(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月〜1882年2月)

題:(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月〜1882年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年1月1日、全国人口が、3670万人118人
  東京:98万2143人、
  横浜:7万人と・・15年間で倍になった。
1882年1月1日、刑法・治罪法(ちざいほう)が施行された。
  1880年7月17日に、太政官布告37号で制定され、公布さ
 れていた日本で最初の近代的刑事訴訟法典。
  御雇外国人のG・ボアソナード (フランス人) が、フラ
 ンスの治罪法を基礎に、
  諸国の法を参照し、原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布していた。
  1890年に、刑事訴訟法の施行によって廃止された。
  この法律の制定以前の明治初頭においては・・
  日本の刑事法制は、律令法制の復活に始まり、
  1870年の新律綱領、そして、
  1873年の改定律例とあいついで制定された。
  しかし、ヨーロッパ近代法(特に、フランス法)を範
 とした刑事手続の近代化の動きも、個々的に進められて
 いた。
  そして、治罪法制定までの間に、改定律例の自白によ
 る断罪を定めた規定の廃止や、
  証拠裁判主義や、
  1876年の自由心証主義の採用や、検事の公訴による国
 家訴追主義、
  そして、予審、保釈、裁判公開などの制が確立された。
  1878年の弾劾主義の確立、
  1879年の拷問の廃止などの法改革も進められていた。
1882年1月4日、陸軍および海軍に「軍人勅諭(ぐんうじん
 ちょくゆ)」が発布された。
  元となったのは武士道の考え方・・で、
  それまでの武士階級の規範だったものを・・国民一般
 の軍人の規範とした。
  忠節、礼儀、武勇、信義、質素が5つの柱となっている。
  西周(にしあまね、幕臣、官僚、啓蒙思想家)が、起
 草し、
  福地源一郎・井上毅山縣有朋‎によって加筆修正され
 た。
  天皇陛下より下賜された当時、西南戦争竹橋事件
 自由民権運動などの社会情勢によって、世の中の状況に
 不安があり、また、設立間もない軍部に動揺が広がって
 いたため、
  これに対して精神的支柱を確立する意図で起草された
 ものされている。
  1878年明治11年)10月に、陸軍卿・山縣有朋‎が、全
 陸軍将兵に印刷し、配布した軍人訓誡が元になっている。
  特に、「忠節」の項において、「政論に惑わず政治に
 拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じている。
  また、戦いに於いては、「普段は命を無駄にせず、け
 れども時には義のため、国のために、命を捨てよ」と命
 じている。
1882年1月8日、京都に体育演武場が開場した。
1882年1月15日、フランス人画家・ビゴーが来日した。
  ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、明治時代の
 日本で17年間にわたり活動した。
  当時の世相を伝える多くくの絵を残した。
  ビゴーは、1876年(16歳)の時に、フランスの国立高
 等美術学校であるエコール・デ・ボザールを退学し、
  その後、日本美術愛好家として知られたフェリックス・
 ビュオや、アンリ・ゲラールから日本美術についての知
 識を得た。
  また、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラや、エド
 モン・ド・ゴンクールなどからも、ジャポニスムの魅力
 を知るようになった。
  そして、1878年に、フェリックス・レガメが、旅行記
 『日本散策』を出版したりして、日本ブームだったこの
 年、
  パリ万国博覧会で、浮世絵と出会い、興味をより強く
 抱いた。
  1880年には、美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日
 本美術』の挿絵の一部を担当した。
  1881年より、人気の作品の挿絵を担当するなど活躍し、
 フランスで高い知名度を得ていた・・が、
  東洋の高い文化の国・日本への思いは強く、日本への
 渡航を決断した。
