(増補版)421E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年1月〜1886年2月)

題:(増補版)421E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年1月〜1886年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年1月1日、正貨兌換を開始する(銀本位制)
  1886年政府紙幣の銀兌換開始と書いてある史料が多
 いのですが、
  (注) 何と!・・
  日本銀行金融研究所貨幣博物館のホームページには、
 1885年(明治18年)、日本銀行券(兌換銀券)の発行開
 始→銀本位制度確立へ・・と書かれている。
  そして、説明文に・・、
  1885 年(明治18年)5月、最初の日本銀行券が発行さ
 れ、これにより中央銀行としての日本銀行の基礎が整っ
 た。
  日本銀行券は、『兌換銀行券条例』により、銀貨兌換
 を行う兌換銀券とされ、また、銀行券発行高に対し、相
 当の銀貨を置き引換え準備に充てることが求められた。
  日本銀行券は、広く受け入れられ、その流通高は、順
 調に増加していき、紙幣に対する信用は回復した。
  そして、日本銀行券による紙幣統一へと向かい、また、
 銀本位制も確立し、
  幕末以来の貨幣制度の混乱に終止符が打たれることに
 なった・・とある。
1886年1月1日、定期券の発売
  新橋〜横浜間の鉄道定期乗車券が初めて発行(発売)
 された。
  日本における鉄道定期乗車券の発行は・・、
  1873年明治6年)5月、新橋〜横浜間の上等車旅客に
 対し、3か月(のちに90日)の「常乗切手」を120円(この
 区間の片道運賃は1円12銭5厘)で発行することを計画し
 たのが最初だった。
  そして、この計画は、1873年6月5日、太政大臣から正
 式に認可も受けたが、実施前になぜか中止となって実際
 には発行されなかった。
  次いで、1874年(明治7年)7月、大阪〜神戸間の上等、
 および、中等旅客に対して3、6、9、12か月の「期限切
 手」が計画され、
  1874年7月18日に、伊藤工部卿から認可されたが、こ
 ちらも実施には至らなかった。
  実際に、定期乗車券が発売されたのは、1886年(明治
 19年)1月1日、「定期乗車券発行規約」の実施により、
 上等、および、中等の旅客に対し、1、3、6、12か月の
 4種類を新橋〜横浜間の特定の駅間(全部の駅間相互では
 ない)で発売された。
  1890年(明治23年)7月には、新橋、および、横浜を中
 心に発売範囲が拡大された。
1886年1月9日、修史館を廃し、内閣に臨時修史局を設置し
 た。
  明治の新政府によって、正史(国家史)の編纂事業が
 行われた。
  1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発した。
  そして、『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明
 した。
  1876年には、修史局の編纂による『明治史要』第1冊が
 刊行された。
  しかし・・、
  1877年に、財政難のため修史局は廃止され、代わって
 太政官修史館が設置された。
  また、この際、『大日本史』(神武天皇から南北朝
 一までを対象とする)を、準勅撰史書と定め、
  編纂対象も、南北朝以降の時代に変更された。
  この修史事業に携わっていたのは、「修史の詔」が、
 漢文による正史編纂を標榜していたように、基本的に漢
 学者であった。
  1875年以降、修史局の幹部であった重野安繹は、
  1880年、『東京学士会院雑誌』に「国史編纂の方法を
 論ず」を発表し、
  清代考証学の伝統を引く実証的方法論を主張した。
  しかし、このような方法論をめぐって、修史館内部に
 意見の相違があり、
  1881年の機構改革に際し、川田剛・依田学海が、修史
 館を去った。
  背景には、彼らと、重野・久米邦武・星野恒との間に
 編纂方針をめぐる対立があった。
  以後、修史事業は、重野・久米・星野を中心に行われ、
  1882年に、漢文体編年修史『大日本編年史』の編纂事
 業が開始された。
  重野らは、『太平記』の史料的価値の否定、ひいては、
