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2005-02-13 進化論の歴史の整理

[][][] ダーウィン以前

 どうも○○学ってのがごっちゃになってしまうので、佐倉統さん流のまとめかたを叩き台にしてみるテスツ。


 進化論の歴史的な変遷は、他のすべての科学と同様、キリスト教と密接な関係にあった。

 18世紀の時代思想がまずあった。18世紀の西洋生物学とは、自然=神の摂理の探求を行う学問であった。このパラダイムの柱となったのはふたつ、不変論とデザイン論。

 不変論は、すべての生物種は神がその完全性を示すために想像したものであり、その性質は不変であるとする。デザイン論は、自然が巧みに設計され整然と秩序づけられていることを明らかにすることによって、神のすばらしさが証明できるというもの。

 種の不変論とデザイン論を否定する立場があらわれるのは19世紀になってから。フランスでは大革命の影響で、啓蒙思想の流れをくむ唯物論的機械論が18世紀から盛んだった。その影響を圧倒的に受けたのがラマルク。唯物論的かつロマン主義的な進化論を提唱。

 ラマルクの説は

 使用頻度の高い器官は発達し、不必要で使用頻度の低い器官は退化して、そのような変化が子孫に遺伝すると考えた(用不用説)

これは「獲得形質の遺伝」的考えであり、完全にアウト。

 さて、ダーウィンに影響を与えたのは‥1.チャールズ・ライエルの地質学。浸食現象を考察したライエルから引き出されたのは

 現在も観察できる微細な変化が過去の大きな変化の原因であるという視点。

 もうひとつが2.トーマスマルサスの経済理論(『人口論』)。

 「人口は等比級数的に増えるが食糧資源は等差級数的にしか増えないために、資源を巡って生存競争が常に生じる」(人口論、1798年)

[][][] ダーウィン

 1858年、リンネ学会で、同時期に同様の理論に思い至ったウォレスと共に発表。1859年、『種の起源』を出版。ちなみにダーウィン理論の大枠は1838年には決まっていたらしいが。

[][][] ダーウィン以後

 ダーウィン死後は凋落の一途をたどった進化論。自然選択理論が支持されていたというよりも、

 現象としての進化とその唯物論的・進歩的な解釈という「周辺部分」のみが、ドーナツのように残されることになった。かくして、19世紀末から20世紀にかけて、社会進化論や優生学が隆盛することになる。

 その後は‥

メンデルの遺伝理論の再発見(1900年)

 ダーウィンの自然選択理論は連続的(アナログ的)に変化するということを重視。一方メンデルの遺伝理論は突然変異によって生物の形質が離散的(デジタル的)に変化することを強調。したがって「ダーウィン理論は過去の遺物だ」と見なされるようになる。しかし遺伝理論の発見は後に進化論を支える土台となる。


★フィッシャーらによる集団遺伝学の確立(1920年代後半)

 一個体で見れば、ある形質(A)から別の形質(B)に離散的に変化するとしても、遺伝子プールという集団全体でみた場合には、Aの頻度とBの頻度が少しずつ[連続的に]変化していくというのが進化のプロセスである。

 つまり集団遺伝学はダーウィン理論メンデル理論を融合させた。メンデル的突然変異も、集団レベルの進化ではダーウィン的な振る舞いを示すのだ。


★ローレンツとティーンバーゲンによる動物行動学(ethology)の確立(のちにノーベル賞受賞)

 「形態から行動へ」――動物行動学が確立するまで、進化研究の対象になっていたのは、おもに生物の形だった。ダーウィン自身は動物の行動や生態、さらには心理的過程まで視野に入れていたが、忘却されていた。ふたたび行動を射程に入れたのがローレンツの功績。行動の進化系統の復元。彼は「動き」も「形」として捉えていたのだ。


社会生物学(sociobiology)の確立(1970年代

 社会生物学とは、動物行動学を集団生物学化したもの。つまり、動物の行動の進化から、社会行動の進化へと視点が移動した。それにともない、集団生物学ゲーム理論といった、集団を扱う他分野との接近も進んだ。E.O.ウィルソンの著書から採られた名前。


遺伝子を進化の主役に据える視点の確立

 それまでは「種の保存」のために生物は振る舞うというトンデモが信じられていた。遺伝子を中心にして進化を考えるという視点の転換が行われて、科学的な精緻さが上がった。1964年にウィリアム・ハミルトン利他行動の進化を説明する理論を提出し、1976年ドーキンスが「利己的な遺伝子」という強烈なキャッチコピーで普及させた。


分子生物学の確立(1950年代

 遺伝子の構造がつきとめられた。クリックワトソンによる二重らせん構造の発見。DNAの立体構造の発見。遺伝子(遺伝情報)がどのようにして生物の固体を作り上げているのか、そのプロセスの解明への道が開かれた。これによって、研究対象が生物個体だけではなく分子へもシフトしていった。生物の系統分類を、タンパク質DNAの構造をもとにすすめていく分子系統学の発展。


