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現代古楽の基礎知識

2017-02-15

[]「動く音楽サロン」フランツ・リスト


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 フランツ・リスト(1811-1886)。ピアノ奏者、作曲家、教育家、慈善事業家、聖職者アイドル、プレイボーイ……。西洋音楽の歴史の中で、これほど「散らかった」肩書きの持ち主もめずらしい。様々な顔を持つリストだが、さらにもうひとつ注目すべき横顔を持っている。19世紀後半、リストは「動く音楽サロン」の役割を果たしていた。

 ピアノの神童と謳われ、若い頃からアイドル演奏家としてヨーロッパ中を飛び回ったリスト。1848年には中部ドイツ・ワイマールの宮廷楽長に就任し、演奏から作曲へと軸足を移す。イタリア・ローマに移住したのが1861年。69年からはワイマール、ローマに、ハンガリーのブダペシュトを加えた3つの都市を行ったり来たりする、「三分割の生活」を始めた。そんな移動生活を営むリストの周囲にはいつも、演奏家や作曲家、音楽愛好家たちが集まってきた。弟子入りを志願したり、作曲のアドヴァイスをもらったり。誰もが善良だったわけではない。中には就職口を世話してもらおう、有力者に推薦してもらおうという思惑を持って来たものもいる。

 リストは誰に対しても良き相談相手だった。弟子入り志願者には稽古をつけてやるけれど、レッスン料は一切、取らなかった。自分を慕ってやってくる作曲家の同僚や後輩たちを励まし、ときには彼らの作品が上演されるように手配さえする。リストは行く先々でそんな人々に囲まれた。リストの足を運ぶところには必ず、音楽サロンができるのだ。たとえば、ジュール・マスネはリストに会うため1864年にローマ、79年にブダペシュト、ヴァンサン・ダンディは73年にワイマール、レオ・ドリーブは78年にブダペシュトを訪れている。みな19世紀後半に活躍したフランスの作曲家だ。

 1861年からリストと親しく交流を重ねていたのは、同じくフランスの作曲家カミーユ・サン=サーンス。作曲ではなかなか、世の中に出るチャンスに恵まれなかった。リストはサン=サーンスのオペラ《サムソンとダリラ》の初演を手配することで、この若い作曲家が世間に認められる突破口を開いた。ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンが、ワイマールのリストを訪ねたのは1877年のこと。ボロディンは、自分の交響曲の評判が良くないことをリストに相談した。ピアノで彼の交響曲を弾いたあとリストは、「このままで良い。間違ったところはありません」とボロディンを大いに励ましたという。

 若い同僚に対するリストの手助けは、つねに温情にあふれていた。彼の手でたくさんの卵が温められ、それにより次世代の音楽家たちが孵化し、巣立つ。フランツ・リストは19世紀後半の「音楽サロン」そのものだった。


【CD】

ボロディン《交響曲第1番》▼「スヴェトラーノフ・エディション」▼スヴェトラーノフ(指揮) ソ連国立交響楽団 ほか(管弦楽)





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