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2014-05-19

『山賊ダイアリー』 岡本健太郎著  重要なのは再生産可能な資源をベースに構築される手応えの連鎖(=共同体)の再構築とグローバル経済からの独立だ

山賊ダイアリー(4) (イブニングKC)

ストックで生きていく世界とはどんなところなのだろうか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140425/p1

ストックで生きていく世界とはどんなところなのだろうか?2〜ストックはどこから来たの?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140429/p1


話的には、この記事の続き的なものなので、読んでいない人は読み返してみてください。



狩猟ライフ。好きで見ている。


この作品の面白さは面白いのですが、それ以上に、僕の中では、ストックで生きていく衰退する経済環境の中で、どう生きていくのか?。その場合には、ヤンキー化する経済や、里山資本主義、絆を重要視してマクロを無視するクローズドな共同体志向、などなど大きなトレンドがあるのですが、そのトレンドの中の一つとして、


狩猟


があると僕は睨んでいます。


単純に言って、要はフローで稼げないで、再生産されるものって日本ではなんだろう?ってことなんですよ。


重農主義者(フィジオクラット)ではないのですが、太陽の恵みとかで元手なしで再生産されるものって、例えば里山資本主義では、いろいろな自然の恵み(管理された里山ではそれが可能)なのですが、究極は、林業です。林業を国際経済のグローバルな競争力に結びつけるとの同時に、グローバル化した経済から独立した形での循環を作りだして、小型のブロック経済を作ってグローバル経済の変動に左右されにくい構造を作ろうということです。ようは、安全保障とサステイナビリティ(あれ、表記これでいいんだっけ?)のことなんですよね。安全保障と持続可能性ってのは、究極はブロック経済をいっているんですよ。ようは、他者に支配されない自己完結型の生態系を作れるかどうか?という話題なのです。もっと極端に言うと、ズバリ、鎖国したいかどうか?ということを問うているわけです。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

この時、キーになるのは、その土地や空間が持っているオリジナリティや独自性、、、特に再循環のサイクルが回る「何か」があるかないかだと思うんですよ。もちろん、原始時代じゃないので、グローバル経済や近代のシステムとリンクして、テクノロジーと目的合理性によって科学的管理されるのは当然です。自然に戻れなんていう原始共産主義は、子供の戯言です。文明を無に帰してどうする!と思います。その話は、『自殺島』や『ファイトクラブ』などでたくさん話しましたね。このあたりの「接続性」とか、どれくらいのレベルをどのようなレイヤーで自己完結型+独立型にするか?が今後問われることになるんだろうと思っています。とはいえ、極端ケースは、みんな考えるので、今後も、こういうゼロに帰せ!!というメッセージと指向性は、かなりのインパクトを持ち続けると僕は思っています。


『自殺島』 森恒二著 生きることをモチヴェーションに

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110407/p2

『たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く』 石村博子著 

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120726/p2

『自殺島』 森恒二著 バトルロワイヤルの果てには、新たな秩序が待っているだけ〜その先は?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7


まぁ、自然に帰れというのは、一つの正しいメッセージだとして、、、、というのは、どうも文明が成熟すると、「ここ」に人は戻りたがるんですね。成長と成熟の極と極みたいなもので、どっちも、人間が幸せに生きるためには必要な場所なんですよ。けど、自然自体は、もう科学で管理されなければ維持できませんし(逆を言えば科学の力で維持できる!!!)、かりに原始の自然に戻しても、原始の自然は人間にはすごく優しくないひどいものです。人間に都合のいい循環を作りだしてこそ、人類の叡智だと思います。だって、人間も生態系の一部なんですから。人間の脳(=科学と計画)だって、生態系の一部なんですよ!。このへんが、原理主義的ナチュラリストには、わかっていないと思います。


あと、これだけのグローバリズムの経済が世界を覆っている現代では、完全な独立というのはもう不可能だと思います。究極、北朝鮮などのような独立した中世を営もうとする(苦笑)鎖国国家は、100年単位でなくなっていくと思います。僕は、EUのなかの小国やアメリカの中でのインディアンリザヴェーションやアーミッシュ共同体のような、グローバル経済が生み出す余裕のの中で、文化防衛的な視点で、ある種のクローズド共同体システム(鎖国ですね)が、並立するというシステム設計がなされるはずだと思います。そのときに重要なのは、へ金化されて標準化されて記号化されて捨象化されるグローバリズムのなかで、「それでも残すべき価値があるものはなのか?」という問いが来ると思うんですよ。フランスの文化防衛論は、人間や人種ですらなく、それはフランス語だ!!!という結論を出しているように見えます。僕もこれは、とてもアグリー。賛成です。守るべき価値があるものは、僕は「人間なるもの」で特に「非合理なもの」だと思うのです。その際でシンボライズすべきは、言葉の障壁です。言葉がブロック化していると、それだけで鎖国しているようなものです。物凄く非合理的で、、、、単純な経済合理性ではこれが競争力を失わせる要因になりますが、長期的な人の幸せと誇りという意味では逆にこれこそが勝つことの条件となります!。


そん時に、なるべくグローバル経済に抗しながら、かつリンクしながら、それでも鎖国的なクローズな文化防衛をしようとすると、まず基盤的に再循環できるモノが基盤いないと、どうにもなりません。それが何かってこと僕は時々考えてしまったりしています。まぁ、僕の仕事とは何の関係もないですが(苦笑)。あっちなみに、たいていの場合、再循環できる(=再生産できる)ものは、自然なのですが、、、別のものでは、大きなものとして、記憶(=歴史)というのもあります。いま、日本では、艦隊これくしょんが流行っているようですが(笑)、これって、大日本帝国の歴史の記憶があってこそ、成り立つものです。なので、地場の歴史というのは、凄い、、、物凄い資源なのです。これこそオリジナリティにして民族幻想のコアになるもの、、、柳田国男の凄さが、本当にわかります。

1/700 艦隊これくしょんNo.10 艦娘 航空母艦 加賀

僕は、ソフトパワーが世界の文化による制圧を可能にする(笑)、リトル秋葉原を世界中につくって、エンターテイメントで世界を制圧しよう(笑)というヲタクのビジョンが大好きなのですが、、、、


たとえば、韓国が、いま凄いな、熱いなって思うのは、韓国ドラマの面白さと凄さですよね。基本構造は、ソープドラマだと思うのですがどれも、、、あれって、アジアのラテン民族といわれるように、めっちゃめちゃ情動濃い伝統があるからこそあれだけ大量にすさまじく(笑)作れるんだろうと思います。その反動で『殺人の追憶』や『ペパーミントキャンディー』のような、物凄い映画もできちゃうわけですし。けど、何でああいう量産が可能かといえば、歴史モノを見るとわかるんですが、歴史がものすごく濃いからですね。モチーフが物語の原型がたくさんある。『トンイ』から『イサン』のつながりとか見ると、感無量で、胸がぐっときますよ。朝鮮王朝500年の歴史とか胸アツです。歴史がある国は、強いのです。

トンイ DVD-BOX I

えっと、この議論って、フランスの文化防衛論、イタリアのスローフード運動とか日本のアジア主義の伝統なんかと同じコアを持っている議論じゃないのかなー?っててきとーに思うんですよ?。というのは、ようはね、、、、近代社会の基本って、合理主義なんですよね。合理、、、、って、ようは、ロジックなんだと思うのですが、だれが考えても同じ結論になること、だと思うんです。ということは、えっと少し議論が飛ぶんですが、人間っていらなくなるんですよね!、ってことがわかると思います。基本的に、大きく言えば人類社会の文明というマクロシステム、小さく言えば、コンピューターの人工知能が進化すれば、人間は必要なくなります。というか、誰もが代替可能な、換えの効く存在になります。これを、公平(=フェア)ということの結論なんです。リベラリズムの究極に要請する最終地点はここです。入れ替え可能性完全にする。あなたと私が入れ替わっても不公平だと思うわない。これがリベラリズムの最終地点です。・・・・ということは、それは、僕は「人間なるもの」ではないと思うんですよ。じゃあ、「人間なるもの」の最後の砦はどこか?って問えば、非合理、非論理なところになる、、、いいかえれば、いまリベラリズムや近代化の過程でそぎ落とそうとしているもの「そのもの」こそ、人間あるもの最後の砦になる、、、という発想です。フランスの文化防衛論、イタリアのスローフード運動とか日本のアジア主義の伝統なんかは、これを文化の次元で、そのオリジナル性がどこにあるのか?を考えたもんじゃないの?って僕には思えます(ほんとかどうか知りません)。ようは、非合理、非論理、非近代的なところにこそ、その分かの本義が宿るという風に考えるわけです。そして、「そこ」を防衛するぞ!!!!と、気合を入れるのが、これらの戦略になります。ちなみに、合理主義、近代主義の権化たるアメリカのグローバリズムは、この逆をいきます(笑)。


ちゅーことで、では、文化の本義を防衛するにはどうすればいいのか?という質問になります。


これへの答えは、出ています。それは、ブロック経済を形成して、障壁を設けて、グローバル経済にリンクできないようにすることです(と、僕が思うだけですが(笑))。逆に言うと、資本の運動は、これを解体しようとします。資本主義の運動とナショナリズムの戦いのダイナミズムというのは、この原理だと僕は思います。日本の満州国建国とかも、東アジアにブロック経済を作ろうとしていて、そこで自給自足できる生態系を構想しようとしているのですが、これは、構想力のある集団であれば、最終的には必ず出てくる議論なはずです。まぁ、それを現実に移すような民族とかになると、すさまじいパワーがないとできないですけれどもね。ちなみに、これがうまくいったケースは、そもそも一国で生態系を獲得できたアメリカ(北米大陸)です。もう一つは、EUですね。ヨーロッパ連合。もともと中国はこの傾向があります。中国は、基本的に外に対して進出する気力の弱い平和的な文明なのは、歴史をすべて見ていけばわかります。それは、生態系として一つの文明で完結してしまいやすいからです。まぁ、周辺国との規模の違いが大きすぎて、じわっと染み出るだけで周辺国には、大変な侵略行為うになるんですが、、、、まぁ、ベトナムとか日本とか、それでも生き残っている周辺の国は、マジで強い国なので、簡単にはなくなりません。



とはいえ、、、、資本の論理、、、資本主義の展開の究極としてのグローバリズムは、世界中の資本の運動を透明にかつ凄まじい速さにしていきます。そうするのが、資本の存在の本義なんですよね。なので、それとの、、、先ほどの話に戻りますが「接続性」というか「どのように並列にそれが存在できるか?」というのが個別具体な戦術論になると思うんですよねー。



なので、再生産しやすいものを強く持つ国は強いです。だから、歴史が古い国は、とても強いのです。なぜならば利用可能な資源がめちゃくちゃ豊富だということだから。


日本は、そういう意味でっちゃめっちゃ凄い国です。


だって、全世界で皇帝が生き残って国なんて(苦笑)日本ぐらいでしょう。アジアの国にもかかわらず、ヨーロッパの近代勃興期に帝国を形成しようとした歴史もあるし、過去の歴史もめっちゃくちゃ古いし、近代、現代、中世、古代、神話と物語にあふれまくっている(笑)。しかも、自然も豊かなので、物理的にも再生産可能な資源が、溢れている。そのくせ、自然だけではなく工業や文化も優れている上に、、、ソフトパワーもめちゃめちゃすごい。


・・・・やっぱ日本すげぇぜ(笑)。超しあわせな国です。未来が輝いているようにしか思えません(笑)。





閑話休題



えっと話がそれました、、、、というので、狩猟って話ですね。


狩猟は、いまいったように再生産が可能なんです。


なので、これをやっていきながら自給自足はなくとも、自然に帰れ的な生活を満喫しつつ絆の確かめ合いや、自然と触れることを喜ぶようなライフスタイルは、大きなトレンドとなる気がするのです。あくまで、選択肢の一つとしてですよ?。







