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真を求めて 皆様とともに幸せになりたい

2018-11-14

(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)

題:(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月14日、日本領の尖閣諸島を編入した。
  尖閣諸島は、閣議決定沖縄県に編入された日本固有
 の領土で、周辺海域に石油資源などが埋蔵されている可
 能性が指摘された1970年代になって、急に、中国が領有
 権を主張するようになった・・主張すればいいというな
 ら誰でも何でも言える・・この逆のことだって言える。
  古来から日本領だった尖閣諸島は、現在、日本が有効
 に支配しており、領土問題は存在していない。
.
1895年1月15日、有栖川宮熾仁親王が薨去、61才。
  有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんの
 う、1835年2月19日〜1895年1月15日)有栖川宮9代親王。
  有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。
  1851年(嘉永4年)(16歳)仁孝天皇皇女・和宮親子内
   親王と婚約したが、和宮内親王が将軍・徳川家茂
   降嫁のため沙汰止みとなった。
  1858年(23歳)日米修好通商条約の調印に反対して尊
   王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持し主張した・・
  1864年(29歳)国事御用掛に任ぜられたが・・攘夷(じ
   ょうい)論を主張・・以来国事に奔走。
  1864年8月26日(29歳)禁門の変で長州藩士に荷担した
   ゆえをもって謹慎を命ぜられた。
   この後、国事御用掛を罷免され謹慎の身となる朝譴
    (ちょうけん、おとがめ) を受けた・・が・・、
  1867年12月(32歳)王政復古とともに新政府の総裁職
   に就任した。
  1868年1月27日(33歳)鳥羽・伏見の戦い(〜1868年1
   月30日)・・
  1868年2月(33歳)戊辰戦争では、征東大総督として官
   軍を率いて東下、江戸に入り・・鎮定に功を立てた。
   のち兵部卿、福岡藩知事、元老院議長・参謀総長
   を歴任した。
  1877年(42歳)西南戦争では征討総督となり、
   戦後、陸軍大将となる。
  1889年(54歳)参謀総長に進み、
  1894年7月25日(59歳)日清戦争1895年4月17日)に
   は広島大本営に軍務をとったが・・、
  1895年(61歳)病を得て没した。
   陵墓は東京都文京区大塚5丁目豊島岡墓地
.
1895年1月15日、播但鉄道(ばんたんてつどう)の寺前駅〜
 長谷駅間が開通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道JR西日本
  播但線の大部分が私設鉄道だった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れた。
  山陽鉄道国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
  1876年、現在の姫路市飾磨と生野銀山の間には生野鉱
   山寮馬車道が整備された。
  1887年、内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄
   道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、「生野ヨリ(中略)
   飾磨港ニ達スル」経路で鉱山と港を連絡する意図で
   将来は蒸気鉄道にする計画だった。
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1895年1月16日、ハワイ人王政派が武装蜂起した
  アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住
 し、ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起
 した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた。
  この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が
 逮捕され・・幽閉された。
  原住民の大虐殺の後、ハワイを完全に乗っ取った。
  1865年5月9日、アメリカ南北戦争が終わる布告が出
 された。
  この南北戦争が終わった頃から、アメリカ本土では肉
 や砂糖価格が急騰した。
  このためサトウキビの栽培に適したアメリカ周辺の島
 がアメリカの餌食となる。
  アメリカの砂糖商人たちは、襲いかかるようにその島々
 の土地を買った。
  そして、すさまじい勢いで開発されていった。
  1860年代で、アメリカの白人たちは、すでにハワイ
 土の4分の3の土地を取得した。
  そして、その土地をサトウキビプランテーション
 して行った。
  南のキューバ島と、西のハワイ島が欲しいアメリカ
  その島々が餌食となり、砂糖商人たちの儲けの金庫と
 なった。
  今(2018年)、日本の北海道が同様に中国に買われて
 いる。
.
1895年1月20日、日本軍が、山東半島に上陸した。
  清国艦隊の北洋艦隊の拠点である威海衛の攻撃を行う
 ために海から山東半島へ進み、栄城湾からの上陸を行っ
 た。
  軍艦からボートに乗り換えて上陸を行った。
  この作戦が行われる2日前の1月18日に、連合艦隊司令
 長官の伊東祐亨海軍中将が本国の大本営に送った電文で
 は・・
  「翌日(1895年1月19日))の午後1時に、陸軍の運送
 船を護送して栄城湾に向かって出発する」ことが伝えら
 れている。
  また、作戦が行われた4日後の1895年1月24日の大本営
 が陸軍次官の児玉源太郎陸軍少将へ送った電文では・・、
  栄城湾からの山東半島上陸作戦に参加した薩摩丸から
 の報告内容として・・この作戦において、陸軍部隊の揚
 陸に先行して、海軍の陸戦隊が上陸したことや・・、
  この時に清国軍からの攻撃があったこと、戦闘の後に、
 順次運送船が到着し、陸軍部隊の揚陸が進められたこと
 が伝えられている。
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1895年1月22日、ハワイ王国が滅亡した。
  リリウオカラニ女王が廃位させられて、ハワイ王国
 滅亡した。
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1895年1月28日、九州鉄道の川尻駅〜松橋駅間が開通した。
  その後、熊本方面と天草・島原との連絡のために、1899
 年12月25日に、宇土駅から三角駅までが開通して、宇土
 駅が分岐駅となった。
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1895年1月28日、関西鉄道の柘植駅〜奈良駅間の建設免許状
 が下付された。
  奈良鉄道によって京都駅〜木津駅〜奈良駅間が開通し
 た。
  関西鉄道奈良線と名付けられているが全区間が京都府
 内にある。
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1895年1月29日、高等女学校規程が公布された。
  文部省令第一号 (明治28年文部省令第1号)
  高等女学校規程ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十八年一月二十九日文部大臣 侯爵西園寺公望
  高等女学校規程
  第一条 高等女学校ノ学科目ハ修身、国語、外国語
      歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、
      図画、音楽、体操トス又随意科目トシテ教育、
      漢文、手芸ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルコ
      トヲ得
      外国語、図画、音楽ハ府県立学校ニ就キテハ
      文部大臣ノ許可ヲ受ケ其ノ他ノ学校ニ就キテ
      ハ地方長官ノ許可ヲ受ケテ之ヲ欠クコトヲ得
      又生徒ノ志望ニ依リ之ヲ課セサルコトヲ得
  第二条 高等女学校ノ修業年限ハ六箇年トス但土地ノ
      情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
  第三条 高等女学校ノ第一年級ニ入ルヘキ者ハ修業年
      限四箇年ノ尋常小学校ノ卒業生若クハ之ト同
      等ノ学力ヲ有スル者トス (以下略)
.
1895年1月31日、京都で、わが国最初の路面電車が開業した
 (電気鉄道のはじめ)(2月1日説あり)
  京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)〜伏
 見下油掛(京橋)間を開業した。
  当初は、停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗
 降扱いを行なった。
  この市街路面電車の歴史は、1978年9月30日(昭和53年)
 までの83年間だった。
  民営の京都電気鉄道会社(京電・きょうでん)が、東洞
 院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停
 車場(しちじょうていしゃじょう、京都駅)と伏見町(ふし
 みちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始し、当
 時、先走りの少年が居た。
  開業の6か月後の1895年8月、雑踏や街角、そして、橋
 上では、電車の先五間(約9メートル)以内を先行して、昼
 は旗、夜は提灯をもち、「電車がきまっせえ。あぶのお
 っせえ」と叫びながら、線路を走る告知人がいた。
  告知人は、12歳から15歳の少年で、先走りと呼ばれた。
  この告知人制度は、府令第六十七号電気鉄道取締規制
 によるもので・・
  仕事は、危険な上に、汗とほこりにまみれての重労働
 で、少年が電車にひかれる事故が相次いだ。
  そのため、告知人制度は廃止に至った。
  また、動力の電気は、琵琶湖疏水(びわこそすい)の水
 力発電によって電力が供給されていた。
  そのため、疏水の流れが止まると、京電も休業となっ
 た・・疏水止まれば電車も止まる・・
  この京都の路面電車(京電)は、1912年6月、京都市
 電車の営業が開始され、激しい客取り合戦が繰り広げら
 れる様になった。
  1918年7月(大正7年京都市が京電を買収し、競合区
 間の路線が統一された。
  そして、大正中期から昭和初期まで、市電の黄金時代
 が続いた。
  そして、また、1959年1964年から、市電と競合する
 市バスや会社バスが増加した。
  更に、自動車も多くなりはじめ、路線の自由がきかな
 い市電の経営は行き詰まりを見せた。
  1970年3月31日、日本最古の路面電車路線だった伏見線
 (塩小路高倉・しおこうじたかくら)と中書島・ちゅうし
 ょじま)間と、稲荷線(勧進橋・かんじんばし)と稲荷間
 が廃止されたのを皮切りに・・路線が次々と廃止され・・
  1978)年9月30日、残る外郭線(北大路西大路・九条・
 東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止された。
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1895年1月、博文館「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」
 を創刊。
  太陽は月刊の総合雑誌で、定価15銭だった。
  内容は、論説、史伝、地理、小説、雑録のほか、政治、
 法律、文学、科学、商業、農業、社会など・・
  執筆陣は各分野の知名人を網羅した。
  「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負
 けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を
 発表し、その翌月「太陽」を創刊した。
  太陽の名が示す様に「国運隆昌(りゅうしょう)」を表
 わし、「公平不偏を以(もっ)て立つ」とした。
  しかし、大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、対応し
 きれず、「中央公論」などにその地位を奪われて、廃刊
 に追い込まれた。
  文学作品は・・、
  斎藤緑雨:『雨蛙』(1895.5)樋口一葉:『ゆく雲』
 (1897.5)泉鏡花:『海城発電』(1896.1)斎藤緑雨
 『おぼえ帳』(1897.4 - 12)二葉亭四迷訳:ツルゲネフ
 の『うき草』(1897.5)広津柳浪:『畜生腹』(1897.10)
 国木田独歩:『郊外』(1900.10)泉鏡花:『鷺の灯』
 (1903.9)正宗白鳥訳:チェーホフの『不運くらべ』
 (1904.6)永井荷風:『酔美人』(1905.6)、『夜半の
 酒場』(1906.12)、『旧恨』(1907.1)、『春と秋』
 (1907.10)、田山花袋:『少女病』(1907.5)永井荷風
 『カルチェー、ラタンの一夜』(1909.1)(『おもかげ』
 と改題し『ふらんす物語』に収録)正宗白鳥:玉突屋
 (1908.4)森鴎外訳:リルケの『家常茶飯』(1909.10)
 久保田万太郎:『雪』(1912.5)・・など
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  (今日の言葉)
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  題:北海道には大変多くの縄文遺跡がある(紀元前3200年)
    それから4400年の後に、アイヌ文化は作られた(1200年頃)
    当然、アイヌ先住民族ではない。
.
紀元前3200年、北海道には大変多くの縄文遺跡がある。
  その一つ・・大船遺跡(函館市
  太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代前期後
 半から中期後半(紀元前3,200年〜紀元前2,000年頃)の大
 規模な集落遺跡で・・、
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛
 土遺構があり・・、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群
 が確認されている。
  北海道北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道および北東北に位置し、縄文時代の各時
 期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)における、
 人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺
 跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、
 周堤墓)で構成された17遺跡からなる考古学的遺跡群であ
 る。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くあり・・、
  縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺物が数多
 く発掘されている。
  それらは、長く北海道で生きて来た縄文人の生活を彷
 彿(ほうふつ)とさせる。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚(伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚(洞爺湖町):周辺の自然環境
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
   9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚(七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚(青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
      ・
      ・
      ・
      ・
1200年頃、アイヌ文化が作られた。
  アイヌ文化が、今から800年ほど前(1200年頃、本州は
 鎌倉時代)に成立した。
  この文化は、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、
 さらに、本州やサハリン以北の地域の人々との交流で形
 作られた。
  (参考)擦文文化:北海道東北地方北部に分布し、
     北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器
     (はじき)を伴う文化が接触してできた。
      アイヌ文化に先行する文化。
      おもな生業(なりわい)は漁労で、方形の竪
     穴住居にはかまどがあり、粟、ひえ、そばなど
     が出土する。
  (参考)続縄文文化北海道東北地方北部の弥生・
     古墳文化に並行する時代の文化。  
      寒冷の為、稲作は行わなかった。
      石器、骨角器を利用する縄文土器の影響を強
     く残す狩猟、漁労の文化。
  中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から
 450年前)のアイヌ文化の遺跡は、上ノ国町松前町など
 の道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されて
 いる。
.
1599年、北海道の松前藩は、豊臣秀吉に直接臣従していた。
  しかし、1599年のこの年、徳川家康に服して蝦夷地
 支配権を認められた。
  始祖は室町時代武田信広甲斐源氏、若狭武田氏の
 子孫)で、上国守護に任ぜられ、北海道渡島半島に地
 位を築く。
  (参考)渡島半島:おしまはんとう、北海道南西部に
     ある半島。
  アイヌの首長のチコモタインやハシタインとも和睦し、
 豊臣秀吉に直接臣従した。
  1599年には、徳川家康に服して蝦夷地の支配権を認め
 られ・・、
  また、徳川家康は、蝦夷地の交易独占権を認めた。
  アイヌの人々も、この松前藩だけとの交易だけではな
 く、本州に出かけて交易を普通に行っていた。
  5代将軍・徳川綱吉(在任、1860年〜1709年)の時、旗
 本待遇となる。
  1719年、1万石格の大名に列席する。
  江戸時代1833年までには、松前は、人口が1万人を超
 える都市となっていて、繁栄した。
.
1673年、北海道の江差に檜山奉行を置いた。
  檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯
 であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜
 山とされた。
  檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し・・、
  1673年2月に、樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また、野
 火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた。
  また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物とし
 て活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩か
 らも山師が訪れるようになった。
  こうした山師による伐採の運上金は、松前藩の財政の
 一端を担った。
  しかし、1695年4月、檜山で山火事が発生し、過半数の
 樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を
 請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、
 池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけ
 るエゾマツの伐採が許可された。
  山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下
 って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその
 材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。
.
1756年、弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁
 業に従事していたアイヌに対し、同化政策を実施した。
  以後、本州からアイヌ文化が急速に失われた。
  (参考)乳井貢:にゅういみつぎ、1712年〜1792年。
      陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩(青森県)藩士。
      1753年、勘定奉行となり、貸借証文の破棄、
     貯米の実行など藩の財政再建につとめる。
      宝暦5年の大飢饉の際は、果敢に対応して領内
     から餓死者を出さなかった。
      和算、儒学、農学など諸学に通じた。
      著作に「志学幼弁」「初学算法」など。
.
18世紀後半、マレーシアが、イギリスの侵略に屈服し、直
 接統治される。
  さかのぼること15世紀、マレーシアマラッカ王国が、
 ポルトガルに屈服して支配されていた。
  17世紀には、今度は、オランダの支配を受けた。
  18世紀後半に入るとイギリスが侵略し・・、
  イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡
 植民地として一帯を直接統治した・・、
  さらに、北ボルネオ・マライ半島へも侵略して支配し、
 イギリス植民地は強化された・・
  1895年、マライ連邦となる。
.
19世紀、タイが、イギリスに侵略され、また、フランス
 も侵略される。
  13世紀のタイは、最初、スコータイ王朝が、民族統一
 国家をつくった。
  14世紀からは、アユタヤ王朝となり400年間続いた。
  1782年、今日のバンコク王朝が創設された。
  19世紀〜20世紀、イギリスフランスからの侵略を受
 けた。
  そして、ラオスカンボジア・マレーにある領土を取
 られた。
  しかし、インドシナ半島イギリスフランス両国の
 緩衝国家として独立は保った。
.
1868年1869年、亘理伊達氏(わたりだてし)が北海道
 移住した。
  陸奥国伊達郡宮城県亘理郡亘理町)が出身地・・、
  1603年2月、亘理郡亘理城主になったのが始まり・・、  
  江戸時代には、2万4000石以上を領した。
  しかし、第14代当主の時、戊辰戦争に敗れ(1868年
 1869年)所領を100分の1に減封された。
  数百名の家臣と共に北海道伊達市に移住し・・、
  家臣と共に伊達市を開拓した。
  1892年、その功が認められ、男爵位を授けられた。
  亘理伊達家の北海道への開拓移住に際して、アイヌ
 人々の手助けがあった・・あい和した開拓だった。
  当主であった伊達邦成は、家臣たちに対して、「アイ
 ヌの人々を尊重すべき」の内容の規則を作ったりて、尊
 重し、良好な関係を築いていた。
.
1875年5月7日、樺太・千島交換条約の後、物資の補給と防
 衛上の理由から、千島のアイヌの方々は、そのほとんど
 が当地を領有して領土だった日本政府によって、日本領・
 色丹島(しゃこたんとう、今・現在、ロシア不法占拠
 している、また、日本領・千島も不法占拠している)へ
 移住して、安全に守られた。
.
1899年、清水港が開港した。
  「お茶場唄」あるいは「お茶場節」と呼ばれる古謡が
 ある。
  これは、横浜から盛んに日本茶が輸出されていた19世
 紀後半に誕生した。
  しかし、1899年に、全国最大の茶の産地の静岡県の清
 水港が開港して、横浜の製茶貿易が衰微した。
  しかし、歌は、その後も、長く歌い継がれた。
.
1937年12月、この時、南京事件が起きたとされている。
  中国は、南京事件の主張において殺された人数をだん
 だん増やしてきた。
  世界へ、日本を貶(おとし)めるために言う人数は、
 より多い方が都合が良いとして増やし、とうとう30万人
 だと言い出した。
  南京に居る人数より多い人数を言い出したので、中国
 は、「当時、南京には50万人が居た」と言い出した。
  そして、「30万人が殺されたので20万人になってしま
 った」と言った。
  まったく馬鹿々々しい言い方をする中国で、この様な
 言い方で思い出すのが「小学校の算数の問題」。
  これは、半分、笑い話なのだが・・、
  「木に鳥が10匹、とまっていました。狩人が1匹、撃ち
 落としました。残りは何匹ですか?」という問題で・・、
  算数の問題として答えるならば、10−1=9で9匹と答え
 るところを、ある子供が0と答えた。
  残りの鳥は、銃声で「すべて逃げた」と答えた・・と
 いう話である。
  つまり、中国の作り話も、これで・・、
  南京に50万人の人が居ました・・この人たちよりはる
 かに少人数の日本兵に・・木の鳥のように逃げもしない
 で、30万人が殺された・・だから、南京の人たちが20万
 人になってしまいました・・と、中国は馬鹿々々しいプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  まったく馬鹿々々しい中国のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  そして、中国のおかしな所は、当時の南京の自治委員
 会の記録を秘密にしている。
  この資料や記録を見れば、当時の南京に居た人数が分
 かるが、中国は公開しない。
  中国という国は、今まで公開していた資料でも、都合
 の悪い所が出て来ると非公開にしてしまう。
  そのような卑怯な卑劣な国である。
  まったく信用の出来ないアン・フェア(不公正)な国
 である。
  そして、最近は、私的な会話や、インターネット上で、
 中国の研究者の中に「南京の大虐殺は事実でない」とい
 う人が出て来ている。
  「南京事件は事実ではないので、その様なことを言い
 つのるのは日中友好にマイナスになる」と言う人が出て
 来ている。
  しかし、世界は、中国が必死にプロパガンダすること
 が事実だと思っている。
  英語版で出版された「ザ・レイプ・オブ・ナンキン(
 アイリス・チャン著)」などを事実と思われされている。
  特に、アメリカでは、このプロパガンダ本が真実と思
 い込まされている。
  この本の嘘が日本の研究者によって「嘘であると立証
 されている」。
  日本の研究者によって真実が示されている。
  日本の研究者は、一つ一つその真実を発掘して行った。
  今、世界は、中国が、この様な嘘行為をする、「嘘の
 プロパガンダばかりする国だ」と知り始めている。
.