 『太平記』に依拠する『大日本史』の批判を行うように
 なった。
  (『太平記』で活躍する忠臣・児島高徳の実在を否定
 したことで、重野は「抹殺博士」と揶揄された)
  その急進的な主張は、修史事業において、非主流派の
 位置に追いやられた国学系・水戸学系歴史家との対立を
 激化させた。
  この間、修史館は、いくつかの改編を経て(1886年
 修史館を改組し、内閣に臨時修史局を設置)。
  1891年、帝国大学東京帝国大学の前身)に移管、最
 終的には同大学の史誌編纂掛となり、
  また、1889年に、修史事業の柱の1つと目されていた
 『復古記』(王政復古関係史料集)が完成した。
1886年1月11日、政治学者で、法律学者の小野梓(おのあづ
 さ) が没した(35歳)
  東京専門学校(後の早稲田大学)の創立に参画した。
  著作に「国憲汎論」などがある。
1886年1月16日、機構改変に伴って、佐渡・生野・三池の鉱
 山事務を大蔵省へ移管した。
  明治維新で官行(政府が国費で行う)が決定された三
 池炭鉱、佐渡鉱山、生野鉱山は、海外からの近代的技術
 を導入して再活性化した。
  この3山以外で官行であった鉱山は、1885年末の工部省
 の廃省の直前に払い下げられた小坂、阿仁、釜石だった。
  この経過で残った3山は、工部省廃省以後、農商務省
 を経て、この時・1886年1月、大蔵省の所管となって、官
 行が続行となった。
  その後、1888年に、三池炭坑の払下げが決まったが、
 生野、佐渡は存続が決まった。
  1889年、佐渡とともに皇室財産に編入され、宮内庁
 料局の所管となり生野支庁と改称された。
  (参考:桃山学院大学世界遺産の予備調査研究論文)
1886年1月26日、北海道の3県を廃止し、北海道庁を開設し
 た(長官は岩村通俊)
  1882年2月8日の開拓使廃止に伴い、函館県(はこだて
 けん)・札幌県(さっぽろけん)・根室県(ねむろけん)
 が設置された。
  また、北海道には、この3県のほか、北海道事業管理局
 (農商務省の一部局)が設置されていた。
  3県と事業管理局は、この時・1886年1月26日の北海道
 庁設置に伴って廃止された。
  3県、及び、北海道事業管理局を統廃合して、内務省
 轄の北海道庁に移行することになり、
  3県はその役目を終えた。
  なお、旧函館県、及び、根室県の組織は、そのまま北
 海道庁函館支庁、及び、根室支庁として・・
  1890年11月5日の支庁制移行まで継続される事になった。
  (札幌に本庁、凾館と根室が支庁)
  尚、1893年(明治26年) に、郡司成忠や白瀬矗以下の開
 拓事業団千島報效義会が、北千島の占守島、および、幌
 筵島、捨子古丹島、越渇磨島に越冬部隊を送っている(
 日本固有の領土である)
1886年1月28日、ハワイとの間に渡航条約が調印された。
  日本は、ハワイ王国を国として接していた。
  この条約は、日本とハワイ王国間の条約であり、
 通称・略称は、日布移民条約、日布移住民条約と言う。
  そして、この条約は、ハワイに労働移民した日本人の
 人権を守ることを目的として、国としてのハワイ王国へ、
 お願いし、約束したものだった。
  裁判における通訳の用意や、日本医師の雇い入れなど
 も書かれていた。
  ハワイへの移民は、急増するサトウキビ畑や、製糖工
 場での労働であり、1830年頃より始められていた。
  そして、1876年には関税が撤廃され、移民する人も増
 え始めた。
  移民は、中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、ス
 コットランド、プエルトリコなど様々だったが、
  日本人の移民が最も多かった。
  日本からの移民は、1868年から開始されていて、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が、日本人移民だ
 った。
  卑劣な事に、1924年に、アメリカは排日移民法を成立
 させた。
  (ハワイは、1898年に、アメリカの手に落ちていた)
  このアメリカ時代に作られた卑劣な差別主義の排日移
 民法の成立で、日本人移民が停止させられる時までに、
 約22万人の日本人移民がハワイへ渡っていた。
  日本は、すでに、1860年(万延元年)に、日本の遣米
