(増補版)510E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年4月〜1890年4月)

題:(増補版)510E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年4月〜1890年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年4月1日、外国人の不敬記事に打つ手なし(治外法権
  明治期、キリスト教関係の不敬事件が多発した。
  1889年6月、ニコライ堂尖塔不敬言説の流布(以降、
   1896年頃まで継続)
  1889年9月、明治学院の祭日休業問題
  1889年10月、石川県私立金沢女学校の大祭日登校問題
  1889年11月、同志社天長節祝賀問題
  1890年12月、代言人・有賀武雄の名古屋メソジスト教
   会脱会事件
  1891年1月、第一高等中学校、内村鑑三の不敬事件
  1892年1月、北海道典獄大井上輝前の御真影拝礼廃止事
   件
  1892年1月、熊本英学校教員奥村貞次郎の「眼中無国家」
   事件
  1892年ⅩⅩ月、青森県基督教伝道師の修身教育破壊事
   件
  1892年5月、金沢、基督教演説における小林光泰の天皇
   無宗教事件
  1892年6月、熊本県八代南部高等小学校生徒蓑田元卓の
   御真影不敬事件
  1892年11月、サンフランシスコ基督教育年会石川定邦
   の御真影不敬事件
  1893年1月、金沢市北陸英和学校阪野嘉一の勅語奉読不
   敬事件
  1893年2月、新潟市某耶蘇学校における御真影拝礼中止
   事件
  1893年4月、島根県立第一尋常中学校(松江中学校)生
   徒不敬事件
  1893年ⅩⅩ月、山口県山口の牧師・服部章蔵の親不孝
   事件
  1897年ⅩⅩ月、新潟師範学校長・村上浮光の基督教信
   者入学拒否事件
  ⅩⅩ年ⅩⅩ月、山口県教員某(基督教徒)の不敬事件
  1900年5月、『青年の福音』山川均・守田文治らの皇太
   子結婚不敬事件
  1907年3月、滋賀県立商業学校英語教師ヴォーリズ解雇
   事件
  1908年5月、名古屋市金城女学校における地久節不敬事
   件
  1912年46月、組合教会関東部会講演会における平田義
   道の楠公論事件
  当時の新聞「新愛知」の1908年6月15日には・・、
  「元来、ミッションスクールは、外国宣教師が侍道
 方便として設立せる学校にして、日本国民を薫育すべき
 学校としては半文の価値なし、いはゝ、耶蘇信者製造所
 なり、教育を看板に掲げてゴットの押売をする者なり」
  ・・とある。
  そして、1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布し、第
 28条に「信教の自由」が明文化したときは、キリスト教
 は喜んだ。
  そして、第一回帝国議会衆議院に11名のキリスト教
 徒が議員となっている。
  そして、上記を見ても分かる様に、天皇陛下の御存在
 が、一神教キリスト教の伝道の上で阻害する事にその
 問題の根本があった。
  一神教なるがゆえに不敬をするという行為が起きてい
 た。
  今・現在も、キリスト教は、そして、キリスト教国・
 アメリカは、この立場に居る。
  この事は、第二次世界大戦に勝利したアメリカが、戦
 勝国として「何でもする」という立場で、また、「何で
 もできる」という傲慢な立場で、日本に押し付けた論理
 だった。
  まったく強引な、そして、卑劣な・・自分の信仰の一
 方的な押し付けだった。
  この逆を、アメリカは、「少しでも考えたことがある
 のか?」・・と、問いたい。
  (京都大学佐藤八寿子氏の論文を参考にした)
1890年4月2日、橿原神宮(かしはらじんぐう)創祀。
  皇紀2550年、橿原神宮創建。
  (参考)創祀(そうし)と読み、「祀」は神様をまつ
     るという意味。
  橿原神宮は、奈良県橿原市にある神社で、旧官幣大社
  祭神は、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいす
 ずひめのみこと)がまつられている。
  社地は、神武天皇が即位した畝傍橿原宮(うねびのかし
 はらのみや)の跡。
  この地は、すでに元禄年間(1688年〜1704年)に、神武
 天皇の神廟を営もうとした。
  しかし、1888年橿原宮跡の考証ののち、民間より神
 社建設の請願があった。
  翌年・1889年、明治天皇陛下は、旧京都御所内の1855
 年(安政2年)建立の春興殿(内侍所)と神嘉殿を下賜され、
 それぞれ本殿、拝殿(1931年より神楽殿)として建設にあ
 たって、
  1890年、皇紀2550年を記念して、3月20日宮号宣下が
 あり、また、4月2日、官幣大社橿原神宮として鎮座にな
 った。
1890年4月4日、ラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)が来
 日した。
  ラフカディオ・ハーンは、英文学者で作家・随筆家。
  父はアイルランド人軍医、母はギリシア人で、ギリシ
 ャのレフカス島に、1850年に生まれた。
  1854年(4歳)の時、父母の離縁、その後、大叔母に養
 育され・・その大叔母も破産した。
  インドへ行っていた父は、帰国の途中に病死・・、
  ハーン自身は、学校在学中、事故で左目失明の不幸に・・
  1869年(19歳)、極貧と失意のうちにアメリカへわた
 った。
  アメリカに渡って、1873年(23歳)、新聞記者生活を
 送り、ヨーロッパ文学の新しい潮流をアメリカに紹介し、
 文芸評論家としても活躍した。
  1890年(40歳)のこの時に、来日し、
  島根県松江市尋常中学校の英語教師となった。
  理解者にも恵まれた。
  小泉節子と結婚、家族を養うため、高給の熊本五高へ、
 長男・一雄に恵まれ、日本に帰化した。
  ハーンは日本に来て、やっと、幸せな人生をつかむこ
 とが出来た。
  1894年(44歳)、外国人居留地の神戸に移り、英字新
 聞の記者となる。
  健康を害してすぐ退社したが、2年間をここで過ごし、
 執筆活動(代表作、「日本人の微笑」)を行なった。
  1896年(46歳)、東京帝国大学に招かれ、英文学を講
 じた。
  教え子に優秀なる土井晩翠や、上田敏がいた。
  この頃、日本文化の根底にある霊的な部分や、国家や
 民族の垣根を越えた文化の本質への理解が一層深まって、
 次々に、すぐれた作品や評論を書いた。
  ハーンの教師歴は、松江中学校・東京帝大・東京専門
 学校(現:早稲田大学)などで・・英語・英文学を教え
 るかたわら日本文化を研究、海外に紹介するという業績
 を残した。
  1904年9月26日、狭心症の為に逝去した、55歳、
  雑司ヶ谷の墓地に葬られた。
  著「知られざる日本の面影」「心」「怪談」など。
1890年4月9日、琵琶湖疏水の開通式
  琵琶湖疎水(大津・鴨川落合)第一期工事開通式が、大
 津にて挙行された。
  明治天皇陛下・皇后陛下の両陛下の御臨幸を賜わった。
  ここまでの経過は・・、
  1881年1月19日、北垣国道京都府知事が就任(2月着任)、
   琵琶湖疏水の検討をはじめた。
  1883年5月22日、田邉朔郎が京都府御用掛に採用され、
  (7月京都着)
  1883年11月、勧業諮問会に起工趣意書提出。
  1885年1月29日、琵琶湖疏水起工の特許を指令
  1885年6月2日、起工式(8月6日 第1トンネル竪坑より
   着工)
  1889年2月27日、第1トンネル貫通
  1890年3月、通水試験
  1890年4月9日、めでたく・・竣工式
1890年4月16日、三宅島でM6.8クラスの地震発生(群発地震
1890年4月16日、日本鉄道の路線が、一ノ関まで延び、開業
 した。
  岩切〜一ノ関の延伸開業。
1890年4月18日、神戸湾において観艦式(帝国軍艦19隻)
  観艦式(かんかんしき)は、軍事パレードのひとつで、
 軍艦を並べて壮行する式のこと。
  この時が、近代海軍としての観艦式の始まりだった。
  日本における観艦式の起源は、1868年(明治元年)3月
 26日に、大阪の天保山沖において行われた。
  この時、明治天皇陛下が陸上から御観閲し、受閲艦艇
 は、日本の艦艇の6隻と、フランス海軍の1隻で、
  受閲艦艇の総指揮官は、旗艦電流丸(佐賀藩)に座乗
 した石井忠亮海軍中佐だった。
  これ以前の江戸時代初期に、徳川家光等の将軍天覧に
 よる幕府水軍の「船行列」と称する、観艦式に類似した
 行事が行われていた。
  その後、1878年明治11年)に、当時の海軍卿・川村
 純義が、海軍の本体である艦隊そのものを天覧に供する
 ことで海軍の進歩を図るべきと、太政大臣三条実美
 上申し、
  その結果、1890年(明治23年)のこの時に、神戸沖で
 実施されたこの「海軍観兵式」が、近代海軍としての観
 艦式の始まりとなった。
1890年4月21日、民事訴訟法が公布された。
  「民事訴訟法」(明治23年法律第29号)が制定された。
  この法典は、ドイツ人テヒョー(1838年〜1909年)が、
 1877年のドイツ民事訴訟法をもとに起草したものだった。
  まもなく改正の動きが始まり、
  その第1編ないし第5編が、1926年(大正15年)の改正
 によって全面的に書き改められた(1929年10月1日施行)、
  その後もいくつかの改廃がなされた。
1890年4月21日 民法(旧民法民法典論争おこり、施行さ
 れず)財産編公布
  この年に公布されたが、民法典論争によって施行延期
 となった。
  そして、そのまま施行されずに終わった。
  ボアソナードらが起草した民法典で、旧民法と言われ
 た。
  『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』(
 明治23年4月21日法律第28号)と、
  『民法財産取得編・人事編』(明治23年10月7日法律第
 98号)で成っている。
  ただし、この旧民法において、人事編及び財産取得編
 の相続・贈与・遺贈・夫婦財産契約に関する部分は、
  特に、日本固有の民情慣習を考慮する必要があるとの
 考えから、司法省民法編纂会議の磯部四郎、及び、熊野
 敏三ら日本人委員のみが起草した。
  旧民法草案が、旧民法公布までの10年間の間にボアソ
 ナード自身、あるいは、日本人委員の手によって手を加
 えられていることもあり、そのまま旧民法というわけで
 はない。
  特に、旧民法草案は、財産編・財産取得編を通して1000
 条(修正案の501条から1502条)とされていたことに比べ、
 旧民法は、5つの各編ごとに第1条から開始しているなど
 異なる点もある。
  また、旧民法は、起草に当たって、当時のイタリア民
 法やオランダ民法、ベルギー民法草案を参酌しつつも、
 基本的には、フランス民法典を範としていたが、
  ボアソナードは、フランス民法の直輸入には反対して
 おり、日本古来の慣習に合致するよう、独自の立場から
 起草したと主張している。
1890年4月21日 呉鎮守府の開庁式
  この日、明治天皇陛下の御臨席のもとに式が挙行され
 た。
  また「鎮守府官制」によって、、鎮守府の組織として
 参謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍
 法会議・監獄署などが置かれた。
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  (今日の言葉)
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  題:そして・・一旦やったら・・すべてが終わる話になって行く・・
    勝者の居ない世界の話になって行く・・、
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1942年2月7日〜2月15日、シンガポールの戦い
  イギリスが占領していたシンガポールにおいて戦われた
 この戦闘は、
  2倍を超える兵力差を覆した。
  当時、難攻不落と謳われていた。
  このシンガポール要塞を、日本は、10日足らずで攻略
 した。
  この結果、イギリスが率いる軍としては、歴史上最大
 規模の将兵が降参し、捕虜となった。
  (アメリカは、降参した日本兵を捕虜とせずに殺した
 が、日本はその様なことはしなかった)
  ウィンストン・チャーチル、イギリス首相は、自書で、
 「イギリス軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」
 と嘆いた。
  この後のこと、後年に・・、このシンガポールで捕虜
 になった、元オーストラリア兵のルイス・ヒル氏(92歳)
 は、政府と元捕虜の来日を支援する民間団体「POW研
 究会」の元捕虜らを日本に招くプログラムで来日した。
  (1995年頃から進め、延べ約1660人を招待した)
  3回目の来日の時、「日本人の碑はどこか?」と聞いた。
  聞き間違いかと思った担当者に、もう一度「日本側は?」
 と再び訪ねた。
  日本人の捕虜収容所職員の8人は、戦後、BC級戦犯と
 して処刑されていた。
  (卑劣な事である。正規な捕虜取扱いをしていた日本
 兵は、戦犯として処刑されていたのである。
  そして、日本兵捕虜を殺戮したアメリカ兵は、そのま
 まアメリカ本国へ帰っていたのである)
  ヒル氏は、元捕虜として初めて日本人の碑に花束を手
 向け、目に涙を浮かべた。
  そして、言った「あなたたちがずっと負い目に感じて
 いることを申し訳なく思う」と。
  「戦犯に、最も大事な家族がいたに違いない。彼らの
 行為を決して忘れる事は出来ないが、彼らを愛していた
 家族の為にもしたいと思った」と。
  約300人居た捕虜のうち60人が命を落としたと言う。
  日本には、13万人を超える連合国側兵士の捕虜が居た。
  ルイスさんは、ステンレス製造工場で、毎日12時間、
 スコップで溶鉱炉に鉄鉱石をくべるよう命じられ、両腕
 のやけどが絶えなかった。
  「罰」と称して雪の中をはだしのまま何時間も立たさ
 れた。
  ルイスさんは言う、「誰かを憎み続けるには、歳を年
 過ぎた。
  憎悪からは何も生まれない」。
      (読売新聞、2015・8・31を参考にした)
  (参考)
    日本人兵士を捕虜にしたくないアメリカは、降参
   した日本兵を、捕虜としないで殺していた。
    オーストラリアも、同じ様なことをしていた。
    卑劣な事である。
    人種的な蔑視から、日本人兵士の命を軽く見ていた。
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1944年8月22日、対馬丸事件
  学童疎開輸送中に、アメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受
 け沈没し、犠牲者数1,476名を出した。
  対馬丸(つしままる)は、日本郵船の初代の貨物船で、
 総トン数6,754トンだった。
  開戦の翌年・1942年の夏から、日本は、敗戦を重ねる
 ようになり、
  1944年7月7日に、ついにサイパン島が玉砕し、占領さ
 れた。
  「サイパンの次は沖縄が・・、」と考えられた。
  その様な判断の元に、大切な沖縄の学童たちを疎開
 せることとなった。
  日本は、沖縄県奄美大島や徳之島の年寄り・子供・
 女性の方たちを島外へ疎開させる事にした。
  予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万
 人だった。
  しかし、県民の疎開はなかなか進まなかった。
  沖縄県が、本当に戦場になるか?の思いもあった・・、
 また、周辺海域の危険をそれとなく知っていた県民の方々
 にとって、船に乗ることは一つの「賭け」だった。
  1944年7月19日、沖縄県は、「沖縄県学童集団疎開準備
 要項」を発令した。
  そして、学校単位で疎開事務をすすめた。
  危険を心配する親たちの心とは別に・・子ども達は、
 「本州へ行けば汽車にも乗れるし、雪も、桜も見ること
 ができる」と、修学旅行気分ではしゃいでいた。
  1944年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、
 船員、砲兵隊員らの1788名を乗せて出航した。
  また、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸や、
 暁空(ぎょうくう)丸・・そして、護衛艦の宇治(うじ)・
 蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで・・長崎へ向かった。
  しかし、翌日の22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の
 北西10kmの地点を航行中、アメリカ潜水艦ボーフィン
 号の魚雷攻撃を受けた。
  この卑劣な攻撃によって、対馬丸は沈められてしまっ
 た。
  攻撃してはいけない学童たちを攻撃したアメリカだっ
 た。
  犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。
  イカダにすがって漂流した人々は、付近の日本海軍の
 哨戒艇や漁船に救助され、また、奄美大島まで流され生
 き延びた人々だった。
  この様な悲劇があったが・・この後も、沖縄県は、ア
 メリカ軍の空襲を受けたりして、疎開者は相次いだ。
  日本の潜水母艦「迅鯨」や「長鯨」、軽巡洋艦「長良」、
 練習巡洋艦「鹿島」などの艦艇も、沖縄へ兵力を輸送す
 る任務の帰途に、疎開輸送をした。
  沖縄県救助の疎開輸送は、1944年7月〜1945年3月まで、
 延べ187隻の艦船が繰り出され、8万名以上の方々が、日
 本本土と台湾へ疎開した。
  この方々以外にも、自主的に客船や漁船などによって
 疎開されている方々がいた。
  今、対馬丸記念館が、沖縄県那覇市若狭にある。
  尚、1950年10月、犠牲者の家族の方たちは、遺族会
 動をスタートさせた、
  そして、1997年、遺族会からの要請に基づいて行われ
 た悪石島(あくせきじま)沖海底捜索の結果、12月12日、
 船体が発見された(北緯29度31.93分、東経129度32.90分、
 水深871m)。
  遺族の方々は、引き揚げを要求した・・、
  政府は、ただちに、「対馬丸船体引揚げ可能性調査検
 討専門家会議」を立ち上げ、検討した・・、
  しかし、残念なことに、引き上げは不可能と判定され
 た。
  対馬丸記念館は、事件から70年を迎えた2014年8月22日、
 新たな判明者を加え、犠牲者数を1485人と発表した。
  アメリカが、日本に対して犯した戦争犯罪 (人種蔑視
 に基づく残虐行為)の一つである。
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1945年8月14日、日本が降伏して、『戦後』が始まるが・・
  アメリカの思い込みによる悲劇・・、
  アメリカは、愚かなる基準・考え方で行動して来てい
 た。
  それは、「戦争に勝った国が正義で、道徳的だ」とい
 う思い込み・考え方である。
  そして、これよりもっと酷(ひど)いアメリカの思い
 込みは・・、「常に、自分たち・アメリカだけが、『正
 義の戦争』をしているのだ」と、叫びたてているところ
 だった・・、
  日本にも「勝てば官軍」という言葉があるが・・、
  これは、一見、アメリカの言葉と似ている所はあるが、
  その言葉の中に、その言葉の裏に、「勝てば(例え、
 その戦争の原因が間違っていて勝ち、そして、非道徳的
 であったとしても)勝ってしまえば、その見方はひっく
 り返り、官軍(正しい・正義)になってしまう」という
 意味であった。
  「多分に正しくない」という認識も含みながらの全体
 観を把握している言葉だった。
  それに対し、アメリカの捉え方は、大いに(キリスト
 教の)神の介在を意識して、判断をしている。
  また、アメリカには、「市場には、神が介在している
 から、ほっておけば良いのだ」という考え方がある。
  「考え方がある」とか、「あった」と過去形で書くの
 は、嫌というほど「ほっておいて、神の所作にまかした
 ところ、市場は、混乱に陥り、シッチャカメッチャカ」
 となり(神の不在が証明された形となった)・・そして、
 嫌というほど痛い目にあった。
  戦争の場合も、戦争をして、どちらが「善」で、どち
 らが「悪」なんて真実は、勝ち敗けとは、まったく「無
 関係」なことだった。
  ただ、そこには、「強い国は強い、弱い国は弱い」と
 いう事実があるだけで・・、
  アメリカは、勝った国は正義だから、(キリスト教の)
 神が介在して勝ったのだと叫ぶが?
  また、勝つために原爆だって、また、市民へのじゅう
 たん爆撃の卑劣な汚い勝つだけの手を使うが、
  そんな汚い・軽蔑的な手を使って勝ったとしたって、
 そんな所に「神が介在する訳はない」。
  悪魔の介在を、神の介在と、見誤りの中に、論理展開
 しているアメリカとなっている・・、
  純真無垢の赤ん坊を、「(キリスト教の)神の義があ
 る」からと殺しても、その(キリスト教の)神は、正義
 ではない。
  強いという事実が殺したに過ぎない。
  罪のない女性や子供たちを殺したアメリカが居るだけ・・、
  強いものが正義という論理は働かない。
  こんな無駄な考えを何千年続けても、埒(らち)は明
 かない。
  この伝で、アメリカは、「自分は正しい」と、他国や
 日本へ内政干渉する・・もう、いい加減にしなさい。
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2016年7月末、朝鮮半島に高高度ミサイル防衛システム「
 THAAD(サード)」を配備して、北朝鮮のミサイルに対応
 するというアメリカと韓国の決断に対し、
  中国国防部の報道官は、7月末、「強烈な不満と断固と
 した反対を表明する」と述べた。
  そして、このTHAAD配備により中韓関係は「一瞬のうち
 に破壊されうる」と中国政府は警告した。
  そして、中国は、韓国に、経済的な報復措置を取った。
  中国は、これ(配備)によって北朝鮮金正恩政権の
 不安定化を恐れているという。
  そして、北朝鮮難民が、中国に大量に流入する事を恐
 れているという。
  また、韓国は、中国の信頼を失った。
  中国は、THAAD配備に対抗する「より攻撃的な手段」を
 講じると予測されている。
  アメリカと韓国は、しきりに「北朝鮮の核ミサイルの
 脅威のみに対応するものだ」と言っている・・が・・
  THAADのレーダーは、中国の動きを探知もでき、そして、
 その情報は、直ちに、アメリカに通知される可能性を持
 っている(日本ではない・・?)
  そして、その対応のために・・話が「多弾頭ミサイル」
 の話になって行く・・、
  また、探知が難しい「極超音速ミサイル」の話へ・・、
  また、弾道が変化するミサイルで、迎撃しにくい・・
 など・・、
  際限なく・・自分が助かり・・相手をやっつける話が
 続いて行く・・
  そして・・一旦やったら・・すべてが終わる話になっ
 て行く・・勝者の居ない世界の話になって行く・・、
  (参考)
  サード【THAAD】
  《terminal high altitude area defense》の略。
  米軍が運用する弾道ミサイル迎撃システム。
  戦域ミサイル防衛TMD)の主要な構成要素の一つ。
  ミサイルが大気圏に再突入して着弾するまでの間(タ
 ーミナル段階)に、地上に配備した移動式ランチャーか
 ら迎撃ミサイルを発射し撃墜する。
  PAC-3よりも射程が広く、上空150キロメートルの高高
 度での迎撃が可能。
  以前は、「戦域高高度地域防衛」(theatre high
 altitude area defence)と呼ばれていた。
  ターミナル段階高高度地域防衛。
  終末段階高高度地域防衛。
  [補説]:
  弾道ミサイルの飛翔過程は、発射直後でロケットエン
 ジンが燃焼している「ブースト段階」、宇宙空間を慣性
 飛行する「ミッドコース段階」、大気圏に再突入して目
 標に着弾するまでの「ターミナル段階」の3つに区分され
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive