(増補版)217D2/3:気になった事柄を集めた年表(1826年〜1827年)

題:(増補版)217D2/3:気になった事柄を集めた年表(1826年〜1827年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1826年(文政9年)2月、幕府が、古金銀の適用期限をさらに
  延長した。
1826年3月25日、ドイツ人医師シーボルトが、オランダ商館
 長の江戸参府(将軍謁見)に随行した。
  そして、シーボルトは、「江戸参府紀行」に下記の様
 に記した。
  「古湯の公衆浴場は、竹の生垣で囲まれたワラ葺き屋
 根の簡素な造り。見張所や休憩所を備える。浴槽は長さ
 6フィート(約183cm)、幅はその半分。湯の色は透明、
 臭いは弱いが硫黄を含み、湯温は90度超、卵が数分でゆ
 で上がった」・・と。
  この温泉は、長崎から江戸への途上の佐賀県の「嬉野
 温泉」だという。
  シーボルトたちは、長崎を2月10日ごろに発ち、約2ヶ
 月後の、4月10日に、江戸に着いているという記述もある。
  シーボルトは、江戸に約1ヶ月滞在している。
1826年4月9日、高橋景保(天文方)が、日本地図を持参し
 てシーボルトを訪問し、外国書との交換を約束した。
  地図は、禁制品であったが、シーボルトが依頼した。
  高橋景保は、シーボルトに写しを渡すことに同意した。
  シーボルトは、江戸へのこの旅行で、1000点以上の植
 物標本が収集できた。
  シーボルトは、間宮林蔵蝦夷地で採集した標本も、
 手に入れたくて、
  間宮宛に丁重な手紙を書き、また、布地の贈物と共に
 送ったくらい、種々のものを収集したかった。
  このシーボルトから受け取った手紙が発端となり、高
 橋景保らが捕らえられる。
  シーボルト事件は、1828年9月に起きる。
  この事件で、幕府天文方・書物奉行高橋景保ほか十
 数名が処分され、景保は獄死する事になる。
  シーボルトも処分された。
  シーボルトは、景保にクルーゼンシュテルンの「世界
 周航記」などを贈り、景保から伊能忠敬の「大日本沿海
 輿地全図」の縮図を貰っていた。
1826年5月、夜間、市中が物騒なため、幕府は、火付盗賊改
 めに、強盗・殺人見回りを強化するよう命じた。
1826年6月、武家屋敷地内町人貸与禁止
  幕府が、武士が武家屋敷を町人に貸して利益を得るこ
 とを禁止した。
1826年7月、幕府が、市中の夜間警備強化の扶持として、57
 カ町の居住地主・名主に、1,840両を交付した。
1826年7月、青地林宗(あおちりんそう、蘭学者)が、世界各
 国地誌の大要を翻訳した「輿地志略(よちしりゃく)」
 が完成した。
  輿地志略は、ヒューブナー(ドイツ人)のオランダ語
 訳の「一般地理学」を翻訳した書。
  世界各国の地誌を記したもの(7巻)。
1826年9月8日、大槻玄択が、杉田玄白らが出した解剖学書
 の「解体新書」を、改訳増補した「重訂解体新書(ちょ
 うていかいたいしんしょ)」が刊行された。
  解体新書は、初めての西洋語からの翻訳という事から、
 誤訳が多かったため、
  そして、蘭学も発展し、オランダ語の研究も進んだこ
 とから、
  杉田玄白は、高弟の大槻玄沢に「解体新書」を訳し直
 すように命じていた。
  これには、大槻玄沢以外の蘭学者も関わっていること
 が分かる。
  図などは、はるかに鮮明になっている。
1826年9月、幕府が、関東の無宿人・農民・町人が長脇差
 携帯することを禁止した。
1826年10月、近藤守重(通称:重蔵、北方探検家)が、長
 男・富蔵の殺人事件に連座し、近江大溝藩に預けとなっ
 た。
  この事件は、土地争いで隣家の人を斬った。
1826年12月、尾張藩が江戸に米立会所を設立した。
1826年12月、岩垣松苗(いわなぎまつなえ、儒者、=岩垣
 東園)が編纂した、神代から1588年までの漢文編年体
 史書の「国史略(こくしりゃく)」が刊行された。
  史実記事と論評を付している。
1826年12月、藤田幽谷(ふじたゆうこく、儒学者水戸藩
 士)が没した(1774年〜1826年)
  商家の生まれであるが、15歳の時、彰考館生に抜擢さ
 れて、1791年の17歳の時に、士分となった。
  また、1807年び33歳の時に、彰考館総裁にもなった(
 門下に尊王攘夷派の志士が多く出た)。
  そして、「大日本史」の編集にあたった。
1826年〜1866年、イギリスが、ビルマ(現:ミャンマー
 を併合した。
  1824年に、イギリスは、ビルマへの攻撃を始めて、こ
 の年・1826年に、戦争に勝利し、ビルマを併合した(ヤ
 ンダボ条約)。
  日本は、朝鮮半島を話し合いで、戦争をしないで、話
