ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2016-09-30 メソポタミアの伝統・ネアンデルタール人論221

人類のサディズムはどのようにして本格化ししてきたのだろうかと考えるとき、どうしてもメソポタミア文明発祥の地であるアラブ世界のことが気になる。現在のイスラム国をはじめとして、彼らのあのサディズムはいったいなんなのだろう、と思ってしまう。それが生まれ育ってきたアラブ世界特有の歴史風土があるのではないか。彼らはそれによって社会の秩序を保ってきたのだろうが、その流儀をわれわれの世界に持ち込まれると、われわれの世界は秩序どころではなくなってしまう。

イスラム国のあの残虐な人質の処刑は、それによって集団の結束が強化されるという効果あるのだろうが、それが人類普遍の社会性とか集団性とはいえない。しかし、制度性の本質として、われわれの社会だってそうしたサディズムの問題を抱え込んでしまっている。

今やもう、サディズムは、すべての文明社会に蔓延している。戦争や人殺しや強姦などの大げさな問題だけでなく、ささいな日常の人と人の関係の中にもしみ込んでしまっている。平気で人の心を傷つけたり、傷つけられたり……その平気で人の心を傷つけるというなれなれしさ、たとえ仲良くしようと、そのなれなれしさそのものがサディズムなのだ。

親しき仲にも礼儀あり、などというが、人は人にときめいてゆく存在であっても、むやみになれなれしく寄ってこられると息苦しくて、生きた心地がしなくなってしまう。

なれなれしい人間は、こちらが逃げようとすると、とたんにサディストの本性をあらわしたりする。

サディズムとはなれなれしさの別名であるともいえる。

人が人を支配するというなれなれしさ。

集団がひとつに結束するということは、強力な支配者がいてはじめて成り立つ。支配されて結束してゆくのだ。そして支配者は、敵を憎め、敵を倒せ、と扇動する。そうやって結束してゆく。民衆に敵意を持たせることによって、支配者は強くなってゆく。戦争をすれば、支配者の権威が強化される。アメリカの大統領はそうやって支持率アップをはかるのが常套手段になっているし、ナチスドイツはヒットラーを仰ぎ、イスラム国はみんながアラーの神に支配されている。

集団が結束するためには、強い支配者と敵を必要とする。集団の結束は、国家(共同体)だろうと会社だろうと学校だろうと家族だろうと、「第三者を排除する」サディズムの上に成り立っている。

イスラム国の、あの結束の強さはなんだろうと思う。結束の強さによって集団を運営してゆくことこそ、アラブ世界の伝統なのだ。だから「アラブの春」が実現したのだし、そういう伝統を持っていないこの国では、いまだに「原発反対」や「安保法制反対」などで一枚岩にはなれないでいるし、べつにネトウヨばかりの世の中になる心配もない。

どうでもいいや、と思っている人たちがたくさんいる。それは、第三者を排除するという結束力=サディズムが希薄だということにほかならない。右に行こうと左に行こうと、世の中はサディズムの強いものたちに引っ張られてしまうが、それでもこの国では、誰もがどこかしらに「どうでもいいや」という気分を抱えている。国や個人が豊かだろうと貧しかろうと、どこかしらに「どうでもいいや」という気分がはたらいている。まあ、「どうでもいいや」という気分があるから声高なサディストたちに引きずられてしまうわけだが、どちらに転んでもそれがこの国の人々の思想や心模様の正味のかたちだとはいえない。じつは、「どうでもいいや」というのがいちばんの多数派なのだ。

誰を何を排除するというより、ときめき感動しながら生きていたい。世界中の外来文化にときめき受け入れている国民が、「移民を受け入れない」といっても自己矛盾がある。実際問題として困ることはさまざまあるのだろうか、まあ、なりゆきに合わせてやりくりしてゆくしかないのだろう。

この国の歴史風土には、アラブ世界ほどの結束力もサディズムもない。


どうして彼らは、あんなにも強く激しく結束力やサディズムを持てるのだろう。

ヨーロッパの集団性の伝統は孤立したひとりひとりが「連携」してゆくことにあり、アラブ世界の「結束」とは本質的に違う側面を持っている。ヨーロッパとアラブ世界とのあいだには、歴史的なそうした根深い対立が横たわっている。まあそうやってヨーロッパ人は、ヨーロッパに移住してきたユダヤ人をはじめとするアラブ人を毛嫌いしたり差別したりしてきたし、アラブ人のほうでも、移民として受け入れてもらった身でありながらヨーロッパの文化にけっして同化してゆこうとはしなかった。

たとえば現在のイスラム教徒は、イスラム教徒であらずば人にあらずという強迫観念が強く、それによって結束しているし、だからイスラム国では非イスラム教徒を残虐に処刑することができる。残虐であればあるほど、自分たちの結束力は高まる。

彼らは、けっして変わらない。自分が変わるよりもまわりを変えようとする。それがサディズムであり、サディズムは、可塑性を失った自己撞着に宿る。

中東文化の独自性というのがある。それは「砂漠の文化」だといわれたりしているが、ここではそれ以前の「人類拡散」の問題として考えたい。

中東地域は、ヨーロッパとアフリカの中間に位置している。つまり、ヨーロッパが人類拡散の行き止まりの地だったのに対して、中東は途中の「通り道」だった。そこで何が起こっていたかといえば、集団にフィットできない人間はどんどん吐き出してゆくということだ。

吐き出されたものたちが、ヨーロッパに拡散していった。

まあ東のアジア方面にも拡散していったのだが、とにかくそうやって人類拡散のもうひとつの拠点となった中東地域は、集団の結束がどんどん高まってゆく歴史を歩んできた。結束できないものたちはみんなヨーロッパやアジアに拡散していった。

ヨーロッパ人は、結束できないものたちの末裔なのだ。そして、とくに氷河期の北ヨーロッパでは、結束できなくてもとにかく大勢が寄り集まって体を温め合っていないと暮らせなかった。

人類は拡散すればするほど結束できないメンタリティを濃くしていったし、拡散すればするほどより住みにくい土地になってゆき、大きな集団になって助け合ってゆかないと暮らせなかった。その矛盾を克服するというかたちで、「たがいに孤立しながら連携してゆく」という文化が生まれ育ってきた。

生きものは、身体の孤立性を保っていなければ体を動かせないし、他者の身体との関係が体を動かすことの契機になるというか、体を動かすことのダイナミズムを生む。原初のバクテリアウイルスのような生物以前の生物が進化してゆく過程で、たがいの体がくっついてしまうことから逃れようとして「動く」ということが起きたのだろうし、たがいの体がくっついてゆくことによってより複雑な体に進化していった。

生きものは、大きな集団で暮らす種ほど、体の動きがダイナミックで俊敏になる。たとえば、イワシの群れがそうだし、渡り鳥は集団で移動する。彼らは、集団で行動するための「連携」を豊かにそなえている。

