(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年〜紀元前500年)

 題:(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年〜紀元前500年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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紀元前1200年、周(西周)が興る(中国)。
紀元前1200年、エーゲ文明:この頃、ミケーネ文明も新し
 く南下したギリシャ人に滅ぼされた。
  エーゲ文明とはこれら青銅文明の総称である。
紀元前1200年頃、トロイ戦争が起きる。
紀元前1200年、ギリシャにポリスが起こる。
紀元前1100年、この頃から、キリスト教旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。〜紀元前100
 年頃まで。
紀元前1200年、この頃、モーゼが、ユダヤ人を脱出させた
 とキリスト教は言うが、
  歴史研究者は、モーゼの実在を否定している。
  まったくの架空の人物なのである。
  まったくのキリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)であ
 る。作られた歴史話しである。
  ユダヤ人は、飢餓と背中合わせの地の砂漠の地・パレ
 スチナに住んでいたが、飢餓になると豊かな実りの地、
 ナイル川の恵みの地・エジプトに流入していた。
  このユダヤ人が居住していたあたりは、民族が流動的
 に移動する地域でもあった。
  そもそも、先祖が、メソポタミアのチグリス・ユーフ
 ラテスの川のほとりのウルという町から、流浪の旅に出
 たのであるから。
  エジプトへのユダヤ人の流入とともに、出る事も自由
 の地(出入り自由の地)であった。
  物流も自由、出入りする商人も自由の地であった。
紀元前11世紀頃、中国の殷王朝が西方の周に滅ぼされた。
紀元前1000年、この頃、インドにカースト制度が興る。
紀元前1000年頃、古代ユダヤダビデ王の時にヘブライ
 国が膨張し、最も発展した。
  ダビデ王、及び、その息子ともに、女性関係にだらし
 なく、王朝は乱れ、民は泣いた。
  ダビデが生ませた子供と、子供同士の戦いも起き、息
 子の代に、この王朝は滅んだ。
  ダビデは、キリスト教聖書の救世主の系図に居る王様。
  イエスも、この系図に居るという(だから、イエス
 救世主だとキリスト教は主張している)、
  そして、血がつながっているとされている(だが、イ
 エスと血がつながっていないイエスの父・ヨセフが、こ
 の系図に居るとキリスト教は説いている。まったく変だ)。
紀元前1000年、メソポタミア文明:この頃以降に栄えたア
 ッシリア帝国が紀元前7世紀末に滅亡して、メソポタミア
 文明は一段落する。
紀元前960年、この頃、ヘブライ王ソロモン。
紀元前932年、古代ユダヤ:この頃、ソロモンの死後、国
 力が衰え、北方のイスラエルと南方のユダに分裂した。
紀元前10世紀、キリスト教旧約聖書:神の選民(選民)と
 した。イスラエル民族(ヘブライ人)の宗教書。予言・
 律法が記されている。
紀元前880年、この頃、フェニキア人がギリシャ文字を伝
 える。
紀元前800年、日本で、稲作が始まった。
  稲作の初期の遺跡と目される佐賀県菜畑遺跡について、
 土中の花粉を電子顕微鏡などで調べた結果、2800年前の
 稲の花粉が検出された。
  一緒に、アワや小豆、ひょうたん、メロン、ゴボウ、
 シソなど、そして、畑作の稲も出て来た。
  その後の時代の地層から、稲のほかにタガラシやミゾ
 ハコベなど、水田の雑草の種が見つかった。
  つまり、稲は最初、「おかぼ」として畑の作物と一緒
 に栽培されていた。
紀元前800年、東日本中心の縄文文化と反対に、この頃か
 ら、弥生時代の遺跡が、九州や瀬戸内、太平洋に多くな
 る。
  稲は最初、「陸稲(おかぼ)」として畑の作物と一緒
 に栽培されていたが、次第に、低湿地に水田が切り開か
 れて行ったというストーリーが読み取れる。
  縄文人が、寒さでバタバタ倒れていた頃、人口の空白
 地帯だった西日本に、畑作や稲作の先端技術を持った人
 たちが入植し、やがて、弥生文化が全国に伝播した。
  日本列島の森林破壊は、焼畑が導入された縄文の終わ
 り頃から始まった。
  縄文時代の終わりに人口は、総計7万人〜8万人にも激
 減した。
  その後、持ち直したが、弥生時代になると、東日本29
 万人に対し、西日本30万人となる。
  縄文人にとって、どうしようもなかった低湿地を、弥
 生人は開墾した。
  この新しい渡来人は、新しい伝染病を持ち込んだ可能
 性が強い。
  「発掘された人骨の中で、結核の跡が残っている最古
 のケースは、古墳時代である。
  結核菌が、日本列島に侵入したのは、この頃らしい。
  これまで結核の経験のなかった集団に、結核菌が侵入
 すれば、抵抗力が無いので、ぱっと広まる。
  渡来人は、百万人の規模が、大陸からやって来たと考
 えられる。
紀元前9世紀、バビロニア:この頃に、アッシリアに滅ぼ
 された。
紀元前800年、この頃、ギリシャ人が地中海へ進出した。
紀元前9世紀頃、騎馬民族:騎馬戦術は、この頃に、ウクラ
 イナで始まった。