って、岡本さんの『山賊ダイアリー』のはなしじゃないですね(笑)。



とはいえ、作者の生活まんまですがね。



これを見ていると、イノシシ食べてみたくなりますね。



あと、いいなって思うのは、当然なのですが、一人で黙々と行動していることが多いですよね。ある意味孤独なんはずなんですが、目的があって動いていると、全然孤独には見えない。たぶん本人も全く孤独を感じないんじゃないかなぁ。


こういう目的があって、自然の中を歩くって、、、なんだか、とっても充実しているような気がしますよね。冷蔵庫がいっぱいになって、それをどんな順番で、どう料理して食べようかと悩むのなんかは、とっても贅沢な感じがします。





まったく方向性も違うし関連しないのだろうと思うけれども、佐々木俊尚さんのエッセイ『簡単、なのに美味い!家めしこそ、最高のごちそうである。』を思い出しました。なんというか、要は自分で作ったりするプロセスを再現するのって、面白いんだろうと思うよねー。もちろんなんでもプロレベルまで究極にやらなくても、リラックスしてやれるレベルでなんちゃってでやればいいんだろうと思う。狩猟とかイノシシの解体とかに魅力を感じる部分も、似ていて、食べ物ってどこから来るんだろう?とか、実際どういう味付けを具体的にしているのか?とか、そういうベースの部分が体感できるからなんだろうともう。


僕もやってみたいなーーと、ずっと思っている。狩猟は、夢の一つですね。


簡単、なのに美味い!家めしこそ、最高のごちそうである。

2012-09-16

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2012に行ってきました。

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ずっとずっと行きたかった越後妻有トリエンナーレ2012。いってきました。聖地巡礼というわけじゃないけど、友達と、いきなり思い付きみたいな珍道中で、とてもたのしかった。イメージは、ゆうきまさみさんの『究極超人あーる』の撮影旅行のノリ。こういう友人と、どこかへ遊びに行くって、、、、そういえば、ついぞ最近したことがなかったと思いました。やはり、結婚して、子供ができると、家族や奥さん以外とどっかに遊びに行くってのは、まず皆無になりますからねー。家族では、ものすごく行くんだけど。。。。30代(既婚者子持ち)ってのは友達のメンテナンスが弱くなるようなぁ、、、と実感します。この前の東富士の陸上総合火力演習もそうだけど、うーん、凄い質のいい小旅行でした。こういうの行ける友人がいるというのもいいし、いやーほんと、最近僕は幸せです。気のおけない友人がいる、好きなことがあるって、こんなに癒されて楽しいものなんだ!って思います。

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美術手帖 2012年7月号増刊 特集 大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2012 公式ガイドブック アートをめぐる旅ガイド

いま『ワークシフト』を読んでいる中で「自己再生のコミュニティ」という概念があったんだけど、なるほど、と思う。現代社会は、現代のテクノロジーは、基本的には人を孤独に追い落としていくものなんだけれでも、意識して、「自己再生のコミュニティ」を作れば、というifが語られるんだけれども、まさにその通りだと思う。逆にテクノロジーが、それを支え守る武器になる。僕は、こんな友人は、ブログがなければ、出会うことはなかった、と思います。まっ、ブログがあっても、リアルで関係を築き、メンテナンス「し続ける」意志と努力がなければ、無理だけどね。流動性は余計高まるから、基本的には孤独になるし、著者のリンダ・グラットンさんが書いているように、ナルシシズム(=自分中心でエゴを通し続ける)が高まるのがこれからの社会なので、そこではコミュニティや協力し合うということへと反対の潮流が流れていくだろう。まぁ、そういう人は孤独になるだけだけどね。僕は、そうなりたくないもん。努力しよう(笑)。ちなみに「自己再生のコミュニティ(=ようは気のおけない友達と過ごすこと)」ってのは、空間と時間(&文脈=コンテキスト)を濃く共有した経験によってしか形作ることができない、というのが僕の持論です。これ、凄く重要な気づきでした。共同体の定義って「時間と空間に拘束されること」なんですよね。だからネットの体験は、肉体が空間を共有していないので、僕はある程度限定的にならざるを得ないと思っています。これ、ヴァーチャル空間が拡大していく今後50年では、物凄い重要な差異ポイントとなると僕は見ています。この前亡くなったアメリカの外交官も、最後の遺言というかセリフが有名なバーチャルオンラインゲームの仲間に行ってセリフだったじゃん、、、あれとかすげぇなーと思うのですが、これからコミュニティや友人がああいう形で形成されるリアルSAOの世界が確実に訪れます。そういうときに、自分の自己を安定化させるコミュニティをどのように階層づけて形成するかは、凄く人生を幸せに生きるコツと直結すると僕は思います。そして、それは、昔のように「自然に」ということはあり得ない。それは、僕らの住む世界が、再帰的な世界だから。・・・ってなんか難しくなった。

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉
ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ちなみに、ほんとぉぉぉぉぉぉーーーーに長く僕のブログを細かく読んでくれている人や、僕と直接たくさん話したことがある人は、この「空間と記憶のコントロール」というタグというかテーマで、僕はずっとものを考えているものがあって、故・荒川修作さんの養老天命反転地から、ランドアートに凄く興味を持っています。モダンアートが、環境芸術といわれるこっちの方向へ流れて分岐していく様は非常に興味深いポイントだと僕は考えています。そうなんですよ!実は、なんちゃって建築好きなんですよ、僕は。

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http://www.yoro-park.com/j/rev/index_a.html

養老天命反転地―荒川修作+マドリン・ギンズ 建築的実験
養老天命反転地―荒川修作+マドリン・ギンズ 建築的実験


同時に、これからの未来の日本と世界を考えていくときに「地域コミュニティの再生」や「ナルシシズムに沈む個人の実存の回復」などの視点からも、こういう「町おこし」・・・というと、概念が狭まってしまいますが、非常に重要なことだと思っているのですです。わかるでしょう?。地方は全世界的に沈みます。間違いなくメガシティの周辺部にできるスラムよりもさらに沈むはず。そうなっていく文脈で、地域の活性化、そこにおける共同体的な絆の回復は、重要な今後の人類の戦略的課題なはずです。まぁ、こういうトリエンナーレ的なものが根付くかどうか、それもまだ僕にはわかりません。あくまで選択肢の一つにすぎないと思っている。箱モノ的な感じもぷんぷんにおいますし。本当に地域の共同体の形成に役に立つかといえば???だろうしねぇ。とはいえ、体験しないことには、評価や可能性はわかりません、ということで行くことに異議ありでした。


特に、ちきりんさんのブログで言われているような『日本というブランド』ってなんなんだろう?、これからの日本は50年単位で何が最も目指すべきポイントなんだろう(現実的にね、今ある手持ちのアセットを使って)って考えると、瀬戸内の芸術祭もそうだけど、これらのイベントは、僕は非常にヒントになるものだって思っているのです。日本って、なんといっても、土地が美しい。季節も四季がはっきりしているなど、そもそもがヘリテージみたいなもん。。。。そういうの利用するこう行くのもので、、、というと、こういうのは世界的な潮流でもあるしね。

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http://setouchi-artfest.jp/

って、一緒に行った人、全然そんなこと言ってなかった!とか、モズ男とか叫んでいただけだった、とかいわないでねっ。てへっ(笑)。モズ男ネタは、いやぁーーなにがそんなに面白いんだっ?って言うぐらい、うけましたねぇーみんな(笑)。運転やばかったですよ、僕は(苦笑)。腹よじれそうで。特に「いまを楽しめ」のアートは、最高でした。

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これ田村由美さんの『7SEEDS』に出てくるのあのカマキリの化け物にめっちゃ似てねぇ???すげぇ怖かったよ。

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大地の芸術祭

2012-01-18

コロニアル・ウィリアムズバーグ (Colonial Williamsburg)に行ってきた!

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大学時代からの念願だったコロニアルウィリアムズバーグに行って来た。くわしくは、ここのサイトをもてくれればいい。

ウィリアムズバーグのサイト

http://www.history.org/

僕がここに執心した理由は、なんちゃってアメリカ・ウッオチャーとしては、アメリカの空間管理手法の変遷を知りたいと思っているからです。

サイトを見てみればわかるとおり、独立以前のアメリカの首都、大英帝国の辺境植民地のバージニア州の一都市を、18世紀のそのままに再現し、それだけでなく、そこに住む人々の日常も、テーマパークのイベントとして毎日再現しているという凝りようです。

どうかんがえても、アメリカのある種特殊な性癖を凝縮したようなオリジナルのものに見えませんか?。実際に、どのように運営されているか、ずっと見てもたかったんです。

また大学時代に授業で読み込んだ「ミニットマンの世界」という北部のコンコードの街の歴史書や独立革命のエピソードから、いわゆる歴史好きが遺跡名所を巡るみたいなもので、実際い、その時の建物は、食べ物は、気候は、服装は、そういう具体的なものが、ものが見て見たかったんです。ワシントンのエピソードなどは、アメリカの神話でありポピュラーな物語なので、これがわかると、いっきに世界が広がります。物語好きとしては、このへんの、より深く物語を楽しむために、教養を深めより多く広く現実を体感してフィードバックさせる、という修行?(笑)は、スパイラルのプラス効果があるのでやめられません。現実と文字情報の交互のフィードバックは、時間と空間を超え、より深い認識をもたらすと思いますよ。まぁ当たり前のことですが。意識するとしないとでは、大きく違う。


ミニットマンの世界―アメリカ独立革命民衆史 (1980年) (北大選書〈6〉)
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Washington: A Life
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せっかくなので、見るべき文脈を二つ紹介しておきます。

1)アメリカの空間管理手法の伝統

アメリカには、空間を管理して作り込んでしまうという伝統があります。色濃く出ている例は、なんといっても国立公園や公園の設計、建設、維持、管理です。世界で最も、国立公園制度が、発達している国なのです、アメリカは。シエラクラブなどの例もいいのですが、なんといっても、一番わかりやすいのは、ニューヨークのセントラルパークでしょう。あんな都心のど真ん中に、200年以上も前の自然が、そのままの形で残されています。けどね、これって、考えて見ると物凄くおかしなことなんです。だって、その周りが大都市になっても、そのままの自然の形をずっと残し続けるというのは、ある空間を切り取って、その周りの環境がどれだけ変化しても、同じ状態に「管理維持し続ける」という偏執狂的な意識がないとできないことだからです。

よくいわれるのは、イギリスやフランスの庭園設計の伝統を引き継いでいる、と言われます。イギリスの田舎の貴族の屋敷や公開されている公園などに行ったことがある人は、その徹底した人工的な造り込みに驚嘆すると思います。いい例が、メイズ(迷路)ですね。生垣で空間を囲って、その中に入り込んだ人間の行動を、誘導、管理するという意識の表れです。アメリカでも、トウモロコシ畑にいくと、よくコーンメイズがありますよね。あの伝統です。日本の庭園の伝統の夜に、あるものを生かしながら「見たて」をするのとまったく異なる文化です。このウィリアムズバーグの総督官邸の裏の庭も、感動するくらいのイギリス式庭園で、お決まりのようにメイズもありました。ちなみい、ガバナーパレスを説明してくれた解説員の人は、ここのメイドになりきったたぶん大学生ぐらいの女性で、テンション高くてノリノリで、おお、まさに当時のメイドだ!、って感じで、

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ちなみに、この空間を設計し、管理し、作り込み、そしてそこの中に入った人間の経験や視点を誘導、管理するというノウハウが、アメリカでは、テーマパークの運営、特に、ディズニーランドに結実して行くことになった、と僕は仮説を立てています。

ディズニーランドという聖地 (岩波新書)
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2)アメリカとは何か?ーアメリカ人とは誰のことか?