情報科学との相互交流(1970年代以降)

 生物の進化が情報の言葉で語られるようになる。1973年、ジョン・メイナード・スミスゲーム理論動物の行動に適用。分子レベルのデータ解析はコンピューターの発展により可能となった(情報科学→生命科学)。一方、サイバネティクスや遺伝アルゴリズムによるプログラム開発など、生命科学の業績が情報科学にも環流される(生命科学情報科学)。つまり、相互乗り入れ。


アルゴリズムとして進化論を捉える(ダニエルデネット

 アルゴリズムは、素材が何であるかということに依存しない。つまりダーウィンの自然選択の理論は、"if A, then B"形式で書かれているアルゴリズムなのであり、あらゆるものに適応させられる可能性を持っている。生命情報論。ミームという名のもとに文化的プロセスも解明できる可能性。


 まぁ、「進化理論トートロジーである」とか得意げに吹聴してる香具師は、進化論のかわりとなる説得力あるモデルを提示してみろってこった。良いモデルとは、「1.その理論を通すと新しい何かが拓ける、2.よりシンプルに多くの事象を説明できる」もの。進化論そのものへの批判はあまりに説得力に欠けるものが多い。どのように進化論を受容すれば良いのか、どのように進化論を取り込みながら新たな社会的規範ないし倫理を築いてゆくのか。それこそ考えるべき問題なんじゃないかな。

 あとは「利己的な遺伝子」ってのも遺伝子が生き延びてくわけじゃなくて、純粋に受け継がれるのはあくまで情報なんだよな。忘れがちだけれども。

参考:

進化論という考えかた
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2005-02-08 「文化」そのものから「空間・流通としての文化」へ

[][] 未来の家の考え方

 「家展――記憶のかたち」http://ieten.net/work_list.html。「記憶する服」と「メモリー雑巾」に一票。降り積もるように、重なり織りあうように、外在化されたかたちで記憶が残るのは大好き。自分のあずかり知らないうちに。ノスタルジア。雑巾で拭くようにあの記憶も消せたらなー、マジで‥

[][] 文化は各個人がもっているものなの?

 久々に文化人類学らしく。素晴らしく豊かな、浜本満さんの論を自分で消化するための引用+少々考察エントリー引用部以外は浜本さんの論ではなく、私の稚拙な考えなので誤解なきよう。

http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/1.html

 文化は集団の保有する、その集団に固有のものであるとされている。しかしそもそも集団なるものは認識したりせず、結局認識とは個々人がおこなう作業なのであるから、認識体系のようなものがあるとすれば、それは少なくとも個人が持っているものでないことには話にならないだろう。さらに行動し、感情を持ち、感覚するのも、結局は集団ではなく個々人なのであるから、こうした「固有の体系」も個々人が各自もっているという形でしか想像しようがない。要するに「集団に固有の」ということは単に「集団の誰もがもっている」という意味なのだということになる。この定義では文化とは、個に対する類としてのカテゴリー属性、その成員の共通属性とされるしかないことがわかる。

 しかしそこ[フィールド]で実際に記述されるものは、複数の人々の語りの共通部分や平均をとったものであることなどまずなく、むしろ前述したような[研究者による]総合と体系化の手続きの産物であり、とても[現地の]一人の個人には原理的に回収できない代物である。つまりこうした文化概念は、とんでもない自己撞着を含んだものになってしまっているのである。それをあくまでもその集団の成員全員がひとしく、あるいは平均的に持っているものだと主張するとき、人類学は文字通り、人間についての一つの歪んだ博物学となり、一つの集団を均質で硬直したものに描いているという批判をまさに甘んじて受けるべきものになる(eg. Rosaldo 1989: 43)。

 実に鋭い。

 人類学の記述の対象であるこうした知識体系を、個人と集団、個と集合態の軸上で想像するのはそろそろ止めたほうがよくはないだろうか。

 これは文化人類学への批判となるのみならず、「文化」の名を冠する学問すべてが真剣に理論的考慮すべき問題ではないだろうか。たとえば文化心理学。通常の心理学は、各個人の心性単一性を仮定し、文化変数として扱う。したがって上記の問題は一応クリアしている。しかし、文化心理学

「心理プロセスは文化の内容をなかに取り込むことにより成立し、それらに囲まれることにより維持され、同時に、文化の内容は心のプロセスの活動そのものを映し出している。つまり、心と文化歴史的循環のなかで互いに生成しあうものである。(中略)この意味において、文化は実質的に心を作り上げており、また同時に、文化そのものも多くの心がより集まって働くことによって維持・変容されていく」(北山忍編『文化心理学』、東京大学出版会)

と自らを定義するとき、そこで想定されている「文化」とは一体何であろうか。通例用いられる文化心理学パラダイムは、日本人=集団主義的(相互協調的自己観)、欧米人=個人主義的(相互独立的自己観)というものだ。ここで「自己観」というタームに注意して欲しい。たしかに個人個人の「自己観」を実験的に調べることはできるだろう。そして、集団内の各個人の自己観(の傾向)が一致し、それを「文化的自己観」という共通要素として描ける可能性はあるだろう。


 では、各個人が持つ、文化に関する「自己観」はどのように形成されるのか。自己観は常に外部との差異によって構築される。実体論的にではなく、関係論的に。他の集団に属する個人との具体的接触によって、あるいは差異を体系的に描く学問的言説によって。通例外国人との接触は稀なので、むしろ言説効果の方が大きいといえるだろう(入試現代文なんかはまさに国民性論の再生産装置)。研究者・文筆家が描くコスモロジーは、直接的ないし間接的に、言説空間を形成する。


 浜本はオースティンの<陳述(statement)/文(sentence)>の区別を援用した上でこう続ける。

 私は人類学がこれまでコスモロジーあるいは文化世界観などのさまざまな名前で呼び、誤ってなんらかの集団の保有物であるかのように想像してきたこうした知識を、ある種のネットワーク的な空間に帰属するものとして想像しなおそうと思う。私はこの空間をさしあたって言説空間と呼んでおくことにする。

 ‥「文」とは要するに、陳述の個別性や出来事性を取り去られ、他者の陳述に移植可能となった語りの姿である。組み替えられたり変形されたりして、その都度の陳述を形成しながら人から人へと受け渡され流通してゆくという、この「文」としての側面は語りにとって付随的なものであるどころか、その本質である。この移植可能性こそ、コミュニケーションを可能にする根拠でもある。

 我々はこうした「文」が、個別的な陳述を介して流通、転移、変形、結合していく空間を想像してみることが出来る。その都度の陳述が形作るコミュニケーションの、絶えず形を変える網の目状の連鎖が形づくるその空間には当然、明確な境界もないし、地理的な空間と同じ広がりを共有するわけでもない。‥こうした想像上の空間を言説空間と呼ぶことにする。‥この空間を構成しているのはコミュニケーションの網の目であるから、空間という言葉を用いてはいるものの、それが同時に時間的な存在――時間のなかで形を変えつつ自己形成していく存在――であることも言うまでもないだろう。

 その上で文化人類学の役割は以下の通り再定義される。

 「文」の流通という角度から見たとき、この空間での我々の語りの行為は一種の伝言ゲームに似た側面をもってくる。この空間の主人公を、変形したり組み替えられたりしながら流通していく語りそのものであると捉えたとき、語る主体の方は、どこかからもたらされた無数の語りを受け取り、それを自らの貯蔵庫に一時保持したり、組み替えたり変形させたりしながらさらに別のポイントに送り出す中継ポイントのようなものとしてイメージされるだろう。

 ‥きわめて局所的な空間を循環する伝言ゲームがある一方で、よりグローバルな、たとえば英国日本に端を発する伝言ゲームがこの空間を横切っていくかもしれない。こうして「文」たちは、この仮想空間上に複雑な模様を描き出す。人類学者が取り出そうとする体系性とは、まさにこのパターン、流通する「文」たちを要素とする上位の体系性の片鱗なのである。

 極めて極めて大事な指摘は、

 知識がこの空間に帰属しているということは、それがこの空間の網の目を構成している中継ポイントたち――語る主体たち――によって共有されているということでもなければ、そのどこかに局在しているということでもない。知識がこの空間を流通しているということこそが、まさに知識がその空間に帰属しているということである。

というものだ。「流通」はもちろんメディアを通じても行われる。したがってマスメディアが跋扈する現代では、(見かけ上実体的な)「文化」の平準化が起こりやすいのだろう。ここに感染するものとしての「ミーム」という、うさんくさい概念を持ち込んでも一定の面白さはあるのだが、それはまた別の機会に。 


 もちろん単なる「伝言ゲーム」ではなく、語りは不断に生成・変容されてゆく。

 語りがまずもって陳述であること、つまりつねに具体的な個人による具体的な実践であることをもちろん忘れてはならない。人は語ることにおいて、単なる複製の流布を意図しているわけではない。

 さらに浜本の考察は冴えわたる。

 遊戯の伝言ゲームで、‥受け取っては次に転送している一連のメッセージが、後から振り返ってみれば互いに関係しあっていたと判明したとしても、それはメッセージの中継ポイントに過ぎない個々の語り手のあずかり知らぬことである。現実の言説空間においても、個々の主体がそれぞれ一回きりの陳述行為のつもりでおこなっている、反復・移植可能な「文」の転送ゲームが浮かび上がらせてしまうパターンや体系性を、語る個々の主体のみに帰すことは出来ない。それは個人にも、集団にも回収させることの出来ない体系性であり、まさにそのことこそ体系性が<社会的に>形成されたものであると言うことの意味なのである。

 各個人は一回きりの実践を行っていても、外部の観察者にとっては、いわば創発的性質として「文化」が(見かけ上、実体的に)立ち上がる。その創発的性質が強力な言説を形成し、また人々の一回きりの実践現場に接続される。

 さて、その上でかまびすかしい「研究者が語る権利」なるものを考えるとどうなるのか。浜本はこう述べる。

 おそらく、言説空間とそこを流れる語りたちが作り上げる体系性をトータルに対象化しうるような特権的な位置が存在するわけではない。言説空間は、その外部からは単なる無でしかなく、そこに接続することを通じてのみその姿を開示する。‥そして言説空間への接続はつねに、歴史的に限定された個別の実践であるので、その姿は特定の接続点からの特殊な景観以上のものにはなり得ない。まさにこれこそが人類学者フィールドでの実践であり、その結果彼に与えられるものである。‥こうした接続を通じて人類学者が職業的に遂行している、さまざまな観測点における測量作業のような実践は、この空間に帰属しそこを流れる「文」たちを同定し、その相互の関係を明らかにしようとする作業だったのだと言えるかも知れない。

 さしあたって、自分の語りの位置を、どこまでも自覚するほかないようだ。


 わたしが考えねばならない問題は、1.流通する語りとしての「文化」と、行動(認知・感情)としての「文化」の関係。2.流通する語りとしての「文化」と、既に存在している制度としての「文化」との関係。3.流通する語りとしての「文化」と、(状況論的な)「道具」との関係。4.流通する語りとしての「文化」と、生態学的環境(あるいはアフォーダンス)との関係。5.言説をストックするサーバーとしての書物の問題。

 もちろん浜本さんの文献を読み進めれば、論点はより整理されるのだろう。でも、認知の問題を持ち込むと、いささか複雑さは増してくるように思われ、鬱。


 また、かつてhttp://d.hatena.ne.jp/Gen/20041224#p8引用した福島さんの問題点

「ある意味で、社会的行為というのは、こうした[即興性と構造性のあいだの]スペクトラムのどこか中間点に位置づけられるものであるのは間違いない。そして、この行為の全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化が可能になる」

と重ね合わせるならば、行為の一回きり・即興的な側面と、構造として比較的安定する側面とを、グラデーションにおいて考えなければならなくなる。つまり<陳述=一回きり/文=流通過程>の二分法は妥当するのか?(ルーマンなら「二分してるからこそグラデーションとか言えるんだろヴォケ」とかいいそうだけれども)

 

 最後に。ちなみに、文化心理学は、「自己観」と実際の行動との関係を、こう捉えている。

 自己観は「行動・認知・感情」に影響を与える。ゆえに、そのような自己観を抱いた人々が構成する社会は、そのような自己観を反映するものになる。

 この点こそがまさに焦点なのだ。自己観=語り=物語的世界=意味論的世界と、行動・認知・感情との関係が、いかにも不明瞭だ。「科学」を騙るならば、この点はもう少し問いつめたい。(もしかしたら私が知らないだけで理論的解消された文献がどこかにあるのかも)

flapjackflapjack 2005/02/08 20:44 はじめまして。浜満、いいっすよね。ところで、流通する語りとしての「文化」については、「表象の疫学」を提唱するダン・スペルベルの『表象は感染する−文化への自然主義的アプローチ』(ISBN:4788507781)が筆頭だと思うのですが、浜満はここでは言及してないような。ともかく、スペルベルは人類学と認知の掛け橋そのものみたいな人ですから、認知との関連でもはずせない。門外漢ながらたいへん展開が楽しみです。
 あと、文化心理学といえば最近少しうれたリチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人森を見る東洋人 思考の違いはいかにして生まれるか』』(ASIN:4478910189)(原著はThe Geography of Thought: How Asians and Westerners Think Differently...and Why (ISBN:0743255356)が浮かぶのですが、Genさんの問いは重要だし、興味深いと思いますhttp://d.hatena.ne.jp/flapjack/20041002#p2で文化人類学者によるこの本の書評を引いています)。

