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Gesundheitの日記

2018-06-17

2017-04-06 「私の遺言」

「私の遺言」佐藤愛子 著 

読了。


私の遺言 (新潮文庫)

私の遺言 (新潮文庫)

「神はだたそこにいる。人を罰しもしなければ、助けもしない。」

「私の遺言」にある言葉だ。

この著作には、筆者の約20年に渡る心霊現象とのかかわりが書かれている。

この心霊体験を通して筆者はこれを悟った。


そしてこうも書いている。


霊の話は、わからない人には何と説明してもわからない、と。


随分昔だが、著者の歯に衣を着せない物言いが小気味よく、何冊かエッセイを読んだ。

世の中の不義、理不尽に憤激して書かれた文章は、正論であり、情があり、きっぱりとしていて、読むと色々なことに対して溜飲が下りる思いがした。

その竹を割ったような性格と激しい物言いが好きだったのだが、立て続けに2,3冊読んだところで、筆者のエネルギーに圧倒されて疲れてしまい、その後はぱったり読まなくなってしまった。

最近、書店で「90歳。何がめでたい」「人間の煩悩」が平積みされているのを見て、久しぶりに手に取った。

「人間の煩悩」は、これまでの著作の中からご本人が「これぞ!」、と思われた部分を抜粋して集めたものだ。

その中に50代から約20年に渡り、霊障を受けていたと書かれていた部分があった。

その一部始終を書いた「私の遺言」というものがあると知り、正直なところ怖いもの見たさの好奇心で読み始めたのだ。

著者の体験した心霊現象は、ある人には見えるが他の大多数には見えず、聞こえず、感じられず、というものではなかった。

はっきりと、物理的に異変が起こるのである。

怪異が起きるのは、北海道の別荘である。

(のちには東京の自宅にも)

人のいない部屋の電気がついている。

誰もいない家に帰ってみると、出る時には普通に置いてあった5組のスリッパが、縦に積まれて玄関に置かれている。

毎晩、筆者を眠らせまいとする激しいラップ音が続く。

後にわかるのだが、霊障は、和人によって惨殺されたアイヌの霊団が原因だった。

一人ふたりの霊ではないのである。霊「団」なのである。

ポルターガイストなどはそれに便乗した狐が起こしていたらしい。

人がいない時に物が動くなど、人が見たり聞いたりできる異変は狐の仕業だったらしいのだが、その後ろにとんでもないものがあったのである。

筆者はまず、ポルターガイスト解決しようと何人もの霊能者に相談する。

すると、アイヌの聖地に家を建てたので、アイヌの霊が怒ってこのようなことをしているのだと言われる。

筆者は運よく金儲けが目的の似非霊能者には引っかからなかったようだが、あまりにも強いアイヌ霊団の恨みに、有名な霊能者も恐れて北海道の別荘に来ることさえ断られてしまう。

それでも諦めずに何とかしようと動いていると、人の紹介で次々と、より力の強い霊能者に巡り合っていく。

はじめは、地元のアイヌ血筋神主さんのような方に、もともと聖地だった場所でアイヌの神祭りをしてもらおうということになり、途中までおこなってもらうも、祭り半ばにしてその方が体調不良となり帰ってしまう。

アイヌの祭りの作法に則っていろいろしたのだが、怪異は全く鎮まらず。

次は、霊媒審神者北海道に来てもらい霊をおろしてみると、まず、筆者の遠いご先祖らしき方がいらっしゃったのだが、戦で槍で突かれて亡くなった時の苦しみそのままの状態で現れた。

審神者がそれを癒し、あちらの世界からお迎えに来ていただいて帰っていただき、その後、やっとアイヌ民族の霊が下りたのだが、あまりの怒りに、出てきた時は熊かと勘違いされるほど荒れ狂った男性が出てきた。

