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物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-05-30

『ツナグ』 辻村深月著 安定の辻村節なるも、小粒な話でした。

ツナグ

客観評価:★★★☆3つ半

(僕的主観:★★★3つ)


辻村深月さんの大ファンなんで、小説が積読になっていて、今回の出張の新幹線の中で消費。が、映画にもなった作品だと思って期待していたのですが、、、、、いまいちでした。「死者に会える」というお涙頂戴ものの設定を、様々なひねりを加えていること、最後の章で、当事者ではないツナグ側の視点に変えて全体を統合していることなど、構成がうまく、最後に様々なものが複雑に合流する辻村節を見せてもらった感じがして、あーやっぱりこの人だなーというオリジナルなうまさはあるんですが、どうしても小粒な感じ。この系統の話ならば、まぁ別に読まなくてもと思ってしまった。仕掛けが凄いうまい人なので、やっぱり長編を読みたいなと思いました。期待が大きかった分、がっくり。

嵐美砂、御園奈々美の話のように人間の真理をえぐる話であるならば『凍りのクジラ』までいってほしかったし、ツナグの視点から全体を頭語するカタルシスを見るならば『スロウハイツの神様』のような壮大なものを見たかったし、と思ってしまう。辻村さんの最初の作新ならば、『凍りのクジラ』や『ぼくのメジャースプーン』がおすすめかな。


『スロウハイツの神様』 辻村深月著 この絶望に満ちた世界を肯定できると力強く断言すること

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110616/p3

『凍りのクジラ』 辻村深月著 その安定した深い人間理解に感心

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091023/p1


凍りのくじら (講談社文庫)

2015-04-18

『異自然世界の非常食』 青井 硝子著 めっちゃグロテスクで目が離せません(笑)。これ、凄いSFですね。

異自然世界の非常食 1

http://ncode.syosetu.com/n0340bw/

第一部第一印象、グロすぎます。読んでいて、読むのがしんどく感じるグロテスクさは久しぶりです。って、凄い感心しました、この昨今のウェルメイドで気持ちよくなるのが至上目的の物語類型の中で、こんだけ気持ち悪いというか少なくとも僕はずっとなんか言い知れない嫌悪感を感じながら、、、、それでも読むの止められないですもん。・・・これは!、物語だ!!!と、ぐっときました。いやほんと、スゴイよまじで、この作品。いやまだ読み終わっていないし、意図も読み解けていないけど、物凄い吸引力があって読み続けています。ちょっと寝不足で人いですよ、、、、(涙)。最初の「掴み」・・・非常食さんを食べようとしてだんだんコミュニケーションをとっていくのもエピソード的に凄いいいんですが、、、これ、シリーズ全部通してこの壮大な物語の意図をぜひとも見てみたいと思わせる重さです。いやほんと、いまでも見てて嫌悪感というか、、、、なんというか、見ていられない、と思わせる拒絶感が続いているんですが、それでもやめられないですもん。もう少し文章がすっきりして、入りやすかったらと思う部分もないでもないが、しかし、それが魅力でもあるだろうし、、、悩ましいところだなぁ、この時点では評価できないや。ただ物語としては一級品ですよ、これ。繰り返すけれども、受け手にウェルメイドなのが当然の中で、これだけマイルドに攻撃性の毒を持たせながら、ライトノベルというか、、、というかSFだな、的に読ませるのって、うまいもの。第一部?は、ゾンビものの『ワールドウォーZ』とか『28日後...』『アイ・アム・レジェンド』とかずっとそれのイメージを感じているんだよね。いや、別にゾンビものん作品じゃないんですよ?、なのにあれとかを見ている時のぞくっとする嫌悪というか恐怖というか、そういうのがベースに凄く流れている感じが知るんだよね。単純に、異世界に飛ばされた人が淡々と生活しているだけなんだけれども、、、、。

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いまのとろこ第三章の228まで読みました。実質2日で読んでいるには、いい量でしょう?。睡眠時間削っていますよ。休日近かったのにできた技ですね。眠いのを振りしぼって読みました。まだうまくて読め(解析)ていないんだけれども、、、これめちゃグロテスク。それで重厚なSF。どうも僕は、強烈に、『SWANSONG』を連想しているらしいというところまでわかってきた。それで、、、最近この主人公の性格がやっとなんとなくわかってきたんですが、こいつ、マジに壊れてやがる、、、。。。第一部の終わりは、『SWANSONG』くを強く連想したよ。同じってわけでもないんだけれども、あとは、清水玲子さんの『竜の眠る星』『秘密』も同時に連想したなー。この物語のグロテスクさ、何か重さっていうのはこの究極、主人公の感性にあるんじゃないかって気がします。そこで、先日のTwitterの青井硝子さんが言っていたセリフがあって、、、、


おお!その通りだ!この物語のテーマそれだ!!!と物凄いびっくりしました。なぜびっくりしたのかっていると、


「どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか」


というのが、やっぱり僕は批評的な人なんで、具体的なものがあまり想像できていなかったんですが、この言葉は僕が社会科学(文系)の人だからかもしれませんが、経済的にこぼれ落ちる層と、内発性がない人の層を、どう取り扱うのか?というような多分に社会工学的、経済政策的な発想が、強烈にあったんですが、、、、いやー物語を作る人は、やっぱり違うなーって思うんですよ。


この作品は主人公は、どっかの小屋でニート?というかコミュ障で人と交わらずに自足というわけでもないでしょうか、人里離れて暮らしている世捨て人のような人なんですね。これって、全編読めばわかりますが、基本的に生きる気力が非常に薄い、内発性、動機がほとんと人です。僕は、もうこの性格だけで、そうとうなんというか自分が「そうはありたくない!」と思うタイプの生き方なので、生理的に受け付けないんですが、、、ただこの主人公、とても魅力的な感じがするんですよね。そこが不思議なバランスで、、、この人は山で浮浪者、、、ではないですね、定住生活をしているわけですから、なんというか、とても生活感というが現実感が溢れるんですよ。細かい描写が、これって経験していないと(少なくとも想像力で書いたら抜けるであろう)わからないであろう細かい描写が入って、、、、作者の人って何して生活しているんだろう、、、この不思議な現実化の距離って普通に生活しているとでない感じな気がするんだけれども、、、まぁ、それはおいておいて、この物語は異世界転生というか、異世界に行った人の物語なので、その地球じゃない異なる世界で、具体的にどう生きていくか?ということ、そのノウハウがそのままフロンティアでのハウツー的な面白さにつながるんですよね。この主人公、たぶん、めっちゃくちゃ頭が良いんですが、生きて食べていく、、、それもかなり積極的にこもって社会には出ない方向での努力というか知識が凄い感じがするんですよね。それだけ頭キれるなら、もっと違う方向に、、、と思ってしまうのは、僕と「人間のありかた」が違うタイプなんだろうなーって思う。そんで、大事なところでの気力というか欲がほとんどない。えっ、そこで動機が切れるというような感じであきらめて、引きこもる。。。。


あーこれってサバイバルでビルドゥングスロマンの成長物語になるには、全部内発性がなくてドラマトゥルギーがカットされているなーって、しみじみ感じるんですよ。


ああ、そうか、そういう「生き方」なのかーって、。けっこう生活力ある人なので、それが悪いか?といわれると、まったく悪くないし、いやいや、一人でこういう風に、具体的な生活の手ごたえを楽しむのって、ありじゃねぇ???っごついビシビシ感じるんですよ。


この金や社会性が全くない状況下で、具体的で力強い生活力と、徹底したい場所はここ(引きこもった小屋の中)感覚って、、、うん、これはこれで安定していてとても成熟しているいい形じゃね?とか思ってしまうんですよね。非常食さんとエンドレスにプリキュアシリーズを延々と見ているシーンとか、内発性がない分だけ、ルサンチマンも感じないので、ああ、これはこれで穏やかな時間の過ごし方で、、、、自分がリタイヤした時に目指している生活ジャン!これ的な感じを受けましたねー。いやなんちゅーか、内発性がないんだけれども、、、、この主人公、強烈なルサンチマンも特にないのね。なので、好きかというとあれだけど、、、なんというか、そういうものだよなと思わせる感覚がある。。。なにも否定しようがない、、、だって、誰にも迷惑をかけずに自分の場所を安定的に構築しているんだもの。主人公に不思議な魅力を感じます。


でもね、、、、そうはいっても、マクロというか、、、、この異世界には、マクロというよりは、この生態系みたいなものがあって、要は主人公たちを超える上位の基準があって、普通の物語マクロ(政治、経済)なんですが、、、ここでは生態系ですね。でね、この生態系なるものと、この内発性がない主人公とのかかわりが、、、、グロテスクだな、、、、+物凄い魅力的だな、、、、+見事なSFだなーーーとかそういう風に思うんですよ。


先にも書きましたが、清水玲子さんの『竜の眠る星』『秘密』なんかを強烈に思い出すんですが、主人公が、あまりに自分から積極的に動いて世界を変えようという気がないことと、たぶん内発性がほとんどないので、何でも受け入れていっちゃうんですね。このあたりがテーマの、救いようのないもの、をすごく連想させるんですが、、、この人って、たぶん、生きていることもすぐあきらめちゃう人なんだろうというのがよくわかるんですよ。生活力溢れる割には、根本的には、生きる動機が薄い。なので、生態系の一部に自分がおとしめられたり組み込まれても、割とさらっと受け入れちゃうんですね。ヒューマニズム(人間性)が破壊されているところに生きているグロテスク感が溢れていて、えっ、それ受け入れちゃうの?という描写が続きすぎて、僕はぐろくてぐろくて、げんなりしていました。だって、自分の死後餌にする寄生蜂に卵を頭に産み付けられて、話がまっそんなもんかーと進んでしまうのは、いや、そりゃなくね???って思うんですよ。しかも、このクリーチャーに対して明らかな同胞意識、家族意識持っているし、主人公、、、、いや、それって、生態系的に、絶対に同胞になれないから、、、だって食う食われる関係だし、、、、と思って凄い違和感が溢れるんです、、、、、。