人類の集団だって、拡散すればするほど、「結束」の能力の喪失と引き換えに、「連携」の能力が高まっていった。

まあ、原初の人類の二本の足で立ち上がるということ自体が、すでに猿社会のボスを頂点にして結束してゆくという集団性を放棄する体験だったのであり、それと引き換えにしてたがいに向き合いときめき合うという「連携」の関係性に目覚めていった。

「連携」の関係性が人類拡散を生み、「結束」してゆくことによって拡散をやめて住み着いていった。

拡散の通り道の地域においては、「結束」の集団性が発展する。中東地域は、その集団性の文化というかメンタリティがもっとも発達している。極端に発達している。それが、ヨーロッパの「連携」の文化と衝突している。

初期のメソポタミア文明の社会においては、蛇に対する関心がとても強かった。邪悪な蛇は異民族の象徴であり、祭司(呪術師)は蛇を支配するものであることがその資格だった。両手にたくさんの蛇を持って振り回しながら祈祷をするとか、まあそういうことも、彼らのサディズムをあらわしているのかもしれない。

アラブ世界で発達した幾何学模様のアラベスクだって、執拗に同じかたちを繰り返してひとつの世界を構成するという、まさに「結束」の集団性のたまものなのだろう。彼らには、異質なものどうしが溶け合ってゆくというハーモニーの意識はない。それは、ヨーロッパのオーケストラがひとりひとり別々の音色を奏でながら全体としてひとつの世界を構成してゆくという「連携」の文化とはまるで正反対で、彼らのサディズムは、異質なものを攻撃し排除してゆく。そうやって「結束」の集団性を発達させてきた。


生きものは、環境世界の一部として生きているのか?

しかし、身体の孤立性を持たなければ、体は動かせない。この身体は、環境世界の一部であらねばならないと同時に、環境世界の一部であってはならない。われわれは、そういう不条理を生きている。

この身体は、環境世界の一部として、環境世界との関係の上に成り立っている。見るとか聞くとか匂うとか、暑いとか寒いとか痛いとか痒いとか、身体のはたらきは、環境世界に「反応」してゆくというかたちで成り立っている。それは、身体が環境世界の一部であると同時に、環境世界から孤立しているということでもある。「反応する」ということは、環境世界の外に立って環境世界と向き合っている、ということでもある。

われわれは、環境世界の一部でありながら、環境世界の一部になることの不可能性を生きている。

死ぬことによって、はじめて環境世界の一部になってゆく。

誰だってこの環境世界と調和して生きていたいと思うが、調和してしまったら「反応」という命のはたらきは起きない。人の心や行動は、知らず知らず環境世界からはぐれていってしまう。そうやって人類は、住みにくいところ住みにくいところへと拡散していった。

イスラム教徒は、神との一体感を生きている。それは、環境世界との調和を生きているということであり、その調和は、彼らの外の世界を攻撃し排除してゆくことの上に成り立っている。彼らは、拡散しないでそこに居座って歴史を歩んできた。そうやって「結束」の集団性を高めてきたことによって、人類でいち早く文明国家を築き上げた。

彼らは、外の世界を攻撃・排除することをジハード(聖戦)という。そうやって彼らは、他者を裁く。6000年前につくられたというバビロニアのハムラビ法典が示すように、彼らは人類で最初に他者を裁くことに目覚めた人々であり、他者を裁くことはひとつのサディズムなのだ。その「正義」という大義名分によって、みずからの世界の正当性とみずからの世界と一体化してあることを確認してゆく。

彼らは「はぐれてゆく」ということを知らない。はぐれてゆくことができない強迫観念とともにサディズムが育ってゆく。

彼らにとって死は神と一体化してゆくことかもしれないが、われわれはどうしてもそれはこの世界からはぐれてゆくことだという思いから逃れることはできない。人間なのだもの、生きものなのだもの、生きるいとなみそのものが、すでに環境世界からはぐれながら環境世界と向き合い「反応」してゆくというかたちになっている。われわれは、「はぐれる」ということそれ自体を生きて死んでゆくしかない。彼らのようにわがままでサディスティックな思考はできない。


われわれは、この世界や他者を「裁く」ことができない。まずは「何だろう?」と問うてゆくしかない。はぐれているものは、そういう「反応」の仕方しかできないし、そこにこそ普遍的な人間性の基礎があるのではないだろうか。

人の心の「ときめき」や「かなしみ」は、「何だろう?」と問うてゆく体験として生まれる。

人類は、「何だろう?」と問いながら地球の隅々まで拡散していった。その新しい土地のことを知っていたわけではないし、そこがもとの土地よりも住みにくくても、「ここはだめだ」と「裁く」ことをせずに、「何だろう?」問うていったから住み着いてゆくことができたのだ。

わかったつもりになって「裁く」ことなど、猿でもできる。人類の知性や感性、すなわち知能は、「何だろう?」という問いとともに進化発展してきたのだ。その問いがなければ「発見」もない。つまり拡散すればするほど知能が進化発展してきたのであり、であれば数万年前のヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモ・サピエンスのどちらの知能が発達していたかというなら、集団的置換説の論者たちが主張するような「アフリカのホモ・サピエンスのほうが発達していた」ということなどいえない。

知能といったって、石器のレベルがどうのというような問題だけで判断することはできない。彼らがどのようにして生きていたかというその生態を検証する必要がある。少なくとも氷河期においては、アフリカよりも北ヨーロッパのほうがはるかに生きにくかったわけで、その艱難辛苦を潜り抜けてくるのにその生活の工夫や人と人の関係の仕方や環境世界に対する感慨や思考に、どれだけ頭を使ったことか。しかも彼らは、「ここはだめだから暖かい土地に移動しよう」などと思わずに、ひたすら「何だろう?」と問いながらときめいたりかなしんだりしながら生きていたのであり、そういう生き方をするような拡散の歴史を背負ってその地に住み着いていたのだ。

もう一度いう、わかったつもりになって「裁く」ことなど猿でもできる。ネアンデルタール人の脳容量が異様に大きかったのは、たんなる寒さのストレスというだけでなく、それだけたくさんのことに「何だろう?」と問うていったからかもしれない。ときめくにせよかなしむにせよ、その「問い」こそが人類の脳を大きくさせていったのだ。たくさんのことが分かったからではない、たくさんのことを問うていったからだ。「わかる」ことよりも「問う」ことのほうが、はるかに脳に負荷がかかる。おそらくそうやってネアンデルタール人の脳は発達したのだし、それが数百万年の人類拡散の歴史だった。

人類は二本の足で立ち上がったときからすでに拡散をはじめていたのであり、そもそも「なんだろう?」という問いを携えて立ち上がっていったのだ。それがなければ立ち上がれるはずがないし、その姿勢を常態にすることによってどんなメリットがあるかということもどんなリスクがあるかということも、何も知らなかった。そして、新しい土地のことなど何も知らないまま拡散していったのだ。知っていたら、そんなより住みにくい土地に移動してゆくことなどできるはずがない。

古代のメソポタミアは、この世界や他者を裁く装置としての共同体の制度性を確立しつつ、いち早く文明国家を生み出していった。まあそうした制度性はその後世界中に広まっていったわけだが、それでもわれわれは、そこからはぐれたひとりの人間に立ち返ればそんなことはできない。あくまで「何だろう?」と問うてゆくしかない。

アラブ世界は、人類の共同体の制度性の基礎をつくった。それは、人類の理想か?そうではあるまい。それは「はぐれる=問う」ということができない強迫観念なのだ。そういう病理が、アラブ以外のわれわれの社会にも広がりつつある。

それでも人は、はぐれてしまった存在として「何だろう?」と問うてゆく。そこにこそ人類の知能の本質があり、それは、ときめいたりかなしんだりする心模様のかたちでもある。


2016-09-26 他愛ないときめき・ネアンデルタール人論220

文明社会にうごめいているサディズムというのは、ほんとにやっかいだと思う。それが人間性の本質だというわけではないはずなのに、社会の仕組みによってしらずしらず誰の中にも培養されてしまっている。

しかし、誰もが同じだけ持っているというわけではない。ほとんどないかのような人もいれば、ヒットラーのように気味悪いほど濃密な人もいる。また人それぞれの生きてある状況によって、サディズムが強く湧いてくるときもあれば、ほとんど無縁でいられるときもある。

そして、サディズムが強いから生命力も旺盛だとはかぎらない。ヒットラーなどはどちらかというと虚弱体質だったのだろうし、強いサディズムの持ち主は、あんがいそういうタイプの人に多いのかもしれない。彼らは、命のはたらきも心のはたらきも、ぎこちなくてぎくしゃくしている。硬直しているというか、彼ら自身がこの生から追い詰められている。その状態から解放されようとしてサディスティックになってゆく。

人を攻撃して、人が苦しむのを見て舌なめずりしながら喜んでいる。そうやって自分の命や心の正当性や活力を確認しているのだろうか。彼らにとってこの世界は輝いていてはならない。輝いているべきは、あくまで自分の命や心なのだ。

サディスティックな人間にとっての世界は輝いていない。彼らはつねに世界や他者を警戒し、監視している。そうしてそんなくすんだ色の世界から追いつめられてもいる。その恐怖と不安から解き放たれようとしてサディスティックになってゆく。彼らは、世界に復讐して生きている。恵まれたエリートだろうと下層の庶民だろうと、彼らは、攻撃的でプライドが高く、徹底した自己中心で、いじめ好き、そんな傾向が強い。現代社会には、そんなルサンチマンを抱えた人がどの階層にもいるし、リーダーがそんな人間であるとみんながそんな傾向になってゆく、という場合も多い。誰もが自己中心のくせに、誰もが監視し合っている。監視する、というサディズム。何かあったら難癖をつけていじめてやろうと付け狙っている。そんな空気が、学校にも職場にもこの社会全体にも蔓延しているとしたら最悪だ。政治の世界にしろ経済の世界にしろ学校にしろ家族にしろ、そんなサディスティックな空気にしてしまうリーダーや大人たちがのさばっている世の中なのだろうか。けっきょく声高な人間(=サディスト)に世の中が引きずられてしまう。その点においては、ヒットラーのドイツも現在のこの国も、たいして違いはない。まあ、人の世はいつの時代もそんなものかもしれない。

サディズムとは自尊感情に執着したひとつの強迫観念であり、ニヒリズムであり、そうやって人はときめく心を失ってゆく。ときめく心を失いつつ、その自尊感情を満足させるために、人にときめかれたくてうずうずしている。そうやって、人の心を支配しにかかる。支配することによってしかときめかれるすべはないし、支配しようとするからときめかれない。今どきの大人たちが若者から幻滅されているのは、そういう構図になっているのではないだろうか。支配することに成功している大人もいれば、失敗を繰り返している大人もいる。強い立場にいれば支配できるが、そこでは誰もときめき合っていない。その予定調和の関係に執着し合っているだけのこと。仲良くしているが、ときめき合っているのではなく、たがいにその関係を繕い合っているだけのこと。そうやって世の人間関係がぎくしゃくしてゆく。仲良くしつつ、じつはぎくしゃくしている。

われわれは、平和で豊かな社会を生きつつ、しかしこの世界の色はくすんでいる。輝いていない。

ヒットラーがあんなにも熱狂的に支持されたということは、それほどに人々がときめく心を喪失していたということであり、そうやって熱っぽく執着してゆくことによってときめく心の喪失を補完していただけのこと。そうやって「憎悪」を共有しながら盛り上がっていただけのこと。


この国の今どきの「ネトウヨ現象」だって、「憎悪」のサディズムを共有しながら盛り上がっている。一方の左翼的な市民運動にしても、原発反対だの戦争反対だのという不安や恐怖や怒り等のネガティブな感情を共有することを組織しようとしているだけであり、ともあれ左翼も右翼も、いまいち大きなムーブメントにはなりえていない。

現在のこの国では、政治的な結束を組織しようとしてもうまくいかない。それは怒りや憎しみのサディズムを組織するということであり、フランス革命やロシア革命などで王殺しを体験しているヨーロッパと違って、ずっと天皇を祀り上げて歴史を歩んできたこの国の伝統風土はもともとそのようにはなっていない。

僕自身はべつに天皇を神として崇めているわけでもなんでもないが、ともあれ天皇を祀り上げることは、怒りや憎しみを組織することではなく、むしろマゾヒスティックな「あはれ」や「はかなし」といった「喪失感=嘆き」を共有してゆくことであり、共有しながら他愛なくときめき合ってゆくことにある。

天皇ほどイノセントなときめきを生きている存在もないし、この国では、イノセントなときめきを組織できなければ大きなムーブメントにはならない。ヘイトスピーチが問題だとマスコミが騒いでいるけど、けっきょくしりすぼみで、彼らネトウヨは、あんなにも憎悪のサディズムをたぎらせて、天皇に対して恥ずかしくないのかねえ。

江戸時代の「ええじゃないか」とか「おかげ参り」は、ひとつの「世直し」を願って民衆が集団で浮かれ騒いで練り歩く全国的なムーブメントだったわけだが、そうやってイノセントなときめきで集団が盛り上がることは、中世一遍という僧侶に率いられた「踊念仏」以来のこの国の伝統でもあるのかもしれない。それらは、政治的な一種の「デモ行進」だった、といえなくもない。しかし「世直し」といっても、ひとりひとりはただもう浮かれ騒いでいただけで、無邪気に遊び呆けて生きていたかっただけのこと、無常ということ、「一期は夢よ、ただ狂え(閑吟集)」ということ、良くも悪くもそういう歴風土なのだ。

この国では、「イノセントなときめき」を組織できなければ大きなムーブメントにならない。いやまあそれは、普遍的に世界中どこでもそんなものかもしれない。そこにこそ人間性の自然があり、ネアンデルタール人はそうやって「もう死んでもいい」という勢いの「イノセントなときめき」を組織しながら、自然のサディズムそのものである氷河期の極北の荒野で暮らしていた。

格差社会とか非正規雇用とか貧困とか孤独死とかいじめとか発達障害とか家庭内暴力とか、さらには大地震等の自然災害も頻繁に起きている。生きられない、明日も生きてある保証なんかどこにもない。そんな気分の中でわれわれは、この社会この時代に蔓延するサディズムをどう克服してゆけばいいのか。ネアンデルタール人の社会や暮らしは、その一つの答えになっている。

とにかく、世の政治家や金持ちやマスコミ知識人やがどんなにエラそうなことをいっても、「イノセントなときめき」を持っているものには、知性的にも感性的にも人間的な魅力においてもかなわないのだ。「もう死んでもいい」という勢いの自分を忘れた「イノセントなときめき」こそがわれわれの希望であり、べつに自分に執着して生き延びようとする欲望をたぎらせることなんかではない。

何度でもいう。生きものの命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いの「イノセントなときめき」として起きているのであって、スケベったらしい生き延びようとする欲望によるのではない。とくにこの国では、そんな欲望を組織しようとしてもけっして大きなムーブメントにはならないし、多くの若者たちの心をとらえることはさらにない。


近ごろ「君の名は。」というアニメ映画が爆発的な大ヒットをしている。ストーリーそのものはライトノベル感覚の他愛ないものだが、思春期の若者の「イノセントなときめき」をみごとに掬い上げ表現しているところがヒットの要因になっているのだろう。「かわいい」の文化現象、そのジャパンクールの真骨頂がここに示されているのかもしれない。

「かわいい」=「イノセントなときめき」こそ、日本列島の伝統風土なのだ。

この映画をつくった新海誠監督は、現在42歳で、ホリエモンと同じ「団塊ジュニア」の世代だ。どうしようもなく切ない「イノセントなときめき」を表現する新海誠監督と、すれっからしの拝金主義者であるホリエモン、そしてサディズムに取り憑かれたあの「酒鬼薔薇事件」の少年の親たちも団塊世代だったわけで、ようやくここで団塊ジュニアの旗手が勢ぞろいしたということだろうか。

「君の名は。」の少し前に大ヒットしたのが「シン・ゴジラ」という映画で、ゴジラは現代社会のサディズム象徴であり、それに対する恐怖をこの上なくリアルに表現していた。

われわれは今、この社会に蔓延するサディズムに対する恐怖を共有している。だから「シン・ゴジラ」が大ヒットした。サディズムは、高度な文明社会で暮らすわれわれひとりひとりの中にも潜んでいる。そのサディズムをどう克服してゆけばいいのかということの答えが、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」という映画で提出されているのかもしれない。

まあ。東日本大震災等の自然災害も、ひとつのサディズムに対する恐怖であり、前者はそれをゴジラで象徴し、「君の名は。」は隕石の落下であらわしている。

ともあれ、「君の名は。」は、「シン・ゴジラ」の倍以上の興行収入になるだろう。サディズムにどう対処するかという問題もあるが、「君の名は。」は、サディズムが起きないような「イノセントなときめき」持ちたいものだという人々の願いに訴えかけてきた。

「ときめき=感動」がなければ生きられないし、それがあれば生き延びることができなくてもかまわない。そうやって人は、生きて死んでゆくのではないだろうか。


2016-09-22 サディストは感動しない・ネアンデルタール人論219

このところネアンデルタール人とは何の関係もないことばかり書いているように思われそうだが、人類史における「文明の発祥以前と以後」という問題はあるはずで、その断絶と連続性を検証することは人間性の普遍について考えることになるのではないだろうか。

たとえば人と人が殺し合う戦争などというものは文明の発祥以後のことで、原始時代からなされていたものだとは思えない。

戦争というサディズム、人が人を裁くというサディズム、それは文明の発祥以後に共同体の制度性によって培養されてきたのであり、原始人とは無縁の心の動きだったのではないだろうか。

戦争とか殺人とか強姦とか略奪とか支配とか侵略とか、そうした「人間的」といわれている凶暴凶悪な生態は、文明が生み出したのであって、原始性でも普遍的な人間性でもなんでもない。そうした衝動が、人間なら誰の心の底にも宿っているというわけではないのだ。

それは、人類史の真実ではない。

人類はもともと「生きられない弱いもの」として歴史を歩んできたわけで、その「生きられなさ」の渦中に飛び込んでゆくメンタリティというか生態によって人間的な文化の進化発展がもたらされた。それがまあ原始時代の歴史で、生存原理としての弱肉強食サディズムに目覚めたのは、氷河期明けの文明発祥以降のことだ。

この地球上で、「万物の霊長」という地位を獲得したからだろうか。それが文明の発祥であり、そうして生きる能力を持った強いものに憧れ、強いものになりたがり、生き延びることに執着するようになってきた。

サディズムとは生き延びようとする衝動であり、生き延びるために邪魔な存在を排除しようとする衝動だ。

生き延びようとすることはただの自意識で、べつに生きものとしての本能でもなんでもない。

そして「生き延びる」といっても、命のことというより、自意識自我が生き延びたいのだ。だから、自意識自我が生き延びるために自殺する人もいる。彼らは、自意識自我を捨てて生きてあるというなりゆきに身をまかせるということができないし、自意識自我が生きることのじゃまになるから憎悪するのだ。そういう自意識過剰の人は、あんがい命のはたらきが弱い場合が多い。自分で自分の命のはたらきをぎくしゃくさせてしまっている。


まあ、20世紀のもっとも有名なサディストはあのヒットラーになるのだろうが、許さないこと、すなわち彼ほど熱く激しく憎悪しきった人間もいない。ひたすらユダヤ人を憎悪した。その熱っぽさに民衆が引きずられていった。

ユダヤ人の何が許せないとかという以前に、彼の生のエネルギーは憎悪の感情によるサディズムの上に成り立っていたのであり、憎悪をたぎらせるための対象としてユダヤ人選択しただけのことだったのかもしれない。大衆をひとまとめにして支配するためには憎悪の対象を持たせることが必要で、もしユダヤ人がいなくなればそれに代わる対象を探さないといけない、などといっている。そうやってユダヤ人連合国に対する憎悪を熱っぽく煽った。

人は、憎悪の対象によってみずからの生の正当性や集団の結束を確認してゆく。

共同体の制度性は、憎悪の感情を培養する。憎悪の感情こそ、サディズムの温床だ。

ヒットラーは、もともと芸術志向で政治家になることを目指していたわけではなかったが、第一次世界大戦に一兵士として参加し、目が見えなくなる負傷を負ったときの敵に対する憎悪の感情とともに政治に目覚めていったといわれている。

サディズムは、手段を選ばない。理不尽な方法であればあるほど、その正当性の確認になる。

第一次世界大戦の敗北に打ちひしがれていたドイツの民衆は、みずからの正当性を確認することに飢えていた。戦勝国であるフランスやイギリスから押し付けられた賠償金は天文学的数字だったし、経済の不況はさらに深刻化の勢いになり、出口が見えないほどに追いつめられていた。ユダヤ人を排除せよというヒットラーの扇動にすがりついてしまうくらい追いつめられていた。

人はもともと、憎悪の感情を、人間性の自然として持っているのではない。追いつめられて、いつの間にかそういう感情を培養されてしまうのだ。

あのときのドイツ国民だけではない。この平和で豊かな国のわれわれの、たとえば自分の思うほど人から好かれないとか認めてもらえないという自意識過剰の苛立ちだって、それなりに追い詰められている状態であり、そうやって失恋とか失職とか病気とかの挫折体験という自意識自尊感情)の危機を契機に一気に憎悪の感情が爆発したりする。

過剰な自意識によって、憎悪の感情がふくらむ。憎悪の感情によって、その「挫折=自意識自尊感情)の危機」を克服しようとする。自分を守ろうとする。憎悪=サディズムとは、自意識自尊感情)の延命に対する執着なのだ。

生き延びようとする自意識は、命が生き延びたいのではない、自意識それ自体が生き延びたいのだ。彼らは死んでも自意識(=霊魂)だけは残ると信じているし、自意識(=霊魂)の安定を保つためなら手段を選ばない。そのためなら自殺だって厭わないし、自意識(=霊魂)の安定を妨げる対象は許さない。徹底的に憎悪する。

憎悪の感情なんて、ほとんどない人もいる。誰の中にもある、というわけではない。生まれたばかりの赤ん坊に、そんな感情などない。それは、文明社会の仕組みによって培養されてゆく。自己の存在の正当性に執着した自意識フラストレーションを起こしながら、次第にふくらんでゆく。そうやって、彼らは彼らなりに追いつめられている。

人は、何かに追いつめられることによってサディストになる。サディストは傍若無人だが、何かに追いつめられている。いつもサディスティックな不良だろうと、突然サディストに変身する人格者だろうと、彼らの心は何かに追いつめられている。

ヒットラーだって、目が見えなくなる、という事態に追いつめられながら憎悪をたぎらせていった。そのとき彼は、その運命を受け入れることができなかった。できないくらい追いつめられてしまった。憎悪をたぎらせることでしか、生きていられなかった。

生きてあることは何かに追いつめられることではあるが、少なくともイノセントな心模様とともにある幼少期において、誰もがそんな恨みがましさを募らせながら生きているわけでもあるまい。

認めてもらえないから恨みがましさがふくらむとはかぎらない。認めてもらいたいというか、この生が正当なものであらねばならないという自意識が強すぎるから、恨みがましくなる。

身体障害者は、みずからの生のかたちの喪失感や無力感と和解しなければ生きられない。まあ人間なんて、本質的にはそういう存在であり、「生きられない弱いもの」なのだ。しかし自意識の強いサディストたちは、そういう喪失感や無力感を徹底的に排除しようとする。そんなふうに感じてしまうことに耐えられない。耐えられないほどに追いつめられている。


この生が正当なものであらねばならないとか、充実したものであらねばならないとか、どうしてそんな恨みがましいことを思うのだろう。イノセントな子供は、そんなことなど何も望んでいない。ただもう無邪気に自分を忘れ、目の前の世界や他者に「反応」して生きているだけだ。

人間性の基礎は、自分を忘れて何かに夢中になってゆくことにある。そうやって心が華やぎときめいてゆくことのダイナミズムが人類史に進化発展をもたらしたのであって、べつに生き延びたいとかこの生の正当性wwを獲得したいとかというようなスケベ根性によるのではない。

いいかえれば、どんなに自己実現のためにあくせく頑張っても、その知能も行動力も、自分を忘れて夢中になっている人の華やぎ=ダイナミズムにはかなわないのだ。二流と一流の差は、そこに出る。

人類拡散は、人と人がときめき合うことのダイナミズムにによってもたらされたのであって、生き延びようとかよりよい暮らしがしたいというような俗っぽいスケベ根性によるのではない。そういう上昇志向が人類の歴史をつくったのではないし、上昇志向だけでは限界がある。つまり、人間性の本質は「能動性」にあるのではないということ、誰の心の中にも先験的な憎悪やサディズムが宿っているのではない。それは、後天的に培養されてゆく

人間性の基礎は、他愛なくときめくこと、感動すること、自分を忘れて何かに夢中になること、そうやって世界や他者の輝きに「反応」してゆくことにありそれによって人類の文化は進化発展してきたのだ。

誰の心の中にも、自意識自尊感情)の延命に執着した憎悪やサディズムが宿っているというわけではない。われわれは彼らほど能動的ではないし、挫折したって、彼らのように「何がなんでも認めない、許さない」と思うような追いつめられ方はしない。それほどのプライドなんかない。仕方ないなあ、とあきらめる努力をする。

今どきの若者は、世の大人たちに深く幻滅しているが、「許さない」と思うような憎悪は持っていない。

若者を非正規雇用というかたちでこき使うことばかりしていると、いずれ若者たちの怒りが爆発する……などといわれるようになって久しいが、現在の彼らがそこまで「追いつめられている」ふうにも見えない。状況がなんであれ、彼らは自我が薄いから、そこまで追いつめられていないらしい。怒るほどの上昇志向はない。

彼らの怒りを組織することはできない。音楽やファッションやアニメなどで「感動=ときめき」が連鎖するムーブメントが起きることはあっても。

人だけの話ではない。生きものは、「生存戦略」というサディズムで進化してきたのではない。命のはたらきは世界の輝きに「反応」してゆくことにあり、その「感動=ときめき」こそが進化をもたらしてきたのだ。

ヒットラーは徹底して「生存戦略」に邁進した。そんなに生き延びたければ、ヒットラーから学ぶがいい。まあ、胃のはたらきが鈍いから、「ときめき=感動」が薄いから、「生存戦略」に執着するのだ。

生きものも人も、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆくことによって進化してきたのだ。


2016-09-15 サディズムという能動性、あるいは欲望・ネアンデルタール人論218

不遜なことをいわせていただけるなら、「ゆるーい幸せ」に執着して正義ぶった大人ほどたちの悪い生きものもいない。正義ぶった人格者なんか、みんなサディストだ。人はかく生きねばならないとか、人の世はかくあらねばないと主張することが、そもそもサディズムなのだ。それは、そうではないことを許さない、といっているのと同じであり、かれらは、この世界を何もかも予定調和のことにしてしまおうとする。そしてそんな自分の正当性を確認するためには、そのサディズムを発散するしかない。彼は、許さない対象を追跡し、監視しながら、そのサディズムを発散する機会をうかがっている。あるいは、ふだんは穏やかな人格者でも、許さない対象と出合うと、とたんに執念深いサディストに変身する。

サディズムとは何か、という問題はとても気になる。

攻撃衝動、支配衝動、排他衝動等々、文明社会には、戦争や殺人だけでなく、日常のささいな人と人の関係にも、いろんなサディズムが渦巻いている。

教育とか他者を説得しようとするとかということだって、相手の心の世界に侵略してゆくひとつのサディズムだといえなくもない。

いやもう、「言葉の意味を伝達する」ということじたいが、すでにサディズムの範疇であるのかも知れない。

人は根源・自然において、言葉の意味を伝達しようとする衝動を持っていない。聞く方が言葉の意味に気づいてゆくことことによって、言葉の意味が成り立っている。言葉の起源においては、言葉の意味を自覚して言葉を発したのではない。思わずある音声を発してしまっただけであり、聞く方がその意味に気づいていった。発したものだって、みずからもその音声を聞いて、はじめてその音声の意味に気づいていった。人と人の会話は、根源的には、たがいに言葉の意味を気づき合っているだけであり、そうやってたがいに「反応」してゆくことによって会話が成り立っている。

つまり、「能動的」というのはすべて、ひとつのサディズムかも知れない。人は人に対してというか、生きものは世界に対して「反応」する存在であって、能動的にかかわろうとしているのではない。


命のはたらきは、世界(=環境)に対する「反応」として起こっている。われわれの命は、世界が存在するという前提を持ってつくられているのではない。酸素があるとか水があるとか、たまたまこの世界(=環境)にフィットして生きられるようになっているが、この先酸素も水もないように世界(=環境)が変わってしまえば、誰も生きられない。未来の世界(=環境)がどのように変わるかということは誰もわからない。変わらないという保証なんかない。生きものは、一瞬一瞬「未知の未来」に投げ入れられるようにして生きている。「未知の未来と出会って反応する」というかたちで、命のはたらきが起きている。

いいかえれば、未来があらかじめ分かっているのなら、「反応する」というはたらきがちゃんと起きてこない。そんな予定調和のスケジュール通りの生き方ばかりしているから、「反応する」という命のはたらきが停滞して認知症にもインポにもなってしまうのだ。命のはたらきは、未来どころか、世界が存在するということ自体すら前提として持っていない。持っていないからこそ、「反応する」というはたらきが起きる。

命のはたらきは、能動的にはたらきかけてゆくのではなく、「反応する」というかたちで起きている。

能動性は、命のはたらきとしては不自然なのだ。

先験的な命のはたらきなどというものはない。世界(=環境)の存在によってそれが引き起こされる。

生きものの体の進化は、世界(=環境)がつくってきたのであり、世界(=環境)にフィットしない命のはたらきの生きものは、そのつど滅んでいった。

世界(=環境)にフィットしなければ滅んでゆくしかないのだ。進化は、生きもののがわがフィットするようにつくってきたのではない。われわれの命のはたらきは、あらかじめ限定されている。そうして、フィットしない生きものは、すべて環境によって淘汰されてきた。

生きものが生き残るかどうかなんて、環境が決定していることで、生きもの自身の生き延びようとする衝動によるのではない。

殺虫剤に強い害虫があらわれてくることだって、その害虫が生き延びようとしたからではなく、その殺虫剤に豊かに「反応」したからであり、「反応」できない個体が滅んでゆく。その現実を肯定し受け入れ「反応」してゆくことが「進化」をもたらす。その害虫が、殺虫剤を否定し抹消してしまうことも、殺虫剤の成分を弱めることもできない。「反応」できない個体から順番に滅んでゆく。

命のはたらきとはつまり、「もう死んでもいい」という勢いで世界=環境を肯定し「反応」してゆくことであって、世界=環境を警戒し否定して生き延びようとすることではない。


生き延びようとすることは、ひとつのサディズムなのだ。そうやって世界=他者を警戒し否定し、抹消しにかかってゆくこと、そういう自意識自我サディズムという。

警戒しないで無防備なまま生き生きと「反応」していった害虫が生き残ったのだ。それは、世界=環境によって体質を変えられてしまうという、いわば受動的な体験であって、みずから変えていったのではない。

心だろうと体だろうと、自分で自分を変えることなんかできない。命のはたらきは、徹底的に既存のかたちをコピーしてゆくことにある。すべての細胞は、どんどん生まれ変わってコピーされてゆく。成長するのも衰えてゆくのも、環境による作用がはたらいているからだ。「反応」しながら成長し、「反応」できなくなって衰えてゆく。

「反応」できないところに「進化」はない。

目の前の女に反応しときめいているのなら、強姦なんかできない。性欲が強いから強姦するのではない。それはサディズムの問題であり、心の底に女に対する警戒心とルサンチマンのようなものを抱えているわけで、女の体を蹂躙しながらまずそれを発散してしまうことによって、はじめて「ときめき=反応」が起きる。というか、最初から女を蹂躙する視線を持っている。蹂躙しながら勃起している。女というより、世界=環境そのものに警戒心とルサンチマンがある。警戒心とルサンチマンを生きている。何かを蹂躙したくてうずうずしている。生きられない弱いものを見ると、蹂躙したくてたまらなくなる。

そういう「憎悪」の感情が渦巻いている。「好き」だとか「愛している」といっても、「憎悪」の感情がこもっている。「憎悪」の感情で生きている。蹂躙してしまいたいほど好きだ、ということ。

まあサディズムもひとつも愛情であり、相手かまわず能動的になる。それはひとつの自尊感情であり、そうやって自尊感情を満足させるために相手干渉してゆく。そしてその自尊感情による「欲望」は、心の底の世界や他者に対する「警戒心」や「憎悪」の上に成り立っている。

「欲望」とは何だろう、という問題がある。「欲望」という「能動性」、それが人間の本性だといわれても、欲望の薄い人はいくらでもいるし、薄い人は人間的ではないのかという反論もできる。文明社会は欲望を培養するような仕組みの構造になっているということはいえても、それが人間性の本質だとはいえない。

