油問題

やまもといちろうblog更新されてました

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/03/post-4ccd.html#more

このエントリを精読したあと、油のサイトを見てみたのよ



で、比較対象として三菱UFJ信託のサイトを見たのよ
例えばこのページ。
http://www.tr.mufg.jp/cgi-bin/toushin/tsl.cgi/funds/03313046/index.html


いざ買おうとしているファンドについての
情報の粒度が全然違うわけ。

油は入会したら見せてくれるのかな?

にしたって、

「オススメしているファンドの一例です」みたいな感じでこういうのを出してくれてもいいと思うわけ。

出せないってことは、そういうことなんですかね。

アブラハム問題について考える

アブラハムvsやまもといちろう のバトルを眺めている

双方、誠実に(※)議論しているという前提で軽くヲチしながら
双方の意図を忖度してみるのですよ


彼らは、(日本では)新しい金融ビジネスモデルを武器に、事業を成功させるために、自分たちなりの誠実さで「努力」している

やまもと
ネットで発見した「危なっかしい人たち」にツッコミを入れるということを「芸」としている(「ツッコミ」そのものをコンテンツとして、ネットに放流している)


今起こっている事象は、油の「誠実な努力」が、実はとても危なっかしいものであることを、やまもとがツッコミを入れるという形でおもしろコンテンツ化させた事例なのかな、と。


イケダハヤト的な言論や、油の怪しげな広告(1億というインパクトのある数字)は、確かに目新しいのかも知れない。
が、それは彼らの発明ではない。

既に先人が通った道であり、それが誤りであったり有害であることを我々の社会はすでに知っているから、誰も踏み入れなくなった道なのだ。

だからこそ、イケダハヤト的な生き方をする人はいないし、
油的な広告が、法で禁じられているのだ。



現代社会を構成している主要な価値観や決まりごとは、
画期的なアイディアのように見えてしまう本質的な愚行を抑止するためのものなのであって、既得権者の利益を守るために新規参入者を排除するという目的だけのためにあるわけではないです。



眠くなってきたので、続きはまた今度

バカについて考える日々

考えるにつけ、バカとは考えない人のことを言うのかなと思うわけです。

思考リソースをどこに割いているかという。

意味のない妄想に身を委ねている場合、結果として、あらゆる分野の議論においても、バカになろう。
日々の金策に思考リソースを割かざるを得ない場合も、現金を得るにはどうすればいいか、生活をどう切り詰めるかみたいな部分の知恵が伸びるばかりで、何かについての深い議論に立ち入るだけの見識を深めることは難しいだろう。


思考リソースを捻出できる状況、知識を蓄える意欲を前提に、
日々考察を重ねてこそ「見識」は深まって行くものなんだろうと思う。

バカの特徴

バカの特質について。


ざっと箇条書きだけ…



・バカは論破されたことに気づかない


・バカは論点を把握できない


・バカは論点とは違う目的を持つ
これは非常に良くあることで、議論の俎上にあげることのできない裏の勝利条件を抱えて、議論の場にいるわけだが、それに言及せずにその方向に議論を誘導することは非常に難しく、不可能である場合も少なくない。
共産主義(を標榜する体制)を擁護する、という裏の命題を抱えている左翼が、9条を論じるに当たって、現実として存在する支那の大軍拡を、無害なものであると強弁する光景は、多くの方が目にした光景だろう。
外交交渉などはまさにこの世界なんだろうと思うし、だからこそ特別な能力が必要なんだろうと思う。


・バカは論拠を理解していない
誰かの説に基づいて議論しているのに、その説に対する理解が非常に浅い、というケースも良くある話で。


・バカは自分の経験を根拠に語る
僕はその時こう感じた というのを論拠に据えるバカが非常に多い。
んなこと知るかよ、である。
が、彼らはなぜ、そういう論陣を張るのか。
おそらく、私はその時こう感じた的な論法が効果をあげている光景を目にしたからなんだろうと思う。
が、その論法は、既に実績をあげ、その人物が認められた人のみが使用できるものなのだ。
お前の感想など誰も聞いてはいないのだ。


・バカは一般的善悪を論拠にする
世間一般における善と悪の概念から逸脱できないバカも多い。
合法性を論拠にするバカも多いが、こちらの方がより救えないバカである。その「法」こそが、議論の産物だと言うのに。




長文を書くつもりではなかったのに、意外と長くなっちゃった>_

バカをバカにするということ

ここ最近、「バカをバカにするということ」について考えているのですよ。

「バカ」、「バカにする」という行為の定義は曖昧にさせてください。
なんとなくニュアンスは伝わるんじゃないかと思うので。



一般的には、「バカであっても人なのであるからして、バカにしてはいけません」というのが正解。

でも、そんな一般常識的なモラルに乗っかるならば、そんなことをそもそも考えないわけで。



そんなこんなで、バカをバカにすることに意味はあるのか、という点を考えてみます。



意味がありそうなケースその1 :
 「バカにその愚かしさを指摘し、気づかせることは可能か」という命題に対するイチ方法論として。

バカにその愚かしさに気づかせるに当たって、「諭す」が有効なのだろうか。
「諭す」という行為の有効性については、特定の条件下においてのみ有効、と認められるのが、理性的な考え方なのではないかと思う。すなわち、愚者が賢者に相応の敬意を抱いており、賢者に愚者を導く動機がある場合である。前者に欠ける場合は「だまれ先公」であり「うっせえババア」である。後者に欠ける場合は、そもそも「諭す」という行為が成立しない。しかし、愚者の賢者に対する相応の敬意が、賢者の動機を誘発することはありうる。と、考えると、愚者の賢者に対する敬意は、「諭し」の必要条件であると言えよう。

この場合のバカは、独善性から(程度の差に濃淡はあれど)自由であるがゆえに、バカであるという状態から離脱するポテンシャルを充分に持っている。すなわち、仮性バカである。


では、真性バカを相手にする場合はどうなるのだろうか。賢者に愚かしさへの気づきを与える動機がある場合、どういう方法があるだろうか。
その方法として、ひとつの選択肢が「バカにする」という行為なのではないだろうか。バカに屈辱感を与え、その屈辱を晴らすための行為として、「自発的な」愚かさへの気付きを誘導するという戦略である。

しかし、これには非常に高等なテクニックを要するであろう。バカにバカであるがゆえの屈辱感を与えるためには「論破」する必要があるが、生半可な論破では、バカはそもそも論破されても論破されていることに気付かないのだ。並大抵の論破力では、バカにその悪意は伝わっても、その論旨が理解されない。
つまり、バカにも理解できるレベルまで掘り下げた、高度な論破力が求められる。これはひとつの先鋭化した技術なのではないだろうか。並の「非バカ」では、ここまで到達することは難しい。バカの独善性や、議論の前提となる知識レベルがどの程度であるかに充分に配慮しなければならないからだ。


つまり、バカにその愚かさを気づかせるための「バカにする」という行為は、バカにする側に相応の論破力・論破性を求めるのである。それはすなわち、バカにでも理解できる理論の構築に他ならない。かつ、その論旨は、バカが主戦場とする分野の上に立たねばならないのだ。当然これはバカにする側に相応の労力を強いる。そしてこの労力は、徒労感という代償しか伴わない。なぜならば、自明であると思える部分にすら、論理を張り巡らせねばならないのだから。
通常の場合、「誰かこのバカを黙らせてくれ……」という状況が発生しても、そこまでの労力を費やさねば効果を発揮しないバカにする(=論破する)行為に打って出ようとは、誰も思わない。自らの思考リソースを大量に消費して得られる戦果が、「バカを黙らせる」に過ぎない。割に合わなさ過ぎる。
これを一言で言い表した古の賢人の言葉がある。すなわち、「煽りはスルーせよ」と。結果として、バカが黙るまで無視を決め込むことが一番効率的であると、経験的に導き出された対処法なのだろう。





それでは、バカをバカにするとロクでもないことしか起きないのだろうか。


意味がありそうなケースその2 :
 「バカをバカにすることそのものをエンターテイメントとして楽しむ」

これは、ある種の知的快楽を刺激するひとつのコンテンツなのではないかと思っている。


古くは

http://totutohoku.b23.coreserver.jp/totutohoku/index.php?%A1%CA%B5%C4%CF%C0%B5%AD%CF%BF%A3%B6%A1%CB


最近だと
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/01/post-e5e2.html
この辺に端を発する一連のやり取り。


とつげき東北氏が言及しておられる、

知的な者が愚かな者を「啓蒙する」のではなくて、単純に笑いの対象としてもてあそぶ一連の議論は、方向性としてはバカだが、知的に行えばエンターテイメントとして成立するのだ。
実際、それを楽しむ読者層というものが存在するのだし、これまで一般的にはなかったエンターテイメントなのだ。

これがきりkやまもと氏により一般化されようとしている瞬間を目の当たりにしている思いがするのである。





バカがバカを擁護

http://megalodon.jp/2013-0126-2143-21/blog.esuteru.com/archives/6887686.html

(解説)
ツイッターであろうが少なくとも「論戦」的なものを仕掛けた以上、知性や論理構築力の優劣は、善悪という基準からは離れ、弱いことが庇護の対象ではなくなっているというとことに認識が及んでいない例。


論戦を仕掛けておいて論破されるということを恥と思えるかどうか、という話なのかもしれない。









現状のところ、「バカをバカにすること」に意味があるとすれば、以上の可能性をしか想定することができない。
できない程度に私もバカなのだろうと思うが、しかし、少なくとも仮性のバカではありたいと思う。そしてその資格はあるのではないかと思っている。上記二氏に対して少なからず敬意を抱いているという点において。







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感性の劣化

太陽の党ワロタ

前の選挙では、比例、立ち日に入れた私ですけど。


青嵐会系の議員に団塊がいないってことが、この国の病理に思える。


わが国において、最も政治力のある世代であるところの団塊の中で、右派が決定的に弱い。

これは、それなりに特異な政治環境なんじゃないかな、とか思った次第。



我が国の右派勢力の希望の星が、

団塊向けのダジャレであるところの「太陽の党」を標榜してしまう時点で、泣けてくる。



昭和臭い右派には、もう期待できない、と思わせるネーミングでした。


共和党」を標榜する右派政党は出てこないものか。



一応、現時点で自分の中での政治政策で推したいのが
「日本共和帝国」構想であります。



基本理念は立憲君主制

内閣総理大臣公選制。 このクソみたいな政権の不安定さをみるに、4年任期制の大統領的な存在があったほうが望ましいんじゃないかと考えている。


ただ、我が国には天皇陛下がおられる。

しかし、直接公選された政治代表が国家元首である必要は無いわけで。



つまり、帝国宰相公選制みたいな考え方なわけです。

臣民一同が、陛下の大政を輔弼(=代行)する帝国宰相を推挙する、という枠組みですな。