もう一つの視点は、アメリカは、非常にミクロまで詳細に調べ抜いた歴史というよりも生活様式そのものを再現するのは情熱に溢れています。


これは、アメリカ歴史博物館のところでも書いたのですが、アメリカについて勉強する時の、最初の「見方」というか「視点」の一つに、「アメリカ人とは誰のことをいうのか?」というものがあります。これは、アメリカ社会でよく問われる強い衝動のことで、社会的にもそうですが、そもそも、そこにいる個人が強くこれに、必ず悩むようになっています。考えれば、単純ですよね?。アメリカには、日系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、アフリカンアメリカンなんでもいいのでしが、絶対頭に〜系という風に、つきます。簡単な話、移民によって形成されている人工的な国家だからです。ここで、ネイティヴアメリカンの話は、持ち出さないでください。話がややこしくなるので。話し本質は、これによって変化しないしね。さて移民国家であるので、自分が、何者であるか?というのが、三代もすぎると、わけがからなくなってくるんですよ。実際、タイガーウッズとかフセイン・オバマ大統領なんかは、典型的で、もう世界中の人種が混ざりすぎて、俺って何者?って感じになるんですよ。タイガーウッズなんか、タイ、オランダ、アフリカとかもう全人種混ざっています。彼は自分を、カブリネイィジアンとか呼んでいましたね。なので、どうしても、意識的に、自覚的に、自分のルーツはなんなのか、ということを意識して調べて、自己確立しないと、自分が何者であるか、わけがからなくなるんですよ。コミュニティの所属と自己確立(アイデンティティ)は、そもそも、自分が、何ものかと、自分で定義しないといけないですが、それが、非常にわかりにくいのですよ。

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僕は、こうした動機が、どうも、自己のルーツの確認という意識に収斂して、アメリカ社会の極端な、過去の生活様式やルーツの再確認、再現志向を生み出しているのではないかと仮説を立てています。

また、アメリカは、メモリアルを作るのが大好きな国民で、ワシントンDCでも思いましたが、ワシントンメモリアル、リンカーンメモリアルとか、ほんとうにこつこつあった出来事をメモリアルとして形に残そうとします。死を美化しやすい国民性でもあると思うんですが、あかなり度が超えていると思い、すごい偏執狂的です。もちろん、国民国家形成の常套手段でもあるので、ここは、必ずしもアメリカ特有とは思えませんがね。ちなみに、ロサンゼルスのリトルトウキョウは、エリソン・オニズカストリートというのがあって、オニズカ大佐の像が置いてあります。オニズカ大佐は、チャレンジャーの事故でなくなったアメリカの宇宙飛行士ですね。


鎮魂と祝祭のアメリカ―歴史の記憶と愛国主義
鎮魂と祝祭のアメリカ―歴史の記憶と愛国主義


さてさて、こういう文脈から、僕は、ウィリアムズバーグという歴史保存のテーマパークをぜひ一度は見て見たいという風に思っていました。

で、結果の感想ですが、いやー超面白かったですよ。もう一日ぐらい泊まってゆっくりしたかったぐらいです。

まずはキャピトル、議事堂から見たんですが、意外に小さいと思ったのですが、中は重厚でした。二回火事で消失しているんですが、1930年に初期の建築で立て直したものが、現在のものだそうです。入り口にいくと、ツアーガイドさんが、もちろん当時のままの服装で待っていて、この建物の説明ツアーを当時の人になりきった感じで説明してくれます。たぶんボランティアに近いものらしいので、以下にも好きでたまらないぜ歴史!みたいなノリで、非常にいい。ディズニーランドやユニバーサルスタジオのツアーに参加するイメージを思い浮かべてくれればいいです。

時間によっては右側の市民議会で、独立革命時代の議論を再現しています。ここでは、アメリカ独立宣言に先駆けて、ヴァージニアの大英帝国から独立が宣言されています。事実上アメリカで最も裕福で指導的な立場にあった、ここヴァージニア議会が、アメリカ独立を先導したんですね。ちなみに、アメリカの国軍は、ほぼここのヴァージニアのミリシアなどを中核とした軍隊が、そのままなりました。ちなみに、ワシントンは、ヴァージニアの軍人でした。僕の時のツアーガイドさんは、議事堂で独立宣言を書くに当たって、私有財産の絶対と、人が平等であるという部分で、黒人は、財産なのか?それとも人なのか?と論争が起きたことを、当時のマジソンらが、これこれこういうことをいった、という風に再現しながら、説明してくれました。超面白い。ちなみに、子供には不人気で、そりゃーすげぇむずかしいはなしですが、僕には、この話が一番理解しやすかった。そもそも知っているエピソードばかりなので。

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ちなみに、総督(ガバナー)の席があって、その周りに議員たちの席があるのですが、この規模と部屋の機能とか、ガイドさんが再現してくれる当時の会話聞いていると、なるほどなるほど、ああ、この大帝国の辺境の植民地は、はっきりいって広大な自治権があったんだな、というのがよくわかりました。ようは、あまりにイギリスから遠すぎて、管理し切れていなかったんだろうと思います。だから、地元の人々が、自己でいろいろなものを整備して、管理、維持しているってのが、よくよくわかりました。はっきりいって、数千人ぐらいの小さな街ですし、官僚機構も軍隊さえも!ないんだから、地元の自治以外で来ようはずもない。いや、見て見ると一発ですよ。ああ、こりゃー課税なんかしたら、ぶちぎれて、独立だぁ!と叫ぶのわかるわ、、、って。ちなみに、議事堂の壁には、当時のイギリスのキングジョージと奥さんが飾られており、至る所に英国国旗で、おお、植民地なんだなーと感心しました。ここが、大英帝国の辺境都市であるのが、よくわかりました。

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それぞれの建物には、当時の服をきた解説員がいて、当時そこの建物でどんな生活をしていたかなどを解説してくれる。うーん、しびれるくらいミクロ。これ、小説とか歴史を書く人には、凄い想像力のアシストをしてくれると思う。建物も道具も服装も、当時そのままに再現するかオリジナルが残っているのだから。

特に、僕が興味深かったのは、武器庫。18世紀のイギリス軍やミリシア、ヴァージニア州軍の武装がどういう状態だったのか、どんな武器を使っていたのかがわかる。基本的に、大英帝国の軍隊は、ほとんど駐在しておらず、常備軍は存在しない状態。では、どうやって現地の治安維持やインディアンや他のライバル帝国であるスペインやフランス帝国との戦いをしていたかというと、ミリシアという義勇兵と言うか地元の、おっさんたちが、年に何回か訓練をして、自分で武器を保管して、なにかあれば馳せ参じるという仕組みになっていたらしい。ようは、国民皆兵に近い状態で、源頼朝の下での鎌倉幕府の御恩と奉公みたいなものだと思えばいい。でも、逆に言うと、治安維持や対外戦争も、アメリカ側から言うと、自己防衛しているわけだから、イギリスに文句言われる筋合いがないと思うのは、よくわかる。逆に言うと、遊軍的な少数の軍隊で、大英帝国という大きな領土を効率よく支配している仕組みだったんだろう。これで、キングジョージが、極端な課税をかけなければ、うまくまわっていたのかもしれない。ボストンティーパーティの代表なければ課税なし、というのは、こういったマクロ構造があって、イギリス軍の規模や海外派遣能力では、北米植民地を抑えきれないだろうという目算があったのだろう。また民衆も、自治をして、自己防衛をしているんだから、そこはほぼ独立国家に近いわけで、言われのない中央集権権力にいらっとくるのは、よく理解できる。アメリカを学ぶ時に、非常に重要な理解のポイントは、この国が、一見、フェデラリストの伝統と強い大統領権限によって、中央集権的な構造に見えてしまいやすいが、まったくそうではないということ。学問の世界では、分権的と呼ばれるのですが、ようは、自分たちのことは自分たちで決めて自分たちは自分たちで守る、ということです。前にもいいましたが、ギリシア的な常識として、コミュニティーを守ること、戦争に参加することが、市民の定義であり義務なんですが、それをやっているのに、国政への参加資格がないというのは、アングロサクソンの伝統でもギリシアローマン文明の伝統でも、どちらにせよ、ありえないんですよ。より北部のピルグリムファーザーは、もちろん神聖政治ですから、つまりは新興宗教団体が国を脱出して自分たちのコミュニティーを作り上げたわけですから世俗の権力を嫌いますし、ヴァージニアのように最も規模が大きく富める植民地が自立的な伝統があるとすると、基本的に大陸的な土地の広大さを反映して自分たちのことは自分たちで決めるというか、もっといってしまえ、もう好き勝手に生きる、という伝統があるのですね。コミュニティーごとに。

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学問の世界では、常識なのですが、日本社会は、徳川幕府時代から大日本帝国時代も含めて、400ー500年近く強烈な中央集権国家であって、この「分権的である」ということが、マクロ的に概念的に理解しにくいのです。この概念を実感して理解するというのは、タウンミーティングなどの民会やグラスルーツの政治的影響の伝統がない僕ら日本人にはものすごく難しい。

これは、アメリカを理解する時のキーポイントの一つなので、よく覚えておくと実践的だと思いますよ。

集権論の伝統は、これがわからないと、さっぱり意味不明ですから。この概念に不案内であれば、たくさんのアメリカの映画や小説、政治的な動向が、意味不明になってしまいます。それを、連邦政府的な中央集権の仕組みだけで理解すると、とても理解が歪みます。

ちなみに、日本の戦国時代は、近現代からすると理解できないくらい分権的なので、この概念が理解できれば、同時に分権的なものがどういうものなのか、が逆輸入的に理解することができる、とも考えています。とはいえ、さらっと表でみるとわからないものは、構造的に分解して分析的に理解しないと、他の文化圏、他の構造の中にいる人間には、まったく理解できないものです。その理解の難しさを意識しておくと、またその体感的に難しいことの理解の努力をしていると、見えないものが見えるようにり、世界の複雑さの多様性の面白さがわかるようになります。マクロ的な概念や抽象的な概念は、「わかった」と思えるのが非常に難しいのです。世界を体感するのは、難しいという、ある種の謙虚さがない人間は、いつまでも狭いパースペクティブの中で生きて行くことになってしまいます。さてさて、武器庫の話に戻ります。ここで、当時の主要な武器であったマスケット銃を見れました。おお、まおゆうだ!とか、「ラストサムライ」の時代とか、西部劇の時代は、これだったんだーとしきりに感心。ちなみに、当時の命中率は、ぜんぜんダメで、戦術としては、400ー500人が並ばないと、意味をなさないもので、そういう意味では、シビルウォー(南北戦争)の時には、命中率が80-90%となり死者の数が跳ね上がったと行っていました。そういう意味では、まだまだ、ミリシアなどの当時の地元の自警団レベルの治安組織や軍隊と、大英帝国が遊軍的に派遣している舞台との、練度の差が、それほど大きくならないという意味でもあったんだな、と理解できました。特に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代以降から明治維新付近まで、日本の軍事テクノロジーや戦術理論の発展は、全て止まってしまうので、この辺りの17-18世紀の軍事力の行使というもの、武器のレベル、被害の大きさなどが、どういったものなのか?というのが、穴になっていたので、これを見れたのは、非常に興味深かった。物語的にも面白いし、ワシントンの逸話から独立革命、南北戦争までの歴史は、自分でもアメリカウッチャーとしてそれなりに全体像の知識もあることから、とっかかりがあるので、頑張って勉強してみるかな、と思う今日このごろ。老後の歴史遺跡巡り旅のねた仕込みとして(笑)。それに、物語好きとしても、この辺の歴史は、日本人には不案内ということもあり、ここを理解できると、アメリカの物語や文化の理解が段違いになるし、非常に秀逸なアンテナになると思うんですよ。一般的な日本人が知らないというのは。




