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2005-02-08 「文化」そのものから「空間・流通としての文化」へ

[][] 未来の家の考え方

 「家展――記憶のかたち」http://ieten.net/work_list.html。「記憶する服」と「メモリー雑巾」に一票。降り積もるように、重なり織りあうように、外在化されたかたちで記憶が残るのは大好き。自分のあずかり知らないうちに。ノスタルジア。雑巾で拭くようにあの記憶も消せたらなー、マジで‥

[][] 文化は各個人がもっているものなの?

 久々に文化人類学らしく。素晴らしく豊かな、浜本満さんの論を自分で消化するための引用+少々考察エントリー引用部以外は浜本さんの論ではなく、私の稚拙な考えなので誤解なきよう。

http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/1.html

 文化は集団の保有する、その集団に固有のものであるとされている。しかしそもそも集団なるものは認識したりせず、結局認識とは個々人がおこなう作業なのであるから、認識体系のようなものがあるとすれば、それは少なくとも個人が持っているものでないことには話にならないだろう。さらに行動し、感情を持ち、感覚するのも、結局は集団ではなく個々人なのであるから、こうした「固有の体系」も個々人が各自もっているという形でしか想像しようがない。要するに「集団に固有の」ということは単に「集団の誰もがもっている」という意味なのだということになる。この定義では文化とは、個に対する類としてのカテゴリー属性、その成員の共通属性とされるしかないことがわかる。

 しかしそこ[フィールド]で実際に記述されるものは、複数の人々の語りの共通部分や平均をとったものであることなどまずなく、むしろ前述したような[研究者による]総合と体系化の手続きの産物であり、とても[現地の]一人の個人には原理的に回収できない代物である。つまりこうした文化概念は、とんでもない自己撞着を含んだものになってしまっているのである。それをあくまでもその集団の成員全員がひとしく、あるいは平均的に持っているものだと主張するとき、人類学は文字通り、人間についての一つの歪んだ博物学となり、一つの集団を均質で硬直したものに描いているという批判をまさに甘んじて受けるべきものになる(eg. Rosaldo 1989: 43)。

 実に鋭い。

 人類学の記述の対象であるこうした知識体系を、個人と集団、個と集合態の軸上で想像するのはそろそろ止めたほうがよくはないだろうか。

 これは文化人類学への批判となるのみならず、「文化」の名を冠する学問すべてが真剣に理論的考慮すべき問題ではないだろうか。たとえば文化心理学。通常の心理学は、各個人の心性単一性を仮定し、文化変数として扱う。したがって上記の問題は一応クリアしている。しかし、文化心理学

「心理プロセスは文化の内容をなかに取り込むことにより成立し、それらに囲まれることにより維持され、同時に、文化の内容は心のプロセスの活動そのものを映し出している。つまり、心と文化歴史的循環のなかで互いに生成しあうものである。(中略)この意味において、文化は実質的に心を作り上げており、また同時に、文化そのものも多くの心がより集まって働くことによって維持・変容されていく」(北山忍編『文化心理学』、東京大学出版会)

と自らを定義するとき、そこで想定されている「文化」とは一体何であろうか。通例用いられる文化心理学パラダイムは、日本人=集団主義的(相互協調的自己観)、欧米人=個人主義的(相互独立的自己観)というものだ。ここで「自己観」というタームに注意して欲しい。たしかに個人個人の「自己観」を実験的に調べることはできるだろう。そして、集団内の各個人の自己観(の傾向)が一致し、それを「文化的自己観」という共通要素として描ける可能性はあるだろう。


 では、各個人が持つ、文化に関する「自己観」はどのように形成されるのか。自己観は常に外部との差異によって構築される。実体論的にではなく、関係論的に。他の集団に属する個人との具体的接触によって、あるいは差異を体系的に描く学問的言説によって。通例外国人との接触は稀なので、むしろ言説効果の方が大きいといえるだろう(入試現代文なんかはまさに国民性論の再生産装置)。研究者・文筆家が描くコスモロジーは、直接的ないし間接的に、言説空間を形成する。


 浜本はオースティンの<陳述(statement)/文(sentence)>の区別を援用した上でこう続ける。

 私は人類学がこれまでコスモロジーあるいは文化世界観などのさまざまな名前で呼び、誤ってなんらかの集団の保有物であるかのように想像してきたこうした知識を、ある種のネットワーク的な空間に帰属するものとして想像しなおそうと思う。私はこの空間をさしあたって言説空間と呼んでおくことにする。

 ‥「文」とは要するに、陳述の個別性や出来事性を取り去られ、他者の陳述に移植可能となった語りの姿である。組み替えられたり変形されたりして、その都度の陳述を形成しながら人から人へと受け渡され流通してゆくという、この「文」としての側面は語りにとって付随的なものであるどころか、その本質である。この移植可能性こそ、コミュニケーションを可能にする根拠でもある。

 我々はこうした「文」が、個別的な陳述を介して流通、転移、変形、結合していく空間を想像してみることが出来る。その都度の陳述が形作るコミュニケーションの、絶えず形を変える網の目状の連鎖が形づくるその空間には当然、明確な境界もないし、地理的な空間と同じ広がりを共有するわけでもない。‥こうした想像上の空間を言説空間と呼ぶことにする。‥この空間を構成しているのはコミュニケーションの網の目であるから、空間という言葉を用いてはいるものの、それが同時に時間的な存在――時間のなかで形を変えつつ自己形成していく存在――であることも言うまでもないだろう。

 その上で文化人類学の役割は以下の通り再定義される。

 「文」の流通という角度から見たとき、この空間での我々の語りの行為は一種の伝言ゲームに似た側面をもってくる。この空間の主人公を、変形したり組み替えられたりしながら流通していく語りそのものであると捉えたとき、語る主体の方は、どこかからもたらされた無数の語りを受け取り、それを自らの貯蔵庫に一時保持したり、組み替えたり変形させたりしながらさらに別のポイントに送り出す中継ポイントのようなものとしてイメージされるだろう。

 ‥きわめて局所的な空間を循環する伝言ゲームがある一方で、よりグローバルな、たとえば英国日本に端を発する伝言ゲームがこの空間を横切っていくかもしれない。こうして「文」たちは、この仮想空間上に複雑な模様を描き出す。人類学者が取り出そうとする体系性とは、まさにこのパターン、流通する「文」たちを要素とする上位の体系性の片鱗なのである。

 極めて極めて大事な指摘は、

 知識がこの空間に帰属しているということは、それがこの空間の網の目を構成している中継ポイントたち――語る主体たち――によって共有されているということでもなければ、そのどこかに局在しているということでもない。知識がこの空間を流通しているということこそが、まさに知識がその空間に帰属しているということである。

というものだ。「流通」はもちろんメディアを通じても行われる。したがってマスメディアが跋扈する現代では、(見かけ上実体的な)「文化」の平準化が起こりやすいのだろう。ここに感染するものとしての「ミーム」という、うさんくさい概念を持ち込んでも一定の面白さはあるのだが、それはまた別の機会に。 


 もちろん単なる「伝言ゲーム」ではなく、語りは不断に生成・変容されてゆく。

 語りがまずもって陳述であること、つまりつねに具体的な個人による具体的な実践であることをもちろん忘れてはならない。人は語ることにおいて、単なる複製の流布を意図しているわけではない。

 さらに浜本の考察は冴えわたる。

 遊戯の伝言ゲームで、‥受け取っては次に転送している一連のメッセージが、後から振り返ってみれば互いに関係しあっていたと判明したとしても、それはメッセージの中継ポイントに過ぎない個々の語り手のあずかり知らぬことである。現実の言説空間においても、個々の主体がそれぞれ一回きりの陳述行為のつもりでおこなっている、反復・移植可能な「文」の転送ゲームが浮かび上がらせてしまうパターンや体系性を、語る個々の主体のみに帰すことは出来ない。それは個人にも、集団にも回収させることの出来ない体系性であり、まさにそのことこそ体系性が<社会的に>形成されたものであると言うことの意味なのである。

 各個人は一回きりの実践を行っていても、外部の観察者にとっては、いわば創発的性質として「文化」が(見かけ上、実体的に)立ち上がる。その創発的性質が強力な言説を形成し、また人々の一回きりの実践現場に接続される。

 さて、その上でかまびすかしい「研究者が語る権利」なるものを考えるとどうなるのか。浜本はこう述べる。

 おそらく、言説空間とそこを流れる語りたちが作り上げる体系性をトータルに対象化しうるような特権的な位置が存在するわけではない。言説空間は、その外部からは単なる無でしかなく、そこに接続することを通じてのみその姿を開示する。‥そして言説空間への接続はつねに、歴史的に限定された個別の実践であるので、その姿は特定の接続点からの特殊な景観以上のものにはなり得ない。まさにこれこそが人類学者フィールドでの実践であり、その結果彼に与えられるものである。‥こうした接続を通じて人類学者が職業的に遂行している、さまざまな観測点における測量作業のような実践は、この空間に帰属しそこを流れる「文」たちを同定し、その相互の関係を明らかにしようとする作業だったのだと言えるかも知れない。

 さしあたって、自分の語りの位置を、どこまでも自覚するほかないようだ。


 わたしが考えねばならない問題は、1.流通する語りとしての「文化」と、行動(認知・感情)としての「文化」の関係。2.流通する語りとしての「文化」と、既に存在している制度としての「文化」との関係。3.流通する語りとしての「文化」と、(状況論的な)「道具」との関係。4.流通する語りとしての「文化」と、生態学的環境(あるいはアフォーダンス)との関係。5.言説をストックするサーバーとしての書物の問題。

 もちろん浜本さんの文献を読み進めれば、論点はより整理されるのだろう。でも、認知の問題を持ち込むと、いささか複雑さは増してくるように思われ、鬱。


 また、かつてhttp://d.hatena.ne.jp/Gen/20041224#p8引用した福島さんの問題点

「ある意味で、社会的行為というのは、こうした[即興性と構造性のあいだの]スペクトラムのどこか中間点に位置づけられるものであるのは間違いない。そして、この行為の全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化が可能になる」

と重ね合わせるならば、行為の一回きり・即興的な側面と、構造として比較的安定する側面とを、グラデーションにおいて考えなければならなくなる。つまり<陳述=一回きり/文=流通過程>の二分法は妥当するのか?(ルーマンなら「二分してるからこそグラデーションとか言えるんだろヴォケ」とかいいそうだけれども)

 

 最後に。ちなみに、文化心理学は、「自己観」と実際の行動との関係を、こう捉えている。

 自己観は「行動・認知・感情」に影響を与える。ゆえに、そのような自己観を抱いた人々が構成する社会は、そのような自己観を反映するものになる。

 この点こそがまさに焦点なのだ。自己観=語り=物語的世界=意味論的世界と、行動・認知・感情との関係が、いかにも不明瞭だ。「科学」を騙るならば、この点はもう少し問いつめたい。(もしかしたら私が知らないだけで理論的解消された文献がどこかにあるのかも)

flapjackflapjack 2005/02/08 20:44 はじめまして。浜満、いいっすよね。ところで、流通する語りとしての「文化」については、「表象の疫学」を提唱するダン・スペルベルの『表象は感染する−文化への自然主義的アプローチ』(ISBN:4788507781)が筆頭だと思うのですが、浜満はここでは言及してないような。ともかく、スペルベルは人類学と認知の掛け橋そのものみたいな人ですから、認知との関連でもはずせない。門外漢ながらたいへん展開が楽しみです。
 あと、文化心理学といえば最近少しうれたリチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人森を見る東洋人 思考の違いはいかにして生まれるか』』(ASIN:4478910189)(原著はThe Geography of Thought: How Asians and Westerners Think Differently...and Why (ISBN:0743255356)が浮かぶのですが、Genさんの問いは重要だし、興味深いと思いますhttp://d.hatena.ne.jp/flapjack/20041002#p2で文化人類学者によるこの本の書評を引いています)。

GenGen 2005/02/09 00:08 flapjackさん、はじめまして。認知=人類学者であるスペルベルはもうひとつ突き抜けてくれると有り難いんだけどなぁ、と個人的に思います。浜満さんは認知というよりは言語行為論的に文化人類学を突き詰めている印象が。
 リンク先のSherry Ortnerの書評、読ませて頂きました。至極まっとうな批判だと思います。が、文化心理学者も、どうせなら世界各地の心理学科で実験→データを突き合わせて因子分析→「文化」要素のクラスターを発見、なんてやってもらいたいものです。それでも実験の被験者となるのは大学生だけだろうから、それをもって当該「文化」全般を代表する「科学的」データだなんて言われると狼狽しますが‥
 なお、私が所属している心理学研究室でも「文化差はない」というデータが出ています。参考までにどうぞ。http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~takano/j/j-prof.html#3-3

flapjackflapjack 2005/02/10 07:39  たしかに、浜満とスペルベルとでは、同じような文化の見方に、ちょっと違った角度から行き着いているかんじがしますね。しかし、スペルベルに「もう少し突き抜けてくれると」ってすごい要求ですね。
 それはともかく、文化心理学がらみで紹介してくださった高野陽太郎さんのサイトで、高野=北山忍論争というのがあったとははじめて知りました。北山忍さんってネスビットの本での「実験」に協力していた先生ではなかったでしょうか(ネスビットの本がどこにいったか見当たらず確かめることができなかったのですが)。いや、勉強になります。

GenGen 2005/02/13 04:07 北山さんとネスビットは共著論文をいくつか書いているはずです。日本で文化心理学といえば京大と北大が二大拠点だというイメージがあります。21世紀COE「心の文化・生態学的基盤」なんてのも面白いかもしれません。http://lynx.let.hokudai.ac.jp/COE21/outline/index.html 研究費の羽振りも良いみたいですね。。

2005-02-03 キッチュ、キワチュ、チュキッ!

[][] 「キッチュ」の語源

 昨日の続き。またもや基本的に『現代アートの哲学』に拠る。

 キッチュの語源、ドイツ語1860年頃、ミュンヘンにて。この時代は貴族・ブルジョワ社会から、産業・大衆社会への幕開けの時代

 一説によると、スケッチ(sketch)がキッチュの語源だという。ミュンヘンを訪れたイギリス人らが正統な芸術品を買い求めず、スーブニール(おみやげ)として安価なスケッチを買い求めたことを揶揄する言葉だったらしい。すなわち、オーソドックスな芸術の代用品を意味

 キッチュがもたらす心地よい美的心情の在り方→センチメンタリティー(感傷)

 センチメンタリティー、18世紀においてはネガティブ意味を帯びていなかった。だがドイツ・ロマン派などによって、あるいはカントの理性主義にきわまる道徳哲学によって、排除されるべき低俗な価値となってゆく。

[][] キッチュとはセンチメントの過剰?「自制」という態度

 たとえば19世紀、ヴィクトリア朝様式の過剰な室内装飾。あるいは現代でいえばラブホの過剰な装飾、悪趣味喫茶店のシャンデリア、見栄っ張りな質屋育ちの娘が持参するどでかいダイアモンドの指輪、といったトコでしょうか。とにかくキッチュは「過剰さ」を不可分に帯びる。

 わたしたちがキッチュに嫌悪感を抱くとき、

 われわれはまるで誘惑に抵抗するかのように反応する。

 惹きつけられるけれど抵抗するのが、キッチュへの態度。それはお菓子を食べ過ぎて太る女性への嫌悪感みたいなものか。つまりそれは

 精神的成熟を迎えた成人には向いていないという自戒の振る舞い

なのであり、昨日書いた「趣味」の洗練化としての自制の問題であった。

 階層秩序のなかで、なによりもまず道徳的自制として、情念の制御として、衝動の支配として理解される

のだ。これは趣味と行儀(manners)の同一視であり、芸術を道徳的観点から解釈するものである。

 たとえば感情のドンキホーテ日テレ24時間テレビで涙を流すとき、わたしたちは涙の安っぽさ=自分の自制のなさを恥じ入る。あるいは浅田次郎で泣いたとは、おいそれと口にできない。

[][] もうひとつの態度――「誠実」

 キッチュはまた「誠実」という態度の問題でもある。ロマン主義においては、作品が芸術家の個性や精神の表現とされた。自己表現の美学は、自己表現の「誠実さ」を要求する。つまり、

 情動過多のキッチュは、作者自身が感じてもいない見せかけの感情の表現

だと考えられ、断罪された。たとえば商業主義に染まるハリウッド映画をさげすみ、タルコフスキーを称揚するとき、わたしたちはハリウッド映画の不誠実さを非難しているのだ。最近のJ-popにおけるインディーズ・ブームなるものも、このことに関連しているのだろう。作品に作家性を求めるムーブメントは、まず「誠実さ」を要求するムーブメントであった。青年は作品に誠実さを求めるからこそ、パゾリーニ監督は刺殺されたのだろう。

 ともあれ、センチメント(感傷)の過剰への非難は、まずは倫理的な非難であり、美的非難ではなかった。キッチュを巡る議論の混乱は、

 元来美的な現象を、もっぱら倫理的な観点から論じ批判するという点に由来

するのだ。

[][] 「寄生の美学」としてのキッチュ

 だが、芸術作品とキッチュは、それぞれ拠って立つ美学が異なっている。芸術作品は多くの場合なにかしらの強度をそれ自体に内包している。

  • 芸術→それに固有の視覚的な美的構造を備える(自存性の美学
  • キッチュ→たとえばお正月門松みたいな「際物」。それ自身に固有の意味や使用価値によってではなく、そのときどきの時節や場所や状況に寄生して、はじめて価値を得る商品となる(寄生の美学

 キッチュな絵画(ラッセルとかかな?)とは何かといえば、

 それらが最大限の美的効果を得ようとしてとる基本戦略が、すでに伝統や習慣としてできあいの思考や感情の方式をあてにする寄生

なのである。しかしわたしたちはキッチュなしには生きてゆけない。テレビドラマが失われて矢田亜希子が姿を消すだけで、あるいはキッチュの極みのジャニーズが消滅するだけで、どれだけの人の人生の色彩がモノクローム化されてしまうのだろう。

[][] キッチュへの倫理的非難

 ではキッチュへの倫理的非難はどのように成立しうるのだろうか。

 キッチュが寄生の美学によってえたものを、あたかも自分に固有のものであるかのようにいつわって、みずからを「作品」として自分に売りつけるとき、たしかにそれは倫理的不誠実として非難される

タイムアップ。後ほど追記。

2005-02-02 「キッチュ」をどう考えるか

[][][] 「美的経験」の論理的根拠

 外の神社で「福はう〜ち」とか連呼してるおっさん、うるせえ‥。アートを純粋に哲学されると引くのだが、面白いことは疑いえない。テスト対策兼。基本的に『現代アートの哲学』に依拠。

 作品の美的経験は、その作品が生み出されたアートワールドの文脈や、それが帰属する様式のクラスといった、その作品が位置する現実の歴史についての知識を前提とする。

 なにも美術史的な知識だけが、アート鑑賞に際して動員されるわけではない。「真理の経験としての芸術」という考え方が広く受け入れられている。

 詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考え方は、古くからある。

  • プラトン→詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写し取ることで、真理をゆがめるいわゆる仮象として、これを断罪した。
  • アリストテレス→人間には模倣をよろこぶ本能が備わっており、しかもこのよろこびは、模倣を通じて、しれが模倣している現実のものがそもそもなんであるかを推論するという、人間に固有の知と認識の喜びに由来するとして、模倣の術の価値を、現実認識に真理性にもとめる。

 そしてこのような「芸術作品を介しての内的真理のかくれない開示とその享受、共有という基本構図」は、近代に強化された。

 このような考え方は、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的、共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張し始めたとき、いっそう純粋な形で強調されることになる。‥それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学の中で体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。

 たしかに我々は芸術を真理の一端を示すものとして経験する。だがそれは、

 あくまで、美的経験のあとにつづいて、わたしという一個人、あるいはわたしが帰属する共同体にたまたま生じた経験である。論理的にいうかぎり、作品そのものが、そのようなあらたな現実経験への指示を直接に与えるわけでも、またつねに与えるわけでもない、つまり絵画経験の本質がそこにあるわけではない。


 そこで、絵画の美的経験(視覚イメージ)と、それが参照するコンテクストを、区別して考える必要が出てくる。(ミメーシスと現実との論理的関係)

  • フレーゲ→ひとつの単語がもっている「意味(sinn)」と「指示(Bedeutung)」のレベルを区別(「明けの明星」も「宵の明星」も指示するのは同じ金星
  • ビアズリー
    • 描写(depiction)→たとえばレンブラントの肖像画において、「ひとりの内省的な男の顔」という視覚デザインのレベル
    • 肖像(portraying)→レンブラントと呼ばれる実在の画家を指示する自画像のレベル

 予備知識無しに美術館に行って楽しめるのは、あくまで「描写のレベル」だけだ。レンブラントへの歴史的知識が「肖像のレベル」を可能にする。

 歴史的知識にしても、この絵の描写レベルの美的経験を深めるのに役立つのであって、これとは逆に、絵が歴史的現実についてなんらかの認識を与えるわけではない。‥「画家自身が作品の中に現前する」というシャピロの主張も、美術史の命題としては正しいとしても、この作品を見る経験としては、やはりいいすぎといわなければならない。


 絵の意味論的レベルとしての描写と肖像とを区別しない、混同したいいかたに溢れている。

 それ自体非言語的でメッセージをもたないものを、一定の「文の省略形」にするためには、もちろんそれにさきだって、特殊な言語的習慣と合意が必要である。‥伝統的には、作品は、宗教画や歴史画、寓意画、宗教音楽や典礼音楽など、一定の慣習に従ってコンテクストの中でつくられ経験されて、モラル宗教イデオロギーなどの代理、省略としての社会的機能を果たしてきた。

 まぁバルト的なシニフィアンのレベルとして、ってトコですか。まとめると

 一枚の絵それ自体の論理上の身分を問題にする限り、それはどこまでも描写であり視覚デザインであって、それ以上に人生についての教訓や教義に関わる命題を主張しているわけではない。それゆえ、これに真理性を要求することはできないだろう。

[][] 近代美学の混乱の原因

 これはなかなか鋭い指摘ではないだろうか。

 近代は、芸術をそのような作品外の習慣のコンテクストから引き離して、その自立性を強調してきた。近代美学の混乱は、一方でそのような自立的な作品の純粋に美的芸術的価値を強調しつつも、他方で、あいかわらず作品を命題の省略形とする習慣に依拠しつつ、従来通りのやり方で、その真理性を主張できると考えたところにあった。

 その上でアンディ・ウォーホルなどの現代アートを考えると、こうなる。

 現代では、社会的コンテクストから遊離した美的モダンに対して、意図的に社会的コンテクストのなかに作品を再定位し、これによってアートの経験を現実経験に接合しようとする傾向がいちじるしい。

 便器をアートのコンテクストにおいたマイルストーンマルセル・デュシャンの『泉』――そういえば、この前の朝日新聞では『泉』ではなく『噴水』という邦訳題こそが正しいと主張されていたが――のポイントは、

 それはつまり、デュシャンのもくろみどおり、かれが破壊しようとした制度の側によって、「泉」という作品を、ある命題、たとえば自分たちの芸術を非難し告発する主張の省略形として用いさせたということである。

[][] 芸術における「よき趣味」とは何であろうか

 アートに対する趣味は得てして価値判断される。

 大衆化に伴って衰退したもの、それはかつての西洋近代の文化を支えてきた教養主義であり、そのような趣味教養の発露としての「芸術概念である。逆にいえば、「よき趣味」と「悪趣味」が峻別されるようになったのは、「高貴で美しい芸術概念が確立する17、8世紀だということである。

 「よき趣味」という<芸術に対する>価値判断は、当の芸術を鑑賞する人物の<人間性に対する>価値判断と不可分であったことは注意すべきだろう。美的=道徳的な水準。

 フランス古典主義の「よき趣味」とは、パリを中心とした都会の貴族やブルジョアたちのエリート階級が所有する高級文化規範であるが、それはまた、かれらが理想とした紳士淑女、つまりhかれらが普遍的と考える人間性の規範でもある。それゆえ、これに対するvulgarな趣味つまりは悪趣味は、人間性の価値の根幹にかかわる欠落として、美的であると同時に、あるいはそれ以上に、道徳的・階層的非難と拒絶のことばとして形成された。


 それでは、芸術趣味を価値判断することはそもそも可能なのだろうか。わたしならば「物語論てきに、個人各々の経験はそれぞれにとって真実である、ゆえに客観的価値の判断は不可能だ」と考えるが。そうすると、アンチノミーというかアポリアが生じる。つまり、「批評はなぜ可能なのか」という問題だ。

 もしも趣味が、個々人の快を感じる能力だとすれば、「各人はそれぞれ自分自身の趣味を持っている」ということになり、それゆえ古くから知られた「趣味については議論できない」という格言をうけいれざるをえない。だがそうなれば、趣味が一つの判断として、ある種の普遍性を要求できなくなり、批評意味がなくなる。

 この二律背反に対する解決策を、色々な思想家が提示してきた。

  • モンテスキュー、ダランベール→人間であるかぎりその自然本性に備わった共通の本質がある[から批評は成立する]――これは古典主義への回帰。
  • ヒュームパラドックスにみえたものは、じつは偏見によってあやまった感覚と、人間本性に共通の真の感覚とのあいだのひずみである。この点で理性は、趣味の本質的な部分ではないにしても、すくなくとも趣味の能力の行使にとっての必須のもの――これも[カトリック的な美という]普遍性への回帰。

 カントはこの「個人的な快と普遍的な規範アポリア」を「趣味のアンチノミー」と呼ぶ。以下、カントが提示した解決策。

 かれはまず「趣味については議論できない」という格言に使われている「議論(disputandum)」ということばの意味を、証明によって真偽を裁断する「論議(disputieren)」と、他人の判断との一致を要求する「争議(streiten)」とのふたつに区別する。

 つまりどういうことかというと、

 趣味については「証明による議論」(論議)はできない。だがこのことは、趣味に関して他人と互いに一致するという希望のもとに意見を戦わせること、つまり「争議」まで否定するものではない。われわれは趣味について争議できるのだが、これをあやまって論議と考えてしまった点に、解きがたいアンチノミーの由来があるというのが、カントの主張である。

 ヴェーバーの「価値判断」的な考えですかね。『職業としての学問』でヴェーバーは「教壇で、神々の闘争の問題であるところの価値を語るな」と述べたが、とすれば、たとえば野崎歓が駒場であからさまに映画に対して優劣をつけている映画論という講義は、いったいいかなる妥当性を持つのだろうか。

 しかしカントも快に関する「共通感覚」なるものを想定してしまう。次は、マーゴリスの有名な解決策。

マーゴリスの4次元

  • 個人的な趣味(personal taste)
    • 単なる好き嫌いのレベル
  • 鑑賞判断(appreciative judgement)
    • 個人的な選好が、一定の理由付けにおいて正当化され主張されるレベル

 これに対してわたしが期待できるのは、わたしの理由が他人の理由ともなりうること、つまりは他人の賛同を得ることである(カントの「争論」のレベル)。

 ところで、個人的なレベルだけではなく、社会的なレベルでも価値判断が主張されることがあり、それらを取り込みながらわたしたちは自分の趣味を生成している。マーゴリスは社会的なレベルの趣味と判断の振る舞いを次のように整理する。

  • 範例的ないし公的趣味(prevailing or official taste)
  • 評決(findings)
    • 公的趣味(社会に共通の好み)を正当化する理由を呈示するもの(「鑑賞判断」の社会レベル。批評家の論など)

 「評決」は、一定の社会に帰属する誰もが好むと一般に見なされている対象がある場合に、このような社会に共通の好みを正当化する理由を呈示する。したがって、

 だれもがおなじ感じ方をするとすれば、その理由をわれわれは、当の対象に根拠を持つと考えたくなるだろう。それゆえ評決は、ある対象が誰にとっても好ましく良いとされる理由について、あたかも当の対象が、その根拠となる一定の客観的な性質をみずからの属性として実際に持っているかのように記述する。

 つまり、社会的に構築されたある作品に対する価値判断が、あたかもその作品自体が持つ属性であるかのごとく、錯誤されやすいということだ。


 だからこそ、わたしたちが発する「美しい」という言葉には注意せねばならない。

 「美しい」ということばは、ひとつの社会文化が評決にいたるさまざまな事実認定や客観的理由付けを総括する言葉として、あたかも裁判の判断を要約した判決主文のようなものである。

 「これは美しい」という判断の実質がなんであるかを記述するためには、人間の普遍的本性の記述ではなく、また人間本性に訴えかける対象の属性の記述でもなく、むしろ評決という振る舞いが遂行される環境全体を、つまりは「ひとつの文化を記述しなければならない」。

 進化心理学的には、若干の異議あり。後ほど考察の予定。

[][] 批評という言説

 そもそも範例的趣味とは、個人的な趣味とその鑑賞判断に関する「争論」をつうじてのコンセンサスという形で徐々に形成されて、一定の慣習や規範となり、伝統としての安定性を獲得したものである。逆に、個人趣味の担い手である個々人にしても、‥つねに範例的趣味の影響下で、美的教育などを通じてそれぞれの趣味を養ってきたのである。

 伝統的美学において趣味は、個人主観的内面ないし人間性といった、いずれにせよ外部世界から自立した領域の問題とされてきた。趣味のアンチノミーは、ここに由来する。これに対して、文化という全体的コンテクストにおける、それゆえ相互に作用し合う二つのレベルの振る舞いからなる複雑で動的な過程としての趣味を、われわれは、ここでもあの、制度としての発話というフーコー的な意味での言説(ディスクール)ということばをもちいて、「批評的言説」と呼ぶことができるだろう。

