Genxx.blog*::Hatena

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2005-06-26 ラトゥール先生とipodバトン。BAR?

[][] 組織論について、おっと思わせるpdfいくつか

 これは力作というか、教科書というか。SINTEF Industrial Management "Safety and Reliability"

http://www.sintef.no/content/page1____5292.aspx

Organisational Accidents and Resilient Organisations: Five Perspectives

(組織の事故と弾力性ある組織について――5つの視角から)

Ragnar Rosness, Geir Guttormsen, Trygve Steiro, Ranveig K. Tinmannsvik, Ivonne A. Herrera

15.01.2004


Several major accidents are related to the interplay of organisational properties and technology. The aim of this report is to present a set of perspectives that can help us understand the organisational mechanisms related to major accidents. Five perspectives are discussed:


The energy and barrier perspective

The theory of Normal Accidents

The theory of High Reliability Organisations

The information processing perspective

A decision-making perspective


その他、読んで楽しい

"Defining and Assessing Safety Culture in High Reliability Systems: An Annotated Bibliography"

(高信頼性システムにおける安全文化を定義/評価する――注釈付きの関連文献目録)

http://www.humanfactors.uiuc.edu/Reports&PapersPDFs/TechReport/01-12.pdf

みんなのプロフィールみんなのプロフィール 2006/08/29 09:14 ブログ開設おめでとうございます!!

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ふぇじょーーーあwwwwふぇじょーーーあwwww 2009/06/13 17:47
これヤった後でパチ屋に行ったら勝率上がりすぎwwwwww

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ただの軍資金稼ぎのつもりでヤってたんだけど、
パチも負けねーもんだから金が余りまくりっす・・(^^;
まー金は余っても困らないからまだ続けるけどねーヽ( ・∀・)ノ
とりあえずBMWでも買うわwwwwwww

むきゅっもきゅっ?むきゅっもきゅっ? 2009/06/20 16:46
いつもマヌコに空気入れてブリブリ音出させて遊んでんだけど
昨日の女動物の鳴き声みたいな変な音出たwwwwwwww
かなり締まりのイイ女だったんだがもしかしてそれが理由かな?
5万しか貰えなかったけどある意味貴重な経験出来たからおkだろwww

http://ahan.yumenokuni.net/I5FHYmA/

ち んち んは不景気知らずち んち んは不景気知らず 2009/06/20 22:11
世間は不況で騒がしいけど、はっきり言って俺には無縁だねw
ち ん こ触らせてあげて顔にぶっかけてあげるだけで5万貰えるしw
いやー世の中チョロイっすわwwwwwww

http://dopyun.quitblue.com/HnGVSNa/

ぴゅるるるるーwwwwぴゅるるるるーwwww 2009/07/18 19:05
イエーイ!なんかテキトーにやってたらヒモ彼女4人ゲットしちゃったよwww
毎月一人10万づつ貰ってるからとっくにバイト辞めたしヽ(´ー`)ノフォウ!
そろそろ引越したいから後2人くらい増やしとくわぁwwwwwwww

http://VYw0RIY.okane.torya-acha.com/

ネトゲ廃人ぽにゃたの場合ネトゲ廃人ぽにゃたの場合 2009/07/24 16:41
働かざるものヤルべし!!!ほんと働いたら負けだわ(´Д`;)
オレ真面目に会社員やってたけど、今はその頃より月の稼ぎ3倍だよ?
初めてヤった時は4万だけだったけど、今じゃ平均一回7万だかんなwww
もうアフォらしくて会社員ヤメたしwwwww 毎日ネトゲ最高wwww

http://UNQhg5h.netoge.bolar.net/

リモコンロ-タ-最高すぐるwwwwリモコンロ-タ-最高すぐるwwww 2009/08/01 14:52
一発普通にヤった後で報酬5万もらって、女と一緒にパチ-ンコ行ったの!!(リモコンロ-タ-装着させた状態でwww)
隣同士で打ってたんだけど、アツイ演出の時にタイミングよくスイッチ押してヴィンヴィンさせたら凄い表情で手足ガクガクしてて超エ口かったよ・・・wwww
女が席立ったらイスがビチョビチョwww さすがにやりすぎたみたい(^^;

http://sekurosu%2eprotobem%2ecom/9gOpGDF/

おっぷぁい!ぷぁい!おっぷぁい!ぷぁい! 2009/08/04 15:37
しばらくお互いに愛撫し合ってたら、女が急にカバンから蜂蜜取り出してボクのティンポに塗りたくってきてパイズリ始めたからビックリしたよ(^^;
パイズリされつつ蜂蜜塗られてティンポしゃぶってもらっての繰り返しで、気持ちよすぎて気がついたら3回イったしwww 俺淡白なのにすげwwwwww
やっぱ巨乳で工口工口な女が一番だよねーヽ(゜∀゜)ノヒャッヒャッ!!

http://ene.creampie2.net/VDWoHQE/

ぎょはぁ!!!!!ぎょはぁ!!!!! 2009/08/08 11:32
ヘイヘイ!!あひひひほはぁwwwwwww ちょwwいきなりごめwwwwww
寝てるだけで5 万もらっちゃって真面目な自分がヴァカらしくなってさwwwww
はぁーいま女シャワー浴びてんだけど、もう1ラウンドでまた5 万くれるってYO!wwwwww
またマグロでさっさと中 出 しするわwwwwwwwww

http://kachi.strowcrue.net/1nPxsAT/

ケ ツ コ キ!!!!!!!!!ケ ツ コ キ!!!!!!!!! 2009/08/15 12:48
すんげえケ ツでかい女に当たった!!! コイツのケ ツ 技すぎすぎwwwww

ケ ツにロ -ショ ン塗りたくって、俺のティ ヌコ挟んですんげー前後すんの!!!
前後してる時にク リに当たったりマ ヌ コに入ったりして
女もアヒアヒしまくりで俺も女も絶 頂しまくりで最高ですたwwwwwww

こりゃハマるわぁ・・・・

http://yuzo.plusnote.net/0hByR78/

メタボがアチイメタボがアチイ 2009/08/22 11:39
なんか俺妙に人気すぎるから昨日ハ メ ハ メした女の子に
理由聞いてみたら今メタボ超人気なんだってさ!!!!

お腹のポニョポニョだけじゃなくて包 茎が多いのも
ポイント高いっていうまさかのメタボ包 茎フィーバーwwwwwww

今月もうちょいで8 0 万貯まるし家でネトゲしまくって体型維持するわwww

http://okane.d-viking.com/TBo36pm/

マグローニャマグローニャ 2009/08/26 14:05
もう動くのもマンドクセーから家に来てもらってんのよ。
オレはネトゲに必死で女はフ ェ ラに必死というカオス状態wwwwwww
なんでか毎回3 万貰えてるしイミフすぎwwww

これ始めた俺歓喜www 金無しニートのオマイら涙目wwwww

http://koro.chuebrarin.com/weLf4X4/

2005-02-13 進化論の歴史の整理

[][][] ダーウィン以前

 どうも○○学ってのがごっちゃになってしまうので、佐倉統さん流のまとめかたを叩き台にしてみるテスツ。


 進化論の歴史的な変遷は、他のすべての科学と同様、キリスト教と密接な関係にあった。

 18世紀の時代思想がまずあった。18世紀の西洋生物学とは、自然=神の摂理の探求を行う学問であった。このパラダイムの柱となったのはふたつ、不変論とデザイン論。

 不変論は、すべての生物種は神がその完全性を示すために想像したものであり、その性質は不変であるとする。デザイン論は、自然が巧みに設計され整然と秩序づけられていることを明らかにすることによって、神のすばらしさが証明できるというもの。