  そして、21歳の1882年のこの年、マルセイユ港を発ち、
 来日した。
  日本でのビゴーは、陸軍卿・大山巌の尽力で、御雇外
 国人・絵画講師としての高給の安定した生活を得た。
  そして、日本の隅々まで見て回り、スケッチした。
  また、幸い、その画集が好評を得て、御雇外国人の契
 約が切れた後も、経済的な支えとなり、日本に住み続け
 た。
  1885年〜1887年頃に、中江兆民の仏学塾でフランス語
 を教え、塾で自由民権家とも接し、運動を知った。
  また、1885年に、日本の新聞「団団珍聞」への漫画寄
 稿や、
  1886年、「郵便報知新聞」の掲載された小説の挿絵の
 仕事を得たり、
  また、1886年に、フランス新聞社の「ル・モンド・イ
 リュストレ」や、イギリス新聞社の「ザ・グラフィック」
 などから、日本を題材とした報道画家の仕事を得た。
  しかし、ビゴーは、当時の日本の悲願である条約改正
 については理解を示さず、
  当時、居留する外国人と同じ意見である「条約改正は
 時期尚早である」の立場を取り、
  また、「日本の近代化にはまだ時間がかかる」との立
 場にいた。
  そして、日本にとって手痛い風刺画を、自分で発行し
 た風刺雑誌「トバエ」に描き、発表した。
  そのため、日本での身の置き所の心配が生じ、警察も
 注意を配すべき外人とした。
  例えば、必死に条約改正をしようと鹿鳴館で苦労する
 日本女性の休息室をのぞき見し・・、
  疲れて休んでいる女性の姿を・・皮肉たっぷりに描い
 たりした。
  また、身だしなみを整え、鹿鳴館で対応する日本の紳
 士・淑女を、
  鏡の前に立ったその姿と、鏡に映ったその姿をビゴー
 は描き、
  鏡の中に居るその日本の紳士・淑女は、みすぼらしい
 姿であると描いている。
  いたずらに、日本を見下し、バカにした風刺画といっ
 たところで、
  何らそこには、高貴な叡智溢れる風刺の姿はない。
  ただ、低劣な蔑(さげす)みの皮肉な風刺画がある。
  しかし、日本に居留する外国人たちには人気があった。
  酒を注がせ、脇に女性を侍らせ、料理を食べながら、
 西洋に追い付け追い越せと勉強している外交官を描いた
 りしている。
  まったく、正しく、正当に日本を見ていない「風刺屋・
 皮肉屋」がそこにいた。
  ビゴーの絵で、ロシアの監視下で、中国(清)と日本
 が、一生懸命、朝鮮という魚を釣り上げようとしている
 絵は有名であるが・・、(まだ、ちょんまげ姿の日本に
 している)
  教科書にも載っているこの絵なのだが・・、
  ビゴーは、自分の国・フランスやイギリスが、麻薬と
 いう卑劣な商品を用いて、それを売りつけるという行動・
 戦争によって、清国をとことん虐(いじ)め、奪った過
 去の残酷な歴史については、何も語っていない。
1882年1月21日、大日本山林会が設立された。
  現在も存続し、活動している本会のホームページには、
  「大日本山林会は・・、林業の改良・進歩を目的とし、
  明治15年1月21日創立されました。
  爾来130年有余を数え、わが国で最も長い歴史をもつ
 伝統ある林業団体です。
 この間、大正4年4月5日には、社団法人の認可(農商務
 省)を得、
  歴代総裁には皇族を奉戴いたしております。
 新公益法人制度の施行に伴い、平成22年10月1日付けで、
 公益社団法人に移行しました」・・とある。
1882年1月23日、大阪府、旧堺県の和泉・河内・大和の合併
 に当たり、
  同地方の鍼灸、水蛭、吸玉による治療の新規開業を禁
 止した。
1882年1月24日、神官の教導職兼補を廃止。
  自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノ
 トス。
  明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号
1882年1月25日、条約改正協議の「第1回各国連合予議会」
 が開催された。
  議長は、井上馨外務卿。
  日本や、中国には、イギリスやアメリカなど、外国に
 警察権を奪われた地があったり、また、行政権まで奪わ
 れた地があったり(中国の租界など)、
  自分たちのお好みのシステムに組み込んで、日本など
 の国家主権を好きに牛耳っていた。
  関税や裁判権なども牛耳られていた。
  また、欧州やアメリカなどの内のある国が、条約で得
 た「旨味のある権利」は、
  自動的に、他のアメリカやヨーロッパの他の国へも適
 用する事という・・まったくバカげた片務的な最恵国
 遇が設けられていた。
  アメリカ・ヨーロッパが連合して弱小のアジアを牛耳
 る「まったく、不平等な条約」となっていた。
  強者のアメリカ・ヨーロッパ諸国の・・
  強者による、弱者への収奪以外の何物でもなかった。
  日本の地であっても、日本の法律が聞き入れらない悲
 しさ、
  そして、日本の裁判も・・無視された(治外法権
  そして、日本に入って来る外国製品に関税を掛ける自
 由も奪われていた。
  イギリスが、卑劣な麻薬を中国へどんどん売った様な
 悪行為に対しても・・阻止する手はもがれていた。
  また、イギリスは「自由貿易の旗手」だなんて美しい
 事を言っているのに、
  日本の関税は低くさせて、イギリス品は日本に輸出し
 やすくしたのに、
  日本品のイギリスへの輸出品には、その5倍以上の関税
 を掛けた。
  どこが「自由貿易の旗手なのだ」と言いたい。
  アメリカなどは、そのイギリスの2倍という卑劣さだっ
 た。
  (アメリカは、日本の17倍以上の関税を掛けた)。
  日本の研究者は、その5倍や17倍の不平等さの半分でも
 改善されれば、日本の農民が税金で苦しむ事もなかった
 と言う(日本の間接税は全廃できた・・と)。
  財政難の日本は、この様な差別から国庫を潤す事も出
 来なかった。
  国内産業の発展にも「大きなブレーキ」がかかった。
  外国商人は、日本の法律の外の地位で、貿易で多大な
 利益を得て、さらに、日本の貿易を左右していた。
  その様な、程度の悪い、卑劣な条約内容だった。
  そして、この年・1882年、条約改正予議会が開催され
 た。
  (条約改正会議の開催は、1886年になった、そして、
 鹿鳴館は、1883年に落成する)。
  予備会議は、この年・1882年1月25日に、東京の外務省
 で第1回が開かれ、
  フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した(
 アメリカはこの時は参加しなかった)。
  この後になって、アメリカ合衆国とベルギーなども加
 わって、1882年7月27日まで計21回、開催された。
1882年1月、東京日日新聞と東京横浜毎日新聞の間で、主権
 所在論争が起こり、加熱した。
1882年1月、玉島紡績所が開業した(1881年説あり)
  岡山県繊維産業の勃興の端緒。
  1888年に、倉敷紡績が設立されたりしている。
  倉敷市児島地域の繊維産業は、明治時代に入り、由加
 山の参拝客が減少し、土産物として人気のあった真田紐
 小倉帯地が売れなくなったことから、県外に販路を拡大
 するとともに、袴地や前掛地に転換していった。
1882年1月、井上馨が、条約改正に着手する。
  1882年〜1887年頃に、井上馨は、条約改正に尽力した
 が、
  外国人判事任用問題で非難をあびて失脚した。
  日本に国力がまだ無く、
  外国は、日本の改正行動に対し、高をくくっていた(
 大したことはないと見くびっていた)。
  鹿鳴館など、欧化政策を必死にしていたが、まだ、し
 っくり身についていない日本の西欧化は・・蔑まされる
 面もあった。
  (ビゴーの風刺画は、風刺・ウィット(機知)と言う
 より蔑みである)
  そこには、日本の猿まねという見方があった。
  屈辱的な不平等条約を押し付けた欧米外国側に、その
 責任があるのに、その点へは、まったく思いは及んでい
 なかった。
  軍事力もまだない、そしてまだ、文明の未発達の日本
 だった。
  健気に、必死に歩んでいる日本、その日本の井上馨
 涙ぐましい努力も、その様に受け取られていた。
  また、苦労をしている庶民サイドからも、鹿鳴館的な
 行為は、良くは感じられていなかった。
  当の在日外国人からも強く批判される鹿鳴館だった。
  また、舞踏曲の日本の演奏もまだまだ未熟であった。
  愛おしい明治の方々・明治人の一時期の出来事だった。
  結果は、功を奏さず。
1882年1月31日、日本初の生命保険金の受取人が出たことが
 報じられた。
  この生命保険会社ができたのは前年・1881年7月で、そ
 れから半年を過ぎ、加入者も1000名に達した頃の、
  1月20日に、心臓病で急死した警部長で、支払われた保
 険金は1000円。
  当人が払った保険料は30円だった。
  因みに、当時の1000円は、小学校教員の初任給の約200
 倍に相当した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive