ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2018-12-30 感想・2018年12月30日

処女従軍慰安婦

今、電子書籍にするために「女性論」を書いています。

主題は、女の中の処女性、そしてそれは日本文化の伝統の問題でもある。

処女」とは、処女を守ろうとする存在であるのではない。処女にとってセックスは死にも等しいような体験なのに、それでも「やらせても上げてもいい」と思う。処女がそういう気になる存在でなければ、生物の雌雄のしくみなんか成り立たないではないか。したがって、この世でもっとも深く豊かに「処女性」をそなえている女は「娼婦」だ、ということになる。

従軍慰安婦の強制連行なんか一部ではあっただろうし、そういうことが起きるのが人の世のつねなのでしょう。「なかった」だなんて、いかにも不自然であり、人間について無知すぎる理解です。そんなことはすべての現場を検証してからいえ、という話であり、われわれにいえることはただ、人間の本性に照らしてそれはありうることだ、というだけです。

従軍慰安婦にされることはたしかに悲惨なことだけれど、そこにだって女の中の「処女性」の尊厳はある。

かんたんに「もう死んでもいい」と思ってしまう……女の中には強制連行されてしまうような「処女性」が宿っているのであり、そうやって江戸時代にはたくさんの貧しい農村の処女たちが身売りされていった。

この世の中でもっとも潔く娼婦になる決断ができるのは処女であり、戦後の荒廃した街にパンパンと呼ばれる街娼が現れてきたのは、日本列島の女の中に宿る処女性の伝統にほかならない。娼婦性とは処女性の別名なのだ。

親や周りの大人たちに諭されて従軍慰安婦になったことだって、強制されたのも同じではないか。人類の歴史は、世界中等しくそういう罪を負っている。

人類の歴史を中心で支えてきたのは神への信仰ではなく、女の中の「処女性」なのだ。

この国の戦後復興も、まずは処女性の象徴としての「女神」を祀り上げながら、人と人がときめき合い連携してゆくダイナミズムを生み出していった。それはとても原始的な文化であり、人類は、共同体=国家の上に君臨する「神」という概念を見出す前に、まず「処女の超越性」に気づいていったのです。

原始信仰とは、「処女の超越性」を祀り上げてゆくことにあった。まだ「神」などという概念を持つ前の段階です。処女とは「もう死んでもいい」という勢いの覚悟で男にセックスを「やらせてあげる」存在であり、その「超越性」を祀り上げてゆくことによって集団の連携が活性化し、やがては共同体=国家というレベルの規模にまで膨らんでゆき、そこでようやく「神」という概念が生まれてきた。人類の集団がそういう規模にまで膨らんでいったのは氷河期明けのつい最近のことだが、そうなるためにはまず見知らぬ者たちがたくさん一か所に集まってきてときめき合い連携してゆくという集団性が生まれてこなければならないわけで、そうやって盛り上がってゆく原動力は「もう死んでもいい」という勢いですべてを許す「処女の超越性」にあった。「やらせてあげてもいい」ということは「許す」ということです。

慣れ親しんだ者どうしだけでセックスをしているかぎり、集団は大きくなってゆかない。そして処女とははじめてセックスをする存在であるがゆえに、どんな見知らぬ男とでもセックスをすることができる。それは、「もう死んでもいい」という勢いの覚悟でこの世のすべてを許してゆく態度です。その「超越性」を祀り上げながら人類の集団は無際限に大きくなっていった。そうして共同体=国家の上に君臨する創造主としての「神」が祀り上げられていったわけだが、その「神」という概念が未開の原始的な集団に伝播されてゆくことによって、処女が「女神」として格上げされていった。

国家共同体は戦争と政治支配が中心の男社会だから、「女神」を祀り上げることは許せないことです。そうやってキリスト教の社会では、そこから派生してきた「マリア信仰」を否定し、処女を「魔女」として断罪していった。

僕は今、このことを考えています。この国の右翼が慰安婦問題などなかったと主張することは、心理的思想的には魔女裁判と同じです。そういうゲスで下品な思考の上に立って彼らはそう合唱している。

終戦直後は、明治以降帝国主義思想を清算し、人類史の伝統であると同時にこの国の伝統でもある「処女の超越性」がよみがえった時代であったはずです。そしてバブル経済の崩壊や相次ぐ大震災原発事故を経験した今、もう一度人類史普遍の無意識としての「処女の超越性」を祀り上げる気運がひそかに起きてきているのだろうし、それをつぶそうとするヒステリックな主張もいっそう声高になってきているらしい。

さてわれわれ民衆は、いったいどちらの声に流されてゆくのでしょうか・


蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

試論ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

『初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

試論ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

『初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

試論ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

試論ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

『初音ミクの日本文化論』前編……250円

『初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。


2018-12-27 感想・2018年12月27日

<世界は輝いている>

毎年のことながら、べつにいい一年でもなかった。

あと2・3日のうちに新しい電子書籍を3冊まとめて出そうと思っています。

題材は、「女性論」と「文化人類学的なこと」と「日々の雑感」、です。

やっぱり僕の資質では、タイムリーな政治思想とか社会学的なことはうまく語れません。

僕としては普遍的な「人文知」みたいなことをいつも考えているわけだけど、今どきはそういう基礎的な思考よりも即効的な知識のほうが求められている時代らしい。

まあ、こうして文章をネットに発表し続けているかぎり、できるだけたくさんの人に読んでもらいたいと思っているのだけれど、これじゃあだめかなあという無力感のほうが先に立ってしまう。