 種の不変論とデザイン論を否定する立場があらわれるのは19世紀になってから。フランスでは大革命の影響で、啓蒙思想の流れをくむ唯物論的機械論が18世紀から盛んだった。その影響を圧倒的に受けたのがラマルク。唯物論的かつロマン主義的な進化論を提唱。

 ラマルクの説は

 使用頻度の高い器官は発達し、不必要で使用頻度の低い器官は退化して、そのような変化が子孫に遺伝すると考えた(用不用説)

これは「獲得形質の遺伝」的考えであり、完全にアウト。

 さて、ダーウィンに影響を与えたのは‥1.チャールズ・ライエルの地質学。浸食現象を考察したライエルから引き出されたのは

 現在も観察できる微細な変化が過去の大きな変化の原因であるという視点。

 もうひとつが2.トーマスマルサスの経済理論(『人口論』)。

 「人口は等比級数的に増えるが食糧資源は等差級数的にしか増えないために、資源を巡って生存競争が常に生じる」(人口論、1798年)


[][][] ダーウィン

 1858年、リンネ学会で、同時期に同様の理論に思い至ったウォレスと共に発表。1859年、『種の起源』を出版。ちなみにダーウィン理論の大枠は1838年には決まっていたらしいが。


[][][] ダーウィン以後

 ダーウィン死後は凋落の一途をたどった進化論。自然選択理論が支持されていたというよりも、

 現象としての進化とその唯物論的・進歩的な解釈という「周辺部分」のみが、ドーナツのように残されることになった。かくして、19世紀末から20世紀にかけて、社会進化論や優生学が隆盛することになる。

 その後は‥

メンデルの遺伝理論の再発見(1900年)

 ダーウィンの自然選択理論は連続的(アナログ的)に変化するということを重視。一方メンデルの遺伝理論は突然変異によって生物の形質が離散的(デジタル的)に変化することを強調。したがって「ダーウィン理論は過去の遺物だ」と見なされるようになる。しかし遺伝理論の発見は後に進化論を支える土台となる。


★フィッシャーらによる集団遺伝学の確立(1920年代後半)

 一個体で見れば、ある形質(A)から別の形質(B)に離散的に変化するとしても、遺伝子プールという集団全体でみた場合には、Aの頻度とBの頻度が少しずつ[連続的に]変化していくというのが進化のプロセスである。

 つまり集団遺伝学はダーウィン理論メンデル理論を融合させた。メンデル的突然変異も、集団レベルの進化ではダーウィン的な振る舞いを示すのだ。


★ローレンツとティーンバーゲンによる動物行動学(ethology)の確立(のちにノーベル賞受賞)

 「形態から行動へ」――動物行動学が確立するまで、進化研究の対象になっていたのは、おもに生物の形だった。ダーウィン自身は動物の行動や生態、さらには心理的過程まで視野に入れていたが、忘却されていた。ふたたび行動を射程に入れたのがローレンツの功績。行動の進化系統の復元。彼は「動き」も「形」として捉えていたのだ。


社会生物学(sociobiology)の確立(1970年代

 社会生物学とは、動物行動学を集団生物学化したもの。つまり、動物の行動の進化から、社会行動の進化へと視点が移動した。それにともない、集団生物学ゲーム理論といった、集団を扱う他分野との接近も進んだ。E.O.ウィルソンの著書から採られた名前。


遺伝子を進化の主役に据える視点の確立

 それまでは「種の保存」のために生物は振る舞うというトンデモが信じられていた。遺伝子を中心にして進化を考えるという視点の転換が行われて、科学的な精緻さが上がった。1964年にウィリアム・ハミルトン利他行動の進化を説明する理論を提出し、1976年ドーキンスが「利己的な遺伝子」という強烈なキャッチコピーで普及させた。


分子生物学の確立(1950年代

 遺伝子の構造がつきとめられた。クリックワトソンによる二重らせん構造の発見。DNAの立体構造の発見。遺伝子(遺伝情報)がどのようにして生物の固体を作り上げているのか、そのプロセスの解明への道が開かれた。これによって、研究対象が生物個体だけではなく分子へもシフトしていった。生物の系統分類を、タンパク質DNAの構造をもとにすすめていく分子系統学の発展。


情報科学との相互交流(1970年代以降)

 生物の進化が情報の言葉で語られるようになる。1973年、ジョン・メイナード・スミスゲーム理論動物の行動に適用。分子レベルのデータ解析はコンピューターの発展により可能となった(情報科学→生命科学)。一方、サイバネティクスや遺伝アルゴリズムによるプログラム開発など、生命科学の業績が情報科学にも環流される(生命科学情報科学)。つまり、相互乗り入れ。


アルゴリズムとして進化論を捉える(ダニエルデネット

 アルゴリズムは、素材が何であるかということに依存しない。つまりダーウィンの自然選択の理論は、"if A, then B"形式で書かれているアルゴリズムなのであり、あらゆるものに適応させられる可能性を持っている。生命情報論。ミームという名のもとに文化的プロセスも解明できる可能性。


 まぁ、「進化理論トートロジーである」とか得意げに吹聴してる香具師は、進化論のかわりとなる説得力あるモデルを提示してみろってこった。良いモデルとは、「1.その理論を通すと新しい何かが拓ける、2.よりシンプルに多くの事象を説明できる」もの。進化論そのものへの批判はあまりに説得力に欠けるものが多い。どのように進化論を受容すれば良いのか、どのように進化論を取り込みながら新たな社会的規範ないし倫理を築いてゆくのか。それこそ考えるべき問題なんじゃないかな。

 あとは「利己的な遺伝子」ってのも遺伝子が生き延びてくわけじゃなくて、純粋に受け継がれるのはあくまで情報なんだよな。忘れがちだけれども。

参考:

進化論という考えかた
佐倉

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進化論の挑戦
佐倉

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2005-02-08 「文化」そのものから「空間・流通としての文化」へ

[][] 文化は各個人がもっているものなの?

 久々に文化人類学らしく。素晴らしく豊かな、浜本満さんの論を自分で消化するための引用+少々考察エントリー。引用部以外は浜本さんの論ではなく、私の稚拙な考えなので誤解なきよう。

http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/1.html

 文化は集団の保有する、その集団に固有のものであるとされている。しかしそもそも集団なるものは認識したりせず、結局認識とは個々人がおこなう作業なのであるから、認識体系のようなものがあるとすれば、それは少なくとも個人が持っているものでないことには話にならないだろう。さらに行動し、感情を持ち、感覚するのも、結局は集団ではなく個々人なのであるから、こうした「固有の体系」も個々人が各自もっているという形でしか想像しようがない。要するに「集団に固有の」ということは単に「集団の誰もがもっている」という意味なのだということになる。この定義では文化とは、個に対する類としてのカテゴリーの属性、その成員の共通属性とされるしかないことがわかる。

 しかしそこ[フィールド]で実際に記述されるものは、複数の人々の語りの共通部分や平均をとったものであることなどまずなく、むしろ前述したような[研究者による]総合と体系化の手続きの産物であり、とても[現地の]一人の個人には原理的に回収できない代物である。つまりこうした文化概念は、とんでもない自己撞着を含んだものになってしまっているのである。それをあくまでもその集団の成員全員がひとしく、あるいは平均的に持っているものだと主張するとき、人類学は文字通り、人間についての一つの歪んだ博物学となり、一つの集団を均質で硬直したものに描いているという批判をまさに甘んじて受けるべきものになる(eg. Rosaldo 1989: 43)。

 実に鋭い。

 人類学の記述の対象であるこうした知識体系を、個人と集団、個と集合態の軸上で想像するのはそろそろ止めたほうがよくはないだろうか。

 これは文化人類学への批判となるのみならず、「文化」の名を冠する学問すべてが真剣に理論的考慮すべき問題ではないだろうか。たとえば文化心理学。通常の心理学は、各個人の心性単一性を仮定し、文化を変数として扱う。したがって上記の問題は一応クリアしている。しかし、文化心理学が

「心理プロセスは文化の内容をなかに取り込むことにより成立し、それらに囲まれることにより維持され、同時に、文化の内容は心のプロセスの活動そのものを映し出している。つまり、心と文化歴史的循環のなかで互いに生成しあうものである。(中略)この意味において、文化は実質的に心を作り上げており、また同時に、文化そのものも多くの心がより集まって働くことによって維持・変容されていく」(北山忍編『文化心理学』、東京大学出版会)

と自らを定義するとき、そこで想定されている「文化」とは一体何であろうか。通例用いられる文化心理学のパラダイムは、日本人=集団主義的(相互協調的自己観)、欧米人=個人主義的(相互独立的自己観)というものだ。ここで「自己観」というタームに注意して欲しい。たしかに個人個人の「自己観」を実験的に調べることはできるだろう。そして、集団内の各個人の自己観(の傾向)が一致し、それを「文化的自己観」という共通要素として描ける可能性はあるだろう。


 では、各個人が持つ、文化に関する「自己観」はどのように形成されるのか。自己観は常に外部との差異によって構築される。実体論的にではなく、関係論的に。他の集団に属する個人との具体的接触によって、あるいは差異を体系的に描く学問的言説によって。通例外国人との接触は稀なので、むしろ言説効果の方が大きいといえるだろう(入試現代文なんかはまさに国民性論の再生産装置)。研究者・文筆家が描くコスモロジーは、直接的ないし間接的に、言説空間を形成する。


 浜本はオースティンの<陳述(statement)/文(sentence)>の区別を援用した上でこう続ける。

 私は人類学がこれまでコスモロジーあるいは文化、世界観などのさまざまな名前で呼び、誤ってなんらかの集団の保有物であるかのように想像してきたこうした知識を、ある種のネットワーク的な空間に帰属するものとして想像しなおそうと思う。私はこの空間をさしあたって言説空間と呼んでおくことにする。

 ‥「文」とは要するに、陳述の個別性や出来事性を取り去られ、他者の陳述に移植可能となった語りの姿である。組み替えられたり変形されたりして、その都度の陳述を形成しながら人から人へと受け渡され流通してゆくという、この「文」としての側面は語りにとって付随的なものであるどころか、その本質である。この移植可能性こそ、コミュニケーションを可能にする根拠でもある。

 我々はこうした「文」が、個別的な陳述を介して流通、転移、変形、結合していく空間を想像してみることが出来る。その都度の陳述が形作るコミュニケーションの、絶えず形を変える網の目状の連鎖が形づくるその空間には当然、明確な境界もないし、地理的な空間と同じ広がりを共有するわけでもない。‥こうした想像上の空間を言説空間と呼ぶことにする。‥この空間を構成しているのはコミュニケーションの網の目であるから、空間という言葉を用いてはいるものの、それが同時に時間的な存在――時間のなかで形を変えつつ自己形成していく存在――であることも言うまでもないだろう。

 その上で文化人類学の役割は以下の通り再定義される。

 「文」の流通という角度から見たとき、この空間での我々の語りの行為は一種の伝言ゲームに似た側面をもってくる。この空間の主人公を、変形したり組み替えられたりしながら流通していく語りそのものであると捉えたとき、語る主体の方は、どこかからもたらされた無数の語りを受け取り、それを自らの貯蔵庫に一時保持したり、組み替えたり変形させたりしながらさらに別のポイントに送り出す中継ポイントのようなものとしてイメージされるだろう。

 ‥きわめて局所的な空間を循環する伝言ゲームがある一方で、よりグローバルな、たとえば英国や日本に端を発する伝言ゲームがこの空間を横切っていくかもしれない。こうして「文」たちは、この仮想空間上に複雑な模様を描き出す。人類学者が取り出そうとする体系性とは、まさにこのパターン、流通する「文」たちを要素とする上位の体系性の片鱗なのである。

 極めて極めて大事な指摘は、

 知識がこの空間に帰属しているということは、それがこの空間の網の目を構成している中継ポイントたち――語る主体たち――によって共有されているということでもなければ、そのどこかに局在しているということでもない。知識がこの空間を流通しているということこそが、まさに知識がその空間に帰属しているということである。

というものだ。「流通」はもちろんメディアを通じても行われる。したがってマスメディアが跋扈する現代では、(見かけ上実体的な)「文化」の平準化が起こりやすいのだろう。ここに感染するものとしての「ミーム」という、うさんくさい概念を持ち込んでも一定の面白さはあるのだが、それはまた別の機会に。 


 もちろん単なる「伝言ゲーム」ではなく、語りは不断に生成・変容されてゆく。

 語りがまずもって陳述であること、つまりつねに具体的な個人による具体的な実践であることをもちろん忘れてはならない。人は語ることにおいて、単なる複製の流布を意図しているわけではない。

 さらに浜本の考察は冴えわたる。

 遊戯の伝言ゲームで、‥受け取っては次に転送している一連のメッセージが、後から振り返ってみれば互いに関係しあっていたと判明したとしても、それはメッセージの中継ポイントに過ぎない個々の語り手のあずかり知らぬことである。現実の言説空間においても、個々の主体がそれぞれ一回きりの陳述行為のつもりでおこなっている、反復・移植可能な「文」の転送ゲームが浮かび上がらせてしまうパターンや体系性を、語る個々の主体のみに帰すことは出来ない。それは個人にも、集団にも回収させることの出来ない体系性であり、まさにそのことこそ体系性が<社会的に>形成されたものであると言うことの意味なのである。

 各個人は一回きりの実践を行っていても、外部の観察者にとっては、いわば創発的性質として「文化」が(見かけ上、実体的に)立ち上がる。その創発的性質が強力な言説を形成し、また人々の一回きりの実践現場に接続される。

 さて、その上でかまびすかしい「研究者が語る権利」なるものを考えるとどうなるのか。浜本はこう述べる。

 おそらく、言説空間とそこを流れる語りたちが作り上げる体系性をトータルに対象化しうるような特権的な位置が存在するわけではない。言説空間は、その外部からは単なる無でしかなく、そこに接続することを通じてのみその姿を開示する。‥そして言説空間への接続はつねに、歴史的に限定された個別の実践であるので、その姿は特定の接続点からの特殊な景観以上のものにはなり得ない。まさにこれこそが人類学者のフィールドでの実践であり、その結果彼に与えられるものである。‥こうした接続を通じて人類学者が職業的に遂行している、さまざまな観測点における測量作業のような実践は、この空間に帰属しそこを流れる「文」たちを同定し、その相互の関係を明らかにしようとする作業だったのだと言えるかも知れない。

 さしあたって、自分の語りの位置を、どこまでも自覚するほかないようだ。


 わたしが考えねばならない問題は、1.流通する語りとしての「文化」と、行動(認知・感情)としての「文化」の関係。2.流通する語りとしての「文化」と、既に存在している制度としての「文化」との関係。3.流通する語りとしての「文化」と、(状況論的な)「道具」との関係。4.流通する語りとしての「文化」と、生態学的環境(あるいはアフォーダンス)との関係。5.言説をストックするサーバーとしての書物の問題。

 もちろん浜本さんの文献を読み進めれば、論点はより整理されるのだろう。でも、認知の問題を持ち込むと、いささか複雑さは増してくるように思われ、鬱。


 また、かつてhttp://d.hatena.ne.jp/Gen/20041224#p8に引用した福島さんの問題点

「ある意味で、社会的行為というのは、こうした[即興性と構造性のあいだの]スペクトラムのどこか中間点に位置づけられるものであるのは間違いない。そして、この行為の全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化が可能になる」

と重ね合わせるならば、行為の一回きり・即興的な側面と、構造として比較的安定する側面とを、グラデーションにおいて考えなければならなくなる。つまり<陳述=一回きり/文=流通過程>の二分法は妥当するのか?(ルーマンなら「二分してるからこそグラデーションとか言えるんだろヴォケ」とかいいそうだけれども)

 

 最後に。ちなみに、文化心理学は、「自己観」と実際の行動との関係を、こう捉えている。

 自己観は「行動・認知・感情」に影響を与える。ゆえに、そのような自己観を抱いた人々が構成する社会は、そのような自己観を反映するものになる。

 この点こそがまさに焦点なのだ。自己観=語り=物語的世界=意味論的世界と、行動・認知・感情との関係が、いかにも不明瞭だ。「科学」を騙るならば、この点はもう少し問いつめたい。(もしかしたら私が知らないだけで理論的解消された文献がどこかにあるのかも)

flapjackflapjack 2005/02/08 20:44 はじめまして。浜満、いいっすよね。ところで、流通する語りとしての「文化」については、「表象の疫学」を提唱するダン・スペルベルの『表象は感染する−文化への自然主義的アプローチ』(ISBN:4788507781)が筆頭だと思うのですが、浜満はここでは言及してないような。ともかく、スペルベルは人類学と認知の掛け橋そのものみたいな人ですから、認知との関連でもはずせない。門外漢ながらたいへん展開が楽しみです。
 あと、文化心理学といえば最近少しうれたリチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人森を見る東洋人 思考の違いはいかにして生まれるか』』(ASIN:4478910189)(原著はThe Geography of Thought: How Asians and Westerners Think Differently...and Why (ISBN:0743255356)が浮かぶのですが、Genさんの問いは重要だし、興味深いと思いますhttp://d.hatena.ne.jp/flapjack/20041002#p2で文化人類学者によるこの本の書評を引いています)。

GenGen 2005/02/09 00:08 flapjackさん、はじめまして。認知=人類学者であるスペルベルはもうひとつ突き抜けてくれると有り難いんだけどなぁ、と個人的に思います。浜満さんは認知というよりは言語行為論的に文化人類学を突き詰めている印象が。
 リンク先のSherry Ortnerの書評、読ませて頂きました。至極まっとうな批判だと思います。が、文化心理学者も、どうせなら世界各地の心理学科で実験→データを突き合わせて因子分析→「文化」要素のクラスターを発見、なんてやってもらいたいものです。それでも実験の被験者となるのは大学生だけだろうから、それをもって当該「文化」全般を代表する「科学的」データだなんて言われると狼狽しますが‥
 なお、私が所属している心理学研究室でも「文化差はない」というデータが出ています。参考までにどうぞ。http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~takano/j/j-prof.html#3-3

flapjackflapjack 2005/02/10 07:39  たしかに、浜満とスペルベルとでは、同じような文化の見方に、ちょっと違った角度から行き着いているかんじがしますね。しかし、スペルベルに「もう少し突き抜けてくれると」ってすごい要求ですね。
 それはともかく、文化心理学がらみで紹介してくださった高野陽太郎さんのサイトで、高野=北山忍論争というのがあったとははじめて知りました。北山忍さんってネスビットの本での「実験」に協力していた先生ではなかったでしょうか(ネスビットの本がどこにいったか見当たらず確かめることができなかったのですが)。いや、勉強になります。

GenGen 2005/02/13 04:07 北山さんとネスビットは共著論文をいくつか書いているはずです。日本で文化心理学といえば京大と北大が二大拠点だというイメージがあります。21世紀COE「心の文化・生態学的基盤」なんてのも面白いかもしれません。http://lynx.let.hokudai.ac.jp/COE21/outline/index.html 研究費の羽振りも良いみたいですね。。

2004-08-04 日本の夏、読書の夏。

[][][] 日本語が使える質的データ分析ソフト発売!

 http://www.atlasti.com/atlasti5.shtml だそうです。

重森誠仁重森誠仁 2004/08/05 23:11 はじめまして!

重森誠仁と申します。

いつも興味深く読ませていただいております☆ すごく読みやすい日本語をお書きになられますね。すごいなと思います。

人類学者を志すということですが、フィールド(=調査地)はどこに決めるのかなあと疑問に思いました。

どこに行って何をあなたは研究対象にするのか、非常に興味があります。

GenGen 2004/08/07 08:34  どうもはじめまして。お名前でググらせて頂いたところ、人類学を研究されていらっしゃるようですね。卒論から一貫してテーマを深めてゆく様に感動してしまいました。また、物語論的な立場やエスノメソドロジー、および浜本さんのようなアプローチには自分も魅力を感じているので、非常に参考になりました。
 フィールドをどこに定めるのかというご質問ですが、いくつか候補はあるのですが、絞り込めていないのが実情です。現在は心理学科に所属し、卒論も心理学的に書くことを要求されているというのも、テーマを絞り込めない一因ではあります。現段階ではフィールドへ向かう資金もありません。
 逆にお聞きしたいのですが、重森さんが妖術およびインドネシアに研究対象を定められたキッカケは何だったのでしょうか?もしかしたらHP中に記述があるのかもしれませんが、よろしかったらお聞かせ下さい。

重森誠仁重森誠仁 2004/08/07 22:28 Genさん。お返事ありがとうございます☆

私は自分自身の病を治すために人類学を専攻していました。世界に対する、自分自身が持つ「思い込み」から、自由になりたかったのです。私はその方法を人類学を専攻することによって求めました。

そんな私が、卒業論文を書く際に、インドネシアのバリを調査地として定めたキッカケは、卒論を書く準備をしなければならなかった大学3年の2月に、ちょうどその頃読んでいたベイトソンの『精神の生態学』にインスピレーションを受けて、実際にバリへ行ってみたことである、と現在私は解釈しています(↑これもひとつの物語なので、後でころころその内容は変化するかもしれません。しかし、今のところこのような物語を私は自自分自身に言い聞かせて納得しています…)。

