sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ヘルムート・ラッヘンマン/歌劇《マッチ売りの少女》

Lachenmann: Das M〓dchen mit den Schwefelh〓lzern

Kairos (2002-06-03)
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 ヘルムート・ラッヘンマン(1935-)の最高傑作/集大成との呼び声が高い歌劇《マッチ売りの少女》(1990-96)を聴く。購入したのはKAIROS盤。この作品の録音は現在、これとECM盤が手に入りやすいようだ(ECMの方は改訂版である)。他にも録音が存在しているらしいのだが、ここ20年ほどの間のなかで書かれた現代音楽作品でそれだけバージョンがあるだけで、この作品がどれだけ評価されているか、が分かる気もする。作品は、約2時間に渡って繰り広げられる特殊奏法オペラ……といったスゴい曲なのだが、映像がないうえに歌詞がドイツ語であるため、一体何がおこっているのか分からない。調べてみると「ステージには『少女』しか出てこない」、「客席にも合唱団やオーケストラが配置される」などコンサート時の様子を想像する上でのヒントになる情報がいくつかある。またアンデルセンによる原作のみならず、ダ・ヴィンチやドイツ赤軍関係者*1のテキストが用いられている、とのこと。ザッピングのように再生されるドイツのポップス音源やノイズが、“冷たい音響”と対比され、大変賑やかな作品でもある。終盤では、少女の昇天を象徴するために笙による持続的な音が用いられるが、こんなところにもラッヘンマン音の素材への関心が見られるだろうか。


 昨年の『コンポージアム2009』(この年の特集は、武満徹作曲賞の審査員であったラッヘンマンの特集)で配布されたプログラムでは、高安啓介がこんな風に述べている。

第一に、ラッヘンマンの音楽は、素材への反省にもとづく。作曲にあたって大切なことは。歴史や社会のなかで、素材がどんな意味をもつか反省することである。教養の理念のもとで使い古されたもの、娯楽の欲求のもとで乱用されたものは、無条件には使えない。なぜなら、安易な聴取をゆるすものは、安易な肯定をゆるすからである。ラッヘンマンにとって「作曲するとは手段について考えること」であり、手段について考えるとは、素材について考えることだった。ラッヘンマンらしいのは、そこから、楽器への反省へとゆきついたことである。既存の楽器からもたらされる思わぬ音たちは、現存するものを超える力によって独自の意味をもつ。

 ここで高安はアドルノラッヘンマンを絡めながら、ラッヘンマンの音楽の構造について語ろうとする。ラッヘンマンが新しい音を探求するとき、それは異化作用を生み出し、「音の実質に迫る」(という風に言ってしまうと、アドルノよりもベンヤミンのほうが近いのではないか、と思ってしまうが)。このような見立ては彼の作品を語る上で、最も「それっぽく語れる」であろうアプローチであろう。「新しい音」には、そもそも批評的なまなざしが存在する、と言っても良いかもしれない。つい最近になって、ラッヘンマンによる武満徹作曲賞の講評を読み直したのだが*2、批評に対しては敏感な意識をもつ人となりがうかがえる内容であった。他の年の審査員による講評と比較すれば分かるのだが、ラッヘンマンほどに饒舌な講評をおこなっているのは、西村朗ぐらいしかいない。もっとも西村のノリは、(昔の)『現代の音楽』や『N響アワー』における「あの感じ」なのだが。


 このKAIROS盤にはかなり分厚いブックレット(独・仏・英語による)がついている。ふっと気が向いたので、ここに掲載されているラッヘンマンによる《マッチ売りの少女》の「ミュージカル・プロット」を英語訳から日本語にしてみよう。

1.路上
 「冷たく暗い路上を貧しい少女が帽子も被らず、裸足のままで歩いていた……」「空腹でほとんど凍えそうになりながら、彼女は街をさまよい続けた……」。オペラの冒頭において、音楽的な状況はほとんど音のしない、空虚な弦楽による「冷たい」音、または「凍った」衝撃的なノイズによって性格づけられている。二人の独唱によってだけではなく、オーケストラと「詳細を語る」ヴォーカリストたちによって具象化された少女は、悲劇的な寒さにうち震えながら、手に息を吐き出し、自分の体を擦っている――しかし、それらは寒さに打ち勝つための絶望的な試みだ。


 彼女が馬車にひかれないように避けながら慌てて道を渡ったとき、彼女は履いていた底の薄い靴の片方を失くしてしまう(それは死んだ母親のものだった)。その瞬間、死んだ母親の思い出が彼女を一瞬だけ暖める――その瞬間に押し殺された音が、残響のユートピア的な膨張である間奏的な音へと取って代わられる。


 しかし彼女の背後へと絶え間なく寒さは忍び寄っている。なおも彼女は勇敢で子ども染みた――『夜の女王』のような――元気をもってその寒さに打ち勝とうと試みる。しかし結局、彼女は託されたマッチを売ることを明示されているのだ。《きよしこの夜》が舌打ちのシシリアーノによって呈示されるのは、たった一瞬でも彼女が寒さと彼女を翻弄する災難を忘れようとするためだ。
 喜劇的な分裂が『溢れ』、もう片方の靴を『探すこと』によって、ざわめきは大きくなる(しかし、もう片方は一人の『少年』によって盗まれてしまっている)。母親の最後の形見が彼女を絶望に落とし込む。


 狂乱が落ち着く。分散三和音による連続のなかで街の夜は更けてゆき、『雪のかけら』が降ってくる。彼女の小さな両手は寒さにしびれ、彼女の足は『青ざめていると同時に、血に染まっている』。彼女はエプロンでマッチを包み、マッチを運んで歩くが、たった一つでさえ買ってくれる者はいない。


 雑踏のなかを通り過ぎると『どの窓からも』《クリスマス・キャロル》が響いている――それらはラジオからの流れる音楽と会話の断片によって象徴される。不気味な排他性をもったその家庭的な傾向は、その密室的で敵意をむき出しにした面を明らかにしながら、暴力に反対し(ながら肯定する)涙へと導いていく。ここで音楽は、ストラヴィンスキーの《春の祭典》の最後や、ベートーヴェンの《コリオラン》序曲、シェーンベルクの《管弦楽のための変奏曲》作品31、ブーレーズの《プリ・スロン・プリ》の冒頭、マーラー交響曲第6番における最後のAマイナーの和音、アルバン・ベルクの《ヴォツェック》の6つの音によるFFFの和音といった、歴史的な作品からの一撃を、唐突なオーケストラによる連続で集めている。これらはすべて、相変わらず不変であり、原典からの移行と強制的にな近接、そして儀式的な直面とによって承認を越えて介入する*3――そして、第1部は少女が初めてみせる涙のなかで幕を閉じる。

 とりあえず第1部についての部分のみ。続きはまた気が向いたら。

*1:大戦後のドイツで活動した左翼テロ組織、とのこと

*2:http://www.operacity.jp/concert/topics/090531.php

*3:このセンテンス、意味がよくわからず