・・・・・それにしても、生きててよかったーと思います。こんなところに旅できるんだもん。知識を持って、こういう異郷に行くと、まるでファンタジーの異世界に転生したような、不思議なドキドキがあります。旅って素晴らしいですね。

2011-12-06

スミソニアン博物館/航空宇宙博物館  ワシントンDC 写真2

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スミソニアン・インスティチュートの航空宇宙博物館にいってきました。ここの凄さは、アメリカにおける航空産業の歴史が、そのまま世界の航空産業の歴史そのものだというのをわからせてくれる。黎明期のレシプロから最新のジェットの旅客機、戦闘機はては、人工衛星からアポロ計画、スペーシャトルまで全てが一度に揃えられているこの網羅感はアメリカでないとあり得ないな、と感心します。

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一日で見切れる量ではないのですが、一時間半の博物館のキュレーターらしき人のガイドツアーに参加して、質問しまくっていました(苦笑)。ここはライト・ブラザーズの最初の飛行機の部屋。この時は、まだまだ、本当に黎明期で、手作り感が満載。


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ライト兄弟の次にきたもの。ここが僕には非常に興味深かったのですが、アメリア・イアハートやリンドバーグなど職業冒険家と、軍と、それのスポンサーになる各種航空産業メーカーの黎明期で、ライト兄弟の時代で、これはつ使えそうだ!ということになって、凄まじい開発競争が始まるのですが、個人の夢やまだまだ差別のあった女性や黒人などのマイノリティーのチャレンジの場でもあったりして、なんというか、方向性が定まっていないカオスな雰囲気でありながら、新しい産業の勃興で莫大な金が動いていたりと、なんかフロンティアとか冒険がある感じなんですよね。ここは、プライヴェートセクターが充実していないとありえないので、日本では、ないんですよね。


アメリア 永遠の翼 [DVD]

http://www.nasm.si.edu/exhibitions/gal208/pioneers/

The 1920s and 1930s were formative decades in aviation on many levels. Flight technology rapidly advanced, military and civilian aviation grew tremendously, record-setting and racing captured headlines and public interest, and African Americans began to breach the social barriers of flight. The interwar period also witnessed the birth of modern rocketry.

The Barron Hilton Pioneers of Flight Gallery highlights this exciting era with an eclectic collection of aircraft and other objects. A common theme unites them. All are connected with people who pushed the existing technological or social limits of flight during the early decades of the 20th century. Each aircraft or exhibit represents an unprecedented feat, a barrier overcome, a pioneering step.

This website provides brief highlights from four main sections of the exhibition on display at the National Mall Building in Washington, DC. A full online exhibition is yet to come.

『アメリア(Amelia)』 監督ミラ・ナーイル 

どこまでかっこよすぎる『プリティーウーマン』なんだよっていうラブロマンスをやっちゃったリチャード・ギアを見よ!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100211/p4


リンドバーグ〈上〉―空から来た男 (角川文庫)
リンドバーグ〈上〉―空から来た男 (角川文庫)人間の土地 (新潮文庫)夜間飛行 (新潮文庫)





ちなみに、博物館を見るということの作法には、それぞれの個別の物語をよく知っている、それを網羅して「つなげていくこと」の知的スリラーを楽しむというものがあります。だから、ある一部の個別の物語をよく知っていると、それがどのような時系列的な直列のつながりをもつのか?とか、同時代的に誰が、どのようなことがあったのかを見せてもらえると、びびび!!!と繋がってくるのです。この博物学的視点の面白さ、19世紀的な大英博物館的の面白さは、下記の記事や本とかどうぞ。特に、中沢新一の『森のバロック』は、日本が生んだ博物学の巨人南方熊楠の半生を追っていて、彼の内面にフォーカスされた、素晴らしい本で、この本を読むと、博物学的な視点という物の内奥がどういうものかが、よくわかると僕は思っています。



『銀河市民 Citizen of The Garaxy』ロバート・A・ハインライン ハインラインの入門書にしてその本質1

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080418/p1

ハインラインの描く「アメリカ的なるもの」〜ハインラインの本質2/大英博物館にみる博物学的視点

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080419/p1



森のバロック (講談社学術文庫)





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WW1やWW2のエースパイロット。そして、第一次、第二次世界大戦のエースパイロットや飛行機の展示。第二次世界大戦の部屋では、何人もの日本人のエースパイロットや服装の紹介もあり、ましてや零戦いわゆるアメリカ側の呼称ではジークの実物もありました。なんというか、ここの領域は、やっぱりドイツと日本のパイロットの存在感が大きいな、と思いました。ちなみに、その隣の海軍機の歴史は、もうひたすら、第二次世界大戦の太平洋戦線の、第日本帝国海軍との戦史ばっかりでしたね。まぁ、人類の歴史上で航空母艦である機動空母艦隊同士の大激突なんて、日本とアメリカしかやったことがないので、当たり前ですけどね。けど、戦史が、全てアメリカ側からの視点での説明なので、それはめっちゃおもしろかったです。まぁ、海の戦争の歴史において、大日本帝国海軍(JIN)の存在の輝きは、世界の軍事歴史上、屈指のものですから当然でしょうね。

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永遠の0 (講談社文庫)

急降下爆撃 (学研M文庫)

不屈の鉄十字エース―撃墜王エーリッヒ・ハルトマンの半生 (学研M文庫)
不屈の鉄十字エース―撃墜王エーリッヒ・ハルトマンの半生 (学研M文庫)

大空のサムライ(上) 死闘の果てに悔いなし (講談社プラスアルファ文庫)
大空のサムライ(上) 死闘の果てに悔いなし (講談社プラスアルファ文庫)

ストライクウィッチーズ 限定版 第1巻 [DVD]
ストライクウィッチーズ 限定版 第1巻 [DVD]

最後のは愛嬌?(笑)。でも、冗談じゃありません。まじめなのから萌えまで、広範な分厚い教養があってこそ、感じる面白さは何倍にも跳ね上がるものなんです。知的な面白さというのはそう思う物。オリジナルな教養ベースがあって初めて萌や二次創作的な見立てな面白さが理解でき、そこをベースにまた新しい世界観が作られ、新しいオリジナルなものへと繋がっていく。物事って、そういうものだと思います。

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そんで宇宙船。びっくりしたのですが、飛行機と宇宙って、僕には別カテゴリーのイメージがあったんですが、アメリカ人にとっては連続性のある同じものみたいです。この博物館の凄さは、こういった宇宙開発の冒険のような黎明期から巨大産業になるところまで全部網羅してあるところで、旅客機もそのままジャンボとかおいてあるんですよね。ちなみに、上の写真は、マイクロソフトの共同創設者のポールアレンがお金を出して、Xプライズの賞をとった、民間による世界最初の宇宙船ですね。Xプライズ財団の内容や映像を見ると、燃えるものがあります!。

http://www.xprize.org/prize-development/exploration

こういうのを見ると、アメリカが、イアハートやリンドバーグの頃の、産業や政府の部分と、私企業や人々の個人の夢の部分が、渾然一体となったカオスでありフロンティアを動かしていく全方位的な社会運動を非常に大切に思っていること、また、それを意識すれば、それなりに再現できてしまうような、巨大な力を持った国であることが良くわかります。この宇宙時代に、これほど大規模化した産業の時代に、まだカオスのフロンティアや個人の夢の香りが残っているなんて、本当にすげぇ、国です。このへんは、資源がない日本でなんかは考えられない規模の営みです。

The $10 million Ansari X PRIZE was a competition to build a spacecraft capable of carrying three people to 100 kilometers above the earth's surface twice within two weeks. The $10 million purse was won by famed aerospace designer Burt Rutan and his company, Scaled Composite. Together, 26 teams from seven nations spent more than $100 million to win the prize. Since SpaceShipOne won the prize, there has been more than $1.5 billion dollars in public and private expenditure in support of the private spaceflight industry.

アポロ13 【プレミアム・ベスト・コレクション1800円】 [DVD]


2011-08-26

『コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 普通のアニメ制作会社になろうとしているスタジオジブリ

コクリコ坂から [DVD]



評価:★★★★4つ

(僕的主観:★★★★☆4つ半)


視聴終了後、集約して感じたのは、「スタジオジブリは普通のアニメ制作会社になろうとしているんだな」ということでした。


これは悪い意味ではありません。宮崎駿という個人の妄想が時代の文脈を超えてエンターテイメントとして商売として成立してしまう、ある種、化け物的なクリーチーなアニメ制作会社であったスタジオジブリが、まともな制作「集団」になろうとしているんだな、という感じです。


スタジオジブリを語る文脈には、常に「宮崎駿の後継者はできるのか?」という問題提起がいつも存在していました。けれども、さすがに御大の年齢と『もののけ姫』以降のスタジオジブリの作品を見ていれば、宮崎駿という希代のクリエイターは、後にも先にも生まれない「天才」だったんだ、ということが、我々もよくわかってきたんだと思います。時代性を無視してムーブメントを起こす力があり、この分裂する世代が常態化した日本市場で、ファミリー層を網羅するという、ほぼすべての層に対して総動員をかけられるブランド力、訴求力。そういった、家族全員が見れるという作品は、70年代を境にほぼ見られなくなったのはずなのですが、彼の作品だけは、家族が解体され個にバラバラになっていく80年代以降の日本に、特異点を持ち続けてきました。けど、「それ」は、そういうファミリー層を抑える手法があるということではなくて、ほんとうに、宮崎駿という天才による特別なもので、再現できないものなんじゃないかと思うんですよね。いいければ、「スタジオジブリの後継者問題」という問題設定が、実は間違えたものなのかもしれない、と今にして僕は思います。


そのある種の答えとして、僕は、「スタジオジブリは普通のアニメ制作会社になろうとしているんだな」と思いました。



その理由を、作品分析を進めながら、考えてみたいと思います。



この作品を評価するときに、非常に現代的な、そして、いまのアニメや漫画、映画など日本のエンターテイメント業界の主流が2点で構成されているように感じました。それを端的にいえば、


1)ノスタルジーの活用によるファンタジー効果の創出



2)ベタな骨太の物語への回帰


まずは、1)ノスタルジーの活用によるファンタジー効果の創出ということを考えてみたいと思います。このテーマは、物語三昧を追ってくださっている読者には、かなり繰り返している文脈なのですが、あまりなじみのない人のために、大枠をもう一度説明してみます。


この概念は、以前に山崎貴監督の『ALWAYS 三丁目の夕日』と李相日監督『フラガール』を見て、日本映画は、ノスタルジーによって過去の日本を再構成するという鉱脈を見つけたと、考えたことにそのスタートがあります。またもともと、アメリカのディズニーランドのマーケティング手法を大学の時に調べていたときに、あのテーマパークや映画の題材が、ノスタルジーを喚起させることで、世代間で価値観や見る風景の経験が分裂している親子が遊べる場所を作り出すために設計された、ということを知っていて、日本でも同じような手法が、人の動機を喚起するために使えないだろうか?、もしくは、なぜアメリカではノスタルジー喚起型のマーケティングなのに、なぜ日本では同じ題材でファンタジー喚起型のマーケティングになるのか?と思っていたことがベースにあります。ちなみに理由は、アメリカ人にとって、西部開拓の風景とかは、実際に経験した風景なので、当時のおじいさんたちにとってはノスタルジーになったのですが、日本ではそういう経験がそもそもないものなので、異世界ファンタジーとしての効果(=ここではないどこかへ行きたい欲求)としてしか持ち得なかったという、ひどく当たり前の理由です。なぜ、ノスタルジーという視点が出来上がるのか?ということに対して、過去の記事で僕はこう書いています。