 使節団がハワイに寄港した時、ハワイ王国の王であるカ
 メハメハ4世から、労働者供給を請願する親書を信託され
 ていた。
  そして、さらに続いて、ハワイ王国のカメハメハ5世は、
 在日ハワイ領事を置いていて・・、
  (日本は、ハワイ王国を立派に成立している国として
 認め、領事まで置かれていた)
  領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リ
 ードに、日本人労働者の招致について、日本政府と交渉
 するよう指示した。
  ヴァン・リードは、徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分
 の渡航印章の下附を受けた。
  そして、公式のハワイ王国への移民が始まった。
  国と国との立派な行為がなされていた。
  ハワイ王国の領事ヴァン・リードが、1868年(明治元
 年)に、サイオト号で、153名の日本人をホノルルへ送り
 出した。
  このハワイ王国との公式の初の日本人移民は、『元年
 者』と呼ばれた。
  日本とハワイ王国とは、この様に、古くから立派に成
 立する国交を開いていた。
  ハワイ王国は立派に成立した国だった。
  そして、何故か?・・
  この様に、立派に国として活動していたハワイ王国が、
  このハワイ王国の国民・原住民の方々が、アメリカの
 統治になった後に、伝染病が流行し、原住民の方々は激
 減した。
1886年1月31日、日本政府は、朝鮮政府と、絶影島地所借入
 約書を調印した。
  絶影島(ぜつえいとう)は、韓国の南端、釜山港の湾
 口にある島で・・、
  日本人の荒木嘉作は、所有地を持っていた。
  日本は、この島に貯炭庫を設けるため絶影島地所借入
 約書を結んだ。
  (今、北海道や、対馬や、沖縄や、その他にある外国
 に買われた地に・・外国が、国として・・何をするのか? 
 何が起きるか?)
  因みに、1898年1月21日に、ロシア軍艦が、この島に
 入港し・・、
  絶影島にある日本人・荒木嘉作の所有地に、勝手に、
 松や杉などの苗を植え付け、
  さらに、貯炭庫を設置しようとして・・問題が起きた
 (絶影島問題、または、絶影島貯炭庫設置問題という)
  この時、日本との契約が立派に存在していたが・・、
 大韓帝国外務大臣であった露国派の閔種默は、独断で、
 ロシアに借入を許容した。
1886年2月5日、宮内省官制が公布された。
  宮内庁は、天皇陛下に近侍した古代からの官職をその
 淵源(えんげん、物事の起こり基づくところ)とするも
 ので・・、
  日本最古の歴史書とされる『日本書紀』の680年(白鳳
 9年)の条に、「宮内卿」「宮内官大夫」の官職が記述さ
 れている。
  また、686年(朱鳥元年)の条には、天武天皇の葬送に
 際して「宮内事」を誄(しのびごと、死者の生前の功徳
 をたたえて哀悼の意を述べる言葉)したとあり、
  天武天皇の時代には、原型となる官職が形成されたと
 考えられている。
  そして、この時・1886年に、この公布によって、2課5
 職6寮4局の組織が定まった。
1886年2月9日、松本大火。
  放火による大火だという。
  1100戸が焼失した。
  まだ明けやらぬ、午前3時、北深志鍛冶町の山辺小路か
 ら出火した炎は、折からの南の強風に乗ってたちまちの
 内に風下に燃え広がった。
  まず、餌差町から上横田町、下横田町へと延び、
  観音小路、東町、和泉町、出居番町、捨堀町、安原町
 をひと舐めにして、
  天白町から下町、下々町、上下丁、東ノ丁、西ノ丁な
 ど、北深志の大半を灰にして・・午前7時鎮火した。
  焼失面積は、東西5丁(545m)、南北15丁(1635m)の890
 平方km。
  民家999戸、そのほか松本座、正行寺、奮惠光院、妙光
 寺、天白稲荷が焼失した。
1886年2月10日、平塚らいてう、生誕
  大正・昭和期の評論家で、婦人運動家。
  東京都麹町の生まれで、本名は、奥村明(はる)
  筆名は、雷鳥をかな書きしたもの。
  1903年(17歳)日本女子大学校(→日本女子大学)入
 学し、哲学書に親しみ、参禅し、自我を追求する。
  1906年(20歳)、卒業。
  1908年(22歳)、文学講座を通じて知り合った作家の
 森田草平と心中未遂事件を起こし、物議をかもし、夏目
 漱石に衝撃を与えた(森田草平事実婚?)