これ、清水玲子さんを評価するときにいつも書くんですが、社会性や社会のありようようも、生物や生態系としてのありようの方が美しく上位だと感じている人のようなんですね、清水さん。これ、内発性から生まれる社会性、コミュニケーション性をどう評価するか?という時の、究極の答えの一つなんですよ、実は。社会性を完全に否定しちゃえるじゃないですか。もう少し具体的に言うと、好きになった相手が、自分の苗床にして食べちゃうことで、愛を示す(それって愛なのか?)生き物の生態系があったとしたら、まー愛されちゃって、愛しているなら、うまく綺麗に食べられてあげないとおかしいよね、、、みたいになってしまって、、、、いやいや、、、人間食べるのは殺人でしょ!、それは愛じゃなくて本能でしょう!というのの、基準値の違いというのが、ヒューマニズム(人間至上主義)で他の存在は人間存在の下位にあるというのが、ふつうは何も言わずにセットしてあるはずなんですよね。



けど、この主人公、それが外れているんだもん。たぶん内発性が弱すぎるので、そこまで主張する気(主張とはすなわち自分の意志によって世界の方を変えたりすること)はないんで、全部受け入れる形に「流されていって」しまうんでしょう。またこの「流され過ぎる」のも僕は気に食わない、、、、異世界のフロンティアで生活しているんだから、それだけ知識と技術と行動力があって、なんで、積極的に動かないのか!!!!とじりじりしてしまうのですが、、、、でも、主人公、ほとんどどう考えても君の身内じゃねーだろそれ系の食物連鎖のつながりがある存在にシンパシーが寄って、話が進む。しかも、流されているだけなので、よけい壮大に大失敗というかひどいことになるだけだったりする(笑)。



これね、、、、僕まさに、「どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか」というテーマだよなーって思うんです。凄いって思いました。



言い換えればね、、、救いようのない人って、ようは、ここでは動機や内発性がなくて社会的なものの中に居場所を見つけられない人は、社会からはじかれてしまいます。そうしたはじかれた人は社会全体の発展性や生産性に寄与しないので、社会的に無価値になりますよね。また社会性を求めないこと、、、、内発性がないことは、その人自身に積極的に生きる意思がかけていることでもあるんですよ(消極的にはあるかもしれないですが)、、、だとすると、そんな人を救うにはどうれば?っていっても、すげー難しいんですよね。この社会は自助努力しない人には、リターンを与えない設計に制度設計されているので、何もしたくないといわれれば、何も権利はないになってしまうんですよね。仮に、何もしたくないような無気力が、ある程度、社会やマクロのせいだとしても。そうすると、どうする?って話になるんですが、、、、たいていここは、やる気が足りないんだ!!!と動機をたたいて伸ばそうとするスポ婚根性論や、勝つこと至上主義の話になります。けどねーーー内発性のエネルギーの話って、それがある人は、たたけば伸びるんだけど、、、、もともとない人ってのもいるんですよ。そこを叩くのは、もういじめを通り越して地獄としか言いようがない意味のない行為であって、いやーそれ見てらんない、という感じになってしまいます(今の世の中って、ここだと思います)。


ただね、こういう人をどうやって救えばいいのか?といえば、もう上で結論が出ているんですが、社会とのリンクポイントが動機・内発性という接着剤なので、それがない人は、社会の側から救われることはありえないんだと思うんですよ。それって、ほんとかわからないですが、僕には思いつかない。今のところ。


じゃあそういう人がどうなるのか?救えるのか?価値があるのか?



と問われると、社会サイドにいる人の典型的な意見は、無価値なので切り捨てるべし(右翼、動機至上主義派!)になるか、人権は守るべきで政府とか偉い人金持ちが何とかしろ!的な無責任無限他人責任論(左翼、人権至上義者)みたいな対立になるんですね。これ、よくみます。けど、どっちも気持ち悪いんですよね、、、、無価値切り捨てって、、、現実それしかできないしそういう制度設計になっているとはいえ、それをやるのは憐憫の情(アダムスミス的な共感性でもいい)として人間的なるものとして、社会の在り方)社会は繋がっていて総体で意味を発揮する)という部分を壊しちゃうので、だめでしょう、いいきっちゃ。と思うし。かといって、何もしない存在に、社会側が譲歩して身を切り刻んで助ける理由も全くないよね、、、それでも守れは、それはあきらかにおかしい。人権なんてフィクションであるのだから、線引きがどうしても必要。予算というものや限界が、人類にもあるんだから。それに、少なくとも生物としておかしいじゃん、それと思う。どっちも、うーん、という感じなんですよね。



これってなんで結論が出ずに悶々とするかっていうと、社会性・・・・・ヒューマニズム(人間本位主義)の視点から世界を眺めているからなんだと思うんです。



いや、それ飛び越えればいいじゃん!。どのみち社会性がないのは、脱社会的な存在なんで、社会性のグランドルールはすべて適用しないで行こうぜ!ってのが、SFの一つの導き出した答えなんだと思うんですよ。それを豊かに展開するときに、ヒューマニズム的ではない、共生の在り方って何?って問うべきなんですよ。



・・・・・って、この物語の主人公じゃん(笑)。



そんで、、、、この後この物語2章以降、大きな「この世界の秘密」に沿ってSF的な展開を見せていて、それはそれで素晴らしいのだけれ度も、それはまた書きたいですね、もっと読んだら。でもまずは、この主人公の非常食さんとの共生生活って、凄いグロテスクなんだけど、、、グロなのは当たり前で、ヒューマニズムの前提や人間の本能都的な食物連鎖のバランスの鎖につながれることの拒否(食物連鎖の下位になりたくない)とかの部分が、主人公、いろいろ、意思的にではなく流されているだけなんだけど、あっさり乗り越えているからなんだと思うんですよ。社会性の話に行かなければ、自意識(ナルシシズムの解体)の話に行かないんだ!というのも大発見でした。

22XX (白泉社文庫)


そして、、、、こういう異物が入ると、生態系はめちゃくちゃに変化して行きます。そこには、救うなどという話ではなく、何か大きな変化がこの世界の中に訪れます、、、、それはいいか悪いかはすごく悩むところではあるが、、、、善悪の基準で考える向こう側の話なんで、そもそも生態系の話は、、、、あっと善悪の基準というのは完全にヒューマニズムですからね、、、、この大きな変化ちゅーのは、少なくとも、物語る価値のあるドラマトゥルギーだと思うんですよね。これを救済と呼ぶかはともかく、意味も価値もある物語ですよね。内発性はなくとも、社会の底辺からはじかれても、生態系の一部になるのは、何か別の大きなものとのつながりですよね?とか、、、そんなことを読んでいて徒然おもっています。面白いです。素晴らしい作品です。伊勢饂飩教ビバ!。社会の物語ではなく、生態系の物語に飛躍するのは、まさにSFの全体と個のずらしの見事な物語類型だと思います。いやー素晴らしい。


ちなみに、まだ読み終わっていないし、分析もできていないんで、評価しづらいんですが、リアルタイムの感覚的には、★5から★4の間くらいですねー。面白いです。なろうの文脈で、こんなので生まれるんだーと感心しました。いや異世界ってフォーマットは同じですがね、、、つくづく著者の才能なんだなーて感心します。


SWAN SONG 廉価版

2012-12-13

『海賊とよばれた男』 百田尚樹著 (2)石油を確保するという近代日本のエリートが考え続けていたことへの一つの答え


海賊とよばれた男 上海賊とよばれた男 下

評価:★★★★★星5つのマスターピース

(僕的主観:★★★★★5つ)


2)石油を確保するという近代日本のエリートが考え続けていたことへの一つの答え〜本当に自由主義者として振舞えば、世界は微笑み返す


国岡鐡造(出光佐三)が、凄いな、と思うのは、石油という今世紀のエネルギーの基本となるものを、その最初から目をつけて、貫き通したことだ。この本を読んでいた時に、僕はずっと、自分の読書のテーマである「資源を求め続けてきた近代日本」というのを思い出した。この設問に対する一つの明確な答えが、この出光の創業者の人生という物語にはある。この人の人生は、まさにこのテーマをど真ん中からとらえて生きたものだ。


『雄気堂々』城山三郎著 尊皇攘夷と開国の狭間で

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081013/p1

雄気堂々〈上〉 (新潮文庫)雄気堂々 (下) (新潮文庫)


ちなみに、なぜ「商人たること!」が、現代社会の中で矛盾を解決しうる一つの「答え」になるかもしれない?、もしくは、司馬史観以降の、というか日清・日露戦争以降の近代・現代日本社会を読み解いていくときに見るべきは、事業家、商人なのだ、という僕の一つの到達点にして新しい「問い」の原点はこの記事にあります。このイメージがこのあたりのテーマのすべての根源で、この類似てテーマで、ファンタジーにおける「商人」の位置づけの偏向というずっと温めている論考というかテーマもあります。『狼と香辛料』から『まおゆう』の商人を理解するには、同じことが明らかにされないと、わからないのではないか?と僕は思っています。なので、このテーマが好きな人は、上記の記事を何度も読み込んでおいてください(笑)。僕が言いたいことの根源というか問いの本質がそこにありますので。この記事が一番丁寧に、珍しくわかりやすく書いてあるので、今後の僕のこのあたりのテーマの記事を理解する補助線になると思います。

狼と香辛料 (電撃文庫)

まおゆう魔王勇者(2) (ファミ通クリアコミックス)


このテーマは、山崎豊子さんの『不毛地帯』という小説を読んでいる時に強く感じた。『不毛地帯』の主人公は、壱岐正は、大日本帝国陸軍大本営参謀で、戦後、大商社の会長に上り詰める男だった。瀬島龍三さんという大東亜戦争を企画した大本営の参謀で、戦後は伊藤忠商事の会長を経て、中曽根政権の闇のフィクサーと呼ばれた人の人生をモデルに描いている。これもそれが本当だったかはさておいて、この物語の主軸にあるのは、石油という近代日本社会の存立の基盤となるものを追い求め続けた男の生涯の話です。これは、僕はよくわかる話だと思う。たとえば三井グループのイランの巨大プロジェクトもよくわかる。ようはね、近代日本の戦争のポイントは何かといえば、それは、石油がなかった!ことに尽きる。この恐怖感が、アメリカに石油を封鎖されて、帝国海軍を追い詰め(石油がなければ世界第三位の帝国海軍は、動かない鉄くずとなる)アメリカとの泥沼の戦争にはまり込んでいった。


不毛地帯 (第1巻) (新潮文庫 (や-5-40))

大東亜戦争の実相 (PHP文庫)

新装版 バンダルの塔 (講談社文庫)

ちなみに、いまは、僕はアメリカとの戦争との本質は、やはり石油資源がなかったことを戦略的に利用されて日本は泥沼に引きずり込まれ、そして日本の社会はその泥沼を自らの社会の駄目さで、自ら飛び込んで行った感じがしている。