和人に親も子も目の前で虐殺され、本人も殺され、一族郎党、集落が全滅したらしい。

何とか話をして、この方も癒して帰っていただいたが、やはり効果はなかった。

筆者としてはこの霊を一族の長だと思っていて、この方がアイヌの仲間を説得してくれるものと思っていたのである。

この時分かったのは、筆者はアイヌ虐待していた家系に生まれたということだ。

佐藤家は江戸時代アイヌを虐げた家系だったらしく、この時降りてきた怒り狂ったアイヌの男性の霊がだんだん鎮まってきた時、水を所望した。その男性に水を渡す時「「佐藤」に、せめて水を手渡すくらいのことはさせろ」というような意思表示をされた。

その後、筆者は霊障の為に死相が出るほど衰弱していく。ただし本人に自覚はなく、その頃いろいろと霊能者を紹介してくれていた医師が、筆者の顔を見てもう長くないと思ったと、後に筆者に話したとの事。

最後は、神界から来たという80歳を超えた男性が北海道の別荘に来てくれて、即座に神事を行い、やっと鎮まったとのことだった。


駅から車で別荘まで移動している時、周りは何もないだだっ広い原野のようなところなのに、その方の目にはそこに一杯にひしめいて立っているアイヌの霊が見えていた。

その方が来られると知ったアイヌの霊たちがそこに集まってきていたのだ。それを見たその方は、休憩など取っていられない、すぐに救わねば、と思われたらしい。

しかし、霊障はいきなりパタッと鎮まったのではない。

この霊障にかかわる霊たちを救うために、天からそのお役目を負った方が降りてきて、月に2,3体ずつ霊を伴って行かれるため、長い時間がかかるが、全員救われる、とのことだった。


その中には筆者の先祖の僧も交っていたらしい。

アイヌの恨みが中心だが、体制にさからって無念の死を遂げた霊たちも集まってきていたらしいのだ。

そして、やっと、異変は起こらなくなったとのこと。

ここで思ったことが2、3ある。

まず、筆者はこの使命を帯びてわざわざ佐藤家に生まれてきたのではないかということだ。

この本以外にも何かにちらっと「霊能者が見たら、私は前世ではアイヌ酋長の妻か娘だったとのことだ。戦支度をして馬に乗っている姿が見えると言われた。酋長だった夫か父が亡くなったので、女だてらに馬に乗り、部族の思いを押さえきれず、負けるとわかっている戦に出かけて戦死した、と言われた。」と書いてあるのを読んだことがある。

前世、和人に殺されたアイヌだった筆者が、アイヌを虐げた家系に生まれ、霊障に悩まされた。

20年の長きにわたりその霊障に苦しんだ末、無念になくなったアイヌの霊団を全て救ってくれる人と出会い、アイヌの霊を救い、また、それによって佐藤家の因縁も解放した。

これは、あちらの世界でそのように計画されて筆者が生まれてきたのではないかと思った。

幼少時は「普通だったら感謝すべきことも、当たり前のこととして受け取ってきた。」という恵まれた環境で育った。

それが長じてどれほどの困難に出会っても「きっと何とか乗り越えられる」という強いそして、楽天的な性質を作ったようだと書いている。

これも、この大変な仕事を、へこたれずに成就させる為に意図されていたことに違いないのだろう。

次に、80歳を超えた霊能者が神事を行った時に、アイヌの霊団と一緒に僧侶であった筆者の先祖がいたことだ。

生前僧侶であった筆者のご先祖が、恨みを抱いたまま成仏できずにこの世にとどまっていたということ。

この人も体制に反抗して亡くなり、成仏していなかったのだ。

僧侶というと、金銭・物欲以外にも、名誉欲なども含め、あらゆる執着を捨てて仏の道を歩むというイメージがある。

体制への反抗も、世の為、人のために権力に物申したということだったのではないのだろうか。

その人がなぜ長い間成仏できずにいたのか。

自分以外の「○○の為に」と言って行う行為は一見美しい。

「献身」とみなされるからである。

しかし、「献身」などするから後に恨みを残してしまうのではないだろうか。

一見無償の行為のように見えるが、「無償」というのは何の見返りも求めないことである。

金銭的な報酬だけでなく、感謝や名誉も求めず、もしかしたら自分の言動が何の効果もあげられず、自分以外の者には意味さえないかも知れなくてもそれを不満に思わないことである。

効果がなく、他者にとって意味もなければ、誰からも顧みられることもなく、故に労われることも感謝もされなくてあたりまえ。自分の行為を褒めてももらえないのは当然のことである。「あなたのために」とやったことが、その「あなた」にとってはどうでも良いことで、やってくれても、くれなくても、何の不都合もなく、関心さえないのなら、「あなた」のためのその行為はその「あなた」にとっては、存在しないのも同じことなのである。

それを不満に思うのなら、それは無償の行為ではない。


そもそも、そんな「あなたのため」の行為はただの独善に過ぎないだろう。

「自分以外のものの為に」というのは殆どが偽善なのかもしれない。

親となった友人から聞く言葉の中に「子供は私に何かしてもらっても当たり前だと思っている。ありがとうと言わない」というものがある。

この言葉通りではないが、それと同じことを言ったのは1人や2人ではない。

親は自分の子供のためなら、それ以外の人(自分の子供と同年齢位の他人の子供も含む)のためにはできないほどの犠牲を払うこともできる。

だが、心の底に感謝してほしいという気持ちがあるのだとしたら?

で、あるなら、何をするにも「自分の為にするのだ」と思い切った方が良いのではないのか。

人助けや、社会正義の為、などのつもりでするよりも、「自分の気が済むように」「自分が気分良くなりたいから」と思って行う方が、後に恨みを残さなくて良さそうだ。

佐藤氏の、僧であるご先祖がなぜ体制に反抗したのか、なぜ何百年も成仏できずにいたのかはわからない。

もしかしたら、意見を述べる場さえ与えられずにだまし討ちにあったとか、故意に冤罪に陥れられ刑死したとかいうことだったのかもしれない。

だが、何百年も成仏できずに彷徨っていたと聞くと、修行を重ねても、所詮人間は、執着を捨て神の近くに行ける存在ではないのか、と思ってしまう。

そしてもうひとつ引っ掛かったのは、何百年も経っているに亡くなった時の状態そのままで出てきた方と、そうでない方がいたことである。

何百年も前に戦で殺された著者の先祖がその時の痛みもそのままに、そして、惨殺されたアイヌの男性がその時の怒りや痛みそのままに現われた。

死んでしまえば肉体の痛みや苦しみはなくなると思っている人が多いのではないだろうか。

だが、霊媒に降りてきた方々は、亡くなってもなお、何百年もの間、亡くなる瞬間の苦痛と共にいた。

しかし、そうでない方もいた。

最初に霊媒に降りてきた著者のご先祖の一人で戦で亡くなった方は、「誰かお迎えに来てくれる方はいないのか」という審神者の言葉に、生前親切にしていただいた近所の僧を思い出して、その方をお迎えにしてほしいと頼んだ。やっと名前だけ思い出した程度の、特に親しかったわけでもない、何度か食事を食べさせてくれた僧である。名前だけを頼りに呼んでみると、お迎えに来ていただけたのだが、その方は生前、徳を積まれた方だったようで、お迎えにいらした時に光があふれ、著者のご先祖はまぶしがりながら霊媒から離れた。

亡くなった後、自分が死んだことを自覚すれば肉体の苦痛はなくなるのかもしれない。

「もう肉体はないのだから、痛いのは変だなぁ。痛いと思っているだけで、実は痛くないのかも」と思えば生前の肉体的苦痛から解放されるのかもしれない。

そして、生前やり残したことなどこの世への執着があっても「この世で自分がすべき事は済んだのだ。自分のやらねばならない事はこの世にはもうない。」と、思い切る事ができたり、執着そのものが薄ければ、速やかに良い状態になるのかもしれない。

気を鎮めて周りを見回してみれば、自分の状態が変わったこと、自分がいる環境が変わったことを理解することだろう。

全く違った世界にいることがわかれば不要なものに囚われ続けることはないのだろう。

そして「こちらの世界ですべきことがある。それをしよう。」と思えば、むしろ自分も救われるのではないだろうか。

筆者は、この本の最後の方で、人間は長生きしなければいけない、と言っている。

執着を捨てるには長く時間がかかるのだから、長生きする必要があるのだ、と。

2017-04-05 満員電車

久々に通勤電車で押し潰されそうになった。

今朝は人身事故の為、そもそも列車の到着が遅れてはいた。

しかし、自分が乗りたい時に来て普通に運行されているなら、それが何分前に来るべき電車であろうが構わないのである。

今朝は、列車遅延の為、乗車駅に到着した時にはもう満員状態だったのだが、そんなことはいつもと同様なので自分の体を押し込む。

乗降にいつもより多少時間がかかるので、目的地への到着は少し遅れるだろうが、数分程度だろうと踏んでいた。

しかし、今日の混みようは尋常ではない。

周りを男性に囲まれてぎゅうぎゅう詰めになっている。

しかも、前にいる一人はかなりガタイが良い。

前も前、顔の真ん前で鼻が背中に触りそうである。

そこを、顔を斜め上に向けたり、首を左右に少しひねってみたりして鼻の前の空間を確保するのである。

もう一人斜め右前と言うか、すぐ右横と言うか、そこに立っている男性は、ファーで縁取られたフードつきのジャンパーを着ている。

こちらも顔がべったりと背中につくくらいの所にいる。

私の顔はファーに突っ込む形だ。

幸い乗車前に手に持っていた本があったので、その本を防波堤に使った。

しかし、である。

駅について多少人の入れ替わりがあり、左に来た男性も、ファー付フードのあるジャンパーを着ていたのである。

左右からファーの攻撃で、ちくちくするは、息苦しいわ、で、朝からサイテーな気分だ。

四方八方から強力に圧されて、足が浮いていてもそのまま立っていられる状態だ。

寄りかかるも何も、圧死しそうなくらいの押しくらまんじゅう状態なので、顔は左右及び前の人の服にガッツリ挟まれて、メガネが圧力でひしゃげそうだ。

この状態で壊れても周囲の人は自分の体重で壊れたとは露も思わない。JRに弁償させることもできないだろう。自分で修理に出すほかない。

とんでもないことだ!

即座にメガネをはずして胸ポケットに入れるが、すぐにこれも失敗だったと知ることになる。

この圧迫された状態で、胸ポケットが無事であるはずがないのだ。

電車が揺れるたびに寄りかかってくる、すんばらしいガタイの背中を必死で押し返しつつ、何とか下車駅につく。

既に1日働いたかのような疲労感が・・・。

しかも、車中では怒りクレッシェンド状態で到着。

この腹立ちをどこへブツケればいいんだっっ!!

2017-03-25 「畏れ慄いて」

畏れ慄いて 読了

ベルギーの20代の女性作家の小説。 


畏れ慄いて

畏れ慄いて

80年代に大手商社に通訳として契約社員として雇用された時の経験をもとに書かれたとの事。

未婚女性の年齢をクリスマスケーキになぞらえることや、お茶くみ事情など、その時代が描写されている。

ただし、作者も冒頭に書いているように、全てが事実ではなく、創造された部分も含まれている。

アマゾン書評には、フランス語のわかる日本人が「この作者は通訳として1年間の有期雇用をされたと書かれているが、日本語、フランス語両方でこの本を読んでみたところ、作者の日本語は初級レベルと思われる」と書いている。