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]フラガール(スマイルBEST) [DVD]

一つの時代が過ぎ去って、その時代を省みる(=客観化できる)時代になると、その時代を「一つの様式」として『いまの自分とは別のもの』として分離する視点が生まれます。だいたい、20〜30年周期で発生するようで、だから世代というものに意味があるんでしょうねぇ。

だから、昭和という時代がノスタルジーを喚起するというのは、「もう二度と元には戻らない」というあきらめと、そのことへの憧憬が、ファンタジー(=いまとは異なる世界に行くこと・脱出願望)と同じ効果を生み出すようになってきたんでしょう。しかも、団塊の世代という金も余裕もある一大市場が形成されつつあります。嬬恋のかぐや姫と吉田拓郎のライブに、団塊の世代がたくさん来て涙したというのも、それを思わせます。


これからの日本映画の方向性には、この二つの突き詰めが一つの流れになっていく気がします。なにより、これならば若者も老人世代になる団塊の世代も両方がコミットできる。



『フラガール』 李相日監督 いまの日本映画の魅力が凝縮

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017996846.html

では、アメリカでは、ディズニーランドという遊園地が出来上がっていく過程は、一世代前(約30年のようです)の風景を実際に作ることで、人を動員した、ということがその出発点になっています。どうも、ノスタルジーをマーケティング的な欲望喚起の手法に利用するには、実際に建物を再現する、遊園地やテーマパークのような、空間の再現にその手法の根源があるようなのです。では、このノスタルジーを喚起することで、人を動員させるという手法は、日本では例がないのかな?と考えていたところ、僕は、その時、思い立ったのは、池袋のナムコナンジャタウンです。

http://www.namja.jp/

でも、こういった小さい例はあったけど、実際に、この手法を利用して、大掛かりに人を動員するのって、、、、、と考えているときに、『フラガール』や『ALWAYS 三丁目の夕日』を見つけたのでした。ALWAYSが、特にこの手法には自覚的で、あきらかに昭和30年代の空間を、意識的に作成して見せつけているように感じました。そして、それによって映画がヒットしたのを見て、ああ、これはやはりありなんだなと思いました。アメリカよりかなり遅れたのは、まぁいつものことです。だいたい、30年ぐらいの差があるもんですからね。

僕は、新興の郊外住宅地ばかりを親の転勤で転々したので、開発途中であったその場所は、今では信じられないほど画一的で均質な空間になっている。真新しいけれど、均質で、歴史性のカケラも感じない空間。けれど、まだほんの昭和50年代の間ぐらいは、この30年代の空気というものは少し残っていた気がする。ギリギリこの空気をリアルタイムで、見たような気がする世代なんだと思う。なぜ、こういう話をするかというと、これはノスタルジーというテーマパークであって、この空気を体験しているか、それともまったくの異世界ファンタジーとして見るかで、まったく見方が変わってしまうと思うからだ。正直、このイメージを、異世界としてみるであろう、たとえば、80年代後半以降に生まれた世代の感覚は、僕にはまったく理解しかねる(笑)。とりわけ、80年代は、日本社会の断層期なので、とかく世代間感覚の違いがデカイ。日本社会は、凄まじく急速な高齢化を経験する人類最初の国家で、しかも、現時点では移民を受け入れていないという、若年層よりも老人層のほうが大きい逆ピラミッド型になるのも人類史上初でしょう。だから、日本社会では、人類最初の極端な世代間断絶が強烈に起きる社会なんです。縦の分断ですね。横の分断は、やはりヨーロッパとアメリカでしょう。老人世代が主導権を握る、権力だけではなく人口比において、という意味では凄い興味深い時代です。そんな中で、当然出てくるのが、ノスタルジーです。変化を容認できない世代群は、過去の栄光にしがみつくものです。そうしたメモリアルや仕組みというのは、人類にたくさんあります。たとえば、戦争のメモリアルパークや墓地なんか、まさにそう。ジョンボドナーの『鎮魂と祝祭のアメリカ〜歴史の記憶と愛国主義』なんかに典型ですね。靖国問題も究極そこです。そして、それを資本主義市場の集客力という目的に収斂させたのが、鬼才ウォルトディズニーの『ディズニーランド』です。このノスタルジーを基礎にした集客の方法論は、見事なまでに、映画『マトリックス』を思い出させます。このへんい詳しいのは、能登路雅子さんの『ディズニーランドという聖地』に詳しいです。


ディズニーランドという聖地 (岩波新書)
ディズニーランドという聖地 (岩波新書)

 

つまりはね、ある世代のノスタルジーを空間ごと再現すると、それにその世代の人が逃げ込むように、吸引されるのです。ところが、不思議なことに、このスタイル・様式が確立されると、『体験を持つその世代』だけではなくそれ以外の世代にも強烈な吸引力を発するようなのです。池袋のナンジャタウンなどの昭和の町の再現が典型ですが、テーマパークの基本は、このノスタルジックな感情の再現をどこまで、人に起こさせることができるか、です。ディズニーランドが、見るものに既視感覚を感じさせるように、寸法・空間構成・視線誘導・行動誘導に至るまで、あらゆる面で徹底的に計算されたつくりをしていることは有名です。(正確に言うと、アメリカのDLは、ノスタルジーベースで、日本のDLは実は異世界ファンタジーベースだと思っていますが・・・。)ようはね、人の幻想・ナルシシズムを、一切破らないで、ノスタルジックな感情に浸らせて、お金を落とす仕掛けになっているのです。・・・・マトリックスでしょう?(笑)




『ALWAYS 三丁目の夕日』  山崎貴監督  昭和30年代のテーマパーク

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017194528.html


さて、ノスタルジーの効果で人を呼ぶことが、手法的に抽象化できるではないか?という問題意識を僕は持っています。まぁ統計をとっているわけではありません&僕は学者ではないので、これを定量的に指し示すことはできませんが、まぁ経験則からいって、かなり歩留まりのいい仮説モデルだと思っています。ちゅーか、体感的に、そうじゃねぇの?って思いません?(苦笑)。また、アメリカで成立する方法は、日本でも多少変質しますが、まず間違いなく成立します。資本主義の最先進国である、ヨーロッパ、日本、アメリカ、いまならば韓国、台湾の大衆社会の仕組みは、ほぼ同機能を示すと僕は思っています。この辺の国々の状況を追っていれば、世界中の資本主義がある段階に行き着いた大衆社会は、非常に似た構造、似た行動になります。もちろんローカライズされますし、微妙な文化的歴史的要因や、発展段階の差が出ますけれどもね。でも、それはしょせん微妙なレベル。


と、ここまでいってやっと具体的な話に入ると、『コクリコ坂から』のカルチェ・ラタンという部活棟の維持というエピソードのは、まさに、ノスタルジー的なテーマだからです。これって、60年代真ん中を想定すれば、学園紛争など団塊の世代の学生運動の要素が色濃く出ているテーマであることが、見ている人は、特にいま60代の団塊の世代は、よっっくわかるはずです。その子供である僕ら団塊のJrには、「匂い」はわかるけど、乗り遅れたし、もうそんな熱いことが意味を失った世代なので、ある種のしらけた、いやな印象しか持たなかったのですが、、、これまでは、、、しかし、自分が30代になり人の親になりと、あの時代から約30年を超えた今の2010年代の視点から見直すと、連合赤軍事件や浅間山荘事件などの学生運動のエピソードが、ノスタルジーとして、少し切り離された冷静な視点で見れるようになってきている自分がいます。ましてや、僕の下の世代にとっては、ああいう「熱い学生運動の時代」は、ほとんど異世界ファンタジーと同じものにしか見えないでしょう。また、このへんの昭和30−40年代は、大正時代に形成された、日本社会の都市生活者や教養層の文化である寮生活などの伝統が色濃く残っていた時代で、この時代を「現在」と考えると、日本のエリート学生の持っていたバンカラ文化というものが、これは団塊のJrの僕にとっても強烈なノスタルジー効果(=実際に見たことも匂いも分からない懐かしいもの)があります。近くの寮と喧嘩するストームとか、そういうの知っています?。この辺のバンカラ風俗が、いまも見れる作品で容易に体感できるのは、なんといっても、大傑作『摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン』や、もっと最近だと、かなり現代風になっていますが『ここはグリーン・ウッド』です。僕が何をいっているのか、日本の寮文化や旧制高校の伝統的文化が、どんな匂いがありどんな雰囲気かは、これを読むとすごくよくわかると思います。


摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン (第1巻) (白泉社文庫)
摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン (第1巻) (白泉社文庫)

ここはグリーン・ウッド (第1巻) (白泉社文庫)
ここはグリーン・ウッド (第1巻) (白泉社文庫)


すべてが、古き良き日本の伝統を、ノスタルジック補正(=悪い面は見えにくい)がかかって見れます。それが見事に表現されているのが、この『コクリコ坂から』です。たとえば、まぁ見ればみんな思うでしょうが、昭和の日本の「良さ」が、とてもにじみ出ています。たとえば、男性も女性も、すべての人が、ビックリするほど姿勢がいい。主人公が、常に前を向いて背筋をぴんと伸ばしている姿は、現代からすると、すがすがしく美しいのですがはっきりいって異常です(苦笑)。また、挨拶の素晴らしさ。文化系や運動系など、さまざまな種類の部活動を構成する生徒が、全員で一致団結して、教師を寄せ付けないように校歌?を歌い出すなど、学生というエリート集団の「同胞意識」が強くあり、その学生の中に階級があるスクールカースト的な現代の意識は全く見られません。ヲタク的に哲学にはまろう(=将来食べていけないだろ、それ(笑))が、なにをしようが、同じ学び舎で学ぶ仲間=この後、大学進学率が急上昇するまで、そもそも旧制高校や大学に行く層なんてのは、そもそも全国の数パーセントというウルトラエリート層で、おれたちは、どんなことをやっていても「選ばれた選良なんだ!」という、悪くいえばスノッブなエリート主義があり、よくいえば選ばれたものの気概と倫理(ノブレスオブレージと指導者が率先して倫理を守るという意識)があったのです。だから、スクールカーストなんて言う、学校の中の階級はできようがない。だって、日本の、その分野での指導層になるのが決まっているようなものなんだもの。という、大正以来の旧制高校の色が、首都圏の都立高校とか関東圏の高校には、昭和の30年ぐらいまでは色濃くあったんですよ。いやまじで。だからこそ、学生運動の時代には、都立高校(大学じゃないよ!)とかも、凄い自治権獲得の闘争があったんですよ。いま思うと、信じられないくらいに熱い政治色の強い時代ですよねー。


もう少し具体的なエピソードでいうと、生徒会長の男の子(たぶんあれ生徒会長だよね)の、なんというか見事な生徒会長っぷりには、いまの時代から見ると、そこまでカッコつけなくてもいいだろうという物凄いスノッブさがあるんだけど、出てくる登場人物たちが「他者の視線を強烈に内面化している」ので、それが、不思議といやらしさを生まない。全編にわたって、過剰な他者視線の内面化があるんだけど、この自意識過剰感って、ああ、たしかに60年代くらいまでの映画や小説に刻印されている感じだよなーって思いました。他者視線の内面化ってのは、もう少しわかりやすくいえば、「他人に見られているんだ、ということを前提として振る舞いが構築されていて」それが、内面化されているので、周りに実際の他者がいなくても、一人しかいないところでも、振る舞いが他人を見ている前提で行われている・・・・つまり倫理が内面にセットされている状態の話をいっています。この内面の視線拘束「からの自由」を目指すのが、80−00年代の個人主義流れだったので、まさに時代の逆行です。「他者の視線が内面化されている」というのは、日本でいえば、共同体にどっぷりと拘束されていて「自由が存在しない」がんじがらめの生き方、ということですから。ようはムラ社会のムラ人的状況。けど、自由と引き換えに、共同体に視線による拘束は、倫理じゃないや道徳が強く存在するってことですよね。道徳、、、みんなが思う「正しさ」があった時代ということです。だから、人が見ていないところでも、、、、ちゅーか、学校サボっているのに見事に制服を着ているところとか(笑)、挨拶や返事の清々しいまでに(いや最初見ていて気持ち悪いほどに)徹底しているところなどは、学生たちの中に、強烈な道徳的「正しさ」が存在していることを示しています。もう、多様性と個人主義の伸展によって、めちゃめちゃに破壊された後に2010年代の僕らから見ると、もう完全に異世界ファンタジーなんだよねこれ。僕は全は見ていて、強烈な違和感があったが、、、慣れてくると、そうか、「別の世界の出来事」と思えばいいんだ、と思うとすごい肩の力が抜けて、素晴らしい美しい物語に見えてきましたよ。


このノスタルジーを喚起するというの部分が、脚本でも映像でも、強烈に意識されています。ノスタルジーは、分裂する世代間を共有させるといういわゆるファミリー層を抑え込む幅の広さがあります。この手法は、「普通の手法」ですよね。特殊な才能に頼るのではなく、現代の創造の最前線で暗中模索されているオーソドックスな手法。宮崎駿さんの作品は、そのすべてが、完全に異世界を志向した「ここではないどこか」の別の世界の物語空間を構築していたのに比較すると、物凄く普通。僕には、京都アニメーションの開発した日常という文脈のドラマ化など、とって現代性のある設定に思えます。本当は、スタジオジブリは、若手が独立色の強い作品を作ろうとすると、『海がきこえる』(1993)『耳をすませば』(1995)などを思い越せば、現代の創作の最先端をフロントランナーとしてかなりいところまでいっているんですよね。1)ベタな純愛ドラマへの回帰、そして2)背景を精密に描くことで日常をドラマ化するなど、実はいまの物語の最前線の開発を、時代に先駆けて挑戦しているんですよね。ところが、やはり宮崎駿という怪物がいるので、それが、古い王道的な物語に引き戻されて、なかなか現代的なものになりきれない。『ゲド戦記』(2006)なんかは、新しい世代にはありえない大作異世界ファンタジー志向で、時代にも合っていない上に、非常に上滑りしてしまったのは、そもそも宮崎駿の子供の世代の人間に、ああいった骨太の善悪二元論的ドラマトゥルギーを料理させること時代が、そもそも無理があったんだと思います。宮崎駿やそれこそクリント・イーストウッドなどの善悪二元論の陳腐さとその発展過程の問題点を知りぬいた人でないと、あの巨大なテーマを、エンターテイメントにするのは不可能なんですよ。ある種、バロックの極致になっているものだから。

海がきこえる [DVD]

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2)ベタな骨太の物語への回帰


さて1997年『もののけ姫』あたりで異世界ファンタジーや善悪二元論で人の動機を喚起するというドラマトゥルギーの限界点が示されたころから、エロゲーでも邦画ドラマでも、ベタなソープドラマへの回帰が始まっている気がするんです。その集大成というか、集約地点というのが、『冬のソナタ』(2003-2004NHKで放映)に代表される韓国ドラマブームだと思うのです。それと、邦画でいえば、純愛路線や映画『世界の中心で愛を叫ぶ』(2004)『黄泉がえり』(2003)『いま会いにいきます』(2004)なのです。ゲームでいえば、アージュの『君が望む永遠』(2001)ですよね。日常を劇場化するという視点で描かれた最もエポックメイキングなアニメーションが、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)、そして漫画が『あずまんが大王』(1999-2002)だと考えると、純愛も日常も、既に『もののけ姫』のかなり前に、ジブリでやっているんですよね。あの方向性が伸ばせなかったことは、残念ですが、、、まぁそもそもあのスタジオが、そもそも宮崎駿という才能を世に出すという目的からすれば、正しかったんだろうと思いますけどね。

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世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション [DVD]


不可能性のロマンチシズム〜韓国ドラマがなぜ面白いのか?

http://ameblo.jp/petronius/entry-10005550854.html

韓国映画・ドラマの見方

http://ameblo.jp/petronius/entry-10004169150.html

『君が望む永遠』 その1 BY アージュ この脚本そのままでフジテレビの月9になるよ!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110712/p1


純愛路線の邦画、韓国ドラマブームなど、骨太の脚本、、、ベタなロマン主義への過剰なコミットが物語類型の重要な手法として、脚光を浴びるだろうという文脈は、上記辺で語っていたことですよね。ちゃんと書いたところが見つけられなかったのだけれども(自分でも過去何書いているかよく覚えてないんで(笑))、やっぱりベタな物語への回帰をロマン主義の復権と見ている文脈は、いまから見返しても、僕は正しいと思うなー。現在では、サイト「小説家になろう」のチート主人公、「俺つえぇぇぇぇ」系(笑)とかも、ようは物語の原初の欲望に戻っているんだよね。宮崎駿の世代が語っていた物語は、物語がバロック化して複雑になりすぎて、問いが非常に感情移入の最初の契機を失うほどに巨大化しているんですよね。にもかかわらず観客を引き込める力があるというのは、ウルトラ天才級でなければならず、、、、、とはいえ、宮崎駿が『千と千尋の神隠し』以降、物語を語り終えるのができなくなって、エピソードの塊のような作品しかつくれていないのも、物語の主軸を作ると、「嘘を言っているような気がする(=ベタな感情移入への逃げ)」と思ってしまうのではないかなと思うんですよ。だって『ハウルの動く城』とか『ポニョ』とか、何がいいたいかわかります?(苦笑)。物語の整合性は、『もののけ姫』の善悪二元論の破綻で、宮崎監督はあきらめているんだろうと思うんですよ。そういう意味では、あの大家にして、時代性に合わせて入るんですよね。でもあれだけ複雑さの極みまで考え抜いた人が、確かに、物語の原初の欲望に戻るのはつらいと思うんですよ(笑)。だって、なろうのサイト見ていると、物凄いシンプルなんだもん。何でもできるチートで強いおれを感じたいとか、別に何の魅力もないのに素晴らしい美少女やかわいい女の子にもてまくりのハーレムを経験したいとか、女性でいえば、王様が(白馬の王子?)が、なんの魅力もない自分だけを実は愛してくれてた!というのを実感したい、とか(笑)。なんというか、社会が下降している文脈で考えると、そんなドーピング(=社会逃避を助長するもの)を描いていいものだろうか、と、ましてや社会的な思想のリーダーである宮崎駿クラスの作家としては、物凄い悩みが生まれると思うんですよ(笑)。たぶんね。


けど、ほんとうは、原初の姿の「荒々しさ」は無視してはいけないものなんだろうと思います。なぜならば、人々が望むものは、そもそも「それ」が原点なんだから。


かつて文壇で「文学で飢えている子供を救えるか?」というような、意味のない(今から考えると)論争がありましたが、そのことに答えを出した中島梓さんの本について

過去に文壇で

『文学は、飢えた子供を救えるか?』

という問いがはやったことがあるそうです。この問いは今でも有効で、食べることが出来ない空想が、役に立つのか?という問題提起です。全てのものを、『役立つか?』という思考に還元するのはどうかとは思うものの、ベトナム戦争やアフリカの飢餓を直面しながら、飽食に飽きる先進国の住民には、誠実な問いだと思います。この問いへの真正面から答えたのは、この本以外には知りません。

解答は、こうです。人間とは、生物としての本能が壊れた生き物であり、その欠落部分を自己幻想欲=物語を生み出すことで、生きている。だから、物語は、飢えた子供を救うことは出来ないが、1日でも飢えを忘れてワクワク過ごすことができる。そして、それは下手をすると一切れのパンよりも、より人間らしく生きるために不可欠なものかもしれない・・・・・。自分の物語のために死を選べるヒトという種族は、食べ物よりもロマンが不可欠なのだ。

彼女の評論は、ある意味冗長だが、その分結論へ至る「思考の過程」を知ることが出来ます。小説家としても大成している彼女が、物語が心の中で生まれてくるプロセスを、微細に事細かに描写していく部分が、とてもエキサイティングです。ある意味現役バリバリの物語作家である自分の心を対象とした分析というのは、かなり貴重なものなんではないかなぁ。

副題に「ロマン革命」とありますが、『文学の輪郭』『ベストセラーの構造』で分析した価値の細分化による共同体の喪失は、物語とロマンの復権を導くだろうと結論付けています。10年も前の作品とは思えませんね。

もう10年どころか、、、、軽く20年以上前の作品ですが、時代の文脈自体は変わっていません。なんというか、これが成熟してきた、ということなんだろうと思います。


やっと、『コクリコ坂』に戻りますが、これの物語の主軸は一つは、1960年代の古き良き日本の学生生活のノスタルジー喚起であり、同時に、ベッタベタな純愛の話です。

コクリコ坂から

まぁ、見たらわかると思いますし、見た瞬間常識的なリテラシーがある人ならわかってしまうので、ネタバレっていうほどでもないのですが、この主人公の女の子と恋仲になりそうになる男の子が、実は兄妹だった!!!という「結ばれない愛」の古典的物語の典型ですね。もうベッタベタの話。しかも、きれいに、お互いの愛を確かめ合った後に、兄妹でないってわかるなど、見ていて恥ずかしくなることすらないくらい、あまりにありがちな話でした。いやまったく妹萌とか、そういう高度な技はいっさいありません(笑)。ストレートド真ん中の直球です。


君の名は 第1部 [DVD]


韓国ドラマの純愛路線も似ていますし、日本の昔の『君の名は』みたいな感じの路線ですね。基本的にこの『コクリコ坂』って、大きく3つのポイントがあって、


1)1960年代の古き良き日本の学生生活・学生運動のノスタルジー喚起

2)ベタな古典的な純愛路線

3)日本と朝鮮戦争に関するかかわりあい


たぶん意見をいうのならば、この3つが、割と分かりやすいポイントだと思うんですよね。3)が、微妙に分かりにくいのですが、主人公の父親が、LSTで死んでいるというのは、LSTとは米軍の戦車揚陸船のこと、Landing Ship Tankのことで、まぁいわれてみれば、そういうのはあるだろうなーと思うのですが、日本人が当時の朝鮮戦争に参加しているって話ですよね。まぁ、その辺の考証は、おかしなものです。だって、こういう話って当時の国民はほとんど知らなかったんじゃないあかな、と思いますしね。それを、さもみんな分かっています!という風な早い理解を示すのは、???って思いました。だって、LSTって後で検索しなければ、僕だって全然わかんなかったんだもん。これ、1)と3)ってつながっていて、ようは日本に盛り上がった学生運動へのノスタルジーを描写するには、「戦争自体があった」ということを、その事実をエピソードに組み込まないと、反戦思想を語るにしても、文脈がわからなくなるからだろうと思います。物語の主題は、古典的な純愛なのに、こういうちょっと、センセイティヴなテーマが軽く顔を出せるというのは、やっぱり過去の戦争が、かなりのレベルで、「過去にあった出来事」として歴史として見れるようになっているんだな、と思います。物語としてはわかりやすいドラマトゥルギーというか動機設定ですよね。自分の父親が戦争で死んだ、だから戦争に反対するって、物凄いわかりやすい反戦じゃないですか。いや動機の設定とか、ほんと物語はベッタベタです。


