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2004-12-25 アレを読んだ

[] 落書き程度の村上春樹アフターダーク』の感想

 イブそれなりに楽しかったぞ。つーか風邪だし二日酔いだし頭いてー。去年の今頃は北海道にいたと思うと笑える。目が覚めたので、手元にあった、前買って放置してあった村上春樹アフターダーク読了。2時間かからず読めた。なんて読みやすい本なんだ。最後のエリとマリの肉体のふれあいのシーンはさすがだ、美しい、カタルシス。読後感の爽やかさは、吉本ばななみたい。SWITCHとかに連載されてそうな。


 「ストーリーが中途半端・先が知りたい」という批判もあるようだが、個人的にはこれ以上の書き方はなかったのではないかと思う。何のために渋谷(この物語は明らかに渋谷だよな)の街角を設定したのか。そして何のために春樹自身がカメラの視点となったのか。スクランブル交差点を渡る人々は、偶然交差し、またそれぞれの四方へと歩をすすめてゆくのだ。


 物理的に日が沈み、次の日の朝日が昇るまでの物語、「アフターダーク」。日常にどこでもある裂け目から落ちてしまった人が、偶然による人とのつながりによって、あるいは肉体と肉体を通じた接触によって、闇からふと抜け出る可能性のきっかけみたいなものを描いた物語、「アフターダーク」。二重の「アフターダーク」な物語。それにしても最近の作家は、人とのつながりの「偶然性」にすごく力点を置いているよな。


 語りの視点が自由自在に動いているのも面白い。でも、そもそも描写するとは、テレビブラウン管の向こう側に対象を追いやるということだろう。あるいは考えるとは、対象をテレビのスクリーンを隔てたあっちに移動させてしまうということ。テレビのこっち側で他者(対象)と通じるには、ベッドの中で肌を寄せ合うしかない。


 ひとつ、春樹自身が対象から離脱し、カメラの視点になっている。自由自在に視点が動く。これは春樹が小説家だから当然だろう。書き手の、書き手であるかぎり逃れられない、痛みを感じる。(もちろん「純粋な観念としてはテレビの向こう側にフォーカスできる」と春樹は言うのだが)。ふたつ、マリ自身がエリ(姉)に対してカメラの視点となっている。家族歴史的な過去による、マリとエリの関係によって。あるいは、エリ自身の(社会)心理的な理由によって、エリは裂け目のあっち側にいってしまったのだから。そして最後のシーンで、肉体によってつながる「かもしれない」という「兆し」が示され、また一日が始まってゆく。その「兆し」すらも、ピクっとした筋肉の動きという、肉体の胎動として描かれている。そこに春樹のカメラがあらためてフォーカスする。ブラウン管の向こう側へ突き抜けたいという欲望を持ちつつも、かろうじてそれをこらえながら。「語りえぬものについては沈黙せねばならない」とヴィトゲンシュタインは語ったが、小説の定石は――「語りえぬものについては身体に託さねばならない」。


 個人的に惹かれたのは、これがたった1日――日が沈み、夜の街があり、そこにまた日が射す――の物語だということ。あくまで1日。すぐまた闇が来るかも知れない。でも、太陽は確実に昇り、翌日の街角を照らす。都会の街角で、闇=昨日の記憶と太陽=新しい一日の予感がせめぎ合う。

「窓に降ろされたシェードの隙間から、鮮やかな光の筋が部屋に入り込んでくる。古い時間が効力を失い、背後に過ぎ去ろうとしている。‥姿を見せたばかりの新しい太陽の光の中で、言葉の意味合いが急速に移行し、更新されようとしている。たとえその新しい意味合いのおおかたが、当日の夕暮れまでしか続かないかりそめのものだとしても、私たちはそれらとともに時を送り、歩みを進めていくことになる。」

「ふんだんな朝の光が世界を無償で洗っている」

「真新しい一日が始まろうとしている。それはかわりばえのしない一日になるかも知れないし、いろんな意味で記憶に残るめざましい一日になるかもしれない。しかしどちらにせよ、誰にとっても、今のところまだ何も書き込まれていない一枚の白紙だ」


 裂け目は語りかけてくる。「逃げ切れない。どこまで逃げても逃げ切れない」と。たしかに逃げ切れるわけはないのだが、日は射しこんでくる。円環として、流転しながら、たった一日を紡ぎながら、時は先へと続いてゆく。そして12月25日がはじまる。朝飯を食おうにも、気持ちが悪い。

2004-12-24 正統的周辺参加論とハビトゥス

正統的周辺参加論(Legitimate Peripheral Participation:LPP?)のまとめ、認知科学社会科学の橋渡し、LPPはどう「ハビトゥス」を乗り越えたか