1941年12月8日、大東亜戦争第二次世界大戦)が始まり、
 東亜(とうあ)永遠の平和を確立を期す(きす、心に誓
 う)
  太平洋戦争開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
.
  天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇
 ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
  朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全
 力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ
  勵与μ灰鯤行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆
 一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ
  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定
 ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル
  皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措
 カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ
  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナ
 リ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル
  洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國
 政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ
  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラ
 シメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ
  帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶
 ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ
  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ
 禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
  逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ
 甼シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナ
 ル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
  セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ
 李奪淵徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
  此劫岸讃綏鎧上ノ脅威ヲ畭腑薫淵堂罐魘從セシメ
 ムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
  帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危
 殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇
 宗ノ註余絅忘潺蠶織脇鰺衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ
  遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確
 立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
  御 名 御 璽
   平成十六年十二月八日
 ・・現代語、読み下し文・・
  天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ば
 んせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日
 本帝国天皇は、昭(あきらか)に 忠誠(ちゅうせい)勇
 武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に
 示(しめ)す。
  朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対
 して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海
 将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って
 交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆ
 うし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、
 朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)
 其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一
 心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せい
 せん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんこと
 を期(き)せよ。
  抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(か
 くほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕
 顕(ひけん、大いに明らかなこと)なる皇祖考(こうそ
 こう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述
 (さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう、遠い将来まで考え
 たこと)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)
 かざる所(ところ)。
  而(しか)して列国との交誼(こうぎ、心が通い合っ
 た交際)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょう
 えい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(
 これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ、重要な
 意義)と為(な)す所(ところ)なり。
  今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開く
 に至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)
 ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざ
 し)ならんや。
  中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)
 せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和
 を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(
 かんか、武器一般)を執(と)るに至(いた)らしめ、
 茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国
 民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜん
 りん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけ
 い)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残
 存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん、援助)
 を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(い
 ま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)
 めず。
  米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の
 禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(
 びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)
 の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あ
 まつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺
 に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、
 更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)
 を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(
 せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。
  朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡
 (うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しき
 に弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう、きわめてわずか)
 も交譲(こうじょう、譲り合う)の精神なく、徒(いた
 づら)に時局の解決を遷延(せんえん、はかどらぜず伸
 ばす)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(
 ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、
 以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。
  斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東
 亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)
 の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、
 帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きた
 い)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)
 に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、
 蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうが
 い)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。
  皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上
 (かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、
 有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に
 信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かい
 こう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せ
 んじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以
 って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
  天皇の署名と印
   昭和十六年十二月八日
.
1945年7月12日、日本の交信を完全に傍受していたアメリカ
 また、暗号を完全に解読していたアメリカ
  その様な中で、1945年7月12日午後8時50分、日本の外
 相は、モスクワの駐ソ大使あてへ至急電報を打った。
  「ソ連へ依頼している『停戦への仲介』に対して何の
 反応も無いこと、天皇陛下犠牲者の増加について御心
 配をなされ、早急な停戦を望まれて居られること」、
  そして・・、
 「大東亜戦争第二次世界大戦)で、米英があくまで無
 条件降伏を主張する限り、我が国の名誉と生残(せいざ
 ん、生き残り)をかけて最後まで戦うしかない。
  だが、天皇陛下は、人類の幸福を思う気持ちを伝える
 ために近衛文麿公を特使としてソ連に派遣する事をお決
 めになった」。
  この時、アメリカルーズベルト大統領が行なったソ
 連への対日本参戦をそそのかす行動、また、煽る行動・・
  『日本の領土(南樺太、千島列島、満州、北方4島)を
 盗ってしまえば・・」と、
  そして、「旅順や大連をソ連の不凍港にしたら・・」
 という誘い・・アメリカルーズベルトのそそのかしに
 完全に乗っかっているソ連だった。
  その様なソ連には・・、「日本とアメリカの間で仲介
 をしようという気持ちは、まったく無かった」。
  日本の領土を手に入れたいというソ連が、そこに居た。
  「私は、戦争を作った」と言ったアメリカのルーズベ
 ルト大統領の、更なる罪だった。
  この後の日本の外相と、ソ連大使(佐藤大使〉との交
 信は、さすがに佐藤大使の「ソ連の見方は、正しく」て、
 その後の長い交信(2時間30分におよぶ駐モスクワ日本大
 使館と日本本国との交信)において、ソ連の対日本への
 参戦の可能性が高いことを指摘していた。
  ソ連の仲介は不可解とまで言っていた。
  ルーズベルトの不埒な言葉が完全に効(き)いていた。
  今だに、戦後70年以上経過した2018年でも、この問題
 が解決できなくて、もめている。
  卑劣な米ソだった。
  日本の「なりふり構わない仲介の要請」を体よくあし
 らい、また、無視し続けたソ連と、頭を地に付けんばか
 りの日本の仲介要請が良い展開へ動かず、膠着状況にあ
 った・・それが作戦で、引っ掛けであった。
  戦場は、戦争の終末期であり、毎日、多くの人々が亡
 くなる状況であった
  そして、日本の必死の米英との和平停戦仲介の外交努
 力・・そして、その結果において、最後に、ソ連から言
 われた事は・・、
  「ソ連政府は、明日、8月9日、日本に対し戦争状態に
 入る」。
  「ご了承ください」・・だった。
  日本の佐藤大使は、ソ連外相のモロトフから、無表情
 に・・そのことを言われた。
.
2009年12月、「アイヌの方々は先住民族ではない」が、キ
 リスト教の支援を受けて、アイヌ民族先住民とする運
 動が行われている。
  2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団
 体・個人署名の要請」が行われた。
  また、中国は、自国の民族弾圧問題(チベット民族問
 題、ウイグル民族問題、内モンゴル民族問題など)もあ
 って、「日本にも民族問題があるとしたい」として、こ
 のアイヌの方々の先住民とする運動の陰で暗躍している。
  日本には、4万年以上の5万年前から、アフリカの地を
 発したホモ・サピエンス先住民が、日本の地へ、あち
 こちから移住して来ていた。
  北方から・・南方から・・海からと、あらゆる方向か
 ら移住して来ていた。
  今、紀元2018年であるが、その20倍から25倍の長い長
 い遠い昔からの期間、アフリカの地から日本へ来たホモ・
 サピエンスが移動して来たが・・その様に、日本に来た
 先住民たちは、日本中を歩き回っていた・・そして、通
 婚し、交雑し、その長い長い期間の間、日本人が形成さ
 れて来た・・それは、アイヌではないのは明白・・アフ
 リカからのその到達した人種がアイヌであるはずがない。
  今まで・・、
  2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利
 に関する国際連合宣言を踏まえて・・、
  2008年6月6日アイヌ先住民族として認めることを
 政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決さ
 れたが・・
  (あくまで「求める決議」で、「認めた」ということ
 ではない・・当然)
  しかし、北海道アイヌ協会が、北海道の区域外に居住
 するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合
 せに基づき活動している。
  その際、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料と
 している・・また・・
  2008年5月12日に、鈴木宗男が国会に提出した「先住民
 族の定義、及び、アイヌ民族先住民族としての権利確
 立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に
 対し、
  2008年5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわ
 ゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分
 け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、
 独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持してい
 ること等から、少数民族であると認識している」と答弁
 している。
  (ただし「先住民族」との認識ではない)
  2008年6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ
 族を先住民族とすることを求める決議」がなされた。
  (ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)
  また、法的にも・・
  1997年アイヌ文化振興法施行によって、北海道旧土
 人保護法は廃止された。
  しかし、このアイヌ文化振興法では、アイヌ先住民
 族と認定されなかった。
  また、アイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の
 返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われた
 が、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
.
2018年10月28日、世界は、だんだん中国化するのか?
  この日の日付けの読売新聞に・・表題:「終わり見え
 ぬ『忍耐宣言』」として・・現在の台湾の苦悩がしめさ
 れていた・・以下、抜書き・・
  台湾の蔡英文総統が、10日の「双十節」(建国記念日
 に相当)に行った演説は、過去2回とはやや趣が違ってい
 た。
  中国の圧力による危機感をあらわにしていた。
  台湾は、今後も対立をエスカレートさせないし、圧力
 にも屈しないという決意だった。
  蔡英文総統は、2016年の総統選で「現状維持」を掲げ
 て、中国に急接近した国民党に圧勝した。
  この2年余り、中国は対話に応じず、統一への動きを強
 めた。
  台湾を5か国との断交に追い込んだ・・そして、台湾周
 辺で軍事訓練を繰り返し、中国に住む台湾人社会保障
 などで中国人と同等に扱う政策も発表した。
  台湾では、「現状」が次々崩されても有効な手だてが
 打てない蔡政権への不満が広がっている。
  特に、民進党の支持基盤である独立派の失望は深く、
 抗議集会が開かれた。
  トランプ米政権は、台湾との関係強化に積極的だが、
 米国の基本政策は変わっていない。
  台湾が独立に向かい、中国との間で緊張が高まること
 は望んでいない。
  過去、2000年の台湾政権は独立に傾斜し、米国に失望
 され、国際的な孤立に陥った。
  問題は、台湾がいつまで耐えられるか、ということ。
  蔡政権の求心力が回復する兆しは見えない。
  2020年の総統選では、中台関係が最大の争点になる。
  中国は、今後も圧力をかけ、揺さぶり続けるだろう。
  残された時間は、決して長くはない。
.
2018年ドイツは、第二次大戦の時、国民の半分がナチス
 党員だった。
  このナチス党員たちが、組織的にユダヤ人の方々を強
 制収容叙へ送った。
  ユダヤ人の方々のホロコースト(大虐殺)は、この様
 にして行われた。
  しかし、戦争が集結し、戦争の幕が下ろされても、こ
 のナチス党員たちの犯罪は問われることが無く、目がつ
 むられた。
  巨大な犯罪行為が厳然と存在しているが、罪を問う行
 為は行なわれること無く今日まで来ている。
  そして、ドイツでは、「ナチスが悪かったからだ」の
 大合唱をしている。
  「あなたたちが、ナチス党員だったのですよ」と、世
 界は言うだろう。
  本当に、この罪を逃れたナチス党員たちは、反省をし
 ているのだろうか?
  「あくまでもナチスの罪を問う」としたドイツは、都
 合のよいナチス党員たちだけの罪を追求する行為だけで
 済ませて来ている。
.
2018年、世界の脅威となっている中国
  戦後、中国で偶像的に崇拝され、今は廃(すた)れて
 いる毛沢東・・
  その毛沢東が、「日本資本の中国進出」に感謝した。
  その様な言葉を、訪中した日本の議員団に言った。
  また、毛沢東は、「日本の軍が中国へ行ったことさえ
 感謝した」。
  その様な日本の行動の結果で、今の中国があり、毛沢
 東の地位があるということを感じ、感謝した意思表示だ
 った。
  しかし、ソビエトコミンテルンが、アメリカなどで
 暗躍し、様々なスパイ活動や謀略工作が功を奏し、美し
 く手を握った米ソの「ヤルタ・ポツダム体制」。
  (参考)ヤルタ・ポツダム体制:戦後(第二次世界大
     戦後)の世界秩序(戦後レジーム)を言い、Y
     P体制とも言う。
      戦後の世界秩序は、いわゆる「ヤルタ会談
     によって決定づけられ、東西冷戦の対立構造で、
     米ソ二大国による覇権体制ができた。
      これによって、各民族が当然に持つべき権利
     である民族自決の権利が侵害される。
  しかし、その「米ソ同盟」が形成されるかに見えたの
 も『一瞬のあだ花だった』。
  戦争も終わらないうちに、アメリカの次なる敵として
 のソビエト連邦が見えて来た。
  そのソ連を威嚇するために、日本は、アメリカによっ
 て、二発の原爆を投下された。
  また、標記の毛沢東の日本への感謝の言葉の如く、中
 国共産党の対日工作も、功を奏し、毛沢東の感謝の言葉
 となった。
  そして、ソ連は、1970年代には「軍拡に邁進した」。
  そして、近年、そのソ連の軍拡と同じ行動をする中国
 の姿となった。
  中国の膨大な軍事費は、年々増加し、台湾や東シナ海
 への領土拡大に邁進している。
  新たな脅威が形成されている・・「アメリカ、日本、
 オーストラリアアジア各国などを含めた世界の脅威」
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2018-11-04

(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)

題:(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年、出来事:
・第2次伊藤内閣1892年8月8日〜1896年9月18日
・第9議会召集(1895年12月25日)
日清休戦条約が調印された(1895年3月30日)
・第4回内国勧業博覧会が開催された(1895年4月1日)
尖閣諸島日本領土編入した(1895年1月14日)
アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住し、
 ハワイ領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた(1895年1月16日)
  そして、ハワイ王国は滅亡した(1895年1月22日)、
 リリウオカラニ女王は廃位させられた。
.
1895年、世界情勢
  1895年のこの頃、日本が、清国と戦争をする頃、ドイ
 ツやロシアも、中国の利権あさりを必死に行っていた。
  すでに、美味しい汁を吸っているイギリスをはじめヨ
 ーロッパ列強諸国・・、
  そして、アジア各地で利権を得ている列強の版図は、
 塗り替えられる可能性が出てきた。
  その一つが、フィリピンを得ようとしているアメリカ
 だった・・アメリカには、アジアの利権も美味しく見え
 て来ていた。
.
1895年、世界情勢
  この1895年から約20年前の1875年頃、ヨーロッパのキ
 リスト教諸国が収奪し、所有したアフリカの土地は、ア
 フリカ全土の十分の一(10%)に過ぎなかった。
  (10%でも酷い行為だが・・)
  しかし、それが、20年経た「この1895年頃」になると、
 実に、アフリカ全土の十分の九(90%)にまで、ヨーロ
 ッパのキリスト教諸国は、我が物顔にアフリカを自分の
 ものとしていた。
  この時期に、独立を認められていた国は、わずかに「
 エチオピア」と「リベリア」の少数の国だった。
  このリベリアにしても、アメリカの黒人の方々を、体
 よく放逐した形の棄民政策を、アメリカリンカーン
 統領が推し進め、リベリア建国するという経緯(いき
 さつ)があって独立した国だった。
  力による争奪戦が、ヨーロッパキリスト教諸国によ
 って非人道的に繰り広げられていた。
  「槍(やり)」でしか戦うすべを知らないアフリカ
 方々を、卑劣にも殺戮し、そのすべてを手に入れて行っ
 た。
  まったく赤子の手をひねるがごとき非人道的やり方を、
 好き勝手にしていた。
  この戦争を、『スポーツのような戦争だ』と言ったヨ
 ーロッパの指導者が居た。
  対等な国同士の間のヨーロッパの地の戦争とは「ほど
 遠い」、あたかも盗むがごとき卑劣な略奪と殺戮だった。
  そして、それから、そこに住むアフリカの方々を家畜
 同然に使って、アフリカの方々の生活のための作物栽培
 を止めさせ、自分たちに利を生む作物だけを作らせる行
 為などの蹂躙を行なった。
  自分たちだけに利があればよいのだというキリスト教
 の教義そのもの・・キリスト教が教えるやり方で、利益
 の収奪が行われた。
.
1895年、世界情勢
  アメリカ軍隊海軍海兵隊)がパナマ(コロンビ
 ア州)に上陸した。
  そして、サンティアゴ陥落の知らせに、アメリカのボ
 ストンからサンフランシスコまで、アメリカ内各地で、
 人々は警笛を鳴らし、旗を振って祝うというアメリカ
 ったが・・、
  そして、ハワイは、宣教という名目で宣教師派遣し、
 また、貿易商を派遣し、これを手始めに、結局は、この
 様な移民が続々とハワイ王国へ入国し、最終的にハワイ
 を乗っ取って行き、アメリカ領土としてしまった。
  そして、パナマ・・運河の構想がこの地を得たいとい
 う切っ掛けとなった。
  運河は、海洋貿易面で大きな利益をもたらす・・また、
 軍事的にも大きな戦略性を与えるということが明らかだ
 った。
  そして、この地域に勢力圏を得て行ったアメリカは、
 この運河に好適なコロンビア国の北部のこの地が、国家
 に反抗していることを利用した。
  1880年、この地のラファエル・ヌニェスが大統領に就
   任した。
  1890年アメリカ海軍大学教官マハンが、「海上
   権論」でカリブ海運河を着目させた。
  1894年ラファエル・ヌニェスが死去する。
  1895年アメリカ軍コロンビア州への上陸・・
  1903年コロンビア議会は、屈辱的なアメリカの高圧
   的態度に、アメリカ運河へ携わることを拒否する。
   これに怒ったアメリカは、パナマ地方の住民を扇動
   して、この地方を独立させようとする。
  アメリカは、軍艦を出動させ、コロンビア西部に圧力
 を掛け、この独立運動が成功する様に支援した。
  そして、パナマの独立を認めさせた。
  アメリカは、独立したパナマ政府から、運河建設のた
 めの租借権・工業権を得て・・、
  1904年に着工し、  
  1914年に開通させた。
  アメリカは、運河の完成後もパナマ内政へ介入した。
  海兵隊の上陸などの軍事介入も度々行った。
.
1895年、世界情勢
  1895年4月17日、日清戦争での日本勝利を受け、下関条
 約が締結された。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカ
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金出して領有した」様に・・、
  奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツフランスを誘って、日本へ圧力
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
.
1895年、世界情勢
  1895年、日本は、下関条約清国から台湾領有権
 得たが、その後、烏山頭ダムを建設し、水政策の展開を
 行ったり、各種の社会資本投資をした。
  その効もあり、数年で日本の投資分も回収する事が出
 き、台湾にも良いし、日本にも良いという結果となった。
  インフラ投資してその資金を回収し、なお親日国と
 なっている台湾
  一方、同様に、資金を投下したものの、その回収は出
 来ず、むしろ反日国として日本を貶(おとし)めようと
 する韓国
.
1895年、世界情勢
  1895年日清戦争によって、日本が、中国・清に勝っ
 た・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよ
 うな出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、「貢(みつぎ)を持って従属すれば良し」
 の思想で・・朝鮮はこの思想の体制に蹂躙されていた。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制がとり続けられて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国体制下に隷従させられ、従
 属させられて来ていた歴史だった・・朝鮮の2000年の歴
 史は、この思想の元での歴史とも言える。
  朝鮮は、古代から、中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティ(清への帰属意識
 として来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主(あるじ)である中華・清を敗
 北させ、負かした事は、朝鮮にとって驚天動地のことだ
 った。
  そして、朝鮮は、中華・清から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で「独立した」。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」の遠
 い昔からの「日本の毅然とした対等の独立した立場」を
 とった日本だった。
  この時、冊封体制下の体制に入ると思っていた中華の
 煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていた。
.