しかも、僕はこの映画にあふれる、ノスタルジーのイメージにとても感興を感じたので、細部は、多分あまり批判の対象になるわけではないと思うのですが・・・・それでも、やっぱり、じゃあ主軸の恋愛がちゃんと描けているかといえば、1)と2)のどっちが主軸なのか、いまいちわからない、ごった煮の演出で、ヒロインの内面の動きは、僕にはさっぱり理解できませんでした。あそこの少女漫画的にやると、すっごくウンザリしてしまうし、そういう自意識の一人称の内面の表出をすると、凄く現代的になってしまって、この時代のノスタルジー、、、、この少女は、「兄でもいいの抱いてっ!!!」とは、道徳上絶対にならないので(笑)、抑制しないと1)の雰囲気が壊れるために抑えたんだと思います。それは、正しい選択だとは思いますが、恋愛の物語としては、まったく中途半端で????って感じが最後まで僕はしました。何度も見れば、繊細に演出していそうなので、読み取れるのかもしれませんが、ぱっと見の僕にはさっぱり入れませんでした。これをして、脚本や演出が、うまいと言えばいいのか、下手と言えばいいのか、、、正直僕にはよくわかりません。まぁ次作を見ないと、、、って感じです。


ただ言えるのは、面白かったか?と問えば、とても素晴らしく面白かったです。一言でいえば、日本の古き旧制高校の寮文化が色濃くノスタルジーとして出ていて、それがセンスオブワンダー(=今まで見たことないもの!)という感覚を喚起してくれたからです。



これ、ノスタルジー効果があるので、僕の子供から見て、祖父の世代、父親の世代、孫の世代の3世代にわたって、コミュニケーションのツールになるもので、この日同時に、戦隊ものの



『仮面ライダーオーズ』劇場版でまさかの暴れん坊将軍(マツケン)とコラボ! シュールすぎるww

http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-2009.html




これを、子供とも見たんですが、、、、、(笑)まったく、意味不明なんだけれども、おばあちゃんやおじんちゃんが、孫を連れてきているケースがあって、ああさすが、このセグメントのエンターテイメントは、子供とのコミュニケーションを人質に取っている!!!って感心しましたよ。そういう意味で、ファミリー層への効果もあって、渋い作品ですが、昨今のジブリは、宮崎駿の異世界にぶっ飛んでいく大作構築の部分ではなく、こうした、抑制のきいた創作の最前線のテーマやツールをきれいに料理しつつあって、とっても小作品っぽいといわれそうですが、『アリエッティ』もそうですが、ああ、才能に頼らない方向に進んでいるなーと思うのです。だって、スタジオジブリって、宮崎駿の異世界構築能力を除去すれば、


1)ファミリー層が安心して見れるブランド・流通力


2)背景描写力の圧倒的なレベルの高さ



っていう二つの部分が「強み」なのは間違いないんですよ。京都アニメーションから、萌という記号を抜いた感じかな?。これって、『花咲くいろは』などのPAWORKSなんかも似た志向のテイストであって、僕は、ああ、なんというか普通のアニメ−ション会社になってきたんだなーーーと思いました。繰り返しますが、非常にプラスの意味でいいっていますよ?。つまりは、時代の文脈から外れた、巨大な才能に頼る特殊な創作ではなく、前線に留まって、先もわからんものの中で暗中模索しながら鉱脈を探していくって感じです。とはいえ、それってのは、「みんなと同じ」ことでもあるので、次は、どこで差別化するのか?スタジオジブリ独自の色は何か?というのが問われると思います。上記のノスタルジーやベタ純愛というのは、いまや最先端アニメーションや物語の基本類型ですからね。学生運動や反戦の話のノスタルジーは、継続性がありません。なぜならば、その経験者が、年齢的にもう直ぐいなくなってしまうので、ここに「こだわる」作家性は、なかなかないと思うんですよねー。わからんけど。まぁ、などなど思いました。

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『磯崎新の「都庁」〜戦後日本最大のコンペ』平松剛著 「東京」を巡る物語〜東京の縦と横をシンプルに描く良書(1)

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ
平松 剛

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評価:★★★★★5星つ

(僕的主観:★★★★★5つ)



■「東京」を巡る物語1〜東京の縦と横をシンプルに描く良書

厚い、字が細かいし小さい・・・・と、手に取った時から少し、読むのに躊躇した。こういう分厚い本は、無駄に説明が多く、資料を読み込んだが故に血となり肉となっていない無味乾燥な文字の羅列が、多くなりがちなものだ。『光の教会 安藤忠雄の現場』の素晴らしい読書体験で、名前こそ深く印象に残っていたが、もうそれから7年近くもたっている。最近、仕事も忙しく「受け身で気持ちを癒してくれる」マンガやアニメなどに、自分の娯楽時間を使用することが多かったという落差も重なって、読むのが躊躇していた。が、そんな躊躇は、ぶっ飛んだ。いや、素晴らし本だ。これ、相当記事書くと思います(笑)。とりあえずゆっくりメモ取りながら書いているので、まずは(1)を。ぜひ、読むべき本ですよ、これは。というか、平松剛建築サーガみたいなシリーズ感覚で、『光の協会』と併せて読むといいかもですね。

光の教会―安藤忠雄の現場光の教会―安藤忠雄の現場
平松 剛

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全体を貫く問題意識とイメージが、シンプルにしっかりとした骨格を形成している。だから、物凄くわかりやすい。それを一言でそれを表すと、「東京という物語」を描ききった作品だ。また綿密な取材を通してであろう、小説風の一人称形式で語る語り口のため、まるで小説のようにサクサク読める。この手の本は、必ずしも学術書ではないので、新書に近い機能(=多くの人のその世界を広めていく)を持つのだから、サクサク読めるということは、その語り口も含め非常に大事なことだ。物凄くわかりやすい、と僕は思いました。


時代としては、戦前から1980年代迄を、3人の建築家のキャリアを軸に描いている。いや、もちろんメインは、磯崎新の幻の終わった戦後最大の大規模建築コンペでの都庁の低層案が主軸なのだが、でもね、「これ」を描こうとうすると、東京という都市そのものの歴史を、縦(その古き帝都の香り)から横(80年代の鈴木俊一都知事の君臨した都政の複雑な権力構造)を立体的に浮かび上がらせないと、そもそも本を書く意義がなくなってしまう。磯崎荒が都庁に挑もうということは、磯崎新が「その決断をした」ことつまびらかにするために、個人史から彼に影響を与えた東京帝国大学、東京大学の日本の建築の歴史そのものを説明しないと、説明したことにならないからです。これ一冊で、建築と東京のことが凄く深く理解できます。


さて、日本を代表する3名の建築家の師弟関係を見てみましょう。これは、縦の基軸ですね。




0)ル・コルビジェ


1)前川國夫


2)丹下健三


3)磯崎新


この3人は、すべて東京帝国大学(もしくは東京大学)建築学科卒の師弟関係にあります。その上、闘将・前川國夫は、1928年に東京帝国大学を卒業後、そのままパリへ赴き、あのル・コルビジェのもとで修業を積んだ、、、といえば、まるで全世界に繋がる近代建築の歴史を紐解いているようなものです。

この一冊で、近代建築の流れがかなり良くわかるし、ないよりも建築家という職業が、どんなことをやっているのか、その最高の部分(と同時に足元まで透徹した泥くさい部分も含めて)を知ることができます。建築家志望や、それに関わる人にとっては、とても素晴らしい紹介本になると思うし、興味本位の人にとっても、われわれの住む「東京という土地」がどのようにデザインされているのか?ということが、その意思決定の権力のプロセスまで含めて、物語のようにワクワク読めて理解できるのだから、こんな一石二鳥の本はありません。


ちなみに、建築とは権力です。


巨大近代建築は、それを設計し施工することによって、人々の人生や行動の仕方をすべて支配してしまう、最も恐ろしい暴力装置です。これの生まれ出ずる仕組みを描く物語(=プロセス)を、現場(の記録)を、知っていて損はない、と僕は思います。

『養老天命反転地』 荒川修作+マドリン・ギンズ 身体を通して感じる空間

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080424/p2

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ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)はスイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Edouard Jeanneret)。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8

Le Corbusier

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Charles-Edouard Jeanneret-Gris

Le Corbusier

Personal information

Name Charles-Edouard Jeanneret-Gris

Le Corbusier

Nationality Swiss / French

Birth date October 6, 1887(1887-10-06)

Birth place La Chaux-de-Fonds, Switzerland

Date of death August 27, 1965 (aged 77)

Place of death Roquebrune-Cap-Martin, France

Work

Significant buildings Villa Savoye

Charles-Edouard Jeanneret-Gris, who chose to be known as Le Corbusier (October 6, 1887 ? August 27, 1965), was a Swiss-born architect, designer, urbanist, writer and also painter, who is famous for his contributions to what now is called Modern architecture. In his 30s he became a French citizen.

He was a pioneer in studies of modern high design and was dedicated to providing better living conditions for the residents of crowded cities. His career spanned five decades, with his buildings constructed throughout central Europe, India, Russia, and one each in North and South America. He was also an urban planner, painter, sculptor, writer, and modern furniture designer.

http://en.wikipedia.org/wiki/Le_Corbusier

f:id:Gaius_Petronius:20080717010710j:image






■「東京」を巡る物語2〜「歴史という物語」と「自分という物語の接続」


「東京という物語」という概念は、実は僕はずっと考えている概念なのですが、この物語の馥郁たる香りの素晴らしさを感じるには、実はちょっと複雑なことを説明・理解しなければなりません。僕のブログではずっと書いてきていることなので、よく読んでくれている人はわかると思うのですが、何かを深く体感するためには、修行というか努力が要ります。とりわけ抽象度の高い複雑な概念を体に染み込ませて、まるで空気のように「目に見えるすべてものをその解釈の枠組みで体感できる」ようになるためには、かなりの継続的な努力が要ります。仕事でもないのに趣味でこれをやるのは、結構努力と根気が必要なものです。


さて、「東京という物語」を体感するためには、僕が以前書いた「縦軸の歴史の継続性の自覚」というものを抽象的に理解して、実践して、その果てに、体感があるものです。この説明の対象者は、そうですね・・・特に郊外化が進展して歴史性から完全に「根切り*1された1970年代以降に生まれている人に対して有効な説明です。


そして縦軸とは? 歴史感覚の継続性があるかどうか?です。これが、ほとんどの作品・物語、学説はないんです。実際は、1940年代に日本の革新官僚の手によって作り出された制度というのが、戦後も継続していて、実は戦前の日本と戦後日本は、まったく本質自体は変わっていないことに、日本人が非常に無自覚なことです。この学説は非常に有名すぎて、もう例を挙げるのもめんどくさいです(笑)。なんで、そんな歴史の継続性に対して無自覚か? 。これは1945年以降の戦後民主主義思想とかアメリカによる洗脳とか、まぁいろいろ理由はあるが、とにかく日本社会自体が、1945年を境に全てが変わってしまった、と幻想を抱きたがっている部分にある。これは、たぶんそれ以前の価値観と国家民族としての世界戦略とそれ以後があまりに変化しているために、どうしてもそう信じ込んでしまうのだろう。また、戦前の経済構造に関する理想が究極に完成したのは、ニューディーラー(ほぼ隠れ共産主義?)の米国GHQ米国占領軍によってという(笑)エラクひねくれたねじれがあることからも来ていると思う。


物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき

http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html


えっと、なにが言いたいかをシンプルにまとめると、ベビーブーマー、つまり団塊の世代の子供の世代、、、団塊のJrの世代以降になると、、、ちょうどのこの本の時代背景である1980年代に子供・青春時代を経ている人々には、歴史性へのコミットメントが非常に薄いという構造的心性*2をしているようなんです。・・・・えっと、だから、この世代を市場とする時代では、あらゆる物語や言説に、歴史性が失われているものが多い。そういう言説は、常に何を描くかというと、「いまそこにある権力のメカニズム」だけを描くんですね。そして、それほど面白くないものはない!(苦笑)。なぜならば、「いまそこにある」ということは、言い換えれば、もう文字に書かれている時点でかなり遅いし、しかも、読み手にとって汎用性が効かないんですね。「ふーん、そういうものがあるんだ?、俺には関けないよね」みたいな。だって鈴木俊一都知事の時代の権力構造を聞かされても、ふ〜ん?で終わってしまうでしょう。


ところが、ここに縦軸の歴史性が挿入されると、全く様相が異なります。というのは、いつもしゃべるマービン・バウワーのForces at work*3なんですが、これは、時系列といま現在のメカニズムを同じ土俵で論じることで、その「先のこと」も同じメカニズムで予測するという行為なので、つまり、いま現在の我々のリアルタイムで起きることも、この縦軸と横軸にいよる立体がうまく描けていると、かなりの確率で予測できてしまうのです。ちなみに、過去の大きなイベントの縦横軸の分析を通して物事にコミットすると、横軸(=現在のメカニズム)しか考えていな人々に対して圧倒的なアドバンテージになるので、シゴトをする人にとっては、これらの情報は超がつくほどの価値のあるものだと僕は思います。・・・・・ちなみに、有用であるという以上に、歴史性の自覚があると、生きるのが、シゴトをするのが、物凄くおもしろくなるんです。だから、自分属する組織や土地や国などの歴史を学ぶことは、本当は楽しいことだと僕は思うのだけれどもなぁ…。まぁこのへんは僕がいつも書く生きる「実存」の輝きを増す方法のひとつなので、それはまた今度に。


とにかく、日本社会のあらゆる組織を舞台にするものは、まず日本社会の構造的よく横軸の問題点と、縦軸の歴史の継続性の自覚 というものが、重要だと僕は分析しています。そして、あらゆる会社の理念やミッションにも、これがないと最後の軸が通らないんですね。だって、その組織の設立理念やつくられた構造の原因を無視しているわけですから。 この歴史の継続性を意識して、今の日本の歴史的に続いてきた問題点をえぐることがなければ、それは、組織分析であれ、経営であれ、文学であれ、小説であれ、つまらん!、と僕は思うのです。


物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき

http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html


だから、「おもしろい!」と、ただの娯楽としてだけではなく、何か自分の人生の糧として資するという意味での「おもしろさ」を持つものは、とりわけ日本を題材にした時は、簡単に評価がつくのです。歴史性に対する自覚が強烈でなければ(変にイデオロギーに歪んでいるのは困るが)、面白いとも価値があるとも言い難いのです。作り手が何かの対象を、日本社会で行いときには、この失われている歴史性へのニュートラルな形*4での再現を試みているかどうかで、編集者と作者のスタンスがちゃんと、事実というか読者に対して洗脳という姿勢を取らずに、賢明な対等で真摯な態度で向き合っているかは、すぐわかってしまいます。この作品の中で、なぜこうも見事に、この「歴史という物語」と「自分という物語の接続」がキレイにまとまっているかというと、それは、東京新都庁のコンペというマクロの歴史をテーマにしながらも、語り口を「小説の一人称的な*5」三人称という、物語の主人公のような等身大の感情移入できる視点から、事実とマクロを眺めるという手法をとったが故に、うまくいっているのだと僕は思う。もう、メチャメチャ感情移入できたもの。一言で言うと、文体の選択が秀逸なのだと思います。




■「東京」を巡る物語3〜過去からの重層たる繋がりの果てにいる「自分」


さて、上記の2で指摘したのは、「歴史という物語」と「自分という物語」の接続が、文体やドキュメンタリーの構造の中に仕込まれているので、感情移入しやすいという指摘だった。第二章などは、いきなり青木宏氏という磯崎新アトリエの実行部隊の隊長さんの視点から話が進む。先ほどのル・コルビジェから続く4代目の世代の建築家になるわけである。こういう等身大の視点と感情におとして描くというのはドキュメンタリーとしても、難解な話を他者にうまく伝える技術としても優れていると僕は思います。


もう少し本そのものではなく、この「東京という物語」を読む・実感するための抽象的な解説をしておきたいのだが、、、、これが理解されていないと、僕が何故、「そこのポイント」に悶えて感動するか、ということの「本を読む実感する面白さ」がうまく伝えられないと思うんです、、だから、しばしもうしわけない。

えっと、歴史性がはく奪されている僕らの世代では、意識的に努力しないと、過去からの重層たる繋がりの果てにいる「自分」というものが失われて、真っ白な世界にいる根切りされた「個人」として、世界と相対してしまい、生きるのが不安になって苦しくなってしまい無気力になる、というのが僕の見立てです。またあまりにも世界を短絡的に見てしまいやすい※6*6

丸の内都庁舎の敷地、つまり現在の国際フォーラムが建っているところは、その昔、江戸時代には土佐藩の藩邸(高知の山内家)があった。坂本竜馬も一時期、寝起きしていたことがあるという。また、忠臣蔵の憎まれ役、吉良上野介の屋敷もこの近所で、江戸城の・松の廊下での刃傷沙汰の後に本所(両国)へ移された。ちなみに、いま有楽町マリオンのある辺りが、南町奉行所だった。これを当時のお役所と考えれば、有楽町と丸の内での歴史は江戸時代にまでさかのぼるわけになるわけだ。


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僕にとって国際フォーラムって、定番のデートスポットだったんですよ。映画観て、ここの上の方を、ふらふら散歩する。こういう立体的で迷路のような建築は大好きで、隠れる場所もあって、ちょっとHなこと、、、とまではいわないが、柱に隠れて抱きしめたりキスするのにちょうどよかったんですよ(動機が不純)。夜に行けば、意味がわかるはず(笑)。で、映画の試写会とかもよくあるので、好きな場所の一つなんですが・・・ここが、もと都庁で、しかもその前は、土佐藩邸!、しかも坂本竜馬も寝起きした!とかなるとぞくぞくしていきますよ。知らなかったので。


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いままでこの場所は、「自分にとって有用な機能」でしか見ていませんでした。使用方法もですが、あの近代的な感じの雰囲気が好きで、会社帰りや大学の帰りにときどきフラーとよって眺めたりして帰ることもままありました。これは横軸(=今の自分にとって見える現在)です。けれども、縦軸で、坂本竜馬や土佐藩がつながると、たとえばいま狂っている『風雲児たち』という物語のイメージと、自分の住んでいるところがリアルな実在性をもって接続されてしまうんですよ。坂本竜馬は、もともと海援隊という日本初の株式会社をつくって日本の貿易立国構想を、指し示した人なんのですが、、、その船にのっていた岩崎弥太郎という経理担当が、のちの三菱財閥・三菱商事の創設者で、この人が湿地だった丸の内に近代建築群をつくって官舎を誘致するという三菱地所の基礎をつくったんですよね。そういうことがバンバン接続される。そして、自分の所属する組織や住む土地との関連性が、複雑な層となって感覚の中に、浮かび上がってくるんです。三菱グループなんて、シゴトで物凄い関係あるし、そうでなくともMITSUBISHIの製品は日本中にあふれている。こういう「今の実在」に歴史性が接続されると、歴史自身に異様なリアル感が感じられることと、今目の前に見ているモノの背後にある歴史の重層的な蓄積を実在して、感動してビビッドな躍動感がある感じが訪れるんですよ。ここまで感覚を持ってくるのは、難しいのですが、これはちゃんと勉強して、ちゃんとリアルと関わって生活者として、真剣に生きていると確実に訪れる実存感覚だと思います。「今ことの時この場所に生きている自分」が、膨大な歴史の体積の果てに存在しているという、、、なんというのだろう、歴史という巨大な物語の自分が一つありで部分なんだ、という実感です。


おっと、あまりに話が「読み方の前段階の姿勢」で長くなってしまった。(2)に続きます。

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*1:※1郊外化が進展して歴史性から完全に「根切り」された
戦後教育、とりわけ日教組と共産党のイデオロギーの深い浸透による、ナショナリティーとりわけ健全な右翼意識の育成への反発・失敗による、子供の歴史感覚の完全なる欠乏。・・・まぁこれは日教組とかの特定の組織の「せい」ではなく、そもそも1)総力戦争後による敗北後の国家は、強烈な戦争・暴力アレルギーになって国を傾けること(イギリスのチェンバレン首相を見よ!)、また2)日本人がとりわけ歴史性に対して忘却癖のある心性を持つこと、さらにいうと、3)郊外化の進展による核家族化にる大家族制度や家父長制度の崩壊という構造的問題があって、そこの水が低きに流れる部分に、行き過ぎた平等主義の強烈な宗教・政治団体らや、左翼、インターナショナリズム傾倒による歴史意識のはく奪を志向する組織の進展がハマったのだろうと思う。

*2:※2:歴史性へのコミットメントが非常に薄いという構造的心性 そもそもこの辺の学生は、日本の近現代史をまともに教育されていないはずだし、歴史性の背景も意味もわからないのに、インターナショナリズムと「アジアの人々を侵略して申し訳ありませんでした」というようなことばかり教えられる。ちなみに、ナショナリティー(=国民としての主体意識)がないのに、謝罪云々を教えられても、意味が不明なので、教育効果は一切ないと僕は思う。背景や相互のつながりが意識されないのに、謝罪とかの「気持ち」ばかり教えられているので、バカみたいな対応しかできなくなってしまうのだ。論理に支えられない感情なんかすぐ霧散するんだよ(しかもだいたい右翼とか反対方向に悪い形で)。これは教育者と政治指導者の責任だと僕は思う。
があると僕は思うんです。

*3:※3:Forces at work

この言葉はマッキンゼーの創始者マービン・バウアー氏が考え出したもで、直訳すれば「そこで働いている力」となる。マクロな事業環境分析であるFAW(Forces at Work)分析は、未来を予測するのによくつかわれる分析方法です。ある傾向を伴った事象があれば、そこには必ずその事象を発生させた力が働いているはずだと考えて、その力を分析し、発見することです。
http://www.bbook.jp/backnumber/2007/05/post_229.html
http://www.b-t-partners.com/pdf/pdf5.pdf

*4:※4:失われている歴史性へのニュートラルな形

これのニュートラル・中立を、価値へのコミットレスと考えてはいけないと思う。そうではなく、その時代その外部環境という限界の中で、ある世界観やバリューが選択されていることへの敬意があるかどうか、、、、戦前の脱亜論やアジア侵略には、その当時の必要な事情(プラス)と、そうであってもそれは下策である(マイナス)という部分があって、その両方を抱きしめて、その時、その場にいるという限界を考えた時に、今の後から結果が分かっている特権的な立場から軽々しく断罪しないという賢明さが必要。また、価値による過去の世界観の断罪ではなく、少なくとも時系列的に起きるメカニズムの解明をベースに評価をすべきだと思う。しょせん、ある価値へのコミットなくして、人間が語ることには意味はないし、そもそも歴史というのは統一的な視点から描かれる生の事実への暴力装置なのだから、それが、勝手な解釈による暴力装置であることを自覚して語ってほしい、というのが僕が言いたいこと。E・H・カーもいっているでしょう?。

*5:※5:これってインタヴューを多用しなければいけないので、たいへんだったろうなー。

*6:※6:これってまさに文学やアニメ、ライトノベルでいわれる「セカイ系」の話ですね。この話に絡めて、ランドリオールの12巻についての話を書いているところ。