(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月〜1887年4月)

題:(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月〜1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年4月26日、第26回 條約改正會議で、改正案が成立し
 た。
  第二十六回条約改正会議で、裁判管轄に関するイギリ
 ス・ドイツ案を修正して議定(ぎじょう、合議してこと
 を決めること、また、その評議)した。
  その内容は、領事裁判権を撤廃する・関税自主権の一
 部を回復する(輸入税率を5%から10%に引き上げる)
  代わりに、次のことを実行する。
  (1)批准後2年以内に、日本内地を外国人に開放する。
  ハリスとの条約では、横浜・神戸などの居留地以外で
 は、外国人は、居住・通商・不動産所有は禁止されてい
 た。
  領事裁判権も、居留地のみに適用としていた。
  井上案によると、外国人に内地雑居の地を認める。
  つまり、どこでも居住・通商が出来ることになる。
  (2)そのために、外国人にも通用する西洋主義によ
   る法典を編纂する。
  そのためには、日本の国家主権が制限される。
  (3)内地雑居の地で起きた外国人が関係する事件では、
    すべての裁判所で、外国人判事・検事を半数、任
    用する・・というものだった。
1887年4月26日、九代目市川団十郎井上馨邸にて「勧進帳
 を演じ、栄誉に浴した。
  東京.麻布鳥居坂井上馨邸で、明治天皇陛下が歌舞
 伎を観覧された。
  初めての天皇陛下の演劇観覧だった。
  また、井上の他にも、伊藤博文松方正義などの元老
 などの国内外の関係者が観劇し、演目は「勧進帳」のほ
 かもあった。
  これによっても、歌舞伎の高尚化が進み、歌舞伎役者
 の社会的地位も良くなり、
  近代歌舞伎が、国劇の地位を確保する大きな転換点と
 なった。
  政府側も、欧米に文明国・日本を印象付けるため、内
 外上流社会の社交場として、外国大使らを招く国際的な
 観光行事として取り組んだ。そして、
  天覧劇への外国要人の招待は、不平等条約改正を図る
 「鹿鳴館外交」の一環とされた。
1887年4月28日、農業の振興に大切な化学肥料・・、
  東京人造肥料会社が設立された(2月説あり)
 後の大日本人造肥料、そして、日産化学工業株式会社へ。
  同社のホームページより、以下その沿革・・、
  1887年(明治20年高峰譲吉渋沢栄一、益田孝ら明
 治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である
 東京人造肥料会社として創業した。
  その後、関東酸曹株式会社、日本化学肥料株式会社等
 を合併し、
  そして、大日本人造肥料株式会社に商号変更、
  1937年(昭和12年)に、日本産業株式会社傘下の日本
 化学工業株式会社に資産等を包括譲渡したのちに、現在
 の社名である日産化学工業株式会社に改称した。
  最初の工場は、現在の江東区大島1丁目に建造され、い
 まも跡地の公園には当時を偲ぶ記念碑がある。
  1887年(明治20年)2月、東京人造肥料会社(のちの東
 京人造肥料株式会社)設立
  1889年(明治22年)7月、日本舎密製造会社(のちの日
 本化学肥料株式会社)設立
  1891年(明治24年)3月、日本舎密製造会社小野田工場
 (現在の当社小野田工場)完成
  1895年(明治28年)12月、合資会社王子製造所(のち
 の関東酸曹株式会社)設立
  1897年(明治30年)11月、関東酸曹株式会社王子工場
 (のちの当社王子工場)完成
  1907年(明治40年)12月、東京人造肥料株式会社小松
 川工場(のちの東京日産化学株式会社)完成
  1910年(明治43年)7月、東京人造肥料株式会社が大日
 本人造肥料株式会社と改称
1887年4月30日、法律顧問ロエスレル「日本帝国憲法草案」
 を提出する。
  政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレルが、法
 制局長官の井上毅に、独文での憲法試案を提出した。
  ロエスレルは、1878年、当時の駐独公使・青木周蔵
 周旋によって、外務省の公報顧問として招聘された。
  ロエスレルは、1834年、ドイツ・バイエルン地方のラ
 ウルに、弁護士の子として生まれた。
  カール・フリードリヒ・ヘアマン・ロエスレルは、エ
 ルランゲン大学やチューリッヒ大学で、法学や国家学を
 学んだ後、
  ロストック大学の教師となると、
  1861年に、27歳の若さで同大学の国家学教授となった。
  1878年に、訪日するまでその地位にあって、イギリス
 の経済学者アダム・スミスを批判した書や、社会行政法
 に関する書を著し、学界の指導者として知られていた。
  ドイツ公使だった青木周蔵のあっせんにより、外務省
 の法律顧問として訪日したロエスレルは、
  1881年3月ころから、民法の起草をするかたわら、
  岩倉具視の知恵袋といわれ、
  のちに、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者のひとり
 となる井上毅に、ドイツ(プロイセン)流の君主主義的憲