よーし時間に間に合った。基本的には『状況に埋め込まれた学習』の福島解説のレジュメ化。

LPP(正統的周辺参加論)のポジション

認知科学社会科学の二領域の間の橋渡し。その上で新しい理論的ゲシュタルトを構成している。また、LPPは社会的行為者(agent)の概念を導入した。

認知科学社会科学を関連させ強引にまとめてみる

  • 行動主義

デュルケームは行動主義に該当する(正確には機能主義だが)。「彼は本来、心理学的なタームであった意識や表象という言葉を、集合意識、あるいは集合表象という形で社会学化し、いわゆる個人心理学的な領域を設定しなくても、それらの部分は観察可能な「社会的事実」によって説明が付くと主張した」。つまり、カテゴリー社会起源説を打ち出し、心的とされる事象に対する社会構造の優先性を強調した。

  • 認知主義

レヴィ=ストロー構造主義の操作によって何が消えたか

それは具体的な社会行為者(agent)である。サルトル流の実存哲学へのアンチテーゼとして誕生したいう背景、すなわちそれは、主観性の王国に対する、無意識内の構造からの攻撃であった。(cf.主観性の神話を攻撃したのは主に他にマルクスフロイトニーチェ

社会的行為者(agent)が消えると何が問題か

具体的な文脈における行為者と活動との関係が消滅する。したがって、必要な差異まで消されてしまう。彼の困難さが明確にあらわれたのが婚姻規則に関する議論である。それゆえデュルケームに片足を突っ込んでいた英国人類学者は納得しなかった。

大事なのは

婚姻規則であれ、家屋建築の形式であれ、「ある場合には、それらにある種の構造化された側面が見出されるというのは、否定しがたい事実であり、ゆえに問題は、レヴィ=ストロース的な構造概念を一方的に破棄し、すべては分析者が作り上げた幻想に過ぎないとすることではなく、むしろある対象の構造的把握が可能となるとすれば、それは一体どういう条件下でなのか、ということを明確にすることなのである」

社会的行為者(agent)を導入すると何が得られるのか

「心的構造の代わりに社会的行為者というものを分析の中心におき、彼らの実践的な活動というものを軸に分析してみると、心的構造という発想を支える暗黙の前提を、いわば再文脈化することが可能になる」

「われわれの様々な社会的実践は、極端に規制されたレベルから、そうした制限がかなり弱いレベルまで、一連の緩やかな分布をみせている。規制の最もキツイ側面は、儀礼が典型である」

「現代産業社会では、ゴフマンが強調するように、社会の全体的な世俗化によって、こうした儀礼的秩序は比較的マイナーな領域に押し込められたが、それでもその片鱗はさまざまな現代版の儀礼や挨拶行為等に見ることができる」

「むしろ近代的諸制度は、そうした儀礼的拘束の部分的撤退を補完する意味で発達してきたものと見るべきであり、共同体中心の儀礼的規則の代わりに、個別の身体をターゲットとして大量に監視・訓練するシステムなどが発達してきたという議論もある(→フーコー『監獄の誕生』)

行為の全体的なスペクトラム

たとえばサッカーゲーム→行為についての規制がはるかに緩く、われわれは刻々と変化する状況に微妙に対応しながら、瞬時に次の手を打つことになる。

「ある意味で、社会的行為というのは、こうしたスペクトラムのどこか中間点に位置づけられるものであるのは間違いない。そして、この行為の全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化が可能になる」

社会科学に求められている戦略

ある構造的なパターンは、それを否定するというよりは、むしろその構造的パターン社会的実践の文脈の中に置き換えてやることが大切である。範疇の構造はわれわれの実践的な活動ときわめて密接な関係があり、その文脈で理解されるべきだ。

社会的行為者を分析の対象から抹消し、そのかわりに抽象的な心的構造をおくことによって、様々なレベルでの、異なる意味合いを持つ構造的発現をすべて同一レベルのものとして扱うという危険をおかすことになる。社会的行為の様々なレベルに現れる構造性と即興性のヤヌスの両面を同時に解明するという戦略が、ある意味で現在の社会科学に求められている課題なのである」

ここでブルデューの実践/ハビトゥスの議論を導入してみよう

  • ブルデューハビトゥスとう概念は、まさにこの構造的感覚を維持しつつ、それを心的構造として無意識の奥底に普遍的に設定するのではなく、日常的な活動レベルに設定したものだ。(構造性と即興性の調停)
  • この概念の基礎は、意味生成の基盤としての身体への執着
  • 世界内に組み込まれた身体性を強調したのは彼の師メルロ=ポンティ、そしてさらに身体技法についてのモースの議論が加わっている

ハビトゥス概念を拡張すると

ハビトゥス概念を拡張すると、いわゆる価値観全体にも応用することができる(ex.『ディスタンクシオン』)。

ブルデューのいうハビトゥスとは、まさにこうした身体が構成する、認知・判断・行為の全体的なマトリックスのことであり、当事者の主観的な意味世界をいわば背後から基礎づける身体的な傾向性の基盤となる」

ハビトゥスと認知(とアフォーダンス?)

「ここでは認知というのは、心的な構造ではなく、社会的身体が繰り出す慣習的行動の中に埋め込まれた、活動の一部分に過ぎない」

「それは社会的環境と身体の間での複雑な相互作用のごく一部に過ぎず、それゆえそれだけを分離させて形式化することなどできない」

「また、身体化された傾向性は、主観の反省の外側にある以上、それは現象学的なアプローチとも異質である」

Gen註:ギブソン的な生態学主義の社会版?とすればアフォーダンスに相当するものは何だろう。関連するものとして、文化心理学京大・北山センセが「文化アフォーダンス」なんて言葉を作っているが、どこまで理論的に構築されたものなのか。一度チェックせねば。

状況的認知論とハビトゥスとの違い

ハビトゥスは、ある種の弾性のような持続性を持ち、それゆえ対象を構造化する傾向があるとされる。この点で状況的認知論とは異なる。

「船や空港は、あくまで認知活動のリソースや道具に囲まれた場であり、人はそれを様々な形で利用しつつ、それに部分的に制約されつつ、しかし自由に実践(プラクシス)する。しかし社会構造とは、むしろ人と人とのインターラクションの制約の諸レベルであり、それゆえ社会構造とは、単純に活動主体によって操作されるリソースなのではなく、むしろ活動主体間の相互制約の形式なのである」

「状況的認知の研究においては、こうした社会構造的側面は、分析の前面に出てこない」

ブルデューハビトゥス」の限界

身体化されるとは、自動化される(=暗黙知化される)ということだ。では、こうした熟練の達成を可能にする条件とはいったい何なのだろうか。

Gen註:つまりは、認知科学社会科学をつなげ、ということなのか。

社会的」実践を考える際の注意

社会的実践は状況に埋め込まれている。が、問題は、それが「どんな状況であるのか」ということだ。状況(文脈)の境界を定義せねばならない。状況についての定式化が必要である。

ここで「正統的周辺参加論」を評価し位置づけてみる

これは

ブルデューやギデンズによって推し進められる方向性を全面的に展開しつつ、心理学的に理解されていた熟練というのが生成する社会的文脈を非常に明確な形で組織的に提示した作品であるということができる」

つまり

この理論の独創性は、「そこに<実践共同体>という概念を打ち立て、社会的実践を、そこへの参加の過程という形で定式化したことにある」

実践共同体は二つの意味で、前もって構造化されている

  1. 実践活動を行う他の行為者間の構造
  2. (実践活動に直接関係する)空間の物理的配置

正統的周辺参加論のメリット

「従弟制という言葉が暗示するように、そこには親方あるいはそれに相当する存在がいて、彼をとりまくように、熟練の諸レベルの階層的、同心円的な構造が存在する。こうモデル化することの利点は、社会構造の再生産と、個人の認知的熟達化という心理的側面が、ここで統合されるという点にある」

心理的熟達化の段階は、ここでは実践の共同体内でのゆるやかな向心円的運動として描くことができる。そしてそれぞれの段階での熟達の習得の差は、まさにその共同体内での、物理的、社会的位置づけの差としてこれを措定することができるのだ」

「実践というものが、緩やかに変化する環境(それは実践共同体内での地位変化に対応するが)の中での、継続的な学習の過程であるという重要な帰結がここで得られることになる。ブルデュー流にいえば、暗黙のうちに学習する能力を持つ社会的身体が、この緩やかな螺旋運動の中で、その親方に具体的に代表されている認知・判断・行為のマトリクスを、その共同体に参加するという行為によって、自然と身体化していくということなのである」

それゆえ、ブルデューにおいて抽象的にハビトゥスと語られてきたものは、ここでは「熟達のアイデンティティ」と呼ばれている。

LPPのメリットのまとめ

「この周辺から中心への緩やかな移動というテーマによって、組織全体の構造を保ちつつ、しかも徐々に自己革新していく過程や、その中での、新旧世代の潜在的対立とその隠蔽、さらにある実践共同体と他のそれとの、いわば「間-共同体」の問題、といった一連の社会科学にとって最も中心的な問題群への連結の可能性がここで示唆される。」

「と同時に、実践の社会学があまりうまく取り扱ってこれなかった問題領域、とりわけ道具の使用を含む共同体物理レイアウトや、より抽象的には技術と実践の相互作用の構造がその熟達のアイデンティティとどう関係してくるかという、いわゆる活動理論が得意とする問題群への通路もまたここに開かれることになる。」

LPPが提起するさらに興味深い点

「とくにここで興味深いのは、実践的活動を支える様々な道具類自体に、その実践がコード化されているという点であろう。この意味では、道具は単に物理的実在というよりは、むしろ<行為者−道具>はそれ自体で一つのユニットとして、社会的実践を行うと考えるべきであろう。」

「この<行為者−道具−実践>の、分離不可能な全体的な配置を次第に構成していく過程で、道具は透明になってゆく。」

Gen註:まさにアフォーダンス的な考えだ。むしろ、アフォーダンスを「構築する」という側面を扱っているのかもしれない。あるいは、アフォーダンスが(社会的に)「構築されている条件」に目を向けさせるということなのかも知れない。

Xmasイヴ

人混みに出かけるの、マンドクセ('A`)

2004-12-23 性淘汰についてのいくつかのメモ

[][][] 自然淘汰と性淘汰

進化の「適応」を説明するふたつの側面、生存と繁殖。

  • 生存→自然淘汰
  • 繁殖→性淘汰

これまで性淘汰の観点からの説明がなおざりにされてきた。しかし「心」は、性淘汰から説明した方がうまくいく。

求愛の努力と子育ての努力トレードオフ

男性は、何人の子どもを持つかにおいて女性よりもずっと変異が大きいが、そのために、有性生殖は、男性にとってよりリスクが大きく、より報酬の大きいゲームなのである。女性は、子どもの数における変異が小さいので、子どもの質により多くの注意を払う。

女性が卵子の成長と妊娠授乳のために当てている余分なエネルギーを、男性は何に費やしているのだろうか。繁殖のための競争と、求愛行動である。求愛の努力と子育ての間には、本質的なトレードオフがある。(p.120)

メスはオスの質を選ぶ「性的好み」を進化させ、オスは性的装飾形質を進化させる

  • メス→子どもを一人産み育てるコストが大きい。ゆえに、質を重視。オスを選ぶ
  • オス→セックスだけならばコストがかからない。ゆえに、いかに多くのメスを確保できるかを重視。メスに選ばれるような、性的装飾形質を進化させる

では、どうして両性ともに似たような「心」が進化してきたのか

第一の要因は、「両性間の遺伝相関」と呼ばれるものだ。両性はほとんど同じ遺伝子を共有している(22組の染色体は共通、性染色体のたった一組のみが異なる)

繁殖上有利となるような突然変異遺伝子は、両性に伝えられるだろう。性的好みも両性に伝えられるだろう。ダーウィンはこれを「平等な遺伝の法則」と呼んだ。

男性と女性の身長には高い遺伝相関がある。これは、男性と女性の平均身長が同じという意味ではない。背の高い親から生まれた異性の子と同性の子とをみると、異性の子がその性の集団内でどれくらい背が高いのかという度合いと、同性の子がその性の集団内でどれくらい背が高いのかという度合いとが、おおよそ同じだということだ。

しかしながら、遺伝相関の効果は一時的である。(p,126)

第二の要因は、オスの優秀さを判定するには、メスのその能力が一歩先にいっていなければならない、というものだ。バカに相手の頭の良さは判断できない。誇示の生産者と誇示の判定者には重複が生じるはずだ。

特定のタイプの求愛行動を生み出すのに使われている脳の部位と、それを判定するのに使われている脳の部位とが重複していることが、実際に神経科学によって発見されれば、そして、行動遺伝学が、文化を生み出すのに関わる遺伝子と、文化を判定するのに関わる遺伝子とが同じものであることを示せば、この仮説は支持されるだろう。

(→研究をチェック!)

人間の性差は、短期的な関係において最も顕著にあらわれる

  • 男性→短期的なセックスコストはほとんどない。しかし中・長期的な関係(ex.付き合う・結婚する)となると、コストは劇的に増大する。したがって、メスに対するえり好みが、男性においても激しくなる。
  • 女性は妊娠コストが大きいので、短期的なセックスを好まず、男性をはげしくえり好みするはずだ。
  • 長期的な関係の相手を選ぶ段になると、男性と女性の好みは、よく一致するようになる。
  • 関係が深くなるとは、子どもを持とうと思うときである。性淘汰は、ちょっとしたセックスを楽しむときに働いている恋人選びを通じてではなく、実際に子供を作るときに働いている恋人選びを通じて作用するのだ。
  • 男性の配偶者選択があらわされるのは、ワンナイトラブではなく、長期的な関係を確立しようかどうかを決めるときである。だからこそ、女性の性的な競争は、望ましい相手との長期的な関係を確立することに対する競争なのであり、なるべく多くの男性と性的関係を持つことに対する競争ではないのである。

きわめて納得のいく説明ではないだろうか。

  • 人間の子どもの大部分は、長期的な性関係の元で生まれたと考えて良いだろう。霊長類において「長期的」とは、少なくとも数ヶ月にわたる安定した関係である。
  • 性淘汰は、実際に子供を作ることに対する競争となっているのだ。

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)
ジェフリー・F.ミラー

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