ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2016-08-25 生きるなんてむなしいことだ・ネアンデルタール人論212

ろくな文明を持たない原始人であるネアンデルタール人が命を削るようにして氷河期の北ヨーロッパという苛酷な地に住み着いてゆくなんて、なんと無謀でむなしい行為であることか。ストリンガーをはじめとするアホな集団的置換説の研究者たちにいいたい。あなたたちにはそのことに対する感動や敬意というものがないのか、と。その歴史には、無数の死者が堆積している。かんたんにどんどん人が死んでゆく社会だったのだ。そしてその体験こそが、人類史に飛躍的な進化発展をもたらした。彼らはその先駆者であり、殉教者であり、いわば人類史の人身御供になった人々だった。

われわれは、精神的にも身体的にも遺伝子的にも、ネアンデルタール人の末裔なのだ。現代人の血の中にはホモ・サピエンスの血もネアンデルタール人の血も混じっているわけだが、人類史の文化的な進化発展は、ネアンデルタール人の段階を通過しているということが、とても大きな体験になっているのだ。

人は、そういう無謀でむなしいことをせずにいられない習性を持っている。なぜならそれこそが、生きものとして命のはたらきの自然だからだ。われわれはこの生のエネルギーを消費しながら生き、消費し尽くして死んでゆく。

人間だろうと他の生きものだろうと、すべては、無謀でむなしいことをしながら進化してゆくのだ。

人間の心のはたらきだって、生きものとしての「命のはたらき」の上に成り立っている。

命のはたらきは、この世に生まれ出る前や死んだ後の「生きていない」状態を喪失することの上に成り立っている。「生きていない」ことの安定・充足、われわれはそういう「無」を喪失して生きている。

人の心は、「無」に対する「遠い憧れ」を持っている。それは、生きてあるかぎり叶えられることはない。その喪失感=絶望が「遠い憧れ」になる。

「むなしさ」はネガティブな感情ではない。人の心は「むなしさ」に対する「遠い憧れ」がある。日本列島の伝統は、それを「無常」という。


30数億年前、この地球上にはじめてあらわれた生きものは、生まれた瞬間に死んでいった。これほどむなしい生もないと思えるが、命のはたらきとはつまり、死んでゆくはたらきなのだ。「生きる」とは、生のエネルギーを消費すること。そうやって「死んでゆく」ことが生きるいとなみになっている。生きることは、「死んでゆく」ことの無限の反復として成り立っている。

息を吸うことも食うことも、体を動かしてエネルギーを消費している行為でもある。エネルギーを消費しながらエネルギーを充填してゆく。

ライオンは、必死に走ってシマウマを捕まえにゆく。エネルギーを消費することなしには、生のいとなみは成り立たない。必死に走るライオンは、そのとき「もう死んでもいい」という勢いでエネルギーを消費している。

命のはたらきに「エネルギーを消費する=死んでゆく」という仕組みがなければ、「必死に走る」という行為は生まれてこない。生き延びるために必死に走っているのではない。「もう死んでもいい」という勢いで必死に走っている。このことを拡張していえば、人生の成功を目指すという目的意識でどんなにがんばって勉強しても、勉強が好きで好きでしょうがなくて「もう死んでもいい」という勢いで夢中になっているものにはかなわない、ということだ。進化論が語られるとき、前者のような「<生き延びるためのがんばり>によって進化が生まれてくる」という論調が多いが、それは違う。そうやって「がんばる」なら、「進化=変化」しない。変化するまいとしてがんばるのだ。つまり、この生にとどまっていようとしてがんばる。

しかしじっさいの進化は、「もう死んでもいいという勢いで夢中になってゆく」というようなかたちのはたらきを動因としているのではないだろうか。それは、「この生から超出してゆく」現象であり、「命のはたらき」とは「死んでゆく」はたらきなのだ。


たとえばキリン首が長くなった最初は、長い首が生き延びるのに有利だったからではない。最初は不利だったのだ。その進化の歴史のはじめにおいては、首の長いキリンほど早く死んでいった。これはもう、最新の数学的な進化史の研究で、そういう答えしか出ない、といわれているらしい。

そりゃあ、そうだ。キリンになる前がウマのような動物だったとしたら、ウマは地上の草を食んで生きているのであり、木の葉の毒性を解毒できる消化器官にはなっていない。それでも首の長い個体は、木の若芽を食べたがった。長生きできるはずがない。それは、首が長すぎて草が食べにくかったからか?それとも、たとえ毒性があっても木の若芽は美味しかったのか?若芽は、比較的毒性が薄い。とにかくそうやって、やがてはどの個体も木の若芽を食べたがるようになってゆき、解毒できる消化器官にもなっていったし、そこではじめてどの個体も首が長くなっていった。

ウマが草を食べなくなってゆくなんて、自滅行為に違いない。しかし命のはたらきにはそういう「もう死んでもいい」という勢いがあるわけで、生き延びようとするのが自然の摂理であるのではない。

キリンの首は、「もう死んでもいい」という勢いで長くなっていった。生き延びるために木の若芽を食べるようになっていったのではない。それは、木の若芽は美味しいという、世界の輝きにときめいてゆく「皮膚感覚」だった。たぶん、そういうおっちょこちょいの好奇心で進化していったのだ。

生きものの生は、そういう「皮膚感覚」にせかされている。命のはたらきは、「命=生のエネルギー」を消費するという、死んでゆくはたらきなのだ。


「こんなことをしたら生きられない」とわかっていても、それでもせずにいられないことがある。そうやってネアンデルタール人氷河期の極北の地に住み着いていったし、それこそがまあ生きものとしての「本能」のようなもので、人間は「本能が壊れている」のではなく、猿よりもずっと本能的で愚かな存在なのだ。そうやって学問や芸術やスポーツや冒険やセックスをしている。

「進化」は、生き延びようとする歴史であるのではない。

この生のいとなみは、「生き延びる」という「ゆるい幸せ」だけではすまない。どこかの誰かみたいな、鈍くさい運動オンチでインポのくせに格好つけているだけの大人になってもしょうがない。社会的に成功したエリートだろうと、下層の庶民だろうと、そういう鈍感で自意識ばかり過剰な大人がいくらでもいる世の中だが、あんな人間にはなりたくないと、彼らが反面教師の役割をしているということもあるのかもしれない。