1895年、世界情勢
  1895年孫文が日本へ亡命し、逃れて来た。
  清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き・・、
  1894年1月、孫文が、ハワイで興中会を組織した。
  1895年の翌年、日清戦争終結後に、広州での武装
   起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡
   命した。
  1897年宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社
   頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京
   での活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
    長い間、清朝満州民族植民地にされていた漢
   民族。
    その漢民族孫文は、「独立したい」「辮髪もや
   めたい(満州族風習)」と言ってきた。
  1897年宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、
   光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成した。
    ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
    清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が蜂起して
   大動乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
   蜂起(ぶしょうほうき)が中国で起きた・・各省が、
   これに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。
    当時、孫文アメリカにいた。
    独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命
   政府をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを
   誰にするかで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
   はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  1912年1月1日、翌年になって・・孫文を臨時大総統
   する中華民国南京に成立した。
    孫文大総統に推戴(すいたい、おしいただくこ
   と)する臨時政府が、南京に樹立されて、国号を中
   華民国と改め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
    しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱
   えんせいがい)が、共和政体を宣言するに至ったの
   で、孫文は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位
   を譲った。
    だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わ
   せる時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文民主
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に、再度、逃れ、中華革命党を組織
 した。
  1914年大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、
  イギリスは、長江流域に、
  ロシアは、東三省(とうさんしょう、中国東北部)、
  フランスは、広東、広西(こうせい、広西チワン族
 治区)、雲南など・・
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。
.
1895年、世界情勢
キューバの対スペイン反乱・・アメリカは、強力なアメ
 リカ軍を利用して、巨大な植民地帝国となって行く・・
 力による収奪
.
1895年、産業:
自動車の大量生産が始まった。
 ガソリンの需要が増加へ
・日本初の1千トン級貨客船「須磨丸」が竣工した(1895
 年4月5日)
東京の大丸呉服店で、大売出しが行われた(1895年10月
 15日)
東京電灯・浅草発電所の操業が開始された。
 このとき使用したドイツAEG製の発電機が50ヘルツ
 あったので、東日本が50ヘルツとなった。
八王子電灯が設立された。
・ハーストが、各地の新聞を買収した。
コダック社が、小型カメラを発売した。
ケロッグが、コーンフレークを製造した。
アメリカニューヨークに、ピザの店が出現した。
ジレットが、かみそりの薄刃を製造した。
.
1895年、交通:
京都で、わが国最初の市電路面電車京都電気鉄道
 が開業した(1895年1月31日)
政府が、官設鉄道における輸送力増加に対処するため、
 新たに既成各線の改良と、車両の整備を骨子とする改良
 計画を立て・・、
  また、同時に、東京市区改正事業に伴う市街高架線(新
 銭座・永楽町間)、および、中央停車場の建設を改良計画
 の中に入れ政府の事業として行なうことに決定した。
鉄道技師・古川晴一が、「輾圧工形桁」の設計を完了し
 た。
北海道炭砿鉄道が、自社の手宮工場で1C形テンダ機関車
 (大勝号、のちの7150形)を製作した。
富山商業会議所が、官設鉄道信越線の運賃引下げを要求
 した。
.
1895年、論・文学・本:
樋口一葉の「たけくらべ」ができた。
小栗風葉『寝白粉』(博文館「文芸倶楽部」)、兄妹の
 近親相姦、部落問題に立ち入ったため発禁となった。
.
1895年、歌・流行・世相:
・男のイガグリ頭が流行し、バリカンが売れた。
・玩具:空気ラッパの製作
・鉄砲玩具の連発銃が発明された。
屈辱外交批判演説会が開かれ、どの弁士の発言も中
 止を命じられた。
 詔勅を読みはじめても中止となった。
・かつては、岩倉様など敬称をつけたが、この頃は、首相
 を呼び捨てにする(経済雑誌
.
1895年、発明:
リュミエール兄弟が、シネマトグラフという動画撮影・
 再生装置を公開し、映画の歴史が始まった。
ドイツ人物理学者レントゲンが、エックス線を発見し
 た(1895年11月8日)
.
1895年、科学・建築
・野中至・千代子夫妻が、気象予報の研究のため、富士山
 頂で観測を開始した(1895年10月1日)
・帝国京都博物館が完成した(1895年10月31日)
.
1895年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・第1高等学校のベースボール選手だった中馬庚が、ベー
 スボールを「野球」と翻訳した(1895年2月22日)
神田小川町ローラースケート場(車滑り場)が現れる
 (1895年8月)
.
1895年、その他:
・西洋音楽家で幸田露伴の妹・幸田延が留学から帰国した
 (1895年11月5日)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2018-10-29

(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月〜1894年12月)

題:(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月〜1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1894年12月9日、総武鉄道の本所駅(錦糸町駅)〜市川駅間
 が開通することにより、本所駅〜佐倉駅間が全通した。
  総武鉄道総武線)は、1894年7月に、市川駅〜佐倉駅
 間が開通していた。
  駅は、本所、亀戸、市川、船橋、幕張、千葉、四街道
 佐倉の8駅だった。
  江戸川区域には駅が無く、1899年4月に、平井駅ができ
 た。
  蒸気機関車が黒い煙を吐いて運行されていたが・・、
  電化は、1932年6月、両国駅〜お茶の水駅間が電化され
 た。
  そして、1933年3月、両国駅〜市川駅間が電化し・・、
  1933年9月、市川駅〜船橋駅間の電化・・
  1935年7月、千葉駅までの電化が完了した。
.
1894年12月17日、朝鮮で、第二次金弘集(きんこうしゅう)
 政権が成立した。
  朴泳孝と連立した。
  金弘集は、朝鮮王朝(李朝)末期の政治家で、1880年
 に、来日(訪問)している。
  明治維新後の日本の発展の様子を視察して、朝鮮を開
 化するのだの思い・意欲を深めた。
  この時、持ち帰った清国の外交官の著書「朝鮮策略」。
  持ち帰って国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機
 とした。
  穏健的開化派としての彼は、常に、外交の前面に立ち、
 欧米諸国などとの修好通商条約の改正を目指した。
  1882年、壬午の軍乱の後、全権副官として、日本との
 済物浦(さいもっぽ)条約の交渉にあたった。
  また、甲午農民戦争以後、1884年、領議政 (初代総理
 大臣) となり親日的であった。
  そして、急進的な改革を行なった。
  しかし、最後は親露派に殺された。
  生涯に渡って終始、国家の非常の難局に当たった悲劇
 の政治家だった。
  (参考)朝鮮策略:ちょうせんさくりゃく、
      東京の中国公使館にいた黄遵憲が書いたもの
     で・・、
      朝鮮は、自強のため中国との関係を深め、日
     本と提携し、さらに、アメリカと国交を開くよ
     うに主張した。
      金弘集で知った朝鮮国王は、これを採用した。
      そして、2年後にアメリカと条約を結び、国内
     改革を始めた。
.
1894年12月20日、中国の清国が、張蔭桓(ちょういんかん)
 らを、日清戦争の終結のための本格的講和全権使節に任
 命し、その事を、日本に通告して来た。
  日本も、直ちに伊藤首相、陸奥外相を全権に任命して
 講和交渉を開くことを承認した。
.
1894年12月21日、筑豊鉄道の折尾駅〜中間駅間が複線化さ
 れ、また、、筑前植木駅〜直方駅間も複線して開通した。
.
1894年12月22日、第8回帝国議会が召集された。
  1894年12月24日〜1895年3月23日、通常会が開催された。
.
1894年12月22日、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後
 への前奏曲」がパリの国民音楽協会に於いて初演された。
  指揮はギュスターブ・ドレ。
  初演から好評で、二度のアンコールがあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=Zw1OYRjpvFY
.
1894年12月28日、筑豊鉄道の小竹駅〜幸袋(こうぶくろ)
 駅間が開通した。
  石炭輸送全盛時代にあった。
  多数の側線が作られた。
  日本の鉄道は、1890年代から1900年代にかけて、めざ
 ましい発展をとげた。
  この約15年間に、営業キロは約2.5倍となる。
  特に、貨物輸送力は9.5倍に増加した。
  この頃は、紡績部門を中心として、日本の産業革命
 進行した。
  そして、さらに、製鉄、製鋼部門を基軸とする重工業
 へと転換して行った。
  日本社会資本主義経済体制が根付き、さらに、急速
 な発展をし、それが、鉄道の発達をうながした。
  また、その鉄道の発達が、さらなる資本主義の発展を
 促進するという展開となった。
  経済体制の発展と、鉄道の発展とが相互に相関的な発
 達となっていた。
  鉄道が、日本の輸送には欠くことのできない主座を占
 めて行った。
  1906年には、「鉄道国有法」が公布された。
  そして、幹線を構成していた私設鉄道17社が、1907年
 までに、すべてが国有化され、「国有鉄道」が成立した。
  そして、その鉄道の技術も「自立」して行った。
  日本の経済のさらなる発展には、日本の「技術の自立」
 が必要不可欠だった。
  そして、その為の法制化、規格化が進んだ。
  日本の重工業の発展とともに、その車輌、機械類の自
 給体制も確立さ、完成させて行く。
  1894年、「鉄道局隧道定規」、および、「橋梁、鋼鈑
 桁ノ定規」を制定する。
  また、神戸商業会議所は、官設鉄道運賃低減を提案す
 る。
.
1894年12月31日、三菱第1号館の完成
  イギリスロンドン出身の建築家ジョサイア・コンド
 ル(お雇い外国人)によって・・
  イギリス・クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建
 築物として設計され・・、
  また、建設工事は、曽禰達蔵現場主任があたり、直営
 工事による施工で完成した。
  丸の内ビル街の先駆で・・、
  その後、次々とオフィスビルが完成し、「一丁倫敦(
 いっちょうろんどん)」と呼ばれるオフィスビル街とな
 って行った。
.
1894年12月、フランスドレフュス事件が発生した。
  フランス第三共和政を揺がした政治危機で、1894年
 1906年フランス社会の根底に横たわる社会的・政治的
 緊張を露呈した。
  共和国の存続そのものを危険にさらした。
  1894年ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイツ
 に情報を売っていた。
  そして、終身流刑に処せられた。
  ユダヤ系のドレフュス大尉への「差別がある」として
 再審を求める派と、判決を支持する派でフランス国論が
 二分された。
  フランス軍部内では、別に真犯人のいることが分かっ
 たが、軍の威信と反ユダヤ感情などのため事件を糊塗し
 ようとした。
  最初は、家族と知人を中心とした再審要求運動であっ
 たが、上院副議長 A.シューレル・ケストネル、後の首相
  G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。
  1898年、文人 É.ゾラが『オーロール』紙上で「私は弾
 劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するなど、
 世論は高まり、単に、個人の有罪、無罪の論議をこえて、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なキリスト教カトリ
 ック、反ユダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする
 「反ドレフュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  1898年、H.アンリ大佐が、文書の一部偽造を告白して
 自殺したため、再審は確実となり・・、
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・、
  1906年7月、民事の破毀院は、レンヌの判決を全面的に
 破棄、議会も復権法案を可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスも正式に復権した。
      (出典 ブリタニカ国際大百科事典
.
1894年12月、夏目漱石が、漱石ゆかりの地・鎌倉・円覚寺
 で参禅する・・、
  29歳の漱石は、同寺塔頭の帰源院で坐禅を組んだ。
  優秀な成績で、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学
 現・東京大学)を卒業していた漱石・・、
  そして、英語教師として東京高等師範学校の教壇にも
 立っていた漱石・・、
  しかし、自分の中にどうしてもしっくり来ないものが
 あった(漱石の記述)
  「卒業したときには、是でも学士かと思ふ様な馬鹿が
 出来上つた。
  それでも点数がよかつたので、人は存外信用してくれ
 た。
  自分も世間へ対しては多少得意であつた。
  たゞ、自分が自分に対すると甚だ気の毒であつた」
             (処女作追懐談)
.
1894年、中国の軍閥
  1912年1月1日の中華民国成立の前後、私設の軍隊を背
 景に中国各地に並び立った勢力があった。
  特に、日清戦争後、北洋陸軍を私兵化した袁世凱の北
 洋軍閥が最大のもので、辛亥革命後、北京に軍閥政権を
 樹立した。
  死後、安微派、直隷派に分裂し、さらに、奉天派など
 も交えて抗争を続けていた。
.
1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル〜仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋〜横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル〜仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  (両班・りゃんばんは、特権階級で朝鮮庶民から収奪
 する階層だった)
  往復で5日〜6日の所要時間は、2時間〜3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線ソウル〜釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線ソウル新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は「莫大なものであった」。
  もしも、1896年〜1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル〜元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧〜清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林〜会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年〜1939年
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基〜潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮〜吉州)142キロ、
  満浦線(順天〜満浦)286キロ、
  東海線(安辺〜浦項・釜山〜浦項)549キロ、
  慶全線(晋州〜全州・院村〜漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州〜兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江〜勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌〜鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里〜博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山〜唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里〜群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里〜全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里〜漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山〜会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂〜川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城〜清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧〜鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青〜新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山〜遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興〜鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦〜新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸〜慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧〜潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基〜訓戒狭)
  その後、新倉〜高腹間の平元線146.8キロ、吉州〜恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天〜満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮〜蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年〜1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。(以上)
  今・現在、中国及びその手先は、『日本は、軍隊を運
 ぶために朝鮮・韓国の鉄道を作ったのだ」と日本の努力
 を無にすることを言うが・・
  その為だけならば、この様に朝鮮の国土を縦横無尽に
 張り巡らす様に鉄道を造る必要はない。
  日本は、心から朝鮮の日本並みの発展を願っていたの
 だ。
  朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
  その日本の恩を無にする言動をする韓国となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
.
683年(天武12年)鏡王女(かがみのおうきみ)が、この日、
 薨去(こうきょ)したが・・、
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
  万葉集に・・
  玉櫛笥(たまくしげ)覆(おお)ふを易(やす)み
  明(あ)けて去(い)なば 君が名はあれど
  我が名し惜(お)しも
              鏡王女
  訳:箱に蓋をすると中のものが見えなくなるように、
    私たちのことを覆い隠すのは簡単だとお思いに
    なって、夜が明けてからお帰りになれば、
    あなたの名はともかく、わたくしの名が惜しうご
   ざいます。
  藤原鎌足が鏡王女と婚をなすために訪れた夜の明け方、
 なかなか帰ろうとしない鎌足に王女が贈った歌です。
  歌の背景には妻問い婚(つまどいこん)が普通であっ
 た当時、男性が夜明けまで女性の家に居て帰ろうとしな
 いと、ご近所の噂がひどかった、という事情がありまし
 た。
  鏡王女は天智天皇の異母妹で、若き日の天智天皇の妃
 (きさき)となり、その後、鎌足の正室となった女性で
 す。
  古代国家の基礎を築きつつある天智天皇にとって、鎌
 足は無くてなならぬ人物でした。
  加えて鎌足は、とかくギクシャクしがちな天智天皇
 実弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇
 と天智天皇との関係を、取り持つことができる唯一の人
 物でもあったのです。
  天智天皇の妃であった鏡王女がなぜ鎌足と結婚したか、
 その詳細は不明ですが、王女は愛する夫にして異母兄・
 天智天皇と鎌足の絆を不動のものにするために、天智天
 皇の願いを受けて再婚したのだと思います。
  天智天皇の愛が薄れて再婚したのではなく、わたくし
 はそこに、天智天皇の王女への深い信頼と愛を読み取る
 のです。
  藤原鎌足天智天皇に先立たれ、壬申の乱(じんしん
 のらん)にも遭遇するという激動の古代を生きた王女は、
 晩年、懐古(かいこ)の鳥とされている呼子鳥(よぶこ
 どり)の声に、そんなに鳴かないでおくれ、昔を恋い慕
 う心を募るばかりだから、と深く嘆じました。
  神奈備(かむなび)の 磐瀬の杜(いわせのもり)の
  呼子鳥 いたくな鳴きそ 我(あ)が恋(こい)増(
  ま)さる
  683年(天武12年)王女薨去(こうきょ)。
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
         (国文学者・石丸昌子氏の名文です)
.
1147年、第二回十字軍(〜1148年)・・北方十字軍
  この12世紀の西欧諸国におけるカトリック教会の権威
 確立を目的とした第二回十字軍の壊滅的な敗退は、返っ
 てカトリック教会の権威を失墜させる危機に陥れた。
  クレルヴォー修道院長ベルナールは、これを打開する
 ため新たな十字軍を提唱した。
  西欧諸国からはドラクリア(竜の地)、東欧諸国では
 ディアボロシア(悪魔の地)と呼ばれ、現地の人々から
 はウェリ・クン・ナーラ(天神に祝されし国々)と総称
 される、カグレア、シルリア、ペグゼリア、タンムリア、
 カラキアにおける異教異民族への十字軍だった。
  この十字軍は、「最も成果の無かった十字軍」と呼ば
 れ、実態は敗北だった。
  ただただ、スラブ人を殺す十字軍という状況だった。
  後に、これは北方十字軍と呼ばれる。
  北方十字軍は、受け継ぐ封土を持たぬ封建諸侯の子弟
 達(この憤懣のガス抜き十字軍)、そして、相次ぐ戦
 乱と飢饉で家屋や土地を失った貧民達から構成されてい
 た。
  そして、「フロンティアが獲得できる」という夢を吹
 き込み、それを目的としたので大いに受け入れられた。
  厳しく戦った事例としては、北方十字軍の攻撃を受け
 たカグレア人・・この民族は、かねてから国境付近でザ
 クセン公国と対立を深めていた。
  (参考)気高きグレアを意味するカグレア・・しかし、
     その地は過酷な地であった。
      凍てつく北方に位置するこの大地は、地味が
     乏しく、作物も実らず、狩るべく鳥獣や漁る魚
     貝も少なく・・その上、海の彼方からは、絶え
     ずユグラドラシスの異民族の襲撃を受け、その
     王国・バレア王国との紛争に明け暮れた。
      僅かな食糧と、その食糧を得る為の領土を奪
     い合う、殺し合う・・生き延びる事の困難なこ
     の地の人々は、戦いが多く、そのため強かった。
  ウェリ・クン・ナーラでも、勇猛な戦闘部族で知られ
 ていたカグレア人は、 スペル・ユニオル族族長レーベル
 クを中心に、前九年・後三年と、合わせて十二年に渡り
 激しく抵抗した。
  一時は、カグレアの地よりドイツ諸勢力を一掃し、逆
 に、ザクセンに侵入し、ヴァグリアを征服するにまで至
 った。
  しかし、カグレア諸部族に服属していたシルリア人が、
 突如、自らキリスト教を受け入れ、北方十字軍と手を結
 んでカグレアの背後をつくと、一気に形成は逆転した。
  カグレア諸部族は総崩れとなり、北方十字軍に征服さ
 れた。
.
13世紀、北方十字軍
  「異民族のキリスト教化」という名目上の目標を掲げ
 て、バルト海沿岸地域へ進出した「北方十字軍」は・・、
 遠征の当初から本来の宗教的な目的を失っていた。
  その実際の実態は、「北方諸国の植民地化」だった。
  ローマ教皇からお墨付きをもらって・・、
  世俗の最高権力者である神聖ローマ皇帝の思惑とも重
 なって、キリスト教による征服事業の拡大を続けた。
  その先鋭に立ったのが「ドイツ騎士団」だった。
  13世紀、ハンガリー王国から追放されたドイツ騎士団
 だった。
  その武力集団は、異教徒征伐の命を受けてプロイセン
 の地(現在のカリーニングラードポーランド北部)に
 活動拠点を移した。
  そして、その武力の威力によって、先住民であるプロ
 イセン人の殺戮を尽くして制圧した・・そして、その地
 のすべてを掠奪・収奪した。
  その後も・・略奪と搾取を重ねながら、莫大な富を築
 き、「ドイツ騎士団領」という軍事国家まで作った。
  しかし、乱逆なこのキリスト教集団は、周辺諸国の貴
 族を集めて「人間狩りツアーを開催する」など、その残
 虐きわまりない性質と傍若無人ぶりだった。
  ドイツ騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア西部
 からエストニア南部)を征服していたリヴォニア帯剣騎
 士団を吸収した。
  そして、さらに、現在のリトアニアの地へと侵攻した。
  それに対して、ミンダウカス王の元に諸部族が結集し
 てリトアニア大公国が誕生する。
  そして、強大な戦力を形成し、ドイツ騎士団を押し返
 した。
  その後、お互いが侵略行為を重ねる。
  拮抗した戦争状態が続く・・
  同じ様にドイツ騎士団領土問題で対立を深めるポー
 ランドとの同盟関係を成立させる。
  1385年、ついにリトアニアキリスト教を受け入れ(
 当初は形式的なものだった)、両国は連合国となってド
 イツ騎士団と対立する。
  キリスト教の教義でもある「異教徒は殺せ」の異教徒
 との戦いという大義名分を失ったドイツ騎士団は激高し
 て、互いの存亡をかけた激烈な総力戦へなる。
  そして、ポーランドリトアニア連合は、1410年の「
 グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い」で勝利し、
 ドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与える。
  ドイツ騎士団は、徐々に衰退し、やがて消滅した。
  ポーランドリトアニア連合国は、ヨーロッパ最大領
 土の国へと発展する。
  そして、その後、200年に渡る黄金時代を築く。
.
16世紀半ば〜17世紀初頭、南蛮貿易が行われた。
  1543年に、種子島ポルトガル船が漂着したが・・、
  南蛮貿易は、ポルトガル及びスペインとの間で貿易が
 行われた。
  中国・明のマカオが拠点で、特に、ポルトガル人が中
 心に営まれ、日本の銀が流出した。
  中国とは生糸が取引された。
  16世紀の前半から灰吹法によって銀の産出量が増えて
 いた。
  (参考)灰吹法:はいふきほう、鉱石からいったん鉛
     に溶け出させて産出する方法。
  キリスト教イエズス会は、プログラドールという貿易
 や財務を担当する役職を作って貿易を指揮し、担当し、
 交易し、利益を得た。
  長崎のこのキリスト教のプロクラドールは、岬に建設
 されたキリスト教会内のカーザ(建物・倉)に貿易品を
 貯蔵し、取り引きを行ったので、キリスト教会が商館の
 ように機能した。
  このプラグドールは、キリスト教宣教師ザビエル
 提案したことから実現した。
  せっせと南蛮貿易に精を出すキリスト教だった。
  そして創設されたパウロ学院には金庫が置かれていて、
 貿易の利益のほか、貿易に税を掛けて金を取り、この教
 会内の金庫に金がうなる様にあった。
  このキリスト教会の主動する南蛮貿易の卑劣なところ
 は、日本の若い女性を売るという人身売買をしていた所
 だった。
  「70万人の日本女性を売った」という記載が、ポルト
 ガルの文書にある。
     ・
     ・
1910年8月26日キリスト教徒マザー・テレサが生まれた。
  マザー・テレサは、キリスト教の神は死んだと言った。
  マザーテレサさんは・・インドで・・ヒンズー教徒
 方々が行っている・・『弱者救済の運動とその行動』の
 中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・弱者救済活動を行なっ
 た。
  その行為が、そのことが・・素晴らしい業績となって
 いますが・・、
  (注):
  世間には、キリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)だけ
 が・・あまりにも声高に叫ばれているため・・真実が、
 隠されています。
  初めて、上記の文を読まれた方は・・驚かれたと思い
 ますが・・「真実は、上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・
 脚光を浴びた事を知り・・マザーテレサさんに着目し・・、
 キリスト教の「広告塔」にしました。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に、なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを国葬に
 して・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」と、表明されたことでし
 た。
  マザーテレサさんは、キリスト教の神の存在に悩んで
 いました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに、長い期間、悩みを打ち明け
 続け・・そして、相談をし続けていました。
  その事実は、隠されていました・・が・・、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』『真実』が公表されました・・キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・今、ア
 メリカに、「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは、キリスト教の『神の不存在を主張」し・・
 成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分やっ
 て行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違うと主張
 する方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
 その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、そう
 考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が、人類にとってよくないこと・・よくないもの』と・・、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・こ
 の様な、行動が取られたのだと言えます。
  (参考)神の死の神学:ニーチェの言葉である「神は死
 んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・現代社会において神は・・、
 人間に・・『リアルな存在ではない』という意味で・・、
 「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニア
 ンは・・『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァニハンは、その中で・・無神論を、『アメリカ
 大衆の生き方である』と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
 エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・異
 なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で、人間の主体性が、
 そして、自律性が・・とりもどされ・・、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・
          (参考:wikipedia)
.
1920年南洋諸島パラオは、日本の統治となった(〜1945
 年)
  この頃の首都はコロール。
  パラオには、スペイン南洋庁が置かれていた。
  日本からの移住者も多かった。
  パラオは、スペインドイツと統治がされて来た。
  しかし、パラオの方たちは、日本の統治時代を非常に
 懐かしみ、「日本の統治は良かった」と言う。
  パラオ共和国の国旗も、日本の国旗に似せている。
.
1932年2月、リットン報告書が出された。
  満州が、リットン報告書などでアメリカからの策動(
 さくどう、秘かに計略を巡らして行動すること)を受け
 ていた頃・・、
  この当時、日本国内には、ソ連から指令を受けた、コ
 ミンテルンの命令下にある共産主義者が大勢いた。
  いつでも日本国内で、国家転覆をしようという者たち
 だった。
  そして、その様な手が打たれている日本でもあった。
  いつ、その者たちの活動が活発化するかの可能性も高
 かった。
  実際、その様なソ連の指令を受けた日本人も加わって
 いた。
  尾崎秀美(ほつみ)がその一人で、ゾルゲと連絡を取
 り暗躍していた。
  (参考)尾崎秀美:日本の評論家、ジャーナリスト
     朝日新聞記者)、共産主義者
      近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論
     界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を
     持ち、日中戦争支那事変)から太平洋戦争
     大東亜戦争)開戦直前まで、政治の最上層部・
     中枢と接触し、策動し、国政に影響を与えた。
  (参考)リヒャルト・ゾルゲソビエト連邦のスパイ、
     1933年〜1941年にかけてゾルゲ諜報団を組織し、
     日本で諜報活動を行ない、ソルゲ事件の首謀者
     だった。
      ゾルゲは、コミンテルン本部の指令で1933年
     9月に来日し、上海で旧知の尾崎らと接すること
     で軍、政府上層部から得た日独両国の機密情報
     をソ連に流したり、二・二六事件三国同盟
     関東軍特別大演習など日本の対ソ情報を入手し
     通諜していた。
      ドイツの新聞社特派員として駐日ドイツ大使
     の信任を得ていたゾルゲ(ソ連共産党第4本部
     所属)は、コミンテルンの命令を受けていた。
  (参考)日中戦争:実際は、アメリカが極秘に参戦し
     ていて、アメリカ大統領は「ボランティアだ」
     と言い逃れしたが、大統領署名の命令書が存在
     し、また、アメリカという国が膨大な米機を中
     国へ与え、パイロットも派遣していた・・日米
     中の戦争状態だった。
  その活動の一つが「日中戦争(実際は、日中米戦争)
 へ日本を導く」という活動だった。
  結局、実際に、日本は、日中米戦争へはまっていく。
  今・現在も、共産・中国(中共)の活動家が、日本で
 活動している。
  この当時の状況の様に・・、
  または、それ以上の人数の居る日本の状況となってい
 る。
  今、日本は、簡単に移民ができる様になっている。
  アメリカの圧力でなったのだが、日本は、今、「移民
 天国」の状態で、スパイ天国の様相となった。
  長野の冬季オリンピックの時、指令によって、長野に
 集まった共産圏・中国の活動家が、謀議し、手に手に種々
 な武器を持って暴れた。
  長野県のこの中国工作員の暴動行動は、怒号と騒乱状
 態に陥(おちい)った。
  これは国際問題の騒乱(共産中国とチベット国)であ
 ったため、日本の警察は、周りを取り囲み、手を出さな
 かった。
  この様にして、日本の国内においても、共産圏・中国
 の国家指令の活動が行なわれている。
  チベット国が、共産中国に蹂躙されていることを、日
 本国内で訴えようとした行動を・・中国の工作員・活動
 家が、武力行使して、そのチベット国の方々の行動を封
 じ込めようとした。
  共産圏・中国の本国から指令を受けた大勢の活動家に
 よる暴挙だった・・今、日本には、この様な輩が、うよ
 うよといる。
  普段は、普通に日本で生活している。
  あなたは、その中国活動家の普段の生活は、何ら違和
 感は持たないだろうが、いざとなるとこの長野の様な事
 を起こすのだ。
  普段は、「いい人だ」くらいに思っているがである。
  帰化して、それも本当に簡略化された手続きで(アメ
 リカの内政干渉でこうなった)簡単に日本人に帰化した
 元・共産圏・中国のこの様な活動家が・・、
  「普段の、いい人だ」の印象だけから、「この人たち
 は日本人になってくれたのに選挙権が無いのは、おかし
 い」となる・・外国人の選挙権問題が起きる。
  この行き過ぎた事例がドイツにある。
  ある自治体の地方自治権が奪われた。
  れっきとして「ドイツ人の票決の結果」と公表されて
 いるが、移民の自治体と化している。
  また、オーストラリアタスマニア島(日本の佐渡島
 くらいの大きな島)が、正統な経済活動だと言われてい
 るが、共産圏・中国の手中に入った。
  (参考)2016年4月、オーストラリアタスマニア州
     村落・タラリアが中国に売却への動き
      2016年4月、ギリシャ最大の港を中国企業が爆
     買い、総支出額は約1850億円
      2015年10月、オーストラリアで、韓国1つ分に
     相当する面積を中国企業が爆買い
  今、日本は、盛んに北海道が中国に買われている。
  北海道経済が、潤っている(息が付ける)というが?・・
  こんな「たわごと」で済むのか??
.
1937年12月、この時、「南京事件が起きたという嘘」がデ
 ッチ上げられている。
  今、種々の新史料が公開され、この南京事件が、さら
 によく見えて来た。
  南京事件の実態は、当時の中国の様々な情報工作によ
 って作られていて、「真実」は隠蔽されている・・
  不当で不条理な罪が、日本に押し付けられている・・
  その様な『事実』も判明して来た。
  今・現代、中国が南京事件をとやかく言うのは「もは
 や陳腐化している」。
.
2005年、全世界の金融資産が、2005年には140兆ドル(約
 1万7200兆円=1京7200兆円)で世界GDPの316%とな
 った。
  これは、1980年の109%、1995年の218%から飛躍して
 増大した。
  アメリカは、1995年303%から2005年405%と急増した。
  資本市場の機能は、金融システム間のM&A金融など
 仲介業務に比重を置くようになった。
  そして、規制がさらに撤廃され(自由が良いのだの大
 合唱)、リスクを伴う冒険的な大規模投資も合法的に可
 能となった。
  国際証券資本市場における支配力も強大となった。
  アメリカ産業史上初の業界の枠を越え、且つ、国境を
 越える超大型合併の波は、ユーロ圏を巻き込み、さらに、
 第三世界ロシア、中国、ブラジルのBRICs諸国の巨
 大資本をも引き込み・・
  世界は、国境を越え、M&Aの壮大な展開という新し
 い経験の試みの場と化した。
  故に、ネオリベラルグローバリゼーションのダイナ
 ミックな主役は、巨大M&Aを業界の垣根と国境を越え
 て、グローバル企業帝国を築くビックビジネスの様相。
  (参考)ネオリベラルグローバリゼーションにおけ
     るアメリカ「帝国」の覇権(上)、奥村皓一 著
      抄録:21世紀に入り・・、
     「冷戦」が終わって・・10年以上過ぎたという
     のに・・「帝国」「帝国主義」が、世界人類の
     当面、最大課題となり始めた。
      ソ連邦が崩壊し・・、
      旧社会主義陣営の国々が、資本主義市場経済
     を受け入れ始める一方で、資本主義大国間のグ
     ローバル競争が激化し始めた。
      加えて中国、ロシアブラジルインドとい
     った新興の市場経済大国は、興隆をはたすなか
     で経済超大国をも目指し始めた。
      唯一、超大国のアメリカは、経済力の相対的
     な地盤沈下のなか、圧倒的な軍事力を活用して、
     全世界を制覇し・・、
      米国のビッグビジネス(メジャーズ)を、スー
     パーメジャーズに編成して、先進国世界のみな
     らず、GAPと呼ばれる第三世界、開発途上諸
     国、旧社会主義国のすべてをその勢力下に組み
     込もうとするようになった。
      米国国際石油資本をはじめとする米国の多国
     籍企業は・・、
      グローバルに展開できるスーパー・メジャー
     として、全地球的に展開し始めた。
      国際競争力が相対低下して・・アメリカのビ
     ッグビジネスは、アメリカ軍事力を活用した
     セオドア・ルーズベルト型の「軍事帝国主義
     を背景に「自由とデモクラシー」の旗を掲げた
     ウィルソン型の「理想主義帝国主義」を前面
     に全地球的展開を開始した。
      その典型は、ネオコンサーバティブの主導す
     るイラク単独進攻と占領である。
      世界で、石油埋蔵量第2位の、イラクの石油開
     発、生産を独り占めにし・・、
      イラクの「民主化」による親米政権の樹立と
     イラクの軍事基地化によって、中東と北アフリ
     カ、中央アジア(中東)の油田地帯に、アメリカ
     の石油秩序を確立しようとしている。
      さらに、アメリカは、南西アフリカ、南アジ
     ア、ラテンアメリカへと、「帝国」を広げよう
     としており、米国の軍事関与は、百数カ国に及
     び、冷戦下では実現できなかった戦線の拡張に
     ある。
      だが、資本展開の膨張に、米軍事力は無限に
     応ずることはできず、米国の単独主義の行きつ
     くところは自己破産・・軌道修正を迫られる。
.
2011年7月28日、高倉蒼甫(たかおかそうすけ)というタレ
 ントが、フジテレビで、「フジテレビは韓国のテレビ局
 か?」と発言したら、事務所(スターダストプロモーシ
 ョン)が解雇した。
  (cf)高岡奏輔(たかおかそうすけ)ウィキペディ
      ア
  (cf)2011年フジテレビ騒動、高岡蒼甫のツイー
      ト:ウィキペディア
.
2018年、現在、世界全体で・・2800万人を数える華僑。
  その90%が、アジアに居る。
  インドネシア650万人(23%)
  タイ・・・・610万人(22%)
  マレーシア・520万人(19%)
  シンガポール209万人( 7%)
  フィリピン・120万人( 4%)
  ベトナム・・100万人( 4%)
  他・・・・・591万人(21%)
  輩出するところは・・
  広東省・・ 1500万人(54%)
  福建省・・・700万人(25%)
  海南省・・・170万人( 6%)
  他・・・・・430万人(15%)
  福建省は、僑郷(華僑のふるさと)として、広東省
 次いで多くの華僑を送り出している。
  強力な経済力とネットワークで知られる華僑。
  アヘン戦争から逃れ最高潮となる・・100万人に達した。
  海外に中華街ができると、そこが足場にできるので、
 急増した。
  中国政府の圧政に農民が反乱(太平天国の乱など)を
 起こすとともに海外へ、その様な中国から逃れ出ようと
 農民も増加した。
  太平天国の乱に敗れた人々も・・海外へ逃れた。
  1933年には、800万人となった・・この内訳に於いて、
 福建省出身はその40%(320万人)となった。
  帰国して中国ナショナリズムを高揚させたりした。
  華僑の模範、そして、民族の輝きだとして毛沢東は、
 陳嘉庚を賞賛した・・
  彼は、シンガポール(マレーシア)でゴム大王として成
 功した。
  華僑は、常に、新天地の政府に対して用心深かった。
  そして、沖縄県は、2016年平成28年)、沖縄県と福
 建省の友好親善に貢献するためだとして、奨学金を支給
 する奨学生を福建省へ送ることにした・・
  学費や宿泊費、そして、食費は・・中国側が負担する・・
 国際交流・協力の推進だとする美しい名目がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2018-10-21

(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月〜1894年12月)

題:(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月〜1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月22日、日米通商航海条約に調印した。
  江戸時代に結ばれた日米修好通商条約の不平等条項を
 改正したのだが、まだ、関税自主権は完全には回復でき
 なかった。
  (当然の権利である治外法権は回復した)
  しかし、自国益をしつこく握るアメリカに、まだ牛耳
 られる日本だった。
  関税自主権の回復は、1911年を待たねばならない。
  しかし、この時の改正でも、まだまだ日本は、色々な
 譲歩を要求された。
.
1894年11月24日、宮内省式部職付属音楽学校、奏音堂(上
 野奏楽堂)で、歌劇「ファウスト」が上演された。
  これは、日本における初めてのオペラ上演だった。
  宮内省式部職付属音楽学校・奏音堂(上野奏楽堂)は、
 東京音楽学校(現:東京藝術大学)の奏楽堂のこと。
  この演奏会は、日清戦争の義捐(きえん、慈善や公益
 のための寄付)のための音楽会で、演目はグノー作曲の
 「ファウスト」第1幕だけの部分上演だった。
  指揮は、音楽学校教授のフランツ・エッケルト
  オーケストラ伴奏は、宮内省楽部、
  合唱は、音楽学校の生徒
  ファウストは、ブラッチャリーニ、メフィスト
  フェレスは、クーデンホーフ伯爵、
  マルグリートはヴァルナムが務めた。
  ゲーテの原作はドイツ語だが、オペラフランス語
.
1894年11月26日、慶応義塾大学の学生が、旅順口の陥落を
 祝って初めてカンテラ(油用灯火具)行列を行なった。
  このカンテラ行列は、慶應義塾大学の独特の祝賀行進
 だったが、この時以来、国家的な祝祭の時にも挙行され
 るようになった。
.
