(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月〜1880年1月)

題:(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月〜1880年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1880年、出来事:
憲法制定手続きの論議が活発化
・財政監督制度が始まった。
  会計検査院の歴史において、1869年(明治2年)、太政
 官(内閣の前身)のうちの会計官(財務省の前身)の一
 部局として設けられた「監督司」を前身とし、
  その後、「検査寮」、「検査局」と名称の変遷を経て、
  1880年明治13年)に至り、太政官に直属する財政監
 督機関として誕生した。
  そして、1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法が発
 布されるとともに、「会計検査院」は、憲法に定められ
 た機関となった。
  以後60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁として財
 政監督を行って来た。
・消防本部の設立。
  この年・1880年に、内務省警視局に消防本部が設立さ
 れた。これが、東京消防庁の始まり。  
  消防は、基本的に警察の管理下に置かれた。
  これは、火事場泥棒を防ぐための措置で、
  消防経費は、国庫負担だった。
 そして、翌年・1881年、消防本署の下に6つの消防分署
 が設置された。
  消防第1分署(現在の日本橋消防署)
  消防第2分署(現在の芝消防署)
  消防第3分署(現在の麹町消防署) 
  消防第4分署(現在の本郷消防署)
  消防第5分署(現在の上野消防署)
  消防第6分署(現在の深川消防署) 
1880年、経済・財政:
・政府財政が深刻、
  西南戦争の戦費調達で、さらに火の車となった。
  負債利子だけで国庫収入の1/3となった。
  西南戦争は高くついた。
  そこで、1873年1880年に、大蔵卿を務めていた大隈
 重信や、
  1880年1881年に、大蔵卿を務めた佐野常民(さのつ
 ねたみ)は、不換紙幣を発行した。
  不換紙幣:正貨である金貨や銀貨との交換を保障しな
 い貨幣。不兌換の紙幣。
  世はインフレーションとなった。
  物価は上昇し、表面上の政府への歳入は、増えた様に
 見えたが、実質的に歳入減となり、さらに、財政は深刻
 化した。
・全国銀行株金総額の42%は華族が所有した。
1880年、物価:
・米価 1石=10円47銭
  この年、米価の平準を保つということで、米会所条例
 の改正が行われた。
  主な改正点は・・、
  (1)仲買人身元金の変更。
  従来、東京・大阪は200円、他は一等200円、二等100円
 を改めて、一律1000円とした。
  (2)売買証拠金を「10分の1」から「10分の2」とし
 た。
  (3)現場売買を禁止した。
  この結果、仲買人は激減した。
  また、取引は、低迷となる米会所が出た。
  当然、規制緩和の運動が、各地の米商会所から出た。
  政府は、その声を聞き容れざるを得なくなり、1882年
 に改正した。
  政府は、必死に税収を増やそうとしていた。
1880年、論:
・ 「言論自由論」(著:植木枝盛)
  1880年7月、愛国社から発行された。
  『言論自由論』の目次は・・、
  (発端)
  (言論ノ自由ハ天然ニ出ツルヲ論ス)
  (言論ノ自由ノ人生エ闕ク(か)可カヲサルヲ論ス)
  (言辞ハ文字ヨリモ優ル所アルヲ論ス)
  (語辞ノ勢力ヲ論ス)
  (人間必ス言論ノ自由ヲ有ス可キヲ論ス)
  (言論ノ自由ハ国家ニ於テモ亦緊要ナルヲ論ス)・・
  以下略
・ 「民権弁惑(みんけんべんわく)」(著:外山正一)
  外山正一(とやままさかず)は、明治時代の日本の教
 育家・文学者・社会学者・政治家。
  勝海舟の推挙により、1866年(慶応2年)、中村正直
 とともに幕府派遣留学生として渡英し、イギリスの最新
 の文化制度を学んだ。
  官立東京開成学校で、社会学の教鞭をとり、
  1877年、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編
 されると日本人初の教授となった。
  モースを東京大学に招聘したりし、
  また、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)に強く働き
 かけ、東京帝国大学英文学講師に招聘した。
  東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て、
 同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の文部大臣など
 を務めた。
  大日本帝国憲法発布の記念式典に、明治天皇陛下に対
 して「万歳」を始めて唱えたのは外山正一だったと言われ
 ている。
1880年、本・文学:
・美術雑誌 「臥遊席珍(がゆうせきちん)」 創刊。
・佐々木弘綱 「明治開花和歌集」
・戸田欽堂 「情海波瀾(じょうかいはらん)」
  政治小説の最初の作品。
  民権の確立(国会開設)を争点とする政府と人民の対立
 と調和が、アレゴリー(たとえ話的)に書かれている。
・翻訳物あきられ、漢字の本が売れるようになった。
・出版する者がふえる(有喜世新聞の記事)
・丸屋商社(後の、丸善・まるぜん)が丸善商社と改称し
 た。 創業(1869年)
  内外図書、雑誌、文具、事務機械、洋品雑貨の販売、
 および、輸出入のほか出版、教育機器の製造、不動産業
 を営む会社。
  1869年(明治2年)、福沢諭吉の門人・早矢仕有的 (は
