになった後、コナンに語るブライアック・ラオ博士の述懐は、彼の自分が大好きな技術や飛行機の果てにあるものが生み出すであろうものへの悔恨に溢れていました。このモチーフを徹底的に展開したのが、漫画版の『風の谷のナウシカ』ですね。

出発点―1979~1996 未来少年コナン Blu-rayボックス 残された人びと (ジュニア・ベスト・ノベルズ (16))


これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、


今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった


といっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。


そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。


未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、永遠の日常をめぐる言説というか、解析は、物語三昧とLDさんとは、散々やり続けているので、つながりを実感していただけるのではないかと思います。


さてこれは、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジくんのキャラクターを見ていけばよくわかるのですが、ガンダムなどの類型・・・人類を守る崇高な仕事、敵と戦うロボットの操縦者に選ばれるということに対して、1980-2010の少年像が、どう変化してきたかをビビッドに感じることができるはずです。この部分については、漫研サイトのLDさんとずっと話し合ってきましたが、それまでのロボットアニメでは、どんなに愚痴を言おうが文句を言おうが、結局は、人類を最後は仲間を守るために、必ず敵と戦いました。しかし、それを、どんな理由付けがあろうと、僕は嫌だ!とテレビシリーズのシンジくんは叫んで拒否するに至ります。これは非常に画期的なことであったと、僕等は観察しているのですが、ここで起きた問題点、感覚、時代の受け入れ感覚は、まさにこの宮崎駿が主張した、少年を主人公にできない=少年の夢をストレートに語ることが不可能になってしまったということと同義です。何が正しいかわからない外部環境構造から、正しさが見いだせず、動機を失い行動する意思が消失する。

NEON GENESIS EVANGELION vol.01 [DVD]

その理由は、先ほど書いたように、少年の夢、、、まぁ日本のモダニズムでいえば、立身出世の末は博士か大臣か?的なことに素直に沿っていいのだろうと思うのですが、「成長」の夢の崩壊なんだろと思います。近代の自己実現といってもいい。「成長」というのは、抜きがたく科学技術経済力の国力の進歩と結びついています。このころの少年の夢には、もう既に国家規模や人類規模の発展なくしては達成できないレベルのものばかりになっているからです。「飛行機を作って空を自由に飛びたい」でも、その開発には膨大な投資が必要で、戦争に利用するという国家規模の目的に添わせる以外に、その仕事に携わるのはすぐ不可能になってしまっているのです。ましてや、旧アクシズ諸国(=枢軸国)では、ストックの蓄積も収奪する植民地もないので、どうしても全体主義的に富の傾斜配分が必要になります。また、そういった自己実現が、何をもたらすか、ということもすでに21世紀の我々は、20世紀の地獄を知っているのでわかっています。フォンブラウンは、ミサイルを、世界にもたらしました。ライト兄弟、カプリーニ伯爵、ユンカース博士、本庄季郎などは、爆撃機を世界に広め、空軍力による無差別都市爆撃を可能にするようになりました。


メンフィス・ベル [DVD] 頭上の敵機 [DVD]


アインシュタインやオッペンハイマー、ノイマンは、原子爆弾をこの世界にもたらし、アジアの巨大都市を一瞬に灰にしてしまいました。もっと先を描くのならば、たとえば、SFで『エンダーのゲーム』『死者の代弁者』などがあります。これは、主人公が、自分の才能を発露させていくことで、何をしてしまったのか?ということに気づいた後、生涯をかけて償う少年の物語です。ここには先鋭化された罪と罰の問題が凝縮されています。それは、単純な夢を追う自己実現のもたらす帰結が、世界の滅亡に結びつくという気づきが、我々にあることを示しているのだろうと思います。

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746)) 死者の代弁者〈上〉 死者の代弁者〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)


これらは何を言っているかといえば、20世紀の科学の発展が支えてきた人類の高度成長、近代社会への飛躍(=モダニズム)にビルトインされてきた少年の夢の不可能性を示すことだと思うのです。君の夢が、世界を滅ぼすんだ!ということです。宮崎駿は、1980−2010年の時代のトレンドが、少年の夢の提示ではなくて、少年の夢の不可能性、少年の夢の解体のドラマトゥルギーが展開する時代だと感じていたんだろうと思います。そして、時代まさに、この解体の流れを紡ぎました。


さて、、、、僕はここで感動したことがあります。


それは、カプローニ伯爵が、次郎に対して、夢の中で一貫して、日本の少年よ!と呼びかけている点です。


演出的に前半は、日本の片田舎に生まれた少年の飛行機への強い憧れと夢が描かれていきます。その流れで、主人公堀越次郎の夢が、その実存のコアがどこにあるのか?ということが確固として確立される脚本です。なので、カプローニが、最後まで日本の少年をと呼びかけるように、彼を支える意志の根源が、最後の最後まで、その「少年の夢」にリンクしていることが主張されていることがわかります。これは、堀越次郎(=宮崎駿)にとって、この問題は


すべての災禍があってさえも、「少年の夢」の方が優先順位が高いんだ!という決断と意思表示に他ならないと僕は感じました。


この話は、技術と倫理の話につながるので、後半に譲りますが、まずここで言いたいのは、宮崎駿が、、、、少年を主人公にするのが困難だと語って実践してきた彼が、まさにその少年を、どかんと主軸に据えて物語を描き始めたことにその凄さを感じるのです。ようは、潮目が変わった、と彼が感じていることにほかなりません。


■美しさの追及がどこへ向かうのか?


いい仕事だな、、、国を滅ぼしたんだからな。


・・・・まさに、シゴトの狂気を表している言葉で、僕は本当に感心しました。。。。

本作において、登場人物たちが繰り返し口にするのが「美しい」と「矛盾」という二つの言葉である。

二郎が作りたいのは美しい飛行機だが、それは同時に兵器でもある。

しかし二郎の夢の中でカプローニは言うのだ。


「飛行機は戦争の道具でもないし、商売の手立てでもない。飛行機は美しい夢だ」


兵器であるにも関わらず、戦争の道具ではないという矛盾。

実際劇中の二郎も、朴訥としたキャラクター故でもあるが、自分が作っている飛行機が、戦場で使われる事に対しては大した葛藤を抱えていない様に見える。

見方によっては、これは宮崎駿の逃げであると捉える事も出来るだろうが、私はもう二郎は矛盾を抱え込み、それでも自分の夢を追求する覚悟を決めているのだと思う。


ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-656.html

この作品は、とても賛否両論がある作品だと思う。その最大のポイントは、技術というものへの倫理の関わり方だ。この作品の最も倫理的に賛否が分かれるであろうポイントは、技術それ自体への情熱と追及に善悪を持ち込むかどうか?ということだ。この作品の堀越次郎と本庄は、この部分に対して葛藤を持っていない。少なくとも描写を論理的につなげれば、前半の「飛行機が作りたい」という少年の夢が、そのまま仕事になり、それを特別に否定する葛藤や苦悩を描くことなく物語は終了している。


ここは、論理的に確実に批判を招くポイントだろうと思う。まず常識的に考えて、中国人がこの作品を見たら、まず絶対に肯定できないと思う。そしてそれは、当然だろうと思う。ここで本庄が設計している爆撃機は、中国本土を爆撃するのにつかわれたわけだから。日本人にもう少しわかりやすく言えば、たとえば原爆をつくったマンハッタン計画のリーダーの一人であるオッペンハイマーの科学への夢をと自己実現を肯定的に美しく描いた物語を見せられたら、それがいかに美しい物語であっても、日本人は肯定しづらいだろう。


また、「少年の夢」と現実・・・・飛行機を作るには兵器をつくるしかないという現実への苦悩を描かない、つまりは、最もドラマチックで悲劇的な太平洋戦争の時期をこの作品を描いていないので、この倫理的な部分は、非常に賛否が分かれてしまう部分だろうと思う。実際のこの爆撃機の犠牲になった中国や、そもそも戦争自体を絶対に許容できない極端な左翼思想の人には、これは到底受け入れられない態度だからだ。そして、それは論理的にいって、理解できる態度だ。


しかしながら、この作品を見た業界大絶賛(苦笑)というのは、よくわかる反応だ。というのは、これは、たとえ矛盾があろうとも、モノづくりに人生の覚悟を決めた人には、感情移入しないはずがないからだ。


この作品のこの危うい両義性の部分に対して、感情移入できるかどうかは、モノづくりに対するコミットの意識があるかどうか、だと僕は思う。何を犠牲にしても、何かを作り出したいと覚悟を決めて人生を歩むものにとっては、この悪魔の取引は、常に目の前にある選択だからだ。海燕さんは、この強烈な「少年の夢」を『プラネテス』のロックスミスの話に例えています。人の情熱というものは、善悪の彼岸にあるものであって、モノづくりの・・・・何かの創造にコミットしたことがある人ならば、この魔力はわかるはずだ。

プラネテス(4) (モーニングKC (937))

逆に、これがわからない人には、兵器をつくるなんておぞましいことを許すことはできないともう。また、その夢によって人生を破壊された人々にとっては、これは許されざる蛮行になる。たぶんどちらも、感情的には、人間なるものの持つ、赤裸々な感情であって、正しいかどうかは抜きにして、人間なるものだろうと思います。正しいかどうかは判断であって、それが自然に生まれるものかどうかとは別物です。


さて、ここまで来た時に、宮崎駿という人が「少年を主人公に描けなくなった」というテーゼを主張した時に、彼が念頭にあったことは、このことだろうと思うのです。


ようは、夢を追えば、戦争になる。それでも、あなたは夢を追いますか?という問いです。こと問いに、彼は逃げてきました。ずっと逃げ続けてきた。善悪の選択があった時に、善悪二元論の選択肢が生まれた時に、正しいという担保がなければ、子供にそれを伝えることができない。また自分も、正しいという風に人が言ってくれなければ、行動にはうつせない・・・・と。


しかし、、、、72歳にして、彼は決断するわけです。それでも、たとえ善悪の彼岸を超えても、夢を追うべきだ、と。


たとえ、国を滅ぼしても、ゼロは美しいのだ、と言い切るわけです。・・・・これってめちゃめちゃ挑発的で、挑戦的なことではないか、と思うのです。そして、、、時代背景的に、少年の夢が去勢され続けてきた時代に、もう一度、少年を夢を強く押し出したわけです。日本の少年よ、と呼びかけて。


これを退行だ、と批判する人もいるかもしれません。これまで少年の夢の善悪の彼岸を超える部分に対して、そのような危険なことには行動を起こせないという風に、世界の複雑さに立ちすくむことから、退行して、ただ単に悪にコミットしただけだ、と。しかし、僕はそうは思いません。それは、彼が『未来少年コナン』や漫画版『風の谷のナウシカ』で追及してきた背景を考えればわかることです。

風の谷のナウシカ 7

既に、この問いに対して、全体主義とは何か?、人がもたらす悪とは何か?、技術のもたらす最果ての地はどこか(=世界の終末)?などなど、宮崎駿の思考履歴、そして作品履歴は、この真摯な追求によって為されています。彼は、少年の夢がもたらす世界の進歩が、世界に終末をもたらすことだということをこれでもかと考え抜いてきました。そもそも、最初期の出発点である『未来少年コナン』にその問いがはっきりとあります。


その背景を、理解し、心底考え抜いた上で、それでも、夢を追うべきだと喝破するわけです。


正直いってゼロ戦の開発者の堀越次郎が主人公であり、これでもかとゼロ戦の美しい姿が描かれるこの物語は、何をどう言おうとナショナリステックにとられてしまうでしょう。ただ僕は、それは浅薄な捉え方だろうと思う。なぜならば、先に書いたように、この作品には旧枢軸国の飛行機の夢を追った3人の人が登場します。大日本帝国の堀越次郎。ドイツのユンカース博士。イタリアのジョヴァンニ・バッチスタ・ジャンニ・カプローニ伯爵。宮崎駿の世界には常にヨーロッパの世界が広がっており、これまで描いてきた数々の作品のこれでもかというヨーロッパの美しい街並みを考えると、彼の世界の中で、日本と西ヨーロッパは、ほぼ同じモダニズムの同時期の世界としてつながって存在していると思う。ようは、人類が、モダニズムに、近代化を成し遂げていく過程に必ず起きる普遍性があることだと描いているのだと思うのです。少なくとも、宮崎駿の表現上のキャリアがすべてぶち込まれている『風立ちぬ』を見ると、その「地続き感」は非常に僕には納得だ。ハウルが爆撃が繰り返される戦争を見て感じた思いや、『耳をすませば』で戦争によってドイツでの恋人と引き裂かれたおじいさんや、、、、あらゆる物語にもモダン(=近代)の世界の普遍性を感じます。この普遍性がとても大事だと思ったのは、日本のゼロ戦の開発者である堀越次郎の実存は認めることができない!と、他国に言われると、実はこれは言い返すのが難しいと僕は思うからです。先ほどの原爆の開発を日本人が受け入れるのは感情的に難しいとの同じです。しかし、ここでイタリア、ドイツ、日本(くしくも旧枢軸国(苦笑))のヨーロッパ近代の、モダニズムの普遍性に基づいて描かれて、かつ、これまで全く同じテーマをファンタジーで描き続けたことによって、これがナショナリズムの発露の文脈ではなくて、人類の「人間的なるもの」の普遍に裏づけられていることが、はっきりと「感じられる」からです。部分的に見れば、確かにナショナリスティツクな解決方法に見えるのですが、この宮崎駿の長い遍歴の広がりのある世界観を前提にすれば、そんな小さな枠で彼が語っていないことは、十分わかるはずです。なので、ここに反論は必要なくなると僕は思います。ここでの主語は「人類」なんです。・・・ちなみに、こういった人類のレベルでの巨匠になった作家が、それでも日本的ローカルな文脈で物語描いてくれることは、本当に僕らはラッキーだと思うし、そういう巨匠を生み出すマーケットの一員である自分に、幸せをを僕は感じます。


また彼の作品の履歴を見ると、『もののけ姫』の生きろ。というキャッチフレーズを見るように、、、、ナウシカが生命とは血を吐いても血を吐いても飛び続ける鳥のようなものだと言っていることからも、腐海や終末に浸された汚物の中であがいて、それでも「生き続けること」だけが、人間なるものなのだ、という答えに到達しています。


そう、、、人は、あがいて生きていくことが、人なのだという結論です。そこに賢しらな善悪の倫理や設計主義的なるもの究極の拒否があります。この「生き続ける意志」に対して理性的であろうとした瞬間に、人は動機を失い行動にコミットすることができない虚構の生を生きるようになるようです。このあたりの、ナルシシズムの地獄に陥って、そこから抜けられなくなる地獄の構造については、このブログでは一貫して語ってきたと思いますが、少年の夢を去勢すると、構造的に永遠の日常に閉じ込められて、そこで脱出に向かってあがくだけの人生になってしまうことは、ずっと語ってきたことです。そういう意味で、この文脈からも、夢を追えば、戦争になる。それでも、あなたは夢を追いますか?という問いに対して、それが不可能であっても、戦争を拒否しながら(=実際は不可能だろう)も夢を追わざるを得ないし、夢を追わなければ人の人生(=生きている)とは言えない、という結論になるんだろうと思います。ナウシカの結論も、『もののけ姫』の「生きろ。」というキャッチフレーズも、


風立ちぬ、いざ生きめやも。


という言葉も、すべて同じ文脈の発展系として解析することができます。特に今回のこのフレーズは、ナウシカの結論と非常に似ています。というか構造的には同じ。風の意味は、人生は設計主義的にはコントロールできない、ということ。風が吹くたびに様々な人間関係やドラマが生まれて、人生は変化していく様がこの映画では象徴的に描かれます。そのなかで、どんなにめちゃくちゃな人生であろうと、血を吐きながらでも生きていかなければならない、、、そして生きるということは、夢を追うことだ、ということ。それが血塗られた道であっても。人は自身の実存に背いて生きていくことはできないのだ、ということ。


そもそもこの物語の類型は、宮崎駿の天才によって、既に漫画版『風の谷のナウシカ』で到達していました。ただ一つ、ここにはウソと欺瞞があって、それが、異世界のファンタジーであることでした。「それは別の世界の話」という逃げを打つことができたのです。


けど、それは、大日本帝国の堀越次郎のゼロの開発だって、まったく同じことなのです。そして、歴史の事実に裏打ちされた、我々の歴史と地続きなりアルと接続された物語を描けば、間違いなく賛否は激しく分かれます。我々の現代日本は、戦前を否定して構築したものなのですから。別に、この作品で戦前を肯定したなんてことは全くないですが、それでも、人類の、あがきながら生きる、という生への肯定を描けば、それはすなわち、血を吐きながら矛盾で引き裂かれながら夢を追った少年の夢に肯定に他ならなくなるのです。


ほんとうにチャレンジングだな、と僕は思いました。ここには、具体的になったが故に強い批判と拒否を引き起こすであろうながらも、それでも近代の世界を生きる、人類の普遍的な問題意識がはっきりと描かれており、それを、近代のフロントランナーの一人であった日本人の若き姿を描いたところに、、、、なんとも、チャレンジングな意思を感じます。決して、ファンタジーにも、ヨーロッパやアメリカ時に仮託して書くような逃げもせず。


まだ書きたいことがたくさんあるので、何とか時間が確保できれば(2)に行きます。賭けないかもなので、メモは以下に残しておきます。まぁタイトル見ればわかるかな(苦笑)。


■宮崎駿の私小説として〜戦前の大金持ちはみな共産主義に転ぶ

■現実とファンタジーをシームレスに描くことで人の内面が捉える主観的な現実を描写

■意外に息子はいい仕事をしたのだな?と思った。『コクリコ坂』の世界との接続について

■悶絶の宮崎ヒロインの結晶としての菜穂子



■関連記事

『コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 普通のアニメ制作会社になろうとしているスタジオジブリ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110826/p2

『フラガール』 李相日監督 いまの日本映画の魅力が凝縮

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017996846.html

『ALWAYS 三丁目の夕日』  山崎貴監督  昭和30年代のテーマパーク

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017194528.html

『借りぐらしのアリエッティ』 米林宏昌監 脚本を絞り込んで青春映画になったローファンタジーの佳作

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100731/p1

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080823/p4

【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090710/p2

【映画版エヴァ破考察 その弐】 庵野秀明は、やっぱり宮崎駿の正統なる後継者か!?〜「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090719/p2

2013-07-25

もう、とにかく見るしかないっ!


大傑作だ。全編、僕はじわっと半泣き状態だった。ずっと胸が熱くまったままだった。この作品は、宮崎駿という大巨匠をして、エポックメイキングな作品になると思う。それは、これが単純にこれまでの彼の持っていた技術や世界観をすべて総まとめにしたというだけではなく、それを超える新境地に達しているからだ。この年(いま72歳!)で、ここへきてで、壮大な「その先へ」のチャレンジ。さすが、宮崎駿、としか言いようがない、絶句する。まじで、彼のすべての爆発です(笑)。


とにかく、見るしかない!!!絶対見ましょう!!!