愚かなおっちょこちょいで生きていたってかまわないさ。それこそが命のはたらきの自然であり、世のブサイクな大人たちの「正義」や「善」や「生き延びるための知恵」なんかどうでもいい。そうやって自我の安定・充足に執着しながら正しく上手に生きていることこそ、人間性の自然の喪失なのだ。今どきはそうした「ゆるい幸せ」に浸って生き延びることが称揚される世の中だが、それが人間性の自然でも生きものの本能であるのでもない。そんなことを目指して生きものは進化してきたのではない。

自我の充足・安定に執着しながら他人を裁いたり憎んだりしてゆく。そんな正義ヅラはもううんざりだよ、グロテスクだよ。自我の安定・充足に執着した人間から順番に、世界の輝きに対するときめきを失ってゆく。インポおやじになってゆく。

この生を賛美すること自体が、命のはたらきも心のはたらきも停滞衰弱していることの証しなのだ。

生きることなんか、むなしいことさ。しかし因果なことに人は、そのむなしさを抱きすくめてゆく。そのむなしさを共有しながら、人と人の関係が深まってゆく。そのむなしさを共有しながら、ときめき合っている。


2016-08-22 命のはたらき・ネアンデルタール人論211

進化論」を考えることは、「命のはたらき」について考えることだ。

生きものの進化は「皮膚感覚」とともに起こってきた。

つまり生きものの「身体感覚」は、身体の「輪郭=外縁」としての「皮膚」に宿っているのであって、身体の中身としての「肉体」に宿っているのではないということ。

たとえば生きものが体を動かしているとき、そのような「肉体」のことなど忘れている。それはもう、人間だろうと猿だろうと犬猫だろうと鳥だろうと魚だろうと昆虫だろうとミミズだろうと、みんなそうなのだ。みごとなくらい忘れている。

われわれのふだんの意識は、筋肉も内臓も骨も、その実在=物性を感じ取ることができない。誰も感じ取ることができない。それは、「痛い」とか「重苦しい」とかの、何らかの「異変」が生じたときだけに感じ取ることができる。そんなときは、身体を動かしたくないし、動かせない。普通に身体を動かしているとき、「肉体」のことなんか忘れている。

目の前のコーヒーカップに手を伸ばすとき、われわれの意識は身体が動くことができる「空間」だけを意識しているのであって、みごとなくらい「肉体」のことは忘れている。そのとき意識は、「皮膚=身体の輪郭」によって「空間」を認識(察知)している。

まあ、鈍くさい運動オンチほど観念的に「肉体」を意識して、かえって動きが鈍くさくなっている。「肉体」を忘れているぶんだけ身体はスムーズに動く。

身体が動くためには、身体が動くことができる「空間」が必要であり、意識は身体の輪郭としての「皮膚」によって「空間」をとらえ、「空間」とかかわっている。そしてこの「身体が動く」ということは、「生きものが生きること」あるいは「命のはたらき」と言い換えることもできるのではないだろうか。

生きものは、「皮膚感覚」で生きている。

べつに、生き延びようとして生きているのではない。「皮膚感覚」で世界の存在に気づき、世界の存在に「反応」しながら生きているだけだ。

「肉体のことなど忘れている」ということは、「生き延びようとする衝動などはたらいていない」ということだ。生き延びようとする衝動は、「肉体」を意識することの上にしか成り立たない。

人間だろうと他の生きものだろうと、その「自然状態」においては、「生き延びようとする衝動」など持っていない。

生きものは、「肉体」を忘れた「皮膚感覚」で生きている。それはもう、30億年前の原初の生物だろうと現在の人間だろうと同じであり、生きものは「皮膚感覚」とともに進化してきた。

生きものの身体は、「皮膚=輪郭」によって身体たりえている。身体が動くことは、「身体の孤立性」の上に成り立っている。そして「身体の孤立性」は、「皮膚=輪郭」によって担保されている、「皮膚感覚」が生きものの身体を動かし、生きものを生かしている。


ここでいう「皮膚感覚」とは、表面的な自覚された意識ではなく、無意識というか、いわば本能のような意識されない意識のはたらきのことだ。生き延びようとする衝動が「進化」の動因になっているのではない。生きることは、「皮膚感覚」で世界の存在に気づいていったことのたんなる「結果」にすぎない。命のはたらきとは、「命=肉体=自己」を忘れて世界の存在に気づいてゆくはたらきのことだ。植物だって、植物なりの「皮膚感覚」で世界の存在に気づきながら生きている。その生態=進化は、「生存戦略」ではない。「生存」などということは、植物自身の「戦略」ではなく、世界=環境のほうが決定している。

すべての生きものに「戦略」などというものはない。「戦略」などというものは文明人の自意識が持っているだけのたんなる「観念」であり、その「戦略」に執着・耽溺してゆくことによって命のはたらきも心のはたらきも不自然でブサイクになってしまっているのだ。

「生きられないこの世のもっとも弱いもの」に「戦略」などというものはない。世界の存在に気づく「皮膚感覚」があるだけだ。何度でもいうが、世界の輝きにときめき反応していっているだけで、生き延びようとする「戦略」などあるものか。

この地球上のいちばん最初の生きものは、生まれてすぐに死んでいった。生まれることは死んでゆくことだった。それが命のはたらきの根源のかたちで、そのかたちとともに進化してきたのだ。だから人は、「もう死んでもいい」という勢いで自分もこの生も忘れてときめき感動してゆくことができる。

「生き延びる」とか「幸せになる」とか、そんなことはどうでもいい。そんなことを願うところに、人間性の自然や生きものとしての自然があるのではない。


岸田秀は「人間は本能が壊れた生きものである」といい、今どきの多くの知識人が「そうだ、そうだ」とはやし立てているが、どいつもこいつも、まったく何をとんちんかんで安っぽいことをいってやがる。

そんなことあるものか。

われわれの体も心も、「生きもの」である条件から1ミリたりとも外れては成り立たないのだ。人間のすることも考えることも、すべて「生きもの」として説明がつくのであり、基本的根源的には、30億年前の生きものも現代人も同じなのだ。同じ「命のはたらき」を生きているだけではないか。

障害者も健常者も、大人も赤ん坊や子供も、男も女も、賢いものも愚かなものも、金持ちも貧乏人も、有名人も無名の庶民も、誰もが同じ「命のはたらき」を生きているだけではないか。

何が「本能が壊れている」か。くだらない。ちんけな脳みそでちんけな思い付きを語っていい気になってんじゃないよ、と思う。偏見を承知でいわせていただくなら、これだから心理学者のいうことなんか信用できないのだ。おつむが薄っぺで軽すぎるよ。

「本能が壊れている」だなんて、どうしようもなく凡庸でステレオタイプで底の浅い思考ではないか。そのていどの思考で人間性の自然や本質が語れるのなら、この地球上でどのようにして生命が発生し進化してきたかと問う学問など、なんの必要もない。「本能が壊れている」のなら、そんな歴史などぜんぶ無視していいではないか。

心理学で人間がわかったつもりになれるなんて、哲学人類学生物学に対して失礼だよ。まあ心理学というのは、科学の世界でいう「基礎学」に対する「実学」というか「物理学」に対する「工学」のようなもので、哲学人類学生物学よりも直接世の中の役に立っているから、何か妙な説得力があるのだろうな。どうでもいいといえばどうでもいいことだけど、世のマスコミ知識人たちがみんなしてそうだそうだとはやし立てているのが、どうにも目障りだ。なにか、たちの悪いデマというか、「都市伝説」みたいだ。

人間だって、ただの生きものではないか。われわれは、そこから考えはじめる。明日にはもう、命のはたらきが尽きてしゃれこうべになってしまっているかもしれない生きものなのだ。

また岸田秀は、「(本能が壊れた存在である)人間は、観念でセックスする」といっているが、観念でちんちんは勃起しないのですよ。人間がSM等の観念的な変態行為をするのは、観念によって観念を壊してみずからを「生きもの」のレベルに解き放とうとしているだけのこと、誰だって、30億年の生きものの進化の歴史を背負って勃起しているのだ。

勃起することは、世界(=女)の存在に気づきときめくという「皮膚感覚」によって起きる。SMをしようとするまいと、誰だって「生きもの」のレベルに立ち返って勃起しているのであり、30億年の記憶がよみがえって勃起している、ともいえる。それは「命はたらき」であり、不随意筋というペニスの筋肉は、観念では固くならない、あくまで「皮膚感覚」という「無意識」が呼び覚まされなければどうにもならないのだ。


すべての生きものは、「皮膚感覚」で世界の存在に気づいており、この生のいとなみはそこからはじまるし、それは、この生を忘れること、すなわちこの生が滅びてゆく体験でもある。われわれの命のはたらきは、生まれた瞬間に死んでいった原初の生命の発生の体験を基礎にして成り立っている。

まあ「本能が壊れている」だなんて、やめてくれよ、と思う。本能が壊れた観念的な存在である知識人がいちばん偉いとでも思っているのか。観念を駆使して生きることが上手な人間がいちばんえらいとでも思っているのか。自分の中の小汚い処世術や生き延びようとするスケベ根性を正当化しようとして「本能が壊れている」などと言い出す。

自意識過剰の作為的な人間ほど、「本能が壊れている」ということにして自分を正当化しようとする。

「本能が壊れている」だなんて、ほんとにちんけな人間理解だ。かっこつけて知識人を気取ったって、われわれはそこに本格的な知性も人間的な魅力も感じない。

われわれは、もっともイノセントな「皮膚感覚」を持った「生きられないこの世のもっとも弱く愚かなもの」から人間性の本質や自然を学びたいと思っている。生きものとしてのぎりぎりのせっぱつまった皮膚感覚、彼らにはそれがある。そこにこそ人間性の真実がある。そのことを想えば、文明人の賢さも幸せも正義も、ぜーんぶどうでもいいことさ。そんなことをどんなに自慢されても、えらいとなんか思わないし、うらやましくなんともない。ブサイクな顔して、勝手にそんなことばかりほざいていろ。なにが未来のよりよい社会か、よりよい人生か。何がかなしくて、そんなものを欲しがらねばならないのか。そんなアジテーションに世界中の人間がなびいても、僕はごめんこうむる。

未来の社会も未来の人生も、どうでもいいんだよ。目の前の「今ここ」に「反応」してゆく「皮膚感覚」が生きものを生かしている。そして人類は、そうした命のはたらきの根源に遡行してゆくことによって、ともあれ爆発的な「進化」の歴史を歩んできた。

まあ、猿よりも人間のほうが、じつはずっと愚かで「イノセント」な存在なのだ。人類の進化なんて、「もう死んでもいい」という勢いで、行き当たりばったりのなりゆきまかせで生きてきた結果なのだ。

未来の社会がどうなるかということはたぶん、世の知識人たちが思い描く通りにはならない。歴史は、人々の無意識の「皮膚感覚」とともに流れてゆく。誰も、歴史をつくることなんかできない。

われわれの人生もまた、明日はどうなるかわからない。


すべての生きものは「皮膚=被膜」という「身体の孤立性」を持っている。それはつまり、過去からも未来からも隔てられ孤立している、ということでもある。われわれは「今ここ」に立ちつくすようにして生き、そして死んでゆく。

命のはたらきのダイナミズムは、「今ここ」に立ちつくす、というかたちで起きている。

「肉体」は、過去を反芻し、未来を先取りしようとする。

そして「皮膚」は、「今ここ」に立ちつくす。

自我」は「肉体」に宿っている。そして「皮膚」において「自我」から解放される。「皮膚」はまあ、家の「窓」のようなものだ。窓を開けて外の空気を吸い込む、そのようにして意識は「自我」から解放され、世界に気づきときめいてゆく。

「皮膚感覚」とは窓を開けて外の空気を吸い込むようなことで、おそらくそれが「命のはたらき」になっている。

生きものは、口だけでなく、皮膚でも呼吸している。根源的には、生きものは「呼吸」することによって生きているのであって、「食う」ことによってではない。つまり、植物だろうと動物だろうと、現在の地球上の生きものは、現在の地球上の「空気」によって生かされている、ということだ。

「肉体」は「食いもの」を欲しがり、「皮膚」は「空気」を必要としている。

「食いもの」という「政治経済」、「空気」という「ときめき」。

何はともあれ生きものは、「空気」によって生きている。命のはたらきは、食い物(=政治経済)によってではなく、「空気」とのかかわりの「皮膚感覚」とともに起きている。

人の心は、食い物(=政治経済)によって病むのではなく、「空気」とのかかわりの「皮膚感覚」が停滞したり衰弱したり狂ったりして病んでゆく。それは、命のはたらきが病んでいる、ということでもある。

生きものを生かしているのは「食いもの(=政治経済)」ではなく、「皮膚感覚(=ときめき)」なのだ。命のはたらきは、「皮膚感覚(=ときめき)」に宿っている。

生きものの「進化」は、「食いもの(=政治経済)」の問題としてではなく、「皮膚感覚(=ときめき)」とともに起きてきた。生きものを生かしているのは、生き延びるための「食いもの(=政治系経済)」ではなく、「もう死んでもいい」という勢いで体験される「皮膚感覚(=ときめき)」なのだ。生きものは、そうやって「呼吸」している。


人の心の「ときめき」は、根源的な生きものとしての「命のはたらき」によってもたらされているのであり、「人間は本能が壊れている存在である」などといっていてはだめなのだ。「呼吸」することは、生きものとしての「本能」だろう。「本能が壊れている」だなんて、バカいってんじゃないよ。本能が壊れている観念的な人間ほど、より人間的でえらいのか。そうやってこの世の愚かなものや弱いものを見下して何がうれしいのか。人は「呼吸」していればそれでいいのであり、生きものの歴史は、呼吸することの「皮膚感覚(=ときめき)」とともに「進化」してきたのだ。

すなわち未来の社会は、生き延びようとするあなたたちの自我の安定・充足のためにあるのではなく、人々の無意識に宿っている「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆく「皮膚感覚」とともにやってくるのだ。

「未来の社会はかくあらねばならない」とか、そんなことはあなたたちの自我の充足・安定を欲しがる意地汚いスケベ根性がいわせているのであって、どうしてこの社会があなたたちの思う通りにならねばいけないのか。そういうことは、「種」としての人間が「現在」を生きていることの「皮膚感覚(=ときめき)」とともに、なるようになってゆけばいいだけのことだ。

悪いけど僕は、あなたたちのそうした「知性」とか「誠実」とか「理想」というようなものなど、ぜんぜん信用しないし、ただの薄汚いスケベ根性だと思っている。

まあこの世の中はあなたたちのものだからあなたたちが勝手に決めればいいのだけれど、この世の中にはこの世の中からはぐれてしまっているものもたくさんいるし、誰の心にもこの世の中からはぐれてしまっている「身体の孤立性」としての「皮膚感覚」が息づいていることは承知しておいてもよかろう。

まあ、この世の中があなたたちの思う通りになるのかどうか、好きにやってくれ。「よりよい未来の社会を構想する」といいながら、そうやってあなたたちは他人を支配しようとしているのだ。

世の中は、「他人」のものであって「自分」のものではない。それが、生きものとしての自然の「皮膚感覚」すなわち「身体の孤立性」だ。

すべての生きものは「皮膚」を持っている。細胞の中の「核」ですら「被膜」を持っている。そして「皮膚=被膜」を持っているからこそ外部の世界と「つながる=関係する=ときめく」ことができる。

「よりよい社会を目指す」だなんて、他人を自分の「皮膚=被膜」の中に引きずり込んでしまおうとしているようなことだろう。

何はともあれわれわれ人間の心の動きだって30億年前の生物の命のはたらきと原理的には同じであり、べつに「人間は本能が壊れている」などと恰好つけたことをいう必要もないのだ。


2016-08-18 皮膚感覚の問題・ネアンデルタール人論210

人間中心主義でいうのではないが、直立二足歩行の開始以来、人類の脳のはたらきは驚異的に進化発展してきた。それはまあ、そうに違いない。では、猿にはないそうした人の心の動きのダイナミズムはどこにあるのかといえば、生き延びることすなわち自我の安定・充足に対する欲望の強さの問題ではなく、自分を忘れて何かに夢中になったりときめいていったりすることにある。

人類は、「もう死んでもいい」という勢いで進化してきた。

自己意識自我)などというものは、猿でも持っている。いや、猿のほうがもっと確かに持っているともいえる。

人は、自分を忘れてしまう体験をする。猿は、自分を忘れない。

「感動する」という体験は、猿にはできない。

感動して鳥肌が立つ、などというが、大げさであれささやかであれ人はそういう体験を恒常的にしている存在だから、体毛が抜け落ちていったのかもしれない。生きてある状態が、ひとつの「感動=ときめき」という心の動きの上成り立っている。

人の心の動きというか意識のはたらきは、世界と身体の境界である「皮膚」に宿っている。それは、身体の「外縁=輪郭」であると同時に、世界の「内縁」でもある。そうやって皮膚がどんどん敏感になってゆきながら体毛が抜け落ちていったのではないかとも考えられる。

そしてその敏感過ぎる皮膚を保護し落ち着かせる装置として「衣装」をまとうようになっていった。衣装は、「第二の皮膚」なのだ。それは自己の表現であると同時に、自己を取り巻く世界を表現するものでもある。そうやって仕事や冠婚葬祭ユニホームになっているし、流行のファッションは「街の風景」であることをアイデンティティとしている。そのとき「衣装」という「第二の皮膚」は、「自己の肉体」を離れて、仕事や冠婚葬祭という「公共の場の風景」やおしゃれに華やぐ「街の風景」になりたがっている。

つまり「感動する」とは、「自己=肉体」を「喪失」する皮膚感覚の体験なのだ。

人類の体毛が抜け落ちていったのは「皮膚感覚」の問題であり、それは、この生が「感動=ときめき」の上に成り立っていることを意味する。この生はどうしようもなく愚劣でやっかいなものだが、それでも人間にとっては、心のはたらきそれ自体がすでに「感動=ときめき」として生成している。目の前のリンゴをリンゴとして認識すること自体がすでに「感動=ときめき」であり、見上げる青い空を「青い」と認識すること自体が、すでに皮膚がざわざわする体験になっているのだ。


今ちょっと「進化論」の問題を考えている。

地球に生命体があらわれたのは、およそ35〜40億年くらい前らしい。

地球の誕生が46億年前で、最初は無機物だけだったが、無機物どうしが化学反応を起こして有機物になり、それがやがて生命体になっていったのだとか。

まずいくつかの種類のバクテリアのような微生物があらわれ、その違う種類の微生物どうしがつながり、その組み合わせの違いによって植物の細胞と動物の細胞に分化していった。

この「つながる」ということが問題なのだろう。それによって体が大きくなったり複雑な構造になったりしていった。「融合」してひとつになってしまったら、いつまでたっても単純な構造の微生物のままだ。

細胞というのは「核」とそのまわりの成分によって成り立っているわけだが、両者はけっして融合しない。「核」にも被膜があって、つまり二重の被膜の構造になっている。もちろんそれぞれ皮膜を持つ細胞どうしも、つながってはいるが、「融合=一体化」はしない。

アメーバのような単細胞生物は、体の中が融合状態になってくると細胞分裂を起こす。

生物学ではこの「つながっている」状態を「共生」というややこしい言い方をしているのだが、心理学でいう「共生状態」とは病的な関係のことを指すわけで、なんともまぎらわしい。

「つながる」ことは、「融合=一体化」することではない。細胞内の核とそのまわりの成分は、「融合=一体化」することなく、「連携」しているだけだ。その「混じり合わない」ことが生物の進化をもたらした。


雌雄の発生だって、つながって「連携」してもけっして「融合=一体化」はしない、という関係として起きてきたはずだ。

勃起した男のペニスは、女の膣の中に入り込む。それはあくまで「異物」であり、膣の中で膣に溶けてゆくように軟らかく小さくなってゆくのではない。勃起していなければ「つながる」ことはできない。射精して軟らかく小さくなってゆくことは、いわばペニスの死にほかならない。射精してしまうと、急激に「皮膚感覚=ときめき」が減衰・消失してゆく。

すべての生きものは、「身体の孤立性」を持っている。細胞には被膜があり、その中の核にも被膜がある。人の身体も、皮膜=皮膚がある。木や草にだって被膜がある。すべての生きものに被膜がある。

われわれは、「身体の孤立性」という「皮膚感覚」で生きている。それが生物の進化をもたらした。

人類は、「身体の孤立性」をよりどころにして「連携」という関係を進化発展させてきた。それは、「皮膚感覚」の問題なのだ。

内田樹なんかは、この「皮膚感覚」が鈍いから、いつまでたっても鈍くさい運動オンチだし、他人の心に対する想像力が欠落していて、無神経に愚にもつかない自慢話を垂れ流してばかりいる。彼は、そんな自慢話で他人の心がどう「反応」するかということがよくわからないし、自分もまた他人の心の動きや体の動きに「反応」してゆく「皮膚感覚」がどうしようもなく欠落している。だから、あらかじめ仲良くすることが約束されている予定調和の「仲間」とか「家族」とか「共同体」という関係をむやみに称揚する。「反応」を失った自閉的な人間には、「反応」しないでもすむ関係が必要だ。彼らはときめき合っているのではなく、執着し合っているというかなれ合っているだけであり、そうやって誰もが自我の安定・充足にまどろんでいる。

自閉的な人間ほど、他者とのなれなれしく「融合=一体化」した関係を欲しがる。愛だのなんだのといってもそれは、人間性の自然でも生きものの自然でもない。生きものは「融合=一体化」しないで「つながる=連携する」ことによって進化してきた。

細胞の中の核にも「被膜」がある。これは、すごいことだと思う。最初の無機物どうしが化学反応を起こして有機物になるということだって、「融合=一体化」しないから別のものになったのだろう。

まあ内田樹は、同じ人種どうしの「融合=一体化」した集団性を目指しており、心と心が化学反応を起こして連携・展開してゆくという関係を知らない。つまり、勃起したペニスが濡れた膣の中に入ってゆくというのはそういうことであって、「融合=一体化」してゆくことではない。

「仲間」や「家族」や「共同体」の中で他者との「融合=一体化」にまどろんでいたら、知性も感性も人間的な魅力も育たない。

知性がどうのこうのといったって、彼には基本的な「皮膚感覚」が欠落しているし、「皮膚感覚」を持たない知性などたかが知れている。

生きることや自我の安定・充足にまどろんだり執着してしまったら、知性や感性のはたらきなどおしまいであり、人にときめくこともペニスが勃起することもなくなってくるのですよ。

それは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の世界に対するひりひりした「皮膚感覚」のもとに宿っている。


生殖隔離」という問題がある。違う種とは交雑しても生殖(妊娠)しないし、自然に棲み分ける関係になってゆく。また、棲み分けることによって、もともと同じ種なのに違う種になってゆくということもある。

絶海の孤島のガラパゴスの生きものは、「生殖隔離」によって独自の進化を遂げてきた。

北ヨーロッパのネアンデルタール人と中央アフリカのホモ・サピエンスも、50万年前以降「生殖隔離」の関係になってゆき、たがいに大きく違う形質になっていった。

生殖隔離=棲み分け」という生態は、アフリカのホモ・サピエンスのほうが色濃く持っている。それによってアフリカでは、高身長のマサイ族とか尻の大きなコイサン族とか低身長のピグミー族とか、さまざまな形質に分化していった。また、同じ地域に住んで同じような形質でも、部族どうしで言葉も通じないほど分化してしまっている場合も多い。

生殖隔離によって進化するかといえば、そうともいえない。それはひとつの停滞でもあり、新しい環境に適合した雑種に導かれながら進化してゆく場合もある。

ヨーロッパのネアンデルタール人は、ヨーロッパ中で交雑していたから、どこでも同じような形質だったし、同じようなレベルの文化だった。そうやって、どんどん「雑種」を生み出しながら進化していった。

ネアンデルタール人は、彼らの環境に合わせて「進化」していったのであって、世の凡庸な人類学者がいうように「退化」していったのではない。北ヨーロッパに住み着いたネアンデルタール人はめざましい勢いで脳を発達させていったし、その発達した脳はヨーロッパ中で共有されていた。

彼らの脳がなぜ発達したかといえば、その厳しい環境で「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として生きることのその嘆きというかストレスによるのであり、そんな条件下でたがいに生かし合おうとけんめいに「連携」していったからだ。その、世界に反応するひりひりした「皮膚感覚」とともに肌の色が白くなっていったということもあるのかもしれない。

なにしろ、氷河期明けに極北の地に移住していったモンゴロイドであるイヌイットは、一万年以上経った今でも肌の色は白くなっていない。すでに人類の文化があるていど発達した段階で移住していった彼らは、ネアンデルタール人ほどのせっぱつまった「皮膚感覚」の歴史を歩んできたわけではない。

ともあれそれは、それほどにネアンデルタール人は生き延びようとすることに切実だったということを意味するのではない。そんな思いがあるなら、何もわざわざそんなところに住み着いたりはしない。さっさと生きられる環境の土地に移住してゆく。彼らは「もう死んでもいい」という勢いで、そこに住み着いていった。そこにあったのは、生き延びることの充足だったのではない。「皮膚感覚」が豊かにはたらいていることの「ときめき=感動」だった。生き延びることよりも、そういう「皮膚感覚」のほうが、ずっと生きものとしての根源的な本能のようなものにかなっているのだ。

生き延びることなんか、ただの観念的な「政治経済」の問題ではないか。

「身体の孤立性」としての「皮膚感覚」こそが、生きものの歴史に「進化」をもたらした。

適者生存」などといっても、進化することによって滅びていった種はいくらでもある。進化してゆくことは滅びてゆくことだ、ともいえる。生きものの命のはたらきは、生き延びるためのシステムとして成り立っているのではない。「今ここ」の世界に対する「皮膚感覚」として成り立っているだけだろう。たとえそれが滅びてゆくことであっても、「皮膚感覚」がそのようにはたらけばそうなってゆく。生き延びるかどうかなどということは世界=環境が決定することであって、生きもの自身が選択することではない。

ネアンデルタール人は、滅びることを選択するようにして氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。彼らを生かしていたのは、「皮膚感覚」だったのであって、生き延びようとする欲望だったのではない。

われわれが生物学の問題として知りたいのは、なぜそれが生き延びることができるかということではなく、生きものとしてのその「皮膚感覚」がどうなっているかということにある。

ネアンデルタール人は、生き延びることができない生を生きていた。だからこそ豊かに「皮膚感覚」がはたらき、ときめき合い連携していた。

生きものは「皮膚感覚」とともに進化してゆく。たとえそれが滅びてゆく道であっても。

未来はどんな社会になるかということは、時代の流行と同じように、人々の「皮膚感覚」の問題であって、生き延びることができるよりよい社会になるとはかぎらないし、そうならねばならないというわけでもない。

生きものは、生き延びることを目指して生きているのではない。「身体の孤立性」を根拠にした「皮膚感覚」とともに生きている。この世界に対してどれだけ豊かに「反応」してゆくことができるか。それが、「進化」の契機になる。

原初の海の中の小さな生物(動物)は、目が五つあるとか、とんでもないかたちをしたものが多かったのだとか。それは、生き延びるためではなく、「今ここ」に反応する「皮膚感覚」によるなりゆきまかせの進化だったのだろう。現在のような目は二つといった法則を持った形に整えられてきたのは、環境による淘汰のなせるわざであって、生きもの自身は、原初も今も「今ここ」の「皮膚感覚」のなりゆきまかせで生きている。


2016-08-16 別れのかなしみと遠いあこがれ・ネアンデルタール人論・209

人類史において最初に「埋葬」という葬送儀礼をはじめたのは、おそらくネアンデルタール人だった。

ネアンデルタール人の洞窟からは、たくさんの彼らの遺骨が出土する。それは、彼らが死者を洞窟の土の下に埋めていたことを意味するのであって、ストリンガーをはじめとする世のバカな集団的置換説の研究者がいうように、洞窟の中に捨て置いたのではない。そんなことをしたら、洞窟中に異臭が立ち込めるし、肉食獣が寄ってきたり、ハエやウジ虫やバイ菌などが大繁殖して大いに不衛生でもある。誰が好き好んでふだんの寝起きの場である洞窟に死体を放置しておいたりするものか。

洞窟の土の中からネアンデルタール人の骨が出土するという考古学の証拠に照らし合わせれば、彼らはもう30万年以上前から「埋葬」という行為をはじめていたことになる。そこに埋めないかぎり、そこから骨が出土することはありえないのだ。

そのころのアフリカ中央部では、一定の地域内の小さな森から森へと移動しながら暮らしていたから、移動の際に放置していっても問題はなかった。

そしてネアンデルタール人がなぜ埋葬という行為をはじめたかといえば、「霊魂」とか「生まれ変わり」というような概念に目覚めたからではない。人類がそういう観念を持つようになったのは葬送儀礼を繰り返してきたことの「結果」であって「原因」ではない。

親しい他者が死ねば、かなしいに決まっている。それは、永遠の別れだ。その「別れ」を受け入れるために、その「かなしみ」に耐えるためにはじめた。それだけのことさ。

しかし、人類史においてそのかなしみがきわまってくるまでには、長い長い年月を要した。

アフリカのホモ・サピエンスのように移動生活をしていれば、物理的にもわざわざ埋める必要がないし、彼らはサバンナを横切る際に誰かが肉食獣の餌食なってしまうということをいつも体験しており、それはもう見殺しにするしかなかった。助けようとしていれば自分も餌食になってしまうし、誰かが餌食になることによってほかのみんなは逃げ切ることができる。そういう歴史を歩んできた人々だったのであればもう、自分の命は自分で守るしかないという意識になってゆく。そういうミーイズムとともに「見殺しにする」という歴史を歩んできたのであれば、「埋葬」という発想が生まれてくる歴史段階には、なかなかならない。彼らにとって死は、放置するものだった。埋葬しないことこそサバンナの歴史の無意識だった、ともいえる。

洞窟の中で一緒に暮らして「けっして見殺しにはしない」という態度と意識が育っていったことによって、「別れのかなしみ」がきわまり、「埋葬」という行為がはじまった。

氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境においては、乳幼児は、けんめいに介護しないことには育たたない。けんめいに介護しても、半数以上は死んでゆく。

子供の死ほどかなしい体験もない。ネアンデルタール人の埋葬は、おそらく乳幼児を対象としてはじまった。無数の子供の死を体験しながら「別れのかなしみ」がきわまっていった。

「別れ」を受け入れること。そのときネアンデルタール人は、受け入れることができない「別れ」と遭遇し、それでも受け入れるほかないくるおしさとかなしみとともに「埋葬」をはじめた。

もしも「天国」や「生まれ変わり」ということが信じられるなら、なにも普段の生活の場である洞窟の土の下に埋める必要はない。どこか遠いところに捨ててきてもかまわない。

西洋人は、基本的に死体は「霊魂のぬけがら」だと思っているから、無理に埋葬しなくてもかまわない。レーニンの死体は永久保存して飾っているし、歴代の高僧のミイラしゃれこうべを陳列している教会もたくさんある。

霊魂」や「生まれ変わり」という概念を持ってしまったら、埋葬の契機は生まれてこないのだ。

その「別れ」は耐えがたかった。しかし洞窟に置いておけば悪臭を放ってくるし、腐ってうじ虫がたかってきたりするから、一緒にいたかったらもう埋めてしまうしかなかった。

そうやって「今でも一緒にいる」という気持ちを残しながら、同時に「別れ」を果たしていった。

彼らは、「別れ」を果たすことができる人たちだったからこそ土の下に埋めることができたし、別れることができないほどに深くかなしんだから、洞窟の中に置いておこうとした。


親しい他者の死はほんとにかなしく、なかなか別れを果たすことができない。どうしても、別れを果たすための猶予期間が必要になる。そのための通夜であり、初七日であり、一周忌であり、三回忌七回忌へと続いてゆく。盆になれば死者の霊魂が返ってくるという風習だっって同じで、残されたものたちは、なかなかあきらめきれない。

現代人は、自分が死んだら天国や極楽浄土に行くということを確認しようとする自意識もこめてそうした死後の儀礼をしているきらいもあるが、ネアンデルタール人はひたすら死者に対するあきらめきれない「かなしみ」ととともに「埋葬」をはじめた。

葬送儀礼の本質は、あくまで「別れのかなしみ」にある。それはもう、今でもそうなのだ。

日本列島のもっとも古い葬送儀礼のひとつに「もがり」という習俗がある。死体をいったん森の中に放置しておき、すっかり骨になってからその骨を洗ってあらためて埋葬する。

死は骨だけになることによって完結する、という死生観。人の心は、どうしても死者との「別れ」を果たすための猶予期間を必要とする。

コンドルに死体を食べさせるというチベットの「鳥葬」だって同じだろう。

ネアンデルタール人は、死者の頭部の皮を剥いで埋葬するということをしていた。これを一部の人類学者は「食人(カニバリズム)」の証拠だといっているが、その真偽はともかくとして、「骨だけになることによって死が完結する」という思いはあったに違いない。洞窟に埋めた死体をあとになって掘り出せば、必ず骨だけになっている。死体を埋めるために土を掘った際にほかの死体の骨があらわれてくるということは、頻繁にあったに違いない。しゃれこうべのそばに動物の生首などを添えて祭壇のようなものをつくっていた、という発掘例もある。彼らは、埋葬という行為を繰り返すことによって「死は骨だけになることによって完結する」という死生観に目覚めていった。

人類は、死者との別れを果たすために葬送儀礼をはじめた。

カニバリズムの習俗は中国においてもっとも盛んだったらしいが、その最初は権力階級で行われていたものだったらしく、人類は文明国家発祥以降にそうした習俗を持つようになったのではないかと思える。

原始人、ことにネアンデルタール人は、文明人よりもずっと死と和解しており、生き延びるために食人をするというような発想はなかったのではないだろうか。死者の霊魂を授かるとか、いろんな意味で生き延びるために食人をするのだ。食人をして骨はどこかに捨ててくる、というようなことをしていたら、埋葬など生まれてくるはずがない。肉よりも骨のほうが大切だったのだ。彼らは、ひたすら親しい他者の死をかなしんだし、死に対する「遠い憧れ」があった。死は、生きられない生を生きている彼らにとってのひとつの救済だった。文明人のような「生き延びる」という欲望は希薄な人たちだった。

霊魂」とか「生まれ変わり」というような概念を持っていたら、「埋葬」という行為はけっして生まれてこない。論理的にそれはありえないのだ。

ただもう、純粋な死に対する「遠い憧れ」があった。

生まれ変わらせるためでも天国に送ってやるためだったのでもない。

人類は、死者の死を完結させて死者との別れを果たすために「埋葬」という行為をはじめた。

骨が持つ完結性とともにその習俗が定着していった。人肉に対する興味など持っていたら、「埋葬」という行為など生まれてこない。彼らは、生きることに執着などしていなかった。生きることを嘆き、死に対する親密さと、死者と対話することの不可能性にひたすらかなしみつつ、その行為をはじめた。


親しい他者に死なれることは、そりゃあつらい。今どきは、そうした死者との対話に熱心なあまり心を病んでしまう人がいるらしいが、それだけ心が「霊魂」や「生まれ変わり」という概念に冒されてしまっているからだし、人と人の関係が密着してなれなれしくなってしまっている世の中だからということもあるのだろう。

死者に対してであれ、生きているものどうしであれ、ネアンデルタール人のように「遠い憧れ」を抱いて関係してゆくということがなぜできないのか。そういう「イノセント」をなぜ持つことができないのか。

今どきは、人に対してなれなれしく付きまとうことがやさしさとか心の温かさのようにいわれ、そのようにして「家族」とか「絆」というものが称揚されてゆくのだが、人に付きまとわれることなんか鬱陶しいばかりではないか。

人類が死者に対する葬送儀礼を持っているということ、すなわち死を意識する存在であるということは、心のはたらきの基礎が「遠い憧れ」にあるということを意味する。それに対して文明社会の政治経済は、人と人の関係をより接近させることによって効率的に機能する。政治経済は、人と人を一体化させてしまう。政治経済が人のいとなみの自然であり本質であるというのなら、「遠い憧れ」はどんどん心の底に封じ込められてゆく。

人と人の関係は、接近してしまうからややこしく息苦しいものになってくる。離れて向き合うことによって、はじめてときめき合うことができる。

今どきは、大人になればなるほど思考が政治経済的になってゆく。庶民のおばちゃんの井戸端会議だって、「遠い憧れ」がなくて、現実的で通俗的な話ばかりしている。もちろん男たちはなお俗っぽいわけで、だから、「アベノミクス」とやらの掛け声にしてやられるのだろうか。

政治経済の世の中だ。自意識過剰な人間ほど政治経済のことを語りたがる。意識が「自我の安定・充足」という目的ばかりに向いていれば、思考はどんどん政治経済的になってゆく。人々の「自我の安定・充足」のために政治経済が機能している。

そうして原始時代の歴史だって、政治経済の問題として語られている。「未来に対する計画性」が人類の知能を発達させたとかなんとか、やめてくれよと思う。原始人にとっては「生き延びる」とか「自我の安定・充足」などということは、それほど大切な問題ではなかったのですよ。そんな問題意識で。人類の知能が進化発展してきたのではない。現代人だって、心の中の「イノセント=遠い憧れ」とともに純粋に深く豊かにときめいてゆくことができる人は、そんな問題を第一義として生きているわけではない。