  1911年9月(25歳)女性文芸誌「青鞜」を創刊する。
  創刊の辞に「元始、女性は太陽だった」は、今日に繋
 ぐ女権宣言となった。
  以後『青鞜』は、女性解放思想の拠点となった。
  そして、女性の解放と新しい女の生き方を示した。
  1914年(28歳)、5歳年下の画学生・奥村博史と、法律
 によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけた。
  エレン・ケイの『恋愛と結婚』翻訳を契機に、その思
 想に共鳴し、育児を社会的仕事と位置づけ、母性の尊重
 を主張した。
  1918年(大正7年)(32歳)与謝野晶子山川菊栄らと
 『婦人公論』誌上で、母性保護論争を展開した。
  第1次世界大戦後の1920年(1919年?)(34歳)市川
 房枝・奥むめおらと、女性の地位向上を目ざす新婦人協
 会を結成し、婦人参政権運動を展開した。
  1925年の昭和初期のころ(≒39歳)アナーキズムに接
 近するなどした・・、
  1930年(昭和5年)(44歳)高群逸枝らの無産婦人芸術
 連盟に参加、『婦人戦線』に関与した。
  また、協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組
 合を設立した。
  第2次大戦後は、再軍備反対の声明発表など、反戦・平
 和運動に尽力した。
  婦人団体連合会初代会長、新日本婦人の会代表委員な
 ども歴任し・・、
  終焉まで、女性解放運動の先頭に立った。
  1971年5月24日、没する(85歳)
  著作に、「平塚らいてう著作集」全7巻・補1、「円窓
 (まるまど)より」「わたくしの歩いた道」など。
  自伝「元始、女性は太陽であった」
  漱石の「三四郎」に登場する美禰子のモデルとも言わ
 れた。
  (参考)アナーキズム(anarchism):一切の政治的、
    社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立
    を望む考え方。無政府主義
1886年、2月20日石川啄木が生誕した。
  石川一(啄木、いしかわたくぼく) が生まれた(〜1912
 年4月13日)歌人、詩人。
  岩手県岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)
 に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)
 と母・カツの長男として生まれた。
  1887年(明治20年)3月、1歳の時に、父が渋民村(現
 在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにとも
 なって一家で渋民村へ移住する。
  1898年(明治31年)(12歳)岩手県盛岡尋常中学校で
 学んだ。
  3年先輩に、金田一京助が居た。
  また、10年後輩には、宮沢賢治が入学する。
  中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の金田
 一京助らと知り合う。
  『明星』を読んで、与謝野晶子らの短歌に傾倒し、
  また、上級生の野村胡堂らの影響を受け、文学への志
 を抱いた。
  短歌の会「白羊会」を結成したのも・・この頃、
  1901年(明治34年)12月(15歳)から翌年にかけ、友
 人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、
  啄木の作品も、「翠江」の筆名で掲載され、
  これが初めて活字となった啄木の短歌だった。
  1905年5月3日(19歳)出版費用を自分でも集めた第一
 詩集『あこがれ』を、小田島書房より出版した。
  上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文(ばつぶん、
 書物の本文の後ろに添える文章)が寄せられた。
  1905年5月12日(19歳)啄木は不在だったが、堀合節子
 との婚姻届を、父親が盛岡市役所に出す。
  この時、啄木は親戚が集まった結婚式に出席しなかっ
 た(形式的だからという?)
  1906年明治39年)3月4日(20歳)妻と母を連れて渋
 民村に戻った。
  1906年4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員として
 勤務。
  1906年4月21日、徴兵検査。筋骨薄弱で、徴集が免除
 された。
  1906年6月、小説を書き始める。
  1906年12月29日、長女・京子が生まれる。
  1907年(明治40年)4月1日(21歳)、新生活を北海道
 で開こうとし、教職を離れることを決意し、退職する。
  1907年8月25日の函館大火により、勤務先の小学校・新
 聞社がともに焼失する。
  1908年4月28日より東京・千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。
  1908年5月2日(22歳)、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外
 宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。
  1908年5月4日、中学で一学年上(3年?)だった金田一
 京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、
  生計のため、小説を売り込むが、成功せず。
  逼迫した生活。
  1908年6月23日〜25日にかけて、「東海の小島…」「
 たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌
 を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に
 発表する。
  金田一は、自身が結婚するまで、友人として啄木に金
 銭を含むさまざまな支援をしている。
  1908年11月、『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。
 『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備に
 あたる。
  1909年6月16日(23歳)、函館から妻子と母が来て、本
 郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移った。
  啄木の幸せな時は、この『一瞬の様な数年』だったと
 感じる。
  1909年12月に、父も同居するようになる。
  1910年9月15日(24歳)『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」
 が作られ、その選者となる。
  1910年10月4日、長男・真一が誕生したが、27日に病死
 する。
  1910年12月、第一歌集『一握の砂』を、東雲堂より出
 版する。
  1911年9月(25歳)宮崎郁雨(みやざきいくう)が、
 節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送
 ってくれ」とあったのを読み、
  これを妻の不貞と採った啄木は、節子に離縁を申し渡
 すと共に、
  郁雨と絶交することを告げた。
  1911年9月16日付の啄木の妹・光子宛の葉書では、こ
 の事件を「不愉快な事件」と記している。
  1912年(明治45年)3月7日、母・カツ死去。
  1912年4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町にて肺
 結核のため死去。
  妻、父、友人の若山牧水に看取られている。享年26歳。
  (参考)宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年4月5日
    〜1962年3月29日)、日本の歌人
    本名は、大四郎(だいしろう)
    石川啄木夫人・節子の妹の夫。
    啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支
   え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発
   足させるなどの実績がある。
    啄木を函館日日新聞社に紹介し、遊軍記者として
   勤めさせているが、在籍期間は8月18日〜25日の8日
   間であった。
    1908年4月、啄木が上京するにあたって、郁雨は、
   啄木の家族を託され面倒を見る。
    そして、この年、郁雨は正八位に叙せられている。
    1909年10月26日、啄木夫人・節子の妹・堀合ふき
   と結婚、啄木とは義理の兄弟の関係となる。
    金額的に、一番、この郁雨が、啄木を支えていた。
    1913年4月13日の啄木一周忌に、函館図書館長の岡
   田健蔵と、啄木追悼会を開き、函館の立待岬に墓碑
   「石川啄木一族の墓」を建て遺骨を移す。
    節子未亡人の依頼もあり、啄木の遺品を納め、函
   館図書館啄木文庫を作った。
    1927年6月、郁雨は、弘文社より『啄木書翰集』
   (石川啄木著)を編集、刊行した。
    1940年(55歳)功により勲六等瑞宝章を授与され
   た。
    1956年(71歳)函館の郷土雑誌「海峡」に啄木関
   係の記事の執筆を始める。
    1958年(73歳)函館市文化賞を受賞。函館図書館
   に「啄木を語る会」を発足させ、毎回出席し講演す
   る。
    1961年(76歳)啄木50回忌記念として森屋より『
   函館と啄木』を阿部たつを、田畑幸三郎との共編で
   刊行する。
    1962年3月29日午前0時10分に生涯を閉じた。
   享年78(満76歳没)
    宮崎家の墓は、函館の立待岬の「啄木一族の墓」
   に寄り添うよう建てられている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ、中国、韓国は・・プロパガンダする。
.