1984年11月28日、アメリカ紙が、デッチ上げニュースであ
 る旅順虐殺を報道した(まったくのプロパガンダ嘘報道)
  「ニューヨーク・ワールド」に、「日本は文明の皮膚
 を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣なり」とする記事が掲
 載された・・
  これは、新聞の部数販売を拡張しようとした、この頃、
 流行っていた煽情主義報道(イエロー・ジャーナリズム
 だった。
  特に、この記事を書いたクリールマンは、この時の日
 本以外にも嘘で煽る記事を書いていて、その嘘が世界か
 ら指摘されている。
  1888年米西戦争の時も、クリールマンは、この様な
 報道をして、世界を惑わせ、世論を誘導する前科のある
 悪名高き記者だった。
  この米西戦争の時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」
 と疑義が出された。
  そしてまた、この旅順口の嘘記事である・・「虐殺は
 ない」の訂正を要求する証言も多く・・このクリール
 ンの報道を耳にしたベルギー公使が、現地にいたフラン
 スの武官に尋ねたところ・・、
  「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいただけ」と否定した。
  また、旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド紙の
 特派員であるアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリール
 ンが報道するような虐殺は発生していないと証言してい
 る。
  さらにまた、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 でも「虐殺は捏造されたものであった」と論じている。
  そして、欧米でのジャーナリズム史の研究でも、旅順
 の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載した新聞・
 ニューヨークワールド紙が、ライバル紙と競い合って扇
 情主義報道を行っていたことは常識で定説となっている。
.
1894年11月29日、天皇陛下が、第1軍司令官・山縣有朋の召
 還を御命令。
  1894年7月から始まった日清戦争で、56歳にもかかわら
 ず第一軍司令官として自ら戦地に赴き、作戦の指揮をと
 った山縣有朋
  「敵国は極めて残忍の性(さが、自分ではどうしよう
 もない生まれつき。性質)を有す。
  生擒(せいきん、生きたまま捕らえること)となるよ
 りむしろ潔く(いさぎよく)一死を遂(と)ぐべし」と
 訓示している。
  配下の野津道貫が率いる第5師団が、9月の平壌の戦い
 で平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自
 身は体調を崩した・・
  この事をお気遣いされた天皇陛下は、この月の11月に、
 「病気療養をするように」という勅命を出されて、戦線
 から呼び返された。
  そして、山縣は、12月に、帰国した。
  無念の帰国を余儀なくされた山縣であったが、伊藤・
 井上らが、山縣の今後について打合わせ、天皇陛下も体
 面をお気遣いされ、山県に第一軍司令官と枢密院議長を
 免じる代わりに監軍に据え、2回目の元勲優遇の詔勅を
 下すなど、山縣を少しでも慰めようと御配慮された。
  その甲斐あってか、帰国後、山縣は体調を回復し、戦
 後の1895年8月5日に、第二軍司令官だった大山、西郷従
 道海軍大臣と共に、日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬
 章、功二級金鵄勲章を授与され、伯爵から侯爵に昇叙さ
 れた。
.
1894年11月、伊藤内閣自由党との提携趣意書を発表した。
.
1894年12月1日 奥羽北線(おううほくせん)青森弘前
 が開通した。
  官設鉄道青森弘前間と、日本鉄道会社線との連絡
 運輸が開始された。
.
1894年12月9日、上野の不忍池畔で、戦勝祝賀会が東京市
 有志の手によって開かれた。
  第2回も開く予定であった。
  市民も「公明正大なる戦争」とし、その戦争の連戦連
 勝を喜んでいた。
  参加は満15歳以上で、50銭の会費を払って会員となり
 会券、会章、昼餐券を受け取った。
  朝の7時半に日比谷練兵場に集合し、桜田門から宮城前
 広場で万歳三唱し、丸の内から日本橋、そして、上野公
 園へ歩いた。
  旗や幟(のぼり、細長いきれの一端を竿の先に付けて
 立てるもの)を立て、山車を曳いた。
  9時頃、上野公園に到着した。
  10時から儀式を行なう。
  東京市長の祝文朗読や、東京市会議員らの挨拶、靖国
 神社の宮司の戦捷(せんしょう、戦勝)祝祭の執行、万
 歳三唱で終わった。
  その後、種々の余興見物となる。
  「川上音二郎戦地見聞日記」の野外劇が上演され、野
 戦病院の体験、陸海軍の手踊りなどが行なわれた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
   計画の中心に居た。
    それだけではなく、戦争のすべてに、ルーズベルト
   関わっていた・・戦争政治家そのものだった。
.
1521年、アステカ王国が滅亡した。
  そして、1533年には、インカ帝国が滅亡した。
  その他の地域においても、ひどい殺戮行為が続けられ
 各地で全滅が相次いだ。
  メキシコ以南の北米・中米・南米、そして、その離島
 のインディオの方々は、スペインキリスト教徒とキリ
 スト教聖職者たちに虐殺され、全滅していた。
  未曾有の人類史上最悪の極悪行為だった。
  この行為が行われる最初、現地に着いた殺戮者たちは、
 現地の人たちの取り扱いについて「どうするか?」と、
 バチカンローマ法王(教皇)へ質問した・・
  回答は・・「人ではない」だった・・
  ここから大虐殺が50年に渡って行われた。
  この事について、あまりにも卑劣な行為をして来たキ
 リスト教聖職者のラス・カサスが、このままでは天国へ
 召されないと、行かれないと、本国のスペイン王へ報告
 した。
  50年もの殺戮の歳月が流れた後だった。
  その報告を聞いていたスペイン王とその側近の面々は、
 そのすべてを聞くことに耐えられず、「本に記せ」と言
 った。
  その本が、「インディアスの破壊についての簡潔な報
 告」である。
  当然、この本には、キリスト教徒キリスト教聖職者
 たちが行なった史上最悪の蛮行(南北アメリカ大陸など
 の卑劣な殺戮)が記されている。
  その記述の1例・・49頁〜・・
  キリスト教徒等に、300人のインディオが分配され渡さ
 れて、3ヶ月のうちに、そのうちの270人が鉱山労働で死
 んでしまい、
  生き残ったのは30人に過ぎなかった。
  3ヶ月か、4ヶ月の間に、約7000人以上の子供が餓死し
 た。 
  両親が鉱山へ連れ去られてしまったからである。
  また、
  私(キリスト教聖職者)は、このほかにも数々の身の
 毛がよだつような出来事を目撃した。
  (この聖職者らは、何ら、インディオの方々を助けよ
 うとはしなかった・・その様な悪漢である)
  その後、また、インディオ達を狩り出しに行くことに
 なった。
  結局、キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。
  総督は、無慈悲で無分別で、
  (今さら、インディオたちが死んでしまった後、こん
 なことを言ったって、この聖職者たちは殺すがままにさ
 せていた悪漢)
  彼らの行った忌まわしい行為は、それまでのものをこ
 とごとく凌(しの)いでいた
 (他人に悪さを転嫁するな、誰も居なくなった荒れ地に
 キリスト教会を建てただろう)。
  金(きん)も非常に豊かであった。
  それまでは、地上にそんなにも多くの金があろうとは
 思いつかなかった。
  金の在所(ありか)を白状させ、
  数々の新しい虐待や拷問の方法を考え出した。
  (止めろとも言わなかったキリスト教聖職者たち、今
 頃、弁解したって死んでしまったではないか)
  その聖なる使命をいつもないがしろにしていた。
 (君たち、キリスト教聖職者たちが聖ではないのだ)
  全世界に行ってすべての人々に福音を述べ伝えよ。
 (福音ではないよ、殺しに行っただけではないか、総
 べて殺して)
  さもなくば、妻子ともども生命をも失なうことになる
 であろう。
  盗賊と変わらない行為をする部下たちを先に派遣し、
 われらは神とローマ教皇、それに、この地の君主である
 カスティーリャノ国王についてお前たちに知らせにやっ
 てきた・・云々。
  さもなければ、われらが即刻、戦さを仕掛け、お前た
 ちを殺したり捕えたりすることになると心得よ。
  夜の明けそめる頃、大半が藁造りのインディオ達の家
 に火を放った。
  (キリスト教聖職者たちは止めもしない)、
  殺戮をほしいままにし、彼らに奴隷の焼印を押した。
  火勢が弱まるか、火が消えると、彼らは焼け落ちた家
 の中にある金を探しに出かけた。
  官吏たちとて例外ではなかった。
  キリスト教の司教も、その御利益にあずかろうと側近
 の者たちを派遣した。
  (ほら見ろ、キリスト教聖職者たちも欲にまみれた悪
 漢だったのだ)
  数人の無法者の総督が引き続きその地へ赴いた。
  生きのびたインディオ達を暴虐的な奴隷状態へ陥れ、
 挙句の果てに殺害した。
  また、彼らは部下たちが同じように振る舞うのを認め
 ていた。 
  (キリスト教聖職者も同罪・・キリスト教は、世界の
 あちこちでこんな事ばかりしている)
.
1581年、ポルトガルアビス王朝が倒され、1581年以来、
 スペイン国王へりーぺ2世の支配を受ける屈辱のポルトガ
 ルの歴史が始まる、時代に入る。
  スペインは統一を完成し、まっとうして、中南米へと
 進出して行く・・そして、ここで悪名高い卑劣な虐殺を
 行なう・・1000万人以上というインディオの方々の殺戮
 の限りを行なう・・
  そのキリスト教徒キリスト教聖職者たちは、先住民
 のインディオの方々の殺戮の限りをし尽くし、50年とい
 う長年に渡る卑劣な行為を行なう・・そして、その悪に
 染まった殺戮者たちは太平洋へ出て来る・・
  ルソンへ進出する・・そして、ここを本拠とし・・
  日本と接触を始める。
  日本は信長・秀吉の時代だった。
  そして、日本を中米・南米などのアメリカ大陸と同様
 な植民地にしようという魂胆でやって来る・・その任務
 を秘めたキリスト教宣教師たち・・
  しかし、その魂胆が見破られ・・また、許可を得て始
 めた南蛮貿易での悪行・・若い日本の女性を海外へ連れ
 去る人身売買の悪行が見破られ・・陰で悪行の限りをす
 るキリスト教宣教師たちは「国外対処処分にされる」。
  おとなしく言われるように日本を去ったものは何事も
 無かったが・・命令に反して潜伏したキリスト教宣教師
 たちが悪の根源だった・・
  今・現在、キリスト教は、「禁教だ」「禁教だ」と叫
 ぶが、キリスト教側が命令に従わない事から、何事も話
 が始まるのだ・・身から出た錆、キリスト教の悪行から
 発しているのだ。
  「長崎の26聖人」なんて言っているが、命令違反の潜
 伏キリスト教宣教師たちにたぶらかされた犠牲者たちだ。
  そして、豊臣秀吉は、1598年に没する。
  時代は徳川家康の手に移って行く・・そして・・
  1600年を参照・・
.
1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後(大分県)に来た。
  それに先立つ12年前の1588年、スペインは、世界に君
 臨していた無敵艦隊を壊滅させられた。
  極悪のスペインの命運はここまでだった。
  海上権を失ったスペインの悪行もここまでだった。
  スペインからの独立戦争を戦っていたオランダと、そ
 のオランダを支援していたイギリスに、その主導権は移
 る・・、
  スペインは政治的にも、また、経済的にも後退して行
 った。
  オランダイギリスは、1595年以来、国を挙げて東洋
 航路を開拓していた。
  オランダは、1598年、5隻の艦隊をマゼラン海峡を回る
 航路で東洋へ向かわせた。
  そして、その1隻が、僚船を失いながらも、1600年に、
 日本の豊後に至ったのだった・・その船がリーフデ号。
  徳川家康は、その船の航海長のイギリス人ウィリアム・
 アダムスを大阪に呼びつけ、オランダイギリスとの貿
 易を許した。
  オランダは、すぐに応じて、ジャワを根拠地とした。
  そして、1609年、平戸に商館を建てた。
  イギリスも、1613年に、平戸に商館を建てた。
  そして、徳川家康から自由貿易の朱印状を得て、盛ん
 に貿易を始めた・・日本は開かれていた。
  ポルトガルは、独占的な対日貿易権を失った。
  それと同時に、ポルトガル系の日本イエズス会にも大
 きな打撃が与えられた。
  はじめポルトガルが、日本のキリスト教の布教を始め
 ていた。
  1585年1月には、ローマ法王(教皇)の「日本布教は、
 ポルトガルイエズス会)がせよ」という命令も出てい
 た。
  しかし、その様な命令も無視され、スペイン系フラン
 シスコ会が日本に来て布教を始めた。
  この様な事で、キリスト教の会派同士の確執と争いが
 生まれた。
  この様な事からローマ法王(教皇)は、1600年12月、
 前言を取り消して、再度、命令を出した・・
  「諸会派が日本で布教しても良い」・・と。
  ここに「ポルトガルイエズス会」の日本布教の独占権
 は破棄された。
  そこで、1602年、スペイン系の諸会派が、日本布教を
 始めた(ドミニコ会、アウグスティノ隠修士会)
  そして、1608年6月、また再び、ローマ法王(教皇)は
 命令を出し・・
  「日本の布教は、完全に自由だ・・みんな勝手にやり
 なさい」・・と。
  誰がやっても良いぞーという中で、ポルトガルのキリ
 スト教会派とスペイン系の会派は、日本で陰湿な争いを
 始めた。
  この両国は、国民感情も対立していて、キリスト教会
 派も対立が激しかった。
  いがみあいは、特に、イエズス会は、各会派から集中
 的に激しい論難が加えられていた。
  この対立は根深く、陰湿で、対立解消には至らなかっ
 た。
  家康は、キリスト教が素晴らしい宗教だから布教を許
 したなどという事では、当然、無く・・
  家康の目的は、貿易を独占的に行うことと、新しい西
 洋の技術を得ることにあった。
  1599年には、早くも家康は、江戸における布教を許し
 ていた。
  そして、浦賀を開港していた。
  そして、鉱山採掘技師を連れて来させたりしていた。
  1602年には、江戸及びその周辺の布教に拡大した。
  キリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)で、日本の状況
 が陰湿な状況へ捻じ曲げられているが・・キリスト教
 悪いことをしなければ、日本は、大変、開明的だったの
 です。
  (参考)開明的:かいめいてき、優れた洞察に基づい
     て、新たな分野に積極的に取り組むさま。
     ・
     ・
1941年、アメリカは、日本を煽(あお)るため、アメリカ
 軍艦日本領海侵犯航行をさせた(今の中国みたいなも
 のだ)
  策士・ルーズベルトは、何としても最初の一発を日本
 に撃たせたかった。
  また、日本が、先に、撃った事にしたかった。
  アメリカの国民の方々は、8割以上が戦争反対だった。
  ルーズベルトは、その世論を無視して、日本を煽(あ
 お)るために、1941年に、アメリカ巡洋艦日本領海
 に侵入させた。
  そして、日本と「衝突事件を引き起こそう」と不埒(
 ふらち)な事をさせていた。
  また、日本への石油の輸出を止めた。
  今・現代でもそうだが「石油が止まったら、国の息の
 根は止まる」・・ルーズベルトは、この様な戦争が起き
 かねない重大な事をした。
  そして、ルーズベルトがした事は、「ハル・ノート
 だった。
.
1941年4月、本当の日米開戦
  日本へ隠密に奇襲攻撃をするアメリカだった。
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた史実・事実・
 真実となっている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲の悪名
 は、この史実から・・『ない』と言える。
  既に、アメリカの奇襲による先制攻撃で、日本とアメ
 リカは交戦状態にあった。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで奇襲した・・
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦していた。
  れっきとした日米の戦争状態で、アメリカは言い逃れ
 できない。
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯で卑劣な事をするアメリカであるが・・、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳をした・・、
  そして、真珠湾では・・
  日本が真珠湾の攻撃をする前に、アメリカ軍が、航行
 速度が遅い日本の潜水艦は、先行して真珠湾に達してい
 て、この先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃の前に、アメリカが日本の軍艦を攻
 撃して、戦端を開いていたのだった。
  この時、アメリカは『あれはクジラだった』と、また
 また、アメリカは苦しい言い訳をした・・が・・、
  5隻の日本の潜水艦が未帰還になった。
  この5隻のすべてを、アメリカは「クジラだと言いたい
 のか?」。
  また、1隻に2人の搭乗員が居て、9名は戦死したが、1
 名の日本の搭乗員をアメリカは救助した。
  クジラから出て来た日本の潜水艦の搭乗員である。
  アメリカは、言い訳ができないのである。
  そして、また、この中国でのアメリカの日本への先制
 攻撃を、最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与え
 る』という命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしていた
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である・・交戦である・・戦争状態
 に入る事である。
  れっきとしたアメリカ宣戦布告なしの開戦である。
  アメリカの奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に、この動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカは、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いう事実をアメリカは国民に公表せよ・・、
.