いままで、彼の最近の作品群を見て、ずっと????って思っていたことが、すべてつながった。そうか、これが言いたかったのか!と。


・・・・ジブリの作品は、毎年テレビで高い視聴率を誇り、ファミリー層に洗脳のように繰り返し放映されます。。。。そうか、毎年8月とかにこれが放送されるのか・・・と、感慨深いものがあります。いや、本当に凄い人と同時代に生きているものだ(笑)。僕等は幸せ者です。


これ、、、隣国ではどう評価されるんだろう?・・・物凄い素晴らしい作品だけど、、堀越次郎というゼロ戦の開発者の半生だし、描かれる大日本帝国のマークの付いた戦闘機群の美しいこと美しいこと、、、、。やばすぎです(苦笑)。しかも空母とか爆撃機とか、めっちゃ出まくりだし。物凄い矛盾に満ちた美しさ。

2011-08-26

『コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 普通のアニメ制作会社になろうとしているスタジオジブリ

コクリコ坂から [DVD]



評価:★★★★4つ

(僕的主観:★★★★☆4つ半)


視聴終了後、集約して感じたのは、「スタジオジブリは普通のアニメ制作会社になろうとしているんだな」ということでした。


これは悪い意味ではありません。宮崎駿という個人の妄想が時代の文脈を超えてエンターテイメントとして商売として成立してしまう、ある種、化け物的なクリーチーなアニメ制作会社であったスタジオジブリが、まともな制作「集団」になろうとしているんだな、という感じです。


スタジオジブリを語る文脈には、常に「宮崎駿の後継者はできるのか?」という問題提起がいつも存在していました。けれども、さすがに御大の年齢と『もののけ姫』以降のスタジオジブリの作品を見ていれば、宮崎駿という希代のクリエイターは、後にも先にも生まれない「天才」だったんだ、ということが、我々もよくわかってきたんだと思います。時代性を無視してムーブメントを起こす力があり、この分裂する世代が常態化した日本市場で、ファミリー層を網羅するという、ほぼすべての層に対して総動員をかけられるブランド力、訴求力。そういった、家族全員が見れるという作品は、70年代を境にほぼ見られなくなったのはずなのですが、彼の作品だけは、家族が解体され個にバラバラになっていく80年代以降の日本に、特異点を持ち続けてきました。けど、「それ」は、そういうファミリー層を抑える手法があるということではなくて、ほんとうに、宮崎駿という天才による特別なもので、再現できないものなんじゃないかと思うんですよね。いいければ、「スタジオジブリの後継者問題」という問題設定が、実は間違えたものなのかもしれない、と今にして僕は思います。


そのある種の答えとして、僕は、「スタジオジブリは普通のアニメ制作会社になろうとしているんだな」と思いました。



その理由を、作品分析を進めながら、考えてみたいと思います。



この作品を評価するときに、非常に現代的な、そして、いまのアニメや漫画、映画など日本のエンターテイメント業界の主流が2点で構成されているように感じました。それを端的にいえば、


1)ノスタルジーの活用によるファンタジー効果の創出



2)ベタな骨太の物語への回帰


まずは、1)ノスタルジーの活用によるファンタジー効果の創出ということを考えてみたいと思います。このテーマは、物語三昧を追ってくださっている読者には、かなり繰り返している文脈なのですが、あまりなじみのない人のために、大枠をもう一度説明してみます。


この概念は、以前に山崎貴監督の『ALWAYS 三丁目の夕日』と李相日監督『フラガール』を見て、日本映画は、ノスタルジーによって過去の日本を再構成するという鉱脈を見つけたと、考えたことにそのスタートがあります。またもともと、アメリカのディズニーランドのマーケティング手法を大学の時に調べていたときに、あのテーマパークや映画の題材が、ノスタルジーを喚起させることで、世代間で価値観や見る風景の経験が分裂している親子が遊べる場所を作り出すために設計された、ということを知っていて、日本でも同じような手法が、人の動機を喚起するために使えないだろうか?、もしくは、なぜアメリカではノスタルジー喚起型のマーケティングなのに、なぜ日本では同じ題材でファンタジー喚起型のマーケティングになるのか?と思っていたことがベースにあります。ちなみに理由は、アメリカ人にとって、西部開拓の風景とかは、実際に経験した風景なので、当時のおじいさんたちにとってはノスタルジーになったのですが、日本ではそういう経験がそもそもないものなので、異世界ファンタジーとしての効果(=ここではないどこかへ行きたい欲求)としてしか持ち得なかったという、ひどく当たり前の理由です。なぜ、ノスタルジーという視点が出来上がるのか?ということに対して、過去の記事で僕はこう書いています。

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]フラガール(スマイルBEST) [DVD]

一つの時代が過ぎ去って、その時代を省みる(=客観化できる)時代になると、その時代を「一つの様式」として『いまの自分とは別のもの』として分離する視点が生まれます。だいたい、20〜30年周期で発生するようで、だから世代というものに意味があるんでしょうねぇ。

だから、昭和という時代がノスタルジーを喚起するというのは、「もう二度と元には戻らない」というあきらめと、そのことへの憧憬が、ファンタジー(=いまとは異なる世界に行くこと・脱出願望)と同じ効果を生み出すようになってきたんでしょう。しかも、団塊の世代という金も余裕もある一大市場が形成されつつあります。嬬恋のかぐや姫と吉田拓郎のライブに、団塊の世代がたくさん来て涙したというのも、それを思わせます。


これからの日本映画の方向性には、この二つの突き詰めが一つの流れになっていく気がします。なにより、これならば若者も老人世代になる団塊の世代も両方がコミットできる。



『フラガール』 李相日監督 いまの日本映画の魅力が凝縮

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017996846.html

では、アメリカでは、ディズニーランドという遊園地が出来上がっていく過程は、一世代前(約30年のようです)の風景を実際に作ることで、人を動員した、ということがその出発点になっています。どうも、ノスタルジーをマーケティング的な欲望喚起の手法に利用するには、実際に建物を再現する、遊園地やテーマパークのような、空間の再現にその手法の根源があるようなのです。では、このノスタルジーを喚起することで、人を動員させるという手法は、日本では例がないのかな?と考えていたところ、僕は、その時、思い立ったのは、池袋のナムコナンジャタウンです。

http://www.namja.jp/

でも、こういった小さい例はあったけど、実際に、この手法を利用して、大掛かりに人を動員するのって、、、、、と考えているときに、『フラガール』や『ALWAYS 三丁目の夕日』を見つけたのでした。ALWAYSが、特にこの手法には自覚的で、あきらかに昭和30年代の空間を、意識的に作成して見せつけているように感じました。そして、それによって映画がヒットしたのを見て、ああ、これはやはりありなんだなと思いました。アメリカよりかなり遅れたのは、まぁいつものことです。だいたい、30年ぐらいの差があるもんですからね。

僕は、新興の郊外住宅地ばかりを親の転勤で転々したので、開発途中であったその場所は、今では信じられないほど画一的で均質な空間になっている。真新しいけれど、均質で、歴史性のカケラも感じない空間。けれど、まだほんの昭和50年代の間ぐらいは、この30年代の空気というものは少し残っていた気がする。ギリギリこの空気をリアルタイムで、見たような気がする世代なんだと思う。なぜ、こういう話をするかというと、これはノスタルジーというテーマパークであって、この空気を体験しているか、それともまったくの異世界ファンタジーとして見るかで、まったく見方が変わってしまうと思うからだ。正直、このイメージを、異世界としてみるであろう、たとえば、80年代後半以降に生まれた世代の感覚は、僕にはまったく理解しかねる(笑)。とりわけ、80年代は、日本社会の断層期なので、とかく世代間感覚の違いがデカイ。日本社会は、凄まじく急速な高齢化を経験する人類最初の国家で、しかも、現時点では移民を受け入れていないという、若年層よりも老人層のほうが大きい逆ピラミッド型になるのも人類史上初でしょう。だから、日本社会では、人類最初の極端な世代間断絶が強烈に起きる社会なんです。縦の分断ですね。横の分断は、やはりヨーロッパとアメリカでしょう。老人世代が主導権を握る、権力だけではなく人口比において、という意味では凄い興味深い時代です。そんな中で、当然出てくるのが、ノスタルジーです。変化を容認できない世代群は、過去の栄光にしがみつくものです。そうしたメモリアルや仕組みというのは、人類にたくさんあります。たとえば、戦争のメモリアルパークや墓地なんか、まさにそう。ジョンボドナーの『鎮魂と祝祭のアメリカ〜歴史の記憶と愛国主義』なんかに典型ですね。靖国問題も究極そこです。そして、それを資本主義市場の集客力という目的に収斂させたのが、鬼才ウォルトディズニーの『ディズニーランド』です。このノスタルジーを基礎にした集客の方法論は、見事なまでに、映画『マトリックス』を思い出させます。このへんい詳しいのは、能登路雅子さんの『ディズニーランドという聖地』に詳しいです。


ディズニーランドという聖地 (岩波新書)
ディズニーランドという聖地 (岩波新書)

 

つまりはね、ある世代のノスタルジーを空間ごと再現すると、それにその世代の人が逃げ込むように、吸引されるのです。ところが、不思議なことに、このスタイル・様式が確立されると、『体験を持つその世代』だけではなくそれ以外の世代にも強烈な吸引力を発するようなのです。池袋のナンジャタウンなどの昭和の町の再現が典型ですが、テーマパークの基本は、このノスタルジックな感情の再現をどこまで、人に起こさせることができるか、です。ディズニーランドが、見るものに既視感覚を感じさせるように、寸法・空間構成・視線誘導・行動誘導に至るまで、あらゆる面で徹底的に計算されたつくりをしていることは有名です。(正確に言うと、アメリカのDLは、ノスタルジーベースで、日本のDLは実は異世界ファンタジーベースだと思っていますが・・・。)ようはね、人の幻想・ナルシシズムを、一切破らないで、ノスタルジックな感情に浸らせて、お金を落とす仕掛けになっているのです。・・・・マトリックスでしょう?(笑)