1876年(明治9年)、日朝修好条規が結ばれた。
  明治となった日本は・・、すぐ隣の国=朝鮮と国交を
 結ぼうとした。
  実際、江戸時代には、日本と朝鮮は、良好な関係にあ
 ったからだった。
  しかし、中国・清朝朝貢(ちょうこう)をしていた
 朝鮮は、外交関係を結ぶ事を拒絶した。
  しかし、この年・1876年に、日朝修好条規が結ばれた。
  その第1条に、「朝鮮国は自主の国」であるというた
 った。
  そして、「日本と平等の権利を有する国家と認める」
 とうたった。
  朝鮮にとって清朝は恐ろしい国だった。
  しかし、それ以上に恐ろしい大国は、不凍港が欲しい
 というロシアだった。
  ロシアは、1891年に、シベリア鉄道の建設に着手し、
 その脅威は朝鮮半島に迫っていた。
  東方へ領土を拡大しつつあるロシアだった。
  条規がととった朝鮮は、日本にならって近代化の道を
 歩み始めた。
  朝鮮からも日本へ視察団が訪れた。
  明治維新の日本の成果を学んだ。
  朝鮮は、他国から犯されないように軍制改革にも取り
 組み始めた。
  種々の改革に、日本は朝鮮を援助した。
.
  そして、この国交が整ってから、時が下って・・
.
1910年、日韓の併合がなされた。
  色々と悪くプロパガンダされる日韓併合だが・・、
  下記のブログが真実を伝える史料だと思います・・、
  http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm
  申し訳ないですが、当時の朝鮮の方々は、ひどい貧困
 にあえいで居られました。
  当時を語る朝鮮のご老人が・・
 「日本人はとても親切な人たちだった」と言われる。
  『生活者の日本統治時代』(三交社)という本にも、
 写真と共に朝鮮の庶民の方々の言葉が残されている。
  プロパガンダされて無い真実の言葉が残されている。
  今、アメリカや、韓国・中国が、盛んにプロパガンダ
 しているが・・、
  結局、結びの言葉は・・
  「朝鮮人と日本人は仲良く生きていた」・・だった。
  そして・・、
  韓国の加耶大学(かやだいがく)客員教授・崔基鎬(
 チェケイホ)氏の本「日韓併合」によれば・・、
  教授が、1910年の日韓併合に至るまでの経緯を研究し
 て来て、
  色々、おかしな洗脳(プロパガンダ)が韓国で行われ
 ているという・・、
  現在の韓国の教科書が教えている事と、日本の統治時
 代の実態とは、あまりにもかけ離れている・・と言う。
  そして、韓国の歴史観は、歪曲が甚だしいと言う。
  独りよがりで、被害者意識に凝り固まり、事実をとら
 えようとはしていない・・と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「この様な発言をすると・・、韓国で、日本の統治時
 代の日本の統治について、肯定的にとらえようとするの
 は相当の覚悟がいる」と言う。
  そしてまた、「極端な話、身の危険も覚悟しなければ
 ならない」・・と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「作家の李光洙氏が言うように・・、
  韓国の民族の最大の欠点は『嘘つきで、人をだますこ
 と』だと言う。
  そして、この様なことが、「歴史の歪曲、身勝手な解
 釈は、韓民族の宿痾(しゅくあ、長い間治らない病気)
 であり、
  これがもとで、幾度、実態を見誤り、国を滅ぼしてき
 たかしれない。
  感情に流される事なく、歴史に何があったかを正しく
 見つめ、
  そこから教訓をすくい取るという事が、この国(韓国)
 にはあまりにも欠けている。
  簡潔に言えば、李朝に、500年にわたって支配されて来