バリで私は偶然タンカスという呪術師に出会い、彼の弟子となり、その体験をもとにして卒論を書きました。

もちろん、バリへの渡航費は、親からもらいました(私は「引きこもり」だったのでバイトなど到底できなかったのです)。

一方、私は修士課程においては、妖術を研究対象に定めました。これはその当時、私の指導教官であった浜本満の影響です。

「思い込み」から自由になれる方法さえ見つけることができるならば、研究対象は何でも良かったと言えます。

私のそばに浜本先生がいたので、私は呪い(≒妖術)について研究しておりました。

私は徹底的に自分自身を救うために人類学を専攻していたのですが、Genさんは知的好奇心にかられる形で、至極健康的に、人類学にひかれているようにお見受けしました。

あなたのように賢い人が、人類学を専攻してくれるのはとても嬉しいです。

面白くてマッドでとんがった論文を、いっぱい書いてくださいね☆

GenGen 2004/08/09 22:00  お返事をどうもありがとうございます。「自分が想像もしえなかったような新たな物語を知り/紡ぎたい」、これが私の知的好奇心の源ですが、重森さんの「自分自身の『思いこみ』から自由になりたかった」と似ているのかもしれません。あるいは決定的に異なっているのかもしれません。
 バリでの偶然の出会いを出発点になさったわけですか。でもそれは偶然のようで、偶然ではないのかもしれませんね。バリに行くというアクションを起こした時点で、何かを呼び込んでいたのかもしれない。とにかく、行動を起こさなければつながってゆかないということですね。参考になります。
 人類学は何かしらの救いをもたらしたのでしょうか?あるいはより突き落とされましたか?変な質問ですみません。
 いつかリアルワールドでお会いすることがあるかもしれません。自分は決して賢い種の人間では無いと思うのですが、とにかく、その時はよろしくお願いしますね。

重森誠仁重森誠仁 2004/08/10 22:23  Genさんの目標と、私のかつての目標は、同じものかもしれませんね。ただ私の方は、「なんらかの物語に自分は縛られている」と意識しすぎる点で、Genさんとは微妙に異なっているかもしれません。
 人類学は救いをもたらしたのか。うーん。分かりません。「救い」という言葉を、「楽になる」という意味をもつ言葉として、暫定的に定義するならば、私は人類学に救われたといえると思います。
 面白い人や面白い話にいっぱい出会えたし、人類学はとても楽しかったですよ。
 いつか会ったらいろいろ話しましょう☆

2004-07-31 早朝の文化人類学論

[] 文化人類学が表象するもの――博物館学的側面

 http://d.hatena.ne.jp/Gen/comment?date=20040721#cでのid:ecritsさんの

文化人類学者のやろうとしていることは、「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていくことなのか、それとも彼らの心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試みなのでしょうか?

という疑問への自分なりのコメントです。研究者、あるいは各々の研究が取るスタンスによってまちまち、というのがさしあたりの答えでしょうか。長ければ斜め読みして下さい。


 まず文化人類学には(学問のアイデンティティとして)博物館学的な側面*1が多分にあるということ。この場合は<「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく>というよりも、研究者にとって目新しいもの(そして西欧近代文明の浸食により「失われつつある」もの)を収集・保存していくことが目的となります。「インドネシア博士」的な人類学者が(現在でも)たくさんいるのも、この目的に照らせば、納得できます。さながら歴史学における歴史記述のように。ただし「純粋にある文化の習俗を記述・保存する」ことは不可能だという自覚から、以下のような流れになっています。

研究対象との相互作用の産物」や、民族誌そのものの「時代的・社会的構築物」さらには「民族誌家の創造的思考の産物」ひいては「かつて研究対象となった人々が自己の集団の文化的アイデンティティを構築する際の再帰的リファレンス」という意味まで付与されるようになった(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

研究者が純粋に収集・保存を試みても、もしかしたらそれは「近代西洋的な概念で読み解いて(目の前の現実を取捨選択して)」いるのかもしれません。表象行為が、特定の社会内部での社会的な実践であることが自覚されるにつれて、それが内蔵する政治性にも無自覚ではいられなくなり、民族誌の実践を、表象を産出する社会と表象される社会との間の政治的・経済的・文化的権力関係の中で捉え直す必要が生じてきた。そしてこうした諸問題を考え直す実践の場として文化人類学は存在しているともいえます。


[] 「文化」の分類・解釈・体系化を試みる文化人類学

 とはいえ、収集・保存だけではなく、「文化」に対する何らかの分類や解釈、体系化が行われるのが通例です。最も広範囲に用いられている方法は「比較」です。ひとつは機能主義や構造主義に代表される通文化的比較、もうひとつは歴史人類学に代表される通時的(歴史的)比較です。あるいは、象徴人類学では、「文化」を象徴的に解釈しようと試みます。ギアツの解釈人類学や山口昌夫の記号論もこれにあたるでしょう。レヴィ=ストロースはこう述べています。

……数百年後に、この同じ場所で、他の一人の旅人が、私が見ることができたはずの、だが私には見えなかったものが消滅してしまったことを、私と同じように絶望して嘆き悲しむことであろう。(レヴィ=ストロース、『悲しき熱帯』)

やはり人類学者は「データを解釈してなんぼ」という意識を持っているのでしょう。そしてデータを解釈する際に依拠する分析枠組みは当然自らが属する文化学問的)価値観であるので、研究者が意図せずとも「近代西洋的な概念で読み解いて」いるといえるでしょう。


 ただし、「文化人類学者のやろうとしていること」は、概して「近代西洋的な概念*2」自体を相対化することにあるといえます。レヴィ=ストロースも「私には見えない」と言うことでこのことを自覚しています。彼の代表的著作『野生の思考』は「未開の思考」が「科学的な思考」と変わるところが無いことを示そうとしました。彼は「近代西洋的な概念」を問うている。しかし同時に自らの分析(語り)に「未開」を回収してしまったともいえる。難しいところです。


[] 社会学と文化人類学のの差異

 とある教授に「社会学と文化人類学の違いはどこにあると考えるか?」と尋ねたところ、

社会学は、ある研究対象に対して、まずかちっとした分析枠組みを立て*3、その中で整合性をはかりながらしらみつぶしのように研究を行っていく。モダンな方法が用いられることが多い。一方、文化人類学では、その分析枠組み自体を問うところからスタートする。ぐるぐる迂回しながら探求してゆく。だから現在はどうしようもなく停滞してしまっている。でもこれは可能性でもある」

と述べていました。別の言い方をすれば

現代社会において、民族誌の意義が多義的であることは、文化人類学を天職とする研究者にとっては福音であるが、初学者や門外漢にとっては、むしろ「非科学的」ステレオタイプが貼られやすいことも事実である。(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

ともいえるでしょう。この文化人類学の「途方のなさ」に嫌気がさして、この前も、とある院生が退院し就職してゆきました。そんな現状です。


 たとえば統計学的手法を用いれば、ある調査地域のあるサンプルから全体(母集団)に対してどれだけのことがいえるのか、より科学的に根拠を持った形で示すことが出来る。しかしそれはあらかじめ存在する(統計という)分析枠組みに依拠することでもあり、むしろ(モダンな分析枠組みである)統計自体を問うものとして文化人類学は存在すべきなのではないか、ともいえます。他の例では、社会学や心理学の領域において「質的研究」なるものが最近流行ってますが、質的研究(定性的研究)の方法論を精緻化することは、一方では科学的な信頼性を上げることだけれども、もう一方ではモダンな方法論に従属することでもある。文化人類学者の舵取りは難しいところです。唯一依拠できるのはフィールドワークのみなのだから。


[] emicとetic――文化人類学は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」るのか?

 id:jounoさんご指摘の<エミック/エティック>の対比は、言語学者K.パイクの<音素的な記述/音声的な記述>の対比に由来しますが、エミックな視点からの文化研究は、個別文化の内側から見て意味ある概念を見出そうとし、エティックな視点からは、どのような文化についても適用できるような概念を研究者が体系化しようとします。エミックな視点からの研究は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」だとさしあたり言うことはできます。しかし

 文化人類学における「エミック」は、「人々が言うこと」や「人々の主観」と同じではない。むしろ問題は「人々が言うことが何を意味するか」である。エミックとエティックという明快な対比は、「エミック」が結局何を意味するか、そして内側の、現地の「住民の視点から」ものを見るとはどういうことか、ということ自体を問題としていかない限り、文化の分析にとって障害になる可能性がある。(『文化人類学キーワード』pp.8-9.)