 し合いの納得の上で併合した(韓国は色々言っているが?)。
  この後、このイギリスとビルマの2国は、二度も、戦争
 をする。
  何しろ、イギリスは、強力な武力で蹂躙して行った。
1826年、オスマン帝国が、イェニチェリ制を廃止した。
  イェニチェリは、14世紀から始められたオスマン帝国
 の常備歩兵軍団の事で、火器(火薬の力を利用して弾丸
 発射する兵器)で武装した最精鋭であった。
  銃が開発されると、いち早く銃を取り入れ、組織的に
 運用した。
  他国に先んじていた事は甚だしく、他国は16世紀後半
 に重要視されるようになった(200年以上を要した)。
  この点、日本は、銃が伝来すると、いち早く国内生産
 ができる様になり、そしてさらに、世界一の銃の保有
 になるという、日本の明晰な判断力は優れていて素晴ら
 しい。
1826年、オームの法則。オーム(ドイツ)が発見した。
  しかし、この発見について、既に、1781年に、ヘンリ
 ー・キャヴェンディッシュ(イギリス)が、発見し、
  1879年に、マクスウェルが、電気学論文集を出版する
 まで未公表であったとして、オームは、再発見だという
 話がある。
  この様な話は、特許の上で、アメリカが良くやる手で、
 特許の場合、発明ノートなどを詳しく調べ、本当に、先
 発明をしていたかの調査を行なっている。
  (アメリカは、重要特許をこの手で奪う事を良くして
 いる。この類の話は注意すべきである)
  しかし、このマクスウェルの場合、その様な調査をし
 たかが不明で、発見があったのか(完成していたのか?)、
 または、発見一歩手前で未完成だったのか?など不明。
  安易な再発見説の採用は疑問。
  ヘンリー・キャヴェンディッシュは、寡黙で人間嫌い
 の性格だった(だから発表しなかった)などという話は
 後付け話か?
1827年(文政10年)1月、幕府が、市中の消防に備え、竜吐
 水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・玄蕃
 桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)・水鉄砲を備え付けさ
 せた。
1827年1月、岡山鳥(さんちょう)作・長谷川雪旦(せったん)
 画の「江戸名所花暦」が刊行された。
  19世紀の江戸の四季の花の名所を記した・・江戸の代
 表的な行楽案内書・・
  隅田川の雪:すみだ川水のうへにもふる雪のきえのこ
 るは都鳥かも・・
  春は鶯、梅、桜・・夏は蛍、納涼、蓮・・秋は萩、月、
 虫・・冬は寒梅、松、枯野、雪見・・など、四季折々の
 花鳥風月を計43項目に分類・・それぞれの名所・名木の
 解説、由来、場所・・
1827年3月、将軍・家斉が、太政大臣に任命された。
  征夷大将軍従一位左大臣朝臣徳川家斉、左近衛大
 将兼任)
  正二位行権大納言藤原朝臣家厚(花山院家厚、院執権
 兼帯)宣(の)る
  勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(く
 だんのひと)宜しく太政大臣に任ぜしむべし者(てへり)
  文政10年2月16日
1827年3月、大槻玄沢(おおつきげんたく、蘭方医蘭学者
 が没した(71歳)
  江戸蘭学の興隆を導いた功労者の一人だった。
1827年3月、産業振興・官営商業・貿易展開を説いた佐藤信
 淵(さとうのぶひろ、農政学者)の経世論「経済要録(け
 いざいようろく)」ができた。
  総論・創業篇・開物篇・富国篇の4篇、全15卷からなり、
 「産業を興し、国を富ませて、人民を救済せよ」と説い
 ている。
1827年5月、頼山陽(らいさんよう、儒者、勤王家)が、
 江戸で「日本外史(にほんがいし)」を完成し、松平定
 信に贈呈した(2年後刊行)。
  頼山陽が20余年の歳月を費やして書いた。
  源平の両氏から徳川氏まで、政権が武門に帰した由来
 を、史論をはさみつつ書いている。
1827年5月、幕府が、衣服華美の禁を犯した芸妓らを処罰
 した。
1827年7月29日、幕府が、婦女と医師以外の日傘の使用を禁
 止した。
  女性には優しかった幕府、そして、日本。
1827年9月、前薩摩藩主の島津重豪(しまづしげひで)が、高
 輪の藩邸の蓬山園内に聚珍宝庫(博物館)を設置した。
  島津重豪は、38年間、藩主の地位にあったが、隠居後、
 自ら収集した多数の日本および海外の「奇物異産」を収
 める博物館と言うべきものを作った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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