(増補版)419E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月〜1885年12月)

題:(増補版)419E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月〜1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年12月27日、阪堺鉄道(はんかいてつどう)開業式
  阪堺鉄道は、南海電気鉄道の前身となる鉄道事業者
  現在の南海本線難波駅堺駅間を開業させた。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)。
  関西における商業都市として栄えた大阪と堺の間を結
 ぶ鉄道計画は明治初期から考えられていた。
  それが具体化することになったのは、両都市における
 有力者や、明治初期の財界人である藤田伝三郎・松本重
 太郎・田中市兵衛・外山脩造などが集まった1882年頃の
 ことだった。
  同年・1882年5月に、大阪堺鉄道として大阪府に出願し
 工部省へ進達された。
  しかし、翌年・1883年2月に、敷設区間大阪府内に留
 まること、普通の鉄道と異なるとの理由により大阪府
 て詮議することとして返戻されてしまった。
  そして、種々、検討がなされ・・、
  1883年に、敷設が始まり、
  1885年12月27日、開業式が挙行される運びとなった。
  1885年12月29日、難波駅を起点にし、天下茶屋、住吉
 を経て大和川北岸(大和川駅)に至る区間の営業を開始
 した。
  大和川橋脚を架ける工事には、時間・費用を要すると
 見られたため、このような暫定開業となった。
  1887年5月に、堺市街へ入るための延伸工事を開始し、
  1887年10月に、洪水によって中断を余儀なくされるが、
  1888年3月に、竣工した。
  そして、1888年5月15日、堺の吾妻橋駅まで延伸運転が
 開始され、大和川仮駅は廃止された。
1885年12月28日、井上勝が、初代鉄道長官に任命された。
1885年12月28日、内閣に統計局を設置した。
  統計院を廃止し、内閣に統計局を設置した。
  翌年・1886年明治19年)2月15日に、各省院庁に統計
 主任を置き、統計局との連絡に当たらせることとし、
  ここに、統計局を中心とした政府統計組織体系が確立
 した。
1885年12月28日、布告・布達は、官報掲載を以て公式とし、
 別に配布しないことを定めた。
1885年12月、東京商船学校が、逓信省の所管となる。
1885年、別子銅山の亜硫酸ガスによる被害が拡大した。
  急激な近代化の道をひた走っていた日本。
  1691年(元禄4年)に開かれた別子銅山も、機械設備の
 導入、索道、鉄道の敷設などによって、出鉱量の拡大が
 図られた。
  また、これに対応する製錬能力を確保するため、別子
 山中にあった製錬所は、新居浜の沿岸部に移設された。
  しかし、繁栄の象徴となるはずだった新居浜の製錬所。
  その排出される煙(亜硫酸ガス)が、周辺地域の農作
 物に被害を及ぼした。
  予期せぬ事態が発生した。
  しかし、誠実な対策の努力がなされた・・が・・
  1904年(明治37年)四阪島に移転した溶鉱炉の試験運
 転を開始すると間もなく、
  対岸の宮窪村友浦から麦の葉に被害が出た。
  1905年(明治38年)本操業を開始すると、越智・周桑
 両郡の各村から煙害の叫びが起こった。
  1906年〜1907年(明治39〜40年)煙害の声が、一層、
 大きくなった。
  愛媛県、別子鉱業所が、それぞれ調査し、
  その結果、農業被害は煙害であることが確認された。
  被害地域は、新居浜製錬所当時よりもはるかに広い範
 囲にわたり、
  四阪島を中心に、越智・周桑・新居・宇摩四郡の農村・
 山林地帯まで拡大した。
  1908年(明治41年)煙害は従前より一段と激しくなっ
 た。
  これは、この年に「煙害日和」(被害の多い時の気象、
 つまり、海陸各地の風向きが一致して風力が弱いときや、
 静穏な時、日光が強くて気温が高いとき等のことをいう)
 が、頻繁に続いたものと考えられた。
  前記の四郡の麦作は、減収になったばかりか、7月〜8
 月には、亜硫酸ガスに襲われた稲の葉に一様に黄褐色の
 斑点が生じ、
  前年程度の結実さえも期待できなくなった。
  被害区域は、三郡四町38ヶ村(宇摩郡の被害地域はこ
 れには含まず)に及び、
  被害を受けた農家戸数は3万余戸
  田畑反別は、およそ1万2000町歩〜1万3000町歩に達し
 た。
  四阪島は、新居浜今治からそれぞれ18キロメートル
 離れているといっても、内海であったために、
  西よりの風を除くどの方向の風でも、どこかに被害が
 発生した。
  特に、春から夏の農作物育成期には、北東よりの風が