という指摘が行われるに至っては、前述した表象の(権力)問題が絡んできて、一概に「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする」とは言えなくなります。<エミック/エティック>は明快に二分できるものではない。ただし、文化人類学の志向としては、「エミック」なアプローチが試みられる場合が多々あるようです。

 都市人類学は、都市の全体性を鳥瞰的に示すのではなく、どこか考察のプロセスであるいはその分析方向が指し示す延長線上で、都市の全体性の「断面」を示してその全体性を「示唆し」ながら、逆にきわめて繊細で微的な都市住民の「喜び」や「悲しみ、つらさ」の中の人びとの踏ん張りや営みを描こうとする。こうして、都市人類学は、心意という人間の心中にあるきわめて繊細な動きと、都市全体の構造性という巨大性とを架橋して、そしてあくまでも人間から都市へ、微細から巨大へ、部分から全体へ、下から上へという方向性をもって、都市社会の生活像を描くものであり、そこにオリジナリティがあると考える。(「都市に生きる人のための都市人類学」和崎春日『文化人類学のフロンティア』所収)


 逆に「エティック」な文化人類学の試みとしてはマーヴィン・ハリス(ex.『ヒトはなぜヒトを食べたか』)が有名です。生態学的人類学など。うちのガチガチの実験心理学教授がマーヴィン・ハリスを絶賛していたのが印象的。あるいはこれから盛んになると思われる進化論を取り入れた人類学的アプローチも「エティック」な試みにあたるでしょう。これはモダンな方法論(人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく)といえますね。


[] 文化人類学とは何か

 フィールドワークに重きをおいたアプローチ。

 眼前で展開される人々の生が不可解に見え、そこに自分が自明として理解するものとは異なる自明性と常識の世界があると思われれば、そこがフィールドとなる。(『文化人類学キーワード』pp.2-3)

 「未開」社会だけではなくマンガ産業のネットワークも病院も原子力発電所もなべて研究対象となる。

 方法論は百華絢爛。閉塞・停滞でもあり可能性でもある。モダンな方法論を疑う立場もあればモダンな方法論に則る立場もある。いずれにせよid:m-keatonさんが述べるように「表象する」とはいかなる営みなのかを絶えず問わねばならない。同じ「表象」でも表象文化論との違いは、おそらく(文化人類学においては)表象の快楽それ自体に身をまかせにくいこと。こんなところでしょうか。


#どなたかコメント欄で疑問・誤りを指摘していただけると幸いです。またロクなフィールド経験なく記述しているので、経験者の方のコメントなども頂けると嬉しいです。


#>id:ecrits たしかアガンベン専門?仏文の友人がアガンベンを専門にしています。興味深いですね。

*1:「民俗学」は本質的にコレなのかもしれない

*2:自分自身が依拠している分析枠組み

*3:イメージとしては立方体を組み立てる感じ

CaseyCasey 2007/07/15 13:16 http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-t.msqgvg.org <a href=”http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-h.msqgvg.org”>17cf13efb18d73999804118b416b2335</a> [url]http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-b1.msqgvg.org[/url] [url=http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-b2.msqgvg.org]17cf13efb18d73999804118b416b2335[/url] [u]http://17cf13efb18d73999804118b416b2335-b3.msqgvg.org[/u] 56833615449d2f4ffa6890aa846f09ff

2004-07-21 相手に寄り添う暑いナラティヴ

[][] ナラティヴ・セラピーとフィールドワーク

 臨床心理筋や社会学の物語論筋の方には有名なナラティヴ・セラピー。定番の一冊『ナラティヴ・セラピーの世界』を以前読んだことがあったんですが、今集中講義で行われている「フィールドワーク再考」という授業で、ナラティヴ・セラピーとフィールドワークが結びつけられていたのでメモ。


 グリシャン&アンダーソンが提出した「無知(not-knowing)のアプローチ」という概念。それは

「対話の空間を拡げてそれを促進する姿勢」

「セラピストの旺盛で純粋な好奇心がその振る舞いから伝わってくるような態度ないしスタンス」

である。この「無知のアプローチ」の対極にあるのが「確立された理論や病理モデルを念頭においたりあらかじめ用意された治療テクニックでもってクライエントに当たるようなスタンス」である。さて、臨床心理はひとまず措いておいて、フィールドワークとの関連で重要になってくるナラティヴ・セラピーの要素は以下の3点にまとめられるという。大切なのは「会話のための空間を拡げること」。

1.「相手とともに」語る

 「相手に対して」語るのではなく、「相手と共に」語るというスタイル。会話を通して、いままでになかった新しい意味・新しい筋書きを、共同で探索してゆく作業。会話の空間を拡げる。話し手が、自分の説明には意味があって、意義を持ち、(相手に)非常に好奇心を持って聴かれていると思うことによって、自分の考えにたいして防衛的になったり、説得しようとしたりする必要が無くなる。

 あたりまえのことですが、普段これを見過ごしてる人が大杉。相手の語りを「聴く」ことが出来ない人、多すぎ。「オレオレ」が多いなあ‥。自分も例外に漏れず。とりあえず相手の語りの中に潜り込んでゆかないと。

2.「理解の途上にとどまり続けること」

 聞き手が話しての言うことを早く理解すればするほど、両者の対話の時間はより短いものとなる。相手に敬意を払い、しかし、相手を理解していない。早すぎる理解は、新しい意味が生まれてくるチャンスを潰し、誤解や勘違いを生む可能性も大きくする。理解の途上にとどまり続けることは、理解する作業を放棄するのではなく、むしろ聞き手自身の理解の範囲に限界があることを話してから教えてもらうことである。

 「理解」を早く行えば行うほど、新たな語りの生成のチャンスをぶっ潰してしまう。とにかく粘り強くとどまれ、と。

3.「ローカルな言葉の引用」

 一人称で語られる体験を専門用語に置き換えないで、話し手が使うローカルな言葉で語り合うこと。「無知の立場」からの質問は、ローカルに(その対話の場に限定して)形成される理解と、ローカルな(対話の中でのみ通用する)ボキャブラリーに行き着く。ここで「ローカル」というのは、対話する人のあいだで発展する言葉や意味のことであって、ある地方や文化で共有される方言とか語り口のことではない。人が自らの人生の経験を実感するのは、ローカルな言葉と理解を通じてである。

 これが一番重要な気がする。つまり相手の物語世界や語彙の中で語ると言うこと。そこに共同の言語空間を作り上げるということ。たとえば相手が「存在」といったとき、それが何を意味しているのか、自分がしっくりくるまで、言葉を重ねて粘り続けねばならない。相手の世界にスッと入り込むようなイメージで。

 痴呆老人相手に看護する生業の女の子はこう言っていた。「相手がボケていても決して嫌ってわけじゃない。朝なのに相手が「夜だ」と言い張るならば、食事を出すとき、それは夕食として出さなきゃなんない。昼なのに相手が「朝だ」と言うならば、「朝ご飯ですよ」といって出せばいい。そうすると、フッとその人の世界に入ってゆける気がするの。その人の世界の中に自分も入ってみる。そうすると、そこに双方向の流れはあるから」

 村上春樹も彼の小説の冒頭でたしかこのような趣旨を語っていた。「平凡な大学生活でしたよ。けれど僕に人と違うところがあったならば、とにかく相手の話をとことん聞いたということですね」


 人と語るとき、最大限のものを得たいならば、とにかく「聴く」こと。相手のボキャブラリー、相手の物語に寄り添い、共同でつくりあげた言語空間で、さらに物語を紡いでゆくこと。「聴く」ことが出来る人って、本当に少ない。勿体ない。これで人生だいぶ変わってくるのに。そして「聴く」プロフェッショナルがカウンセラーだ。また、文化人類学者/社会学者/文筆業者etc...もフィールドワークを行うならば、とにかく「聴く」能力を身につけることだろう。普段の会話でも、最近はこれを強く意識している。けれども、理想論的に語るほど、簡単なことじゃない。でも、この方向しかない。

ecritsecrits 2004/07/29 23:39 突然で申し訳ありませんが、ひとつ質問させていただいてよろしいでしょうか。私の(今はやめてしまいまった)日記からお分かりかと思いますが教養学部の表象文化論専攻の3年です。

ecritsecrits 2004/07/29 23:43 それで、お聞きしたいのは、文化人類学の方法論的なことなのですが、(ちなみに私はほとんどそちら方面に関してはしろーとです)文化人類学者のやろうとしていることは、「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていくことなのか、それとも彼らの心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試みなのでしょうか?本当に素人なのでまったく質問として的外れだったらごめんなさい

jounojouno 2004/07/29 23:58 エティックeticとエミックemicの違いというので検索してみるといいかと。http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html この辺も。

m-keatonm-keaton 2004/07/30 01:43 詳しくは知らないのですが、人類学者は異文化のファンで研究対象者はパフォーマーである。こんな割り切った考え方もあります。表象と権力の問題に対するひとつの回答です。

ClintonClinton 2007/07/15 13:16 http://6e6966483c575884356db699c6c643cc-t.msqgvg.org <a href=”http://6e6966483c575884356db699c6c643cc-h.msqgvg.org”>6e6966483c575884356db699c6c643cc</a> [url]http://6e6966483c575884356db699c6c643cc-b1.msqgvg.org[/url] [url=http://6e6966483c575884356db699c6c643cc-b2.msqgvg.org]6e6966483c575884356db699c6c643cc[/url] [u]http://6e6966483c575884356db699c6c643cc-b3.msqgvg.org[/u] 56833615449d2f4ffa6890aa846f09ff

2004-07-10 知的雪かき

[][] 「文化」概念の検討

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/def-cul.html

 「心脳問題」なるものが生じるのは、「心」という言葉/概念が、それに対応する確固たる実体を持たないからでしょう。厳密に脳科学的に「心」という構成概念を定義すれば、「心とは脳である」という立場からの記述が可能になる。だが「心」という概念が含む(日常的な)全体像を考えると、脳科学的な記述とはそぐわない(=カテゴリー・ミステイクになる)部分がどうしても生じてしまう。脳科学で「心」を語ることはできる。全くもってできる。だが、「心」を脳に還元はできない。もっとも、脳科学が「心」を語ることに必要以上の嫌悪感を示す人々はどうかと思う。


 「文化」という概念の場合も同様で、厳密に「文化」を定義すればそれなりに整合性のある理論が得られる。たとえフローとして「文化」を記述するにせよ。ただしその際、人々が一般に思っているような「文化」の全体性を含めようとすると、とたんに理論は厳密性を失ってしまう。前者の立場に立つ学者は、方法論の精緻化、体系的な理論の構築を求める。一方、後者の立場に立つ者は、フィールドワークの柔軟性がたとえば「質的研究」のような方法論に回収されることを嫌う。文化人類学の「曖昧さ(≒「文化」概念の定義の曖昧さ)」に固有の価値を置く。文化人類学の歴史は、「文化」に何を含めるか、「文化」をどのような構成概念として扱うか、まさにその揺れの変遷であったような気がします*1


 さて、自分は、限りなく「文化」というタームを用いずに対象の記述を行いたいと考えています。「文化」という概念は(少なくとも学システムの内部においては)滅ぼせるのではないか。「心」を刺激→反応に解体し尽くした行動主義者たちのように、「文化」もラディカルに解体してはじめて、次の何かが見えてくるのではないでしょうか。

 

*1:ギアツの功績はまさに「文化」を比較的厳密に定義したところにあるのだろう

jounojouno 2004/07/10 06:14 http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Bay/8373/etc/ph5.html この辺が近そうですね。

GenGen 2004/07/12 20:17 jounoさんへ。リンク先を拝見しました。たしかに近い立場かもしれません。たとえば行動主義→認知科学みたく、心理学における主義主張の変遷は、まさに「心」をどう定義するかをめぐってなされてきた気がします。環境も「心」という概念に含めるならば――もちろんこれは一般的に人々が「心」という言葉から連想する内実なのですが――脳に「心」を還元することは不可能でしょう。構成概念をいかに組み立てるかの問題、したがって存在論的な問いに行き着く、と考えられます。問いは「いかにしてあるのか」ではなく、「いかにして定義すれば分析概念として有効なのか」という形でしかありえないのではないでしょうか。▼なお、リンク先のコンピューター・アナロジーを考える場合は、仮想メモリへの考察も必要だと感じます。参考:http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/fragmentary/virtual.html

2004-06-29 釣られたのか?w

[][] 「都市に生きる人のための都市人類学」和崎春日(『文化人類学のフロンティア』所収)

 あまり強調されてこなかったが、文化人類学のなかで都市人類学が登場したそのときから、全体的に自己完結する閉じられた民族誌を超えた、「開かれたシステム」「自己完結しない系」と取り組む「開かれた民族誌」が目指されたといえる。(p.66)

フローとして、アカルチュレーション論(文科変容論)を内包して、動きの中で文化を捉える試みに成功した論文に早く出会ってみたいな。

 形態としての都市、生態としての都市←→都市社会(人々の相互作用の総体としての都市)

こんな区別があるわけですか。

 民俗の英語folkloreは、folkとloreに分節されるが、folkとは人びと・民衆・生活者であり、loreとは知識である。フォークロアとはすなわち民衆の知識である。これには、民俗と呼んできた考え方より、フーコーや現代思想がいう民衆知の考え方の方が的を得ている。(中略)レヴィ=ストロースのいうブリコラージュがこれに近い。

ふむふむ。「民衆知」という概念を洗い直してみますか。「ブリコラージュ」に関しては小田亮さんの日常的抵抗論なんかはこれの色合いが強い気が。


[][] 「開発人類学再考」玉置泰明(『文化人類学のフロンティア』所収)

 潜在能力(capability)とは、ある人が選択できる一連の代替的な機能(functioning)の集合と定義される。機能は人びとがもっている能力が発揮された状態を指す。そして貧困とは基礎的潜在能力の剥奪(状態)であり、潜在能力の拡大こそが開発(ないし公共政策)の目的ということになる。「開発倫理学」という分野を開拓したゴーレットは、「社会がより人間的あるいはより発展しているのは、人びとが『より多くを持つ(to have more)時ではなく、『より多くある』(to be more)ことができる時である」というが、「より多くある」とは潜在能力が発揮された状態ということであろう。