けれども、石油資源のなさによる帝国の戦略的危うさの構造的問題と、大日本帝国が台湾、朝鮮、満州へと拡大していったものは、別の論理のような気がしてきた。たしかに、永田鉄山のいう戦争の構造からすれば、総力戦の後背地としての満州という点では、資源の不足を補うというこの論理との関係があるとは思うけれども、、、、少なくとも、日中戦争がなぜ起きたか?の前までの帝国の拡大の論理は、資源とはあまり関係性がない気がする。・・・・これは僕の内的思考なので、考えがまとまっていないし、なにを言っているか読者はわからないかもしれないですが、、、どうもアメリカとの戦争とその引き金となった日本と中国の戦争は、その構造がなにか違うもののように感じて来ています。アメリカとの戦争は、なぜ、どうしてそういうものが引き起こされたかは、何となくわかってきた、とこれまでの記事でも書いてきました。けれども、その起源となった日中戦争、いわゆる15年戦争は、僕にはいまだよくわからない。もちろん、全然そこら辺の資料を読んでいないからなんですが、、、けれども、日清・日露から15年戦争までの日本の大陸方針は、まだこの時代では、油の売買を基盤とした構造(=資源争奪戦)があるとは思えないんですよね。そうなったのはこの時間軸の後期からであって、大陸の方針は、この構造をベースにして生まれてきたものではない気が、、、。

昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)
昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)

最終戦争論・戦争史大観


ちなみに、アメリカが戦略的に日本を追い詰めたのは確かにそうであるが、だからといって、自衛戦争とは僕は思えない。うん、たぶん自衛戦争という言い訳にすがるのは、カッコ悪いと思う。やっと、最近、この言葉の卑怯者臭の理由がわかってきた。これは、独占と自らの特権への固執の物語なのだ。過去の日本の戦争が、悪かった、と単純に肯定する気は僕にはさらさらない。悪かった良かったなどという善悪でくくられた歴史観など意味がない。何が、そのような運動体を構成する構造であったのか、力学であったのか?そういうのを人類史的な視点で、知りたいと僕は切に思う。理由は、もちろんそれが一番おもしろそうだからだ。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

ちなみに、もう少し細かく考えておくと、まだ感覚の次元なんだけど、この「自衛戦争」というニュアンスは、大東亜戦争(ってこれもわかりにくいんだよね・・・)って、ようは、日本は二つの国と戦争している。対米戦争と対中戦争。この中で、対米戦争について、どうも強く言っているケースがエリートの言行録を読むと、何となく感じるんだよね。そして、まだなぜとは論理的には言えないが、それは、実は多少は、そうとも言えるなーという側面がある気はしている。米国は、既にこの時点から超大国だし、戦略的に日本を犠牲にしようと追いつめているのも感じるもの。まぁ、それにのっかった、日本も駄目なんだけどさ。けど、少なくとも対中国との戦争においては、非常に難しい気がする。自衛というにはね。ただしこれも前期と後期があって、どうも「前期」の時点では、日本の外交戦略にはそれなりの論理性があるように思えるんだよね。これは日露戦争の遺産なんだけど。ロシアを防衛したのは日本だっていう話からね。そこは、まだわかる。が・・・それを貫こうとして、「後期」というか満州事変を引き起こしたころから、これって完全な侵略というか、なんの外交的論理性もない、ただの侵略なんだよね。これは、もう言い訳はできないと思うなー。。。。最近そんなことを考える。

「保守の思想」を再点検する3――満州事変は満州問題の解決のためではなくその目的は別にあった

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2191.html

「保守の思想」を再点検する2――満州問題の外交的解決に当たった最後の外交官佐分利貞夫はなぜ死んだか

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-6eeb.html

その辺はこのブログの記事がとても面白かった。このへんの問題は、浜口内閣での幣原喜重郎の国際協調外交いわゆる幣原外交を詳細に分析することで、どうもわかりそうだ。このあたりは、もっと勉強しなくてはなーと思いましたが、やっとその契機というか糸口がわかってきた気がします。

平和はいかに失われたか―大戦前の米中日関係もう一つの選択肢


話はもとの独占の話に戻る。


・・・・・とすると人類史の発展にとってこの、独占の排斥という運動は、歴史を見るうえでの重要なポイントのような気がする、、、。ようは資本主義の発展という歴史の運動力学を、ナショナリズムによるブロック経済と統制経済(=要は独占)と、それと対立する自由主義経済、インターナショナリズムで捉えようということだが、、、まぁ、これはこんど考えよう。。。。もちろん近代のこの時代が植民地争奪の壮大な西洋文明による侵略の歴史であるという基礎の部分は、否定できないと思う。だからこそ、ペリーによる黒船の時代からの安全保障をめぐる辺境の土民国家日本の近代化の物語という「美しい物語」が、あるわけだ。それは、人類史からいえばローカルな物語ではあるが、西洋文明パワーズに対する辺境の抵抗、植民地主義から自由貿易体制への転換点としては、興味深いローカルな物語ではある。まぁ、いわゆる司馬史観ですね。

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けれども、僕はこれがすごく強調されすぎる(=自分たち「だけ」が特別だというナルシシズム)気がしている。というか、日本の典型的な右翼の物言いは、こういった単純なレベル、表面的にとどまっており、右翼としては僕はあまりにレベルの低い物言いな気がする。日本の右翼って、まずこの辺からいおうとするでしょう?。日本は悪くなかった、とか自衛戦争だった?とか。僕は日本が全面的に悪かったとは何度も言うがサラサラ思わないが、かといってこの物言いは、うーんなんだかなあぁ、とずっと思ってきた。


最近分かってきたのは、、、、というのは、この科学技術などの「近代化」による戦争と植民地争奪の競争は、ペリーが強引に眠っていた日本を開国したと同時期には、イギリス以外のすべての列強諸国(=パワーズ)が、その渦中にいたものだったと歴史をよく見ていると思うからだ。というのは、たとえばプロイセン(=ドイツ統一以前は、バラバラで食い物にされかけたいた?)など、その他の諸国も、この弱肉競争にエントリーされて、逃げることもなしに、ある種のグローバル化というか「降りることの許されない近代化のラットレース」に叩きこまれている近代日本だけが、強引に近代化されて、弱者として逃げられない競争にエントリーさせられたわけではないのだ。ヨーロッパ諸国も、死にもの狂いでこの近代化競争の逃げられないレースで、怯えながら全力疾走していたのだ。それは、イギリス以外のすべての国にとって同じようなものだ。大英帝国さえも、自国の「帝国」の衰退との長きにわたる崩壊の戦いを繰り広げている。

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それを、日本だけが被害者意識でいるのは、あまりに歴史的に情けないと思う。だから、事実である側面はあっても自衛戦争という概念で、侵略の歴史=近代化競争の弱肉強食の歴史を正当化するのは逃げだ、と思う。たとえば、物凄い卑近な例なんだが、いま、サムソンとかを韓国のメーカーでも中国のハイアールでもなんでもいいが、国際的に後発で、日本の技術を盗んだ!と言って蔑む傾向があるとしよう(これ仮定ね)。後発国は、確かに何でもやる。人材を引き抜いて、日本で冷遇された技術者をどんどん雇用して、自らの成長のために資する。よくこういうのも、あいつら技術を盗みやがって、卑怯なやつらだ、とかいう物言いがあるけれども、、、でもこれって、明治の日本がヨーロッパから招いたお雇い外国人と何が違うの?と思う。もちろん、パテントや発明の問題は、軽々しく盗んで何が悪いとは言えない部分があるとは思う。しかし、パテントの概念が、独占として機能することは間違いない。独占は、人類の発展にとって健全ではないんだ。単純化できないから総論では言えないのかもしれないが、しかし、競争を独占で阻害する行為は、健全ではないんだよ。そこでは、良い悪いの問題ではなく、競争で打ち勝つ以外にはないのだ。日本だって、そうやって先に走っている連中を全力で盗んできたのだから。ましてや、拉致するとかはさすがに許されないけれども、高給で雇うのならば、そこに何の問題がある?と僕は思う。考えるべきは、ナショナルな次元だけではなく、同時に、それを超えた次元でも見れないと、成熟した国の人間として恥ずかしいと思う。


けど、そこには人類社会に貢献するという大きな価値がなければ、価値を持ちえない気がする。たとえば、戦前の近代日本には、アジアの小国がアジアのマーケットを開拓・整備・拡大化・深化していくという「正しさ」があった。もちろん膨大な矛盾は隠されていても、資本主義の運動として、マーケットを、より微細に、深く、広くしていった運動であったのは間違いない。Samsungや中国の発展も、中国市場の世界史における『あるべき姿』への復帰や新興国の興隆、マーケットの拡大という「大きな構造というか人類史のトレンド」を捉えているからこそ、流れに乗っている。もちろん1950-1990年代のSONYや日本の自動車産業の発展の流れもそうだ、、、。ちなみに、人類史1000年ぐらいのトレンドで見ると、平均して世界市場における中国の存在感は常に3割以上ある。だからいま中国が成長しているのは、別に成長しているというよりは、通常の状態にもどっただけだ。ここ100-200年が異常値だっただけだと思う。そう思わない人がいるとしたら、歴史が全く見えていないとしか言いようがない。そういうトレンドに乗っているかぎり、どんなことでも、やったが勝ちの部分はある。日本だって、東アジアの辺境の小さな国(=中華帝国と比較して)だったのが、このトレンド、西洋文明の東アジアの導入の先駆けになったからこそ、非常においしい目を見たのだ。そういう「人類史の転換」みたいな流れに乗れるかどうか、それと接続していることをできているかどうかが、重要なんじゃねーかなーとかとか思う。まぁこのへんは、まだ試行がまとまっていないなんちゃって戯言だけど。


えっと、話が壮大にずれた。えっとね、日本の近代の物語には「資源がなかった国の悲劇」という安全保障の物語が存在している。自己防衛の歴史ね。でも、僕はずっと、自衛戦争という自分に酔っている物語以外に、それ以外に自分たちの「存在」を肯定する物語をあまり見つけられなかった。やっぱり、日本人としての自分が誇りを持てないのも恥ずかしいので、それ以外ないのかなぁ、、、と思っていた。けれども、やはり、この安全保障のための自衛戦争という物語は、どうも、軍人や政治家や、官に非常によって「世界の見方」なのかもしれないといま思い始めている。ようは、日本の国家(=ナショナリズム・民族主義)という部分に偏ったものの見方だ。前に、この時代の軍人や官僚の本はたくさんあるのだが、明治期から戦前、戦後の経営者の生き様を追うことこそ、この時代を理解するキーになるのではないかと思っているということを書いたのだが、僕の嗅覚は正しかった気がする。