GenGen 2005/02/09 00:08 flapjackさん、はじめまして。認知=人類学者であるスペルベルはもうひとつ突き抜けてくれると有り難いんだけどなぁ、と個人的に思います。浜満さんは認知というよりは言語行為論的に文化人類学を突き詰めている印象が。
 リンク先のSherry Ortnerの書評、読ませて頂きました。至極まっとうな批判だと思います。が、文化心理学者も、どうせなら世界各地の心理学科で実験→データを突き合わせて因子分析→「文化」要素のクラスターを発見、なんてやってもらいたいものです。それでも実験の被験者となるのは大学生だけだろうから、それをもって当該「文化」全般を代表する「科学的」データだなんて言われると狼狽しますが‥
 なお、私が所属している心理学研究室でも「文化差はない」というデータが出ています。参考までにどうぞ。http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~takano/j/j-prof.html#3-3

flapjackflapjack 2005/02/10 07:39  たしかに、浜満とスペルベルとでは、同じような文化の見方に、ちょっと違った角度から行き着いているかんじがしますね。しかし、スペルベルに「もう少し突き抜けてくれると」ってすごい要求ですね。
 それはともかく、文化心理学がらみで紹介してくださった高野陽太郎さんのサイトで、高野=北山忍論争というのがあったとははじめて知りました。北山忍さんってネスビットの本での「実験」に協力していた先生ではなかったでしょうか(ネスビットの本がどこにいったか見当たらず確かめることができなかったのですが)。いや、勉強になります。

GenGen 2005/02/13 04:07 北山さんとネスビットは共著論文をいくつか書いているはずです。日本で文化心理学といえば京大と北大が二大拠点だというイメージがあります。21世紀COE「心の文化・生態学的基盤」なんてのも面白いかもしれません。http://lynx.let.hokudai.ac.jp/COE21/outline/index.html 研究費の羽振りも良いみたいですね。。

2005-02-03 キッチュ、キワチュ、チュキッ!

[][] 「キッチュ」の語源

 昨日の続き。またもや基本的に『現代アートの哲学』に拠る。

 キッチュの語源、ドイツ語1860年頃、ミュンヘンにて。この時代は貴族・ブルジョワ社会から、産業・大衆社会への幕開けの時代

 一説によると、スケッチ(sketch)がキッチュの語源だという。ミュンヘンを訪れたイギリス人らが正統な芸術品を買い求めず、スーブニール(おみやげ)として安価なスケッチを買い求めたことを揶揄する言葉だったらしい。すなわち、オーソドックスな芸術の代用品を意味

 キッチュがもたらす心地よい美的心情の在り方→センチメンタリティー(感傷)

 センチメンタリティー、18世紀においてはネガティブ意味を帯びていなかった。だがドイツ・ロマン派などによって、あるいはカントの理性主義にきわまる道徳哲学によって、排除されるべき低俗な価値となってゆく。

[][] キッチュとはセンチメントの過剰?「自制」という態度

 たとえば19世紀、ヴィクトリア朝様式の過剰な室内装飾。あるいは現代でいえばラブホの過剰な装飾、悪趣味喫茶店のシャンデリア、見栄っ張りな質屋育ちの娘が持参するどでかいダイアモンドの指輪、といったトコでしょうか。とにかくキッチュは「過剰さ」を不可分に帯びる。

 わたしたちがキッチュに嫌悪感を抱くとき、

 われわれはまるで誘惑に抵抗するかのように反応する。

 惹きつけられるけれど抵抗するのが、キッチュへの態度。それはお菓子を食べ過ぎて太る女性への嫌悪感みたいなものか。つまりそれは

 精神的成熟を迎えた成人には向いていないという自戒の振る舞い

なのであり、昨日書いた「趣味」の洗練化としての自制の問題であった。

 階層秩序のなかで、なによりもまず道徳的自制として、情念の制御として、衝動の支配として理解される

のだ。これは趣味と行儀(manners)の同一視であり、芸術を道徳的観点から解釈するものである。

 たとえば感情のドンキホーテ日テレ24時間テレビで涙を流すとき、わたしたちは涙の安っぽさ=自分の自制のなさを恥じ入る。あるいは浅田次郎で泣いたとは、おいそれと口にできない。

[][] もうひとつの態度――「誠実」

 キッチュはまた「誠実」という態度の問題でもある。ロマン主義においては、作品が芸術家の個性や精神の表現とされた。自己表現の美学は、自己表現の「誠実さ」を要求する。つまり、

 情動過多のキッチュは、作者自身が感じてもいない見せかけの感情の表現

だと考えられ、断罪された。たとえば商業主義に染まるハリウッド映画をさげすみ、タルコフスキーを称揚するとき、わたしたちはハリウッド映画の不誠実さを非難しているのだ。最近のJ-popにおけるインディーズ・ブームなるものも、このことに関連しているのだろう。作品に作家性を求めるムーブメントは、まず「誠実さ」を要求するムーブメントであった。青年は作品に誠実さを求めるからこそ、パゾリーニ監督は刺殺されたのだろう。

 ともあれ、センチメント(感傷)の過剰への非難は、まずは倫理的な非難であり、美的非難ではなかった。キッチュを巡る議論の混乱は、

 元来美的な現象を、もっぱら倫理的な観点から論じ批判するという点に由来

するのだ。

[][] 「寄生の美学」としてのキッチュ

 だが、芸術作品とキッチュは、それぞれ拠って立つ美学が異なっている。芸術作品は多くの場合なにかしらの強度をそれ自体に内包している。

  • 芸術→それに固有の視覚的な美的構造を備える(自存性の美学
  • キッチュ→たとえばお正月門松みたいな「際物」。それ自身に固有の意味や使用価値によってではなく、そのときどきの時節や場所や状況に寄生して、はじめて価値を得る商品となる(寄生の美学

 キッチュな絵画(ラッセルとかかな?)とは何かといえば、

 それらが最大限の美的効果を得ようとしてとる基本戦略が、すでに伝統や習慣としてできあいの思考や感情の方式をあてにする寄生

なのである。しかしわたしたちはキッチュなしには生きてゆけない。テレビドラマが失われて矢田亜希子が姿を消すだけで、あるいはキッチュの極みのジャニーズが消滅するだけで、どれだけの人の人生の色彩がモノクローム化されてしまうのだろう。

[][] キッチュへの倫理的非難

 ではキッチュへの倫理的非難はどのように成立しうるのだろうか。

 キッチュが寄生の美学によってえたものを、あたかも自分に固有のものであるかのようにいつわって、みずからを「作品」として自分に売りつけるとき、たしかにそれは倫理的不誠実として非難される

タイムアップ。後ほど追記。

2005-02-02 「キッチュ」をどう考えるか

[][][] 「美的経験」の論理的根拠

 外の神社で「福はう〜ち」とか連呼してるおっさん、うるせえ‥。アートを純粋に哲学されると引くのだが、面白いことは疑いえない。テスト対策兼。基本的に『現代アートの哲学』に依拠。

 作品の美的経験は、その作品が生み出されたアートワールドの文脈や、それが帰属する様式のクラスといった、その作品が位置する現実の歴史についての知識を前提とする。

 なにも美術史的な知識だけが、アート鑑賞に際して動員されるわけではない。「真理の経験としての芸術」という考え方が広く受け入れられている。

 詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考え方は、古くからある。

  • プラトン→詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写し取ることで、真理をゆがめるいわゆる仮象として、これを断罪した。
  • アリストテレス→人間には模倣をよろこぶ本能が備わっており、しかもこのよろこびは、模倣を通じて、しれが模倣している現実のものがそもそもなんであるかを推論するという、人間に固有の知と認識の喜びに由来するとして、模倣の術の価値を、現実認識に真理性にもとめる。

 そしてこのような「芸術作品を介しての内的真理のかくれない開示とその享受、共有という基本構図」は、近代に強化された。

 このような考え方は、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的、共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張し始めたとき、いっそう純粋な形で強調されることになる。‥それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学の中で体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。

 たしかに我々は芸術を真理の一端を示すものとして経験する。だがそれは、

 あくまで、美的経験のあとにつづいて、わたしという一個人、あるいはわたしが帰属する共同体にたまたま生じた経験である。論理的にいうかぎり、作品そのものが、そのようなあらたな現実経験への指示を直接に与えるわけでも、またつねに与えるわけでもない、つまり絵画経験の本質がそこにあるわけではない。


 そこで、絵画の美的経験(視覚イメージ)と、それが参照するコンテクストを、区別して考える必要が出てくる。(ミメーシスと現実との論理的関係)

  • フレーゲ→ひとつの単語がもっている「意味(sinn)」と「指示(Bedeutung)」のレベルを区別(「明けの明星」も「宵の明星」も指示するのは同じ金星
  • ビアズリー
    • 描写(depiction)→たとえばレンブラントの肖像画において、「ひとりの内省的な男の顔」という視覚デザインのレベル
    • 肖像(portraying)→レンブラントと呼ばれる実在の画家を指示する自画像のレベル

 予備知識無しに美術館に行って楽しめるのは、あくまで「描写のレベル」だけだ。レンブラントへの歴史的知識が「肖像のレベル」を可能にする。

 歴史的知識にしても、この絵の描写レベルの美的経験を深めるのに役立つのであって、これとは逆に、絵が歴史的現実についてなんらかの認識を与えるわけではない。‥「画家自身が作品の中に現前する」というシャピロの主張も、美術史の命題としては正しいとしても、この作品を見る経験としては、やはりいいすぎといわなければならない。


