sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

論理的/非論理的

http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080729/p1
 昨日書いたエントリについて「論理的/非論理的」という区分けについて、過剰に反応されている方がいらっしゃったのでここで補足。私が不用意に「言語的≒論理的」、「非言語的≒非言語的非論理的*1」と不用意に繋げてしまって書いたので、おそらくそのような誤解が生じているのと思われるのだが、ここで私は「非論理的コミュニケーション」というものを、プラトン、あるいはアドルノにおける「模倣(ミメーシス)」という概念を前提に考えている。
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20070531/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20061114/p1
 ミメーシスについて、過去に以上のようなエントリを書いた(前者はプラトンの、後者はアドルノの)ので、ここで説明を繰返すようなことはおこなわない。しかし、非言語的コミュニケーションはあくまで非言語的コミュニケーションなのであって、それは言語的な枠組みでは捉えきれないものである、ということだけ繰返しておきたい。それは「(私の思考能力が追いついていないせいで)言語的に説明できない」という話ではないのだ。音楽について書いた文章が、決して音楽にならないように、非言語的コミュニケーションを言語的に《理解する》ことは不可能である、と私は考える。
 また、ミメーシスは論理という過程を飛び越えて、理解へと至る。この意味で「非論理的コミュニケーション」と呼ぶことは充分可能である(ように思う)。例えば『崖の上のポニョ』での模倣の場面を思い返して欲しいのだが、そこでは「箸をつかってラーメンを食べると、手も汚れないし、暑くも無くて便利だし、美味しい」という、「AはBだからCだ」という過程は踏まれていない。「宗介が箸を使ってるのを真似してみたら、美味しかった」という理解が描かれている。

宮崎駿の「過去の作品」を「想起」するにあたって、「物語性で言えば『風の谷のナウシカ』、テーマ性で言えば『もののけ姫』」????? えええええ!? こりゃまた素敵な選択だなwww
こおゆう物言いをする奴ぁ、まったく信用できんwwww ストーリーのはっきりしない映画を見ると、必ずこういうこと言い出す奴が出てくるwwwww 「言葉で語るための映画」でないなら、何故エントリ上げる??
「言語的なコミュニケーション」は「論理的」で、「非言語的なコミュニケーション」は「非論理的」なのかいwww じゃ、「ポニョが宗介を模倣することによって、人間としての経験を積んでいく」行為は「非論理的」なんだなwwww それのどこが「非論理的」なのか、説明してもらおうじゃねえかwwww
消毒しましょ!より)

 ちょっと思い切った話をするとたまにこういった「(ちゃんと文章を読んでいないのに)プゲラとかいいたがる人」というのが現れるものだが(だってねぇ……『ものすごくシンプルな物語だ』といってるのに『ストーリーのはっきりしない映画を見ると、必ずこういうこと言い出す奴が出てくる』という反応はないでしょう……えーと、文盲ですか?)、「説明してもらおうじゃねえか」とかおっしゃるので説明してみた。
 また、

「言葉で語るための映画」でないなら、何故エントリ上げる??

 という質問に答えるならば、文脈を読め、ということになる――あくまで私は「(既存の宮崎駿作品について用いられてきた)言葉」ではなく、もっと別な言葉が必要なのだ、という話をしている。だからこそ、私は「別な言葉」――目で観、耳で聴くための言葉――を提示するために、エントリを書いている。
 もし「こんな考えには納得できない」というのであれば、今度はあなたの考えを見せて欲しい、と思う。解釈に正解は存在しない。私はあなたに対して否定をおこなわない。けれども、その文章が面白いか/面白くないか、の評価はおこなうだろう。少なくとも精神分析的手法を用いた文章や、製作者の性癖と作品を結びつけた文章には、私はあまり感心しないと思う――立派なことを言ってそうに見えるだけで、その文章はまったく作品が与える感動を伝えていないからだ*2

*1:書き間違えたことを指摘された!

*2:このエントリにひとつ教訓があるとしたら「インテリぶってる人に不用意に噛み付くと自分が恥を書く羽目になるだろう」ということだろうか……