1941年11月27日、戦争へ向けて暗躍するルーズベルト大統領
  第二次世界大戦の重要史料である「モンゴメリー・ハ
 イド文書」などが、100年後の2041年まで秘密にされた。
  都合が悪いから、秘密にする期間を延ばした。
  都合がよければ、逆に、どんどん公開するわけだ。
  本・『操られたルーズベルト』より
  ・・・
  ルーズベルト大統領真珠湾攻撃の舞台回しをして、
 (日本軍の)来襲があることを知っていたことの最も反
 論できない証拠は、H・モンゴメリー・ハイド『3603号室、
 イギリス諜報機関の話』に出ている。
  この本は、ロックフェラーセンターの36階3603号室で
 執務していた、イギリス秘密機関長ウィリアム・ステフ
 ェンソンが、日本をアメリカとの戦争に引き込み、従っ
 て枢軸国との戦争へアメリカを引き込むことを、ルーズ
 ベルト大統領や他のアメリカ高官と謀議したその詳細を
 記述している。
  モンゴメリー・ハイドは、さらに詳細に述べている(
 以下、同書より引用)
  「ステフェンソンはイギリス籍で、日本で50年過ごし
 たエージェント(工作員)を、栗栖使節団に潜入させる
 ことにある程度成功した。
  このエージェントは、栗栖使節団のユキという人物に
 接触し、あらかじめ会話を盗聴する仕掛の設備をしたワ
 シントンのアパートで幾回か会った。
  この記録から得られた情報は、文書化され、そのコピ
 ーはステフェンソンによって、毎日、ルーズベルト大統
 領に届けられた。
  これは、当時、暫く前から傍受解読されていた東京
 ワシントン間の外交電報を補強するものであった。
  1941年11月27日、ルーズベルト大統領は、彼の息子ジ
 ェームズ・ルーズベルトに、特別のメッセージを持たせ
 てステフェンソンのところへ送ったが、その意図は、イ
 ギリス外務省ワシントンイギリス大使館もまだ分か
 っていなかった。
  その同じ日に、ステフェンソンは、それをロンドン
 送った。
  彼の電報は、次のようなものだった。
  『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  私は繰り返します。
  電報は、『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  想像されるように、この電報は、ロンドンに巨大な激
 動を与えた。
  そこで、ワシントンにいたハリファックス卿(訳注・
 駐米イギリス大使)に、直ちに、電報してその確認を求
 めた。
  他の至急報がロンドンから、今度は、ステフェンソン
 宛てに出されたが、それは、首相と閣僚が彼の情報源を
 知りたいというものであった。
  ステフェンソンは簡単に返電した。
  『(情報源は)アメリカ大統領ルーズベルト)』
  2日後の11月29日に、コーデル・ハルは、ハリファッ
 クス大使に会い、そのニュースを公式に伝えた。
  その際、コーデル・ハルはこう言った。
  『日本との外交関係は事実上終わった。
  仕事は、既に、陸海軍の手に渡った。
  日本は、今や突然に動き、それも完全な奇襲の要素を
 持つであろう』」
  ヒルダーとルーズベルトの娘婿のドール大佐とのやり
 取り
  ◆ヒルダー:私は、丁度、1971年3月26日付ロサンゼル
 ス・ヘラルド・エキザミナーの「秘密報告」と題する記
 事を見ました。
  ジョン・チェンバレンは、そのコラムで、他の一人の
 CFRのメンバー、故トム・デューイ元ニューヨーク州
 知事、共和党から大統領候補として出たデューイはパー
 ルハーバーの真相を知っていた、と書いています。
  この記事でチェンバレンはデューイ知事に個人的にイ
 ンタビューしたと述べています。
  「1944年になってデューイは、『パールハーバーのし
 ばらく前、最高機密の日本の暗号が破られ、次の日に、
 太平洋の何処かで攻撃が始まることを、ホワイトハウス
 は15時間以上前に知っていたことが分かった』と言って
 いた。
  正確な位置は指摘できなかったにしろ、太平洋のあら
 ゆる我々の基地は警報されるべきであったのです」
  ◆ドール:12月7日のその日曜日の朝9時、奇襲攻撃の
 約4時間前に、スターク提督は、彼の部屋で14項目の日本
 の返事を受け取り、一緒にいたマーシャル将軍に向かっ
 て叫んだ。
  「大変だ!これは戦争だ」。
  「直ぐキンメルに知らせなくちゃ」
  ヒルダー:もし彼が電話でキンメル将軍に通報してい
 たとすれば、奇襲は避けられたでしょうか。
  ドール:はい、私はそう思います。
  ロバート・A・セオボールド提督は、『真珠湾最後の秘
 密』の中に、電話連絡はされなかったという事実を書い
 ています。
  今でも、アメリカの大衆に「完全には明かされていな
 い」、
  何らかの強い力、あるいは圧力が、キンメル提督に適
 切、迅速に警報することを止めたのです。
  キンメル自身が私にこう語りました。
  「スタークは、『我々はキンメルに無電を打って、警
 戒させなければならん』とマーシャルに言いましたが、
 彼はそれを止め『それはやめよう、そうすると日本人に
 気付かれ、事態を複雑にする。
  私は後から彼に電報しよう』。
  彼は、確かに、商業通信線を使う普通電報で私に知ら
 せたのです。
  至急便ではなく、普通便扱いで。(その結果)すべて
 の爆弾が落ちてしまって約2時間後、確かに、私は、マー
 シャルの電報を受け取ったよ」
  ヒルダー:マーシャルもCFRのメンバーですか。
  ドール:確かにそうでしょう。
  ヒルダー:マーシャルの行動はとても理屈に合いませ
 んね。
  日本人に探知されると事態を複雑にするから、キンメ
 ルへの通報を止めさせるというのは、大変不思議ではあ
 りませんか。
  ドール:もちろん非常に不思議です。
  (参考)
  12月8日を記憶せよ!
  「私は決して宣戦はしない。私は戦争を造るのだ。」
  カーチス・B・ドール著『操られたルーズベルト
.
1953年6月19日、この日の夜、ローゼンバーグ夫妻の死刑
 執行がアメリカ合衆国でなされた。
  ソ連のスパイとして、核機密を、ソ連へ漏洩したロー
 ゼンバーグ夫妻だった。
  日本で、この夫妻の無実を訴えて、救済運動に関わっ
 た共産主義者が多かった。
  そして、近年、夫妻が、本当に有罪だったことが確認
 された。
  それでも、「しらばくれる日本の共産・左翼知識人
 たち」だった。
  反論すると墓穴を掘ると思うから、議論をしないとい
 う卑劣な態度をとった。
  この様な事は、キリスト教神学者聖職者たちにも
 言える。
  最近、「ヴェノナ文書」が公開されて、ローゼンバー
 グ夫妻が、実際に、スパイ活動を行なっていたことが明
 らかになった。
  刑の執行は、ニューヨーク州シンシン刑務所で、同じ
 電気椅子で、最初に、夫ジュリアスが午後7時6分に執行
 され、次に、妻エセルが午後7時16分に執行されるという
 やり方で、それぞれ処刑された。
.
1960年代の半ば、エドガー・スノーは、中国のプロパガン
 ダに心酔し、中国共産党にべったりという状態になる。
  1960年代の半ば頃、そのあまりにもおかしいスノーに、
 ジャーナリストとして客観性を欠いていると批判が出る。
  そして、スノーもさすが自分が毛沢東に騙(だま)さ
 れていると、中国に対して懐疑的になった。
  「今日の赤い中国」で有名になるが、大躍進による大
 飢饉(中国国民の4000万人が死んだと言われている)を
 否定する。
  (そんなことは起きていない・・と)など、
  しかし、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批
 判され、スノー自身も、「後に自らの無知を認めている」。
  1970年1971年エドガー・スノーは、妻を伴った最
 後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領
 は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述
 べている。
  ホワイトハウスは、このスノーの訪問に興味を示した
 が、スノーを信頼していなかった。
  しかし、この時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、
 スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇
 帝崇拝の伝統がある」と言った)や・・、
  革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・
 拷問された(周恩来の介入で、スノーは生還できた)こ
 となどにより・・、
  中国共産党率いる中華人民共和国に対して、幻滅の感
 を持つに至った。
  そして、中国へのゴマすり小説の『中国の赤い星』を
 書いたことを後悔していると妻へ語った。
  ユン・チアンとジョン・ハリディは、「マオ(誰も知
 らなかった毛沢東)」で、スノーを、毛沢東スポーク
 スマンで、毛沢東神話化に加担した、そして、共産党
 をロマンチックに描写していると批判した。
  また、ジョナサン・ミルスキーも、スノーは、周恩来
 や毛沢東からの信頼を得ていることに満足していたため、
 大躍進の(巨大な中国国民の死)の被害を見ることもで
 きなかったと述べている。
  しかし、それでも中国は、「スメドレー・ストロング・
 スノー協会」を組織し、プロパガンダ(嘘宣伝)映画も
 作り、せっせと世界を誤魔化している。
  2006年、ロイス・ホイラー・スノー夫人は、インタビ
 ューで、「彼は、今日の中国の姿を、決して是認しなか
 ったでしょう」と語り、中国の何事に対して、不誠実な
 姿を批判している。
.
1972年、中国の「第二期対日解放工作要領」
  中国は、情報工作を必死にやって来た。
  「32年テーゼ」がある。
  (参考)32年テーゼ:1932年5月に、コミンテルンで決
     定された『日本における情勢と日本共産党の任
     務に関するテーゼ』のこと。
      日本から片山潜野坂参三、山本懸蔵らが参
     加し、討議している。
  また、強く日本へ影響を与えた1972年に出された「第
 二期対日解放工作要領」がある。
  この中には『日本をまるまる中国共産党の為に利用す
 るには、日本国民心理的に取り込む必要がある」と書
 かれている。
  そして、1998年の「21世紀の中日関係の展望」でも「
 日本は、もはや政治大国になれないのだから、中国の為
 に日本の力、特に、その経済力や技術力を活用しなけれ
 ばならない。
  日本人をコントロールするため、日本人に歴史問題を
 突き付けて、日本人を後退させる」と書かれている。
  そして、日本国内の大学のあちこちに孔子学院を作っ
 ている。
  ドイツメルケル首相が「儒教でも教えるのかと思っ
 たら、中国のプロパガンダ(中国思想の洗脳機関)だっ
 た」と嘆いたごとくだった。
  今、世界が、中国の嘘宣伝工作に気付いて来た。
  アメリカは、「孔子学院の閉鎖の大統領令が出された。
 アメリカでは、孔子学院が次々と閉鎖されている。
  しかし、中国の陰湿なしつこさは、「各大学に中国研
 究センターの類いを作らせてところだ」。
  非常に重層的に、中国は、世界の工作網を作っている。
  中国のプロパガンダの歴史は、非常に長い歴史がある。
  中国にとってこのようなレベルは、お手のものなのだ。
  日本では、「日本学術会議が取り込まれている」。
  日本学術会議は、「戦争反対を美しい名目にして、日
 本の防衛に必要不可欠な研究成果を使わせない」として
 いる。
  中国が喜ぶだけだ。
  日本学術会議が、中国に取り込まれる歴史は、非常に
 古い。
  その1例、1955年6月、日本学術会議は、多くの面々が
 顔を連ねて、東大総長を団長として、中国へご機嫌うか
 がいの北京訪問をする。
  そして、工作員上がりの郭沫若と会う。
  そして、挨拶で、「中国のお役に立てる研究者たちを
 連れて来ました。
  それが、何よりも一番の中国のお役に立つお土産にな
 ると思いまして」と挨拶する。
  日本の技術を欲しがっている中国の要望に応じるとい
 う日本学術会議となっている。
  公然たる「日本裏切り団」となっている。
  「産業スパイ団」となっている。
  また、これは、「チンコム(対中輸出統制〉違反」と
 なっている(1957年まで実施)。
  そして、この時、郭沫若は、繰り返し繰り返し強烈な
 毛沢東讃美演説をしている。
  日本学術会議の面々は、この様な中国共産主義思想の
 洗脳を受け、そして、タイコモチ化した日本学術会議
 面々が日本に帰って来た。
  この様な、中国のしつこい行為の繰り返しがなされて
 いた。
  1940年代の延安に逃げて、隠れていた中共は、ここで、
 中共が何をやっていたかを知っているはずの日本学術会
 議団なのに、洗脳されて、有り難がって日本に帰って来
 た。
  延安の中共が、中国国民の方々を、大勢、殺すという
 大粛清をしていることも知っていて・・、
  そして、目の前に居る人たちが、その様な虐殺行為を
 していることも知っているのに、まったく思い出せない
 という洗脳の輩状態となっている。
  そして、その後に、日本への裏切り行為をする。
  折角の研究成果を、日本に使わせないという、中国が
 喜ぶ行為をする。
.
1979年古田博司氏(筑波大学教授)は、若い時、共産主
 義にかぶれ、共産主義の本質がまだ見れていなかった。
  26歳の時、憧(あこが)れ続けていたソ連へついに旅
 立った。
  社会主義国の素晴らしさが見たかった。
  ソ連では監視員が付き、自由に見ることを拘束された。
  古田氏は、監視員をまいて、自由の身になって、裏町
 を見るのが好きだったので、勝手に歩き回った。
  すると、ソ連の街中では、失業者の群れに出くわした。
  社会主義国には、失業者は居ないと教えられていたの
 にと・・言われている事と実際がまったく違うという現
 実を見た。
  町の建物の壁には、「旋盤工を求む」とか、「ミシン
 工を求」とか、求人の貼り紙が張ってあるし、平等に皆
 に仕事があると聞いている話とまったく違った。
  食糧は、集団農場で、毎年、増産されているという話
 もデッチアゲで、野菜売り場には巨大な瓜があるだけと
 いう貧弱さ。
  色々と見て、今まで話に聞いていたことは、まったく
 のプロパガンダ(嘘宣伝)であるという事がすぐに分か
 った。
  共産主義国は、この様な話が満ちていた。
  ソ連は、その後、破綻するが・・、
  共産・中国は、今なお、中国共産主義独裁政権が政治
 を牛耳っている。
  ・・が、このソ連の例が、この国にも当てはまる様相
 になりそうだ。
  虚偽によって「世界をだぶらかせている」。
.
1991年1月、橋本龍太郎蔵相が訪中した。
  この行動が罪作りで最低だったのは、中国が天安門
 件で、中国の自国民を戦車で轢(ひ)き殺し、また、中
 国人民解放軍が(解放軍なんて呼べないような行為をし
 た軍)、自国民へ向かって銃を乱射した。
  大勢の中国の方々が亡くなった。
  100万人の規模で集まった中国の現政権への不満を持っ
 た人々・・この様な天安門前の中国の民を卑劣なやり方
 で殺し、抑え込んだ。
  当然、全世界から非難の嵐となった。
  この様な残忍で凶暴な「人権弾圧への非難の嵐」の中
 国へ、国際社会が強く抗議し、制裁している中国へ、こ
 の馬鹿な日本の蔵相の橋本龍太郎は、最低にも、ゴマす
 り訪中をした。
  最初の先進諸国のトップ級の恥ずかしい訪問劇となっ
 た。
.
2005年、中国の毛沢東の伝記「マオ(誰も知らなかった毛
 沢東)」(講談社)が出版された(著者:ユン・チアン
 氏)。
  この中で、毛沢東が、大躍進政策で約4000万人もの中
 国国民を死に追いやったと記されている。
  中国は、きちんとした説明はしていない。
.
2006年10月、チベット仏教僧侶が亡命しようとしたとこ
 ろ、中国の人民解放軍が銃撃して殺した。
  この映像が珍しくネットに流れた。
  しかし、この事件に対して、日本のNHKはじめメデ
 ィアは、まったく「ホッカムリ」して報道しなかった。
  報道したのは、僅(わず)かに「産経新聞」と「週刊
 新潮」だけだった。
  NHKはじめ日本のメディアは、中国を怖(こわ)が
 って報道しなかった。
  アメリカオバマ大統領北朝鮮の核が怖くて、しっ
 かりした対応ができなかった・・その結果、とうとう北
 朝鮮は、核を持ってしまった。
  だから今、トランプ大統領が大変な苦労をしている。
  正義をかざして闘う姿勢を示さない「NHKはじめ日
 本のメディア」の腰抜け状態。
  日本国民の方々は、まったく気づかずに置かれる状態
 になっている。
  NHKという放送局は、日本国内殺人事件ばかり報
 道して、海外を報道しない傾向にある。
  「殺人事件好き(すき)」のNHKとなっている。
.
2007年6月27日、アメリカ下院で、「慰安婦問題に関する
 対日謝罪要求決議」がなされた。
  日本は、アメリカのこの「2007年6月27日の『対日非難
 決議(アメリカ下院外交委員会)』を可決」は問題だっ
 たと「取り消し決議を要求するべきだ」。
  この決議案には間違いがあまりにも多い。
  多くの史実において間違いが存在する。
  また、卑劣な多くの史実の歪曲がある、そして、悪意
 ある捏造に満ちている。
  日米首脳会談の折の話し合いの議題の一つとすべきで
 ある。
  この様な決議が、アメリカ下院の外交委員会で可決さ
 れてしまう根本には「長年にわたる中国のプロパガンダ
 がある」。
  今・現代も続く、この様な中国の卑劣なプロパガンダ
 の存在を「アメリカに認識させる意味」でも、この様な
 「間違った決議を訂正させる行為は、重要なのだ」。
  「ただ単に、過ぎ去った過去の間違い決議の名誉回復
 のために『訂正を要求するという話』とは違うのである」。
  中国が捏造して、長年、行って来た中国の嘘の歴史の
 植え付けの洗脳行為を気付かせる行為は、『重要な外交
 会談の議題』なのだ。
  この重要性を、また、必要性を、御感じ戴きたい。
  アメリカの議会には、何度も事実に基づかない話が上
 程(じょうてい、議案を会議に欠けること)されている。
  日本を貶(おとし)める「中国のアメリカへの働きか
 け」は、しつこいのだ。
  この様な捏造の作り話に、日本は丁寧に、その総べて
 に反駁する必要がある。
  この様な日本を失墜させる行為には、必ず、事実を説
 明する必要が当然ある。
  馬鹿々々しい話が、黙っていることによって「本当な
 のだ」の話に代わって行くのである。
  例えば1例・・、
  「慰安婦の中には13歳という若さの少女や、自分の子
 供から引き離された女性も含まれ、彼女らは、自宅から
 拉致されたりした。
  さらには、多くの慰安婦は最終的に殺害されたり、交
 戦状態が終了した際には自殺に追い込まれた。
  その結果、歴史家は、20万人もの女性が奴隷化され、
 その内わずかしか今日まで生存していないと結論付けて
 いるという」と記されている。
  これは、まったくあり得ない・・完全な作り話である。
  この様な事を見過ごす日本外交は、あり得ない。
  これらの一つ一つに丁寧に反駁していくことが、『日
 本外交の最重要課題である』。
  他に最重要課題があるからと、この様な日本の一番大
 切な「日本の立ち位置を覆(くつがえ)されている状態
 を放置する事が無いようにせよ」。
  その一つ・・、20万人なんてまったくあり得ない嘘で
 ある。
  20万人と言えば、1945年3月10日、アメリカが、大規模
 で東京を大空襲した。
  この時、大勢の方々が焼き殺されたが、その犠牲者
 倍である。
  広島の原爆の犠牲者よりさらに多い。
  その様な大虐殺を日本軍が、終戦時に行ったというの
 ならば、その史実的根拠を示せ!
  その責任は、『アメリカにはある』。
  ただ、中国から言われたから、プロパガンダされたか
 らでは済まない。
  アメリカは、その総べてについて根拠を示せ!
  そのことが出来ないなら、『アメリカは、訂正決議を
 せよ!』。
  過去の決議を破棄し、日本へ謝罪せよ!
  事実・史実・真実を先に言うのならば「事実無根であ
 る」。
  中国のプロパガンダの『そのままである』。
  また、日本の議会は、このアメリカの決議の『非難決
 議をせよ!』。
  国際司法裁判所へ「アメリカの名誉棄損を訴えよ!」。
.
2016年日本企業海外進出ランキング
 1.中国--------- 32,313(55.1%)▲1,077(▲3.2%)
  2.アメリカ----- 8,422(14.4%) 573( 7.3%)
 3.インド------- 4.590( 7.8%) 275( 6.4%)
 4.ドイツ------- 1,811( 3.1%) 34( 1.9%)
 5.インドネシア-- 1,810( 3.1%) 113( 6.7%)
 6.タイ---------- 1.783( 3.0%) 58( 3.4%)
  7.ベトナム------ 1,687( 2.9%) 109( 6.9%)
  8.フィリピン---- 1,440( 2.5%)▲ 8(▲0.6%)
  9.マレーシア---- 1,362( 2.3%)▲ 21(▲1.5%)
 10.台湾---------- 1,152( 2.0%) 27( 2.4%)
 11.シンガポール-- 1,141( 1.9%) 25( 2.2%)
  12.メキシコ------ 1.111( 1.9%) 154( 16.1%)
  計 58,622(100 %)
  2016年の進出企業数、その%、前年比増減、伸び率
  中国への進出企業数が55%と圧倒的の多が、3%の減と
 撤退傾向にある。
  次に撤退傾向にあるのはマレーシアフィリピンと続
 く。
  進出企業数の伸び率が高いのはメキシコで16%増。
  次がアメリカで7%増、
  その次が、ベトナムインドネシアインドの6%台。
  そして、日本のNHKはじめマス・メディアなど一般
 紙も、中国に進出した日本企業が、どんなに悲惨な目に
 遭(あ)っているか、まったく報道しない。
  中国に進出した日本の銀行が、中国企業に貸した金が、
 次々に不良債権となり、金が回収できない。
  そこで、それを取り戻そうと裁判を起こそうとするが、
 卑劣な事に、「その裁判を起こそうとする事が禁止され
 る」。
  中国では、法も正義もあったものではないことが起き
 ている。
  中国の有利なように、何でもくるくる変えられてしま
 う。
  WTOに加盟した中国は、そのWTOの規約も何もあ
 ったものではない国と化している。
  しかし、日本のNHKや新聞は、これを報道しない。
  この様な事に限らず、中国共産党の熾烈(しれつ)な
 権力闘争も、まったく報道しないし、中国の本当の経済
 状態も報道しない。
  日本国民をまったくつんぼ桟敷に置いている。
.