 絵の意味論的レベルとしての描写と肖像とを区別しない、混同したいいかたに溢れている。

 それ自体非言語的でメッセージをもたないものを、一定の「文の省略形」にするためには、もちろんそれにさきだって、特殊な言語的習慣と合意が必要である。‥伝統的には、作品は、宗教画や歴史画、寓意画、宗教音楽や典礼音楽など、一定の慣習に従ってコンテクストの中でつくられ経験されて、モラル宗教イデオロギーなどの代理、省略としての社会的機能を果たしてきた。

 まぁバルト的なシニフィアンのレベルとして、ってトコですか。まとめると

 一枚の絵それ自体の論理上の身分を問題にする限り、それはどこまでも描写であり視覚デザインであって、それ以上に人生についての教訓や教義に関わる命題を主張しているわけではない。それゆえ、これに真理性を要求することはできないだろう。

[][] 近代美学の混乱の原因

 これはなかなか鋭い指摘ではないだろうか。

 近代は、芸術をそのような作品外の習慣のコンテクストから引き離して、その自立性を強調してきた。近代美学の混乱は、一方でそのような自立的な作品の純粋に美的芸術的価値を強調しつつも、他方で、あいかわらず作品を命題の省略形とする習慣に依拠しつつ、従来通りのやり方で、その真理性を主張できると考えたところにあった。

 その上でアンディ・ウォーホルなどの現代アートを考えると、こうなる。

 現代では、社会的コンテクストから遊離した美的モダンに対して、意図的に社会的コンテクストのなかに作品を再定位し、これによってアートの経験を現実経験に接合しようとする傾向がいちじるしい。

 便器をアートのコンテクストにおいたマイルストーンマルセル・デュシャンの『泉』――そういえば、この前の朝日新聞では『泉』ではなく『噴水』という邦訳題こそが正しいと主張されていたが――のポイントは、

 それはつまり、デュシャンのもくろみどおり、かれが破壊しようとした制度の側によって、「泉」という作品を、ある命題、たとえば自分たちの芸術を非難し告発する主張の省略形として用いさせたということである。

[][] 芸術における「よき趣味」とは何であろうか

 アートに対する趣味は得てして価値判断される。

 大衆化に伴って衰退したもの、それはかつての西洋近代の文化を支えてきた教養主義であり、そのような趣味教養の発露としての「芸術概念である。逆にいえば、「よき趣味」と「悪趣味」が峻別されるようになったのは、「高貴で美しい芸術概念が確立する17、8世紀だということである。

 「よき趣味」という<芸術に対する>価値判断は、当の芸術を鑑賞する人物の<人間性に対する>価値判断と不可分であったことは注意すべきだろう。美的=道徳的な水準。

 フランス古典主義の「よき趣味」とは、パリを中心とした都会の貴族やブルジョアたちのエリート階級が所有する高級文化規範であるが、それはまた、かれらが理想とした紳士淑女、つまりhかれらが普遍的と考える人間性の規範でもある。それゆえ、これに対するvulgarな趣味つまりは悪趣味は、人間性の価値の根幹にかかわる欠落として、美的であると同時に、あるいはそれ以上に、道徳的・階層的非難と拒絶のことばとして形成された。


 それでは、芸術趣味を価値判断することはそもそも可能なのだろうか。わたしならば「物語論てきに、個人各々の経験はそれぞれにとって真実である、ゆえに客観的価値の判断は不可能だ」と考えるが。そうすると、アンチノミーというかアポリアが生じる。つまり、「批評はなぜ可能なのか」という問題だ。

 もしも趣味が、個々人の快を感じる能力だとすれば、「各人はそれぞれ自分自身の趣味を持っている」ということになり、それゆえ古くから知られた「趣味については議論できない」という格言をうけいれざるをえない。だがそうなれば、趣味が一つの判断として、ある種の普遍性を要求できなくなり、批評意味がなくなる。

 この二律背反に対する解決策を、色々な思想家が提示してきた。

  • モンテスキュー、ダランベール→人間であるかぎりその自然本性に備わった共通の本質がある[から批評は成立する]――これは古典主義への回帰。
  • ヒュームパラドックスにみえたものは、じつは偏見によってあやまった感覚と、人間本性に共通の真の感覚とのあいだのひずみである。この点で理性は、趣味の本質的な部分ではないにしても、すくなくとも趣味の能力の行使にとっての必須のもの――これも[カトリック的な美という]普遍性への回帰。

 カントはこの「個人的な快と普遍的な規範アポリア」を「趣味のアンチノミー」と呼ぶ。以下、カントが提示した解決策。

 かれはまず「趣味については議論できない」という格言に使われている「議論(disputandum)」ということばの意味を、証明によって真偽を裁断する「論議(disputieren)」と、他人の判断との一致を要求する「争議(streiten)」とのふたつに区別する。