 法の採用をアドバイスした。
  一方、大隈重信は、イギリスにならった開明憲法
 つくるように政府に提案したが、
  同年・1881年7月、岩倉によって憲法制定の根本方針は、
 ドイツ的立憲主義とすることが上奏され、
  他の事件とのからみもあって大隈は罷免された(明治
 十四年の政変)。
  その後、ロエスレルは、内閣顧問に抜擢(ばってき)
 されて、伊藤博文の信任を得た。
  1886年秋ごろから、伊藤の私邸で、伊藤、井上、伊東
 巳代治、金子堅太郎を中心に大日本帝国憲法の草案作成
 が極秘のうちに着手された。
  ロエスレルも、私邸近くに宿泊して助言を求められた。
  1887年夏に、「日本帝国憲法草案」ができあがったが、
 その草案の多くは、ロエスエルが、4月に提出した私案の
 大半が採用されたと言われている。
  そして、「日本帝国憲法草案」は、そのまま受け入れ
 られ、
  1889年に発布され、1890年に公布された。
  その後、ロエスレルは、商法を起草したが、民法とと
 もに施行延期となっている。
  1893年に帰国し、翌年・1894年に、妻子の住むオース
 トリアに移り、亡くなった。享年60歳。
1887年4月、「対馬要塞」が建設を開始した。
  温江砲台・芋崎砲台・大平低砲台を起工した。
  そして、この年の9月に、大石浦砲台も着工した。
  翌年の1888年には、この4つの砲台が竣工している。
  対馬の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞。
  対馬中部の浅茅湾を防備するため、1887年4月から工事
 が開始された。
  この工事は、東京湾に次いで日本で二番目のもので、
 1888年10月までに、4砲台が竣工し、日清戦争を迎えた。
1887年4月、長崎海運局の前身となる長崎司検所が開所した。
1887年4月、三菱社社長岩崎彌之助が、大蔵大臣伯爵・松方
 正義に長崎造船局の払下げを申請した。
  1887年6月、代金45万9000円で許可を受け、長崎造船局
 は三菱社の所有となる。
  現在、三菱重工業長崎造船所となっているが、日本を
 支えて来た、そして、これからも支えて行くこの社の流
 れ(沿革)は・・、
  1857年(安政4年)江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設
    着手。
  1860年(万延元年)「長崎製鉄所」と改称。
  1861年文久元年)完成。
  1868年(明治元年)官営「長崎製鉄所」となる。
  1871年明治4年)工部省所管「長崎造船局」と改称。
  1879年(明治12年)立神第一ドック完成
  1884年明治17年)三菱経営となる。
    「長崎造船所」と改称。(三菱重工業は、この年を
    創業年としている。)
  1887年(明治20年)設備の払い下げを受ける。
  長崎県長崎市にある本工場(長崎造船所)、香焼工場、
 幸町工場と、諫早市諫早工場からなる。
  大型客船や大型タンカー、LPG船等の船舶のほか、発電
 プラント、環境保全設備、海水淡水化プラント等、多岐
 にわたる製品を製造している。
  本工場(長崎造船所)は、1857年(安政4年)に、日本
 初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として誕生し、江戸幕
 府から明治政府に管理が移った後、
  1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後民営の造船所
 として多数の艦船を建造した。
  戦艦「武蔵」を建造したことでも有名。
  戦後、三菱重工は3社に分割されるなど親会社は紆余曲
 折したが、本工場は賠償撤去指定工場を免れ存続する。
   一時期は受注も途絶え小型の漁船を細々と建造する
 有様であったが、
  1950年(昭和25年)の朝鮮戦争前後よりその高い造船
 技術を評価され 、
  以後オイルショック頃まで大型タンカー受注が続いた。
  現在は、民間船舶の他、海上自衛隊自衛艦も多数建
 造している。
  1950年代には、後甲板の傾斜に特徴的な設計を持つ護
 衛艦を多く建造し、護衛艦における「オランダ坂」の名
 前の由来となった。
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  (今日の言葉)
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  題:マッチポンプ・・アメリカ・・
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1980年9月22日、イラン・イラク戦争湾岸戦争)が起きた
 (〜1988年8月20日
  アメリカのブッシュ(父)大統領の時に起きた。
  因みに、ブッシュ(子)大統領の時には、イラク戦争
 (2003年3月20日〜2010年8月31日にオバマ大統領によっ
 て「戦闘終結宣言」が出された)が起きた。
  このブッシュ(父)大統領の時の「イラン・イラク
 争(湾岸戦争)」で、アメリカはイラクを応援した。
  そして、イスラエルは、イランを応援した。
  (アメリカは、なんだかんだとイスラエルを支援する
 という、両国は緊密関係にあるのだが・・?
  この緊密関係にある両国が、まったく敵対する違う国
 を、それぞれ応援するという・・不思議・・??)
  そんなことしたら・・そうしたら・・戦争はいくらで
 も続いてしまう。
  そこで、「これでは戦争は、いつまでも続くではない
 か??」・・と、伊藤貫氏が質問すると・・??、
  「そうだ、それでいいのだ」、
  「それが、我々の目的だ」、
  「それが、我々に都合がよいのだ」という返事が返っ
 て来たという・・??
  YouTube西部邁ゼミナール、文明の衝突と不介入主義
外交」の、14分00秒あたりから23分00秒あたりの発言。
  日中戦争(本当は、日・中米戦争)の当時、
  日本と中国の戦いだと思われたこの戦争も、陰でアメ
 リカが、れっきとした戦力(=アメリカ正規軍)で、日
 本と戦っていた。
  (日本とアメリカの戦争は、『真珠湾で始まった』な
 んていう話は真っ赤な作り話・・なのだ。
  この『日・中米戦争』で、既に、日本とアメリカは、
 戦争状態にあった。
  ただ、アメリカが、卑怯な事に、卑劣な事に、秘密に
 して、隠していただけ・・今は、明らかになっている事)
  そこで、日・中(米)戦争と書いたが・・、
  この日・中(米)戦争も、先ほどの伊藤貫氏の発言の
 如くの状況から、日・中(米)戦争が泥沼化して行った。
  アメリカが、汲めども尽きぬ無尽蔵の「金と武器」を
 中国へ注ぎ込み支援していた、隠れて流していた。
  これでは、戦争が終わる訳がない。
  この中国へ支援するルートを、「中国の蒋介石を支援
 するルート」という意味で「援蒋ルート(えんしょうる
 ーと)」と言った・・が・・、
  日本は、この存在を知って、これがあっては戦争は何
 時までも終わらない・・と、
  東南アジアにあったこの地域のこのルートを遮断しよ
 うと上陸した。
  アメリカは、この日本の行為を「侵略だ」と声を大き
 くして国際社会にプロパガンダ(嘘宣伝)し、
  (アメリカ軍だって上陸していて、こんな戦争の物資・
 武器を上陸させているのに・・だ)、日本を悪者に落と
 し、それ(日本)と戦うのが正義だとした。
  マッチポンプという言葉があるが、それは、「自分で
 火をつけておいて、火事だ火事だと騒いで、火事を消す
 行為」のことを言うが、
  アメリカは、まさしく戦争をこの様にして、そして、
 また、戦争を作って、行っていた。
  (注):伊藤貫氏の上記のYouTubeのURLは・・、
https://www.youtube.com/watch?v=529u9sljqXA&index=4&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  表題:文明の衝突と不介入主義外交・西部邁ゼミナール
  (参考)マッチポンプ:《(和)match+pomp(オランダ)》
    自分で問題やもめごとを起こしておいてから収拾
   を持ちかけ、何らかの報酬を受け取ろうとすること。
   また、その人。
    マッチで火を付けてポンプで消火するという二役
   を一人でこなす意。
    自分の利を得るためだけで、こんな卑劣な行為を
   する輩の行為。
    何ら世界や相手への思いやりなど微塵もない。
    理屈は何でもつくから「やりたい放題」だった。
  そして、この年に・・、
1980年代、ソ連は、経済の行き詰まり、官僚制による体制
 の硬直化が明らかになった。
  1985年にソ連共産党書記長になったゴルバチョフは、
 体制の危機を乗り越えるための「ペレストロイカ(改革)」
 に乗り出した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive