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物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-11

TURN 25 『Re;』の感想(2)/全能感を告発して暴き立てるのが好きな批判屋さん

えっと、ルルーシュの感想で書きたいことのメインである、(3)「ルルーシュが世界にかけたギアスとは?」を書くのに、これ書かないと僕の中で整理がつかないので、全然関係ないんですが、まぁー暇があればこれも読んでみてください。たぶん支離滅裂なんで、あまり考え込まないでください。


■倫理や道徳が全うされないと作品自体の価値を否定する輩がなぜ多いか?〜全能感を告発して暴き立てるのが好きな批判屋さん

そして、ちょっと蒙が啓かれた、というか「なるほど!」ということを思いついたのですが、「全能感」というのは、素晴らしいキーワードだな、と思ったんです。日経ビジネスオンラインでの谷口監督のキーワードです。この概念で、かなりの歴史観や大きな流れが睥睨・概観できるように思えるんです。その歴史観は、この章の次に、契約再契約の話と絡めて描こうと思います。


が、それよりもこの「全能感」に、まとわりつく語感に不思議な感じを受けたんですね。


谷口監督は、この言葉を微妙に「肯定的」なニュアンスで使用しているように感じますが、「世間一般」では、これは否定されるマイナスのイメージがあるものだ、という印象を持って話している気がします。これは僕の思い込みかもしれませんが、僕の中に在るこのキーワードに関するイメージと全く重なるので、以下詳細に考えてみたいと思います。


全能感の肯定的ニュアンス


というのは、「肯定的」の意味は、ようはたくさんの人々、特に子供に「支持されて愛される」ためには、また同様に「それが売れて儲かって事業として回って黒字になる」には、全能感を満たすようなものでなければならない、、、そしてそれは、「みんなが普遍的、本質的に求めているもの」なので、そういったよ欲望を満たすことこそがエンターテイメントであり、芸能に携わる者の使命である!というニュアンスです。一言でいえば、人間は、みんなは、こういった全能感の欲望を満たすことが大好きだから、みんながほしいものを作るのが正しい!って言う感じです。


全能感の否定的ニュアンス


これに対して「否定的」なマイナスのイメージとは、コードギアスでも随所に見られた意見なのですが、ルルーシュの悪業や罪に対してこういう意見が頻出するんですね



・どんな大義や結果があっても、人を殺しただけで悪だ!

・悪は、罪を償ってくる苦しみ抜いて死ね!

・ルルーシュやシュナイゼルのような、罪(=人を殺したり、人の心を支配したり)を持つ者に世界を支配する資格はない

・売り上げ至上主義で、見ている人を置いて行ってしまう破たんした脚本


等々


こういう動物的な脊髄反射は、絶対に皆さん、心に覚えがあるはずです。ないとは言わせません(笑)。これが、戦後民主主義の日本の基本的な教育や価値観ですから。「人をバカスカ殺しまくったて、それに見合う結果があれば悪いとは思わない!」と心の奥底で思っている僕でさえ、この意見には抗い感じがしますもの。上記の意見は、僕は、小林よしのりさんの言葉を引いて「純粋まっすぐクン」の目的を見失った空虚な倫理道徳と、読んでいます。


・物語を道徳や倫理で裁こうとする姿勢


つまりは、物語全体の整合性・価値判断を、かなりのウェイトで、1)道徳と倫理(=その時代の)に基盤を置いているんですね。


これは漫研主宰のLDさんのいう「人を殺してはいけない教」という宗教的ロジックの同一のもので、ここに基盤を置いておけば、とりあえずひとまず誰も批判できまい!というものごっつ卑怯な思考停止の概念なんですね。弱者を盾に、弱さを盾に、人の世で生きる厳しさから逃げ出すというロジック。まぁ戦後の日本の国家理念の不在というか、隠れた国家理念そのものの「戦後民主主義による無制限の平等志向」なので、これは今現在の日本を支配する圧倒的な前提(=パラダイム)であり、「空気(ニューマ)by山本七平」なんだと思います。


えっと話が飛びましたが、つまり、何かの作品などのメッセージをトータルで評価するときに、過剰にこの論理の果てに在る道徳や倫理を持ち出す輩がとても多いんですね。


・どんな大義や結果があっても、人を殺しただけで悪だ!


という感情反射は、この前提を基盤にしています。僕には心が納得できない意見ですが、言いたいことは理解できます。・・・また僕は毛嫌いする表現で書きましたが、物事は多面的で、1945年に大戦争で国土が焦土と化し侵略したすべての国から恨まれた経験をした当時の日本においては、「大義や結果を求めるだけで行動することの愚かしさ」を身に染みて国家として経験したので、その強烈な国民感情のシフトによって生まれたのが、現在の体制(日米同盟による全体への挑戦の気概・責任からの忌避)なので、それが単純に悪いとはいえない。ただ、1945年の文脈と、2000年代の文脈はもう既に違うとは思いますがね。


・質が高いものでないと業界の水準自体が下がる?〜僕はそれは全くの虚構だと思うが・・・・


えっと、少しずれるのですが類似の概念として僕はとらえているのですが、、、


・売り上げ至上主義で、見ている人を置いて行ってしまう破たんした脚本


これ、よく言われるキーワード的な表現なんですが、この系統の意見ってなんか、ものすごくおかしい概念なんですよね。なんだかね、アニメとかマンガとか、エンターテイメントに対して、メインカルチャーや教育制度としての本義を求めるような感じがして仕方がないんですよ。なんというか、人が楽しむ者に、いったいつから、そういうものを「背負わせなければならない」という感じが付きまとうのはなぜなんだおる?って思うんですよねぇ。機能としてそれがそうなる、というのはわかるんですが。「ねばならばい」というのは、なんか、、、。


それって、なんかおかしくない?


って思うんです。だって、エンタメは、語義の通り「楽しむもの」ですもの。なんで、教育的なものや道徳を背負う必要性があるんだろう?。いや、これは文学なんかもそうなんですが、なんだか、


・大多数の人に分かるもの(=売れるもの)は、卑しくレベルの低いものだ


というような思い込みの偏見が隠れているようにどうしても感じてしまう。というか、事実僕の中にもそういうものはあると思う。けど、それってエンターテイメントとしては、おかしい評価軸なんではないですか?と思う。ところが、この「大多数に分かるものは、易きに流れている」という発想と、「それは全体の業界のクオリティーの質を下げて、ジャンルの衰退に拍車をかける」というロジックと組み合わされる時に、この意見は反論が難しくなると思うのです。データは全くないにもかかわらず、この言説はまことしやかにささやかれるような気がして、僕にはどうも居心地が悪い。



えっと、このへんまじめに論理つなげると疲れるので、まぁ大雑把に把握してください。



上記のすべての背景的な暗黙の前提を合わせると、全能感が否定されるのが「あたりまえである!」という世間的な空気やパラダイムが形成されていると思うんですね。だって、大衆に媚びているわけだから。えっと、話がゴチャゴチャしていますが、だから「全能感は否定されるべき」で、全能感の肯定によってつくられる「売り上げ」は悪いものである、みたいな不思議な空気が、何かを少し高みから見ようとした時に生まれているような気がします。だから、ブログなんかの意見は、ある種の情報を発信したいんだ!と思う「解釈が好きな人々」の意見であって、そもそもすぐこの流れに乗ってしまいやすい、、、が、本当の重要なのは、そこに出てこない「サイレントマジョリティー」のような気がします。芸能は、たくさんの人から愛され、愛されることで、その人々の集合無意識を反映して変化していくべきなのが本道だと思うからです。えっと、ここで何を言いたいかというと、大きな骨太の物語を志向した時には、断片を評して、すぐ道徳倫理的な結論に結びつける人が多かったり、無理に高尚な意見に当て嵌めてむうかしく語ろうとする傾向って、凄いミスリードなんじゃない?ってことです。・・・ああ、ちょっと適当に書いているので、誤解を招きそうだが、整理するのめんどくさいし、整理すれば論理は通ると思うので、もういいや、これで(苦笑)


いいかえると、コードギアスは、相当な穴がある作品です。作品としての破綻はかなり激しいし、かなり迷走していると思う。けれども、その「整合性」を追う作業をしたり、「だから」ダメだよねという意見は、非常の稚拙で低レベルな評価だと思うんですよ。なぜならば、それを超えたところでの「物語の本質的な野蛮さ(=みんなの全能感を刺激する)」を意識して、最後まで見ているものを引っ張っていているが故に生まれている不整合だから。でなければ、DVDの売り上げが高かったり、かなり固定的なファンを強烈にコミットさせたこの作品の価値が意味不明になるもの。


むしろ問うべき疑問は、見ているみんなの「全能感を刺激する」ということエンタメの必須要件と、それでもオリジナリティーを追求したり、登場人物の断片のエピソードを完遂させることの並立のし難さが、なぜ現代の物語にはあるのか?って質問だと思う。


もちろんこれは、LDさんが語る「情報圧縮論」や「モジュール論」との接続を考えています。




■全能感(=ナルシシズム・同一化)の解体という実験的手法のその先に〜全能感の発露と制御という成熟のあり方を学ぶ


これが、水滸伝の海燕さんの問いかけにつながると思うんですが、



Amazonにこういう内容のレビューがある。

確かに面白い。世間で評判なだけあります。ぐいぐいと引っ張られて、ついつい時間を忘れて読みふけってしまいます。

ただ、どうにも拭い去れない違和感が。

まだ5巻までしか読んでいませんが、これは”水滸伝”ではありません。

いえ、微妙な筋立ての改変は構いません。登場人物が全て真面目過ぎるのです。

ここまでまともな官軍が、裏であろうと組織できるなら、腐敗は起こらなかったでしょう。

一般民衆も、晁蓋などの優秀な指導者に指揮されたからといってここまでまともに組織化されるとは思いません。

水滸伝の雰囲気を味わうという点では、駒田信二の訳本、絵巻水滸伝、メディアや方向性は違いますが、パソコンゲーム”水滸伝・天命の誓い”や蓋星水滸伝などをお薦めしたいところです。


 ぼくもこの意見に賛成するんだよね。良し悪しはべつとして、ここまで変更してしまうと、もはや『水滸伝』とはいえないのではないか。

 別段、筋立てを変えることが悪いといいたいわけではない。吉川英治に吉川水滸伝があり、柴田錬三郎に柴錬水滸伝があり、北方謙三に北方水滸伝がある、それで良いと思う。

 しかし、この北方水滸伝は、筋立て以前の作品の香気や雰囲気といったものが、原典とは180度ちがっているのである。ここまで違うともう『水滸伝』とは別物の小説というほかない。

中略)

しかし、『水滸伝』とは、本来、大陸に横溢する無数の民話などが、それこそ雨の一滴が大河を形なすようにして集まって出来た物語であり、近代のリアリズムとは別の次元のところにその楽しさがあるのである。


近代化された『水滸伝』。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080906/p2

Something Orange


ここで言っているのは、近代の小説以前には、物語には、民衆の原初的な欲望を結集するある種の野蛮なパワーがあって、そういった説話を見ると、かなり近代社会では理解できないようなもの凄い物語やキャラクター造詣が多い、ということ。そして、その野蛮なパワーこそが面白い、ということ。いきなり、人を殺してまんじゅうにしてパクパク食べたり、魔法で百万人を殺してみんなから愛される王様とか?えっ?それってつじつま合わなくねぇ?とかそういうことは言わずに、いいじゃん「すげー!」んだから、で終わらせてしまう、それが民衆クオリティ


海燕さんの問いかけに対して僕は、



■近代のリアリズムとは別の次元のところにその楽しさが消えてしまっているのではないか?

この角度の意見は、来るんじゃないかと思っていました(笑)。北方水滸伝は、近代小説としては超一流です。が、唯一の欠点をあげるのならば、そもそもの水滸伝の持っていた「善悪を却下に蹂躙すべき、豪傑の意識(by芥川龍之介)」とでもいうべき、無数の民衆の中で語られてきた近代小説のリアリズムとは別に次元にあった面白さが消えてしまっているのではないか?という部分。この意見は、妥当です。僕も諸手を挙げて賛成します。


それでは、『水滸伝』原典の雰囲気とは何か。たとえば、芥川龍之介はこの物語についてこう書いている。

 ぢや「水滸伝らしい」とは何かと云へば、或(ある)支那思想の閃きである。天罡地煞一百八人の豪傑は、馬琴などの考えてゐたやうに、忠臣義士の一団ぢやない。寧(むしろ)数の上から云へば、無頼漢の結社である。しかし彼等を糾合した力は、悪を愛する心ぢやない。確(たしか)武松の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは厳密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、区々たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善悪を却下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れている。

 この「善悪を却下に蹂躙すべき、豪傑の意識」、それこそ『水滸伝』の本質だと思うのだ。


そういう意味では、確かにこの物語が愛されてきた、近代リアリズムを超越した次元での、それぞれのキャラクターたちの善悪とリアリズムを超えた領域での「凄さ」を失うことは、本質を失うことと同義かもしれません。道術使いの天間星公孫勝が魔法を使って敵をバッタバッタ倒すことや、それこそ鉄牛李逵のように、女子供に容赦なく殺戮をしまくるもうめちゃくちゃ破天荒な、そのありえなさが強い輝きを放って、民衆の心をとらえ、ときにはその思いを反射させて、これらの説話は育まれてきたのですから。



『水滸伝』『楊令伝』 北方謙三著 何を本物の水滸伝というか?〜出会いの機会が増えればそれでいいと思うのだ、というか異本の存在は、物語が豊かの証拠

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080919/p1



ここで少し語ったのですが、物語が近代化してくると、


a)内面の描写が深くなってゆき(=ミクロの深掘り)、


b)同時に世界が可視化されことによってマクロレベル(=政治や社会状況)での整合性が必要になってゆき、


このaとbを同時に満足させる物語でないと、近代では、どうも文句をいわれやくなっているんですね。これは、ロマン主義とリアリズム(=写実・現実主義)などのある種の先鋭的な極になる運動が、20世紀の初期にあって根付いたことだと僕は思います。


えっと、もっと簡単にいうと、例えば僕って、萌えられるキャラクターって凄く重要なんですが、いつもそれ以上に、、、いやそれと同時に、マクロの世界観が描かれていないと、それがミクロのキャラクターの動機と接続されてちゃんと循環している仕組みがないと、納得できない!というとも言っていますよね、そういうことです。上記でかいた、すぐに昨今の物語評価が、こういった近代的な「整合性」の次元から物事を評価しようとする癖があるというのと同一のことを指しています。


けど、物語の本質的な面白さってのは、そういう「整合性」だけからは生まれてこないもっと原初的で野蛮なものなんだぜ、ってことです。


とりわけ、a)の内面が深掘りされていくことが近代リアリズム小説の基礎である、というのは重要な指摘で、これまで、殺した悪人をまんじゅうにして食べていた英雄とかが、はたと内面を振り返って


「おれって、なんで人を殺したんだろう?」


とか


「たべちゃってもうしわけないな・・・」


とか


「おれが人を殺し