『ALWAYS 三丁目の夕日』  山崎貴監督  昭和30年代のテーマパーク

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017194528.html


さて、ノスタルジーの効果で人を呼ぶことが、手法的に抽象化できるではないか?という問題意識を僕は持っています。まぁ統計をとっているわけではありません&僕は学者ではないので、これを定量的に指し示すことはできませんが、まぁ経験則からいって、かなり歩留まりのいい仮説モデルだと思っています。ちゅーか、体感的に、そうじゃねぇの?って思いません?(苦笑)。また、アメリカで成立する方法は、日本でも多少変質しますが、まず間違いなく成立します。資本主義の最先進国である、ヨーロッパ、日本、アメリカ、いまならば韓国、台湾の大衆社会の仕組みは、ほぼ同機能を示すと僕は思っています。この辺の国々の状況を追っていれば、世界中の資本主義がある段階に行き着いた大衆社会は、非常に似た構造、似た行動になります。もちろんローカライズされますし、微妙な文化的歴史的要因や、発展段階の差が出ますけれどもね。でも、それはしょせん微妙なレベル。


と、ここまでいってやっと具体的な話に入ると、『コクリコ坂から』のカルチェ・ラタンという部活棟の維持というエピソードのは、まさに、ノスタルジー的なテーマだからです。これって、60年代真ん中を想定すれば、学園紛争など団塊の世代の学生運動の要素が色濃く出ているテーマであることが、見ている人は、特にいま60代の団塊の世代は、よっっくわかるはずです。その子供である僕ら団塊のJrには、「匂い」はわかるけど、乗り遅れたし、もうそんな熱いことが意味を失った世代なので、ある種のしらけた、いやな印象しか持たなかったのですが、、、これまでは、、、しかし、自分が30代になり人の親になりと、あの時代から約30年を超えた今の2010年代の視点から見直すと、連合赤軍事件や浅間山荘事件などの学生運動のエピソードが、ノスタルジーとして、少し切り離された冷静な視点で見れるようになってきている自分がいます。ましてや、僕の下の世代にとっては、ああいう「熱い学生運動の時代」は、ほとんど異世界ファンタジーと同じものにしか見えないでしょう。また、このへんの昭和30−40年代は、大正時代に形成された、日本社会の都市生活者や教養層の文化である寮生活などの伝統が色濃く残っていた時代で、この時代を「現在」と考えると、日本のエリート学生の持っていたバンカラ文化というものが、これは団塊のJrの僕にとっても強烈なノスタルジー効果(=実際に見たことも匂いも分からない懐かしいもの)があります。近くの寮と喧嘩するストームとか、そういうの知っています?。この辺のバンカラ風俗が、いまも見れる作品で容易に体感できるのは、なんといっても、大傑作『摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン』や、もっと最近だと、かなり現代風になっていますが『ここはグリーン・ウッド』です。僕が何をいっているのか、日本の寮文化や旧制高校の伝統的文化が、どんな匂いがありどんな雰囲気かは、これを読むとすごくよくわかると思います。


摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン (第1巻) (白泉社文庫)
摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン (第1巻) (白泉社文庫)

ここはグリーン・ウッド (第1巻) (白泉社文庫)
ここはグリーン・ウッド (第1巻) (白泉社文庫)


すべてが、古き良き日本の伝統を、ノスタルジック補正(=悪い面は見えにくい)がかかって見れます。それが見事に表現されているのが、この『コクリコ坂から』です。たとえば、まぁ見ればみんな思うでしょうが、昭和の日本の「良さ」が、とてもにじみ出ています。たとえば、男性も女性も、すべての人が、ビックリするほど姿勢がいい。主人公が、常に前を向いて背筋をぴんと伸ばしている姿は、現代からすると、すがすがしく美しいのですがはっきりいって異常です(苦笑)。また、挨拶の素晴らしさ。文化系や運動系など、さまざまな種類の部活動を構成する生徒が、全員で一致団結して、教師を寄せ付けないように校歌?を歌い出すなど、学生というエリート集団の「同胞意識」が強くあり、その学生の中に階級があるスクールカースト的な現代の意識は全く見られません。ヲタク的に哲学にはまろう(=将来食べていけないだろ、それ(笑))が、なにをしようが、同じ学び舎で学ぶ仲間=この後、大学進学率が急上昇するまで、そもそも旧制高校や大学に行く層なんてのは、そもそも全国の数パーセントというウルトラエリート層で、おれたちは、どんなことをやっていても「選ばれた選良なんだ!」という、悪くいえばスノッブなエリート主義があり、よくいえば選ばれたものの気概と倫理(ノブレスオブレージと指導者が率先して倫理を守るという意識)があったのです。だから、スクールカーストなんて言う、学校の中の階級はできようがない。だって、日本の、その分野での指導層になるのが決まっているようなものなんだもの。という、大正以来の旧制高校の色が、首都圏の都立高校とか関東圏の高校には、昭和の30年ぐらいまでは色濃くあったんですよ。いやまじで。だからこそ、学生運動の時代には、都立高校(大学じゃないよ!)とかも、凄い自治権獲得の闘争があったんですよ。いま思うと、信じられないくらいに熱い政治色の強い時代ですよねー。


もう少し具体的なエピソードでいうと、生徒会長の男の子(たぶんあれ生徒会長だよね)の、なんというか見事な生徒会長っぷりには、いまの時代から見ると、そこまでカッコつけなくてもいいだろうという物凄いスノッブさがあるんだけど、出てくる登場人物たちが「他者の視線を強烈に内面化している」ので、それが、不思議といやらしさを生まない。全編にわたって、過剰な他者視線の内面化があるんだけど、この自意識過剰感って、ああ、たしかに60年代くらいまでの映画や小説に刻印されている感じだよなーって思いました。他者視線の内面化ってのは、もう少しわかりやすくいえば、「他人に見られているんだ、ということを前提として振る舞いが構築されていて」それが、内面化されているので、周りに実際の他者がいなくても、一人しかいないところでも、振る舞いが他人を見ている前提で行われている・・・・つまり倫理が内面にセットされている状態の話をいっています。この内面の視線拘束「からの自由」を目指すのが、80−00年代の個人主義流れだったので、まさに時代の逆行です。「他者の視線が内面化されている」というのは、日本でいえば、共同体にどっぷりと拘束されていて「自由が存在しない」がんじがらめの生き方、ということですから。ようはムラ社会のムラ人的状況。けど、自由と引き換えに、共同体に視線による拘束は、倫理じゃないや道徳が強く存在するってことですよね。道徳、、、みんなが思う「正しさ」があった時代ということです。だから、人が見ていないところでも、、、、ちゅーか、学校サボっているのに見事に制服を着ているところとか(笑)、挨拶や返事の清々しいまでに(いや最初見ていて気持ち悪いほどに)徹底しているところなどは、学生たちの中に、強烈な道徳的「正しさ」が存在していることを示しています。もう、多様性と個人主義の伸展によって、めちゃめちゃに破壊された後に2010年代の僕らから見ると、もう完全に異世界ファンタジーなんだよねこれ。僕は全は見ていて、強烈な違和感があったが、、、慣れてくると、そうか、「別の世界の出来事」と思えばいいんだ、と思うとすごい肩の力が抜けて、素晴らしい美しい物語に見えてきましたよ。


このノスタルジーを喚起するというの部分が、脚本でも映像でも、強烈に意識されています。ノスタルジーは、分裂する世代間を共有させるといういわゆるファミリー層を抑え込む幅の広さがあります。この手法は、「普通の手法」ですよね。特殊な才能に頼るのではなく、現代の創造の最前線で暗中模索されているオーソドックスな手法。宮崎駿さんの作品は、そのすべてが、完全に異世界を志向した「ここではないどこか」の別の世界の物語空間を構築していたのに比較すると、物凄く普通。僕には、京都アニメーションの開発した日常という文脈のドラマ化など、とって現代性のある設定に思えます。本当は、スタジオジブリは、若手が独立色の強い作品を作ろうとすると、『海がきこえる』(1993)『耳をすませば』(1995)などを思い越せば、現代の創作の最先端をフロントランナーとしてかなりいところまでいっているんですよね。1)ベタな純愛ドラマへの回帰、そして2)背景を精密に描くことで日常をドラマ化するなど、実はいまの物語の最前線の開発を、時代に先駆けて挑戦しているんですよね。ところが、やはり宮崎駿という怪物がいるので、それが、古い王道的な物語に引き戻されて、なかなか現代的なものになりきれない。『ゲド戦記』(2006)なんかは、新しい世代にはありえない大作異世界ファンタジー志向で、時代にも合っていない上に、非常に上滑りしてしまったのは、そもそも宮崎駿の子供の世代の人間に、ああいった骨太の善悪二元論的ドラマトゥルギーを料理させること時代が、そもそも無理があったんだと思います。宮崎駿やそれこそクリント・イーストウッドなどの善悪二元論の陳腐さとその発展過程の問題点を知りぬいた人でないと、あの巨大なテーマを、エンターテイメントにするのは不可能なんですよ。ある種、バロックの極致になっているものだから。

海がきこえる [DVD]

耳をすませば [DVD]


2)ベタな骨太の物語への回帰


さて1997年『もののけ姫』あたりで異世界ファンタジーや善悪二元論で人の動機を喚起するというドラマトゥルギーの限界点が示されたころから、エロゲーでも邦画ドラマでも、ベタなソープドラマへの回帰が始まっている気がするんです。その集大成というか、集約地点というのが、『冬のソナタ』(2003-2004NHKで放映)に代表される韓国ドラマブームだと思うのです。それと、邦画でいえば、純愛路線や映画『世界の中心で愛を叫ぶ』(2004)『黄泉がえり』(2003)『いま会いにいきます』(2004)なのです。ゲームでいえば、アージュの『君が望む永遠』(2001)ですよね。日常を劇場化するという視点で描かれた最もエポックメイキングなアニメーションが、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)、そして漫画が『あずまんが大王』(1999-2002)だと考えると、純愛も日常も、既に『もののけ姫』のかなり前に、ジブリでやっているんですよね。あの方向性が伸ばせなかったことは、残念ですが、、、まぁそもそもあのスタジオが、そもそも宮崎駿という才能を世に出すという目的からすれば、正しかったんだろうと思いますけどね。

君が望む永遠

冬のソナタ Vol.1 [DVD]

涼宮ハルヒの憂鬱 1 限定版 [DVD]

世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション [DVD]


不可能性のロマンチシズム〜韓国ドラマがなぜ面白いのか?

http://ameblo.jp/petronius/entry-10005550854.html

韓国映画・ドラマの見方

http://ameblo.jp/petronius/entry-10004169150.html

『君が望む永遠』 その1 BY アージュ この脚本そのままでフジテレビの月9になるよ!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110712/p1


純愛路線の邦画、韓国ドラマブームなど、骨太の脚本、、、ベタなロマン主義への過剰なコミットが物語類型の重要な手法として、脚光を浴びるだろうという文脈は、上記辺で語っていたことですよね。ちゃんと書いたところが見つけられなかったのだけれども(自分でも過去何書いているかよく覚えてないんで(笑))、やっぱりベタな物語への回帰をロマン主義の復権と見ている文脈は、いまから見返しても、僕は正しいと思うなー。現在では、サイト「小説家になろう」のチート主人公、「俺つえぇぇぇぇ」系(笑)とかも、ようは物語の原初の欲望に戻っているんだよね。宮崎駿の世代が語っていた物語は、物語がバロック化して複雑になりすぎて、問いが非常に感情移入の最初の契機を失うほどに巨大化しているんですよね。にもかかわらず観客を引き込める力があるというのは、ウルトラ天才級でなければならず、、、、、とはいえ、宮崎駿が『千と千尋の神隠し』以降、物語を語り終えるのができなくなって、エピソードの塊のような作品しかつくれていないのも、物語の主軸を作ると、「嘘を言っているような気がする(=ベタな感情移入への逃げ)」と思ってしまうのではないかなと思うんですよ。だって『ハウルの動く城』とか『ポニョ』とか、何がいいたいかわかります?(苦笑)。物語の整合性は、『もののけ姫』の善悪二元論の破綻で、宮崎監督はあきらめているんだろうと思うんですよ。そういう意味では、あの大家にして、時代性に合わせて入るんですよね。でもあれだけ複雑さの極みまで考え抜いた人が、確かに、物語の原初の欲望に戻るのはつらいと思うんですよ(笑)。だって、なろうのサイト見ていると、物凄いシンプルなんだもん。何でもできるチートで強いおれを感じたいとか、別に何の魅力もないのに素晴らしい美少女やかわいい女の子にもてまくりのハーレムを経験したいとか、女性でいえば、王様が(白馬の王子?)が、なんの魅力もない自分だけを実は愛してくれてた!というのを実感したい、とか(笑)。なんというか、社会が下降している文脈で考えると、そんなドーピング(=社会逃避を助長するもの)を描いていいものだろうか、と、ましてや社会的な思想のリーダーである宮崎駿クラスの作家としては、物凄い悩みが生まれると思うんですよ(笑)。たぶんね。


けど、ほんとうは、原初の姿の「荒々しさ」は無視してはいけないものなんだろうと思います。なぜならば、人々が望むものは、そもそも「それ」が原点なんだから。


かつて文壇で「文学で飢えている子供を救えるか?」というような、意味のない(今から考えると)論争がありましたが、そのことに答えを出した中島梓さんの本について

過去に文壇で

『文学は、飢えた子供を救えるか?』

という問いがはやったことがあるそうです。この問いは今でも有効で、食べることが出来ない空想が、役に立つのか?という問題提起です。全てのものを、『役立つか?』という思考に還元するのはどうかとは思うものの、ベトナム戦争やアフリカの飢餓を直面しながら、飽食に飽きる先進国の住民には、誠実な問いだと思います。この問いへの真正面から答えたのは、この本以外には知りません。

解答は、こうです。人間とは、生物としての本能が壊れた生き物であり、その欠落部分を自己幻想欲=物語を生み出すことで、生きている。だから、物語は、飢えた子供を救うことは出来ないが、1日でも飢えを忘れてワクワク過ごすことができる。そして、それは下手をすると一切れのパンよりも、より人間らしく生きるために不可欠なものかもしれない・・・・・。自分の物語のために死を選べるヒトという種族は、食べ物よりもロマンが不可欠なのだ。

彼女の評論は、ある意味冗長だが、その分結論へ至る「思考の過程」を知ることが出来ます。小説家としても大成している彼女が、物語が心の中で生まれてくるプロセスを、微細に事細かに描写していく部分が、とてもエキサイティングです。ある意味現役バリバリの物語作家である自分の心を対象とした分析というのは、かなり貴重なものなんではないかなぁ。

副題に「ロマン革命」とありますが、『文学の輪郭』『ベストセラーの構造』で分析した価値の細分化による共同体の喪失は、物語とロマンの復権を導くだろうと結論付けています。10年も前の作品とは思えませんね。

もう10年どころか、、、、軽く20年以上前の作品ですが、時代の文脈自体は変わっていません。なんというか、これが成熟してきた、ということなんだろうと思います。


やっと、『コクリコ坂』に戻りますが、これの物語の主軸は一つは、1960年代の古き良き日本の学生生活のノスタルジー喚起であり、同時に、ベッタベタな純愛の話です。

コクリコ坂から

まぁ、見たらわかると思いますし、見た瞬間常識的なリテラシーがある人ならわかってしまうので、ネタバレっていうほどでもないのですが、この主人公の女の子と恋仲になりそうになる男の子が、実は兄妹だった!!!という「結ばれない愛」の古典的物語の典型ですね。もうベッタベタの話。しかも、きれいに、お互いの愛を確かめ合った後に、兄妹でないってわかるなど、見ていて恥ずかしくなることすらないくらい、あまりにありがちな話でした。いやまったく妹萌とか、そういう高度な技はいっさいありません(笑)。ストレートド真ん中の直球です。


君の名は 第1部 [DVD]


韓国ドラマの純愛路線も似ていますし、日本の昔の『君の名は』みたいな感じの路線ですね。基本的にこの『コクリコ坂』って、大きく3つのポイントがあって、


1)1960年代の古き良き日本の学生生活・学生運動のノスタルジー喚起

2)ベタな古典的な純愛路線

3)日本と朝鮮戦争に関するかかわりあい


たぶん意見をいうのならば、この3つが、割と分かりやすいポイントだと思うんですよね。3)が、微妙に分かりにくいのですが、主人公の父親が、LSTで死んでいるというのは、LSTとは米軍の戦車揚陸船のこと、Landing Ship Tankのことで、まぁいわれてみれば、そういうのはあるだろうなーと思うのですが、日本人が当時の朝鮮戦争に参加しているって話ですよね。まぁ、その辺の考証は、おかしなものです。だって、こういう話って当時の国民はほとんど知らなかったんじゃないあかな、と思いますしね。それを、さもみんな分かっています!という風な早い理解を示すのは、???って思いました。だって、LSTって後で検索しなければ、僕だって全然わかんなかったんだもん。これ、1)と3)ってつながっていて、ようは日本に盛り上がった学生運動へのノスタルジーを描写するには、「戦争自体があった」ということを、その事実をエピソードに組み込まないと、反戦思想を語るにしても、文脈がわからなくなるからだろうと思います。物語の主題は、古典的な純愛なのに、こういうちょっと、センセイティヴなテーマが軽く顔を出せるというのは、やっぱり過去の戦争が、かなりのレベルで、「過去にあった出来事」として歴史として見れるようになっているんだな、と思います。物語としてはわかりやすいドラマトゥルギーというか動機設定ですよね。自分の父親が戦争で死んだ、だから戦争に反対するって、物凄いわかりやすい反戦じゃないですか。いや動機の設定とか、ほんと物語はベッタベタです。


しかも、僕はこの映画にあふれる、ノスタルジーのイメージにとても感興を感じたので、細部は、多分あまり批判の対象になるわけではないと思うのですが・・・・それでも、やっぱり、じゃあ主軸の恋愛がちゃんと描けているかといえば、1)と2)のどっちが主軸なのか、いまいちわからない、ごった煮の演出で、ヒロインの内面の動きは、僕にはさっぱり理解できませんでした。あそこの少女漫画的にやると、すっごくウンザリしてしまうし、そういう自意識の一人称の内面の表出をすると、凄く現代的になってしまって、この時代のノスタルジー、、、、この少女は、「兄でもいいの抱いてっ!!!」とは、道徳上絶対にならないので(笑)、抑制しないと1)の雰囲気が壊れるために抑えたんだと思います。それは、正しい選択だとは思いますが、恋愛の物語としては、まったく中途半端で????って感じが最後まで僕はしました。何度も見れば、繊細に演出していそうなので、読み取れるのかもしれませんが、ぱっと見の僕にはさっぱり入れませんでした。これをして、脚本や演出が、うまいと言えばいいのか、下手と言えばいいのか、、、正直僕にはよくわかりません。まぁ次作を見ないと、、、って感じです。


ただ言えるのは、面白かったか?と問えば、とても素晴らしく面白かったです。一言でいえば、日本の古き旧制高校の寮文化が色濃くノスタルジーとして出ていて、それがセンスオブワンダー(=今まで見たことないもの!)という感覚を喚起してくれたからです。



これ、ノスタルジー効果があるので、僕の子供から見て、祖父の世代、父親の世代、孫の世代の3世代にわたって、コミュニケーションのツールになるもので、この日同時に、戦隊ものの



『仮面ライダーオーズ』劇場版でまさかの暴れん坊将軍(マツケン)とコラボ! シュールすぎるww

http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-2009.html




これを、子供とも見たんですが、、、、、(笑)まったく、意味不明なんだけれども、おばあちゃんやおじんちゃんが、孫を連れてきているケースがあって、ああさすが、このセグメントのエンターテイメントは、子供とのコミュニケーションを人質に取っている!!!って感心しましたよ。そういう意味で、ファミリー層への効果もあって、渋い作品ですが、昨今のジブリは、宮崎駿の異世界にぶっ飛んでいく大作構築の部分ではなく、こうした、抑制のきいた創作の最前線のテーマやツールをきれいに料理しつつあって、とっても小作品っぽいといわれそうですが、『アリエッティ』もそうですが、ああ、才能に頼らない方向に進んでいるなーと思うのです。だって、スタジオジブリって、宮崎駿の異世界構築能力を除去すれば、


1)ファミリー層が安心して見れるブランド・流通力


2)背景描写力の圧倒的なレベルの高さ



っていう二つの部分が「強み」なのは間違いないんですよ。京都アニメーションから、萌という記号を抜いた感じかな?。これって、『花咲くいろは』などのPAWORKSなんかも似た志向のテイストであって、僕は、ああ、なんというか普通のアニメ−ション会社になってきたんだなーーーと思いました。繰り返しますが、非常にプラスの意味でいいっていますよ?。つまりは、時代の文脈から外れた、巨大な才能に頼る特殊な創作ではなく、前線に留まって、先もわからんものの中で暗中模索しながら鉱脈を探していくって感じです。とはいえ、それってのは、「みんなと同じ」ことでもあるので、次は、どこで差別化するのか?スタジオジブリ独自の色は何か?というのが問われると思います。上記のノスタルジーやベタ純愛というのは、いまや最先端アニメーションや物語の基本類型ですからね。学生運動や反戦の話のノスタルジーは、継続性がありません。なぜならば、その経験者が、年齢的にもう直ぐいなくなってしまうので、ここに「こだわる」作家性は、なかなかないと思うんですよねー。わからんけど。まぁ、などなど思いました。

花咲くいろは 1 [Blu-ray]

2010-07-31

『借りぐらしのアリエッティ』 米林宏昌監 脚本を絞り込んで青春映画になったローファンタジーの佳作

f:id:Gaius_Petronius:20100730112050j:image

評価:★★★★☆4つ半

(僕的主観:★★★★4つ)

■脚本を絞り込んでわかりやすい青春映画の小作品になっていることの可否

見終わった感想は、「いまいち」でした。『ポニョ』の時も同じように感じたのですが、その感じている部分が違います。ポニョは、素晴らしいイメージの渦があるのだが、脚本を絞りきってまとめきる力がなくて拡散してしまっていることへの不満でした。今回は、脚本は、『耳をすませば』や『海がきこえる』を連想させるストレートな青春映画でした。ジブジの若手が監督をすると、なぜこうも青春映画に変貌するんですかねぇ。ちなみにジブリの良さである映像の美しさを十全に使用した「強み」の発揮にも、ぐっときました。けど、やっぱり「小さくまとまっている」という意味では、過去の宮崎駿の超大作のイメージを持つ身としては、うーんと思ってしまった。過剰さがそぎ落とされているからだと思います。


が、妻と一緒に見に行ったのだが、直後の感触も良かったらしく、次の日は、さらにじわっと良く思えてきたらしく、とてもいい作品だと感想を述べている。実際、数日たって振り返ると、「じわっ」といい感じの作品であると思う。それはやっぱり脚本が完成してメッセージがシンプルであること、そしてそのシンプルさを注目させるだけの映像の美しさがあることだろう。


ということで、映画の完成度としてとても高い、という感想で★4つ半。ただし、なんというか、ある種の期待をしてみに行くジブリ作品として、安定した秀作を見せられたという印象で、「すっげーダメ」とも思わないけれども、「物凄い驚きの満足」というのも無かった。


ぼくがとても気に入っていつも読んでいるノラネコさんのブログで、なるほどと思ったので引用。

宮崎駿の書いた脚本を読んだ訳ではないので、これはあくまでも想像に過ぎないのだが、本作は当初の構想よりもパーソナルな青春映画としての色彩が強くなっているのではないだろうか。

人間から“借りぐらし”している小人の世界は、地球と言う巨大な家から借り過ぎなくらい借りまくっている人間自身の比喩でもあるはずで、前記した「滅び行く種族」という台詞も宮崎駿の中ではもう少し広い意味を持っていた様な気がする。

アリエッティと翔の未来で、まるで希望と絶望がせめぎあっているかの様な一種独特な情感を持つラストも、二人の映画作家が物語に託したものが、別々のベクトルを持っているからではないか。

個人的には広げすぎたイメージを具現化できず、崩壊させてしまっている近頃の宮崎作品を観れば、小粒ながらも描きたい事を明確に絞り込んだ本作の方向性は正解に思える。

この作品に関しては、むしろ米林的なる部分をもっと主張しても良かったかもしれない。

この作品を評価するポイントとしては、「小粒ながらも描きたい事を明確に絞り込んだ」という部分にあると思う。実際に、小粒である(=思ったより期待外れ)を除けば、素晴らしく良くできた作品であったと思う。


こういう場合は、作品単体での評価よりは、「その映画に何を期待して見に行くか?」ということ、つまりは鑑賞者の目的に左右されると思う。




■なにがこの作品の本質か?〜地上数センチの小人の視点から眺めるセンスオブワンダーと心のちょっとした成長

監督の米林宏昌は、『崖の上のポニョ』の“お魚の大波”シークエンスなどをたげかたアニメーターということで、小人の視点から人間世界を描くというセンスオブワンダーを見事に描けている。登場する家屋敷や庭は、ちょっとでかすぎねぇ?という気もするが、その特別に緑を残す大空間を描くことで、強いノスタルジックを感じさせる。大人が見る感じの『となりのトトロ』という印象も感じた。最近僕は、2歳の子供とトトロを毎晩のように見るが、あれは風景のノスタルジックさとプラストトロが「動き回る」という動の部分が組み合わさっあって、面白さが生まれている。

今作品は、その過剰な「動」の部分が極力抑えられている今作品は、とても大人な作品に仕上げあげられている。ちなみに、ではトトロであった子どもを楽しませる「動」の部分に何があるかといえば、それは、小人のアリエッティと翔という少年の「未来への不安の共有」と「それを未来へ生きていくことの希望にかえていく」という青春物語の部分だ。基本的にこの『借りくらしのアリエッティ』の魅力は二つに絞り込まれていて、


1)地上数センチの小人の視点から眺めるセンスオブワンダー

2)恋ともいえない淡い思いを交換し合う似た者同士の翔とアリエッティの感情の交換部分


だ。この二つが本質といっていいと思う。

とはいえ、どちらの部分にも、過剰なほどの自己主張がないので、基本的に、まとまりのいい佳作の印象に、とどまってしまう。

アニメーター出身の監督らしく、ビジュアル面は圧巻の仕上がりである。

アリエッティの身長は角砂糖から推察するに10センチくらいだろうか、このスケールから眺めた世界の新鮮なこと!

もちろん今までも実写の「ミクロキッズ」を初め、小人の出てくる作品は沢山あるし、70年代の日本アニメには昆虫を主人公とした極小目線の作品も珍しくなかった。

だが10センチの世界から見た世界と、小人たちの生活のディテールを徹底的に突き詰めた本作の描写は、デザイン的なレベルが極めて高い事もあり、過去の作品とは一線を画するユニークさがある。

音響デザインにも凝っていて、人間のキッチンを始めて見たアリエッティの脳裏で、今まで床下で聞いていたであろう様々な生活音が重低音でリフレインする描写は面白かった。

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-392.html

ノラネコさんがこのように、この部分のセンスオブワンダーについていっておられるが、たしかに、このあたりにジブリのデザイン力は圧巻なものがあり、それだけでも巨大ない映画館で見る価値はあるかもしれない。見た人はわかると思うが、台所に「借りに(=狩りに)」にいくお父さんに初めてついていくシーンが冒頭にあるのだが、このお父さんの如何にも手慣れたプロッぽい動きが異様にカッコよかった(頼もしかった)のを覚えている。妻と「お父さん、かっこよすぎてヤバくねぇ!」と上映中に囁きったほどです。もうああいう人間の住む普通の空間でも、数センチの小人にとっては、広大な空間なんだな、、、それってある意味大冒険なんだ、と感心しました。


■閑話休題〜今後の物語はどこへ行くのか?