 た併合前の朝鮮半島の実態を、(韓国を含む朝鮮半島
 人々は)、余りにも知らなすぎる。
  最も分かりやすい例で言えば、21世紀のこの時代にあ
 って、当時の大多数の国民が飢餓に苦しむ、専制独裁国
 家を思い起こすと良い。
  (今の)北朝鮮は、李氏朝鮮のまさにクローンである。
  戦後、日本時代の遺産をすべて壊し、元の姿に戻った
 に過ぎない。
  仮に今、日本が、北朝鮮を併合して統治するとなれば、
 金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙(ずいきのなみだ、
 うれしさのあまり、あふれ出る涙)を流すに違いない。
  その北朝鮮に同情を示し、呼応して、「反日・反米」
 を叫んでいるのが韓国であり、
  近年、その傾向は強まる一方だ。
  何が本当で、何が嘘か、誰が見方で、誰が敵か、
  嘘で固めた歴史観では、正当な判断力が養われる訳が
 ない。
  これは、歴史で何度も繰り返された亡国のパターンで
 あり、
  私は早くから『このままでは韓国はつぶれる』と唱え
 て来たが、
  その危機がいよいよ近づいてきたことを感じずにはお
 られない。
  いかにして、真実を究明するかの理由がここにある・・
 と、崔基鎬教授は言う。
  因みに、加耶大学は、慶尚南道金海市に本部を置く大
 韓民国の私立大学。
.
1910年、日本の朝鮮(大韓帝国)への財政負担
  1910年:2500万円
  日本人は本当に優しい国民性を持っている。
  この様な大金を、毎年、朝鮮へ与えた。
  財政的に厳しい明治政府が、日本人の血税から分け与
 えた。
  日教組は、日本は侵略国家だと言い、子供たちに擦り
 込み教育をして洗脳しているが、全く事実は違う。
  そして、この金額がいかに大金かは、朝鮮の税収入の
 倍の金額だと言われればお分かりと思います。
  日本は、朝鮮の国の税の収入の2倍のお金を渡していた。
  日本が完全に支えていた。
.
  そして・・、
.
1910年、韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授は自
 著に以下のように書く・・、
  題:『総督府による治山治水事業』・・、
  (日本の作った)朝鮮総督府は、土地調査事業が終わ
 ると、続いて米穀および雑穀・綿花など、立ち遅れた朝
 鮮の農村を、日本の農村並みに振興させるために、昼夜
 を分かたぬ努力を傾注した。
  その最大のものが治水事業である。
  当時の朝鮮は、禿(はげ)山ばかりで、赤土だけが山
 の表面を覆い、雨が降れば保水能力はなく、河川の下流
 域は、すぐに洪水に見舞われた。
  ソウル市内も、今のソウル駅近くの葛月洞(カルウオ
 ルドン)まで、漢江の水があふれ、四方は海と化した。
  山野の草木は、すべて燃料のために刈り取られ、
  植林はほとんどなされず、
  森林が残ったところは、鴨緑江豆満江(とまんこう)
 流域のみで、人間の通れない原生林と墳墓周辺を除くと、
 荒涼たるはげ山ばかりであった。
  朝鮮半島日本海側は、豆満江を除いて、河川の流路
 は短く、東シナ海に注(そそ)ぐ河川は大河が多い。
  だが、600年以上、治山も治水も本格的に行われたこと
 がなく、ほとんどが自然のまま放置されていた。
  歴史的には、新羅時代(1500年前)の「碧骨堤」とい
 う大堰堤(えんてい、全長1800歩)が作られ、
  その後、修築もあったが、李朝末期になると、国土が
 荒廃し、以前の堰堤も、遺跡しか残っていないという状
 況であった。
  李朝の歴史記録には、堰堤・堤防の施設は、朝鮮半島
 で2万4000ヶ所以上といわれているが「万石堤」という貯
 水池以外、実態は何も見えない。
  農業用の灌漑(かんがい)施設は、大かた、腕力によ
 る流水のくみ上げしかなく、
  足踏み水車すらほとんど見る事が出来なかったから、
 一般には「天水水田」といって雨水に頼り、極めて原始
 的な農業が行われていた。
  道路・河川・林野・港湾が、自然のまま放置されてい
 たのは、李朝末期の財政破たん、国政紊乱(びんらん、
 秩序・風紀などが乱れること)によるものである。
  朝鮮総督府は、治山治水のための砂防工事、山林復活、
 農作物増産のための技術改革に着手し、
  1915年からは治水調査システムをスタートさせ、気象・
 水位流量・修改築予定区域の実測調査も施行した。
  土地の所有権、地価、地質、地形、土地の模様などの
 正確な調査の結果、多くの『隠し田』が発見され、耕地
 面積は倍増し、したがって課税額も倍増となった。
  近代国家建設に不可欠の事業であったが、これが「隠
 結=脱税」という長年の因習に慣れた両班層にとっては、
 不平の種なったことはいうまでもない。
  (参考)両班:りょうはん、高麗・李氏朝鮮王朝時代
    の官僚機構・支配機構を担った身分階級。
  何しろ李朝下では、住民から徴収する税金額の9割は途
 中でなくなるのが普通だった。
  例えば、住民から3000万円の税金を徴収したら、国に
 納める納税額は300万円が相場だった。
  それでも、官僚の責任が追及されなかったのは、その
 上の王族と族戚政権が売官買職に狂奔(きょうほん)し
 ていたからで、
  彼らに任命された官僚たちによる横領ぐらいの事は、
 問題にされるはずもなかった。
.
  1910年の朝鮮の米穀生産高は、1040万6000石であった
 が、
  1918年には、1529万4000石(47%増)、
  1931年は1587万3000石(53%増)と、年々増産の一途
 をたどっている(驚くべき増収である)。
  朝鮮総督府の産米増産計画(1920年〜1934年)は、当
 時の日本・朝鮮の人口急増に伴う食糧問題を解決するた
 めの国策事業であったが、
  日本が、「働かざる者、食うべからず」という勤労精
 神を植え付けたことは、李朝500余年、不労所得層が農民
 を支配し、労働とは最も軽蔑するものと教え込まれてき
 た朝鮮住民にとって、精神的な大革命であり、ルネッサ
 ンスでもあった。
  大部分の住民たちは、この様な日本の農工業振興策、
 及び、金融政策に共鳴し、感謝の心で積極的に協力した
 ことは、勿論である。
  この期間に植え付けられた正しい勤労精神によって、
 今日の韓国という経済先進国を建設する事もできたのは、
 まぎれもない事実であった。
  何しろ李朝では、両班に属し、科挙試験に合格した官
 僚たちが、生産的勤労には絶対に就かないばかりか、空
 理空論を振りかざすばかりで、
  毎日の享楽生活を保証する王朝への恩義など、まった
 く感ずることもなく、批判するばかりであったのだから。
  李朝518年と、その後の日韓合邦期を通じても、この
 「ゾンビ」は生き残り、空理空論にふける習性は、今日
 でも変わっていない。
  第二次大戦後、再び、この連中が甘言利説を尽くして
 政権を取るようになると、
  祖国近代化に献身的に尽力し、祖国の工業、商業、政
 治、経済発展に貢献した真の愛国者を民族反逆者とみな
 し、
  自分は何も仕事をしないで他人を法網にかけたり、前
 科物を愛国者だと褒(ほ)め称(たた)えたりして今日
 に至っている。
  国のためにはなにもした事もなく、法に違反した前科
 者だけが、愛国者として待遇されるのが韓国の実態であ
 ることは、周知の事実である。
  ・・崔基鎬(チェ・キホ)教授は、上記の様な事を、
 自著に書かれている。
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