 潜在能力の中身を文化社会に即して考えることが、新しい開発人類学の重要な役割となるだろう。「潜在能力アプローチを適用するには、その文化に内包されている促進されるべき価値がなんであるかを識別する必要がある」。そのためには、価値の人類学などの有効になる。それは、各社会における社会哲学あるいはよき差異の追求の在り方と言い換えても良いだろう。

 うーん最後はアマルティア・セン敷衍的か‥。「人間の安全保障学」ってやつですか。

http://human-security.c.u-tokyo.ac.jp/

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hs/

 可能性は凄いが、たしかに。でも、何かひっかかる。なんだろう。まだ言葉にはできないが。

2004-06-28 二項対立の檻で安らかに眠る

[][] 「神話の構造」、『構造人類学』(レヴィ=ストロース著)所収

 構造主義のいう<構造>とはすなわち、一見混沌に見えるものの中から二項対立(対立関係)をたくさん発見し*1、そのたくさんの二項対立を徐々により大きな単位の二項対立でまとめ上げてゆく作業により発見されるものであろう。徐々に有限個の対立関係に置き換えてゆく作業。そして置き換えても(=変換しても)残るものこそが、<構造>である。構造は変換と不可分だ。彼はこのことを親族→神話→思考という順に立証しようとした。



「神話的思考の論理は、実証的思考の基礎をなす論理と同様に厳密なものであり、根本的にはあまり異なっていないように我々には思われた。相違は知的作業の質によるというよりは、むしろこの作業が対象とする事物の本性によるからである。(p.254、強調部は引用者)」


 そしてこの考え方こそが、『野生の思考』へとつながってゆく。橋爪大三郎は

 数学でさえひとつの制度であるとも言えるのだった。レヴィ=ストロースがひとつの思想(考え方のシステム)をこしらえたのなら、それも「客観的に正しい」のではないか。

と述べているが、どうだろう。レヴィ=ストロースの神話構造分析の方法論は彼にしかできない側面が強い。方法論としての未熟さは認めねばならない。そのことを学問としてどう評価するか。これは非常にセンシティブな問題であって、自分の文化人類学への評価(ないし「科学」への態度)を決めてしまいかねない。


 ところで人間は二項対立の檻の外に出ることはできるのか?現在の自分なりの答えは、「考える限り否である」、と。

*1:なぜならソシュールのいうとおり意味は或るものと或るものの差異の中にしか生まれてこないから

モヴィモヴィ 2005/06/20 20:52 二項対立は方法に過ぎないとするなら、
それを越える方法はあると思いますよ。
例えば、いまだ語られていない「脱構築」の方法の中に
潜んでるような気がします。

2004-06-22 シャーマニズムと精神分析

[][] 『構造人類学』(レヴィ=ストロース)所収 「呪術師とその呪術」


  • シャーマンを構成する3つの要素
    • シャーマン自身の経験、患者の経験、公衆の経験
  • シャーマニズムのふたつの極
    • シャーマンの内的経験←→集団合意

シャーマニズムは、実は、異質で得体の知れないものを集団の物語の中に統合するパフォーマティヴな作業であることをストロースは指摘する。そこでは呪術の物語を巧みに創作することが求められる。シャーマン自身もやっていることが「インチキだ」と知っていてなおかつやっている面がある。だがしかし集団が望む物語を語りそれが集団にとっての真実となることで、「真実/非真実」の区別はシャーマンの中で消滅してゆく。たとえば日本では、家庭教師がこれに似た面を持っているのではないか。大多数の家庭教師は詐欺なのに、はじめこそ罪悪感はあれ、徐々に「教師」という主体を獲得してゆく。


  • 「ケサリード(人名)は病気を治したから大呪術師になったのではなく、大呪術師になったから病気を治したのだ」
  • 「正常な思考はつねに意味されるものの欠如に悩むのに対して、いわゆる病的な思考は、意味するのものの過多を利用する。シャーマンによる治療への集団の協働は、この相補的な二つの状況のあいだに調停を成立させるのである。」

得体の知れぬものに対して言葉を持たない患者。一方、病的(狂気的)なまでに過剰な言葉の源泉となるシャーマン。民衆(社会)の価値体系が両者を調停し、得体の知れぬものは社会および患者の物語に統合される。


[][] 『構造人類学』(レヴィ=ストロース)所収 「象徴的効果」

「[シャーマニズムの]治療は、したがって、はじめは感情的な言葉で与えられる状況を思考可能なものにし、肉体が耐えることを拒む苦痛を、精神にとっては受け入れうるものとすることにある。シャーマンの神話が客観的現実に照応しないということは、たいしたことではない。患者はその神話を信じており、それを信ずる社会の一員である。」

それはつまり「生理過程の解放」、すなわち「患者がその進行に悩んでいた一連の過程の好ましい方向への再組織化」である。


  • 「シャーマンによる治療は、われわれの器官医学と精神分析のような心理療法との中道に位置している」
  • 「両者の場合とも、それまで無意識にとどまっていた葛藤と抵抗を意識に導こうとする」
  • 「両者とも経験を引き起こすことをめざし、両者とも患者によって生きられ、あるいはふたたび生きられるところの神話を再構成することによって、そのことに成功する」
  • 「精神分析においては、医師が作業をおこない、患者がその神話をつくり出す。シャーマニズムの治療においては、医師が神話を提供し、患者は作業をなしとげるのである」

シャーマンは転移の対象ってか。


  • シャーマニズムのメカニズムは、神話の触媒作用のもとで、支配的な構造によって経験が再組織化されることである
  • 「無意識はわれわれがそれによって一つの機能を指し示す言葉になる。すなわちそれは象徴機能である」
  • 「神話の形式が、物語の内容に優先する」
  • 「精神分析というこの、シャーマン術の現代的形式は、したがって、機械文明の中では、神話的時間のための場所が人間自身の内にしかないという事実から、その特殊な諸性格を得ている」

「特殊な諸性格」とはすなわち、上記の「象徴機能」(神話の形式=構造)は両者に共通しており、どこに起源(物語の内容)を求めるかが異なるということであろう。精神分析は個人内に、シャーマニズムは社会的神話の中に起源を求める。だがあくまでも「構造」は同一である。

[][] 「真正さの水準」

参考:『レヴィ=ストロース入門』(小田亮)、『構造人類学』(ストロース)所収の「社会科学における人類学の位置および人類学の教育が喚起する諸問題」

  • 真正な社会の様式
    • 身体的な相互性を含む<顔>のみえる関係における多元的なコミュニケーション
    • 全体を見通す視座など持たずに、人と人との具体的なつながりを延ばしていって、境界のぼんやりとした社会の全体を想像するしかないという想像の仕方
    • <顔>の見える人と人との<あいだ>で作られる流動的な関係によってアイデンティティが作られる
  • 非真正な社会の様式
    • 法や貨幣やメディアに媒介された間接的で一元的なコミュニケーション
    • ネイションやエスニック・グループ
    • あたかも神の目から一望したように境界の明確な全体としての社会を想像する仕方
    • 人と人の<あいだ>を抜きにして、国民国家や民族集団といった固定された全体に媒介された間接的な関係。全体と個人が結びつけられることによってアイデンティティが生じる

現代社会においても<顔>のみえる関係に参与する人類学者のフィールドワークが有効に働く、とストロースは述べた。果たしてどうだろうか。このことについてはネットワーク論に触れた後に考えてみたい。ストロースのこの二分法の有効性/陥穽も含めて。当たり前だが、『想像の共同体』と絡めておく必要があるだろう。