石油カルテルは悪いものかというと決して悪いものではない。これがあったから世界の石油資源が開発され市場も大きくなって今日の石油事業が存在するのである。メジャー・カンパニーがやっているカルテルは大功労者である。けれどもこちらが隙を与えると独占されて高く売りつけられる。こちらが実力を持って隙を与えないようにして向こうを利用していけば、向こうも喜んで日本のために尽くす。これがカルテルの本当の姿である。であるからこちらは実力をしっかり持っていなければならない。


出光佐三


このセリフには、福沢諭吉が言った自尊独立の概念がしっかり生きていると思う。上記にも書いたんだが、この出光の創業者の生き様は、その人生にほぼ曇りない感じがする。それは、この人が、根っからの商売人で、商売の本質以外にはかかわりがなかった人だからだと思う。商売の本質とは、資本主義競争の健全さだ。そして、彼の様々な困難や問題が、大英帝国やセブンシスターズといった現在の世界を支配する組織に対して真っ向から勝負を挑んでも勝てるのは、なんというか「正義」があるからな気がする。この人は一貫して、商売としてのフェアネスを貫こうとしている。もっとわかりやすく言うと、商売における中間搾取の排除や独占構造への抵抗など、資本主義の競争として「真っ当なこと」を貫いているだけだ。けれども、まったく純粋にこれを貫こうとすると、相当の困苦が存在する。統制経済というのは、いってんみれば、資本をナショナリズムの中に閉じ込めていく行為であって、それは、たぶん「人々」という単位で考えると正しくないことなんじゃないかな、と思う。日本人とか中国人とか、想像の共同体のカテゴリーでの寡占独占を志向することだからだ。



たぶん、ここでやっと、自由主義とは何か?という問いが生まれるんだろうと思う。


やっと、ここまでつながってきた。自分は、リベラリストだと思っていたが、必ずしもすべての拘束を解き放つ運動力学としての自由主義が好きではないのだが、それでも、歴史を読み込む中でこの言葉とイメージには、抗いがたい魅力を感じて、非常に何らかの「正しさ」を感じていたんだが、やっと自分の思考の流れがすべてつながってきた気がする。これは、自分の中になかった、近代史とは何か?近代日本とは?というテーマが、やっとそのの全貌を表してきた気がする。


最初に僕が立てた問いは、現代資本主義社会の商人には、善悪二元論の果ての永遠の殺し合いを超える可能性があって、近代の商人たちが目指していたものは、そこなのではないか?という問いでした。これはきっと自明的な目的ではなくて、商人というものの本質にかかわる存在の命題なのだと思う。それがすべて正しいとか善なるものという気はさらさらない。商人の目指すものは、今ある世界を作りかえること、言い換えれば今の世界の破壊だから、それがすべて血で購われるレベルのものであるのは、当然だ。人類の発展や進歩がそうでないはずがない。そしてその具体例として、渋沢栄一の話が一つあった。そして、この出光佐三の生き方には、この渋沢栄一の「その先」が描かれていて、それはストレートにいまのぼくたちにつながっている。そしてこれらの商人の生き様を見る時に問わなければいけないのは、きっと上記でいった「自由主義」とはなんなのか?なのだろうと思う。言葉の具体的定義なのではなくて、僕は学者ではないので、そういう細かいことはどうでもいいのだが、この「問い」自体は、僕はいい問いだと思っています。もう少しここを問い詰めていきたいと思いますが、本当にこの本はその文脈でよったです。

2012-10-24

『海賊とよばれた男』 百田尚樹著 (1)銀行家の使命とは?〜本分を全うするチャンスを人は探して生きている

海賊とよばれた男 上海賊とよばれた男 下

評価:★★★★★星5つのマスターピース

(僕的主観:★★★★★5つ)


本当に素晴らしい本です。さすが。メインの感想は、(2)ですが、まずはさわりで。とにかく、仕事の本分とはどういうものか?ということを凄く考えさせられたことと、なるほど、現代の産業の構造の基盤はこのような過程を経て形成されてきたのか?と物凄く勉強になる話だった。それがこんなに血わき肉躍るエンターテイメント小説で感じられるのだから、本当に素晴らしい作品だ。


1)銀行家の使命とは?

この本を読んでいて、何度も起きる不思議な出来事を、不思議な思いで読んでいた。


それは、国岡鐡造(出光佐三)が事業を行っていくうえで、銀行家が何度も「銀行家の本分は、このような事業を支えるのが仕事ではないか?」と、あり得ないであろう巨額の融資を、出光佐三にしていくところだ。


九州の小さな、それも零細の小売店業に、一代で財を築きあげた銀行家や東京帝国大学出のエリート銀行マンが、一目見るなりもしくは彼の事業の業績を詳しく分析すると、緊縮財政で出資引き上げが当たり前の過酷な経済環境の中、しかもたぶん出光興産以外には、相当シビアで冷酷な銀行マンであろう人々が、次々に融資していく。はては、バンクオブアメリカ(当時世界一の銀行)が、敗戦国日本のしかもメジャー(セブンシスターズ)に反抗を貫き通す民族資本の出光興産に次々に巨額の、資本金比率からいえばありえないような融資を実施していく。それも、順風満帆な時ではなく、いつでもかなり状況が困難な時に、だ。そして、その理由というかロジックがすべて同じで、、、ああ、そうか、と思う。


もちろん、僕はこの本の出来事や描写がどこまで事実なのかはわからないが、非常に納得感がある。それは「銀行家という職業の使命は、本分は何か?」という問いだ。バンクオブアメリカの副社長が、「あなた程度の資本金に対してはこんな巨額の融資はとてもではないができない。しかし、あなたたちの合理的経営に対してはできる。」という言葉は、日本の明治期や大正期の地方銀行から、戦後の世界に君臨するアメリカの大銀行であっても、どれもその基本姿勢は変わらないのだ、と思った。


銀行の使命は、産業の血液であるお金を融通すること、健全で価値のある産業と経営者を見抜き、それを育て上げること。これに尽きる。たぶん、国岡鐡造(出光佐三)という経営者に出会った時に、銀行家として、人生に一度あるかないかという、本分を貫き通す賭けができる時に気づいたのだろうと思う。


仕事をしていれば、型にはまったものばかりが多いこともあると思う。僕も大企業の歯車として生きていて、ある種の「ルール」の中で仕事をしていることが過半だ。けれども、本分(=自らの存在の意義)に関わる判断が巡ってくる時が、時にはある。リスクをかけても、それが自分の職業人生や未来を閉ざす可能性のあるリスクであっても、それでも




「本分を全うできる」というチャンス




には、なかなか出会うことができないが、確実に出会うことがある。きっと、国岡鐡造(出光佐三)に出会った銀行家たちは、自らの存在意義の本質を全うできるチャンスに震えたんだろうと思う。もちろん、それは、国岡鐡造(出光佐三)という個人が好きになったかいうことではない。


大規模小売業、生産者と消費者を中間搾取抜きに接続し、産業を興隆させること、それを、20世紀の文明の基礎ともいえる石油というエネルギーの根本によって為し得ること、この理念を体現できる可能性に賭けたんだろうと思う。こういうものに出会ったのに、融資せずに、それを守らずにはいられるだろうか?という強い情熱を銀行マンたちに与えたんだろう。実際、出光の創業期に中間搾取を除いた油の販売によって、西日本の漁業は大きく発展したという一文があるが、これはその地域の企業の血液を管理している銀行マンたちにとっては、きっと強い実感と凄さを感じさせたのだろうと思う。そして、至極当たり前の自由競争で、産業をイノヴェーションしていくことを、「正しい形」でやりぬくことが、どれほど難しいことかも、知っていたのだろう。知っていたからこそ、それを貫き通し実績を叩きだし通津づける彼と彼の「家族」に投資しべきだ、と思ったんだろう。



なんというか、それほど自由競争を、阻害していこうとする力学がこの世の中には強く働いているんだ、ということをまざまざと感じさせる。「まおゆう」の豊かさとは流れていることだ、という話を凄く思い出す。これは、資本(=ビジネス)と国家というのが、基本的に、インターナショナリズムとナショナリズムの力学のぶつかりあいだからだということなんだろうと思う。ちなみに、やっと最近分かってきたのは、国家や共同体は、ナショナリズムの力学を借りて、少しで物事を独占・寡占の囲い込みに持って行って流動性を封じ込めようとする力学が働いているんだなーとしみじみ思うようになってきた。ここで戦前から戦後にかけてこの100年間の日本の出光以外の石油産業って、こんなにも閉鎖的で、かつ寡占路線のクラブを形成する力学のみで動いていたのか、と感心する。ここに出てくる人間の名前は本名なのだろうか?。ここでやった時系列的に100年くらいのスパンでは、明らかに日本にとってマイナスの行為を排他クラブの形成で行おうとした人々の名前って、さすがに時間もすぎているんだし、歴史を評価する上でも実名にすべきなんじゃないかな、、、と思いました。


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まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」

2012-08-23

『まおゆう魔王勇者 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る! 」』 このコミカライズ素晴らしいです!

まおゆう魔王勇者 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る! 」 (4) (カドカワコミックス・エース)

石田あきらさんのコミカライズ、素晴らしいです。これ、ずっと手元に持っておいておきたい。・・・というか、この作品って歴史を網羅しているから、子どもに読ませたいな、って思います。ずっととっておいて、読ませたいコンテンツですねぇ。ちなみに、↓下の頃の記事は、僕の思考の履歴のベースになる話の流れなんで、こんなわけのわからないのブログの中身をそれでも理解してみたいという人は(笑)、読み込んでおいてくれると、僕の思考の流れがわかると思います。基本的に、履歴のたれ流しなんで、何かアンカーがないと、??ってなってしまうと思いますので。ああ、それにしてもやっぱり、メイド姉の話の類型は、物語世界ではまず見たことがない素晴らしい流れだな!と感心します。



魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 

メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)

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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 

英雄譚の類型の倫理的欠陥〜魔法騎士レイアイース(1993-96)に見る、全体主義への告発(3)

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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 

善悪二元論を超えるためには、歴史を語り、具体的な解決処方を示さないといけない (2)

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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著  

その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)

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まおゆう魔王勇者 エピソード0 砂丘の国の弓使い

2012-03-06

『山本五十六』 阿川弘之著 著者は文学者であって、組織論や技術史などの視点に欠けるなー

山本五十六 (上巻) (新潮文庫)

評価:★★★☆3つ半

(僕的主観:★★★☆3つ半)

山本五十六の小説を初めて読んだ。こういう人だったのか、と初めて知った。情報ほとんど自分の中になかったので。

そして海軍側(ちょっとひいきが過ぎる気がする…)からの視点を読んでいて、やっぱり思ったのは、『永遠のゼロ』を読んだ時と同じ感覚で、大日本帝国海軍だけで言えば、アメリカに勝てるだけの実力があったんだな、とやはりここでも思った。もちろん「勝てる」というのは、言葉のあやで、長期戦では絶対アメリカには勝てないし、華々しい意味での勝利というのではない。もともと、戦争するのが狂気の沙汰なくらいの実力差があるんだから。けれど、アメリカにミッドウェーの『大逆転』という邦題の歴史を描いたものがあるが、ミッドウェーは、人類史上でも最初期の機動艦隊同士の決戦なんだけれども、この段階でのアメリカ機動艦隊と日本の連合艦隊(GF)では、その規模、練度、航空機有用性を先行して実現していた経験など、実は日本側が圧倒的に勝っていて、アメリカの軍人たちは、とてもじゃないけど、勝てないくらいに思っていたみたいなのだ、、、、。それで完膚なまでにやられているんだから、つくづく「戦い」というのは運なのだな、と思う。ちなみに、この「規模」でアメリカを勝っていた、というのがすごいと思う。ただ考えれば、わかるのだが、いかにアメリカが大帝国といっても、太平洋と大西洋の両方で、大艦隊を維持するのは物凄い費用が掛かることなのだ。事実上太平洋(できればインド洋までだが…)だけを防衛すればいい日本とは違うのだ。


こうしてみると、海軍の屋台骨を支えた米内光正、山本五十六、井上茂美の三大提督は、なんといっても軍政面で優れた軍政家だった印象をこの本では受けた。というのは、真珠湾攻撃からミッドウェーまでの間なんだが、つまりは、山本五十六が言った1−1年半は暴れて御覧にいれますと言っていたように、この期間の連合艦隊の太平洋での実力は、アメリカを圧倒しているのだ。用兵はいまいちで、ミッドウェーでは負けているが、そこの問題はいったん置いておくにしても、軍の規模と練度と、科学技術の先進性(技術では全然負けているが航空機優先を先行して実証している)で、アメリカに五分になっているのは、すごい。これは、ワシントン軍縮会議で、山本五十六が想定して主張していたことと、航空機優勢の用兵スタイルを構築することが、一時期であれ太平洋上での日本帝国の軍事優位性につながっているということをはっきり示しているからだ。政治レベルもしくは戦略レベルでの、勝利を既にしているということだ。ただ、同時に逆に、その後の、、、海軍全体でもそうなんだけど、山本五十六も、ハワイ作戦(=真珠湾攻撃)以降の戦争の作戦プランをまったく考えていない!てのは、作者の阿川さんはあまり非難しても不思議がってもいないようにさらって書いているけど、それって狂ってるとしかいいよいうがない、おかしなことでは?と読んでいてすごい違和感があった。なんなんだ、これ。。。おかしすぎるぞ、、、。いくら、連合艦隊という一部隊の指揮官にすぎないといってもさ、、、。これはきっと、海軍共同体の世界では、ハワイ作戦以降んことを考える「必要性がない」と考えるような何らかの前提があったか、もしくは、ハワイ作戦自体が目的化して、それ以外考えられなくなったいたということの証左のような気がする。どうも、この昭和16年のある時期の、太平洋上での海軍力の、日本側の圧倒的優位性と航空機戦術による米艦隊への戦術上の優位性というのが、物凄く海軍軍人にとっては、千載一遇のチャンスに見えていたように感じるんだよな、、、なんでかまだ勉強不足でよくわかっていないけど、、、。なんだか、ここおかしいんだよな。陸軍よりも海軍のほうが、ずっと反対反対言い続けている割には、対米戦争(というか、ハワイ作戦を)を海軍がやりたがっているようにしか、僕には読めないんだけど、、、。なんあんだろう、、、、。凄い違和感がある。とはいえ、話を元に戻す。


この小説は、2点を強調して描いている。


1)山本五十六のワシントン軍縮会議での態度


2)山本五十六の三国同盟に関する態度


ようは、このどちらも右翼に暗殺される危険があるほど、どっちもマスコミや大衆、陸軍と反対の態度を貫いている。これってこの山本五十六の主軸を貫く人生の基本のようで、アメリカと戦争するなんて馬鹿げている!という産業力の差がけた違いであることが、強烈にあるんだよね。だから、アメリカと戦争することだけは避けたいというのがずっと一貫しているトーンなんだよ。海軍三提督は三人とも。海軍の中でさえも、ワシントン軍縮会議については、条約派と艦隊派に分かれて、戦後でさえも相当の確執があったようなので、山本側に立っている著者をすべて信じるのは難しいかもしれないが、とはいえ、ここで語られている山本五十六が見ていたものは、ロジックとしては通っている。山本五十六は、日本が低い比率で艦艇を保持するように抑え込まれたと思っているようだが、違うのだ。際限なく軍拡競争をすれば産業力がけた違いに大きいアメリカが圧倒的に強くて、既に日本の財政は限界にきているのだから、本当はこの会議は、暴走してめちゃめちゃ強くなるアメリカ側にキャップを付けた会議なのだ!と喝破してたのは印象的だった。また、軍隊は技術の優位性が、重要で、今後の海軍では、飛行機による三次元立体作戦が主になり巨大な艦艇をどれだけ保有するかという大鑑巨砲主義は終わったと感じていた彼からすれば、自明のことだったんだろう。もちろん、世界中の軍隊が、こんな立証もされていないことを信じていなかったので、この考えに国運をかけるのは当時では難しかったろう。とはいえ、上記の疑問に戻るんだけれども、いくつか不思議なポイントがあって、その割には、陸軍は対米戦争とか全く考慮していないんだけど(やる意味がさっぱり分かっていないようだ)、対米戦争を最も具体的にしてそれを実務上やり切れるレベルに持っていたのは、軍官僚山本五十六のハワイ作戦構築とその訓練(魚雷による湾の攻撃作戦)と開発なんだよね、、、そして、最終的に近衛文麿の後押しをしたのは、ずーーーーっと反対を貫いている米内光政っぽいんだよ、どうみても、、、。なんか、????って感じがする。米内があそこでああ置いわなければ、、、という述懐が、だれかの回想録で描かれているけれども、基本的には、ずっと反対を貫いている海軍軍人が、すっとOK指示を出したので、話が進んでしまっているんだよね、、、。って、それって米内光政なんだよね、、、、なぜ??ってここもすごい不思議。


もう一つは、この本を読む限り、三国同盟の締結というのは、まったく理解に苦しむ。山本五十六は、ずっと反対し続けているのだが、日本にとってほとんどメリットがない。いや、ほとんどではなくてメリットが皆無で、むしろデメリットしかないのに、何で締結したのか?がさっぱりわからない。もちろん、海から見た場合の視点ではあるのだが。長期的に、日本はアメリカと国力で勝つことは絶対にできないほどの差があるのだから、太平洋側では、アメリカと同盟を組んで、中国市場を分け合うのが上等の考え方だろうに。まったく、意味不明。ここ今後考えるポイントだな、と思った。なんか、納得できないんだもん、整合性がなくて。いったい何のメリットがあって、三国同盟を結んだのか?ということと、中国との戦争をどう評価するか(まだここを読み込んでいないので、さっぱりわからない)これは、念頭に読書を続けたい。アメリカにしても、大日本帝国との戦争は大失敗でもあると思うのだ。というのは、この戦争の大きな目的の一つが、中国市場をアメリカが獲得することであるとすれば、その上位方針に、中国の共産化、赤化を防がなければならないことがあるはず。けれど、日本との戦争のせいで、中国は毛沢東によって共産化してしまい、アメリカは市場から一掃されてしまった。結局、その防衛のために最もアメリカにとって都合のいい同盟国は、日本であったことは、地政学上の事実としてその後の歴史が証明している。アメリカにしても、大戦略の方針として失敗だと思うのだ。


とはいえ、なんで日本は、ドイツとなんか、同盟を結んだのだろう?。あまりに裏切られまくっているし、、、。もちろん、ドイツがフランスを下してヨーロッパの支配者になって、ドイツが大西洋からアメリカを攻めてという絵を描いていたのかもしれないが…事実ドイツは物凄い強さでヨーロッパの覇者になるように見えた当時の環境はあるので、今の時点から当時の人々を馬鹿にすることはできないとしても、そもそも、ドイツって海軍力がほとんどないじゃないか!そうしたら、太平洋側での戦線はほとんど影響なんかないんだよ。太平洋までの継戦能力があるのは、大英帝国とアメリカだけなんだから。アングロサクソンと対立することに何のメリットがあるんだろう?。


そして、最初の「勝っていた」というのと、山本五十六の軍政家としての凄さなんだろうけど、真珠湾攻撃のプランもミッドウェーのプランも山本五十六がこだわって作ったもののようなんだけれども、どっちも目的は、なんといっても優勢なうちに早期講和に基づくきっかけづくりなんだよね。アメリカには絶対長期戦では勝てないから、シンガポールが陥落した時点で、「領土を全部返上して!」早期講和を持ち込むべきだと考えていたようなのだ。領土的野心を捨てる代わりに、戦勝国として相当の果実をとるということができれば、、、、と考えていたらしい。つくづく惜しい。彼は、連合艦隊の長官職ではなく、海軍大臣か総理大臣の席にいるべきだったのだ、、、、、。とはいえ、これが大日本帝国の現実。つまりは、彼の戦略プランでは、軍事的優位性があるうちに、なんとか、相当自分たちが腰を引いてでもアメリカとイギリスと講和に持ち込むべきで、そのための戦術勝利だったんだろう。でもなー。。。。もし、山本五十六の想定が、アメリカが初期の軍事的圧倒に対してねを上げると想定していたとしたら、、、そんなことありえないじゃんっえおもうんだよ。産業力の根本の差は、本人が一番ずっと言い続けているほどの差なわけなんだから、戦争を継続したほうが、アメリカにとっては勝つ確率はほぼ100%まで上がっていくわけだから、、、、。戦略としては筋が通っていなくもないけど、でもそれはすごく高踏的な視点な気がする。領土を返還するというのは、当時の中国大陸に大きな権益があって対ソ戦略などがあった大日本帝国にはあり得ない選択肢だったと思うし、、、。うーむ、、、。


あと、シンガポールが陥落した後、よく言われるのは、インドまで到達できていれば、戦後を見ればイギリス帝国が瓦解のポイントになっているのだから、ここでもイギリスをアメリカに先行して落とす(=早期講和)ことが可能だったのだろう。これを見ていても、日本自体に世界帝国を築こうという気構えがないんだもんなー。というのは、真珠湾で勝った後の戦争プランがまるでないし、インド洋まで抜けた時にどうするかのプランも何もない、、、、この覚悟でよく戦争をする気になったと思うよ、、、。まぁ、当時の人間じゃないし、当時の日本の能力ではそこまでグローバルに帝国としてふるまうのはできなかったのかもしれないが、、、、。でも、当時の大国だよ。国際連盟の常任理事国。戦争のプランがハワイぐらいまでしかないのが、本当に不思議。



さてさて、というのが知識がない人間がただ読んだ後のストレートな感想なんだけれども、これ(上記の感じた感想)↑って実はものすごく歪んでいるしてんじゃないのか?と思う。もちろん疑問は多々あるんだけど、素直に読めば、海軍の三提督の視点は、すごく正しくて、、、、というふうになるんだけれども、、、


特に海軍に都合がよすぎるのが、おかしい感じがする。というのは、三国同盟が、意味不明だという流れを海軍側の視点で描いたが、逆に言うと、アメリカと戦争する理由というのも僕にはさっぱりわからない。これは陸軍から見る視点で考えれば、たぶん間違いなくそう見えると思う。だって、1930年代の日本を支配していたのは、中国の蒋介石との戦争であって、中国での泥沼の戦争拡大、居留民に続けられる終わりのないテロリズムに悩んでいたのであって、「それ」こそが日本の権益や日本の国策の本質にして核心だったはずだ。つーか、大陸の権益をベースに考えるのならば、ソ連をドイツと挟撃したいというのもわからないのでもない。なのに、そこになんで、唐突にアメリカと戦争をしなければならないのかが?正直言ってつながらない。石油を押さえたいがために、イギリスと戦争するというのもわからないでもない。でも、アメリカをそこにワンセットにするのが、よくわからないんだよなー。海軍側の視点で、「太平洋戦争」を主軸に据えれば、アメリカと戦争していく流れはわからないのでもないのだが、それは結果論の歴史であって、日本の国策である対中国の蒋介石との戦争にまったく寄与しないのに、、、、何で??と思う。どうしても、そこが腑に落ちない。ここはもっと、きっと陸軍の目的や戦略、特に対蒋介石の中国との戦争をよく理解して、かつドイツの世界戦略を理解しないと、わからないのかもしれないな、、、と思う。なんか、ぞくぞくする。ポイントが分かってきた気がするのだ。あきらかに、日本の戦争はおかしい。だって、なんで、対中国(もしくはソ連)と対アメリカなんていうすさまじい二正面作戦をしなければいけないのかがわからない。・・・・・この辺を、今後課題にして読書を継続したいと思う。


あと、この作者は、文学者だな、と思った。下記二点のテクニカルな専門家としての意見がないので、すごくマクロの描写に厚みを感じない。そこが残念だった。


1)艦隊派と条約派は、海軍内部で派閥化しており、この派閥の共同体化による抗争は日本の組織における大きな病であったはず。ここに関する分析の厚みと、自分が(作者は海軍の軍人だった)その中に巻き込まれていたので情緒的に偏ることが意識されていない。日本人ならば、絶対偏るはずだ。また、軍政家が強いのは、薩摩藩士にして海軍建軍の父的な位置にあるの山本権兵衛が軍政畑を歩んだという歴史的縦軸の流れからくるものなのに、そういう原初的なものへの言及が弱い。


2)山本五十六のなんといっても業績のコアは、軍政家として、航空機優位性の官僚的な実務畑を歩んだことだと思う。航空本部長や航空技術本部長をキャリアで経ていることからも、現場の武人ではなく、軍官僚的な存在なのだ。しかも、日清戦争から海軍系の技術の進歩は目覚ましく、10年で過去の10年の艦艇が使い物にならなくなるほどの進歩を遂げている。この技術ロードマップに関する「大きな進歩の流れ」をどう山本が認識していたか?そして、どうそれを官僚として政策に反映させていったかこそをかいてほしかったが、残念ながらそういう技術史の位置づけや仕組みに、著者はあまり関心がなかったようだ。この優位性の革新こそ、山本五十六が、アメリカと戦争してもいいと思えたポイントなので、ここを描かないとダメだと思うのだ。


ただ、、、、いろいろ問題はあるが、そうはいっても、全体主義的で視野狭窄名な時代の中にあって、自由主義的な価値観を信じている非常にまともな人たちではあるんだなーーとは思う。陸軍系のファナテックなどうしようもない人々と比べると、やはり非常に現代的だもの、、、価値観が、、、、。



ということで、また引き続きいろいろ本を読んでみようと思う。


↓いま以下の本を読み進め中。

誰が太平洋戦争を始めたのか (ちくま文庫)

2012-01-26

『黄金の王 白銀の王』 沢村 凛著 政治という物は、突きつければこういうものだと思う。けど、こんな厳しい仕事は、シンジくんじゃなくても、世界を救えても、ふつうはだれもやりたがらないんじゃないのか?

黄金の王 白銀の王 (角川文庫 さ)

評価:★★★★★5つのマスターピース

(僕的主観:★★★★★5つ)

二人は仇同士であった。二人は義兄弟であった。そして、二人は囚われの王と統べる王であった――。翠の国は百数十年、鳳穐(ほうしゅう)と旺廈 (おうか)という二つの氏族が覇権を争い、現在は鳳穐の頭領、ひづちが治めていた。ある日、ひづちは幽閉して来た旺廈の頭領、薫衣(くのえ)と対面する。生まれた時から「敵を殺したい」という欲求を植え付けられてきた二人の王。彼らが選んだのは最も困難な道、「共闘」だった。


あらすじ

この本を読んで思い出したのは、パレスチナ紛争と中東のことでした。この世界、翠の国は、まさに部族社会でであって、各部族が凄惨な殺し合いを重ね続けるという「復讐の論理」によって歴史が積み重ねられている国です。この中で特に、王位を争う鳳穐(ほうしゅう)と旺廈 (おうか)という氏族のそれぞれの頭領がこの物語の主人公です。


素晴らしい物語は数ページ読んだだけで引き込まれて、時を忘れる。そして傑作の物語は、その息もつかせぬ緊迫感が、読了まで継続するものだ。この本もまさに、そうした至福の読書体験を読者に与えてくれるでしょう。


まずは、この殺し合いの続く、お互いを見るだけで「殺せ」と肉体が叫んでしまうほど深く因習づけられた対立の申し子でありそのおのおのの氏族の棟梁である二人が、戦乱がうち続き、強大な大陸の国家が攻めてくるという危機を見越したうえで、どうやって、「その歴史が蓄積する復讐と恨み」を打ち壊すことを志していくか、行動に移していくかを見る様は、素晴らしくスリリングな体験でした。特に僕のブログの読者は、なぜパレスチナでは、ああいう氏族、部族社会で殺し合いが始まると、何千年も殺し合いが止まらないのか?。なにが、「そうではない」地域や国々と、そういう紛争地帯の「違い」なのか?ということを良くテーマにあげてきたことを分かってもらえると思います。ここには、その具体的な答えとそのことの凄まじいほどの難しさが、描かれています。


ここに登場する二人のひづちと薫衣(くのえ)は、「100年先の子孫の幸福を達成する」ために、言い換えればマクロの論理を徹底的に意識し突き詰めたが故に、その時代のだれにも理解されず、愛されず、尊敬されず、嫌われ、憎まれる道を選んで、いいかえればミクロの本能や大事なもの全てに背を向けて、マクロに殉じることを決めました。これこそが、リーダーであり「王」であるということ。人々を導くという「責務」を追った役割を貫徹することです。彼らの選んだ道の困難さに、僕はほんとうに感動しました。


■誰はばかることなく、万人に薦めたい!といえる、大傑作の小説

めずらしく、マスターピース認定。文句なしの大傑作です。帯かな?日本ファンタジーの最高傑作と銘打っているが、言いすぎかな?(笑)とは思うけど、決して誇張とは言えない、素晴らしい作品。前にも書いたけど、ファンタジーとして読むというよりは、読書人、、、読書を趣味とする人ならばぜひに読んでみたい、と思わせる渋く光る重厚な作品です。久々に、誰はばかることなく、万人に薦めたい!といえる、大傑作の小説に出会いました。非常に知的で複雑でありながら、、、、というか射程がマクロをとらえていながら、それを行う登場人物の苦悩(=ミクロの人間関係)が、複雑な彩を成し見事にクロスしバランスしている。僕が愛する系統の物語です。ライトノベルなどに読みなれている人には、難しいし読みにくいかもしれないが、これくらいの本格的読書の入口にある作品を読めるように、味わえるようになると、読書というものの知的エンターテイメントを「味わう」醍醐味がわかるはず。


特に、小説家になろう、とかファンタジーをライトノベルを読み慣れている&書いている人には、ぜひ読んでほしい。これが、中世レベルの国の指導者になった場合に発生する通常のマクロの悩みなんだ!。こういうことの解決方法を考えることこそ!小説家の、物語作家の、世界構築する!ということの醍醐味なんだと思うよ。そして、この悩みを解決し、真に国を富まし、人々を幸せに導くことということは、指導者(=主人公)に、こういう個人の苦悩が存在するということを。全能感だけでは、世界は回らないのだ。本当の充実、本当の勝利、「ほんとうのこと」ってのは、苦悩の超えた先にあることを。


なかなか気付かないけれども、日本のエンターテイメントの歴史に残る田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』には、歴史(=マクロ)視点による非常に切ない問いかけがありました。基調低音として、善政をしく独裁者と、悪政を実施する民主主義ではどちらがまともなのか?、ということ。政治学でいえば、ポピュリズムの悩みを扱ったテーマです。ギリシアポリス政体以来の悩みで、西洋文明の最大のテーマの一つですね。民主主義が、一番独裁者を生み出しやすい、さもなければ衆愚政治一直線、という。この悲劇を一身に浴び苦悩し続ける男がヤン・ウェンリーという人でした。萌えとは言わないが、それ以外の豪華絢爛な装飾・ガジェットがあまりに凄いので、忘れてしまいがちだが、このマクロ視点の大きな枠があるからこそ、その時に消費されるだけで終わる(それが悪いわけではないけれども)物語に終わらなかったんだ、と僕は思います。偉大な語り継がれる物語ですもんね。銀英伝。