能動的」という言葉は、どこかいかがわしい。それは、サディズムという文明社会の病理の問題を含んでいる。

「反応」が貧弱だから、それを補完するように「欲望」や「サディズム」という能動性が起きてくる。現代人の多くは、「自我自尊感情」が強すぎて「反応」が貧弱になってしまっている。大人になると、だんだんそうなってゆく。


「反応」とは、「何だろう?」と問うこと。

「反応」の薄さが、「欲望」や「サディズム」になる。

たとえば、「あの山の向こうには邪悪な人間が住んでいる」と思えば、そこに向かって旅をしてゆこうとは思わないだろう。文明人はそういう思い込みで戦争をするようになっていったのだが、原始人はそんなことなど思わなかった。だから人類拡散が起きたわけで、ただもう「何だろう?」と思いながらそこに引き寄せられていった。そういう「遠い憧れ」がはたらいて人類拡散が起きたのだ。

「反応」とは、「わかる」ことではない。「邪悪な人間が住んでいる」と勝手に決めつけてわかった気になってゆくのが、文明社会の病理なのだ。文明社会にはそういうデマゴーグがたくさん渦巻いているし、文明人はかんたんにわかった気になってしまう病理を抱えている。そうやって干渉してゆく。そうやってなんとかハラスメントとかいじめが起きている。

女に対する「反応」を失ったインポおやじほど女に対して能動的な「欲望」の強い人種もいない。強姦だって、ようするに女に干渉してゆこうとする行為だろう。インポおやじだって、そんな強姦もどきのSMプレイに浸っている。

人が人を想うことだって、相手のことを「何だろう?」と思うところからはじまるのであって、相手のことが分かった気になってあれこれ干渉してゆこうとする「欲望」を募らせることでもあるまい。

そこに「あなた」がいるということに対する「反応」は、「何だろう?」と問う「ときめき」として起こるのであって、干渉してゆこうとする「欲望」を募らせることではない。

この世のもっとも深く豊かに人を想うものは、「何だろう?」という問いを抱えて途方に暮れている。それが「ときめく」ということだ。


2016-09-12 ゆるーい幸せなんかいらない・ネアンデルタール人論217

死んでゆく人は、美しく荘厳だ。

西洋人による十字架にかけられたキリストの像を拝むということだって、つまるところは、死んでゆく人に対する人類普遍の感慨の上に成り立っているのかもしれない。

息をするとか飯を食うとか体を動かすとか、この生のいとなみは、この生のエネルギーを消費するという、いわば「死んでゆく」ことの無限の繰り返しとして成り立っている。

心が豊かにはたらくということは、自分=この生を忘れてときめき夢中になってゆくことであり、すなわち自分=この生から超出してゆくという、その「死んでゆく」はたらきがこの生のはたらきなのだ。

現代社会が合唱するような、自分=この生に執着し美化してゆくところにこの生の自然・本質があるのではない。

人の心は、「もう死んでもいい」という勢いでこの世界や目の前の他者の輝きにときめいてゆく。それが「自分=この生」から超出してゆく、ということだ。

むやみな生命賛歌などしていたら、命のはたらきも心のはたらきも活性化しない。そうやって現代社会の大人たちは、インポテンツになったり認知症になったりしてゆく。

人は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」すなわち「死んでゆくもの」になろうとする。そうやって「もう死んでもいい」という勢いでこの世界や目の前の他者の輝きにときめいてゆく。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」こそ、もっとも深く豊かにこの世界や目の前の他者の輝きにときめいている。

学問だろうと芸術だろうと人が人にときめくことだろうと何かに夢中になってゆくことだろうと、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になって「自分=この生から超出してゆく」いとなみなのだ。

人の心は、「死んでゆく」ことに対する「遠い憧れ」が息づいている。そうやって「自分=この生」から超出しながら、心は華やぎときめいてゆく。

人が人を想うことの基礎は、死んでゆく人を想うことにある。人は、死んでゆくことにに対する「遠い憧れ」とともに生まれてくる。そのとき「おぎゃあ」と泣くのは、この生におそれおののいているからだろう。そしてそこからこの生を受け入れてゆくことができるのは、この生が「死んでゆく」いとなみとして成り立っているからだ。まあ、そういうひりひりした「皮膚感覚」を保って生きるのはとても難しいことだが、それを失ったら生きられない。


生きることは、死んでゆくはたらきの無限の繰り返しとして成り立っている。

「もう死んでもいい」という心意気を持たなければ、人と人の関係も命のはたらきも豊かにならない。

しかし現在のこの国においては、自分=この生を守り執着するのが当然のことであるかのように合意されている。そうやって大人たちは、その「ゆるーい幸せ」の満足に浸りながら、心のはたらきも命のはたらきも停滞させてゆく。そうして考えることも行動も顔つきもブサイクになってゆき、若者たちから幻滅されている。

現在ほど大人たちが若者を強く支配している時代もないのかもしれないが、現在ほど大人たちが若者から深く幻滅されている時代もないともいえる。

この平和で豊かな社会の若者たちの多くは、その「ゆるーい幸せ」に居直った大人たちに強く支配されて、やりきれない閉塞感の中で生きることを余儀なくされている。

大人たちは、若者や子供たちを教育することばかりに熱心で、若者や子供たちから学ぼうとするような好奇心というかつつしみというかたしなみなどまるでない。若者や子供たちと一緒に遊べるときめきも心意気もまるでなく、「労働こそ人間性の本質だ」と扇動しながら、支配してこき使うことばかり企んでいる。収入を得るためには、大人からこき使われるしかない。

そうして、こき使われることがいやで落ちこぼれていったりする。

若者や子供たちが遊び呆けて暮らしたいと思ってなぜ悪い。

遊び呆けて生きたい若者は、とうぜんこの社会の「下流」の身であることに甘んじるほかないのだが、近ごろでは「下流老人」などという言葉もささやかれている。遊び呆けて生きようとすると、誰もが「下流」にされてしまう。遊び呆けて生きようとするなら、野垂れ死にする覚悟が必要だ。

「ゆるーい幸せ」に居座った大人どうしの「ゆるーい遊び」につき合ってもねえ、だんだん面倒になってくる。彼らは「自分=この生」に執着・耽溺することが当たり前だと思っているから、イメージ貧困なんだよね。若者や子供のようなひりひりした「皮膚感覚」を持っていない。自分=この生を忘れてこの世界や目の前の他者の輝きにときめいてゆくような好奇心も心意気もない。


「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になることによって、この生は活性化する。本格的な学者はそうやって知の荒野に分け入ってゆくのだし、ネアンデルタール人も、そうやって氷河期の極北の地で生きていた。

恋をすることだって、荒野に放り出されたような心細さを生きることでもある。「女(あるいは男)」というわけのわからない生きものを相手にすることなのだもの、予定調和の「ゆるーい幸せ」だけですむはずがない。人の生がそんなものだけですむはずがないし、そんなものばかり求めて心が停滞したり歪んでいったりする。