 まぁ正直とくに目新しさはない論だな、と。面白かったのは

 いわゆる目利きや批評家のしごとは、比較的安定した相対主義のなかで、個人趣味と範例的趣味というふたつのレベルのあいだを媒介することである。

という記述。

 科学的事実が単に社会的構築されたものではなく、社会物理的世界の双方を調停するスポークスパーソンたる科学者によって生み出されたものであるように、アートにおいても、作品(あるいは芸術家)固有の「なにか」はあるのだと感じる。それは進化的に育まれてきた心的機構に基盤を持つある種普遍的な快感覚を誘発する「なにか」なのかもしれない。

 科学的データを評価するのは科学の生産者たる科学者共同体だが、芸術の場合、アート生産者の共同体アートの評価を必ずしも決めるわけではない。批評家という奇矯な連中が巣くっている。まぁいかにネットワークを組むのかということでもあるのだろう。時間切れで考察はあとまわし。

2005-01-24 ゴフマン『アサイラム』

[][] 刑務所の問題

ISBN:4414518032

社会一般的な期待

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刑務所は受刑者が社会に対する自分の罪を償い・法を尊重する心を養い・自分の罪を内省し・正統な職業を身につけ・ときには必要な精神療法を受ける場を与えるもの

 しかし、措置という観点からすれば、刑務所内の管理者側は主として<安全>すなわち無秩序と逃亡の防止という問題に焦点を合わせている。

 決定的な齟齬。ゴフマン的には社会的位置がすべからくアイデンティティの諸問題を含意しているという問題意識がある。

 命令の場合はともかく、丁重な要請に応じて自分の身体を動かすことは、部分的にではあるが相手方の行為の筋道の正当性を認めることでもある。獄舎いる間に中庭でする運動とか美術の材料を与えられるという特権を受け入れることは、人間の欲望とか必要の本質に関する収監者の見解を受け入れることに等しい。その結果、少しは謝意と協調性を示し、さらにそのことを通じて自己についての非明示的な仮定をする収監者の権利を認めざるを得ない立場に被収容者を置くことになるのだ。

 外部からの訪問者に自分の描いた画を見せるようにという親切な看守の丁重なすすめすら、それに応ずる程度の協調性を示すことが被収監者の立場の正当性と、付随的にではあるが彼が抱く自己像の正当性を保証すると思われなければ、拒絶されることになるだろう。

 このときわたしは、つい先日亡くなった祖母を想い出す。彼女は徹底して、老人ホームの行事を拒み、部屋に引きこもり続けた。元気だったのにね。彼女の徹底抗戦は、まさに彼女アイデンティティをめぐる決戦だったに違いない。まなざしていたひとりの人間として、そのことを忘れないでおきたい。

[][] 自分の社会的・組織内的位置そのものが自己アイデンティティを定位している

(p.190)

 組織の社会的仕組み自体に、構成員に関する完全に包括的な考え方――すなわち単なる構成員としての彼に関する考え方ばかりではなく、その背後に人間存在としての彼に関する考え方――が、組み込まれているのだ。

(p.197)

 私が関心を抱いているのは、組織内で期待されている活動には行為者に関する考え方が含意されていること、したがって組織はアイデンティティに関する非明示的仮定を発生させる場所と見なすことができる、という事実である。

 営造物の敷居をまたぐと、個人は状況に注意を向け、適切に定位し、それに調子を合わせる義務を引き受けるのだ。‥彼は該営造物ならびにそこで彼に帰属させられた自己像に対する自分の態度を一見それとわかるように確立するのだ。規定通りの心構えで特定の活動に従事することは、特定の種類の世界に住む特定の型の人間としての存在様態を受け入れることに等しい。

 規定をかわすことはアイデンティティをかわすことなのだ。‥特定の社会的営造物が自己に関する含意を体系的に生ずる場所として見られるならば、われわれはさらに続けて、社会的営造物をこれらの含意が参加者によって体系的に処理されている場所として見ることができるのである。

 あらゆる組織は一定の水準で存在様態(Being)の規制――所定の性格を持ち所定の世界に住むことの義務づけ――をも含んでいるのである。かくして本稿における私の目的は、特別な種類の怠業すなわち規定された活動の不履行ではなく、規定された存在様態の不履行の検討ということになる。

 この意味ニートアイデンティティの諸問題を必然的に含むのだろう。あるいは、finalventさんがおっしゃっていた、

意志は私の絶対的な企投を要請する、しかし、人はそこで欺瞞に陥るだろう。というか、人がある社会的な位置で存在していることと、その企投とは同じだ。だとすれば、人はただ運命を生きるだけだ。

という言葉もますます明瞭に了解されてくる。生活世界を、生きるしかない。

#LPPはこの過程を組織内のアクセス運動として描いているから面白い。でも、ゴフマンも<精神医療システム>内の運動として描いているような?

2004-12-25 アレを読んだ

[] 落書き程度の村上春樹アフターダーク』の感想

 イブそれなりに楽しかったぞ。つーか風邪だし二日酔いだし頭いてー。去年の今頃は北海道にいたと思うと笑える。目が覚めたので、手元にあった、前買って放置してあった村上春樹アフターダーク読了。2時間かからず読めた。なんて読みやすい本なんだ。最後のエリとマリの肉体のふれあいのシーンはさすがだ、美しい、カタルシス。読後感の爽やかさは、吉本ばななみたい。SWITCHとかに連載されてそうな。


 「ストーリーが中途半端・先が知りたい」という批判もあるようだが、個人的にはこれ以上の書き方はなかったのではないかと思う。何のために渋谷(この物語は明らかに渋谷だよな)の街角を設定したのか。そして何のために春樹自身がカメラの視点となったのか。スクランブル交差点を渡る人々は、偶然交差し、またそれぞれの四方へと歩をすすめてゆくのだ。


 物理的に日が沈み、次の日の朝日が昇るまでの物語、「アフターダーク」。日常にどこでもある裂け目から落ちてしまった人が、偶然による人とのつながりによって、あるいは肉体と肉体を通じた接触によって、闇からふと抜け出る可能性のきっかけみたいなものを描いた物語、「アフターダーク」。二重の「アフターダーク」な物語。それにしても最近の作家は、人とのつながりの「偶然性」にすごく力点を置いているよな。


 語りの視点が自由自在に動いているのも面白い。でも、そもそも描写するとは、テレビブラウン管の向こう側に対象を追いやるということだろう。あるいは考えるとは、対象をテレビのスクリーンを隔てたあっちに移動させてしまうということ。テレビのこっち側で他者(対象)と通じるには、ベッドの中で肌を寄せ合うしかない。


 ひとつ、春樹自身が対象から離脱し、カメラの視点になっている。自由自在に視点が動く。これは春樹が小説家だから当然だろう。書き手の、書き手であるかぎり逃れられない、痛みを感じる。(もちろん「純粋な観念としてはテレビの向こう側にフォーカスできる」と春樹は言うのだが)。ふたつ、マリ自身がエリ(姉)に対してカメラの視点となっている。家族歴史的な過去による、マリとエリの関係によって。あるいは、エリ自身の(社会)心理的な理由によって、エリは裂け目のあっち側にいってしまったのだから。そして最後のシーンで、肉体によってつながる「かもしれない」という「兆し」が示され、また一日が始まってゆく。その「兆し」すらも、ピクっとした筋肉の動きという、肉体の胎動として描かれている。そこに春樹のカメラがあらためてフォーカスする。ブラウン管の向こう側へ突き抜けたいという欲望を持ちつつも、かろうじてそれをこらえながら。「語りえぬものについては沈黙せねばならない」とヴィトゲンシュタインは語ったが、小説の定石は――「語りえぬものについては身体に託さねばならない」。


 個人的に惹かれたのは、これがたった1日――日が沈み、夜の街があり、そこにまた日が射す――の物語だということ。あくまで1日。すぐまた闇が来るかも知れない。でも、太陽は確実に昇り、翌日の街角を照らす。都会の街角で、闇=昨日の記憶と太陽=新しい一日の予感がせめぎ合う。

「窓に降ろされたシェードの隙間から、鮮やかな光の筋が部屋に入り込んでくる。古い時間が効力を失い、背後に過ぎ去ろうとしている。‥姿を見せたばかりの新しい太陽の光の中で、言葉の意味合いが急速に移行し、更新されようとしている。たとえその新しい意味合いのおおかたが、当日の夕暮れまでしか続かないかりそめのものだとしても、私たちはそれらとともに時を送り、歩みを進めていくことになる。」

「ふんだんな朝の光が世界を無償で洗っている」

「真新しい一日が始まろうとしている。それはかわりばえのしない一日になるかも知れないし、いろんな意味で記憶に残るめざましい一日になるかもしれない。しかしどちらにせよ、誰にとっても、今のところまだ何も書き込まれていない一枚の白紙だ」


 裂け目は語りかけてくる。「逃げ切れない。どこまで逃げても逃げ切れない」と。たしかに逃げ切れるわけはないのだが、日は射しこんでくる。円環として、流転しながら、たった一日を紡ぎながら、時は先へと続いてゆく。そして12月25日がはじまる。朝飯を食おうにも、気持ちが悪い。

2004-12-24 正統的周辺参加論とハビトゥス

正統的周辺参加論(Legitimate Peripheral Participation:LPP?)のまとめ、認知科学社会科学の橋渡し、LPPはどう「ハビトゥス」を乗り越えたか

よーし時間に間に合った。基本的には『状況に埋め込まれた学習』の福島解説のレジュメ化。

LPP(正統的周辺参加論)のポジション

認知科学社会科学の二領域の間の橋渡し。その上で新しい理論的ゲシュタルトを構成している。また、LPPは社会的行為者(agent)の概念を導入した。

認知科学社会科学を関連させ強引にまとめてみる

  • 行動主義

デュルケームは行動主義に該当する(正確には機能主義だが)。「彼は本来、心理学的なタームであった意識や表象という言葉を、集合意識、あるいは集合表象という形で社会学化し、いわゆる個人心理学的な領域を設定しなくても、それらの部分は観察可能な「社会的事実」によって説明が付くと主張した」。つまり、カテゴリー社会起源説を打ち出し、心的とされる事象に対する社会構造の優先性を強調した。

  • 認知主義

レヴィ=ストロー構造主義の操作によって何が消えたか

それは具体的な社会行為者(agent)である。サルトル流の実存哲学へのアンチテーゼとして誕生したいう背景、すなわちそれは、主観性の王国に対する、無意識内の構造からの攻撃であった。(cf.主観性の神話を攻撃したのは主に他にマルクスフロイトニーチェ

社会的行為者(agent)が消えると何が問題か

具体的な文脈における行為者と活動との関係が消滅する。したがって、必要な差異まで消されてしまう。彼の困難さが明確にあらわれたのが婚姻規則に関する議論である。それゆえデュルケームに片足を突っ込んでいた英国人類学者は納得しなかった。

大事なのは

婚姻規則であれ、家屋建築の形式であれ、「ある場合には、それらにある種の構造化された側面が見出されるというのは、否定しがたい事実であり、ゆえに問題は、レヴィ=ストロース的な構造概念を一方的に破棄し、すべては分析者が作り上げた幻想に過ぎないとすることではなく、むしろある対象の構造的把握が可能となるとすれば、それは一体どういう条件下でなのか、ということを明確にすることなのである」

社会的行為者(agent)を導入すると何が得られるのか

「心的構造の代わりに社会的行為者というものを分析の中心におき、彼らの実践的な活動というものを軸に分析してみると、心的構造という発想を支える暗黙の前提を、いわば再文脈化することが可能になる」

「われわれの様々な社会的実践は、極端に規制されたレベルから、そうした制限がかなり弱いレベルまで、一連の緩やかな分布をみせている。規制の最もキツイ側面は、儀礼が典型である」

「現代産業社会では、ゴフマンが強調するように、社会の全体的な世俗化によって、こうした儀礼的秩序は比較的マイナーな領域に押し込められたが、それでもその片鱗はさまざまな現代版の儀礼や挨拶行為等に見ることができる」

「むしろ近代的諸制度は、そうした儀礼的拘束の部分的撤退を補完する意味で発達してきたものと見るべきであり、共同体中心の儀礼的規則の代わりに、個別の身体をターゲットとして大量に監視・訓練するシステムなどが発達してきたという議論もある(→フーコー『監獄の誕生』)

行為の全体的なスペクトラム

たとえばサッカーゲーム→行為についての規制がはるかに緩く、われわれは刻々と変化する状況に微妙に対応しながら、瞬時に次の手を打つことになる。

「ある意味で、社会的行為というのは、こうしたスペクトラムのどこか中間点に位置づけられるものであるのは間違いない。そして、この行為の全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化が可能になる」

社会科学に求められている戦略

ある構造的なパターンは、それを否定するというよりは、むしろその構造的パターン社会的実践の文脈の中に置き換えてやることが大切である。範疇の構造はわれわれの実践的な活動ときわめて密接な関係があり、その文脈で理解されるべきだ。

社会的行為者を分析の対象から抹消し、そのかわりに抽象的な心的構造をおくことによって、様々なレベルでの、異なる意味合いを持つ構造的発現をすべて同一レベルのものとして扱うという危険をおかすことになる。社会的行為の様々なレベルに現れる構造性と即興性のヤヌスの両面を同時に解明するという戦略が、ある意味で現在の社会科学に求められている課題なのである」

ここでブルデューの実践/ハビトゥスの議論を導入してみよう

  • ブルデューハビトゥスとう概念は、まさにこの構造的感覚を維持しつつ、それを心的構造として無意識の奥底に普遍的に設定するのではなく、日常的な活動レベルに設定したものだ。(構造性と即興性の調停)
  • この概念の基礎は、意味生成の基盤としての身体への執着
  • 世界内に組み込まれた身体性を強調したのは彼の師メルロ=ポンティ、そしてさらに身体技法についてのモースの議論が加わっている

ハビトゥス概念を拡張すると

ハビトゥス概念を拡張すると、いわゆる価値観全体にも応用することができる(ex.『ディスタンクシオン』)。

ブルデューのいうハビトゥスとは、まさにこうした身体が構成する、認知・判断・行為の全体的なマトリックスのことであり、当事者の主観的な意味世界をいわば背後から基礎づける身体的な傾向性の基盤となる」

ハビトゥスと認知(とアフォーダンス?)

「ここでは認知というのは、心的な構造ではなく、社会的身体が繰り出す慣習的行動の中に埋め込まれた、活動の一部分に過ぎない」

「それは社会的環境と身体の間での複雑な相互作用のごく一部に過ぎず、それゆえそれだけを分離させて形式化することなどできない」

「また、身体化された傾向性は、主観の反省の外側にある以上、それは現象学的なアプローチとも異質である」

Gen註:ギブソン的な生態学主義の社会版?とすればアフォーダンスに相当するものは何だろう。関連するものとして、文化心理学京大・北山センセが「文化アフォーダンス」なんて言葉を作っているが、どこまで理論的に構築されたものなのか。一度チェックせねば。

状況的認知論とハビトゥスとの違い

ハビトゥスは、ある種の弾性のような持続性を持ち、それゆえ対象を構造化する傾向があるとされる。この点で状況的認知論とは異なる。

「船や空港は、あくまで認知活動のリソースや道具に囲まれた場であり、人はそれを様々な形で利用しつつ、それに部分的に制約されつつ、しかし自由に実践(プラクシス)する。しかし社会構造とは、むしろ人と人とのインターラクションの制約の諸レベルであり、それゆえ社会構造とは、単純に活動主体によって操作されるリソースなのではなく、むしろ活動主体間の相互制約の形式なのである」

「状況的認知の研究においては、こうした社会構造的側面は、分析の前面に出てこない」

ブルデューハビトゥス」の限界

身体化されるとは、自動化される(=暗黙知化される)ということだ。では、こうした熟練の達成を可能にする条件とはいったい何なのだろうか。

Gen註:つまりは、認知科学社会科学をつなげ、ということなのか。

社会的」実践を考える際の注意

社会的実践は状況に埋め込まれている。が、問題は、それが「どんな状況であるのか」ということだ。状況(文脈)の境界を定義せねばならない。状況についての定式化が必要である。

ここで「正統的周辺参加論」を評価し位置づけてみる

これは

ブルデューやギデンズによって推し進められる方向性を全面的に展開しつつ、心理学的に理解されていた熟練というのが生成する社会的文脈を非常に明確な形で組織的に提示した作品であるということができる」

つまり

この理論の独創性は、「そこに<実践共同体>という概念を打ち立て、社会的実践を、そこへの参加の過程という形で定式化したことにある」

実践共同体は二つの意味で、前もって構造化されている

  1. 実践活動を行う他の行為者間の構造
  2. (実践活動に直接関係する)空間の物理的配置

正統的周辺参加論のメリット

「従弟制という言葉が暗示するように、そこには親方あるいはそれに相当する存在がいて、彼をとりまくように、熟練の諸レベルの階層的、同心円的な構造が存在する。こうモデル化することの利点は、社会構造の再生産と、個人の認知的熟達化という心理的側面が、ここで統合されるという点にある」

心理的熟達化の段階は、ここでは実践の共同体内でのゆるやかな向心円的運動として描くことができる。そしてそれぞれの段階での熟達の習得の差は、まさにその共同体内での、物理的、社会的位置づけの差としてこれを措定することができるのだ」

「実践というものが、緩やかに変化する環境(それは実践共同体内での地位変化に対応するが)の中での、継続的な学習の過程であるという重要な帰結がここで得られることになる。ブルデュー流にいえば、暗黙のうちに学習する能力を持つ社会的身体が、この緩やかな螺旋運動の中で、その親方に具体的に代表されている認知・判断・行為のマトリクスを、その共同体に参加するという行為によって、自然と身体化していくということなのである」

それゆえ、ブルデューにおいて抽象的にハビトゥスと語られてきたものは、ここでは「熟達のアイデンティティ」と呼ばれている。

LPPのメリットのまとめ

「この周辺から中心への緩やかな移動というテーマによって、組織全体の構造を保ちつつ、しかも徐々に自己革新していく過程や、その中での、新旧世代の潜在的対立とその隠蔽、さらにある実践共同体と他のそれとの、いわば「間-共同体」の問題、といった一連の社会科学にとって最も中心的な問題群への連結の可能性がここで示唆される。」

「と同時に、実践の社会学があまりうまく取り扱ってこれなかった問題領域、とりわけ道具の使用を含む共同体物理レイアウトや、より抽象的には技術と実践の相互作用の構造がその熟達のアイデンティティとどう関係してくるかという、いわゆる活動理論が得意とする問題群への通路もまたここに開かれることになる。」

LPPが提起するさらに興味深い点

「とくにここで興味深いのは、実践的活動を支える様々な道具類自体に、その実践がコード化されているという点であろう。この意味では、道具は単に物理的実在というよりは、むしろ<行為者−道具>はそれ自体で一つのユニットとして、社会的実践を行うと考えるべきであろう。」

「この<行為者−道具−実践>の、分離不可能な全体的な配置を次第に構成していく過程で、道具は透明になってゆく。」

Gen註:まさにアフォーダンス的な考えだ。むしろ、アフォーダンスを「構築する」という側面を扱っているのかもしれない。あるいは、アフォーダンスが(社会的に)「構築されている条件」に目を向けさせるということなのかも知れない。

Xmasイヴ

人混みに出かけるの、マンドクセ('A`)

2004-12-23 性淘汰についてのいくつかのメモ

[][][] 自然淘汰と性淘汰

進化の「適応」を説明するふたつの側面、生存と繁殖。

  • 生存→自然淘汰
  • 繁殖→性淘汰

これまで性淘汰の観点からの説明がなおざりにされてきた。しかし「心」は、性淘汰から説明した方がうまくいく。

求愛の努力と子育ての努力トレードオフ

男性は、何人の子どもを持つかにおいて女性よりもずっと変異が大きいが、そのために、有性生殖は、男性にとってよりリスクが大きく、より報酬の大きいゲームなのである。女性は、子どもの数における変異が小さいので、子どもの質により多くの注意を払う。

女性が卵子の成長と妊娠授乳のために当てている余分なエネルギーを、男性は何に費やしているのだろうか。繁殖のための競争と、求愛行動である。求愛の努力と子育ての間には、本質的なトレードオフがある。(p.120)

メスはオスの質を選ぶ「性的好み」を進化させ、オスは性的装飾形質を進化させる

  • メス→子どもを一人産み育てるコストが大きい。ゆえに、質を重視。オスを選ぶ
  • オス→セックスだけならばコストがかからない。ゆえに、いかに多くのメスを確保できるかを重視。メスに選ばれるような、性的装飾形質を進化させる

では、どうして両性ともに似たような「心」が進化してきたのか

第一の要因は、「両性間の遺伝相関」と呼ばれるものだ。両性はほとんど同じ遺伝子を共有している(22組の染色体は共通、性染色体のたった一組のみが異なる)

繁殖上有利となるような突然変異遺伝子は、両性に伝えられるだろう。性的好みも両性に伝えられるだろう。ダーウィンはこれを「平等な遺伝の法則」と呼んだ。

男性と女性の身長には高い遺伝相関がある。これは、男性と女性の平均身長が同じという意味ではない。背の高い親から生まれた異性の子と同性の子とをみると、異性の子がその性の集団内でどれくらい背が高いのかという度合いと、同性の子がその性の集団内でどれくらい背が高いのかという度合いとが、おおよそ同じだということだ。

しかしながら、遺伝相関の効果は一時的である。(p,126)

第二の要因は、オスの優秀さを判定するには、メスのその能力が一歩先にいっていなければならない、というものだ。バカに相手の頭の良さは判断できない。誇示の生産者と誇示の判定者には重複が生じるはずだ。

特定のタイプの求愛行動を生み出すのに使われている脳の部位と、それを判定するのに使われている脳の部位とが重複していることが、実際に神経科学によって発見されれば、そして、行動遺伝学が、文化を生み出すのに関わる遺伝子と、文化を判定するのに関わる遺伝子とが同じものであることを示せば、この仮説は支持されるだろう。

(→研究をチェック!)

人間の性差は、短期的な関係において最も顕著にあらわれる

  • 男性→短期的なセックスコストはほとんどない。しかし中・長期的な関係(ex.付き合う・結婚する)となると、コストは劇的に増大する。したがって、メスに対するえり好みが、男性においても激しくなる。
  • 女性は妊娠コストが大きいので、短期的なセックスを好まず、男性をはげしくえり好みするはずだ。
  • 長期的な関係の相手を選ぶ段になると、男性と女性の好みは、よく一致するようになる。
  • 関係が深くなるとは、子どもを持とうと思うときである。性淘汰は、ちょっとしたセックスを楽しむときに働いている恋人選びを通じてではなく、実際に子供を作るときに働いている恋人選びを通じて作用するのだ。
  • 男性の配偶者選択があらわされるのは、ワンナイトラブではなく、長期的な関係を確立しようかどうかを決めるときである。だからこそ、女性の性的な競争は、望ましい相手との長期的な関係を確立することに対する競争なのであり、なるべく多くの男性と性的関係を持つことに対する競争ではないのである。

きわめて納得のいく説明ではないだろうか。

  • 人間の子どもの大部分は、長期的な性関係の元で生まれたと考えて良いだろう。霊長類において「長期的」とは、少なくとも数ヶ月にわたる安定した関係である。
  • 性淘汰は、実際に子供を作ることに対する競争となっているのだ。

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2004-08-07 人文科学、モデル、心脳問題

[] 自然科学と人文系学問

http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/3974/1074956085/198(仮に研究する人生

なかなかいい線を突いているのでは?

198 名前名無しさん 投稿日: 2004/03/18(木) 00:14

 理科系の人には、文科系学問はなべて言語世界人間知的活動全般を支援する言語リソース群の集積、とでもいおうか)のインフラ整備を行うもの、と理解していただいたほうがよろしいのでは。法学経済学も、もちろん人文もそうした言語世界の中で形成されている体系のひとつである、と。いや、法・経済・心理など実学系統言語世界という大地に立つ建築物だとすれば、人文系はいわばその大地を掘削したり耕したり、にあたるでしょうか。

 この手の文理論争はいたるところで見かけますが、よく理科系の方がおっしゃる「役に立つ」「役に立たない」という言葉を「人間とりま物質環境を変化させること」と言い換えれば、おおむね妥当でしょう。人文のみならず法学などでさえ、「物質環境を変化させること」はできません。そうではなく人間行為を広く支援している言語世界環境を変化させていいくわけです(この変化は理科系の成果に比してはるかにわかりにくく、時には世代単位でないとその影響があらわにならないものですが)。

 ですから学問領域適用しうる普遍的目的をあえて定義するならばこの点(人間生活環境改変)でしょう。ただ、お互い、物質世界言語世界という異なるルートを経由してその目的に対して貢献している。こんなふうに理解してはいただけないでしょうか。

 では、なぜ「人間生活環境改変」が必要となるのでしょう?なぜ「言語世界の大地を掘削したり耕したり」する必要があるのか?誰のため?誰が資金を出す?社会的公正の増大のため?個人的には、小説哲学の違いを自分なりに納得のいく形で理解できないでいます。みなさんはどうお考えでしょうか。

[][] 関係としての存在モデルは対象そのものではない

 先日のエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/Gen/20040804#p3)で

問いの立て方によって、対象にアプローチする方法によって、現実はいかようにでも捉えることができる。大切なのは「どのようなとらえ方をすると、どんな意味が見えてくるか、何がわかってくるか」である

と書きましたが、(科学志向する)心理学者で、似たようなことをおっしゃっておられる方もいるんですね。http://mimizun.com:81/2chlog/psycho/academy.2ch.net/psycho/kako/1002/10023/1002366447.html/297

モデル」に対する2つの異なる見方。一方は「現実を捨象したモノがモデル」と考え、もう一方は「モデル現実に限りなく近づくべきだ」と考える。

297 名前:没個性化されたレス↓ :03/02/26 12:33

モデルについてのまとめになるかな?モデルの三要素〔進氏の著作より引用


モデルは実物の表現または記録。実物についてわかっていることを推測を含めて表現したもの

モデルは実物の代用。実物を知り、実物について推論したり予測するのに利用される。実物についてまだわかっていないことを探る手がかりとしても使える。

実物が一つでも、モデルはいろいろありうる。どんなモデルが適切かは、利用する目的による。

298 名前:没個性化されたレス↓ :03/02/26 13:03

次に「心のモデル」について同じく進氏の著作より抜粋


/瓦どうなっているかについて、わかっていることを、推測を含めて、ことばや図を使って表現したもの

⊃瓦モデルは、心について知り、推論したり予測するのに使う。心の研究の手掛かりにもなる。

心のモデルはいろいろある。どんなモデルがいいか一概には言えないが、心についての理解を深めてくれ、有用研究を生み出す手掛かりになる、そういうモデルが一般にいいモデル

特にのくだりです。モデルを作ることは、論理的可能性を追求することであり、「モデル価値」は、あくまでも「研究者が解き明かそうするモノ」に依存して決まるということです。

[][] 心脳問題について

 さて、最近話題となっている心脳問題について。脳の言語脳科学記述)によって、人間の「心」を記述しようとする試みは、上記の意味の「モデル」としては非常に面白いと思います。その可能性の追求によって「心」についてどのような新たな意味の地平が見えてくるのか、とても興味深い。

 一方、「カテゴリーミステイク」だとさんざん指摘されているように、人間意味世界を脳の言語によって記述し尽くすことは不可能です。脳内活動への人間意味を与えているのは意識生活の報告であって、その逆ではないからです。「痛い」という人間意味世界言葉による意味づけがまず先行する。その後、「痛い」という言語意味づけに相当する脳の活動を対応させている。脳内活動は意識生活の随伴現象の単なる確認であって、説明ではない。

 ただし、脳内化学物質操作すれば、「痛い」という感覚を消すことができる。「痛み」に対応する神経反応を除去すれば、「痛み」の感覚は生じない。これは人を動揺させます。薬を飲めば「心(ex.「痛い」という感覚)」そのものが消えてしまう。リアル感覚としては、「心=脳」であるかのように思われる。

 脳言語人間意味世界は「カテゴリーミステイク」ではあるけれども、どちらか一方が欠ければ「心」は存在することができない。さながら、<シニフィアンシニフィエ>が不可分に一体となって記号シーニュ)を形成し、どちらか一方を取り除くと記号そのものが消滅してしまうかのように。

 そうです、「心」とは記号シーニュ)に他ならない。シニフィアンしだいでシニフィエが異なってくる。ゆえに、「研究者が解き明かそうするモノ」に依存して「心」の内実は決まり、どのようにでも「心」はありうるのではないでしょうか。大切なのは、あるモデルからどのような意味が見えてくるかです。


 さて、ロボットがある刺激に対し人間と同様の反応を示す(人間のように振る舞う)ようになったとき私たちは「ロボットは<心>を持っている」と言うのでしょうか?

[] 「夜の」をつけて卑猥雰囲気を醸し出すスレ

 純粋に笑った。夜の国連事務総長、夜の銘菓、夜のベジタリアン

http://hobby6.2ch.net/test/read.cgi/owarai/1089529218/

cognicogni 2004/08/18 07:05 はじめまして。Genさんは僕よりも随分と考えが深いようにお見受けしますので、少し質問させて下さい。
当方の理解力の欠如が原因かと思いますが、「心脳問題について」の第二段落の記述が余り理解出来ません(特に、「痛い」という人間的…のところから)。出来れば理解したいと思っておりますので、お時間がよろしければもう少し詳しく書いて頂けると幸いです。

2004-08-04 日本の夏、読書の夏。

[][][] 日本語が使える質的データ分析ソフト発売!

 http://www.atlasti.com/atlasti5.shtml だそうです。

[][] 自分はどうしたいのか

 つくづく思うに自分は文化人類学をやりたいわけではないんですよね。あくまでそれは通過点であって、自分の納得のいく問いの立て方をしたいだけ。とりあえずは目指せ学振取得。それはともかく、ある研究対象の真実を知りたいわけではない。より事実に迫りたいわけでもない。ある問いを立てる(ある概念を通して物事を見る)ことによって、何がより豊かに見えてくるのかに関心がある。問いの立て方によって、対象にアプローチする方法によって、現実はいかようにでも捉えることができる。大切なのは「どのようなとらえ方をすると、どんな意味が見えてくるか、何がわかってくるか」であると考えます。


 「○○(対象)とはどのような存在か」という問いの立て方はできない。普遍としての存在はない。ただし、関係としての存在はある。「時間とは何か」と問うことは、「時間に対して人間はどのような関係を切り結んでいるか」と問うていることに他ならない。その「関係の切り結び方」をより知りたいというだけなんだな、と思い至りました。

[][] 夏休み読書予定

 みなさんはもう立てたでしょうか。って普通は立てないか。自分の場合、大甘だから、立てなければやってられないという罠。とにかく今年の夏は、もう花火も満喫したし、読書に捧げる。

 ここはひとつ、進化論・科学論が専門の佐倉統先生http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sakuralab/main.htm)に倣ってみようかと。必読図書リストhttp://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sakuralab/topics/basic.htm)のうち自分が読んでいないものは、必ずすべて目を通すこと。>自分 ちなみに彼のオンライン講義はココ(http://iiionline.iii.u-tokyo.ac.jp/guest/openlessontop.php?classid=11)で受けることができます。


なお、進化心理学に関しては、

Evolutionary Psychology: The New Science of the Mind
David M. Buss

が非常に完成度の高い一冊だと聞いています。是非ここまでチェックしてみたいところ。


 ついでここまでコレを読んでこなかったことが恥ずかしい

精神の生態学
グレゴリー ベイトソン, Gregory Bateson, 佐藤 良明

この一冊。個人的に尊敬しているうちの文化人類学教授は「文化人類学の古典を読んでる暇があったらこれを読んどけ!」と言って憚りません。大著ですが。「この本を読んで文化人類学専攻を決めた」という院生もいました。著者は科学者→思想という遍歴を辿っておられます。


 次は

異常心理学
G.C.デビソン, J.M.ニール, 村瀬 孝雄

これ。臨床家のバイブルです。一度は完読しておきたい。ページ数800、定価15000の本‥


 そして大学院進学を考えている心理学徒は必読の

Atkinson and Hilgard's Introduction to Psychology With Infotrac
Edward E. Smith, Susan Nolen-Hoeksema, Barbara L. Fredrickson, Geeoffrey R. Loftus

これ。心理学の教科書としては世界随一と名高い。やはり科学的な分野の知識は英単語日本語を対応させて記憶しておかなければ意味がないかと。さきほどの進化心理学英語教科書にもいえることですが。


ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生
ジョルジョ アガンベン, Giorgio Agamben, 高桑 和巳

これは早いとこ読んでしまいたい。


転移/逆転移―臨床の現場から
氏原 寛 , 成田 善弘

興味深い一冊。


 あとは経済学のマンキュー・シリーズ、文化人類学の古典を数冊、統計書を一冊、仏語の演習問題を一冊、認知科学の本を数冊、ブルデューの主著を数冊、デリダアーレントヘーゲルヴェーバールーマンの未読書を一冊ずつくらい読めれば文句ないです。少しの小説と。さて、どこまで行けるのか。

[][] 「美」とは何か(=人間は「美」とどのような関係を切り結んで「美」という存在を捉えているのか)

 美しいと感じるのが、対象自体の有用性の問題でないとすると、我々は対象の中に何らかのプラスの意味を感じていると言うことになる。ではそれは何か。(中略)

 つまり美しいとは、人間が対象の中から何らかの法則を見出した時の感覚であり、またそれは知的欲求を満たした快感であるとも言える。その為より複雑な(元の対象に隠れている法則が分かりにくいと言う意味で)美しさは、人間により大きな快感を与えるのである。

 補足すると、この意味での美しいと言うことと芸術とはイコールではない。もちろん、美しさも芸術の一部分である。或いは芸術は美しさを元に発展してきたと言えるかもしれない。しかし芸術と言われるものは、美しいと言うだけでなくそれ以上のものを含んでいるように思われる。(http://www1.odn.ne.jp/toha/zbeautiful.htm

 これは重要な指摘だと思う。(対象に隠れている)法則がわかりにくいことが第一の条件。その上で法則を見出したときに、美を感じる。


 「法則を見出す」とはすなわち、自分自身の価値観(物語・意味の体系)に、驚きを与えてくれた(=一見すると法則がわかりにくい)対象を、取り込む(=矛盾のない形で組み込む)ということではないだろうか。いいかえれば、対象をとりあえずは「支配」しなければ「美」という感覚は生じないのではないか。


 もうひとつ、対象に「想像力の飛躍」見出せるかどうかも大事なポイントだろう。デュシャンの便器(『泉』http://www.linkclub.or.jp/~kawasenb/02artist/dcn1_page/dcnn.html)なんてのはまさにコレに他ならないかと。うーん。

重森誠仁重森誠仁 2004/08/05 23:11 はじめまして!

重森誠仁と申します。

いつも興味深く読ませていただいております☆ すごく読みやすい日本語をお書きになられますね。すごいなと思います。

人類学者を志すということですが、フィールド(=調査地)はどこに決めるのかなあと疑問に思いました。

どこに行って何をあなたは研究対象にするのか、非常に興味があります。

GenGen 2004/08/07 08:34  どうもはじめまして。お名前でググらせて頂いたところ、人類学を研究されていらっしゃるようですね。卒論から一貫してテーマを深めてゆく様に感動してしまいました。また、物語論的な立場やエスノメソドロジー、および浜本さんのようなアプローチには自分も魅力を感じているので、非常に参考になりました。
 フィールドをどこに定めるのかというご質問ですが、いくつか候補はあるのですが、絞り込めていないのが実情です。現在は心理学科に所属し、卒論も心理学的に書くことを要求されているというのも、テーマを絞り込めない一因ではあります。現段階ではフィールドへ向かう資金もありません。
 逆にお聞きしたいのですが、重森さんが妖術およびインドネシアに研究対象を定められたキッカケは何だったのでしょうか?もしかしたらHP中に記述があるのかもしれませんが、よろしかったらお聞かせ下さい。

重森誠仁重森誠仁 2004/08/07 22:28 Genさん。お返事ありがとうございます☆

私は自分自身の病を治すために人類学を専攻していました。世界に対する、自分自身が持つ「思い込み」から、自由になりたかったのです。私はその方法を人類学を専攻することによって求めました。

そんな私が、卒業論文を書く際に、インドネシアのバリを調査地として定めたキッカケは、卒論を書く準備をしなければならなかった大学3年の2月に、ちょうどその頃読んでいたベイトソンの『精神の生態学』にインスピレーションを受けて、実際にバリへ行ってみたことである、と現在私は解釈しています(↑これもひとつの物語なので、後でころころその内容は変化するかもしれません。しかし、今のところこのような物語を私は自自分自身に言い聞かせて納得しています…)。

バリで私は偶然タンカスという呪術師に出会い、彼の弟子となり、その体験をもとにして卒論を書きました。

もちろん、バリへの渡航費は、親からもらいました(私は「引きこもり」だったのでバイトなど到底できなかったのです)。

一方、私は修士課程においては、妖術を研究対象に定めました。これはその当時、私の指導教官であった浜本満の影響です。

「思い込み」から自由になれる方法さえ見つけることができるならば、研究対象は何でも良かったと言えます。

私のそばに浜本先生がいたので、私は呪い(≒妖術)について研究しておりました。

私は徹底的に自分自身を救うために人類学を専攻していたのですが、Genさんは知的好奇心にかられる形で、至極健康的に、人類学にひかれているようにお見受けしました。

あなたのように賢い人が、人類学を専攻してくれるのはとても嬉しいです。

面白くてマッドでとんがった論文を、いっぱい書いてくださいね☆

GenGen 2004/08/09 22:00  お返事をどうもありがとうございます。「自分が想像もしえなかったような新たな物語を知り/紡ぎたい」、これが私の知的好奇心の源ですが、重森さんの「自分自身の『思いこみ』から自由になりたかった」と似ているのかもしれません。あるいは決定的に異なっているのかもしれません。
 バリでの偶然の出会いを出発点になさったわけですか。でもそれは偶然のようで、偶然ではないのかもしれませんね。バリに行くというアクションを起こした時点で、何かを呼び込んでいたのかもしれない。とにかく、行動を起こさなければつながってゆかないということですね。参考になります。
 人類学は何かしらの救いをもたらしたのでしょうか?あるいはより突き落とされましたか?変な質問ですみません。
 いつかリアルワールドでお会いすることがあるかもしれません。自分は決して賢い種の人間では無いと思うのですが、とにかく、その時はよろしくお願いしますね。

重森誠仁重森誠仁 2004/08/10 22:23  Genさんの目標と、私のかつての目標は、同じものかもしれませんね。ただ私の方は、「なんらかの物語に自分は縛られている」と意識しすぎる点で、Genさんとは微妙に異なっているかもしれません。
 人類学は救いをもたらしたのか。うーん。分かりません。「救い」という言葉を、「楽になる」という意味をもつ言葉として、暫定的に定義するならば、私は人類学に救われたといえると思います。
 面白い人や面白い話にいっぱい出会えたし、人類学はとても楽しかったですよ。
 いつか会ったらいろいろ話しましょう☆

2004-07-31 早朝の文化人類学論

[] デザイナーのレセプションパーティに行ってきた@原宿FACTORY

 デンマーク人のヘンリック・ヴィブスコフ(HENRIK VIBSKOV)http://www.d-i-r-t-y.com/index2.html?first=http://www.d-i-r-t-y.com/guests/int_vibskov.html。パリコレにも出しているこれから伸びそうなデザイナーらしいけど、いやー業界人ばっか。さすがにトークきつすぎ。引き出しなし、所在なし。北欧特有の花火的な色遣いが印象的。

[] 文化人類学が表象するもの――博物館学的側面

 http://d.hatena.ne.jp/Gen/comment?date=20040721#cでのid:ecritsさんの

文化人類学者のやろうとしていることは、「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていくことなのか、それとも彼らの心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試みなのでしょうか?

という疑問への自分なりのコメントです。研究者、あるいは各々の研究が取るスタンスによってまちまち、というのがさしあたりの答えでしょうか。長ければ斜め読みして下さい。


 まず文化人類学には(学問アイデンティティとして)博物館学的な側面*1が多分にあるということ。この場合は<「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく>というよりも、研究者にとって目新しいもの(そして西欧近代文明の浸食により「失われつつある」もの)を収集・保存していくことが目的となります。「インドネシア博士」的な人類学者が(現在でも)たくさんいるのも、この目的に照らせば、納得できます。さながら歴史学における歴史記述のように。ただし「純粋にある文化の習俗を記述・保存する」ことは不可能だという自覚から、以下のような流れになっています。

研究対象との相互作用の産物」や、民族誌そのものの「時代的・社会的構築物」さらには「民族誌家の創造的思考の産物」ひいては「かつて研究対象となった人々が自己の集団の文化アイデンティティを構築する際の再帰的リファレンス」という意味まで付与されるようになった(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

研究者が純粋に収集・保存を試みても、もしかしたらそれは「近代西洋的な概念で読み解いて(目の前の現実を取捨選択して)」いるのかもしれません。表象行為が、特定の社会内部での社会的な実践であることが自覚されるにつれて、それが内蔵する政治性にも無自覚ではいられなくなり、民族誌の実践を、表象を産出する社会と表象される社会との間の政治的・経済的・文化的権力関係の中で捉え直す必要が生じてきた。そしてこうした諸問題を考え直す実践の場として文化人類学は存在しているともいえます。

[] 「文化」の分類・解釈・体系化を試みる文化人類学

 とはいえ、収集・保存だけではなく、「文化」に対する何らかの分類や解釈、体系化が行われるのが通例です。最も広範囲に用いられている方法は「比較」です。ひとつは機能主義や構造主義に代表される通文化的比較、もうひとつは歴史人類学に代表される通時的(歴史的)比較です。あるいは、象徴人類学では、「文化」を象徴的に解釈しようと試みます。ギアツの解釈人類学や山口昌夫の記号論もこれにあたるでしょう。レヴィ=ストロースはこう述べています。

……数百年後に、この同じ場所で、他の一人の旅人が、私が見ることができたはずの、だが私には見えなかったものが消滅してしまったことを、私と同じように絶望して嘆き悲しむことであろう。(レヴィ=ストロース、『悲しき熱帯』)

やはり人類学者は「データを解釈してなんぼ」という意識を持っているのでしょう。そしてデータを解釈する際に依拠する分析枠組みは当然自らが属する文化学問的)価値観であるので、研究者が意図せずとも「近代西洋的な概念で読み解いて」いるといえるでしょう。


 ただし、「文化人類学者のやろうとしていること」は、概して「近代西洋的な概念*2」自体を相対化することにあるといえます。レヴィ=ストロースも「私には見えない」と言うことでこのことを自覚しています。彼の代表的著作『野生の思考』は「未開の思考」が「科学的な思考」と変わるところが無いことを示そうとしました。彼は「近代西洋的な概念」を問うている。しかし同時に自らの分析(語り)に「未開」を回収してしまったともいえる。難しいところです。

[] 社会学文化人類学のの差異

 とある教授に「社会学文化人類学の違いはどこにあると考えるか?」と尋ねたところ、

社会学は、ある研究対象に対して、まずかちっとした分析枠組みを立て*3、その中で整合性をはかりながらしらみつぶしのように研究を行っていく。モダンな方法が用いられることが多い。一方、文化人類学では、その分析枠組み自体を問うところからスタートする。ぐるぐる迂回しながら探求してゆく。だから現在はどうしようもなく停滞してしまっている。でもこれは可能性でもある」

と述べていました。別の言い方をすれば

現代社会において、民族誌の意義が多義的であることは、文化人類学を天職とする研究者にとっては福音であるが、初学者や門外漢にとっては、むしろ「非科学的」ステレオタイプが貼られやすいことも事実である。(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

ともいえるでしょう。この文化人類学の「途方のなさ」に嫌気がさして、この前も、とある院生が退院し就職してゆきました。そんな現状です。


 たとえば統計学的手法を用いれば、ある調査地域のあるサンプルから全体(母集団)に対してどれだけのことがいえるのか、より科学的に根拠を持った形で示すことが出来る。しかしそれはあらかじめ存在する(統計という)分析枠組みに依拠することでもあり、むしろ(モダンな分析枠組みである)統計自体を問うものとして文化人類学は存在すべきなのではないか、ともいえます。他の例では、社会学心理学の領域において「質的研究」なるものが最近流行ってますが、質的研究(定性的研究)の方法論を精緻化することは、一方では科学的な信頼性を上げることだけれども、もう一方ではモダンな方法論に従属することでもある。文化人類学者の舵取りは難しいところです。唯一依拠できるのはフィールドワークのみなのだから。

[] emicとetic――文化人類学は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」るのか?

 id:jounoさんご指摘の<エミック/エティック>の対比は、言語学者K.パイクの<音素的な記述/音声的な記述>の対比に由来しますが、エミックな視点からの文化研究は、個別文化の内側から見て意味ある概念を見出そうとし、エティックな視点からは、どのような文化についても適用できるような概念研究者が体系化しようとします。エミックな視点からの研究は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」だとさしあたり言うことはできます。しかし

 文化人類学における「エミック」は、「人々が言うこと」や「人々の主観」と同じではない。むしろ問題は「人々が言うことが何を意味するか」である。エミックとエティックという明快な対比は、「エミック」が結局何を意味するか、そして内側の、現地の「住民の視点から」ものを見るとはどういうことか、ということ自体を問題としていかない限り、文化の分析にとって障害になる可能性がある。(『文化人類学キーワード』pp.8-9.)

という指摘が行われるに至っては、前述した表象の(権力)問題が絡んできて、一概に「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする」とは言えなくなります。<エミック/エティック>は明快に二分できるものではない。ただし、文化人類学の志向としては、「エミック」なアプローチが試みられる場合が多々あるようです。

 都市人類学は、都市の全体性を鳥瞰的に示すのではなく、どこか考察のプロセスであるいはその分析方向が指し示す延長線上で、都市の全体性の「断面」を示してその全体性を「示唆し」ながら、逆にきわめて繊細で微的な都市住民の「喜び」や「悲しみ、つらさ」の中の人びとの踏ん張りや営みを描こうとする。こうして、都市人類学は、心意という人間の心中にあるきわめて繊細な動きと、都市全体の構造性という巨大性とを架橋して、そしてあくまでも人間から都市へ、微細から巨大へ、部分から全体へ、下から上へという方向性をもって、都市社会の生活像を描くものであり、そこにオリジナリティがあると考える。(「都市に生きる人のための都市人類学」和崎春日文化人類学のフロンティア』所収)


 逆に「エティック」な文化人類学の試みとしてはマーヴィン・ハリスex.『ヒトはなぜヒトを食べたか』)が有名です。生態学的人類学など。うちのガチガチの実験心理学教授マーヴィン・ハリスを絶賛していたのが印象的。あるいはこれから盛んになると思われる進化論を取り入れた人類学的アプローチも「エティック」な試みにあたるでしょう。これはモダンな方法論(人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく)といえますね。

[] 文化人類学とは何か

 フィールドワークに重きをおいたアプローチ。

 眼前で展開される人々の生が不可解に見え、そこに自分が自明として理解するものとは異なる自明性と常識の世界があると思われれば、そこがフィールドとなる。(『文化人類学キーワード』pp.2-3)

 「未開」社会だけではなくマンガ産業のネットワーク病院も原子力発電所もなべて研究対象となる。

 方法論は百華絢爛。閉塞・停滞でもあり可能性でもある。モダンな方法論を疑う立場もあればモダンな方法論に則る立場もある。いずれにせよid:m-keatonさんが述べるように「表象する」とはいかなる営みなのかを絶えず問わねばならない。同じ「表象」でも表象文化論との違いは、おそらく(文化人類学においては)表象の快楽それ自体に身をまかせにくいこと。こんなところでしょうか。


#どなたかコメント欄で疑問・誤りを指摘していただけると幸いです。またロクなフィールド経験なく記述しているので、経験者の方のコメントなども頂けると嬉しいです。


#>id:ecrits たしかアガンベン専門?仏文の友人がアガンベンを専門にしています。興味深いですね。

[][] 神奈川新聞花火大会

http://allabout.co.jp/travel/travelyokohama/closeup/CU20020703/index.htm

 みなとみらいの花火大会。これは行こうかと。人混みも隅田川花火大会ほど多くないし雰囲気がよいのでオススメ。そして不思議なことに横浜の花火大会には「暗黙のルール」が存在しているという(http://blog.livedoor.jp/sin8/archives/4497944.html)。実証してみよっと。酒!酒!火薬の匂い!ムラムラくる。

[][] はてなQ:納豆のおいしい食べ方

http://www.hatena.ne.jp/1090926836

*1:「民俗学」は本質的にコレなのかもしれない

*2:自分自身が依拠している分析枠組み

*3イメージとしては立方体を組み立てる感じ

CaseyCasey 2007/07/15 13:16 http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-t.msqgvg.org <a href=”http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-h.msqgvg.org”>17cf13efb18d73999804118b416b2335</a> [url]http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-b1.msqgvg.org[/url] [url=http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-b2.msqgvg.org]17cf13efb18d73999804118b416b2335[/url] [u]http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-b3.msqgvg.org[/u] 56833615449d2f4ffa6890aa846f09ff

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