そもそも、あの時代、1年間の有期雇用では「就職」したとは言われなかった。

この就業形態は、直接雇用だが正規採用ではない。つまり、主人公は正社員として勤務したわけではない。

フランスの友人に、現在の職場(かなり前時代的)の様子をメールしたところ、この本を読んだことがあるからわかるよ、大変だね、と返信が来たので、読んでみたのだ。

どっぷりと日本企業の中に浸かって働いてきた私の目には、新卒新入社員によくある勘違いが見えてしまう。

作り話の部分も「このあたりかな」とわかる。(でも、たぶん、日本人が読めばほとんどの人にどの部分がそうなのか、わかると思うのだが)

最近、学校を卒業された方、またはこれから就職する方はこれを昔話として読むと面白いかもしれない。

中堅どころは、自分の職場がここにある話と似たような状況なら「アタシの勤め先は遅れているのカモ」と認識するきっかけになるかもしれない。

2017-03-17 「仁義なきキリスト教」

仁義なきキリスト教 読了

架神 恭介 著

菅原文太やくざ映画風に、キリストの生涯から死後1000年に渡る権力抗争の話。

まずはキリスト教の母体となったユダヤ教ヤハウェから話が始まる。


仁義なきキリスト教史 (ちくま文庫)

仁義なきキリスト教史 (ちくま文庫)

このヤハウェさん、これ以上ないというほど裏切りに厳しい。

ユダヤ教は、神との契約を通じて加護を得る宗教だと聞いたことがある。

神と人間との間で契約を交わす。つまり、人間が○○をすればヤハウェは○○(良いもの)を与える、もし、そうしなければ○○という罰則がある、という交換条件を決めたのである。

契約を交わした人間はすなわちユダヤ教徒となるのであるが、ヤハウェと契約を結び契約を守る人間だけに、ヤハウェもその契約に従って加護を与えるが、自分と契約を交わさない人間には加護は与えない。

そして、契約を結んだ人間に対しても、一度交わした契約を破ると、これまた契約に従って厳しいペナルティが課されるのである。

故に、ヤハウェは罰する神なのだと聞いた。

そして、キリスト教も多少その流れを引いており、神は愛だけの存在ではなく罰する存在でもあるのだ、

・・・と、聞いたことがある。(余談だが、作家の遠藤周作氏はキリスト教はひたすら愛の宗教であると言っている。)

手塚治虫氏がまだご存命の頃、氏のライフワークであった「火の鳥」のアニメ化にあたり、外国人の意見を聞いたところ、「火の鳥は優しすぎる」「神とは、火の鳥のように美しく優しいばかりではなく、もっと強く厳しいものである」との言葉が出たとのことだった。

故に、漫画では慈愛あふれ怒ることのない、孔雀のような姿の火の鳥が、映画の中では怒る場面があり、その時は全身赤毛の鶏に似た姿になっていた。

日本人以外には、また、日本人でも、キリスト教徒ユダヤ教徒イスラム教徒など、日本の八百万の神以外を信仰されている方にとっては、こちらの方が納得のいく話なのかもしれない。

この「仁義なきキリスト教」では、やくざ映画を見るがごとく、わかりやすくユダヤ教からキリスト教へと物語を展開している。筆者は関係図書も多数読んだようだが、キリスト磔刑にされた時の有名な祈りの言葉「神よ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか」について、少々腑に落ちないところがあった。

この祈りの言葉はキリストが生きていた時代には良く知られていたもので、始めの部分を少し聞いただけで、当時の人は全文を思い起こすことができたと読んだことがある。それ故に聖書の中でもこのわずかな言葉だけが記されているのとのことだ。そして、この祈りは、神の賛美で終わるのだそうだ。・・・と、昔何かで読んだ記憶がある。

この本では、その場面はその事情を知らないまま書かれているような気がする。しかし、私はクリスチャンでも神学者でもないので、私の記憶の方が間違っているのかもしれないのだが。

とりあえず、聖書を読んだこともない、ユダヤ教など全然知らない、という方には、抹香くさいクソ真面目な経典よりはずっととっつきやすいので、ざっと流れを押さえるために読むには良いかもしれない。

ただし、筆者の解釈がフィルターとしてかかっていることはお忘れなく。