  最初の強い騎馬民族は、紀元前7世紀ごろ、ウクライナ
 で栄えたスキタイであった。
  騎馬戦術は、その後、東方へ伝わる。
紀元前776年、第一回オリンピア競技会が開かれた。
紀元前771年〜紀元前221年、中国の春秋戦国期の時代。
  春秋戦国時代:中国では宗族(血縁集団)中心の封建
 制をとった周の支配が、次第に崩れ、異民族の侵入、諸
 侯が乱立状態に入った。
  春秋時代には、強力な覇者が、5人出たと言われ、春秋
 の5覇者と呼ばれている。
紀元前753年、ローマの建国(伝説)。
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。
  数万のイスラエル人が捕えられて、メソポタミアとメ
 ディアに連れ去られた。
紀元前720年、この頃、アッシリアがオリエントを統一した。
紀元前8世紀、アフリカに、紀元前8世紀以降、西部アフリ
 カのガーナ、マリ、ソンガイに大国があった。
紀元前700年頃、粘土板に描かれたバビロニアの世界図が作
 られた。
  これは、現存する最古の世界地図である。
  範囲は、バビロンを中心とするメソポタミア地方だけ
 のものだった。
  バビロンを中心とした世界は、大洋で取り巻かれ、そ
 の外側にも陸地がある。
  また、天は巨大なドーム状で柱によって支えられてい
 た。
紀元前8世紀、ベーダ:紀元前8世紀を中心として成立する
 ブラーフマナは祭式万能の時代を、それに続くウパニシ
 ャッドは新思想を開花させ、ともにその後のインド世界
 に大きな影響を及ぼした。
紀元前8世紀、ギリシャ古典文化:紀元前8世紀〜紀元前4世
 紀のギリシャ文化。
   奴隷制社会に成立し、また、異邦人をバルバロイ
 して蔑視する独善性もあったが、人間存在を全面的に肯
 定する世界観。
  また、自然や人間についての囚われない観察と合理的
 思考に基づく文化は、人類史への重要な貢献となった。
  先行の諸文明に新たな体系化・理論化を加えた点に創
 造性が認められる。
紀元前8世紀、ポリス:古代ギリシャ都市国家
  紀元前8世紀頃から、有産者の集住により成立した。
  軍事拠点・聖域であるアクロポリス、公共の広場アゴ
 ラ、周辺の農業生産地帯からなる。
  人口は、特に大きなアテネで20万人〜30万人、一般に
 は数千人〜数万人である。
  ポリスは、同一信仰、同族意識で結束し、自由・自治
 自給自足を理想とする共同体であった。
紀元前7世紀、古代ペルシャ帝国:イランでは、紀元前7世
 紀からメディア王国が栄えた。
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。
  第1回バビロン捕囚である。
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。
  第2回バビロン捕囚である。
  この時、ソロモンの財宝のすべてが奪われた。
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。
紀元前572年頃、ピタゴラスが生まれた(紀元前572年頃〜
 紀元前492年頃)
紀元前560年頃〜紀元前478年、釈迦(仏教)。
紀元前551年、孔子儒教)が生まれた(紀元前551年頃〜
 紀元前479年)
紀元前550年、古代ペルシャ帝国:紀元前550年にアケメネ
 スの孫がメディアを滅ぼした。
  次のダリウス1世の頃、最盛期に入り、領土は、東は
 インダス川、西はエーゲ海沿岸とエジプトに及び、メソ
 ポタミアとエジプトの文明を吸収し、壮大な独特の文明
 を形成した。
  首都は、ペルセポリスで、「すべての道はペルセポリ
 スに通じる」と言われたが、アレクサンドロス大王に滅
 ぼされた。
  ササン朝は、ローマ帝国東ローマ帝国と争ったが、
 また、その文化を東方に伝えた。
紀元前540年頃、ギリシャ最初の世界地図アナクシマンド
 ロスの世界図が作られた。
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。
紀元前525年、ペルシャがオリエントを統一した。
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム
 殿の第2神殿を建てた。
紀元前509年、ローマ共和政治が始まった。
紀元前500年〜紀元前200年(紀元前6世紀〜3世紀)、黒
 海付近の草原にいたスキタイ人が、野馬を飼い馴らし、
  これに乗って走りまわる方法を発明した。
  その騎乗の習慣が中央アジア遊牧民に広がった。
  武器を持てば、非常に強力な戦力となった。
紀元前500年、2500年前の縄文時代晩期は、ちょうど太陽
 の活動が弱まった頃で、日本列島はぐっと冷え込んで雨
 が多くなっていた。
  この気候変動が、縄文文化を崩壊させたと考えられる。
  天文学の研究でも、縄文晩期に太陽の黒点が減って、
 地球は寒冷期に向かったと言われている。
  冷害で、主食のドングリなど木の実の不作が続いた。
  さらに、寒冷化で、海水が氷に閉じ込めれれて海が後
 退し、雪や雨が多くなると、川から流れ出た土砂が海岸
 を埋めて、ハマグリなどの貝も採れなくなってしまった
 のである。
  この時期、縄文人の中で何とか食って行けたのは、サ
 ケ・マスの豊富な東北地方の一部だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009