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未来私考 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008年12月27日

「オタク」であることのプライド

| 09:37 | 「オタク」であることのプライドを含むブックマーク 「オタク」であることのプライドのブックマークコメント

 トラックバックしていただいたこの記事にどう返答しようかと頭を抱えているうちに数日が経過してしまいました。今もまだ上手くまとまってませんが、とりあえず思うところなどを書いておこうと思います。

「脱オタ」が無意味になる時代は来るか? - Something Orange

「ライトオタク」と「超ライトオタク」の違い

 この話が拡散するにつれてどんどん元の 提起から外れていっているように思うのは、どうもテクノウチさんの発した「超ライトオタク」と、それ以前から存在した作品をただ受容するだけの「ライトオタク萌えオタ」といったものとの混同があるように思います。この2者は明らかに違う存在だと私は考えていて、その点ではid:kaienさんが引用している岡野勇さんの言葉にシンパシーを感じる側の人間だったりします。

「今、そこにあるオタクの危機」 第4回

 東浩紀氏の「動物化するポストモダン」がベストセラーになって以来、いやそれ以前からなのかもしれませんが、フラット化といった言葉を錦の御旗に「もう新しいモノは生まれない」「文化は緩やかな死を迎える」といった言説がまことしやかにささやかれ、その反動として王道復古的なものが立ち上がってきても所詮は島宇宙での小さな共同体の中の出来事でありそれは全体に波及するような大きな価値にはなり得ないといったことが正論としてまかり通ってきたのがいわゆるゼロ年代と言われる時代だった、そう考えています。そして実際その枠組みは強固で、閉塞感の中で忸怩たる思いをしつつも、「それ」を乗り越える想像力を得られないまま、結局は自分もまた自分の好きなモノの殻の中に閉じこもって生きてきた。ニコニコ動画に出会うまでは。

ニコニコ動画がもたらした想像力

 何故私がニコニコ動画をここまで褒めそやし、持ち上げるのか。それは上で書いたような問題意識について前提として了解してもらわないと、おそらく分からないんではないかと思っています。はっきり言ってしまえば、私はいわゆる「ポストモダン」が大嫌いです。だからこそ同時にその枠組みの強固さに絶望感を抱いていた。文化の蛸壺化はそのまま死に繋がる想像力だ。といってある価値観を他者に押しつけて無理矢理その価値を高めるいわゆる決断主義的なやり方が正しいとも全く思えない。そんな中で現れたのが、ニコニコ動画だったんです。

ホームポジションを持つ事の価値

 前回の記事で私がもっとも伝えたかったのは、自分の中にホームポジションをもっている事の大切さ、その価値を守り高めようとする意思の必要性なんですね。

 この文化越境を触媒したのが、ニコニコ動画という場なのは間違いない。文化の交差点としてそこに行けば違う種族の人たちと一体化して溶け合う名状しがたい体験を得ることが出来る。そしてこれがとても重要なことなんだけれども、それでもやっぱり私は「語るオタク」のままなんですよね。

拡散ではなく、越境するということ

 ユリイカの座談会の中で濱野智史さんが『僕は音楽の歴史についてはまったくの無知です』と言っているのがとても象徴的でまた共感するところなんですけれども、同人音楽、クラブ文化というものの文脈を理解しようと努めても、それで聴くだけで良いよね、踊るだけで楽しいよね、とはならないで、やっぱり「語る」んです。それは「語る」ことが楽しいから。好きだから。

 それはクラブで踊ってる人たちもおそらくは同様で、語ったり歴史を知ったりするのも面白いけど、やっぱり「踊る」のが一番楽しい、そこが自分たちのホームポジションだという実感を持っているのではないかなと。今まで他文化へ接続しようと思ったらそこに肩までずっぽりと浸かりきるくらいの覚悟が必要で、それゆえにトライブ化、文化の断絶というのがあった。それがニコニコ動画という場を通すことでいとも簡単に越境できる。こんなに近くにいたんだということを改めて知ることが出来る。それが本当に面白くて面白くて仕方がない。

誕生でも発見でもなく、越境が始まったんだと思う - 未来私考

 自分の好きなものの中にしっかりと足場を据えながら、それでいてなお自由に他の文化圏へと足を踏み入れて、新しい何かを持ち帰って、あるいは相手の文化圏へと何かを残していくことが出来る。あるいはある文化圏で特別な価値を持ったものが生まれた時、部族的な蛸壺の中でのみ消化されるのではなく、広くあらゆる階層へと飛び出していける。そこには、フラット化した世界を越えて新しいものを産み出していける想像力の可能性がある。

 これは、妄想です。今現在世界はまだそこまでその姿を現していない。ただ、その可能性の萌芽はあちこちで芽吹いている。その芽を守り、育てることこそが、大げさに言えば今の自分たちに課せられている使命なんだと思っています。

