(増補版)67C2/3:気になった事柄を集めた年表(1551年〜1553年)

 題:(増補版)67C2/3:気になった事柄を集めた年表(1551年〜1553年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1551年、秀吉が、信長の前の主人・松下之綱武家奉公す
 る。
  秀吉は、15歳から18歳まで、遠江(とおとうみ)国の
 頭蛇寺(ずだいじ)城主の松下之綱のもとに武家奉公し
 ていた。
  之綱は、富士川の合戦に、秀吉がきわたっだ働きをし
 たので、いよいよ重く用いた。
  之綱は、草履取りにとりたて、納戸役までに出世させ
 てくれた。
  武家奉公の恩人であった。
  かつての主人を、秀吉は、遠江国の久能城に迎えて3万
 1千石の大名に取り立て、その恩を返した。
1552年1月、六角義賢(承禎、ろっかくよしたか、しょう
 てい、南近江の守護大名)が家を継いだ。
  この大名は、1568年に、信長が、足利義昭を奉じて上
 洛を開始すると、三好三人衆を通じて信長の従軍要請を
 拒絶し、織田軍と戦った。また、1570年には、朝倉義景
 や浅井長政と同盟して織田軍を圧迫した。
1552年4月、鳴海城主の山口教継が信長に背いた(赤塚の
 戦い、信長が当主となっての最初の戦いで、山口教継は
 今川に寝返った)。
  鳴海城主・山口教継・教吉父子が、今川に通じて、信
 長に背いた。
  信長は、800の兵で那古野城を出陣している。
  寝返ったので、元は味方という戦いで、顔見知りの間
 柄の戦いで、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返しあった
 という、また、生け捕りになった者も交換して帰陣した
 という。勝敗は付かず。信長軍の損害は30騎。
1552年8月、清州の坂井大膳(さかいだいぜん、清州城主
 であった尾張守護代・織田大和守家織田信友重臣)が、
 信長に背き、挙兵した。
  信長は、叔父の織田信光の支援を得て清州へ進軍し、
 信長は撃破した(萱津の戦い)。
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東
 の上川(さんちゃん)島、享年46歳。
1553年、武田信玄は、信濃小笠原長時信濃守護)・村
 上義清らを越後に追った。
  越後の上杉謙信を頼って逃げる。
1553年、上杉謙信が上洛した。
  謙信は上洛参内し、越後や隣国の敵を討てとの勅命を
 受け、1559年に、再度、上洛し、天皇に謁し、盃・剣を
 与えられ、また、将軍・義輝に絶対の忠節を誓って、必
 要あれば本国・越後がどうであろうと在京して命に従う
 と誓った。
  この年、信長も、やはり上洛し、義輝に会った。
  室町幕府の権威は、まだ一応、健在だった。信長は「
 会いに来い」と言われたらしい。その様な関係だった。
  しきりに、この頃、室町幕府の将軍は、各地の守護大
 名を呼び寄せた様だ。
  上杉謙信なんかは、年に2回も上洛して律儀な性格を
 表している。
  信長は上洛した時に、将軍に金を送っているから、経
 済的援助を請う状況だったのだと思われる。
  将軍は、信長に尾張支配のお墨付きを与えている。
1553年1月、信長の教育係りの平手政秀が、自殺した。
  「信長公記」によると、「信長公を守り立ててきた甲
 斐がないので、生きていても仕方がない」と理由が記し
 てある。
  19歳の信長は、まだ、いっこうに改まらない「うつけ
 振り」に落胆し、自分の役としての力不足を感じ、死を
 もって諌めようとしたと言われている。
  信長にとって父の様な大切な人を失ったのだった。
  しかし・・この後、斎藤道三と会った信長は・・
1553年4月、信長が、斎藤道三尾張の聖徳寺で会見した。
  道三の娘と結婚して5年が経っていた。
  信長は、「気違いじみた」と表現していい風体で、伴
 のもの70〜800、3間半の長柄の朱槍500本、弓・鉄砲
 500挺という行列であった。
  信長は、半袴をはき、火打袋などをぶら下げ、髪は茶
 せんに紅(くれない)・萌黄の糸でまきたて、朱さやの
 太刀を腰に、町を歩きながら栗・柿・瓜をかぶり、餅を
 ほおばり、
  世間では、彼を、「大うつけ」としか呼びようのない
 状態だった。
  ところが・・、
  聖徳寺に着くと、信長は、屏風を引き回し、その中で
 髪かたち・服装をととのえ、威儀を正して道三と対面し
 た。
  見送る時に、道三は、信長に美濃衆の槍は短く、織田
 方のは長く、見劣りがしたので不快になり、黙って引き
 返した、というが・・、
  これはただ、見栄えの悪いのを恥じただけの事ではな
 く、
  長柄の朱槍500本と、弓・鉄砲500挺に、道三は、織
 田方の武力のほどを見て取ったのだった。
  三間半の長槍に『新しい戦法』を感じ取ったのだった。
  さらに道三は、信長が突然威儀を正して屏風の陰から
 現れたとき、どう感じたのだろうか。
  父・信秀の葬儀の時でさえ、相変わらず袴もはかず、
 長束(つか)の太刀・脇差をしめなわでまき、抹香を手
 づかみにして仏前に投げかけた信長だったのだ。
  舅(しゅうと)の斎藤道三と、尾張中島郡富田(今の
 尾西市)の聖徳寺で面会した時の異様さは、一層ひどか
 ったようだ・・が、
  その変わり身が・・、「信長公記」に、
  「寄宿の寺へ御着き候て、屏風引き廻らし、髪を折曲
 にいっせのせに結わせられ、いつ染め置かれ候を知る人
 無き褐色の長袴を召し・・云々」・・とある。
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