(増補版)211D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年〜1821年)

題:(増補版)211D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年〜1821年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1821年(文政4年)2月、風邪が大流行した(インフルエン
 ザと言われている)。
  幕府は、御目見以下3万5,000余人に薬を、窮民30万人に
  銭7万5,000余貫を与えた。
  江戸城中の廻状(連絡の文書)に、
  「長髪罷出、共廻格別減少不苦(髪が長くなり月代を剃
 らずに上司の前に出ても、供廻りの家来の数が少なくて
 もかまわない」とある。
  また、遠慮せず早引けしていいよと「一通り用事が済
 んだら帰宅しても良い」と大目付に指示を出している。
  配り、そして、与えた薬は、漢方薬で、ショウガを入
 れて煎じて飲みなさいとなっている。
  民の救済のための御救銭は町会所を通じて与えた。
  独身者の1万5000余人には200文を、
  また、家庭のある者の28万1000余人には250文を与えた。
  外国から長崎を経たインフルエンザが、西国から江戸
 へ流行して来たものと言われている。
1821年4月24日、出版取締令
  幕府が、暦書・天文書・オランダ翻訳書の出版は、す
 べて町年寄の奈良屋市右衛門へ届け出て、 江戸町奉行
 の許可を得るようにと令した。
  この幕府の狙いは、蘭学知識を幕府が掌握したいとい
 う事と、役に立つものだけを広めたいという思いがあっ
 た。
1821年4月11日、新金銀引替方促進令
  幕府が、古金銀と新金銀の引き替えを督促する(類集
 撰要39・旧幕引継書)
1821年4月26日、銀売買銀製品製造統制令
  幕府は,銀座以外での銀の売買、およぴ、民間でみだ
 りに銀を使用することを禁止した(類集撰要39・旧幕
 引継書、御触書抜4)
1821年7月10日、日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図
 (だいにほんえんかいよちぜんず)」と、「大日本沿海
 実側録(だいにほんえんかいじっそくろく)」が完成し、
 幕府へ献上された。
  大日本沿海輿地全図は、伊能忠敬高橋景保が作成し
 た。(伊能忠敬は、1818年に没していた)。
  日本で最初の、科学的な実測に基づいた日本の全図で
 ある。
  これは、「伊能図」ともいい、
  1800年蝦夷地の測量に始まり、九州・種子島屋久
 島・伊豆七島まで17年の歳月をかけて全国を実測した結
 果だった。
  この年の1821年に、大図214枚、中図8枚、小図3枚を、
 作成した成果を、江戸幕府に提出した。
  大日本沿海実側録は、伊能忠敬の著作物であり、全13
 卷14冊ある。
  大日本沿海輿地全図に添えて、幕府に提出した各地の
 記録で、輿地実測録である。
  日本の誇るべき偉大な業績である。
  幕府は、忠敬の功績を褒章していた。
  また、門弟らの功績もある。
  伊能忠敬門の弟らが「大日本沿海輿地全図」を完成さ
 せ、また、幕府も多額の援助金を出していた。
  そして、督励して、さらに外郭地の測量も要請した。
  以後は、新造されたばかりの国産の大型帆船を用いて
 近隣島嶼の調査を開始させたりした。
  この頃から「伊能衆」と呼ばれるようになった。
  そして、さらに、幕府は、日本の威の及ぶ太平洋一帯
 を測量させた。
  「東洋のメルカトル」と呼ばれ、日本人の海外進出に
 も大いに貢献した。
  また、引き継いだ人たちの功績もあった。
  「大日本沿海輿地全図大日本沿海輿地全図、および、
 輿地実測禄)」は、伊能忠敬より引き継いだ高橋景保
 により完全な形の完成品となった。
  それだけ、偉大な事業だった。
1821年8月、諸国が風水害と大干ばつ。
  ・御国風水害、高68,664石余損亡。(「徳島県史料年
   表」による)
  ・8月再水、水層20尺5寸(6.2m)。(「伊予風水害小
   史(大洲藩譜)」による)/8月8日、肱川で出水、