今回の作品は、ジブリには、めずらしく米林宏昌監督の作品となっていて、そういう意味では、若手が出てきたことをうれしく思います。巨大な宮崎さんの存在や脚本が、上司としてうざくないわけはなく、それをこうやってしのいで、安定した作品を出せたのは素晴らしい。

だから宮崎駿という大きなブランドの文脈に沿って分析する必要性は、あまり無いと思う。僕が、宮崎駿さん、押井守さん、庵野秀明さんのラインに感じていることは、下の記事でかなり詳細に書いているので、今回のアリエッティの位置づけは、この流れを逸脱するものじゃないと思う。基本的に、よほど物凄い作家でない限り、現代の映像作家は、「強度」…画面のキレイさ(作画という意味になるのかな?)や世界のセンスオブワンダー(=視点を特殊なモノにして新鮮さを出す)を演出する方に偏っていると思います。その基本を外さない話だったということ。ちなみにこの方向性は、コストがかかる方向で、僕はあまり業界の未来にとって必要あるのかな?(オーバースペックじゃないの?)という気はして仕方がない。

また00年代を過ぎて、10年代に向かう我々は、「自我の問題(=僕って何?)」どうも飽きてきたというか、前提に織り込み積みのようで、自意識を何度も蒸し返すような内面を探る話は、それをストレートにやる時代はどうも過ぎた模様に感じる。だからそこまで(=もっと先)語る意思がない限りは、「淡い青春」とか「淡い恋情」とかいった、とても淡いメッセージになる。どうも人間関係の距離がズタズタになっている世代なんだよなー僕らから下の世代は。団塊Jr以下の世代は、古き意味での村共同体が崩壊しているので、どうもストレートに描くことや行動することが下手な気がする。

とはいえ、さすがに育った世代が、自我の悩みでもんもんと内面の問いを繰り返す世代なので、いきなり60-70年代の熱い人間関係に戻るのは、大作でも描かない限り(時間的制約がないという意味)なかなか難しいのだろう。だから、人間関係を深めるとういう観点からは、入口とかそういうのばかりを描くことになる。そういう意味では、昔のテレビシリーズなどのように、思いっきり自分の興味を展開する機会に若手が恵まれていないような気がするなー。まぁ人口が減っていくこの時代に、そういったリソースがないのはわかるんだけれどもねー。質は、基本的に量にしか比例しないと思うんだよね、僕は。

■参考

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080823/p4

【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090710/p2

【映画版エヴァ破考察 その弐】 庵野秀明は、やっぱり宮崎駿の正統なる後継者か!?〜「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090719/p2

2008-08-23

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ編

下記のポニョ編の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5



評価:★★★★星4つ

(僕的主観:★★★★星4つ)



■CGの俯瞰的な空中戦闘シーンは、秀逸〜宮崎駿とはまた別次元の空の美しさを見せてくれる

スカイクロラ見てきました。まず結論からいってしまいましょう。この作品の見どころは、CGの素晴らしい空中戦闘シーンです。それだけといっていいが、それがすごいって作品です。かつて宮崎駿の十八番といわれたこの部分を、見事に映像化しています。個人的に、宮崎駿が「できない」硬質でリアル俯瞰感覚は、押井さん一本!という気持ち。飛行機を愛する人間として、あの俯瞰した映像は、感動的だった。とりわけ、基地の空港へ帰るときの、すべての地上的な安定感から切り離されたあの何とも頼りない映像は、たまらなかった!。


実は、これだけで★5(=傑作)行きそうな素晴らしさなのですが、惜しいっ、脚本があまりにも「押井守的なもの」から成長がないので、どうしても★4つ(=惜しいっ!)になってしまいます。いや、さすがに日本の映画を見る者として、宮崎駿や押井守の最新作は、リアルタイムで見ておかないともったいないですよ。イベントとして。好き嫌いは別。それに、空中戦闘シーンが素晴らしいこの作品は、劇場版で見ておかないと損をすると思います。


■「生きるということはどういうことか?」についての両巨匠のスタンスとと答え

ただし、僕は、『崖の上のポニョ』よりもはるかにおもしろかったし、今の時代に合っている表現だとは思いました。詩的な作品で、映像や演出からすべてが、現実の境界線があいまいなキルドレである函南優一の主観視点から描かれることにより、世界の非現実感を醸し出させている。一貫して最後まで、村上春樹の小説を読んでいるときに似た詩的なトリップを味わうことになる。これは見事な演出。

羊をめぐる冒険

この永遠の日常を生きる現代のわれわれの「息苦しさ」をどう扱うかについて、同じテーマに宮崎駿さんも押井守さんも直面していると思います。だから


『崖の上のポニョ』のコピーは、「生まれてきてよかった。」


で、


スカイ・クロラ』の「もう一度、生まれてきたいと思う?」


になっています。つまりは、「生きるということはどういうことか?」について語っていますと宣言しているようなものですね。

ちなみに僕の感覚は、ポニョを見た後に、「生まれてきてよかった。」という言葉を考えると、ほんとか?と疑問が浮かびます。だって、あまりに詩的な映像空間は死の匂いに満ちていて(僕はこれ大好きですが)、少なくとも熱く命を燃やすことに対する肯定は語られていると僕は感じなかったもの。『もののけ姫』の、あの熱い「生きろ。」という見事なコピーと比較すると、よくわかる。宮崎駿監督、あなた、ぜったい生まれてきてよかったと今の子供たちに言えないと思っているでしょう?って、突っ込みたかった(苦笑)。

に比較して、押井守監督は、はっきりと生きる肯定を打ち出している。さすがに演出が非常に統合・設計的な押井守さんのほうがはっきりと結論を出しており、それは心地よかった。



自らの生に現実感を持たない主人公が、世界をいかに感じるかというアプローチによって、生命の中に見出す希望というテーマを描き出したのは秀逸だ。


ノラネコの呑んで観るシネマさんより

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-247.html


それは、最後のほうで、主人公である函南優一は、現実感を全然持たない演出は変わらないまま、絶対に勝てないといわれるティーチャーへ明らかに無謀な戦闘を試みるんですが・・・・ここに、僕は、誤魔化しではない現実感の希薄な現代社会で命を燃やす方法を語っているようで、とても強い意志を感じました。そして最後の草薙にもう一度出会うシーンは、それほど命を燃やしてさえ永遠の日常に回収されてしまう僕らの現実の絶望的なマクロ環境を語っているようで、なかなかにグッときました。この辺の、フィリップ・K・ディックに連なる「世界のウソ(=虚構と現実の境のあいまいさ)に対する告発者」としての押井守らしいっと思いました。何も、あそこでああやって視聴後が苦しくなるようなシーンを入れて、映画の完成度を高めメイナーて気にしないでもいいではないか、と思うのですが、そこは作家主義的で正しいこだわりですね。


とはいえ、永遠の日常に回収されるマクロ構造はもうわかりきっていて、そういった絶望的な世界にいる「われわれ自身」はもう実は言及するまでもない事実なんですよ、、、では、死ぬか?って草薙は函南に問いかけます。けど、女性である草薙に函南は、「生きて見届けろ」と言いつつ、自分はティーチャーに特攻して死ぬところは、男性と女性の生命力の差はこれくらいあると主張しているようで、男性としては、うーむ、まぁ正しいと思うけど、露骨な「ファムファタール(femme fatale)」(=運命の女)だなぁ、と思ってしまいました。宮崎駿さんもなんだけど、母性的なものへの回帰は、このあたりの世代の特徴的な傾向ですよね。まぁ確かに普遍的なドラマツゥルギーではあると思いますが。小説版の方が、キルドレから人間に戻る方法という意味で、この話はさらに露骨ですよね。栗本薫の『レダ』もそうだってけれども、生命としては女性の方が強いというのは、SFの伝統的解釈ですよね。



■押井守監督の言いたいことはなにか?〜最初期から、全く一本のズレもなく同じことを語っていると僕は思います

ちなみに脚本としては、『うる星やつら2〜ビューティフルドリーマー』いや『天使の卵』以降、何一つ押井守監督の「言いたいこと」は変わっていないし本質の構造は、全く同じだと僕は思います。わざわざネタばれする必要もないので、何が同じかは、劇場で観てください(笑)。



キャラクターとしては一度もその姿を見せないにもかかわらず、影のように物語を支配する撃墜王ティーチャーは、キルドレではなく大人の男。

つまり、創造物であるキルドレが決して越えられない現実の壁だ。

水素とのつかの間の出会で愛を知り、生きる事の意味を見出した優一は、永遠の日常を外れて、あえて壁に挑む事で、世界を包み込む巨大なループに希望という名の小さな楔を打ち込んだのかもしれない。


ノラネコの呑んで観るシネマさんより

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-247.html


この文章を読んだだけで、大傑作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と同じ構造だとわかりますよね。押井守さんは、最初期から、村上春樹や村上龍と同じ、モノを見ていると思います。…年代的にも近いよね?。資本主義社会のフロントランナーとしての安全なブランケットでくるまれ、現実とのアクセスを失った都市文明の「現実の退屈さ」が、極まった先進国・日本に生きるもすべてに共通する、まるで夢を見ているような、生きている現実感の手ごたえのなさと、現実の境界があいまいなまま、すべてが進んでいく世界のありかたについての違和感を、告発することです。フィリップ・K・ディツクに連なるというのはそういう意味です。


うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

TOKUMA Anime Collection『天使のたまご』
TOKUMA Anime Collection『天使のたまご』

ただ、そう、、、、もう年齢的に50台を超える彼らには、そろそろ「告発するのにはもう飽きた」。では、この世界でどう生きるべきなのか?についてモデルを提供してくれ、という大きなテーマが降りかかるようになりました。


押井守さんや宮崎駿さんの制作のスタンスがどうあれ、どういう意志で映画製作にかかわるのであれ、この疑問を答える、、、なんというか、言い方が難しいのですが権利と義務があると思うのですよ。現代日本人の表現者としては。


そもそも、戦後の60年代以降の日本社会で表現の世界に身を置けば、究極の到達点は「そこ」ですから。フィリップ・K・ディツクは、絶望して自殺したのかもしれないですが、それでは、何の解決策にもならない。


なぜならば、われわれ人生は続いていくことはもうはっきりとしたから。


60年代や70年代にあった革命への志向、ニューエイジ的な渇望は、現実が超克していくような進化は起きないという80年代以降の「現実」によって、否定されました。もうわれわれには、革命やニューエイジの幻想に逃げることも許されないのです。宗教すらそうです。オウム真理教の存在によって、我々は、すべての逃げ道を封鎖されてしまいました。

アンダーグラウンド (講談社文庫)

もう、幻想を見ることも、われわれには許されない。その果てである2000年代に、僕らはいったい「どこへ行こうというのか?」「どこへ行くべきだというのか?」それに答えずして、表現する資格はないと僕は思うのです。



アンドロイドは電気羊の夢を見るか?―Do androids dream of electric sheep? (講談社ワールドブックス (7))


そういう意味では、さすがに、そつなく押井守監督は、時代の問題点をそつなくまとめている。これまでの全作品の中で圧倒的に、わかりやすい作品だ、と僕は思います。これ、宮崎駿へのある種の挑戦というかアンチテーゼですよね。


難解なものをエンターテイメント化しないで、快感原則に逃げることもせず、難解なまま非常に理解されることが少ないであろう層に向けて、それでも、それなりに売らせてしまう。しかも、たぶん、意味はわからなくとも、「感覚として」「感性として」こういう世界に生きることの難しさや違和感は、バシッと誰にでも伝わると思う。、、このテーマなんて、見る人お金を出す人なんて、人口の数%もいないんじゃないかと思う。マーケットサイズからいったら、数千から1万はいないかもしれないと思う。ある種の「文学」の傾向をもったものですから。にもかかわらず、これだけ大規模に売る。そして、アニメーションの職人としては、天才宮崎駿に勝てなかったはずなのに、最も宮崎駿の魅力の核心である空中を飛ぶ感覚で、真っ向ガチバトル!。そして、たぶん勝負としては、押井守さんの勝利ですよ、これ。


そういう意味では、天才にして巨人宮崎駿への挑戦がはっきりと感じてしまうなぁ。意識しているかどうかはともかく。少なくとも一観客の僕には、そう見えてします。


上記の、この作品の脚本としては、「そつなくまとめた」というのが僕の結論であって、押井守さんが、自分のテーマを大きく回答、発展したというわけではないので、やはり停滞と感じてしまう。だから、★5つの傑作としては認定できない。けれども、明らかに、挑戦が見て取れるこの作品に対しては、僕は、ポニョよりもはるかに高い志を感じるし、同時にその志がわかりやすい。宮崎駿のポニョは、挑戦なんだか、後退なんだか、もう混乱して意味不明だもの。まぁそこが宮崎駿らしい「凄み」でもあるのですがね。



というのが結論。






ちなみに、せっかくなので、映画の理解の補助線。


■人間社会のバランスを取る装置として戦争が必要ということの意味?

僕は、とりあえず小説も3冊分読んでみたが、この作品世界のSFとしての整合性には、かなり疑問がある。なんというか、森さんの小説にしても、押井守の映画にしても、「世界が壊れていること」の演出のために、無理やりこの世界の論理を作った、という後付けを感じる。彼らが書きたいのは、「壊れた世界の中にいる人間の主観がどういうものか?」であって、「壊れた世界の整合性」自体ではない。だからこれを、ハードSFとは呼べないし、下手をしたらSFともいえないかもしれない。むしろ、ライトノベルとでも言えるのかもしれない。

スカイ・クロラ (中公文庫)

ナ・バ・テア (中公文庫)

とはいえ、そう言ってしまっては、さびしいので、この戦争を合理的に組み込んで世界を家畜小屋のように管理してしまおうという善意なる設計主義者たちの全体主義的な欲望を、理解の補助線のために考えてみたいと思います。





<<p430あとがきから抜粋>>

人間が戦争ばかりやっているのは、べつにおかしいわけではなく、もともと外なるものを峻別し追跡し攻撃し殺戮し略奪する天性があるからでしょう。私たち動物が口を具えてこの方この方、ずっとそうやってきて、それじゃちょっと情けなくはないかと大脳が言い出したがわずかここ百年あまり。それまで5億5千万年ほど生きるために殺していた。そう簡単にやめられるもんじゃありません。


 知的生物を自認する以上は、本能の命令であるところの殺戮意欲を何とかして抑え込むのが向上というものだと思います。より巧みなのは、智恵を凝らしてこの猛獣に代わりの餌を与えてあげることでしょう。同時に、それなくしても生きていける方策を肉体にも提供する。菜食主義は工夫の一つですが、それでもまだ足りません。あれだって、命を殺していますし。

 SF的には、完全栄養薬品を作り出し、味覚と空腹感を欺く手段を完成することが、知的向上だと思います。

グロテスクだと思いますか?

一方でまったく逆のアプローチも考えられます。殺戮行動と生存手段が等しくなる社会を築いてしまうこと。すなわち猛獣に活躍の場を与えることです。


やってみました。この話で。


ハイウイング・ストロール (ソノラマ文庫)ハイウイング・ストロール (ソノラマ文庫)
小川 一水

朝日ソノラマ 2004-02
売り上げランキング : 111893

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


下記の記事の引用は、小川一水さんの上記の作品に対する僕の感想ですが、これが、よくよくこのSF的発想を説明していると思うので、そのまま全文掲載しています。ちなみに、世界がほろびたあとという舞台は、設計主義の欲望を、ものの見事にわかりやすく現出させるので、この系統のテーマの王道なのです。



<<世界が滅びたあとという設定>>


「世界が滅びた後」という設定には、

1)設計主義的な世界を一から設計仕様とする欲望


2)それに付随する、なぜ滅びたかという謎解きの部分


3)滅びさった後の世界での、濃い人間関係による共同性と絆の復活


<<世界を無から創造する手法>>

このようなサイエンティフィック・フィクションの系譜は、ヨーロッパの社会思想・哲学の発想を脈々と受け継いでいると感じます。というのは、この世界を無から設計しようとする欲望に出会うとき、一番思い出すのが、ホッブスのリヴァイアサンです。「万人の万人による闘争」という概念を聞いたことがありますでしょうか?。これは、国家主権の正当・正統性を主張した書物です。中身はともかくとして、ロールズの正義論やアダムスミスの国富論は、すべて非常に大きな仮説のもとに世界を再構成し直すという思考の手順を踏んでいる。

えっと、どういうことかというと、


現実を現実のままで理解するのは、あまりの情報量の多さで挫折してしまう。たとえば、ある森や海でもいいけど綺麗な風景があったとして、それを文章で100%再現しろといわれたら、不可能なのがわかると思う。

だから、たぶん世界はこういう原理で動いているよね?

という大きな仮説(=ウソ)をまず構築するのです。その仮説(=ウソ)に基づいて世界を記述してみて、論理的整合性を保てるかどうかを確認するという手法なんで、「膨大な情報量の世界」という対象を、「計量可能で理解しやすい構造に捨象」します。これはサイエンス(=科学)の手法とも同じですね。変数を固定するために、ある一定の条件が成立する限定状況(=実験室)を作成し、そこでの再現性を検証する。だから、ヨーロッパ社会思想・哲学には、「最初の大嘘をかま」します。しかしそれは単なるウソではなくて「大きな仮構の世界を構築する」という目的で成立しているのです。まずこの仕組みを理解しないと、ヨーロッパの社会思想史はまったく読めません。どうもヨーロッパの思想や哲学は、この手の「無から創造する」思考伝統があるようで、その最もポピュラーな伝統の継承者が、SF(サイエンティフィツクフィクション)なんだと僕は思うでのです。

さて、「世界を無から創造する」という言葉を聞くと、たぶん、ヨーロピアンファンタジーのトールーキン『指輪物語』や通なSF好きな人ならばル・グゥインの『闇の左手』とかを思い出すでしょう。SFには、「無から世界を創造する」という欲望の典型的な展開があります。ちなみに、こういった「無から世界を創造するという欲望」のファンタジーのエンターテイメント性をほんとよくわかっています。さすが、小川一水さん。


えっと、社会を合理的に運営できるように設計して改良していこうと志向する「考え方」を突き詰めていくと、人間の殺戮本能を、どうやってうまく馴致しようか?って考え始めるんですね。これには、さまざまなSFが、気合いを入れて可能性を突き詰めています。一番よくあるのが、遺伝子改造や、テストチューブによる洗脳によって、そもそも殺戮意識のない去勢された「人間」を作ってしまえばいいじゃないか。100年もすれば、全部入れ替わるぜ!みたいなやつです。


ちなみに、これは僕の愛する栗本薫さんのSF小説『レダ』とか竹宮恵子さんの少女マンガ『地球へ』とかが物凄くわかりやすくこの系譜の作品になっているんで、見ると面白いですよ。映画では『ペイチェック』『アイランド』『マイノリティーレポート』とか、ってこれはフィリップ・K・ディツク原作ですね。テリーギリアムの『12モンキーズ』『未来世紀ブラジル』それに、マイケル・ウィンターボトム監督の『CODE64』とか、、、あっと最高の傑作は、鬼才アンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』ですね。



ガタカ

マイノリティ・リポート 特別編

12モンキーズ


ただし、こういったマクロの世界自体を合理的に描写しようとするのは、1930〜50年代までのSFが多く、それ以降は、そういったマクロの世界の構造は所与のものとして(=つまりはみんな肌でその感覚がわかるようになってきているので説明が不要)、ミクロの個人の主観はどうなっているのか?って事を書き始めるんですね。





■なんとなく参考記事


『ハイウイング・ストロール』小川一水著

http://ameblo.jp/petronius/entry-10004175583.html

『西の善き魔女此^任虜玄蝓拉觚教子著/世界を疑う感覚

http://ameblo.jp/petronius/entry-10006712520.html

『西の善き魔女此^任虜玄蝓拉觚教子著/世界を疑う感覚

http://ameblo.jp/petronius/entry-10006718232.html