2018年アメリカでは、ルーズベルトの評価が割れている。
  アメリカ経済をニューディール政策で復活させた聡明
 な大統領だと評価するグループ。
  しかし、その見方は浅い。
  ルーズベルトを評価しないグループの方々は、もっと
 深い見方をする。
  道路やダムなどの公共土木事業だけで経済を復活させ、
 人々の賃金を上げ、生活苦の人々を援助できる復活は無
 理だったと指摘する。
  しかも、その時は、史上まれに見る大不況・恐慌に見
 舞われていたのである。
  聡明なルーズベルト派もそのことを知っていて、且つ、
 ルーズベルトは、それまでの職歴から、戦争による経済
 回復の実例を良く知っていた。
  ルーズベルトは、確信的に戦争を起こしたいと思って
 いた。
  本格的にアメリカ経済を回復させるには、戦争による
 浪費と、それに伴う大がかりな生産能力の拡大と、経済
 の拡大しかないと・・。
  ルーズベルトは、ニューヨーク州の知事を勤めたが、
 それ以前は、海軍次官としてアメリカ海軍の増強に全力
 を挙げた。
  その時に、日本との戦争計画に密接に関わった。
  ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
 計画(こんな計画がアメリカにあった)の中心に居た。
  それだけではなく、ヨーロッパへの参戦を含めて、戦
 争のすべてに、ルーズベルトは関われていた。
  戦争政治家そのものだった。
  そして、戦争によって、歴史が示しているように、景
 気の拡大は明らかにもたらされた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2018-10-16

(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月〜1894年11月)

題:(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月〜1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月2日、日本鉄道会社に対し、土浦・隅田川・磐城
 の3線の免許状を下付する。
  日本鉄道は日本初の私鉄。
  現在の東北本線高崎線常磐線など、東日本の東日
 本旅客鉄道JR東日本)の路線の多くを建設・運営して
 いた会社だった。
  1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参
 加して私立鉄道会社日本鉄道」の創立が決定した。
  西南戦争などの出費で、国の財政が困窮していたこと
 もあり、鉄道建設は国が行なうべきという意見も強かっ
 たが、民間資本を取り入れて、早急に鉄道敷設をして行
 こうとの方針となった。
  1882年、川口〜熊谷間から建設を開始、当初は貿易港
 がある品川、横浜と直結する計画であったが、山手の起
 伏が大きく建設費はより高額となることが見込まれたた
 め、まずは東京下町の山下町(現:台東区上野)を起点
 として建設が進んだ。
  1883年7月28日、第一区線の上野〜熊谷間を開業、その
 後、第一区線の高崎、下前橋(内藤分停車場)への延伸
 (利根川手前)、赤羽〜品川間の品川線(現在の赤羽線
 赤羽〜池袋間と山手線池袋〜品川間、1885年3月1日開業)、
 第二区線(大宮〜白河間)、第三区線(白河〜仙台間)、
 第四区線(仙台〜盛岡間)、第五区線(盛岡青森間)
 と順次建設して行った。
  1889年12月、第一区線を両毛鉄道(現:両毛線)の前
 橋まで延伸、
  1890年8月1日、日光線宇都宮〜日光)を全通。
  1891年9月1日、現在の東北本線全線(上野〜青森間)
 が開業。
  この1891年には、水戸鉄道(現:水戸線小山〜水戸間)
 を買収、途中駅である友部を分岐点として1895年11月4日
 に友部〜土浦間の土浦線(現:常磐線)北部区間を開業。
  1896年12月25日、土浦〜田端間の同南部区間を開業。
  1897年、両毛鉄道を買収し、
  1898年8月23日、水戸〜岩沼間の磐城線(常磐線、日本
 鉄道での路線名海岸線)を全通させた。
.
1894年11月5日、京都鉄道に対し、京都〜宮津間、綾部〜和
 田山間、舞鶴〜余部間の建設免許状を下付した。
  京都鉄道は、1893年に設立された民営鉄道
  舞鶴市までの鉄王敷設が課題となっていた。
  断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所
 を越える保津峡の難工事があった。
  1900年に、京都〜園部間が開業するが、園部以北へは
 資金難のため工事が遅々として進まなかった。
  政府は、舞鶴鎮守府開庁に続き、京都から舞鶴へ通じ
 る鉄道の建設は国策遂行上必須として・・、
  1902年4月、政府自らの手で、京都から舞鶴へ通じる鉄
 道の建設を開始した。
.
1894年11月6日、金州城を攻略した。
  遼東半島に上陸し、清国軍の重要拠点であった金州城
 を攻略した(詳細は前記を参照)
.
1894年11月8日、仮名垣魯文が死去した。
  (1829年2月9日〜1894年11月8日、享年65歳)草双紙、
 滑稽本作者、戯作者(ゲサクシャ)、新聞記者
  (参考)草双紙:くさぞうし、江戸時代、大衆を対象
     に書かれた絵入りの小説本。文章は平仮名が多
     く、赤本や青本、黒本、黄表紙、合巻物などが
     あった。
  江戸京橋の魚屋というまったくの庶民の生まれで・・
  幼少から奉公に出て、その先の大通人である細木(津
 国屋)香以の愛顧を受けて戯作好きとなって行った。
  そこで花笠文京の門に弟子入りし、戯作者の道に入っ
 た。
  ヒット作は、1860年の「滑稽富士詣」で、十辺舎一九
 の「東海道中膝栗毛」に倣って書く・・
  そして、瓦版や流行歌などを書いた。
  滑稽本『滑稽富士詣』 (1860年1861年) で戯作者
 して認められ・・明治に入って『西洋道中膝栗毛』 (1870
 年〜1876年) 、『安愚楽鍋 (あぐらなべ) 』などの開化
 風俗を描く滑稽本があたり、流行作家の代表作家となっ
 た。
  1874年から、「横浜毎日新聞」の雑報記者となる。
   1875年『仮名読新聞』 (『かなよみ』) を自ら編集者
 として創刊し・・「鳥追阿松海上新話」(久保田彦作著)
 などの新聞連載小説を始め、やがて明治式合巻として刊
 行し、「仮名垣派」の明治戯作全盛時代を迎える。
 「いろは新聞」「魯文珍報」などで、雑報記事、続き物、
 劇評などに筆をふるった。
  また、合巻「高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃ
 ものがたり)の当たり作を刊行し評判となった。
  教科書などにも活躍し、常に時流を見極め、多くの新
 聞に関係し、新聞小説の土台を築いた。
.
1894年11月19日、青梅電気鉄道の立川〜青梅間が開通して
 営業開始された。
  中央本線立川駅を起点にして、多摩川に沿って北上、
 奥多摩駅に至る37.2kmのJR東日本の営業線。
  1920年1929年日向和田―御嶽(みたけ)間を延長し
   て開業され、
  1923年電化して、
  1929年社名を青梅電気鉄道と改める。
  1944年、御嶽〜氷川(ひかわ)(現:奥多摩)間は、奥
   多摩電気鉄道として全通し・・
  同年・1944年、国有化された。
  当初は、石灰石の積出し線であった。
.
1894年11月20日〜21日、井上馨公使が、朝鮮内政の改革要
 領20ヶ条を朝鮮国王に上奏し、提出した。
  清国が、朝鮮は「独立の一国」であるのに、「朝鮮を
 もって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉」していた。
  日本は、ただ言うだけではなく、朝鮮の改革が成功す
 るように導く努力する義務をも負う覚悟であった。
  (この後の、日本の鉄道敷設や、大学など小中学校な
 ども建設に励んだ、また、病院や街道などの社会資本
 実に貢献した・・などなど・・この事などが、この日本
 の本物の誠意を示している)
.
1894年11月21日、日清戦争: 旅順口(りょじゅんこう)の
 戦い
  旅順要塞が陥落した。
  中国・清国の遼東半島の先端に位置する旅順は・・、
  対岸の威海衛(いかいえい)とならんで清国・北洋海
 軍(李鴻章が率いる)の重要な拠点・基地となっていた。
  日本をさんざん威圧し、脅(おど)して来た巨艦を持
 つ清国・北洋艦隊の基地だった。
  また、中国・清国の海上輸送の要(かなめ)の地だっ
 た。
  この為、日本は、この重要拠点の地を攻めた。
  この旅順の攻略にあたったのが、大山巌(おおやまい
 わお、西郷隆盛のいとこ)が率いる第二軍だった。
  1894年11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、
 秋山好古(あきやまよしふる)少佐の騎兵第一大隊が清
 軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強
 いられた。
  しかし、3日後の1894年11月21日の攻撃では、旅順の大
 部分を占拠し、旅順要塞は陥落した。
  日本は、明治維新から富国強兵で国力の強化に努めて
 来たが、欧米諸国は、まだまだ、日本がアジア第一の強
 国・清国にこの様な目ざましい戦いをするとは思っても
 いなかった。
  どの国も日本が敗北するだろうと見ていた。
  欧米列強諸国は、清国の最強の「東洋のジブラルタル
 といわれた旅順を見事な迅速さで攻略した日本に目を見
 張った。
  特に、攻略戦の迅速さは見事だった。
  この第二軍には、教科書にもよく出る著名人が参加し
 ていた・・軍医として派遣された森鴎外(作家)、記者
 として国木田独歩(作家)、西洋画家の浅井忠など・・、
  日本の勝因は、動員・兵站・指揮のシステムなどが近
 代軍として清軍に対して優れていて・・
  近代化された日本軍は、基本的に、終始、優勢に戦局
 を進めた・・そして、遼東半島を制覇した。
  この戦いを振り返ると・・、
  1894年10月24日、大山巌大将が率いる第二軍が金州に
   上陸。
  1894年11月6日、金州城を制覇。
  1894年11月21日、日本軍1万5千は、清国軍1万3千に対
   して攻勢をかける。
    清国軍の士気は極めて低い状況・・堅固な旅順要
   塞が僅か1日で陥落する。
    日本側損害:戦死40名、戦傷241名、行方不明7名、
    清国損害:戦死4500名、捕虜600名・・で敗退・・
    旅順の攻略戦は、大変な困難を極めるだろうとい
   う欧米諸国の予想を裏切る迅速さだった。
    また、日本は、非常に厳しい軍律でこの戦いに臨
   んだ・・
    大山巌は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由(
   よ)って戦ふものなり」という訓令を発している。
  この戦いの後、いつもの様に中国の清国軍は卑劣な行
 動をとった・・中国はいつもこの卑劣な行為をする・・
  軍服を脱いで中国市民の中に隠れた・・
  これでは一般の中国市民に災禍が及んでしまう。
  この隠れた卑劣な中国兵の掃討を日本軍は行った。
  そして、南京事件と同じ様な嘘宣伝を始める・・
  中国に居る日本軍が行なっていない行為を、「した」
 とプロパガンダ(嘘宣伝)を始めた・・
  日本軍一般市民を虐殺したという嘘を言いふらした・・
  この結論を先に言うと・・世界各国は、『これは中国
 のデッチアゲの嘘発言』と了解し、解った。
  日本軍は、市街の掃討をするときには・・、
  市民の中から日本軍を狙う清国兵、「市民の中に隠れ
 た清国兵」「軍服を脱ぎ捨てた中国兵」を掃討する時に
 は・・、
  例えば、日本の第二軍司令部は・・各人・各家の安全
 を保証する措置を講じ、安心するようにと言った・・
  紙あるいは布に、「此者殺すべからず、何々隊」とか、
 「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文を中国
 の人たちに渡した。
  そして、人々に、民衆に、落ち着きを取り戻せるよう
 に配慮した。
  ほとんどの中国兵はすでに逃げていた・・
  1894年11月26日早朝に、九連城に入ると、すでに清国
 軍は逃げて、居ない状態となっていた・・無血入城とな
 った。
  嘘をでっち上げて日本を貶(おとし)める中国は・・、
  旅順陥落後の民間人や、戦闘を放棄した者の死傷者数
 について「18000名」と言っている(この後、2万名弱と
 言う)
  戦争は、巻き添えになる一般市民の方々も居るものだ
 が・・市街戦が行われば・・その様な方々の数について、
 外国などの報道機関は以下の数を公表している・・
  『タイムズ』(1894.11.28):200名
  『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20):2000名
  フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年):
 1500名
  日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍
 司令官への報告:1600名
  しかし、中国と裏でつながっているのか・・1894年12
 月12日になって・・『ニューヨーク・ワールド』の新聞
 (クリールマン記者の記事)は、旅順虐殺の嘘の捏造(
 ねつぞう)記事を、センセーショナルな書き方で報じた。
  初めは、きょとんとしていた他の新聞各社だったが、
 その後、各社はこれに追随した。
  この頃の新聞各社は、「販売部数を拡大しよう」とセ
 ンセーショナル記事を書いて競い合う状況にあった。
  その嘘つきの口火をきった『タイムズ』の報道に対し
 て、正直な『セントラル・ニュース』は、12月29日付け
 の新聞で、『正当な戦闘以外での殺傷はなかった』と報
 道した。
  また、ゲルヴィルによる証言:旅順陥落を目撃したニ
 ューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲル
 ヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリール
 ンの報道するような虐殺は発生していないと証言した。
  また、さらに、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 で「虐殺は捏造されたものであった」と論じた。
  そして、また、ダネタン報告:ベルギー公使のアルベ
 ール・ダネタンの本国への報告調査では・・、
  事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多
 分(たぶん、量や程度が過大なこと)に誇張されたもの」
 と報告した。
  また、フランス武官ラブリ子爵は、「殺された者は軍
 服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されて
 いないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難
 しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
 と述べた。
  日本政府は、世界への説明書を書いて、はっきり反駁
 した。
  伊藤博文は、政府として正式な説明をした・・
  議会は、以下の通りと決定した。
  1.清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2.旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を
   脱いだ兵士であった。
  3.住民は交戦前に逃亡していた。
  4.逃亡しなかった者は、清国から交戦するよう命令さ
   れていた。
  5.日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、
   それを見知った者が激高した。
  6.日本側は軍紀を守っていた。
  7.クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容
   に驚いている。
  8.旅順が陥落した際、捕らえた清兵の捕虜355名は丁重
   に扱われ、二・三日のうちに東京へ連れてこられる
   ことになっている。
  この伊藤らが作成した説明書は、第七項を省いたもの
 が12月17日と、12月18日の両日に、アメリカの各新聞に
 掲載された。
  また、陸奥が、直接、アメリカの新聞社に説明すると
 いうやり方が、アメリカ側から好感された。
  そして、欧米諸国で、「虐殺は無い」として認められ
 た。
  欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」
 を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨー
 クワールド紙が・・ライバル紙と競い合って・・、
  イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を
 行っていたことが常識であり、定説となっている。
  ニューヨークワールド紙は、ニューヨーク・ジャーナ
 ル(ニューヨークモーニング・ジャーナル)紙との扇
 情主義報道で競争し・・、
  この他、世界でも、病的な好奇心だけを沸かす扇情的
 な記事で競い合っていた。
  虐殺は無いの証言も多く・・クリールマンの報道を耳
 にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ね
 たところ、「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいた」と否定した。
  ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で、日本への
 誹謗に反論していることから、扇動報道だったと結論付
 けられた。
  中国は、南京事件もそうだが、よく嘘をつく国だ・・
  この様な事をして『相手を惑わせる者が、能力のある
 者」と評価される中国の状況で、また、判断基準で・・、
  中国社会では、この様な事が「日常茶飯」として、歴
 史上で行われて来た。
  今・現代も、中国は世界中で、「多くの工作員」と「
 多額な資金」を使って盛んにこの類の工作を行っている。
  扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)の災禍を受
 けた日本だった。
  この火付け役のクールマンは、この時だけでなく、1888
 年の米西戦争の時も、この様な報道をして、世界を惑わ
 せ、世論を誘導している。
  この時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」と疑義が
 出されている・・美味しい書き方は止められないという
 ところだった・・
  それにしても、中国は、韓国と一緒になって、「南京
 事件だ」「慰安婦問題だ」と、今だに世界を惑わせ、ま
 た、自国民を惑わせている。
  中国、及び、その手先が言う下記の言葉はまったくの
 嘘のプロパガンダと世界は決定している・・
  「虐殺事件をおこし婦女子・幼児を含む非戦闘員6万人
 を虐殺」・・この数字も嘘つく中国は増やして行くだろ
 う・・こんな事ばかりしている国・中国なのだ。
  この様に平気で嘘を言ってばかりいる国・中国は、世
 界から制裁を加えられるべきだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:昔からプロパガンダばかりする中国・・平気で嘘
   を言ってばかりいる国・中国は、世界から制裁を加
   えられるべきだ。
.