   大洲で水位25尺5寸(7.7m)。(「大洲警察署記録」
   による)
  ・8・4 大風雨,紀ノ川洪水
  ・那賀川徳島県)、83日間も続いた大干ばつ。
  ・山陰・島根、1821(文政4)年、風水害、害穀30000石
  ・1821年4月8日、畿内大洪水あり(泰平年表)
  ・1821年(文政4年)に 道徳前新田(現道徳学区・愛知県
   愛西市)が開拓されたが、度重なる風水害により、幾
   度となく堤防が決壊。甚大な被害をもたらしていた。
1821年9月12日、公家方への配慮
  幕府が、徴禄の堂上方(どうじょうがた=清涼殿の昇殿
 を許される位の者)ヘ金25両を貸与した。
1821年12月、和人地および全蝦夷地を、松前氏に還付(か
 んぷ、元の持ち主に返す)して、一旦、松前奉行を廃し
 た。
  北辺の警護のため、松前藩の領地であった東蝦夷地を
 上知(あげち、幕府が知行地を没収すること)していた。
  そして、享和2年(1802年)2月に、箱館に、蝦夷奉行
 が設置されていた。
  また、1802年5月に、箱館奉行に改称され、その後に、
 松前奉行に統合されていた。
1821年、為永春水・滝亭鯉丈(りょうていりじょう)、歌川
 国直・渓斎英泉(けいさいえいせん)画の人情本 「明鳥後
 正夢」初〜3編が刊行された(1824完結)。
  為永春水は、天保の改革で風俗を乱したとして罰せら
 れた。
1821年、風物:ラクダの見世物
  江戸両国でラクダの見世物が評判になった。
1821年、小田原藩主が、二宮尊徳を登用した。
1821年3月6日、ギリシャ独立戦争が起きた。
 アレクサンドル・イプシランチ(帝政ロシアの軍人)率
 いるフィリキ・エテリア(オスマン帝国統治下のギリシ
 ャ匂いて活動した秘密組織)の部隊は、ロシア・ルーマ
 ニア国境のプルト川を越え、オスマン帝国領、モルドヴ
 ァへ侵入し、ここにギリシャ独立戦争が開始された。
1821年5月5日、ナポレオン1世が没した(1769年〜1821年)
  ナポレオンは、1815年に、エルバ島を脱出してパリへ
 戻って来て、復位して皇帝となる。が、しかし、100日天
 下だった。
  皇帝になったナポレオンは、連合国に講和を提案した
 が拒否され、戦争となって行く。
  しかし、この戦争は、初戦こそ勝利したが、ワーテル
 ローの戦い(1815年6月18日)で大敗する。
  ナポレオンは、ふたたび退位に追い込まれ、イギリス
 軍艦に逃れたが、イギリス政府は、裏切って、ナポレオ
 ンを大西洋の孤島のセントヘレナ島に幽閉した。
  劣悪な島の環境がナポレオンを悩ませた。
  行動制限もあり、また、許される行動には歩哨が立つ
 監視の下に置かれた。
  実質的には監禁状態であった。
  また、島の総督の無礼な対応に、ナポレオンの尊厳も
 まったくなかった。
  また、総督は、ナポレオンが体調を崩しているにもか
 かわらず、主治医を本国に帰らせた。
  ナポレオンは総督を呪った。その言葉が記録にあるほ
 ど、ナポレオンは総督を恨んだ。
  精神的な圧迫もあり、病状は悪化した。
  そして、この時に、ナポレオンは死去した。
  遺体は解剖され、ガンが発見されたが、
  ヒ素による暗殺の可能性も指摘された
1821年9月4日、アレクサンドル一世の勅令
  ロシア皇帝アレキサンドル一世は、勅令によって、ア
 メリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人
 の捕鯨や漁業を禁止した。
  禁止区域に、ウルップ島以北の千島諸島が含まれてい
 た。
  この頃、ロシアでは、ウルップ以北がロシア領である
 との認識が明確にあった。
  故に、「アレクサンドル1世の勅命」には、「ウルッ
 プ島までの島々と、港湾における商業・漁業、並びに、
 あらゆる産業は、ロシア国民のみが従事できる」として、
 それらロシア支配下にある島々への外国船の接近・停泊
 を禁じる」とある。
  この勅令は、択捉島以南にロシアの主権が及ばないこ
 とを明確に示している。
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