原初の人類は、猿としての身体能力を放棄するというかたちで二本の足で立ち上がっていった。そうして、身体能力だけでなく、視覚や聴覚などの五感も退化させながら「生きられない」存在になってゆくことと引き換えに知能というか文化を進化発展させてきた。そうやって進化してきた人類にとって氷河期の極北の地は、極限的な「生きられない」地だったわけで、それでもそこに住み着いていったのは、「ゆるーい幸せ」とは対極にあるその「生きられなさ」こそが、より豊かに深くときめき感動してゆく「皮膚感覚」をもたらしたからだ。

人類がスポーツによる身体能力を賛美するのは、それだけ身体能力が脆弱な存在だからだ。身体能力の進化発展が人類の希望であるのではなく、脆弱な身体能力の「生きられなさ」のまま、そこからより深く豊かにときめき感動してゆくことこそが希望なのだ。人は、そうやって生きて死んでゆく。

人類の希望と理想は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにある。

今どきの大人たちの、その「ゆるーい幸せ」に満足しきったその停滞した思考や行動にあるのではない。そんなグロテスクな自我の満足のために若者や子供たちを教育支配しようなんて、厚かましいにもほどがある。人類の希望と理想は、あなたたちのそのブサイクな顔や脳みそに宿っているのではない。


「ゆるーい幸せ」に執着して、人が人を追いつめる。「もっと夢中になって生きよ」といわれて追いつめられるものはいない。そうやって励まされることはあったとしても。

歳を取ると、夢中になるということがなくなってくる。誰だってそんな、あとさきかまわず「もう死んでもいい」という勢いで生きていたいはずだが、大人になるにつれていつの間にか衰えてくる。社会の制度性に飼いならされて、だんだんそうなってゆく。そうしてそれと引き換えに、自分に満足した「ゆるーい幸せ」に執着するようになってくる。平和で豊かな社会はそういう大人たちを大量に生み出し、そういう大人たちがみずからの「ゆるーい幸せ」を守るために、若者や子供を監視し飼い馴らそうとする。

飼い馴らされている若者や子供も少なくないのだろうが、その関係が自然だともいえない。そうやって大人の仲間入りをしてゆくものもいれば、落ちこぼれてゆくものもいるし、それでも若者や子供の多くは、夢中になって生きたいと願っている。それが、人としての自然なのだもの、大人だってじつはそう願っている。ときめき感動する体験とともに生きたいと願っている。

平和で豊かな社会はそういうイノセントを摩滅させるし、平和で豊かな社会だからこそ、そういうイノセントが貴重にもなる。

ときめき感動する皮膚感覚とともに何かに夢中になってゆく心模様は、「ゆるーい幸せ」の中に宿っているのではない。どんなかたちであれ、「生きられなさ」を生きることによってもたらされる。難しいことじゃない。まあ、あいたい人に合えないとか、お金がないから欲しいものが買えないとか、そういうことだってひとつの「生きられなさ」を生きることであり、われわれのこの生は、そういう「不可能性=無力感」の上に成り立っている。

空を飛べないことの嘆きなんか、猿も犬も持たない。人の心は、その「生きられなさの嘆き」から、華やぎときめいてゆく。

そりゃあ「ゆるーい幸せ」の執着・耽溺していたら、何かに夢中になってゆくというような生き方ができるはずないさ。そんな「ゆるーい幸せ」が人類の希望や理想になるはずがない。そんな「自我の充足」に執着・耽溺しながら生きることに、未来のよりよい社会やよりよい人生があるわけでもなかろう。いいかえれば、よりよい社会やよりよい人生など願わないことが、よりよい社会やよりよい人生なのだろう。

ときめき感動しながら何かに夢中になってゆくことは、「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくことだ。

ときめき感動しながら何かに夢中になっているものは、「生きられなさ」を生きている。


人は、「生きられなさ」を生きているものにときめいてゆく。

ネアンデルタール人は、誰もがこの生も自分も忘れて「生きられなさ」に飛び込んで生きているものたちだったから、誰もがときめき合っていた。

よりよい社会とか人生といったって、誰もが「ゆるーい幸せ」という「自我の充足」に浸って生きることでもあるまい。

ネアンデルタール人の社会は、今どきの左翼であれ右翼であれ彼ら知識人たちが構想しているような希望の社会でも理想の社会でもなかったが、それでも人と人が他愛なくときめき合うという人間性の自然・本質を、われわれよりずっと深く豊かに生きていたのだ。

世界がよくなってくれと願うことを否定するつもりはさらさらないが、それは、「この民族の美しい伝統を守ろう」とか「民主主義という市民正義を守ろう」とか、そういうあなたたちの「自我の充足」にあるとは思わない。そうやって「生き延びる」ことよりも、人と人が他愛なくときめき合うという希望や理想に向かう試行のあげくに挫折し滅んでゆくことのほうがずっと尊いと思う。

右翼も左翼も、「別れを惜しむ」ということができない人たちであり、そうやって仲間どうしが結束し、それぞれの「自我の充足」に潜り込んでいる。それは、ときめき合っているのではないし、その結束は、たがいの敵に対する憎悪や侮蔑の上に成り立っている。そうやって「自我の充足」をまさぐり合っている。まあそんな政治思想とは無縁の庶民の世界でもそうなんだけどさ。そういう世の中なんだろうね。くっつくことができるか、敵対するか、その二者択一で人を選別する。自分が生き延びるために役立つ相手かどうかと、選別ばかりしている。そうやって仲間も敵も、監視し続ける。

生き延びることが、そんなに大事か。その自己撞着はなんなのか。

それでも、人の世はそれだけではすまない。「生きられない弱いもの」はいつの世にも存在するするし、「生きられない弱いもの」として「生きられなさ」に飛び込んでゆこうとする衝動は誰の心の底にも息づいている。少なくとも若者や子供たちは、そうやって「生きられなさ」にときめき感動している。そんな衝動とともに「下流」に向かって落ちこぼれていったって、それはもうしょうがないことだ。それが人間性の自然なのだし、今どきはそんな人間を生きさせないような世の中の仕組みになっている。

それでも人の心は、「生きられなさ」に飛び込んでゆくようにして感動し、ときめいている。

それでも若者や子供たちは、避けがたく「生きられなさ」に飛び込んでゆくような生き方をしてしまうし、「生きられなさを生きるもの」に感動しときめいている。

「ときめき合う」ということ、そして「別れを惜しむ」ということ、そうやって人の世は流れてゆく。

まあ人類はそうやって滅んでゆけばいいのだろうし、人の一生もそうやって死んでゆくのが自然ななりゆきであるのではないだろうか。