紀元前1万6500年、日本で世界最古級の縄文土器が作られた。
  日本の古代史も世界に誇る状況にある。
  中国湖南省で発掘された約1万8000年前の土器がある。
  日本では・・大平山元(おおだいやまもと)I遺跡の縄
 文土器(約1万6500年前)・・放射性炭素年代測定から推
 定された。
  これらのことから、多くの研究者は、遅くとも1万5千
 年前には、日本列島土器が使われていたとしている。
  他地域の最古の土器をみると、南アジア西アジア
 アフリカが約9000年前・・、
  ヨーロッパは、アジアより約1万年も遅い約8500年前・・、
  学校で教えられた「四大文明」の地と比較しても、日
 本は飛び抜けて古い・・、
  (参考)メソポタミア文明紀元前3500年頃〜
      エジプト文明紀元前3000年頃〜
      インダス文明紀元前2600年〜
      黄河文明紀元前7000年?〜
  ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5000年前
 と考えられる土器が発見されている・・、
  日本だけが古いと言うより、東アジア全体で古い時期
 に土器が生まれたと言える。
  ロシアでは、防寒や調理に使う「魚油」をとるために、
 魚を土器で煮ていた可能性が指摘された。
  この様に、土器使用の始まりには、漁撈(ぎょろう)
 も大きくかかわっていると推定されている・・古代オリ
 エント博物館研究部長の石田恵子氏(西アジア考古学
  生まれた理由も様々・・
  中央大准教授の小林謙一氏(日本考古学)は・・、
  「土器の誕生は、当時の環境の変化と深いかかわりが
 あると考えられる」と説明・・、
  日本では・・氷河期が終わりに近づいた約1万6000年前
 〜1万5000年前、気温上昇にともない、亜寒帯的な森林か
 ら落葉樹も交じる森林へと変化した。
  その結果、ドングリなどの植物質の食料が入手しやす
 くなり、それらを食べるためのアク抜きに必要な容器と
 して、土器が生まれたのではないかと推定されている。
  国内最古と考えられている土器は、模様のない「無文
 土器」で、主に、東日本で出土している。
  しかし、約1万4500年前頃、粘土ひもをはり付けた「隆
 線文土器」と呼ばれる土器が生まれ、日本全国へと広が
 った。
  「堅果類であるコナラ、カシ、シイなどの分布が広が
 ったことで、土器も普及した」と推定されている(小林
 氏)
  日本列島では「最古級の土器東日本に多いが、遅く
 とも約1万3000年前頃には、鹿児島でも無文土器が使われ
 ていた。
  北と南で、別個に土器が生まれ、それらが広がったと
 考えた方が良い」(南九州縄文研究会代表:新東晃一氏)
  また、シベリアで発掘された土器(約1万4000年前)も
 世界最古クラス・・
  縄・紐は、フランスにあるラスコー洞窟の最奥部で発
 見された約1万2000年前以前のものが現存する最古の縄。
    ・
    ・
    ・
1955年新疆ウイグル自治区が設立された。
  中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分
 が置かれていた。
  国防力の弱さから蹂躙され続けた国だった・・そして・・
  新疆ウイグル自治区(国)という形をとって安定する
 のかと思えば、これが「すごろくの上り」ではなく・・
  結局は、この地域は、共産・中国の漢族の国家となっ
 て「上がりとする」という道を進まされている。
  国盗り状態である。
  かつて、満州族女真族)の国家の建国を、日本が助
 けたが・・
  満州族女真族)の方々が多く居たのでその建国を助
 けたのだが・・
  まだ、その時から1世紀も経ってない今(2018年)、そ
 の満州族の方々は、この満州の地には、跡形もなく居な
 くなってしまった。
  殺されたのか?・・追放されたのか?
  国家が消え去るという事は、この例の様に、あっけな
 いのである。
  日本の沖縄も、中国には「中国の領土だ」という声が
 ある。
  このスケジュールに入っているという・・。
  そして、すでに、それへの活動がなされている。
  金と人によってである
  この様に、日本人は、よほどしっかりしないといけな
 い「今・現在なのである」。
  ユダヤの方々が経験されたディアスポラが、日本人に
 も・・日本の地から追い出されるという事も起き得る・・
  意識をしっかりしないとその様なことが起きてしまう。
  (参考)ディアスポラ:(植物の種などの)「撒き散
     らされたもの」という意味のギリシャ語に由来
     する言葉。
      パレスチナ以外の地に移り住まされたユダヤ
     人、及び、そのコミュニティ(追放され、追い
     出された)
  長い歴史を刻んできた日本だが・・だから安心なんて
 言う論理は成立しない・・
  「今世紀中で、日本はなくなる」と言った共産・中国
 の指導者が居る。
  オーストラリアへ訪問したこの指導者は、オーストラ
 リアの首脳へそのことを言った。
  その時は、今世紀よりもっと早い時期をはっきり明示
 して、「日本は無くなる」と発言している。
  はっきり言える事は、共産・中国には、「日本という
 国家の存在が無くなる時がある」という「認識がある」
 という事である。
  時は進んでいるが、日本消滅への道を、共産・中国の
 指導者は、同時に進めているという認識の中にいる。
  かつてのアメリカが持った認識(アメリカインディア
 ンの消滅)の下で、悲惨な殺戮がなされたが、その様な
 状況にある・・
  日本人が認識してなくても、それは、かつてのアメリ
 カの例が示している。
  日本に無いから安心何て言う論理は、成立しない。
  また、共産・中国の様に独裁の政治形態は、常識以上
 の異常な事をするのは、歴史上、あまたある。
  何事も狭い面々・領域で決定され、チェックする機構
 が無く、その様な働きが無いからだ。
  システム的に政治機構として劣っているからだ。
  (参考)1988年、中国の李鵬首相が、オーストラリア
     訪問をした際、オーストラリアのキーティング
     首相へ「日本という国は20年も経てば地球上か
     ら消えて無くなる」と言った。
      中国に日本自治区構想があるのか・・
  (参考)第二列島線:中国の第二列島線の中に入って
     飲み込まれる日本となっている。
      中国の海域における軍事的防衛ラインの一つ。
      伊豆・小笠原諸島からグアム・サイパンを含
     むマリアナ諸島群などを結ぶ線。
      中国海軍は、1980年代半ばに提唱された「近
     海積極防衛戦略」などに基づいて軍事力を増強
     し、それまでの沿岸防衛から近海・外洋へと展
     開している。
      この軍事戦略において外洋の範囲を示す目標
     ラインとされる。
      中国は、2020年の運用を目標に通常型空母建
     設に着手しているほか、原子力空母建設構想な
     ど海軍力の整備・増強を表明しており、同国の
     軍拡に飲み込まれる日本となっている。
.
1999年4月、世界最古級の土器が、日本で発見された。
  世界最先端の技術を持っていた縄文人の人たち・・
  日本の古代は、非常に文明が進んでいたという事が分
 かって来た。
  稲作も・・朝鮮半島から伝わったのではなく、日本か
 ら朝鮮半島に伝わったらしいという事が次第に分かって
 来た。
  韓国では、激しく反発しているが・・、
.
  https://www.youtube.com/watch?v=9zMJN3YNUY8
  世界最古級の土器が日本で出土した。
  1万6500年前のもの・・、
  1999年4月、青森県蟹田町で出土した土器炭素14分析
 を行なった・・その結果で報告された。
  土器は、2万年前〜1万8000年前の最終氷期最盛期後半
 に中国南部に於いて出現したとされている。
  1万年を遡る土器や、遺跡が、日本にはいくつかある。
  その一方、かつては、農業の起源地とされていた中近
 東や北アフリカを含めヨーロッパにおいても・・
  1万年前をしめす遺跡は無く・・、
  縄文人は、土器製作について、世界最先端の技術を持
 っていたことが分かる。
  稲作は、日本から朝鮮半島へ伝播したことが判明。
  稲作文化は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して
 日本にもたらされたとの説が覆された。
  炭素14年代測定法で、かなり古いことが分かって来た。
  日本の稲作開始は縄文時代で、従来の弥生時代という
 学説がひるがえされた・・。
  陸稲栽培で・・6700年程度前まで・・、
  水稲栽培で・・3200年程度前まで・・遡ることが判明
 している。
  これに対して、朝鮮半島では、水稲栽培は無去洞玉峴
 (ムアラファト)遺跡の2500年前〜2800年程度前までし
 か遡れない・・、
  そして、九州北部と栽培法が酷似していることから・・
  また、遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米
 の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、
  水稲は、日本から朝鮮半島へ・・、
  陸稲は、満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明し
 た。
  中国政府の研究機関でも調査が進み、間違いないとい
 う結論が出ている。
  この点で、日本に対して優越意識を持っている韓国・・
 その韓国の学会は、激しく反発している。
  また、韓国では日本式の前方後円墳が大量に発見され
 ている事実もある。
.
2006年12月、NHKオンライン内に解説委員室の公式サイ
 トが解説された・・が・・、
  無資格のNHK職員が、NHKという影響力が極大な
 放送媒体で、解説と称した「NHKの言いたい放題を放
 送している」・・
  この公式サイトに、この様な投書・クレームを含め、
 無差別に公表せよ・・そして、NHK解説委員室の公式
 回答を公開する様にせよ!
  本当は、NHKには解説者は必要ない・・無資格者が
 放送媒体を使って政治を繰っている・・
  NHKは、解説者を無くして「経費を節減せよ!」、
 そして、NHK受信料を値下げせよ!
  また、問題なのが、このNHKの解説者なる者の中に、
 「片寄った政治解説をする者がいる」・・中国寄りの者
 もウヨウヨ居る・・
  しかし、この者たちは、「国民の選挙の洗礼を受けて
 いない『ただの者だ』」。
  放送媒体のNHKに、ただ採用されただけの者だ・・、
  だが、影響力が抜群に強大なNHKの放送機能を使っ
 て、日本全国、ましてや世界へ、自分の勝手な意見を、
 自分だけの意見を・・発信している。
  世界へ日本を貶める番組まで送っている輩たちだ・・
  こんな強大な権利は「君にはない訳だ」・・、
  こんな権利を君たちには与えたくないのだ・・
  こんな、「民主主義のルールを踏みにじったやり方」
 で・・横暴な行為で・・NHKは放送行為をし続けてい
 る。
  広い、公正な意見を国民へ提供すべき立場のNHKが、
 こんな専制君主的な・・特定の一個人に、輩に・・この
 NHKだけの意見を作って・・放送媒体を使用させてい
 る。
  大学教授や、評論家の方々にも、また、日本国民の方々
 へ・・広く意見を求めて行くべきなのが君のやるべきこ
 とだ・・
  これが、NHKの役目なのだ・・ただそれだけなのだ。
  NHKの、君の意見なんて・・公正な民の選択・選挙
 も受けてない・・君だけの、NHKだけの意見なんて、
 勝手に放送をするな!
  NHKは、「なんだ、かんだ」と組織を大きくしてい
 る・・こんな「無用な解説室」も設けている。
  NHKには縮小すべきものが多い・・無くすべきもの
 が多い・・NHKは、無駄を縮小せよ!・・
  そして、受信料を値下げせよ!
  結託している電通を批判せよ・・
.
2018年、巨悪の根源・・電通
  電通が韓国を潤す・・
  日本から巨額な金が韓国へどんどん流れる。
  韓国では、日本の映像は放送できない様にされている・・
 が、しかし・・逆に、韓国の映像は放送するばかりだら
 けの日本のテレビとなっている・・NHKも必死に放送
 している・・何故なんだ・・?
  この様な問題の中心に黒幕の電通が居る・・そして・・
  NHKが、何故、反日なのか?
  NHKは、電通に牛耳られている・・
  だから、反日となっている。
  そして、NHKは、受信料でかき集めた日本国民の「
 巨額な金を電通へ渡す」・・そして、電通から・・
  (参考)電通:投資家が見る会社四季報によると・・
      広告代理店国内首位。世界大手。
      連結事業:国内41%、海外59%。
      費用増で、国内は人件費やシステム費増やし
     業務改革優先。土地売却益ない。
      海外は、米州が前期獲得案件軸に牽引だが業
     務豹有価コスト重く伸び鈍い。営業減益。
      カカクコム株売却益、買収関連評価損。
      従業員:連結63143名、単独6937名。
      平均年齢:40.1歳。
      平均年収:1272万円。
      外国人株主:20.8%。
      株式時価総額:1兆4997億円。
      総資産:3兆3250億円。
      自己資本比率:31.9%。
      分析評価:企業規模100点、成長性10点、割安
     性20点、財務健全性20点、市場トレンド10点。
.
  日本を動かしてきた「電通」の正体:「過労死問題」
 は落日の始まりなのか・・
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50138?page=3
  当事者たちが明かす生々しい「実像」
  8億円の「ロビー活動費」
  「原発広告」といえば、電力各社や電気事業連合会
 どの業界団体が「原発は安全」「原発はクリーン」と謳
 う広告に巨額を投じ、国民に「原発神話」を信じ込ませ
 てきた。
  原発推進広告には、タレントから文化人までが笑顔で
 登場し、原発の安全性を語ってきた(本間氏談)
  「電力9社がこうした広告に1970年代から3・11までの
 約40年間に費やした広告費は、約2兆4000億円に及ぶ(
 この金が電通に入っている)
  特に、バブル崩壊後に、大手企業の広告出稿が激減す
 る中、電力会社は安定出稿したためにメディアはこれに
 飛びついた。
  一度、この広告費を受ければ『麻薬』のように次から
 は断れなくなり、おのずと反原発報道で電力会社の機嫌
 を損ねることを(各メディアに)自粛する空気が生まれ
 て、日本全体に『安全神話』が刷り込まれ続けた。
  そうしたメディアの特性をよく理解したうえで、電力
 会社とメディアの間に入って動いていたのが『電通や博
 報堂』を頂点とする広告会社だった。
  中でも『電通』は、原子力推進の立場にある社団法人
 『日本原子力産業協会』の会員に以前から名前を連ね、
 東京電力についてはメイン担当として仕切っていた。
  メディア、原発……電通が仕切ってきたものをあげれ
 ばきりがないが、大きなところでいえばオリンピック
 その一つである。
  国際的プロモーターとして知られる康芳夫氏は、オリ
 ンピックの権利獲得をめぐって電通と闘った「内幕」を
 明かす。
  「初の民間運営方式で開催されたロス五輪で、私はテ
 レビ朝日と組んで独占的放映権を取ろうと動いていまし
 た。
  私はオリンピック組織委員長だったピーター・ユベロ
 ス氏に接触して色よい返事までもらっていたのですが、
 ここで対抗馬としてNHK・民放連合が出てきて、そこ
 に「電通がついた」のです。
  電通もまた独自にユベロス氏と接触し、攪乱工作を仕
 掛けてきた。
  ユベロス氏は最終的に電通と喧嘩をするのはまずいと
 判断したようで、私たちに『君たちとは契約できない』
 と言ってきた」。
  このロスオリンピックで大儲けしたあたりから、スポ
 ーツイベントにおける「仕切り役」としての「電通は一
 挙に花開いていく」。
  『電通とFIFA』などの著書があるノンフィクショ
 ン作家の田崎健太氏が言う。
  「電通のスポーツビジネスを切り開いてきたのは元専
 務の高橋治之氏で、本物のネゴシエイターといえるでし
 ょう。
  高橋氏はFIFA(国際サッカー連盟)がスポンサーを
 集めて商業化を進める過程において、当時のジョアン
 アベランジェ会長らに大きく力を貸しました。
  そして、電通は、世界のサッカービジネスに深く関与
 していったのです。
  2002年のサッカーワールドカップ招致の際には、電通
 はスイスマーケティング会社ISLに対して、同社の
 株式売却益の一部である約8億円を『ロビー活動費』とし
 て渡しています。
  国際的ロビー活動に弱い日本にあっては珍しく、高橋
 氏はこうした交渉を得意としていた。
  彼が電通に、スポーツビジネスという広告以外の収益
 の柱を作り上げたと言える」
  どんなところにも食い込んでいき、気付いた時には「
 仕切り屋」として舞台を裏で回している――『電通』は
 そうして「日本を動かす中心」として君臨するようにな
 っていったのである。
  「1990年代に、NHKが電通から米大リーグ放映権
 を買う際、ひと悶着があって、NHKは安値で電通から
 買えたことがありました。
  この時、赤字になりかねなかった電通は、NHKが中
 継するMLBの映像に実際にはない日本企業の広告を合
 成して入れ込むことの了解を取り付けてきた。
  すぐにスポンサーも集めてきて、その手腕には脱帽し
 ました」(元NHK職員の立花孝志氏)
  電通の手にかかれば「こうした差配もお手の物なわけ
 だ」が、実はここ数年はそんな電通の権勢にも陰りが出
 てきたと関係者たちは口を揃える。
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 (参照)NHKが反日放送している理由は『電通』に
     乗っ取られているから
    https://www.youtube.com/watch?v=Y6Hu4mx0Zl0
 (参照)ワールドカップサッカーとNHKと電通の黒い
     関係
    https://www.youtube.com/watch?v=Etv1Om8nsMg
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2018年、そして、電通は・・うまい汁を吸いたいと・・今、
 地方自治体横浜市に食いついている。
  既に、電通は、今まで・・この様な事をして「味をし
 めて来ている」・・
  そして、今度も、横浜市をうまい汁を吸う対象にして
 いる・・食い物にしている。
  横浜市は、本来、横浜市がやらなければならないこと
 に電通を加えて・・特権を与えて、電通と事業をしてい
 る形にして、電通に旨味を与えている。
  そして、今度も、横浜市民の財産である横浜市庁舎の
 建つ土地と建物について、市庁舎が古くなったという名
 目で、どこかへ移転させて、電通を儲けさせる事業をや
 ろうとしている。
  完全に横浜市民の財産を利用した一私企業の事業だ。
  この様な筋書きの既成事実づくりに「公開のシンポジ
 ウム」を開くという演技をした・・
  しかし、電通という素人の悲しさ、まったく中味の無
 い「作った話だけ」の時間の無駄話だった。
  「市庁舎を移転させて、その跡地で儲けよう」という
 「見え見えのお話だけが決まっている」という代物だっ
 た。
  そして、その儲け話に加わるのが「電通」と、既に、
 決まっているがごとくに、「電通がメイン・主役の状態」
 で出ている・・その様なシンポジウムで、何を話すかと
 言えば、漫画の絵を見せて、「これだ」と言うだけ・・
  まったく馬鹿にした話だ。
  説明も何もない。
  下手なことは言えないとして、黙っていたのか?・・
  まったく馬鹿にした話だった。
  「感じろ」と言ったって、漫画の題は「愛と誠」だ。
  こんな話なら、誰もが何を示してでもやれる話だ。
  そして、何も説明せずに黙っていればいいのだから・・
  市庁舎の跡地利用が「愛と誠なのかよ」・・という感
 じの子供だましの話しかできない電通・・
  そして、これ以前に横浜市とやった事業に「電通は、
 100億円を出した」と言い出した。
  言わなくてもいい様なことを言い出して、「世間には
 言わないでくれ」と言う。
  言っていけない事なら「言うな」と言いたい。
  口の軽いこの電通氏は、さらに、この金を電通が出し
 たということを「言い続けて」、シンポジウム出席者に
 「50億円ぐらいに言ってくれ」と言う。
  もう、まったく「市庁舎の跡地利用」の「都市計画
 話なんかではない」・・素人話の連続。
  まったくの素人が、壇上に上がって、関係ない話に口
 を開いている。
  貴重な時間の空費が続くシンポジウム
  本来、加わってはいけない電通の素人が、前の横浜市
 との仕事で関係した「舞台と客席の話をした」。
  まったく、この話も跡地利用と関係ないが、「こんな
 話も持ち出す」。
  しかし、初歩の初歩の話で、「舞台を真ん中に持って
 きたのは、素晴らしい独自の事なのだ」と誇った。
  こんなことなら、遠い昔から「大相撲だってやってい
 ること」。
  まったく馬鹿々々しい話が続く・・。
  こんな電通が、メイン・スピーカー(主役)となって
 いる都市計画シンポジウム
  一民間企業の電通を儲けさせる仕掛けが動き出したと
 いう感じだった。
  そして、おかしいのが・・この電通と「まったく同じ
 ように」、この儲け話に加わっている「キリスト教系の
 大学」・・
  このキリスト教大学は、前から電通と一緒に利益の転
 がり込む話に加わっている。
  二匹目か三匹目か、何匹目かのドジョウを狙っている。
  この組み合わせのコンビがやはりまた動いている。
  何度も、同じ面々が、横浜市民の財産をいじくり回し
 て、利益が転がり込む話をまた始めている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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