(増補版)65C1/3:気になった事柄を集めた年表(1543年〜1546年)

 題:(増補版)65C1/3:気になった事柄を集めた年表(1543年〜1546年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1543年、コペルニクスポーランド)が地動説を提唱した。
  コペルニクスが、25年以上も発表する事をためらって
 いたこの説・・
  世の中を好き勝手に牛耳っているキリスト教の迫害を
 恐れたためだった、その様な時代のコペルニクスだった。
  それ故、発表は、彼の最晩年になってしまった。
  彼の行為の後の、1600年に、地動説の擁護行為をした
 ブルーノは、卑劣にも、キリスト教裁判に掛けられ、異
 端審問で「異端だ」と言われ、火あぶりの刑にされてし
 まった。
  そしてまた、ローマ法王は、1616年に地動説を禁じた。
  発表するコペルニクスにも、その様な事が予測でき、
 分かっていたから、発表には勇気が要った。
  それまで、キリスト教によって形づけられて来た「地
 球の周りに太陽が回っている」という「大間違いの天動
 説」。
  彼がくつがえしたこの説=地動説を唱えたことで、
  キリスト教は、天地が引っくり返る様な大騒ぎとなっ
 た。
  キリスト教の教義の中心にある「聖書の解釈」に大き
 くかかわるからだった。
  その聖書解釈から、地球が動いてはまずいのである。
  特に、「ガリレオ裁判」は有名で、卑劣な歴史を刻ん
 だ。
  キリスト教裁判所で、正しい事・正論を説明する科学
 者は断罪された。科学の進歩の足を引っ張るキリスト教
 だった。
  科学者の正しい論理を、撤回しろと迫った、そして、
 命令した。さもなくば命を取るという論理展開だった。
  ローマ法王も感情的になり、怒りをあらわに激怒した。
  科学者の命を懸けた説明も通らなかった。
  キリスト教から異端だと断定され、強圧的に説を曲げ
 させられたガリレオが、最後に言った言葉が有名、
  「それでも、地球は回っている」・・。ガリレオは悔
 しかったと思う。
  そして、迫害されたガリレオの晩年が、寂しかったと
 いうところにも心が痛む。
  ローマ法王によって、この正しい科学の書は禁書にさ
 れた。
  キリスト教が好きに世の中を牛耳っていた世の中、正
 論が通らなかった時代だった。
  今・現代でも卑劣な屁理屈を言っているキリスト教
 が、さすがに、この事態に耐えられず、ローマ法王はこ
 の間違ったキリスト教の概念によったことを謝罪した、
 ガリレオの死から400年も経た後だった。
  しかし、キリスト教の聖書には、相変わらずキリスト
 教の神のお蔭で大地は動かなくなったと記述されている、
 その他いろいろと、聖書は改訂しなくてはならない。聖
 書を使わないキリスト教の派があるくらい・・、
  また、聖書にこんな記述で、キリスト教の神の偉大さ
 を示そうとすること自体がおかしい。浅薄な話だ。
1544年、この頃から木綿の衣服が一般に普及し始まった。
1544年、織田信秀(おだのぶひで、信長の父)の稲葉山城
 攻め(いなばやまじょう、岐阜県にある斎藤氏の居城)。
  信秀は撃退されたが、斎藤の本拠地稲葉山城まで攻め
 込み、ついで大垣城をとって織田播磨守(信秀の家臣)
 を入れた。
  その後、信長が三河へ初陣の1437年頃、斎藤の重臣
 いわゆる美濃3人衆(稲葉通朝・安藤範俊・氏家卜全)が
 相次いで信秀に通じ、寝返って、斎藤方が、ようやく不
 利になって、一時和議成立、信長と道三の娘が結婚した
 のはそのためであったのだろう。
1544年、秀吉が光明寺の門弟となる(寺預けとなる)。
  秀吉が8歳の頃、尾張国光明寺の門弟となった。
  秀吉を寺に入れたのは母の大政所と考えられる。
  結局、秀吉は光明寺を追い出され、家に戻される事に