 やしゆうてき) が、横浜に設立した丸屋商社がその前身。
  1869年1月1日、丸屋商社を横浜に創業し(事実上日本
 の株式会社第一号)、『丸屋商社之記』を制定した。
1880年、世相・流行:
・東京、京都、愛知で万年青、蘭の栽培が流行
・横浜で鶏の蹴合いが流行。
・甲斐絹(かいき、絹織物の一種)の騰貴で、女性の稼ぎ
 がよくなり、女天下になったと言われた。
  世界的にも稀(まれ)で、独自の技法がみられ、織物
 の風合いにも特徴がある、広幅の輸出甲斐絹が盛んに織
 られた。
・「ヘナチョコ」という新語が新橋花柳界から発生し、流
 行した。
  語彙については、「埴猪口、へな土でつくった猪口」
 の意味、
  「未熟な人や役に立たない人をあざけっていう語」と
 ある。
  そして、『集古』庚申第二号(大正9年4月25日発行)
 に、ヘナチヨコの由来と題する野崎左文(のざきさぶん、
 蟹廼屋左文)の文があり・・、
  明治14〜15年の夏の事で、当時、風雅新誌の社主であ
 つた山田風外氏とおのれ等四五人で、同年神田明神に開
 業した今の開花楼に登つて一酌を催した。
  其時銘々の膳に附けて出した盃は、内部がお多福、外
 側が鬼の面になつて居る楽焼風の気取つたものであつた。
  是れは面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注
 がせるとこは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が
 立つた。
  イヤ是れは見掛によらぬ劣等な品物だヘナ土製の猪口
 だからヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが抑も
 の始まりで、
  それから以後、外見ばかり立派で実質の之に伴はぬも
 のを総てヘナチヨと呼び、ヘナチヨコ料理屋、ヘナチヨ
 コ芸者、ヘナチヨコ芝居などゝ盛んに此の新語を用ひた
 のが、忽ち新橋の花柳界に伝はり、
  又、落語家円遊などが高座で饒舌るやうになつた為め
 終に東京一般の流行言葉となつたのである。
  此のヘナチヨコなる語は、今でも猶屡々耳にする事が
 あるのに其の名付親たる当時の四五人の連中は過半故人
 となり、活き残つて居るのは風外翁とおのればかりとは
 座ろに今昔の感に堪へぬ。
1880年、演芸:
・三遊亭円遊 → ステテコ踊り
  11月:東京・浅草の並木亭で初代三遊亭円遊が「すて
 てこ踊り」を始め、大変な人気で流行した。
  落語が終わった後に、高座で見せた踊り。
  類似の芸を見せる芸人も他に現れ、それぞれに大変な
 人気となった。
  1880年は、コレラ流行の余波で寄席が不況であったの
 で始めた。
  尻っぱしょりで半股引を見せ、踊るものであった。
・三遊亭萬橘(さんゆうていまんきつ)→ヘラヘラ踊り
  「へらへら踊り」は、その後、大阪宗右衛門町の料亭・
 南地大和屋が復活させ、現在でも演じられている。
1880年、衣:
・近畿の綿作が激減しはじめる。
  二毛作は、経済性の追求を目的としていたため、その
 普及は著しかった。
  その為の「ため池の築造」が、二毛作の普及に間に合
 わないという事態が起こった。
  しばしば、水不足に見舞われる様になった。
  この対策として、いくつかの水田には米を作らないで
 おく『犠牲田』を設けて、慢性的な水不足に対応した。
  その犠牲田の有効活用を図ったのが田畑輪換農法だっ
 た。
  田畑輪換農法は、稲作と畑作を交互に行なうもので、
 いくつかの水田を畑として利用し、2〜3年の周期で再び
 その土地を稲作に戻すという方法で、
  同時に、二毛作による連作障害や、地力の低下した田
 を休ませ、回復させるという長所もあった。
  輪換作物は、綿が主流だった。
  稲作期間中の綿の作付けは、江戸時代初期の「作物勝
 手作りの禁」により禁止されていた。
  明治になって、この規制が緩和に向かった。
  綿作は、水不足による犠牲田を有効利用するための作
 付けだった。
  また、綿作に向かった理由の一つに、朝鮮からの綿輸
 入の縮小があった。
  その為、国内の綿需要を満たし、また、需要の高まり
 から、綿作は、徐々に公認されて行った。
  (因みに、朝鮮からの綿輸入の減少は、豊臣秀吉によ
 る朝鮮出兵以来という古い時代にさかのぼる話がある)。
  こうして、二毛作を補うような形で無駄なく生産する
 ことができる田畑輪換が、その後、広く普及した。
  二毛作、田畑輪換により、大和平野の農業は著しく発
 展を遂げた。
  近世の中期では、水田の約3分の1(約6000ha)が輪換
 畑であった。
  しかし、明治の開国により、外国の安い綿が輸入され
 るようになると、大和平野で作られていた綿の需要は、
 一気に低下して行った。
  この頃、平野で営まれていた田畑輪換に作付けされて
 いた作物の内、綿の占める割合は4割にも達していた。
  綿を作付けしていたそれらの農家は、再び、田畑輪換
 を行なう前の状態、つまり、二毛作を強いられることに
 なった。
  綿作が衰退し、徐々に稲作が増えてくると、当然、再
 び用水が不足するようになった。
  根本的な水不足問題は、なにひとつ解決していなかっ
 た。
  そこで、再び、ため池の築造が始まった。
  明治に入って造られた「ため池」は、平野部に集中し、
 田をため池にするというような方法で行なわれた。
  綿による収入が激減していた農家に、平野部の田んぼ
 をつぶして水の確保を行なわなければいけないという辛
 い状況となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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