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真を求めて 皆様とともに幸せになりたい

2015-09-04

(増補版)200D2/3:気になった事柄を集めた年表(1808年〜1808年)

題:(増補版)200D2/3:気になった事柄を集めた年表(1808年〜1808年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1808年4月、幕命によって、間宮林蔵が、再び、松田伝十郎
 とともに、樺太(カラフト)に渡り探検し、
  また、翌年には、樺太の北西岸を調査の後、ギリヤー
 ク人に同行してシベリアを探検し、アムール川下流のデ
 レンを訪れ、周辺諸民族の清国への朝貢の実態を把握し
 た。
  この探検によって、カラフトが島であることを発見し
 た。そして、樺太地図を作製した。
  この地図を見たシーボルトは、この海峡を「間宮の瀬
 戸(間宮海峡)」と名付けた。
1808年4月7日、幕府が、ロシア人の択捉島上陸事件(文化
 露寇)の処置の不始末につき、
  松前奉行・戸川安論(とがわやすとも、やすときと表記
 するものもある)を罷免した。
1808年4月、幕府が、江戸湾の防備を強化し、砲台を修築
 した。
  また、1810年には、房総及び相模の房相沿岸に砲台を
 築き、浦賀奉行や、譜代大名家に海岸防備を固めさせた。
1808年6月、関東が、長雨と洪水により、米価が高騰した。
  幕府は、窮民を救済し、旗本に惜米を許可した。
1808年夏、蒲生君平(がもうくんぺい、勤王家、1768年〜
 1813年)が、荒廃した歴代天皇陵を調査した「山陵志(
 さんりょうし)」を刊行。
  著書で、前方後円墳という用語をはじめて使い、その
 名付け親となった。
  幕末尊王論に大きな影響を与えた人。
1808年8月、フェートン号事件(10月説あり)
  イギリス船のフェートン号事件が起きた。
  同船は、長崎港に、突然、侵入して来た。
  卑劣な事に、オランダ国旗を掲げて入港して来た。
  長崎奉行役人は、だまされ、欺かれて出向いた。
  同船は、その長崎奉行の役人と、通詞を捕まえ、また、
 オランダ商館を襲って、商館員を2人捕まえた。
  完全に、条約も、法律も、あったもんじゃない行為を
 した。
  さらに、ボートで長崎港の中を我が物顔に乗廻し、捕
 らえたオランダ商館員を人質として、オランダ商館から
 薪・水・食糧を奪い、また、長崎奉行に薪・水・食糧
 要求した。
  そして、水と野菜と肉を引換えに人質を解放し、長崎
 港から出て行った。
  実際は、フランス革命後のごたごたに、イギリスに対
 抗したオランダフランスの事もあったが、そして、オ
 ランダ商船を捕まえる目的であった。
  それは、イギリス東インド会社の総督の方針を受けて
 の行動であった。
  まったくのイギリスだけの都合での行動だった。
  可哀想に、降って湧いた事件で、長崎奉行松平康英
 は、責任をとって自刃した。
  この事件に、佐賀藩も兵を出し、長崎奉行所と対処し
 たが、やりたい放題にやられたことで責任をとらされた
 のだった。
  この事件は、幕府に大きな衝撃を与え、以後、異国船
 打ち払い令の発布へと動いて行く。
1808年9月2日、歌人国学者の加藤千蔭(かとうちかげ、
 国学者歌人)が没した(74歳)
  幕府・与力で歌人の子に生まれ、幼時より才能を発揮
 した。
  賀茂真淵に入門し、また、町奉行組与力から公務にも
 つき、田沼意次側用人まで務めた。
  江戸歌壇の名声は高まり、門下は「江戸派」と言われ
 た。
  また、国学者として「万葉集略解」なども著した。
  歌人として、京阪の人達とも広い付き合いをした。
1808年10月2日、幕府が、米価騰貴により、幕府の米穀を
 払い下げた(窮民救済)。
  藩でも、この様な事が行われていた日本だった(例え
 ば、冷害の影響があった仙台藩などとか・・)
1808年、司馬江漢(しばこうかん、画家)が、「刻白爾天文
 図解(こっぺるてんもんずかい)」を刊行し、地動説
 紹介した。
  江漢は、油絵や洋人図や美人画や日本風景図などを描
 いているが、平賀源内に出会ってから変わったのだった。
  西洋の自然科学も紹介したりした。
  この書などで、世界の地理・風俗など、また、地動説
 の知識を説いた。
  随筆にも優れたものがある。
1808年、農政学者の佐藤信淵(さとうのぶひろ、1769年〜
 1850年)が「西洋列国史略(せいようれっこくしりゃく)」
 を著した。
  西洋知識が書かれ、注記などでは海防策が書かれてい
 る。
  伊達宗城(だてむねなり、伊予宇和島藩主)は、この
 書などから蝋(ろう)の専売や石炭の採掘や、蘭学の研
 究などをして、殖産興業富国強兵に取り組んだという。
1808年、上田秋成(うえだあきなり、国学者、読本作家)
 が、評伝的随筆「胆大小心録(たんだいしょうしんろ
 く)」を著した。
  この書は、作者の晩年につづられた随筆で、一生の
 回想録というもので、秋成の世界観や思想などが総決算
 的に書かれている。
  その取り扱っている範囲は広い。
1808年、魔女裁判を行なったキリスト教裁判所
  キリスト教裁判所の拷問室には、十字架と拷問台が並
 んでいた。
  キリスト教は、拷問は『神の名において』行なわれる
 正義だと、ぬけぬけと言った。
  「正義を行なうのに、躊躇する事はない」と言った。
  それまでの、どの時代にも例を見ないほどに、拷問が
 用いられたのは、中世キリスト教国のキリスト教裁判所
 においてであった。
  この年に、1808年に、ナポレオン軍隊が、スペイン
 に侵入したときのこと、
  トレドキリスト教裁判所の異端審問所の牢獄の中で、
 一つの拷問用具が発見された。
  それは、両腕を広げて立っている女像であった。
  その胸と腹の部分には、尖った釘と鋭いナイフの刃が
 一面に植え付けられていた。
  レバーを引くと、その女像は、キリスト教に決めつけ
 られた異端者に向かって来て、異端者を両腕の中に抱き
 込み、かたく、かたく抱きしめた・・、
  その女像は、「聖母マリア」に似せられていたという。
            (参考:魔女狩り岩波新書
..
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