 なる、勉強もせず、やんちゃだったという。
1544年1月15日、キリスト教の日本に宣教師として来たザ
 ビエルのこの日の日記:
  「(キリスト教聖職者になろうと)大学で勉強してい
 る多くの若者達は、教会の高い地位や顕職(けんしょく・
 地位の高い要職)に相応(ふさわ)しい学問を身につけた
 いと思うよりも、高位、聖職禄(ろく)、司教の地位を
 得たいと願って学問をしている」・・と。
1545年、浅井長政(あさいながまさ、北近江の戦国大名
 が生まれた(1545年〜1573年)
  継室が織田信長の妹のお市の方(後に、柴田勝家の妻
 にもなる)
  そして、織田信長と同盟を結んだ時が全盛期、だが、
 後に、この同盟も決裂し、織田軍と戦い、そして破れ、
 自害、浅井氏滅亡(1573年、小谷城の戦い)。
  この時、浅井長政は、朝倉義景に援軍を要請した、
  約束を違(たが)わず、朝倉義景は、2万の軍と共に
 駆け付けるが、織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし
 ていて、やむなく朝倉義景は越前に撤退を始める。
  信長は、逃げる朝倉軍を追撃し、滅亡させる(一乗谷
 城の戦い、1573年8月15日〜20日)、
  そして、軍を浅井氏へ向ける。
  信長の大軍で城の陥落は確実な状態となる。
  お市の方(信長の妹)が居たため降伏を勧めたが、浅
 井長政は断り続け、最終勧告も決裂した。
  お市の方が信長の陣営に帰還するとき、浅井・織田の
 両軍ともに一切の攻撃はしなかったという。
  8月27日に父の浅井久政が自害、
  翌28日にお市の方の夫・浅井長政が自害(29歳)。
1546年、武田勝頼(たけだかつより、甲斐国の甲斐武田家
 第20代当主、父は武田信玄)が生まれた(1546年〜
 1582年)
  信玄の死により家督を相続、27歳のとき。
  相続して2年後(1575年)に、長篠の戦において織田
 軍に大敗し、虎の子の武田の騎馬隊を消滅させる。
  勝頼の強硬策が裏目となった、その様な性分だった。
  そののち信長との和睦の交渉をするが、完全な和睦に
 至らず、結局、織田・徳川連合軍の甲斐への本格侵攻の
 開始となり、武田氏は滅亡した(1582年、天目山で自害、
 勝頼36歳)。
1546年、元服し、信長を名のる。
1546年7月、シュマルカルデン戦争。
  キリスト教カトリックと、プロテスタントとの間で
 争われた。年がら年中こ、の両派は戦争している。
  キリスト教両派の溝はますます深まっていた。
  乱れたカトリック宗教改革をしようとしたプロテス
 タント、そして、その教皇権を否定したプロテスタント
 そして、その低下した教皇権を復興しよとするカトリッ
 ク。
  教皇の意をくんだドイツ皇帝は、プロテスタントの弾
 圧を始めた。
  戦いとなった(〜1547年)。
  皇帝も自分の権力を強化したいと考えていた。
  しかし、この後、1552年に、ドイツ諸侯の反撃にあっ
 ていて、皇帝の望みは潰(つい)えた。
  このドロドロ宗教戦争に、皇帝権力が絡み、さらにド
 ロドロのヨーロッパ中世だった。民は嘆いていた。
1546年、ルターが死んだ。63歳だった。
  あまりにも乱れていたそれまでのキリスト教を見かね
 て改革を始めた人。
  堪忍袋の緒が切れたという感じ、
  キリスト教修道院に入るもしっくり行かなかった。
  修道生活で心の平安は与えられなかったとつくづくと
 思う。
  大学への転身を勧められて行ったが、ここにも真実は
 無かった。
  善業も空虚だった。「嘘だからだ」に行き着く。
  そして、カトリックを否定した、抗議した(プロテス
 タント)。
  95ヶ条もの問題点を最初に指摘し、教会の門に打ち付
 けた。
..
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