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)
銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)



■こういうカテゴリーが明確にしにくいものは売りにくいだろうなー。

たぶんマイナーであろう、売り方が非常に難しいであろう、こういった作品を丁寧に拾って文庫化する角川のマーケッティングは、素晴らしいなーと思う。こういうカテゴライズが難しく、販売読者層がはっきり想定しにくい小説という物は、売り上げの予想がつきにくいと思うのだ。しかしながら、こういうカテゴリーの「はざま」にある作品や小説家に、可能性はたくさんあるんだろうと思う。しかしながら、こういったカテゴライズが難しい、集客力というか、販売想定顧客が集団として定義しにくいものは、マーケティング(=売り方の仕組みづくり)が難しいんだと思う。売り上げの予想がつきにくいものは、予算付かないのが基本だしね。この辺なんとか、ならなんかなーとは思う。既存の販売方法じゃあ、限界があると思うしねー。でも、ちゃんと知らされれば、これくらいのレベルの本は、読書ということをちゃんと趣味にしている層には重要があると思うんだ。ちなみに、ライトノベルとかアニメーションなどの組み合わせの販売って規模が大きいんだけど、あれって、ポケモンを小学生、幼稚園は戦隊ものや仮面ライダーとかいった、ある種の、「型」というか、そういったその年代(=中学から高校生・大学)に特有の様式化された文化、見たいなもんなんだと僕は思ってくるようになった。それはそれでありだと思うのだ。


いまの『乃木坂春香の秘密』『アマガミSS』『真剣で私に恋しなさい』だっけか?忘れたけど、ルイさんとLDさんと話している時に、よく「僕らはここまで弱っていないよ!」って、ルイさんがいうらしいんだけど(笑)このセリフは凄い深い文脈を理解しないと理解できない含蓄が含まれている。これは、ハーレムメイカーなどに代表される男の子をターゲットとした全能感を満たす物語群に対しての評価軸で、どの程度、作り手が、受け手の自我がどれほど弱いかを想定しているのだろうか?という「読み」に対して行われている評価なんですよ。ようは、女の子が空から降ってきて、自分の好きな女の子がすべて自分だけを好きで、男のライバルがゼロの状態で、、、、そこまでお膳立てがされていて、さらに様々な、男の子にとって都合がいい設定がでデフォルト(=前提)されていると、ようは作り手は、それくらい世界がその主人公(=受け手の感情移入対象)にとって、容易で楽チンな状況でないと、受け手の自我が耐えきれないと想定しているってことですよね。いまのエンターテイメントの販売ってこの層が一番消費するので、手っ取り早くこの層を狙い撃ちにしている。もちろん、ここが最も大きなボリュームゾーンなので、ここを狙うのはわかります。またミックス的な商法で、販売のレバレッジ(=売り上げを倍増させる)が効く部分でもあるので、ここを狙うのは本道ではあると思う。


こういう層がボリュームゾーンにいる時に、あえて、自我の弱いことをゆるさない!、耐え抜くことこそあるべき姿だ!と強く主張する作品ってのは、非常に売りにくいです。求めているものと逆行するからです。けど、人間や社会は、そんな癒しだけでは成立しません。やっぱり物語全体が豊かであるためには、こういう反対方向で、かつ魅力ある作品が生み出されることも大事だと思うんだよね。


あと、実際には、いまの最大のボリュームゾーンは、団塊の世代のシルバー層(いまの60−80代)なんだよね。また、そもそも、出版文化を支えるのは、渋いレベルの知的なレベルの高いものを享受するのに慣れた、さまざまなグループがいるわけですよ。物語的なことに限っても、純文学、推理小説、ミステリ、怪奇小説、BL小説(笑)とか、エロ小説でも、なんでもいいわけだけど、こういう層の中で、必ずしも上位の層に入るレベルってのは、売り上げに結びつかないんだけど、安定して「趣味・習慣」として書き手と読み手が微妙なグラデーションを持って、様式化している。純文学とかは、時代とのダイナミズムやリンクを失って完全に、歌舞伎や能に似て「過去を守る・再現する様式化された文化」になり下がってしまっているけれども、それぞれの固定化した価値集団に分化して島宇宙化するのは、多様化の時代の前提だし、そもそも良いことなんですよね!。価値が一つなんて、ひどい時代なんかあり得ないもの。とすると、出版、エンタメ、物語文化の担い手が考えることは、1)これらの様式化した集団の維持メンテナンスと、2)時代のダイナミズムを反映するボリュームゾーンの獲得と、3)これらの狭間・境界にあるものを掬いだして新しいものを作り出す、とかそういったことが必要で、特に3)が重要なんだですよね。これって、ハイエンドからローエンドという製品の付加価値の多さの問題と、3)は既存製品に対する新製品の開発ラインアップをどれだけ維持できるかってことなんですよね。・・・って、ここは今テキトーに考えたのであまりまじめに取らないでほしいのですが(笑)、でも、狭間にあるものをどう掬いだして新製品を涵養するか、というのは重要なことなんですよね。既存の維持も、そういった異端児なしでは、腐っていくだけになってしまいますから。イメージとしては、ミステリの領域とかに、西尾維新が出たみたいな感じ。西尾維新が、推理小説やミステリか?というと、本質がわかるいまではかなり疑問だけど、けど、そこの基礎やマーケットや様式から出発しているということは、否定できないですもんね。

話がそれた。


■ファンタジー政治小説?思索小説?〜カテゴリーするのは難しいし意志、売りにくいと思うが、これは世に残すべき傑作だ!

                                                                                                   

この小説をカテゴライズするなら?って言う話なんですが、解説で小谷真理さんは、思索小説というようなカテゴリーで、ル・グィンをあげている。ようは、政治哲学などマクロの概念を具体的に物語の形で表現する社会シミュレーション小説とでもいう物ですね。日本の作品でいえば、小川一水さんの『老ヴォールの惑星』「ギャルナフカの迷宮」という短編を思い出しました。あれも、閉鎖された極限状況に置かれた人間集団が、どういう風に秩序を獲得していくかというその過程を描いた物語ですね。ル・グィンなどは、日本語でないし、日本の文化的伝統を踏まえていないが故に、読者にフィーリング的に?って感じさせることが多い気がするが、なかなかこのレベルの小説は、日本ではない。そういう意味では、沢村凛さんは、『リフレイン』を始めこの系統は得意のようで、しかも、日本語で構築されているが故にとても読みやすく入りやすい。


老ヴォールの惑星 (次世代型作家のリアル・フィクション ハヤカワ文庫 JA (809))

所有せざる人々 (ハヤカワ文庫SF)

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))


■政治という物は、突きつければこういうものだと思う。けど、こんな厳しい仕事は、シンジくんじゃなくても、世界を救えても、ふつうはだれもやりたがらないんじゃないのか?


とりあえず、結論を言っておけば、友人に勧められたのですが、非常に面白かった。何が面白かったか?と問えば、その「厳しさ」が面白かった、です。

厳しさとは、

1)人間理解の厳しさ

2)マクロの仕組みという外部のどうにもならなさ

3)人間関係の彩が織りなす結論が、全能感(=主観の欲望の発露ではない)に至らない

という意味で。


瞳の中の大河 (角川文庫)

『瞳の中の大河』 沢村凛著 主人公アマヨクの悲しいまでに純粋な硬質さが、変わることができなくなった国を変えてゆく

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20111217/p7

前回の記事で上のように書いた。まさに、それがさらに推し進められたような印象。読んでいて思った。この二人の「指導者」は、あまりに正しい。最初にも書いたのだが「100年先の子孫の幸福を達成する」ためにマクロに殉じる。それが、その個人の人生の犠牲に成り立つことは明白だ。これは、ノブレスオブレージであると思う。これを読んでいてい思ったのは、王である二人が、なぜここまで苦しまなければならないのか?ってこと。政治としては、非常に正しい。この世界のマクロの環境からは、これしか手法がなかっただろうと思う。政治家というものは、王というものは、ここまでやらなければいけないものなんだ、とまざまざと感じました。僕はこれを見て、ずっと南アフリカ共和国のネルソン・マンデラを思い出す。『インビクタス』ですね。リーダーとして、100年先を考えると、周りの人間がまったくそれを理解できなくなって、その人を排斥しようとす始めるんですよね。

インビクタス / 負けざる者たち [DVD]

僕はこの文脈を考える時に、『新世紀エヴァンゲリオン(TV版)』のシンジくんはどうして、エヴァに「乗りたくない!」といって、世界を守ること、かわいい女の子を守ることを拒否したのだろう?って、いつも考えているテーマを思い出します。NEON GENESIS EVANGELION vol.01 [DVD]

これは、個人がマクロのために犠牲になることを耐えられないと拒否することなんですが、そうはいっても、普通、世界を守れるチャンスが与えられたり、かわいい女の子を守るチャンスが与えられたら、自分の生きている意味が用意されるようなもので、トライするものだろうと思う。少なくともいまの僕はそう考えるし感じる。けれども、1990-80年代当時は、社会的に自尊心がめちゃめちゃに壊れ始めた時代で、自尊感情への防御意識が凄くセンシティヴで、自分自身の脆弱な自我を何とか守るために、外から来る要請をすべてシャットアウトする自閉モードで対処することが、凄く実感に合っている時代でした。


この「高らかな拒否」、、、、僕は乗らない!と最後まで言い切るのは、時代の実感とてもっていたと思う。けど、こと個人は、それでいいのだし、そういう道もあるが、国家とか「公(おおやけ)」てのは、そうはいえないものですよね。シンジ君が別に自滅して死ぬのは、それはそれで悲劇でも仕方がないし、世界にとってはどうでもいいけど、それによって影響をもし世界が受けるのならば、、、ようは、その他の人々の命に関係する場合は、やっぱり責任と役割は発生せざるを得ない。


みんながみんな、ぼくはやりたくない!といっていたら、社会は崩壊してしまいます。それは、拒否をできるリベラリズムが機能している社会という「基盤」を壊す行為なので、実は、許されない罪なんじゃないかって気がします。「個人の自由」と「公へのコミット(=自己犠牲)」というのは、とても危うい関係を示していますね。