 多く、それだけ被害を激化させることとなった。
  農民たちが、4年間に被った損害額は、米麦の被害だけ
 で合計約37万円になると算定された。
  一戸当りの被害額は10円強と少ないが、この地域一帯
 が愛媛県第一の穀倉地帯であることを考慮すれば、農民
 が物心両面に受けた打撃は決して小さくはなかった。
  農家煙害の被害は米麦のみならず、
  山林、果樹、そ菜等にも及ぶが、それらの被害は、自
 給度の高い生活を営んでいる普通の農家にとって、きわ
 めて重大な問題であった。
  当時は、亜硫酸ガスの回収方法が確立されておらず、
 技術的に解決することは極めて困難だった。
  そのため、時の、住友総理事・伊庭貞剛は、
  製錬所を四阪島へ移転するという決断を下した。
  四阪島は、新居浜から約20キロ離れた無人島で、
 ここに製錬所を移転すれば、亜硫酸ガスは瀬戸内海上
 拡散され、
  煙害が発生することはないと考えた。
  しかし、無人島に製錬所を作るには、港や道路、住宅
 をはじめとするインフラを、初めから整備しなければな
 らず、
  莫大な費用がかかった。
  実際にかかった総建設費は、
  当時の別子銅山の2年分の純利益に相当した。
  約170万円という、まさに、社運を賭けた大事業だった。
  煙害問題は、周辺の農民に深刻な被害をもたらします
 が、
  その一方で、産銅業は、日本が世界の列強に対抗して
 いくための基本となる事業であった。
  休止するわけはなかった。
  この様なジレンマのなか、伊庭は、あくまでも、損害
 賠償で片づけることをせず、
  事業の利益をつぎ込んででも、将来のための『真の解
 決策』を求め、
  煙害の根絶にこだわった。
  しかし、1905年(明治38年)に、操業を開始した四阪
 島の製錬所は、
  予想に反し、煙害を愛媛県東予地方全体にまで拡大
 させる結果となった。
  瀬戸内海上で拡散されると考えた亜硫酸ガスが、風に
 乗って、そのまま四国本土にまで流れた。
  農民達は、煙害の根絶と、損害賠償を求めて、激しい
 運動を繰り広げた。
  これに対して、住友総理事・鈴木馬左也は、
  「(煙害の)除害方法については、住友家においても
 熱心に研究しており、
  また、政府の調査会も、これに重きを置いて研究され
 るであろう。
  その方法が、発明されれば、住友家は、除害設備など
 少しも厭うところではない、
  たとえ、煙害に対する損害を弁償する額以上であって
 も、これを支出して、施設する覚悟である」
  ・・との決意で事態にあたった。
  住友は、その後も、煙害問題の完全解決まで、終始、
 この姿勢を貫いた。
  1910年(明治43年)被害者農民との間で、損害賠償と
 亜硫酸ガス排出抑制のための操業制限に関する契約が結
 ばれた。
  農民側が挙げた「被害の実例」は下記・・、
  (1)一般耕作物の被害は大きく、大根の根がふとらず、
    そ葉類は生育しない。
  (2)苗、葉に赤色はん紋を生じる。果樹は結実の減少
    を来し、ついに枯死する。
  (3)松の葉が伸びにくく、葉の色は黄褐色に変わる。
  (4)桑の葉が繁茂せず、養蚕も臭煙に襲われ不結果を
    生じる。
  (5)呼吸器病が増加する。
  (6)藁の目方が軽く、靭性を失って縄などに適しない。
  (7)屋根瓦、漆喰、石垣などが赤変する。
  (8)墓石に生えた苔がことごとく剥落する。
  (9)降雨の際屋根の点滴が泉水に落ち、鯉や鮒などが
    死ぬ。
  一方で、煙害克服に向けたさまざまな技術改良に着手
 した。
  まず、原料中の硫黄分を減少させるため、
  1913年(大正2年)に、住友肥料製造所を開設し、硫化
 鉱に含まれる硫黄から硫酸を作り、
  さらに、これから過燐酸石灰を製造した。
  また、煙害の除去、軽減のため、いくつもの試験研究
 を実施した。
  これらの対策により、四阪製錬所から排出される硫黄
 量は、1926年(大正15年)には、1919年(大正8年)の半
 分にまで減少した。
  大正末、ドイツ人ペテルゼンが発明した「塔式硫酸製
 造方法」(硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方法)
 を導入することにより、
  四阪島製錬所は、ようやく煙害根絶のきっかけを掴(
 つか)んだ。
  1927年(昭和2年)には、ペテルゼンと正式に特許実施
 契約を結び、工事を実施した、
  さらに、選鉱操業の変更もあって、放出される亜硫酸
 ガスの量は減少し、
  また、その濃度も希薄となり、
  もはや、実害を伴う煙害は見られなくなった。
  さらに、1937年(昭和12年)には、中和工場の建設に
 着手した。
  これは、溶鉱炉の煙突から放出される希薄な亜硫酸ガ
 スを、アンモニア水で中和して、
  すべて、亜硫酸アンモニアの溶液として回収する。
  この設備は、1939年(昭和14年)7月に、完成。
  以後、亜硫酸ガスはまったく見られなくなった。
  煙害の被害を根絶した。
  四阪島に製錬所が移転してから34年後のことだった。
1885年、朝鮮の勢道政治が盛ん
  朝鮮では、1392年〜1910年まで李氏朝鮮が続いたが、
 その後期に、勢道(せいどう)政治となった。
  清朝には完全に屈服し、
  定期的に、貴族の娘を数知れずとなく清の宮廷に献上
 する習わしがあった。
  また、冊封(さくほう)使節が清から到来すると、言
 葉にすることも憚(はなか)られる性的接待をする韓国・
 朝鮮の慣例があった。
  こうした事実からも、鬱積(うっせき)した心理が朝
 鮮にはあり、
  また、その長年の反動からの形成されて来た体質も存
 在した。
  排他的な、恨みもともなった。
  また、反動的に出て来た優越の入り交じった感情もあ
 った。
  過去の韓国・朝鮮の歴史について・・、
  韓国の歴史教科書には・・、
  「勢道(せいどう)政治による中央政治の不正・腐敗
 と堕落は、そのまま地方政治に波及し、地方の官吏や郷
 吏は、権力を乱用して私利私欲をむさぼった。
  彼らは、法律にない各種の税金を思い通りに徴収し、
 百姓を捕らえては罪名を着せ、財物を略奪したりする風
 潮が生じた」・・とある。
   (参考)勢道政治:せいどうせいじ、朝鮮の李朝におい
    て、国王の信認を得た特定の人物や集団が・・、
    政権を独占する場合を指し、
    世道(せどう)政治ともいう。
     こうした人物や集団は、王室と血縁関係か婚姻
    関係にある外戚の場合が多く、
     正祖時代(1776年〜1800年)の洪国栄(1748年〜
    1881年)以来、外戚の勢道政治が李朝末期まで続い
    た。
     特に、純祖(在位1800年1834年)以降は、幼少
    の国王が相ついだため勢道政治に拍車をかけ、
     安東金氏(純祖、哲宗の両時代)、豊壌趙氏(憲宗
    時代)、驪興閔氏(高宗時代)などによって政権の私
    物化が行われた。
1885年、朝鮮に対する、列強の横暴
  ロシアが、朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受け
 ようとした。
  朝鮮の李朝は、ロシアににじり寄った。
  日英中は、この案を潰した。
  この反動で、イギリスは、朝鮮の巨文島を占領した。
  ロシアは怒った。
  そして、ロシアも朝鮮を占領すると言った。
  中国も仲介をした、
  そして、ロシアの占領がないことを条件に、イギリス
 も占領を止めた。
  中国は、朝鮮への勢力圏を拡大したいと意識していた。
  各国の欲の勢力圏争いが展開した。
  そして、この頃、アフリカ分割の大国の欲が、主に、
 ヨーロッパ列強の各国が展開することになる。
  日本は、この頃から、朝鮮は独立させたいとし、
  そのためには、清国に朝鮮半島から手を引かせたいと
 考え始めた。
  また、その実現のためには、やむを得ない場合には、
 戦争にも至るだろうと意識し始めた。
  この様な時、朝鮮に農民の反乱が起きた。
  李朝では、鎮圧できなかったため、清国に出兵を要請
 した。
  日本は、条約に基づいて、朝鮮へ出兵した。
  これが日清戦争の原因となった。
1885年6月23日、イギリスに、第一次ソールズベリー侯爵内
 閣が発足した。
  この時に、アイルランド国民党の党首チャールズ・ス
 チュワート・パーネルと連携して、第二次グラッドスト
 ン内閣を倒閣することに成功し、
 代わって保守党政権第一次ソールズベリー侯爵内閣を発
 足させた。
  パーネルに配慮して、アイルランド小作人に自作農へ
 の道を開くアシュバーン法を制定したが、
  総選挙の敗北を経て、
  アイルランド国民党がグラッドストンとの連携に動い
 た結果、
  1886年1月には、退陣に追い込まれた
1885年、ダイムラーが、世界で初めて、オートバイを発明
 した。
  ダイムラーマイバッハは、1890年に、ドイツAGを退
 社し、
  ダイムラー・モトーレン・ゲーゼルシャフト(ダイム
 ラー・エンジン会社)を設立した。
  その会社の目的は、オットーの会社で発明したのと同
 じ技術を使って、小型で高速の内燃機関を作ることであ
 った。
  1885年、ダイムラーマイバッハは、オットー・サイ
 クルの内燃機関を積んだオートバイを設計、開発した。
  そして、特許も取得した。

1885年12月28日、イギリスの人種差別に憤(いきどお)る
 インドの方々が、ボンベイで第1回インド国民会議を開
 いた。
  イギリスの植民地であった英領インドのボンベイ(現・
 ムンバイ)で、72人の代表を集めて第1回の会議が開催さ
 れた。
  この会議は、インドにおける人種差別的行政に憤った
 インド人初のイギリス下院議員となったダーダーバーイ
 ー・ナオロージーが、