オタク」であることのプライド

 そういった状況下で、いわゆる「オタク」である自分に何が出来るのか。それはやはり「語る」ことしかないんですね。オタクは、過去20年くらいの歴史の中で、自分たちの好きなものを守るために、いい歳して子供のオモチャに拘泥するような自分たちの在り方を肯定するために、ひたすらに作品の価値を語り、歴史を紡いできた。その紡いできた歴史の上に、今日のいわゆるオタク文化の隆盛というものが、ある。そう思っています。

 その「語る力」「歴史」を育んできたことは、オタクにとって誇っていい、大きなアドバンテージなんだと。そしてそういった「語る力」はアニメ・マンガ・ゲームといったオタク文化の中心地以外においても有効であることは、東浩紀らがライトノベルエロゲーといったジャンルを持ち上げていった過程においてもある程度証明されている。それがクラブカルチャーや、あるいはヤンキー文化、ケータイ文化圏、我々の知らない様々なジャンルを越境していったときにも大きな武器になる。そういったこともこれから徐々に証明されていくんじゃないかという妄想もまた抱いています。

 話がどうにもSFじみた大げさなものになってしまうので、なかなかこの話は切り出すのがとても難しい。少しずつ小出しに小出しにしていたのですが、このあたり一気に語ってしまわないとどうしてもいろいろ誤魔化す形になって旨く伝わらないと思い、とにかく書けるだけ書いてみました。乱文失礼。

コウコウ 2008/12/27 10:34 オタク=マニアと呼び替えても良いのではないかと。
鉄道やら軍事やらバイクやらにディープに耽溺している人は
マニアと呼ばれているわけで、そういう人たちも語りますよね。
オタクというのは、アニメや漫画やゲームのマニアというだけではないかと思うのですが?そういう拘泥するような趣味のない人から見ると、拘泥や耽溺が一種異様に写るのではないかと想像します。私もオタクで飛行機マニアでバイク好きなので、変なやつ扱いです。

GiGirGiGir 2008/12/28 10:26  確かにオタクという語は指し示す範囲が広すぎて使い勝手が悪いですね。実のところ呼称は何でもよくて、「あなたはオタクですか?」と聞かれたら「はいそうですよ」と答える程度の話で、そのあたりタイトルの付け方間違ったなーと思います。「語るオタクとしてのプライド」にしておけばよかったですね…今更だけど変えるかな?

井汲井汲 2009/01/01 00:01 このエントリにはかなり共感を覚えました。エールを送るとともに、私の思うところを少し書いてみようと思います。以前の「漫研」チャットで、ルイさんも交えて出ていた話に対する回答の一部にもなっていると思います。

> この2者は明らかに違う存在だと私は考えていて、その点ではid:kaienさんが引用している岡野勇さんの言葉にシンパシーを感じる側の人間だったりします。

これで GiGi さんのスタンスがよくわかりました。この部分は私も大体同様です。

で、私が「原作つきのアニメはひとつたりとも認めない。全部やめちゃえば?」と思ったり、言ったりしてるのもそのあたりと関連しています。だって今の原作つきアニメって、事実上そのすべてが“作品をただ受容するだけの”層に媚びて、その願望・需要を満たし、奉仕するため「だけ」の存在になってるから。

GiGi さんが「語るオタク」を肯定され、“文化の蛸壺化”を否定されるのは、“自分たちの好きなものを守るため”だったわけですが、その“守る”という言葉には、予め「誰かから」守る、という視点がセットされていますよね。この場合は「何かから」ではなく、人としての「誰か」、“自分たちの好きなもの”を蔑視し、存在価値を否定する連中、というのがその「誰か」として想定されているのだと思います。多勢と良識と常識を笠に着て、自分が傷つく心配のない安全な場所から専横を揮う尊大な奴ら。

ここでは話の対象を「アニメ」にしておきますが、そういう連中がアニメを否定するのはいつもごく容易で、「だって、実際ろくでもないものが大半じゃん」で済んでしまうんですね。これは正論であるだけに、反論が難しい。と言うか、できない。実際、狭い視野しか持たない下らない連中の願望をみたすためだけのものがせっせせっせと供給されて、それを消費する側もそれを喜んで受容しているわけですから。そのような蛸壺化した現状が、ゴールデンタイムから TV アニメがほとんど姿を消した、というような所に端的に現れているのだと思います。要するに「普通の人」に見向きもされなくなってしまっているのですね。ここで「ゴールデンタイム云々は他の要因も大きくて、今や TV は大衆メディアとしてかつてほど絶大な No.1 の地位にいないということもあるのだ」というような反論はありうると思います。が、たぶんそこは複合的な要因が作用していて、それひとつだけに帰せられるものではないというのは事実でしょうが、しかしアニメに「普通の人」が見向きもしない、少なくともゴールデンタイムに CM を出す企業の意思決定を行う層にはそのように認識されているというのは間違いないと思うんですね。要するに、大半の人(=「普通の人」)に、アニメというのはどうでもいい代物と認識されているのです。だとしたら、一部の腐った連中だけが喜ぶような「原作もの」のアニメというのは、長期的に見れば悪い影響しかない…というのが言いすぎでも、悪い影響の方が圧倒的で、それ以外の要素は考慮に値しない、というのが私のスタンスです。

(これは「スタージョンの法則」で弁護を試みるのは無意味どころか、むしろ逆効果…という辺りの話は以前ペトロニウスさんの所で説明しましたっけ)

さて、ここらへんから GiGi さんの見解と対立する話になっていきます。これまで述べてきたように、“今日のいわゆるオタク文化の隆盛”というものはない、あるにしても非常に危うい風前の灯火のようなもので、“隆盛”という言葉はふさわしくない………というのが私のスタンスなんですが、それもあって私は「(オタクが)語る」ことの力はかなり疑問視しています。そんなことをしてもアニメ(やその他)を否定する連中にとっては全然痛くも痒くもなくて、こちらの言い分に何一つ耳を傾けないまま、その根拠を「いくらご大層なこと言おうとも、実際お前ら全然支持されてないじゃん、ロクでもないものをロクでもないまま受容して、そのことに対する自戒も反省も自浄作用もひとつもないじゃん」という紋切り型の正論に求めることからですね。これは悪質なんですが、正論である以上こちら側に有効な手がありません。

私としては、この状況を打開できるのは、ペトロニウスさんの所でも書いたように「普通の人が、普通に受容する」状況を作るしかないと思っています。アニメを蔑視する連中が、上述のような「悪質な居直り」に安穏としていられるのは、「自分たちが絶対的多数派である」という担保の上に胡座をかいているからですから。連中が聞く耳持たぬつもりなら、「ごく普通の人が、ごく普通にアニメを受容し、その価値を認め讃える」という状況を作って初めて奴等を屈服させ、足元に這いつくばらせることができるだろう、と。連中が胡座をかける担保を奪い去って、こちらの言い分に正面から向かい合わざるを得ない位置に叩き落としてからが、「(オタクの)語り」の出番だろうと思っています。

もちろん、アニメの場合は「原作もの」という「安全パイ」は捨てにくい、という事情は大きいの額のは確かなんですけどね。関わる人数の大きさ、動く金の大きさを考えると、売れ行きが事前に読める「原作もの」は、オリジナルに比べて遥かにやりやすく、手放すことは容易ではないでしょう(また、マンガと比べた場合、アニメに比べて形にするのに必要な金の大きさがずっと小さくて、マンガは枠に囚われず冒険に踏み切れやすいメディアであるのに対し、アニメはやはりオリジナルはやりにくい、ということは事実だと思います)。が、私はここは個人的には、現実性を二の次にしてでも「原作ものなど全て止めるべきだ」とまでいう主張・視点は、持たなければいけないものであるはずだ、というスタンスでいます。

あともう一つ、アニメに対して「何しろかかる金が大きくて…」という言い訳に冷めた視線を送ってしまう大きな理由は、(実写)映画界と(コンピューター)ゲーム界、という分野があるからですね。もちろん、どっちも原作ものは非常に多い。だけどその割合は(ちゃんと統計をとったわけではないけれど、ほぼ明らかな実感として)アニメほどは原作ものに極端に偏ってはいない。それはやっぱり、「原作ものだけではなく、映画なら映画、ゲームならゲームの、それ自身の持つ魅力・面白さ」というもので勝負しようとする気概があり、またその魅力・面白さに関する自信・信念を持っているからでしょう(それが唯一の理由ではないとしても)。そういう点にかけては、アニメ界は残念ながら遥かに劣る。実際、門外漢の感想ですが、ここ数年の任天堂の好調さはまさしく「(それまでゲームとは縁の遠かった・あるいは近年遠ざかっていた)普通の人」を大量に取り込んだことが最大の要因であるように思います。「ごく普通の人が、何の抵抗もなく、ごく普通にゲームに接する」というグランドデザインを描き、それを実現させた、という点に関しては舌を巻きますし、敬意を表さざるを得ません。

んで、ここで話が最初の方に戻っていきますが、今話題に上っている「超ライトオタク」というのは、言い方を変えれば「普通の人々」、あるいは「普通の人々と紙一重くらいしか離れていない人々」のことなんじゃないでしょうか。私はニコニコ動画についてはほとんど知らないし、実は割と嫌いだったりもする(笑)ので、ニコニコ動画そのものが状況の突破口になるかどうかには懐疑的ですが、ここで言われている「超ライトオタク」が「『普通の人』が普通に、抵抗なく、受容する」という層が大量に発生する現象の嚆矢、ないしモデルケースになると興味深いなあ…という観点では注目に値しそうですね。

といった感じで、「超ライトオタク」への注目の必要性を認識させて貰えた、ということでも、このエントリには感謝しています。