 つまりどういうことかというと、

 趣味については「証明による議論」(論議)はできない。だがこのことは、趣味に関して他人と互いに一致するという希望のもとに意見を戦わせること、つまり「争議」まで否定するものではない。われわれは趣味について争議できるのだが、これをあやまって論議と考えてしまった点に、解きがたいアンチノミーの由来があるというのが、カントの主張である。

 ヴェーバーの「価値判断」的な考えですかね。『職業としての学問』でヴェーバーは「教壇で、神々の闘争の問題であるところの価値を語るな」と述べたが、とすれば、たとえば野崎歓が駒場であからさまに映画に対して優劣をつけている映画論という講義は、いったいいかなる妥当性を持つのだろうか。

 しかしカントも快に関する「共通感覚」なるものを想定してしまう。次は、マーゴリスの有名な解決策。

マーゴリスの4次元

  • 個人的な趣味(personal taste)
    • 単なる好き嫌いのレベル
  • 鑑賞判断(appreciative judgement)
    • 個人的な選好が、一定の理由付けにおいて正当化され主張されるレベル

 これに対してわたしが期待できるのは、わたしの理由が他人の理由ともなりうること、つまりは他人の賛同を得ることである(カントの「争論」のレベル)。

 ところで、個人的なレベルだけではなく、社会的なレベルでも価値判断が主張されることがあり、それらを取り込みながらわたしたちは自分の趣味を生成している。マーゴリスは社会的なレベルの趣味と判断の振る舞いを次のように整理する。

  • 範例的ないし公的趣味(prevailing or official taste)
  • 評決(findings)
    • 公的趣味(社会に共通の好み)を正当化する理由を呈示するもの(「鑑賞判断」の社会レベル。批評家の論など)

 「評決」は、一定の社会に帰属する誰もが好むと一般に見なされている対象がある場合に、このような社会に共通の好みを正当化する理由を呈示する。したがって、

 だれもがおなじ感じ方をするとすれば、その理由をわれわれは、当の対象に根拠を持つと考えたくなるだろう。それゆえ評決は、ある対象が誰にとっても好ましく良いとされる理由について、あたかも当の対象が、その根拠となる一定の客観的な性質をみずからの属性として実際に持っているかのように記述する。

 つまり、社会的に構築されたある作品に対する価値判断が、あたかもその作品自体が持つ属性であるかのごとく、錯誤されやすいということだ。


 だからこそ、わたしたちが発する「美しい」という言葉には注意せねばならない。

 「美しい」ということばは、ひとつの社会文化が評決にいたるさまざまな事実認定や客観的理由付けを総括する言葉として、あたかも裁判の判断を要約した判決主文のようなものである。

 「これは美しい」という判断の実質がなんであるかを記述するためには、人間の普遍的本性の記述ではなく、また人間本性に訴えかける対象の属性の記述でもなく、むしろ評決という振る舞いが遂行される環境全体を、つまりは「ひとつの文化を記述しなければならない」。

 進化心理学的には、若干の異議あり。後ほど考察の予定。

[][] 批評という言説

 そもそも範例的趣味とは、個人的な趣味とその鑑賞判断に関する「争論」をつうじてのコンセンサスという形で徐々に形成されて、一定の慣習や規範となり、伝統としての安定性を獲得したものである。逆に、個人趣味の担い手である個々人にしても、‥つねに範例的趣味の影響下で、美的教育などを通じてそれぞれの趣味を養ってきたのである。

 伝統的美学において趣味は、個人主観的内面ないし人間性といった、いずれにせよ外部世界から自立した領域の問題とされてきた。趣味のアンチノミーは、ここに由来する。これに対して、文化という全体的コンテクストにおける、それゆえ相互に作用し合う二つのレベルの振る舞いからなる複雑で動的な過程としての趣味を、われわれは、ここでもあの、制度としての発話というフーコー的な意味での言説(ディスクール)ということばをもちいて、「批評的言説」と呼ぶことができるだろう。

 まぁ正直とくに目新しさはない論だな、と。面白かったのは

 いわゆる目利きや批評家のしごとは、比較的安定した相対主義のなかで、個人趣味と範例的趣味というふたつのレベルのあいだを媒介することである。

という記述。

 科学的事実が単に社会的構築されたものではなく、社会物理的世界の双方を調停するスポークスパーソンたる科学者によって生み出されたものであるように、アートにおいても、作品(あるいは芸術家)固有の「なにか」はあるのだと感じる。それは進化的に育まれてきた心的機構に基盤を持つある種普遍的な快感覚を誘発する「なにか」なのかもしれない。

 科学的データを評価するのは科学の生産者たる科学者共同体だが、芸術の場合、アート生産者の共同体アートの評価を必ずしも決めるわけではない。批評家という奇矯な連中が巣くっている。まぁいかにネットワークを組むのかということでもあるのだろう。時間切れで考察はあとまわし。

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