  インド知識人層の不満を吸収しつつ、
  インド人の政治参加を漸次拡大するための体制補完的、
 穏健的な団体として設立した。
  当初は、年末の4日間だけ活動する程度のものであった。
  これは、当時のイギリス人のインド総督の承認が必要
 なためだった。
  インドの方々が、イギリスの行なう人権無視の政治に
 目覚め、
  そして、イギリス側も、その統治側からすると、「急
 増する反英勢力への安全弁」としての役割を期待してい
 た。
  (参考)インド国民会議
    インド最大、最古の政党で、会議派と略称される。
     1885年のこの年に、ボンペイで開催されたイン
    ド国民会議に起源を発し・・、
     ガンジーの指導の下に、1920年、小ナーグブル
    大会を基として近代的な政党に脱皮し、
     独立運動を指導した。
     1947年の独立以後、1977年から2年半ほどジャナ
    タ党に政権の座を譲ったが、一貫して中央政府
    構成する与党となっている。
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  (今日の言葉)
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  題:1931年という年は・・、
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1931年6月、中村震太郎大尉事件(〜7月)が起きた。
  日本の軍人中村大尉が、中国の南興安嶺(現:チチハ
 ル)辺りを旅行していた時、中国軍に捕らえられ、
  日本側には一切伝えられずに、処刑された。
  スパイ容疑とされた。
  中村大尉は、正式なビザを持っていた。
  この事が、後に、日本へ伝えられると、日本国民は怒
 り、国内は沸騰した。
  中国側へ、日本は抗議をした。
  中国側は、「日本によるデッチ上げだ」とした。
  そして、調査にも応じなかった。
  逆に、日本のデッチ上げだとして抗議をして来た。
  当時の日本の幣原(しではら)外相は、今で言う「日
 中提携路線」で行くという方針で、
  また、「国際協調路線」で行くという路線だった。
  日本国民の世論にも耳を貸さず、日本の主権を犯され
 た事にも目をつむった。
  この時、日本の陸軍省や、参謀本部も、内閣の路線を
 不満ながらも受け入れた。
  しかし、明らかに、日本兵士の命が、日本の主権を無
 視されて奪われ、軽んじられていた。
  中国は支援を受け、後ろ盾を得て強気だった。
1931年7月、万宝山事件が起きた。
  満州の地で、開拓していた朝鮮の農民の方々が、中国
 人に虐殺された。
  この地域にいる日本人居留民の間にも、ますます不安
 感は高まった。
  東京の日本政府の「国際協調路線」や、「日中提携路
 線」で、
  結局、何もしない路線に対しても不安は増した。
  この地で戦われた25年前の日露戦争の後から駐留して
 いる日本軍(日中間の合意によって駐留している関東軍
 も、何もしない方針である政府方針で、事が処せなくな
 っていた。
  結局、中国からの武力行使をやられる状況と、
 日本政府の穏便な何もしない方針が、現地の関東軍を板
 挟み(いたばさみ)にした。
  切羽詰まった状態に、追い詰めた。
  そして、「武力行使もやむを得ない」という判断に至
 らせた。
  その様な緊縛(きんぱく)した現地の状況だった。
  何か対処をしなければと追い詰められ・・て、
  9月18日、柳条湖において満鉄線爆破に至った。
1931年9月、ソ連の指令を受けたゾルゲらは、満州事変の直
 後から動き始め、日本に対ソ連攻撃をさせないようにす
 るため、日中全面戦争へと導いて行き、日中戦争を推進
 した。
  そして、日本を日米戦争に誘い込んで行った。
  リヒャルト・ゾルゲは、ソビエト連邦のスパイで・・、
  ドイツの有力新聞「フランクフルター・ツアイトング」
 の記者という隠れ蓑が与えられた。
  1933年〜1941年にかけて、ゾルゲ諜報団を組織し、日
 本で諜報活動を行い、朝日新聞記者だった尾崎秀実もゾ
 ルゲ諜報団だった。
  ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、
 ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。
  イギリス警察が、1933年5月に、ゾルゲをソ連のスパイ
 とほぼ断定した。
  ソ連は、頑なに自国のスパイではないと言っていたが、
 1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が
 授与され、その働き・スパイ行為を評価した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive