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物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-07-16

最近V-tuberこつこつ見ています。ルナちゃんが、お気に入りです。

https://influencerlab.jp/who-is-vtuber/


うーむ、面白い。V-tuber、これは来るな。先日の物語三昧ラジオで、LD教授から、5人の四天王を制覇せよ、という宿題が出て、5人で四天王ってどういう意味だよ?とぶつぶつ言いつつ見たら、はまりました。


YouTubeあまり気にしていなかったけど、最近、子供の見つけてくるのが、けっこうYoutuber経由が多くて、ヒカキンが、ヒカキンが!といっていたんだけど、何のことかさっぱりだったんだけど、Youtuberのことだつたんだね。あれで、マインクラフトの面白さを、堪能しているらしい。つーか、英語のになると、もうさっぱりわからん。と、思っていたが、よく見るAnimeの英語紹介Youtuberが、Kizuna Aiを紹介しててコラボもしてて、うひー世界は狭いと驚いた。いやーちょっと目を離すと、世界があまりに進んでしまうので、おどろいてしまいます。これ、凄い時代の変化なので、追っておいたほうがいいなーと僕の嗅覚が告げているので、最近こつこつ見ています。


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輝夜月(カグヤルナ)の面白さは、特に格別だなー。こういうの、ウザかわ系後輩キャラ?というのかな。彼女とだったらありえないと思うが、後輩にいたら、でれでれになってしまいそうな気がする。


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バーチャルYouTuber四天王

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AByoutuber%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B

ちなみに、何見ていいのかわからん、という人は、まずは5人そろってバーチャ四天王から、行きませう。

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2018-06-26

『戦前の大金持ち』 出口治明著  ロールモデルを探せば、日本にも実際にはたくさんいるんだってことが、よくわかった! 

戦前の大金持ち (小学館新書)

客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)


出口治明さんの新著。素晴らしい着眼点で、とても感心した。本、特に新書には「時」というものがあると思う。なぜ、そのテーマの本をわざわざ出すのか?。そういう文脈が、ズバッっと、大きなレベルで感じさせる本は、とてもテーマ性を持った素晴らしい本だと思う。そういう意味では、本書の、いま、この時に出すという着眼点の鋭さは、素晴らしいと思う。


「日本にもジョブズやゲイツがゴロゴロいた!」


と帯にあるが、この視点がとても深く興味深い。というのは、これはいzつ関して出口治明さんが語ってきたこと、また彼が人生で現在、大学の学長という教育機関を選んでいることと強く結びついているように思えます。その文脈で見ると、この視点は、非常に鋭い。


どういう文脈で僕がこの本をとらえたかというと、


仮に日本(世界でもいい)をよくしよう!、と考えた時に、どうすればよくなるだろうか?


それは、人の意識を変えなければいけない。


たくさんの人の意識を高めるには、そのためには、教育しかない。


けど、教育において、、、、言い換えれば人が「変わる」ためには、成長するためには、何が一番重要か?


それは、ロールモデル=身近なお手本


けど、現在の日本には、それが見当たらないようにみえる。というのは、日本の問題点は、高度成長期のシステムがアンシャンレジームとして、老害になっていることがほとんどの原点なので、そうすると、大人にモデルを探すのはすごく難しい。いやむしろ、日本人は、そういうのはできないんじゃないか、という無力感さえ感じる。




というなかに、日本の歴史を見ると、そういうロールモデル足りうる人は、たくさんいたんだ!と具体的に見せることは、凄く、まさに今の文脈!という感じがする。この文脈なければ、そんな古臭い人で、かつ現代に三井、三菱のような財閥として名を残していないのに、見る意味があるのか?というように思っ手今う。けど、「この文脈」、現在の案者レジームに固まった、新しい価値をゼロから創造しなければいけない、混とんとした先の見えないカオスの時代で、それで「どう具体的に行きますか?」のモデルが見れることは、計り知れない価値がある。


僕も、人が変わるのに一番大事なことは、ロールモデル(目も前や近くにいる手本となる人)が目の前にいることだと思っています。


僕も長年やろうと思っていたことを習慣づけようとしてなかなかできなかったことが、出口さんに「僕はこうしているよ」と言われて、それですぐできるようになりました。具体的には、長年挑戦しようとしてたハードカバーの難しめの本を読むことなんですが、いま特に仕事や生活に影響を与えず、着実に読めている。1日1時間読む時間をとるだけなんですが…(苦笑)。でも、目の前に、それを実際にやって、高みまで到達した人をまじかで見ると「ああ、出来て当然なんだ」というような、妥協を排した納得感が生まれるんですよね。なので、目の前に具体的で、自分に近くないとダメなんですね。だから、ジョブスとか言われても、ピンとこない。けど、日本人で、ああ、大倉さんか、、、それ、ホテルオークラ作った人とかわかると、おうっ!とかなるんですよね。もちろん一番いいのは目の前にいることなんですが、それでも社会にモデルと提示する意味は計り知れない。戦前の日本は、アメリカ型の資本主義社会なので、アメリカにとても似ているんですよね。だから、発想も型破りで創造的でおかしくないんです。そこで、戦前の資本主義がアメリカ型に展開していた日本において、まさにジョブスやイーロンマスクのような新しいことに驀進して挑戦して展開していく資本主義の鬼のような生き方をした人が、たくさんいて、ほら日本にもこういう人はたくさんいたじゃないか、できないはずはない、と見せることは、今まさに価値があることだと思うんですよね。というか、こんなにゴロゴロいたのか、読んでいて感心しました。また出口さんのそれらの型破りなお金持ちたちへの評価が素晴らしかった。というのは、凄いやさしい人のように見えて、彼は、数字・ファクト・ロジックの権化でかつ大局的な歴史で見る視点が、実は「すごくクールで乾いた」ものだと僕は思うのですが、その視点がさっぱりしていて、本当にいい。武器商人から一大財閥を築いた大倉喜八郎、孫文の辛亥革命をパトロンとして支えた梅屋庄吉、パリで「蕩尽王・バロン薩摩」として名を馳せた薩摩治郎八などなど、生き方がぶっ飛んでる。


革命をプロデュースした日本人

大倉喜八郎の豪快なる生涯 (草思社文庫)

「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代


2012.11.6

日本の将来は明るい!そう考えられる根拠とは

https://diamond.jp/articles/-/27421

2016.6.3

世界はデータで見れば明らかに良い方向へ向かっている

https://diamond.jp/articles/-/92345

2014.10.28

6割の人が「日本の未来は暗い」――日本人は日本の将来像をどのように描いているのか

https://diamond.jp/articles/-/61187


僕は、ロールモデルの一人として、出口治明さんをとても尊敬しています。というかぶっちゃけ、口で軽々しく尊敬している!というのではなくて、もうひたすら本読みこんで、生活習慣変えて、あの「高み」に追い付けるよう頑張ると、日々努力しています。この辺の意見も影響受けまくりです。もう脳内のマッスルメモリーを鍛えるために、何度も何度も読み込んでいます。イヤーほんと、出口さんの引き出しのけた外れの大きさは、もー腰が抜けます。アーこんな人がいてくれてよかった!と日々思う毎日です。

日本の未来を考えよう


ちなみに、戦前の商人を追うのは、僕は物語を分析するうえで重要なファクターだと思っています。栗本薫さんが、グインサーガで、個人が活躍できなくなる、英雄が英雄でなくなる時代のぎりぎり近世ぐらいをグインサーガの舞台にしていますが、この語、英雄は英雄たり得なくなっていく、解体の時代が物語には訪れます。しかし、ではそんな資本主義社会の中で、セカイを変えよう!と野望を持つときに、どんなkyらくたーがありうるかといえば、それは商人だろうと思うのです。ああ、そういえば、そういうのを、僕は批評で書いていったけ。いやはや、追及が足りないなー自分。もっともっと勉強しなきゃ!。そう思う最近です。


『雄気堂々』 上巻 城山三郎〜尊皇攘夷と開国の狭間で

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081013/p1


雄気堂々〈上〉 (新潮文庫)


いやー読書最高だぜ!!!!

2018-06-01

寿命が長くなるにしたがって、もしかしていままでその年齢であたりまえだったことが、だいぶ変わっているんじゃないかな?

アラサーだけど、初恋です。 (デジタル版ガンガンコミックスpixiv)

『アラサーだけど、初恋です。』を読んだんです。めっちゃよかった!。・・・・・んだけど、記事を書こうとしても、よかった!以外余り思い浮かばない。批評的に引っかかるというか、何が「他とは違う伝えるべきポイント」なのかが、余り思い浮かばないんですよね。えっとどういうかというと、要は普通のラブコメ以外の要素がないんですよ。唯一、ポイントがあるとすれば、まさにタイトルで、アラサー30歳にもなって恋をしたことがない人が恋をした、というポイント。たぶん主人公とヒロインは、童貞で、処女ですね!。けど、、、、うーん、、、それも、なんか本当に新しいというか、新規なことなのか?と思っちゃうんですよ。コメディというのは、落差がポイントになるもので、30歳なんて当然のごとく彼女もいてHな経験もあって!という強いコモンセンスがあって、初めて、「そうではない」ということとの落差がコメディーになる。けど、僕は読んでいて、30歳の男の子が、ヒロインは28歳ですが、彼女が仮に35くらいであったとしても、童貞と処女で、恋をしたことも付き合ったことがなくても、、、えっ、それって、今時、よくあるんじゃない?という気がすごくしてしまうんです。うーん、、、なんか、たしかに、ほんの5−10年ぐらい前までは、それはカッコ悪いこととか、そんな年齢にもなって恋愛経験もないなんて!というような世間の圧力があった気がするんですが、いまはもうほとんどない気がしませんか?。。ものすごく感覚的なことなんですが、僕は、30代まで恋愛経験がないことが、何かのハンデになったり、人として成熟していないとは、もう思わなくなってきています。「思わなく」ではなくて、「感じなくなってきている」ですね。だから、あまりコメディーとして機能していない気がします。


でも、おもしろかった!んですよ。まぁ、絵柄が好みというのもあるし、主人公とヒロインの性格が、とっても初々しくて好きだったとかなんですが・・・・でもね、、、ちょっと振り返ったんです。僕、この系統の漫画すごく好きで探して読んでいるんですよね。『ヲタクに恋は難しい』とかも、凄く好きなんです。。。。でも、僕って、子供が3人いる、40代真ん中の、おっさんですよ、、、、何そんな青臭いこと、楽しめちゃうの?って、自分で、????って気持ちになります。実は、5年ぐらい前までは、ちょっと、忸怩たる思いがありました。「忸怩」というのは、ようはね、組織で偉くなって、人の上になって、年齢も高くなって、人の親になって、、、、というような「いい年したおっさん」が、こういう恋愛初めての青臭い中学生の感じるような物語が好きとか、なんて幼稚なやつなんだろう自分って、、、、Mぁ、僕は漫画とか好きなのは誇りなので、少しそう思っても、却下するんですが。。。。。でも、まぁ5年ぐらい?2000年代の初めぐらいまでは、それでも、「年齢や役職にふさわしく」なきゃなーという思いが片隅にありました。いいかえれば、40歳にもなったいい大人が、感じるようなじじむさいことが、できないとダメだって、「あるべき姿」があったわけです。・・・・・けど、いま、そういうの全くないんですね。いったい、この5年ぐらいに何が変わったんだろう?。


ちなみに、僕はいまアメリカに住んでいますが、よく言われるのが、昔の年齢と今の年齢は違う。今の人は、昔の年齢の10歳マイナスで見るとちょうどいい、というやつです。時には20歳近い差がある、と。


どういうことかというと、たとえば僕は今40歳だとすると、マイナス10歳−20歳で、感受性的には、言い換えれば精神年齢、肉体年齢的には、昔の20−30歳と見るとちょうどいいというのです。僕は、頭の中ではそうだなーと思っていたんですが、いまいち実感がなかったんですが、、、さっきこの漫画を読んでいて、もしかして!!!と思いました。というのは、もしかして、リンダグラットン教授が言うようにこれからの先進国の平均寿命が100歳になるとすれば、これまで、戦後う時代は織田信長の50年とか、昔ならば60年とか、そういった時代で遂げなければならなかった成熟が、少なくとも平均寿命の80歳に伸び、今まさに100歳まで延ばされようとしているのではないか?ということです。


だとすると、この主人公が34歳でも、マイナス10−20歳ならば、14−24歳のレンジではないですか!だとすれば、恋なんかしたことなくても、全然おかしくない。もしかして、そういうことなのか!?と思いました。ちなみに、生物用語では、幼生の外見のままで性的に成熟する、つまり子孫を作る能力を持つ現象を幼形成熟、ネオテニーといいます。性的に成熟する(=肉体的成長)のと、精神的に成熟するのが、人間的に成熟するのが、昔と比率が変わってきているのではないか!!!と(笑)。


『ヲタクに恋は難しい』なんかも、何が面白いかよくわからないけど、好きだったんですよ。だって、これも、要はラブコメじゃないですか。ヲタクとか、社会人とか、年齢が上がったとかの要素の落差のコメディーは、ほとんど機能していない気がするんですよねー。ただ単に、普通の学園ラブコメを、別の舞台で見ているだけ。でも、そういうふつーのものが、これまでの常識でマーケットの需要はあるのに、出なかっただけ、、、、だったんじゃあ!!!とか。だからこそ、むしろ特に濃くない、落差を強調しない、普通の作品を、その舞台で描く、特に差異を際立たせないフツーの作品のほうこそが需要があるのではないか!!!と。


いや、まぁそんな小難しいことばかり考えて読んでいるわけじゃないんですけど、、、、。


ヲタクに恋は難しい (1)


人生、100年の時代ですよ。全く違う感受性の時代が来ているんじゃーねーかなー。


LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

2018-05-05

『ゆるキャン△』(2018) 京極義昭監督 原作あfろ どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性

ゆるキャン△ 1 [DVD]

客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)


さて同じ2018年の最初のシーズンに放映されていたこれ。毎週、『宇宙よりも遠い場所』と同時に二話見ていました。


『宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180415/p1


この記事は、上記の記事の続きの記事です。これ同時代性がすごく感じられて、見ていて、興味深かったです。しかし、日常系の料理の仕方としては、全然違っているので、物語としては感触は全く違います。『ゆるキャン△』は、まさに日常系の典型的なもので、いってみれば女の子が戯れているだけなので、この文脈を体感できない人には、物語性がないので、意味不明に感じてしまうかもしれませんね。興味深いのですが、例えば10-20年後、『ゆるキャン△』や『けいおん』などの作品群を、文脈の同時代性なしに、わかるのでしょうか。というのは、物語におけるドラマ性がかなり配されているので、結局何が目的なのか?、何を目指して、何に収束するのかが、不明瞭なので、ある種の無意識の背景リテラシーがないと、この物語はいったい何の物語なのかと、理解できないのではないかと思ったりします。この辺は、感性もあるので、とても人の属性やその人の内的テーマによるとは思いますが、ドラマ性がないものは、かなり見る人を選ぶ気がします。


『ゆるキャン△』がどういう話かといえば、『まんがタイムきららフォワード』(芳文社)にて、2015年から連載されている漫画をベースにしています。オフシーズンの一人キャンプが好きな女子高校生の志摩リンが、キャンプを楽しむ日常を描くもの、といえると思います。そこに、転校生の各務原なでしこに出会い、彼女が同好会である「野外活動サークル(野クル)」に入部して他のメンバーたちとの交流も描かれる、といったところでしょうか。特筆すべきは、snsでいろいろな情報がやり取りされていて、一人キャンプが好きなりんは、必ずしも他のメンバーたちと一緒に行動しているわけでも、群れているわけでもないのに緩やかにつながっているさまが描かれているところでしょう。


と書くと、これが日常系なのがよくわかると思います。というのは、ドラマ性が非常薄いのがわかりますよね。どこかに行こうという目的もないし、サークルを結成して、何をするという目的があるわけでもない。今この時の関係性や、やっていることを楽しんでいる「その感覚」を描写しているだけです。だから、ドラマの展開力が非常に薄い。『よりもい』が、そもそも不可能に見えるティーンエイジャーの女の子が、南極に行くという強い目的をもって、そこに体当たりしていく困難を描くドラマ性と比較すると、この両作品のドラマ性の差が如実にわかると思います。

ゆるキャン△ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)


■『ゆるキャン△』に示された、どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性


『ゆるキャン△』は、なので日常系・無菌系の文脈なしでは、いまいち何をいっているのわからない系譜のものになると思うのですが、この作品の日常系としての出来の良さ以外のポイントで、文脈として注目したポイントは、SNSの使い方です。前回の『よりもい』で関係性について到達した結論は、結局、一周回って、心の中に絆があれば、どこにいようが(ばらばらで一緒にいなくてもいい)問題ないということでした。ましてや、SNSなどのサービスが共時的に体験をできるシステムが整いつつあるので、それが「目に見える」。えっと、順番は逆じゃないんですよ。りんちゃんとなでしこの関係が、LINEで描かれていて、遠くにいても「同じところにいるような」関係性が、生まれた!のではないんです。関係性が内在している、、、言い換えれば絆が生まれていれば、仮にSNSのようなサービスがなくても、そこに絆の共時性はあるはずなんです。今までそれが見えなかったし、記録に残らなかっただけ、なんですよね。それが、あぶりだされて、目に見えるようになっただけ、なんです。この絆の「目に見える」というところの演出が、とても素晴らしかったのが、『ゆるキャン△』のアニメでした。そして、これは演出だけにとどまらず、大きな文脈の中のある種の結論として、機能していると僕は考えます。


これは、ぼっち、というテーマのアンサーです。


上で話しましたね。ぼっちであるのは、一人でいることとか「状態」ではなくて、心の在り方なんだということ。りんちゃんは、あれだけ仲良くなっても、ソロキャンをやめません。なぜって、一人でキャンプするのが好きだからなんです。一人でいるから、独りぼっちというわけではない。それが端的物理的に最終回で描かれているのは、りんちゃんとなでしこが、特にお互い連絡もしないで、個別にソロでキャンプに出掛けて、行き先が一緒で出会ったことは、彼らの関係性が絆までレベルアップしていて、もう特に言葉で語り合わなくても、とても思考や行動がシンクロしやすくなっているさまを描いているんですよね。あそこに、SNSいらないと思うんですよ、実際は。ただテクノロジーがあるので、それが目に見えるように炙り出されている現代性を見せているだけ。


関係性の確認や強度が増すことを、最後の締めに持ってきていること、それが内面の問題だけで決着をつけるのではなく、行動の結果として目に見せるというのも、演出の特徴でした。キマリと親友のめぐっちゃんの最後のシーンは、まさにシンクロしますね。『ゆるキャン』と。


ここで何が問われているかといえば、「友達」との「関係性」の行きつくところは何なのだろうか?ということ。その結論としていきついた友達との関係性の「絆」というのは、目に見えもするし、見えなくもあるが、『ゆるキャン△』ではっきりと明示的に描かれているように、同質的で、同調圧力的で、みんなと一緒に行動ること「ではない!」というのが重要です。なので、ぼっちに見えることは、何ら怖いことでもなければ、実際には、ぼっちですらない。前回の記事で語ったように、順番は逆なんですよね。友達をが欲しいというのが先に来るのではなくて、自分の好きなことの内発性を突き詰めていくと、「それ」を通して他の人間とつながる可能性が生まれて、それが蓄積され積み重なることによって、絆に変わっていく。絆に変化した関係性は、本物だから、同調圧力などとは関係ないところにあるので、どこへ行っても、一緒でなくとも、何の問題もありません。それはある種のセーフブランケットになる。


宇宙よりも遠い場所 4 [Blu-ray]



■『広く弱くつながって生きる』ことの認知

佐々木俊尚さんの最新の本が、『広く弱くつながって生きる』でした。少し前に、この言葉は出てくるようになりました。『弱いつながり』。もともとは、アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッターが1970年代に提唱した「弱い絆”The strength of weak ties”」ですね。1970年代当時は、実際に分析したときには、日本では強い絆のほうが転職に効果的との結論が出たらしいです。同調圧力が強烈に機能していれば、それはそうだよな、と思います。けど、それから、40年以上たって、アメリカ型のアソシエーション社会になりつつある日本において有用な概念だと思う。日本的な中間集団は、企業共同体が強固に維持されている時は、機能したのですが、それが壊れてくると、中間集団的な共同体の存在しない日本では、むきだしの個人が、現実にさらされる恐怖空間になる。これは、日本が、成熟先進国のステージにどっぷりつかってきていること、またアメリカが持つ宗教共同体などの中間共同体構築の伝統や、欧州のような再帰的な努力が全くされていないがゆえに、起きることなんだろうと思います。だから、むき出しの個人が、さびしくてさびしくて仕方がない。結果、自殺率が急上昇したりして、高止まりする。


上記の話をした、絆ってのにも、要はレベルがあるって話ですね。あと、何を通して絆を維持しているか?という話。


強固な関係性を持つ絆は、まぁいってみれば、特徴的なのが家族ですよね。夫婦とか、、、、、ということで、恋人とか親友というのが、みんなほしくなるんです。強い絆が崩壊しているから。ちなみに、80年代以降の20年間は、まさに家族の絆、家族の関係性が、崩壊していく様を描く物語が頻出していました。そこで製造された感覚が、アダルトチルドレンですね。要は基盤となる絆を持っていない人は、スタート時点で、相当のハンデを背負ってしまう。実際のところ、社会は回っているので、こうした最低限のリソースは、僕は社会にはまあそれなりにあるんだろうと思います。なので、実は、社会全体に共有されるテーマではないと思うんです。実存を脅かすくらいに、尊厳のリソースが少ない人は、社会のある程度のパーセンテージでそれ以上は増えていない気がします。ただし、1990年代ぐらいから、特に『新世紀エヴァンゲリオン』のブレイクの頃は、これまで日本社会では誤魔化せていた、個人が現実に直接、ブランケットなしで向き合う恐怖というのが、いきなりむき出しに感じられたパラダイムシフトの時代だったんだと思います。この辺はよく考えなければいけないポイントですが、明らかに会社共同体の崩壊(永遠の年功序列や終身雇用の幻想が維持できなくなった)ことや、家族の絆と思われていたものが、単に奴隷のように拘束されていただけで、特にさしたる理由もなくて、お金やきっかけがあれば解体してしまう思い込みだったことも、この辺りでは意識されます。この辺りはまさに映画や様々な物語で激しく描かれましたね。


けれども、それひと段落つきつつあるのが、いまなんじゃないかな、と思います。これは、個人の孤独が感じなくなったとか、貧困層が減っているということではありません。むしろ逆で、じわじわとこれらの物理的な厳しさは激しくなっているとは思います。けれども、既に、こうした個人がむき出しの現実に孤独に向き合わなければならなくて、そこには家族とか恋人とかの幻想の関係性は、ナチュラルボーンにはもらえないんだ、そんな世界は甘くないんだという、個人の自立の認識が、ある程度自明的になってきたんじゃないかあな、と思うのです。


じゃあ、、、、個人は孤独だ、家族とかナチュラルボーンに、生まれついて持っているものは、あまり期待することはできない。しょせん幻想だから。


という環境が当たり前だと思うようになった環境下で、どうすれば、幸せに生きれるだろうか?ということ。


それはやっぱり、目標(=好きなこと)を持つこと。目標は、別に社会的成功や立身出世などの功利的なことと結びつく必要はない。ただ単に、好きなこと、それをやっていると楽しいと思えること。これならば、そこには、それをなくしてしまう「変数」が存在しないから。いいかえると、恋人とか家族とかは、期待に裏切られるということがありますが、、、、好きという内発性は、裏切られにくいのです。僕は、アニメや漫画が好きです。読んでいると、幸せな気分になります。それは、社会的な成功や成長とは何にも結びつかないし、誰にも評価してもらえません。けれども、期待していないので、裏切られることがないんです。なので、凄く重要な、僕の「根源」となります。そして、それは、まさに尊厳。セルフエスティームであり、自信。自分が、自分であることは、好きなことを喜んでいるという反応の中にあります。そして、そういうのが同じように好きな人たちが、集まると、、、それは、自覚的共同体だと思うのです。共同体というには、小さいかもしれないですが、それを弱く緩やかにつなげたり、誰かがアンカーとなって場を形成したり育てたり。そういうのが、結局、楽しさの手ごたえとなり、それが自信と自尊心を涵養し、同じものを持った自家発電できる人同士の緩やかな絆になっていく、、、というのが、現代の絆の在り方じゃないの?って気がします。


もちろん、絆にはグラデーションがあります。確固とした家族の絆、恋人との絆、会社での絆、とか過去にあったものがなくなったわけではありません。僕の中のイメージは、タコ足みたいなもの。軸足を強いものに強烈に依存するような、一本足打法ではなくて、様々な軸足をもって、一つ二つ折れたり曲がっても、全体が倒れてしまわないという感じです。


近代社会では、むき出しの個人がリアルに触れて、家族や国家などの共同体の幻想がぶち壊されて、ボロボロになるというモチーフがたくさん出てきます。それは、これが事実だから。これにどうあらがうのかが、現代社会の最重要テーマの一つ。大体の政治家が、家族の復活を解くのですが、これはすなわち、旧来の差別構造など温存でもあるので、けっこう微妙。かといって、リベラルに様々な差別構造を是正していくと、すべてがフラットになって、関係性がタイトに結びつく契機がどうも失われていくみたいなんですよね。そうすると、近代の理想である「入れ替え可能性」は、いいかえれば、誰でもいいので、あなたでもなくていい、という実存感覚や自尊心の喪失を招きやすい。。。。という中で、あなたはどうやって、自尊心を確保しますか?そして、どうやって、他者とつながりますか?というようなことが、実は我々の生きる世界の大きなテーマなのかなーと思います。


という中で、『よりもい』みたいに、特別な目標を、頭をひねり出して、仲間と共有して、唯一性を獲得するってのも一つの手法。やってやれないことはない、ってやつですね。ちなみに、ここで重要なのは、世界で初めて南極点に到達する!とかいった社会的意義のある事じゃなくていい、ということですね。ここではもっぱら心の問題を解決すること、友達との関係性を深めることのために、目的や目標が使われています。逆じゃないのが、現代的ですね。目標が優先するならば、友達や大事な人を切り捨ててでも、そこへ到達するのが正しいことになります。これは、デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャルネットワーク』(最近見た)とかまさにそうでしたね。部活ものでよく描かれる葛藤ですが、目的と仲間とどっちが大事なの?という問いかけ。ちなみに、『よりもい』は、もともと日常系からきているので、日常系の答えは、目的と仲間ならば、目的レスの仲間のみ、というのが結論でした。けれども、そこにスパイスとして目標が困難でチャレンジングであればいいとしたところに、なかなかのスパイスがあると思うんです。これ、古き成長主義路線に戻っているんですが、単純じゃないんですね。ようは、優先順位が逆転しているんですよ。ちなみに、『ソーシャルネットワーク』のFACEBOOK創業者のマーク・ザッカーバーグとかピーターティールなど、こうしたビリオネアが、ガンガン周りを切り捨てて、何を目指しているのか?というのは興味深い論考で、それは今度書きます。


そんでもって、『ゆるキャン△』なんですが、これは、日常系の学園の中で無時間性という問題に対する答えですね。


New Game: Season One/ [Blu-ray] [Import]


『あずまんが大王』の呪いと僕らはよんでいますが、学園の中の時間が止まった状態を、卒業というエンドポイントを仕込むことで、時間が止まれない罠をこの作品は作りました。けれども、学園の中の「繰り返される日常」は簡単に永遠的な、回帰的な時間に回収されてしまいやすい。けれども、そうじゃない!とする物語の展開を考えるのならば、卒業してお仕事的なものに向かう『『NEW GAME!』』や『SHIROBAKO』に分岐しうるし、また僕はこの趣味系統のものにシフトすると、ちゃんと自立して大人になって卒業して、時間は流れていても、それでも同じ趣味でつながっていられるという意味で、なかなか座りがいいものだと思っています。ちなみに、佐々木俊尚さんがロングトレイルにはまっているという話をしていましたが、緩やかに回帰的な、明日もそれほど変わらない日常を黄昏的に生きていくという意味では、こういったキャンプやロングトレイルなどは、非常に親和的があるテーマなのだろうと思います。とても似ている日常が繰り返されていくが、そこにはじわじわと、時間は流れていて、そして、たぶん、彼らが大人になっても、その絆は緩やかにつながっていて、なかなか途切れない、、、、。途中で、彼らが大人になったという、夢落ちでしたが、シーンがありましたが、社会的地位がどう変わろうと、数年に一度だろうと必ず会うだろうという、緩やかな関係性の感じは、まさにこのテーマにふさわしい感じでした。


広く弱くつながって生きる (幻冬舎新書)

■参考

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130603/p2

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130406/p2

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2018-04-15

『宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!

宇宙よりも遠い場所 4 [Blu-ray]

客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)

キマリこと玉木マリの主人公の視点から物語は始まる。南極を目指す少女・小淵沢報瀬(こぶちざわしらせ)と出会うことにより、何となく退屈な日常の、どこかへ行きたいという気持ちに、具体性がが生まれ、そして、「ここではないどこか」という否定形ではなくて、「そこ=南極」というはっきりとした具体的な場所に、キマリたちは突き進んでいく。

とてもコンパクトでまとまっている傑作なので、ぜひとも「いま(2018年)」に見たい作品なので、頑張れる人は、ぜひとも見ることをお勧めします。あとで対比で説明する『ゆるキャン△』と比べてとても見やすいと思います。同じ日常系・無菌系の特徴である少女がたいてい4人いて、その関係性のみで話が展開するという作品は、通常の意味ではドラマトゥルギーが弱いので、ある種の文脈や、関係性のみにフレームアップすることに安らぎを覚えるという感受性をベースにしないと、何が面白いの?という感覚に陥りやすいのですが、『よりもい』は、南極に行くという非日常の目的がセットされており、そこに向かって物語が収束していく展開力があるので、主軸が4人の関係性だとしても、ほぼだれでも見れる作品になっていると思うので、どなたにも(いいかえれば男女問わず)お勧めです。特に、これは地味ではあろうと思うのですが(どれくらい売れたんだろう・・・・)、文脈的にアンカーとなるエポックメイキングな作品だと思うので、見て損はないです。放映時点で、かなり話題になった作品なのですが、2010年代の代表的な意味文脈を感じるからだとと思います。時代的なコンテキストは、空気として流れていってしまいやすいので、こうしてブログのような形でメモしておくと、全体像や時代の変遷についてのアンカーになっていいと思う。小説家の坂上秋成さんが、俺は俺の南極に行くと、稚内に飛んでいた時は、ぐっと来た(笑)。しかも、それが、最終回であっさり、キマリの友人に先を越されているあたり、この作品のシナリオのコンセプトがちゃんと貫徹されているさまがよくわかります。


ちなみに、ネタバレなので、いつも通り、そこはご意識ください。



坂上さんの文脈を僕が理解しているわけではないのですが、アニメや物語をリアルタイムで見続けていると、時代的な何かの到達点に感じるのは、たぶん誰しも感じたんだろうと思います。



文脈や考え方は同じではないかもしれませんが、時代的な何かの変化を感じさせる意味を感じる作品でした。


今の時点で、僕が考えて考えたことを以下にまとめてみたいと思います。


■日常と非日常をつなげるために必要なのはアイディアであって、アイディアがひねることができれば、人はどこへでも行ける


2018年の4月の時点でこれを見ている時には、やはり『らき☆すた』(2004)『けいおん』(2007-2009)『ゆゆ式』(2013)(などの日常系、僕らの言葉でいう無菌系の類型の到達の一つに見えました。空気系、日常系、そして無菌系の最先端作品として、『宇宙よりも遠い場所』と『ゆるキャン』の2作品が、今期の代表作だろうと思います。よりもいの、特徴的なのは、日常系のインフラストラクチャーに土台は乗っかりながら、舞台も、目指すところも、南極という非日常という部分。この辺りの絶妙のスパイスは素晴らしかった。

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ええとですね、どういう風に感じたかの構造的なものを言葉にするとですね、、、まず最初に、空気系(ここでは無菌系とかの区別は置いておきます)といわれるような、2000年代にたくさん登場してきた、少女たちが、たいてい4人ほど、戯れるだけという物語を思い浮かべてほしいのですが、これの舞台は、学園でした。要はクラスメイトなんですね。たいてい。凄く特徴的なのは、これが時間が止まったかのような学園生活の一コマが切り取られており、『あずまんが大王』の呪いとでもいうべきか、卒業はするのですが、この世界観。ここで重要なことは、代わりのない永遠に続くかのような繰り返される日常の中で、重要なのは女の子だけで戯れて、無邪気に笑いあっているということでした。ここで重要な感覚は、学園の世界から外に出ない、同じ繰り返しの中にたゆたっていることを肯定的にとらえることでした。これをもう少し抽象的に俯瞰してみると、目的意識が存在していない、ということでした。たとえば、ジャズギタリストを目指していたけいおんのあずにゃんは、ぬるい高校の素人の部活に取り込まれて、少なくとも、劇中では、孤独を貫いて、学園の外の価値観であるジャズのプロを志向するような振る舞いはいっさいありませんでした。ここでは、目的意識がないことこそ!賞揚しているようにみえます。

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過去の経緯を話すと長くなるので、そこはラジオで解説されている部分で、お願いします。

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簡単に言えば、それまでの物語類型で、少年が竜退治をする・・・・英雄になるという目的式の大きな課題の一つである戦争のない世界をつくる、人間が悪であることを否定するということ、、、この辺りもめんどくさいので、簡単にえば、目的意識をもって頑張り続けることに、その結果が、人類の終末という、身もふたもないことに必ずつながるさまを見せられ続けて、少年が英雄を目指すことに、疲れ果ててしまったんですね。この少年が、英雄が疲れ果てて、物語の主人公にあきらめたことと、これが日常系の男の子の視点がなくなって、少女たちだけが、学園生活の中で戯れるという物語空間に接続していくには、ラブコメの変遷、セカイ系の変遷を経るのですが、そこまで細かいのは置いておいても、直感的にはつながると思うのです。

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ようは、目的意識をもって未来のために生きて目的の奴隷となることを拒否する、または、そういった目的を持って頑張っていてもブラック企業の奴隷になるだけで、この世界の構造は結局とのころ、思っていたような英雄になって世界を救うことなどできないという絶望感にとらわれた時に、今この時を生きる、目的などという遠い抽象的な概念ではなくて、目の前の具体的なだれかとの関係性の変化こそを最も大事なものとして、そこにフォーカスして見れば、目的からすればごみのようなどうでもいい切り捨てる対象だった、その関係性が、実は、本当に大事なもの、自分が帰るところ、生きる実感をもたらしてくれる場所だった、、、、それへの気づきの極端な戯画化が、日常系という学園の中で4人の少女がただ戯れて無邪気に遊んでいるだけの物語という類型を生み出してきた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・だとすると、おかしいと思いませんか?。



日常系の重要なポイントは、学園の中から、どこにも行かないこと、だったはずです。「どこか」という具体的な場所を設定したら、それは目的です。目的の奴隷になるのを拒否したのが、この類型の始まりだったとすれば、よりもいが、いかにおかしな物語構造をしているかわかると思います。


だって、具体的などこか、それが、ここでいう日常=学園という安定した空間から、最も「遠い」所をし想定しているからです。この時点で、この作品は野心的です。


4人のキャラクターが、単純に、女子高生ではない、というのも重要です。4人ともが、同じ学園に属していません。一人は、ドロップアウトしたフリーターだし、一人は学年の違うアイドル、キマリこと玉木マリを視聴者の感情移入のポイントである「何もない普通の人」と設定すれば、南極へ行くという非日常の目的意識の世界に生きている小淵沢報瀬(こぶちざわしらせ)は、全く違う人種です。4人の属性が、これほど違い、共通性を持ちにくい設定にしているのも、ちなみに、学園生活をドロップアウトしたフリーター、ニートをテーマとするのは、セカイ系寄りのテーマ(東のエデンを見よ!)ですし、アイドルというのは、アイカツやアイマスなどの女の子のシンデレラストーリーのリノヴェート版です。そう考えると、この属性の構成が、とても古いテーマ、というか、セカイ系などの主人公、英雄に動機が失われてしまう前のテーマにつながることが感じられます。たとえば、学校をドロップアウトしたニートを、笑い飛ばしたり、そういう穏やかな日常もいいよ!と笑うのが日常系であって、それをシリアスに悩み、その理由を追求し、再生を希求するのは、明らかに古い目的意識の強いテーマです。ほんの数話ですが、この問題にはっきりとよりもいは、答えを出していて、それもとても繊細な物語構成だと思います。

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話が、少し飛んだので、元に戻ると、南極という、日常の学園生活の対極に位置される具体的などこかを目的としてセットして、そこに向かって時系列的に収束する形で物語が展開するのは、回帰的な並行する永遠の日常の時間をメインテーマとする日常系の作品の反対に位置するものです。


にもかかわらず、4人の少女の関係性のみが、やはり物語のテーマであり、最後までそこにぶれることがないのは、はっきりと日常系の類型を示しています。


構造的に言うと、日常と非日常というものが、特に対立するものではなく同時に描かれている。目的意識のある直線的な切迫した時間感覚と回帰的ないつまでも変わらない日常時間間隔が、同時並行的に、繊細に描かれている。分析的に考えると、


A)玉木 マリ(たまき マリ)/三宅 日向(みやけ ひなた)-回帰的な永遠の日常


B)白石 結月(しらいし ゆづき)/小淵沢 報瀬(こぶちざわ しらせ)-目的意識のある直線的な時間感覚


こう分けられる。こう分けると、それぞれの自意識のテーマ、小さなエピソードの積み上げが、すべて、はっきりとこの問題意識に貫かれていることが読み取れると思います。まずは主軸のキマリは、今日と、明日が変わらない、何物でもないちっぽけな自分を変えたくて、そこから抜け出たくて「ここではないどこか」に行こうとします。それが、はっきりと焦点をもって、具体的な目的意識に昇華するのは、小淵沢報瀬と出会うからです。彼女は、自分の母親を南極で亡くしており、なんとして南極に行こという強い意志で生きています。しかしながら、この永遠の日常のような学園世界で、強い目的式(私はお前たちとは違う!)という意識を持てば、それだけはじかれ、孤立し、孤独の世界を偏屈に生きることになります。この二人が出会うということの意味は、お互いが、回帰する時間⇒直線的時間感覚(キマリ)と、直線的時間⇒回帰する時間(しらせ)の全く異な意識をお互いに伝えあい、感染しあう過程になっています。キマリは、しらせと出会うことによって、生きることの意味を、目的をもって生き、他と違うことを誇らしげに示すことを学びます。逆に知らせは、一人だけで生きていく目的の奴隷ではなく、それを等身大の仲間と共有して、今この時を大事にして生きることを学びます。お互いが逆パターンで感染して影響を与えています。ちなみに、キマリの本当にお決まりの手あかにまみれた、ここではないどこかに行きたいという気持ちに明確に形を与えて、それが、しかも宇宙というファンタジーの非日常の大冒険になるよりも、さらに行くのが難しいところでありながら、そこにそのまま、関係性の物語を持ち込める状況を考えついたのは、この脚本は、秀逸すぎます。


三宅日向(みやけ ひなた)のエピソードは、典型的なドロップアウト、ニート系統のぼっちの物語です。これは後で出てくる『ゆるキャン△』のリンちゃんのテーマと同じですが、大きく違う点は、ニートだけにとてもネガティヴに、一度道を踏み外して、友達に裏切られて、ぼっちになって、孤立していくこと、もう一度信頼をすることが怖くてできなくなってすくんでいる時の怖さが描かれています。ネガティヴに時間が止まってしまっているのが、彼女の問題点です。一昔前の、アダルトチルドレンのトラウマの物語類型ですね。シンジ君のお話です。もう一度普通に生きるために、、、言い換えれば、普通の時間感覚に戻るために、彼女は、南極まで、、、、言い換えれば世界の果てまで行く必要がありました。彼女の壊れてしまった動機、、、、他者を信頼するという能動的な第一歩の踏み出しのために、彼女は、世界の果てまで具体的に行く必要があり、そこに行って初めて、彼女のは心の壁を超えることになります。これは、まさにセカイ系・脱セカイ系にあったテーマで、繰り返される永遠の日常という、繰り返される地獄(ネガティヴにとらえると)をどのように脱出できるかが、問題意識でした。そして、この繰り返される閉じ込められた世界というのは、動機のなくなった主人公の心象風景であったのは、スカイクロラでもうる星やつら・ビューティフルドリーマーでも村上春樹の作品でも、いま振り返るとはっきりしています。動機を失った人が、再び動機を調達して、生きる気力を取り戻せばどうすればいいのか?の出口を探す旅が、セカイ系の問いかけであったのは、いまから振り返ればわかることです。ちなみに、この全体の中ではそれほど大きくないエピソードは、とても秀逸な、結論を示していて、僕は素晴らしいとうなりました。日向は、裏切られた友達に裏切られて高校を辞めたのですが、当然にこの裏切られ友達との関係修復をどうするか?がテーマになると思いきや、この、いってみれば日向をスケープゴートにしていじめて同町圧力をかけてきた高校に残った(勝ち組に見える)友達のほうを、ばっさり切り捨てるんです。もう友達じゃない、、、というか、そもそも友達じゃなかったので、私の居場所はそこではなかったんです、と高らかに宣言して(正確には友達・キマリたちがしてくれた)彼らを切り捨てます。問題点を、克服するのではなくて、ああ、そもそももともとそこの居場所が間違っていたんだ、と切り捨てたんです。これは、同町圧力で、復学するのが正しい!とか、仲良くするのが正しい!という日本的学園同町圧力の地獄のテーマでは、はっきりとしした答えなのですが・・・・通常は、これは負け犬の、セリフです。だって、高校から逃げ出したんだし、友達との同町圧力のゲームに勝ち残れなかったわけですから。だから日向は、過去の友達というか高校の同級生と顔を合わせたくないし、うじうじしているのは、自分が負け犬だというのが、顔を合わせた時に発覚してしまうからですね。このゲームに勝つ方法は、ほぼ一つしかないんです。学校の評価軸以上の評価軸を示したときに、ゲームの勝ち負けが逆転します。また、日向の心の動機レスなものを、癒して、前に向けてくれる仲間、友達がそばにいて、明らかにそれが、過去の人間関係より質が高いと思える時に、ゲームとしては、勝った!感が漂います。まぁ勝ち負けで人生生きているわけでは本当はないんですが、高校生活という学園同町圧力ゲーム・・・・日本的お友達の世界は、そういう勝ち負けのゲームをしているんです。なので、自分が嫌でも相手は、そういうルールを押し付けてきます。けど、このエピソードは、ほんの2話ぐらいで、完全に勝ちだ!と思わせる(視聴者に感じさせる)のに成功していると思うんですよ。それは、南極に行く!!!という社会的な、日常の、当たり前の価値観のスケールを振り切れたことを実行していること、それを、仲間と一緒に時間を共有していること(=帰る場所があること)がある状態で、日向ではなく、キマリが相手に行ってやることで、こりゃもう、高校やめた日向のほうが、充実してないか?というのが、はっきりわかってしまうんです。その具体的な状況設定の中で、私にもうかかわるな!宣言は、負け犬の遠吠えではなくて、高らかな勝利宣言になるれうんです。そして、心の迷宮、繰り返される永遠の日常の地獄を抜け出すには、実は、物理的に、とんでもない遠くまで行くことが効果があるというのは、物語でもそうですし、実際の人間でも同じだと僕は思っています。ようは、心の問題というのは、抽象的なものに惑わされているコンセプチュアルなことなので、身体性、フィジカルなものに戻れ!というのがこの系統の出口です。殺し合いのバトルロワイヤルや格闘技系の暴力、セックスや薬などにこの話が行きやすいのは、心に閉じ込められたら、現実に戻るには、身体性を再獲得するのが当然の帰結だからですね。けど、取り戻そうとするときの強度は、極端なものが必要です。このアダルトチルドレンのトラウマ回復の物語、動機が失われたものの再獲得の物語が、、、、僕とLDさんがブログで、理論上もっとも救われな人をどう救済するかまで追い詰めていった物語が、こうもあっさり数話のありきたりの具体的な、よくある普通の話にコンパクトにまとめられているさまは、この問いかけが、この類型が、ここまで洗練されて、既に重要なテーマではなく、その先に受けても作りても進んでいることを示していると僕は思い、感動しました。


白石結月(しらいし ゆづき)のエピソードは、まさに、僕は友達はが少ない、のそのまんまです。究極、彼女が欲しているものは、ずばり、友達です。でも、友達って、いろいろな角度からの問いがなされていて、一つは、それってただの同町圧力の地獄じゃねえの?という問いで、これは日向の日本的学園世界のテーマと同じ基本構造でもありますね。日本で友達というと、直ぐこの、同調圧力をかけてくる圧力という装置とどう違うのか?というのがテーマになります。それだけ、学園の教室の世界というのは、同調圧力の地獄なんですねぇ。そしてすぐスクールカーストの序列の話になるんですが、ゆづきは、そもそもアイドルとして学園に具体的に所属できていないので、何をもって友達というのか?というテーマにシンプルに絞られます。彼女が深刻になりにくかったのは、彼女がアイドルという外の世界に、言い換えれば学園とは異なる社会的な評価軸で確固たる地位を占めていたからですね。これは、『SHIROBAKO』などのお仕事ものに、学園世界での閉塞感からの脱出が向かっていたのと同じです。

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とはいえ、友達が、できない、、、、、それってのは、生きている充実から、仲間外れにされているのではないか?という風な不安と恐怖が、ゆづきには、つきまとっています。これ、リア充爆発しろという例のスクールカーストの問題意識のパラフレーズですね。つまりは、より価値のある人生、より充実した人生は、どこにあるのか?というときに、友達がいることなのではないか、という仮説があって、それでみんな苦しむんです。ちなみに、『ゆるキャン△』のリンちゃんのテーマは、これにしっかり答えていて、いやいや、自分の好きなことがあると、ボッチでも楽しいし充実してて何の問題もないんだよ!という2018年の現在の到達点として、友達が少ないとか言っているのは、実は問題意識の順番が間違っているんですよ。リンちゃんは、好きなことを、ボッチで、一人だけでやるのが好きなんです。好きだから充実しているんです。自己完結していて、それは、ボッチではないんです。ボッチではないのだけれども、、、、ここが面白いところで、好きなことを繰り返していると、そのことを好きな人と出会うことがあって、好きなことが一緒の人と、一緒に好きなことをやる(ただし最初は別々でなければならない)というのが、実は本当の友達なんだ!と話なんです。ここでは、dependent(依存)とindependent(独立)の話がされていると僕は思っています。というのはですね。友達が欲しい!!!という人は、依存の対象を探しているだけなんですね。だからどこまで行っても負け犬だし、本当の友達には出会えない。


順番が逆だったんです。


孤独を恐れずに、好きなことを探し出して、そこで充実を得る。いってみれば、自分を内発性を探す。内発性というのは、依存しないで、独立しているものです。自家発電ですから。そうして、自分の中で自己完結している同士が、同じものを好きな人と、同じことを、あれ「この人も同じことしている」と気づくことで、いつの間に一緒にやっている、、、自然に時間と空間を何となく共有している、それが友達なんです。順番がすごく重要なのはわかるでしょうか。独立の意思で、自分が好きなことをしている同士が、たまたま偶然に重なったことで、友達というものは「なる」んです。作ったり、獲得したりとかそういうものじゃないんです。偶然、自分がしたいことと重なっているだけ。それが、重なっていく事実性の中に、あれ友達じゃん!という気づきが生まれて、その独立性と内発性をベースに、お互いに等身大に踏み込んで関係性を層度に結ぶことで、、、それは本当の友達、になっていきます。なので、自分が好きなことをやりたいことを探す前に、友達が欲しい!というのは、最悪の悪手になります。


ちなみに、友達ができたからと言って、人生が充実するかはわからないという言い方もできます。が、これは、順番が上記のようにされていれば、解決してしまっている話なのが分かりますよね。だって、好きなことをやっている充実を共有するのが友達ということになれば、友達ができた時点で充実しているはずです。友達を、非独立の依存対象として、充実する何かをもたらしてくれる道具として探しているので、友達(しょせんは依存対象の同調圧力装置)ができても、なんら充実することなく、同調圧力の承認ゲームの道具として利用されるだけになり下がるのです。ちなみに、僕は自分の子供の教育をするときに、常に心掛けているのが、承認のゲームで負けないように、承認をたっぷり与える(要は声に出してほめまくる・行動で称賛を示しまくる・できるだけ根拠なく)ことと、君の好きなことはなんですか?といつも聞き続けること。人生は、自分の大好きなこと、それだけをやっていれば満足で、サバイバルできる何かを探す旅なんだ、でも、簡単には見つからないから数十年かけて探さなければいけないゲームなんだと教えるようにしています。日本は、承認リソースが弱い国なので、承認リソースをたっぷりもっている人間は、ものすごくゲームで強くなります。そして、大好きなことをやり続ける喜びは、自己承認ループを作り出して自己発電できるので、友達とか全く必要なくなります。そして、逆説的ですが、友達なんかいらない!という充実をしている人の周りには、友達が群がります。それも、自分で自分を承認できる、かっこいい友達がですね。そういうゲームのルールなんです。

この系統の話は、『僕は友達が少ない』で、ラブコメの類型から、実は欲しいのは、恋人ではなくて友達だった、という話は、あれはリア充系の物語で、どうすれば充実できるか?を探すときに、恋人ができてしまえば、まぁそれはいいかもしれないけど、そうできなかった場合には、どうすればいいのか?という話。また恋人関係が、依存系のアダルトチルドレンのトラウマ補助装置にすぎないのでは?という疑念がぬぐえないからなんじゃないかな、と思います。対幻想、ラブロマンスの系統においては、依存や勘違いによるカップル成立も、それは物語の一つだし、強度の一つになりうるので、恋人関係を出口に持ってくると、より健全な形で、平衡状態で、言い換えれば恋愛のような狂気に突き動かされている勘違いの幻想状態ではなくて、充実を求めるならば、やはり友達という一段幻想・思い込み度合いが低いほうが、ふさわしいという感覚があるんだろうと思うんですよね。それは、正しいと思います。ラブコメの展開が、常にヒロインだけが報われる序列の構造から、たくさんのタイプの女の子に競わせる並列の構造になって、それがハーレム構造になったけど、、、そこから男の子がいなくなって(笑)少女たちだけの関係性の物語として日常系に接続されてくるのは、まさに、恋愛による対幻想の強度が、依存関係で成立しても一向にかまわなく、まさにその勘違いの窮まっている状態でも、二人しかわからない世界、外からの客観的物差しが入らないからこそ対幻想なんで、OKというのは、ちょっと求めているものとは違うんですね。それはそれで、一つの美しいロマン=幻想なんですけれども。でもリア充、人生における充実をテーマにしていくと、友達のほうが、物差しとしては正しいという直感は正しかったんですね。けど、それは友達が先に来るのではなく、やりたいこと、好きなこと、が先に来ないといけない。

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でも、やりたいことがない場合は、どうすればいいのか?


というのが、この問題の大きな特徴です。いいかえれば、やりたいことがない!、わからない!というのが。だから、友達という、わかりやすやすそうなものに飛びついて、同調圧力の奴隷となり下がりやすいんです。ゆづきのシュチュエーションは、社会人の状態と似ていますね。仕事があって、友達との時間を確保できないので、同調圧力の世界からはじかれてしまう。なので、孤独になるんだけど、忙しいので、友達を作る暇も、維持する暇も、好きなことを探す暇もない。なので、彼女は、不安定で、さびしいを思いを抱えて生きています。僕は、なんだから見ていて、笑ってしまいました。悪い意味ではなく、ああ、これってのは、僕らそのものだな、と。友達が欲しいから、そのためには、やりたいこを探さなければいけないけど、別にやりたいことが思いつかない。じゃあどするか?というのは、キマリの構造と同じです。キマリの場合は、変わらない日常をどう抜け出すかという悩みでしたが、アイドルとして日々目的に向かってアクティヴに生きているゆづきにしても、結局同じです。目的の奴隷になっていて、自分で主体的に生きている感覚がない。そこから抜け出すにはどうすればいいのか?。処方箋は、同じなんですよね。


遠くへ、行けばいい。具体的には、難しければ、難しいほど、非日常的なほどいい。


ただし、結構、難しい条件なのは、一緒に行く仲間も同時に探さなければいけない、という部分です。でもこれは簡単。しらせが、強烈な目的を持っているから、一緒の夢を見ればいいだけなんですよね。


こう見てくると、それぞれの4人が、けっこう異なる属性というか、現代的なテーマをそれぞれに抱えた存在で、それぞれがそれぞれに感染、影響を与えることで、新しいチャレンジに向かう構造になっている。そして、それは、南極に行くということ。僕は、これがすごく秀逸だと思いました。


というのは、南極という、宇宙よりも遠いところという非日常の場所に具体的に向かいながら、その非日常感覚は、ほとんど感じられない。理由は単純で、「そこに行く」という物理的な難しさが、感じられないからだ。あっさり、行けてしまっている。では、南極という具体的な場所が、ただの背景であって、幻想というか空想上の書き割りの舞台かというと、それも違うと思うのだ。ここには、ちゃんと、深く、具体的な意味があり、プロセスがある。ここでは、観念上の何かの成長や壁を超えるために「世界の果てに行く」というものと、具体的にフィジカルに、遠いところに行くということが、ちゃんとミックスで考えられている。だから、セカイの果てに行くという観念上の目的が到達すると、心象風景が塗り替わるというセカイ系的な、心の問題のブレイクスルーが感じられるし、同時に、その過程で関係性のドラマを積み重ねて相互に感染、踏み込みがあることで具体的な友達と、「代替することが困難な唯一性」を獲得することに成功している。えっとね、『ゆるキャン△』のリンちゃんの場合は、好きなものが先にあるという内発性を生まれつき持っているという設定でした。けれど、いま現在ない人は、どう探していいかわからない。だとすると、一生友達はできません(笑)。だからどするかというと、ほぼ行くのが不可能な場所に行くという非日常性を共有することで、そこで行われている関係性の踏み込みは、青春時代ならどこでもあるような一億分の一の(涼宮ハルヒ)意味のないものかもしれないけれども、その場所が、まったく再現できないような特別なひねりが加えられているので、代替ができない意味を付与されることにって、特別なものになる。それは、友達だよね。だって、唯一性がやどっていて、他の人には簡単に再現できないものは、特別だもの。その非日常の特別さを、1/4のスケールだとすれば、それはもうほぼ唯一性といってもいい。それを、南極という目的地で作り出すところは、見事!と唸りました。

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ここには、現代的な、非日常の容易さと困難さの、在り方がよく描かれていると思う。


容易さという意味では、冒険家の南谷真鈴さん、Jade Hameisterさんや、イモトさんのヴィンソンマシフ(南極最高峰)登頂など、結構手軽に、といったらいいすぎではあるが、少なくともアムンゼンの頃のほぼ死ぬか生きるかの人類未踏競争のレベルの非日常感とは、ハードルが違う。彼らは命を懸けて、人類の未踏の地に旗を立てようとしたフロンティアの冒険者だが、昨今の冒険家の在り方は、違う。何が違うかといえば、僕は動機が違うと思うのだ。それは、日常の延長線上で、日常をより楽しくエンジョイするためのupdateであって、非日常に行ったきり帰ってこない片道切符の冒険ではないと思うんだ。この微妙なニュアンスの違いわかってもらえるだろうか?。彼女たちが、命をかけていないとか、困難ではない、楽なことをしているといっているわけではない。そうではなくて、既に人類にとっては既知の場所で、 それでも同じような極端な非日常の過酷な体験を求める理由は、どういうものだろうか?ということです。受け取る我々にしても、「わざわざそんなところに行く必要がない」にもかかわらず、なぜそれを選び取るのか?という目的、動機にレイヤーがあるんです。

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既に既知の場所に、そこに行く必要もない日常に生きる普通の人が、それでも行くには、アイディアとソリューションがいります。いっていることがわかるでしょうか?。そこは、「人類という括り」ではすでに既知の場所で、未知の場所に行くという冒険は存在しません。その状況下では、最年少とか、女子高生とか、5大陸単独性はとか、さまざまな微細な条件の差異をおうことになります。だって、もう「いくことができる」という可能性は証明されているわけですから。

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でも、かといって、スタート地点がすごく遠くにいる、よりもいの、普通の高校生、何の準備もない高校生が、そこにいたるにはどうすればいいのか?と考えれば、一ひねりが必要になります。


この場合は、テレビのアイドルの体験記という形で、テレビ放映するという形で、彼らは南極に行くチャンスをつかみ取ります。Youtuberか!!(笑)。ここで僕が言いたいのは、それが妥当かどうかとかそういうことではなくて、ある種のアイディアをひねると、現代の世界は、不可能に思えるような非日常の出来事も、日常にダイレクトの接続できるのだ!という、これまでの激しい断絶のあった、日常と非日常の接続の感覚が、ひと昔とは全く違うのだ、ということを、いいたいんです。小川一水さんが、『第6大陸』で、月に民間企業を作るために、結婚式場!というアイディアをひねり出したように、非日常を非日常の過酷なままでいくのではなく、日常に接続していく感じ。

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そう、非日常を日常に取り込み、日常を輝かせるためのスパイスとして、使っているんです。そういう意味文脈で、これは、あきらかな日常系・空気系・無菌系という類型の現代的アニメーションだと思う。


そして、ここには、たとえ、宇宙よりも遠いところであろうと、アイディアによって、簡単にくことができてしまうという現代の非日常の容易さが描かれている。月だって、不可能じゃないでしょう。技術的には、楽勝で可能なんだから。既に既知だし。アイディア次第なんですよ。けれども逆に言うと、なんでそんなことをするのか?という動機の調達、また、アイディアには文脈がいります。しらせが、お母さんが南極で死んだから、そこに行きたいというドラマトゥルギーをもっているように、何かのプロセスをデザインするには、内発性のスタート地点、シード・種がいるんです。それを探し出すことは、自分というオリジナルを探し出す行為で、それこそが難しい。何かをする理由が、あまりないのが現代社会なんです。



■どんな非日常な世界に行こうとも、人間にとって最も大事なことは、人間関係の関係性に敏感であり、心の中の絆をどう昇華していくかということ


そして、この感覚を描くことで、日常系の本質である、関係性にフォーカスするというテーマが、そのまま非日常の世界に具体的に動きながら描かれることになります。僕は、この日常から非日常に移動するときの、その断絶の大きさがすごく少なくなっていること、非日常にあっても、本質的に人の幸せにとって元も大事なことは結局は「人間同士の関係性である」というこが、はっきり示されていて、これは素晴らしいと思います。



究極のテーマは、二つあって、一つは、しらせのお母さんの死んだ場所に行くこと。抽象的に言えば、簡単で、遠い南極という場所で死んでしまって死体もない母親の不在が、しらせには、よく実感できない。それを探しに行くという物語。でも、実際は、彼女にとって、これは本当はどうでもいい話なんですよね。だからこそ、南極に初上陸したときの第一声が「どうせいけっこない」とバカにしていた周りの同級生たちへの、世間への恨みつらみでの解消の「ざまーみろ!!!」という叫びでした。これは本当によくわかっていると、唸りました。彼女にとって、既に南極に行くという行為は、意地になっているだけで、自分とほかの人間との差異を感じるためだけの、思い込みになっているんですよね。そもそも、不在がちだった母親が、まだずっと不在だという感じがするだけで、母親が死んだ実感というものはないのだから、死んだということが「わからない」というのが彼女の心象風景なんです。それの決着がつかないことのいら立ちを、南極に行く!という極端な行為でフラストレーションをぶちまけているだけなんです。要は目的と手段が入れ替わっているんですね。お母さんの死を実感する、納得するために南極に行ってみたいという目的のための、手段である南極に行くという行為そのものが、その難しさによる目的化してしまってて、それに対する世間の攻撃に対する当てつけが、彼女の存在意義なってしまっていたんですね。だから、本気ではあっても、冷静さや計算や、異なるアプローチをしようとするひねりがない。だから、一人だけだったら、行けなかったでしょう。キマリに出会って、行動に柔軟性が出たからこそ、アイディアが出るようになっていったわけですから。だから、世間の馬鹿にするやつらを見返した!という目的化した手段の達成で、もうしらせは、満足なんです。ざまーみろ!と溜飲が下がってしまっている。ましてや、その途中経過で、特別な時間を共有することで、友達ができて、孤独が癒されているわけで、もうこれ以上は、彼女には必要ないんです。だって、それこそ、お母さんの死体でも具体的に見つけない限り、死なんて実感できないでしょう。それは、さすがに無理だし。所詮、アイドルのレポーターできているわけで、そこまで本格的に雪山を行くわけではないですし。。。。。なので、関係性を深める物語にフォーカスして、大事なものが、唯一性の宿る空間と時間の中で、当たり前の関係性を深めることなんだというエピソードが繰り返されます。それは、この物語の本質なんで、何ら問題ないわけです。それは、このプロセスで、生まれてくる関係性の結果としての絆が、これからの生きるよすがに、希望になっていくということ。


・・・・・と思っていました。そしたら、最後にメガトン級のエピソードですよ。


南極基地に、残されてたPCがあって、それがお母さんのだったんです。電源が落ちていた、そのPCを立ち上げたら、、、、、、何百通もの、お母さんが開かなくなったメールアドレスに送ったしらせのお母さん宛てのメールが、一気に受信されていくんですね。


それではっきり、、、、見ているほうも号泣で伝わりますよ!!!


もう、お母さんは、この世にいないんだって!!!


そこには、彼女の母親の不在の間、積み重ね的な彼女の孤独が、内発性を、、、、、彼女が彼女たらしめる思いが、形として、具体的に、積み重ねられたものの爆発として、目に見えます。そして、この思いが、彼女を南極に、セカイの果てに連れてきて、これからの人生を生きる希望を、、、友達の絆を手に入れます。このシーンで、いっきに心象風景が、塗り替わっていき、彼女の中で、母親の不在を悩む子供時代が、一気に過去になっていくのが感じられます。そこには、お母さんのメッセージがあったり、死体を見つけたとか、そういう何も特別なことはありません。ただ、母の死後、誰も受信しない彼女のメールアドレスに、子供が何年も何年も、膨大なメールを打ち続けていたのが、Wi-Fiにつないだので受信された、というただそれだけのことです。けど、この物理性、、、、もう泣きますよ。先ほど言ったように、しらせの、止まった時間を動き出させるためには、異なる人生に自分を連れていくきっかけで、必要なのは未来でした。そして、それは友達の絆という形で、未来を獲得してしました。そもそも、ほぼ不可能な、母親の不在を実感するなんて劇的な心象風景の、過去の清算ができるはずがありません。。。。。けど、それが一気にできたんです。いやーこれは、行動を起こしたからこそできた奇跡です。しかも、何一つ、奇跡でないところがいい。だって、メールを送って、それを受信した、というだけの事実なんですから。



もう一つは、キマリと親友のめぐっちゃんの話です。キマリはトロい子で、めぐっちゃんは、キマリを下に見て、見下すことで、親友のふりをして不毛な永遠の日常を耐え忍ぶスキルを維持していました。こういう関係性が、被支配されていると思われていた決まりが、内発性を獲得して独立して生きる容易になった瞬間に、壊れます。さて、壊れて、キマリは飛たったので、すっかり忘れて、そんなエピソードも最初にあったな、と忘れていました。まぁ、いちおう、めぐっちゃんの汚らしい心も告発されて、本人も自覚して、友達でも何でもない、ものだったんだという結論で終わると思っていました。ラスト数秒までは。だって、尺的に、残り数分で、日常に戻ってきた、キマリが彼女と仲直りする理由がないじゃないですか。だって、キマリには、もうかえがたい親友が3人もいるんで、そんな昔の同調圧力の道具にされていたやつなんか、いらないわけですよ。キマリがどんなに優しい子で、許しても、それは、許しただけで、構造が逆転しただけで、何ら友達ではありません。裏切った、ということ、はそれくらい重いことだし、それが目に見えて、表に出てしまったらもう欺瞞の関係すら維持できません。。。。。



と、そう思っていましたよ、ラスト数秒までは。



この文章の最初に書きましたよね。友達の絆を作る方法は、好きなことが見つからないなら、めっちゃくちゃ遠くへ行け!(笑)って。



その過程を、共有出来たら、それは、もう唯一性の関係・・・・言い換えれば友達だって。友達とは、時空間を共有すること、が定義ですが、もう少し言い換えると、観念のレベルと行動レベルがミックスされていないと、だめなんですね。頭で思うだけなら、どんな欺瞞もできる。けれど、それが行動に移され、時間が積み重ねられると、なかなかウソや欺瞞で隠せなくなるのです。それこそが、時間を共有すること。



それは、自分から内発的に、動いて、あがいて、頭をひねって、解決策を、裏技のようなひねりのある回答を導き出す行為。



めぐっちゃんは、なにをしたか?



最後のワンシーンで、、、、、ああ、ここもlineというかsnsが本当にいい働きをしている。



南極から日常の家に帰ってきたキマリの携帯のラインに、めぐっちゃんから、写真が届くんですよ。



北極にいるぜ!って(笑)


素晴らしいでしょう?。これって、キマリの強い思いを受けて、今までの自分をネガティヴさを告発される構造になってしまった(キマリが意図していなくとも)ことうけて、彼女は暴発してしまって、人間の汚さを露呈させてしまいました。これ、キマリが、こんんか告発をしなければ、こんなひどいことにならなかったでしょうから、めぐっちゃんも被害者ですよね。まぁとはいえ、差別の構造を壊せば、抑圧している側は、告発を受けるわけですよ。けど、このテーマを、告発を、めぐちゃっんは、真摯に受け止めて、その先をにつなげるんですよ。彼女が、あの時点で北極に行くには、はっきりいって、物凄いバイトをしたり、努力があったはずです。でもそういうのを一切見せず、結果の写真だけ、送りつけてくる。


やべ、この子、めっちゃ、いい子じゃん!!!泣けてきた。



いやはや、完璧な作品でした。最後の百万円の使い方とか、ほんとうにひねりが効いている。

「一緒にいられなくても


一緒にいられる。


だってもう私たちは私たちだもん」。


このキマリのセリフは、見事でしたね。絆を構築できれば、場所なんて関係ない!といえるんです。でも、そういえるためには、遠くに行かなければいけなかったという矛盾。いやーいいはなしだ。



ゆるキャン△の話に続く。


ゆるキャン△ 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

2016-12-09

現代日本の最重要課題が浮かび上がってきた気がする。

日本って、豊かになったよな、と思います。お金だけではなく、いろいろな意味で。僕は40代ですが、20年前よりも、ずっと多様で豊かな社会になっていると思う。そして、80年代に絶頂期だった日本経済は、凄い勢いで下り坂で崩壊して、当時、こりゃあ全滅、玉砕か!的な気分になったけど、いやいや、20年たって見て、なかなかしぶといし強いところはちゃんと強い。弱いところは、ものすごく弱くて悲惨だけどね(苦笑)。もう「全部良い」というようなところはなくて、凸凹しているんで、わかりにくいだけ。2013年頃アメリカに住んでいる時に、もう家電の量販店とかで、日本の電気製品は一切見なかったんですよね。もう駄目だ、というぐらい負けてて壊滅している。日本では、いまでもたくさん売っているので、ゆでがえる状態ですがもうたぶんアメリカ市場では完全に詰んでいる。、、、と思いきや、車のメーカーなんかは、もうアメリカそのものなんじゃない!というような凄い存在感でした。テレビつければCMはもう何でもかんでも日本メーカー。社会の重要なイベントは、TOYOTAとかがスポンサー。日本だって、たとえば大相撲のメインスポンサーが、GEとかサムソンだったら、驚くでしょう?そうんな感じ。東アジアや東南アジア、少なくとも僕が知る限り南ヨーロッパでの日本のアニメやサブカルチャーの存在感って、もうイロモノでもなんでもなくて、完全に市民権を得ている感じだし。なんかね、日本の存在って、もう相当成熟して安定している気がする。90年代から00年代を大学生や社会人のはじめを経験した、もう日本経済駄目だな的な下り坂の氷河期を思い出すと、意外や意外、日本ってなかなかのもんだなって思うんですよ、いまは。


けど、そういった下部構造というかインフラストラクチャーというか、大きな土台でのパラダイムシフトが進んでいった割に、何かが大きく「変わっていない」というか、クリアーに課題が姿を現し始めている気がする。ほんの少し前までは、まだ土台的な変化が進み切っていなかったので、この課題が姿を現していない気がしました。日本社会の過労死とか少子化とかも多分これにつながっていると思うんですが、それって、何だろう?というのを最近、もやもやと考えています。


たぶん、この生産性をめぐる議論の背後の隠れているやつなんだろうと思うんですよ。だって、日本の生産性あまりに低すぎる。ちょっと、極端すぎますよね。僕も日本の労働者日本尾市民の質って、世界的に決して悪くないと思います。少なくとも平均値は軽く超えているはず。けど、生産性は、ほぼ最下位ですよね。これ、なんだかおかしいと思うんです。そして、これらが、家庭の時間や個人の時間を奪い、女性の権利が拡大せず、少子化を生み、またビジネスでの国際競争力を削いでいるのは、一目瞭然。どう見ても、全部シンプルにリンクしている構造問題。


なので、こういうマクロだけではなくて、ミクロ的に「自分の仕事の仕方」いや、もっと言えば、こういった趣味の時間への配分も含めた「人生の生産性」というやつで、自分をもっともっと変えなくちゃ、効率をあげなくちゃって凄い思うんですよ。というか、頑張っている今日この頃です。これが、いま課されているイシューというか、問題なんだって強く思うのです。

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの


なぜならば、いまの成熟した先進国の日本社会では、過去よりぐっとそういうことを追求しなければいけない厳しい社会になっているけれども、なんで、そんなに「生活のスタイル自体の生産性の追求とか変化」が、要求されるかというと、もちろんグローバリズムとテクノロジーの進展に置いて、単純な高度成長期時代に適応した「生き方や生活スタイル」では、そもそも生きていけない。競争の母数が変わってしまっていて、僕らは、中産階級化する中国やインド、北アフリカの巨大な人口や単純作業は簡単に肩代わりしてしまうAIなどと競争しなければいけないからというのがあります。「だからこそ」、そういった高度成長期のパターンの決まった生き方や働き方のスタイルではない、多様な差別化、クリエイティヴィティに特化した方向に進まなければいけないのだけれども、「それへのパラダイムシフト」って、とても難しい。少なくとも、1970年代生まれの僕ら以前には、とても難しい。いや、今だって、そんなに変わらないかもしれない。だって、親がそういう過去の生き方で成功した人だし、なによりも、そういう教育を一身に浴びて育っている。サムライの教育を受けた徳川期の人が、近代日本に適応しなければいけないような、激変。


いまは、巨大なパラダイムシフトが起きているのだ、と思う。それまでのボリュームゾーンであった中産階級が、その内実を変えなければいけない、、、言い換えれば生活スタイルを、「人生の生産性」を深く変化させなければいけない時代に入っているんだろうと思う。そして、こうした多様性のある人生の追及についていけない人は、グローバルな母数の競争にさらされるわけで、というか、競争で負けてしまうので、先進国に住んでいてさえ、極貧にい落ちていくことになる。国境はもう守ってくれない時代になったのだから。それへのリアクションが、ブリクジットでありトランプ大統領なのだろうと思う。けど、変わってしまった社会は、もう過去のそれへとは戻ろない。「ここ」を掘り下げていくしかないんだろうと思う。それに、逆を言えば、多様性を獲得する道が、相当の人間に許されている時代でもあるわけで。画一的な、一律性を要求する近代化、高度成長期の工業社会ではありえないことだとも思う。まぁ、いつの時代も、構造の転換期は、脱落する人と、そうでない人の巨大な格差と人生の変遷を生むものなんだよね。とかとか、そんなことを考えた。


デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論―潜在能力を活かせない「日本病」の正体と処方箋