原始人が「未来に対する計画性」としての「生まれ変わり」を信じていたということなどありえないのだ。そんな自意識過剰の妄想は、今どきの「スピリチュアル」中毒患者たちが寄ってたかって大騒ぎしているだけの問題ではないか。それだって、どうしようもなく通俗的な政治経済の問題にすぎない。「スピリチュアル」でよりよく生きたいとかよりよい社会をつくりたとか、原始人にはそんな自意識過剰のスケベ根性どなかった。彼らはひたすら「今ここ」の世界や他者の輝きにときめき反応しながら生きていたし、今だってそれが人の心の動きの自然なかたちではないかと思える。

今どきの大人たちは、わかったような顔をしてえらそうなことをいうばかりで、人間性の自然としての「イノセント」というものがなさすぎる。


2016-08-15 悩むなんてくだらない・ネアンデルタール人論208

僕は自分の中の自意識にいつも四苦八苦していて、けっしてイノセントな人間ではないが、他者のイノセントに対するときめきなら持っている。無防備で他愛ない他者のイノセントに付け込んで支配しようとしたりたぶらかそうとしたりするような趣味はない。

イノセントな人と他愛なくときめき合い微笑み合う体験ができるなら、それは至福だといえる。

べつに人から尊敬されたいなどとは思っていないし、尊敬もしない。ただ、ときめくだけだ。

人間ならイノセントは誰の中にもあるはずで、イノセントによってこそこの生の解放と自由がもたらされるはずなのに,われわれはイノセントではいられない生を余儀なくされている。そういう世の中だし、われわれの中のよけいな自意識自我が、イノセントであることを阻んでいる。

今やもう、純粋無垢なイノセントなんて、知恵おくれの障害者や赤ん坊にしかないのだろうか。

正義ぶって人を憎むとか裁くとか支配しようとするとか、そういうのって醜態だと思うし、けっきょく自意識過剰だからそうなってしまうのだろう。

裁かれたり支配されたり差別されたりするのは、誰だっていやではないか。それでもそんな態度に出てしまうのは、相手の気持ちよりも自分の気持ちの安定に執着してしまっているからだろう。

自分の気持なんかどうでもいい、人が気持ちよく生きられることを第一に考えることがなぜできないのか。まあ僕としても、できることなら誰に対してもそういう態度であることができたらと思うのだけれど、自意識をむき出しにしてこちらを裁いてきたり支配しにかかってきたり差別してきたりされると、うんざりしてしまう。そんな人をかまってなどいられない。なにがかなしくておまえの自我の充足に奉仕しなければならないのか、という気になってしまう。

自意識過剰の正義ぶった人は、そうやって親しい関係になればなるほど、相手の気持ちが離れていってしまう。嫌われてしまう。そして因果なことに、そういう人ほど人との「別れ」に耐えられない。自分がこんなにも好意を寄せているのに、と思っても、それは自我の充足のために相手との関係に執着しているだけで、ときめいてなんかいない。こんなにもやさしくしてやっているのに、といっても、いざとなると自我の充足が第一だという本性をむき出しにしてくる。相手の気持ちが自分から離れていったら、そっとしておいてやればいいだけではないか。相手の気持ちを第一に考えるなら、そうするしかないではないか。彼らは、別れ際に、じつは相手の気持ちなどなんにも考えていないしなんにも気づくことができない、という本性をさらけ出す。

悪いけど、そんな人の相手なんかしてられないよ。

あなたがどんなに正しい人格者であろうと、あなたなんかちっとも魅力的じゃないし、正義ぶって人格者ぶっている人間ほどいざとなるとそういう「自己中=唯我独尊」というか、いかに他人の気持ちに鈍感かという本性をさらけ出す。

「正義」や「善」なんかどうでもいい。他人は、あなたが魅力的かどうかということだけを見ている。親しくなればなるほどそうなってゆく。「正義」や「善」で世の中の付き合いが成り立っているとしても、心を許し合うような生身の人と人の関係は、そんなところにはない。

正義や善を振りかざしたって、誰があなたにときめいたりするものか。

僕は、人を赦すけど、すべての人にときめくことはできない。裁かれたり支配されたり差別されたりしても、怒ったり憎んだりすることはしないけど、そうそう傷ついてばかりもいられないから、くだらない人間だなあとうんざりしつつ口もききたくなくなってしまう。この世の中にはあんなくだらない人間がいるのかとかなしくなってしまう。

幻滅すること、かなしむこと、それでやっとこさ自分を支えている。

たぶん、憎むことよりは、幻滅したりかなしんだりすることすなわち「嘆く」ことのほうが精神衛生にいいし、そのほうが人間性の自然にかなっていると思える。そのほうが「ときめく」心を残しておくことができる。

くだらないものはやっぱりくだらないし、われわれの希望は、「正義」や「善」や「幸福」ではなく、この世に「生きられないもっとも弱いもの」が存在することの「悲劇」やその「イノセント」にこそにある。世界の輝きにときめくことができるという希望がなければ、生きられない。「別れ」に涙して「別れ」を受け入れること、その「喪失感」に人間性の自然があり、感動がある。

何が欲しいというのか。ただの無意味な人生なんだしさ、「正義」も「善」も「幸福」も「よりよい社会」も「よりよい人生」もどうでもいい。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」こそ、もっとも深く豊かで純粋な「ときめき」を知っている。彼らの「イノセント」は、「喪失感」の「かなしみ」を生きている。

人と別れるとか何かを喪失する体験は「かなしむ」ものであって、「苦悩する」ものではない。「悩む」なんて、愚劣だ。悩み苦しんだ経験なんか、なんの自慢にもならない。自意識過剰で、自分の思い通りに生きたいからそうなるだけのこと。僕にそんな経験がないとはいわないが、そんな経験など恥ずかしい。

あなたたちが自慢する「苦悩」の体験なんか、ちゃんちゃらおかしい。

まあ、「悩み」の向こうに「かなしみ」があるのかもしれない。

生きられない氷河期の極北の地を生きていたネアンデルタール人は、われわれ現代人ほどの「悩み」などなかったが、われわれ現代人よりもずっと深く「かなしみ」を知っていた。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちはみんなそうだし、そこにこそ、人としての存在の輝きがある。