この過酷な王の物語を読んでいると、けど、そんな苦しいだけの人生が、その国と公にとって正しくとも、個人にとって耐えなければならないほどのものなのか?って思います。けど、シンジくんのように「逃げる」という選択肢は、この二人(ひづちとくのえ)はにはありません。それは、王という役割に生まれついてしまっているからです。逃げることもできない彼らは、彼らが唯一自由であれる方法選択します。それは、「与えられた役割」に対して、自らが能動的に自由意思でコミットすることにって、自分自身が制御うすることです。「与えられた」ものを「自分自身のものにする」ということで、この設問を回避します。これは、とってもノーブルなものです。



でも、こんな個人(=指導者・王)ばかりが犠牲になるのってありなのか?とも思います。それって、自己犠牲の称揚じゃないですか?。



この問題を丁寧に追っている物語の傑作は、マヴラブオルタや村上春樹、村上龍を始めたくさんありますが、近いところでふと思い出すのが、橙乃ままれさんの『まおゆう』のメイド姉の話を思い出させます。この問題に異なるアプローチを投げかけたからです。この作品の主人公「勇者」は、世界の不条理を一身に引き受けて「世界を救うため」に一人で戦います。魔王も一緒ですが、それは二人で一人なので、言っていることは同じことで、これは「英雄の物語」なのです。けれども、物語の終盤で、世界の不条理を一身に引き受けて戦う勇者に対して、ただのモブキャラで「救われるだけ」の存在だった、その他大勢の代表として、メイド姉は、自分が勇者になると宣言します。このくだりを少し長いですが引用してみます。


さて、メイド姉が、「人間にならなければならない!」という、命題を最初の登場のシーンに、ドラマツゥルギーとしてセットされていたことを説明しました。そして、彼女は人間であろうと、悩み続けます。そして、旅へ出て、彼女は、虫けらではなく「人間であるために」何をしなければならないか?との答えに、




「勇者の苦しみ」が欲しい



と、答えます。




これが、(3)で語った「全体と個」におけるこの自己犠牲を超克することだということが分かるでしょうか?。彼女は、ただ単に「他人に迷惑をかけなくて、自分で独立して生きられる」という「だけ」には留まることなく、この世界の構造から、「責任」を一人(正確には二人で)で背負う魔王と勇者が生贄になることによって成立するこの世界の、、、世界が成立するための「責任」を背負うという苦しみを、自分が負担してこそ、「人間である!」と喝破するのです。



これが、「内面の発見」による自己確立というファーストステップを経て、セカンドステップとして自分の周りの「世界」を成立させている「構造」を、支えるものこそが、人間である!という二番目のレベルまで、彼女が到達しているのです。



人間であることは、マクロの重圧や理不尽な仕打ちに打ち勝って自分で自分を「独立」させていく、ということが必要です。



けれども、他人に迷惑をかけなくて、ただ独立して生きているだけでは、それもまだ人間ではないと彼女は言うのです。



そう、個人を超えた「公」の部分に自分をコミットして、「誰か選ばれた才能があるモノ」を当てにするような虫けらではなく、自分のできる限界で「全体」のために戦うこと・・・・



そして、ここが素晴らしいのですが、彼女は「世界を守る」とか「世界を支える」といった、全体が尊いから、全体のために自己犠牲になるとは言っていません。それは全体主義です。



彼女は、「世界のマクロを支えるために不可能なことに全身全霊をかけて戦う勇者と魔王」の「苦しみをシェア」することが、人間なんだ!といっているんです。



微妙にな論理の問題があるのが分かるでしょうか?。ここでは「公(おおやけ)」にコミットするのが尊い!といったような、「公」が「個」に勝る価値があるから、「公」にコミットしろといっていないんです。



みんながみんなでいられるための「公」・・・・それを支える仲間である同胞を一人ぼっちにしはしないんだ!といっているんです。これ微妙な違いですが、物凄い違うことなのが分かりますよね?。



ここに至って、彼女は、(3)で語った英雄譚に関する構造的倫理欠陥に対して、はっきりと、宣言するのです。「誰かがみんなのために犠牲になるのは間違っている!」と。そこに才能の有無とかそういう物は関係ない。そこで逃げたら、そいつは虫だ!と彼女はいっているのです。


これが、僕がずっとブログで説明してきた、並行世界の物語の類型における90−00年代の「ナルシシズム(=内面)からの脱出」の問題を、見事にクリアしているのがわかるでしょうか?。ここまでの話では、この世界の並行世界問題にまだ触れていないのですが、にもかかわらず、はっきりと、この「ナルシシズムからの脱出」が、全て語られて、それが決断によって行動にコミットすることによってしか脱出できないことがはっきり示されています。しかも、脱出の理由が、はっきりと「そこに自分と同じくらい大切な「他者」が存在するのならば、その人の苦しみをシェアするのが、世界に対する貢献だ!」と見事に喝破しています。この構造がしめされている時点で、この世界が光の精霊によるループする並行世界だ、ということが示されても、特に分岐を経験させることも、碇シンジくんのように逃げられなくなるんまで追い詰められる演出がなくとも、その解決方法が簡単に示されます。ここでは、「幻想の領域に逃避する」という90−00年代の病がまったく存在しません。並行世界のモチーフ、脱出のテーマ、虫けら(=ナルシシズムの病)という全てのテーマを扱い踏破しているにもかかわらず、ここに出てくる主人公たちは、キャラクターたちは、だれ一人、幻想におぼれる者はおらず、現実に、自分の「役割」を通してコミットして、コミットすることによって「役割」を超えるという自由意志による自由を手に入れています。



そして、彼女が、ただのメイドであった、、、、いや農奴であった少女は、「世界を背負う苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時、「勇者」と名乗り、呼ばれるようになります。



そう、、、、だれもが、「世界を支える苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時に、物語の主人公になるんだ!と、言っているんです。これは、抽象的いえば、「個」を自立させ(=内面の自由とナルシシズムのからの脱出)、その「個」を持つ「他者」の存在を認めて、共同で世界を成立させる苦しみを引き受ける時、、、それは、真の意味で「現実を現実として受け入れて体感している時なのだ!」といっているのです。ここで、俗にいえば、真のリア充、本当の意味での実存の充実は、こういう現実認識があって初めて、訪れるものだといっているんです。



これは、見事なまでの、、、、90−00年代の問題点をすべて答えるというステップを踏んだ上での、見事なビルドゥングスロマン(=旅を通しての自己成長物語)になっているんです!。




魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1

まおゆう魔王勇者 5あの丘の向こうに 特装版

沢村凛さんのこの作品は、ここまで最前線の物語がかたられているわけではありません。どちらかというと、非常に古典的なノブレスオブレージの物語です。理想的な王がいた、という話だからです。けれども、とてもおもしろかったのは、このようなマクロを説明するような思索小説で、とても人間が生きているように感じたからです。だから、凄く実感を伴って読めました。まずはなんといっても、小説がとても上手なんでしょう。あと、マクロの視点に飛躍しないで、個人のミクロの視点の苦しみをじっと追い続けるのが作者の信条というかテーマなのでしょうね。デヴュー作の『リフレイン』もそうでしたし。『瞳の中の大河』もそういう渋い作品ですよね。



■自尊心マイナスがデフォルトであっても、生き抜く強さを持つには何によって支えられるのか?


後、もう一つ。薫衣(くのえ)の人生は、非常に過酷なものでした。マクロに殉じて、それ以外のすべてが失われている人生は、人間には耐えられるものではありません。このひどい人生の中で、何が彼を支えたのかといえば、二つです。


一つは、ひづちが薫衣(くのえ)の意思と行為の完全なる理解者であったこと。それにともなって、ひづちという地味だけれども希代の傑出した王が、全身全霊をかけて薫衣(くのえ)のことを「理解している」ことを示し続けたことです。よくいわれるじゃないですか、どんな過酷な仕事も、金や名誉だけではやりきれない、誰かが自分の「苦しみ」を見ていてくれる誰かがいて、認めてくれることが本当に一番重要なことなんだって。そういう意味では、非常に地味なのですが、ひづちという王は、ほんとうのほんとうに人間と「世界の理」ってやつをよくわかっている人だったんだと思う。物事を変えていくこと、、、本当の改革というのは、こういう細心な注意と普段の積み重ねでなされる、とても英雄らしくない仕事なんだろうと思う。中国の古典でも、一番難しいの守成の時期のリーダーだ、と言われます。

裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか (Non select)
裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか (Non select)


そしてもう一つは、にお(ひづちの妹)との夫婦関係でしょう。この人は、マクロをメインで書くのに、こういう人間が何によって心が動くかということに、とても繊細な理解があるんだなーとこの夫婦関係の描写を見ていて思いました。におは、最終的に薫衣(くのえ)の帰るところになっていました。あまり難しいことを考えたのではなく、ただ単に、ちゃんと真摯に向き合い、時間を重ねてきたものだけに持ちうる到達点なんだろうと思います。本当の家族、本当の夫婦になる、というのはこういうことなんだろうと思います。


人間が、過酷なことに耐えていく時に必要な「絆」というものが、どんなものをか、ここではよく表わしていて、ぐっときました。ひづちは承認を、におは感情的な包摂を代表している、と分析的に書くのはいかにもでよくないが、そういうものなんでしょう。


そう考えると、、、ひづち、におの生き残った鳳穐(ほうしゅう)一族の直系のこの二人は、不思議なくらい、人間としてよくできた安定した人でしたね。親族が軒並み復讐に燃えるルサンチマンを抱えた氏族社会バリバリなのに、、、、それは、そういう意味では、なんでこういう人間が生まれたかといえば、この国の開祖である王の作り出した合理的な国学の良心の結集点だったのかもしれない。説明する気力が尽きてきたので、細かく書かないけれども、このファンタジーの国では、殺しあっていた氏族社会を一つにまとめた王がいて、その人は宗教が嫌いだったらしく、合理的な考えと指導者の、人間としての正しい心構えを唱えた実学的な哲学を国の柱とした。その伝統の教えての体現のような教師に、ひづちも薫衣も教えられて育ったという設定なんですよね。ある意味、この理念教育の果てに登場した、ということなんでしょう。そういうロジックが、よくよく練られてつながるところも、思索小説だなーと思います。


まぁへ理屈は、どうでもいいんですが、久しぶりに素晴らしい読書でした。