とはいえ芸能人の人気ブログだろうと有名知識人著作だろうと、けっきょくのところ内輪の限られた言論空間で盛り上がっているだけで、人の世全般に届いているわけではない。

世の中は内輪の狭い世界で盛り上がったほうが商売になり、人の世全般を意識しているとかえって人気になれない。

政治商売だろうと経済商売だろうと知識商売だろうと、商売とはもともとそういうものなのでしょうね。

普遍的根源的なところを考えようとしても、なかなか相手にしてもらえない。しかしそれでも、「自分もそういうことを考えている」といってきてくれる人もいるわけで、人が人であるかぎり、そういうことを考えようとする動きが消えてなくなるわけでもなかろうとも思います。

学問の府としての大学だろうと出版業界だろうと、そういう商売にならない部分を守るということをしようとしているのだろうし、そうでなければ世も末でしょう。

あるいは、だんだん世も末になってきているのでしょうか。みんなして世も末だと嘆きながらますます世も末になってゆく、ということでしょうか。

たとえば、直立二足歩行からネアンデルタール・クロマニヨン人までの古人類学のことでいえば、東大京大研究者だって表面的なデータに踊らされて薄っぺらなことばかりいっている。データなんて、いかようにも解釈できる。「人間とは何か」という基礎的な思考がいい加減なら、データの解釈もまた、かんたんにねじ曲がってしまう。

もっとみんなで「人間とは何か」ということを考えようよ、と僕としてはいいたいわけだが、そんなことは商売にならないらしい。

リチャード・ドーキンスは、「進化はゆっくりと遠回りするように起きてゆく。だからちょっとでも進化すればそれは生き延びるのに有利な個体として子孫を増やしてゆく」といっています。しかし、これは違う。先走ってちょっとでも進化したものほどさっさと死んでいって子孫を残せない。不利な個体も含めてみんなで進化してゆくから、ゆっくり遠回りになるのです。これはもう、最新の数学進化論の分析として常識になりつつあります。キリンの首は、長くないものが多数派を占めながら長くなっていったのだとか。

人類の直立二足歩行だって、もともと生き延びるのに不利な姿勢だから、立ち上がったものから先に死んでゆくのであり、みんな一緒に立ち上がって進化していったのです。現在にいたる歴史においても、いつの時代も支配される弱者としての民衆が多数派を占めながら推移しているではないですか。貧乏人の子沢山というように、生きにくいことの嘆きを抱えている者たちこそより豊かにときめき合い繁殖してゆく。これはもう、キリンの首が長くいったことだって同じだし、人類は二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になったからこそ、一年中発情しているようになり、圧倒的な繁殖力を獲得していった。まあこれが、古人類学の基本でしょう。彼らは、そういうことをなんにもわかっていない。

「人文知」とは、「生き延びる」ための方法や知識を問うことではない。人類は「もう死んでもいい」という勢いで進化してきたのであり、そこのところが問われねばならない。死に対する親密さの上にこそ「人文知」があり、そこにおいてこそこの生が活性化する。

まあ商売は生き延びるためのいとなみであり、本気で「人文知」を問うていったら商売にならないのでしょうね。

であれば僕が今電子書籍を出そうとすることは、商売にならないことで商売をしようとしているわけで、われながら何やってるんだろう、と思ったりもします。

ぼくの書くものにはマーケットがないのだろうし、全人類がマーケットだとも思う。今回の「女性論」だってそれなりに小難しい屁理屈を並べて書いたのだけれど、それでも15歳のバカギャルとだってコミュニケーションしたいという願いも込めました。生き延びるのに有利な「いい女」について考えたのではない、生きられなさを生きている女の輝きについて考えたかったのです。

人類が生き延びるための叡智……などというものに興味はない、人類滅亡はめでたいことだ、それでも「世界は輝いている」というそのことが気になるばかりです。


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2018-12-23 感想・2018年12月23日

<腹を切る>

東条英機は悪だったのか……?

道徳的にいいか悪いかということ以前に、敗戦国としてはもう、その裁きは潔く受け入れるしかなかった。それが日本列島の伝統的な精神風土でしょう。

歴史修正主義といういじましさ、意地汚さ。裁かれたら、言い訳なんかしないでさっぱりと腹を切るのが日本列島の伝統です。

中世百姓一揆のリーダーたちはみな粛々と首を切られたのだし、それは最初から覚悟していたことです。東条英機がA級戦犯として処刑されたことだって同じであり、それはもう受け入れるしかない。

朝鮮慰安婦なんかいなかった、だなんて、今どきの右翼はどうしてそんないじましいことをいうのか。たとえ一人二人のことを百人にされてしまおうと、それはもう受け入れるしかない。それが戦争に負けた国のたしなみというものでしょう。

ましてや、百人のうちの一人か二人はそうじゃなかったからといって、全員がそうじゃなかったと主張するなんて、意地汚いにもほどがある。たとえ九十九人がそうでなかったとしても、言い訳せずに腹を切るのが武士のたしなみなのです。

いや別にそうしろというのではなく、清く正しい右翼を自認するなら、そういう身の処し方もあるということくらいは承知しておいてもよい。

もちろん僕自身は清くも正しくもないただの凡人だけど、彼らの歴史修正主義のいじましさには、ほとほとうんざりさせられる。

戦争のリーダーになるのなら、悪人として処罰されることはあらかじめ覚悟しておく必要があるし、あの戦争は日本人みんなで戦ったのだから、みんなが悪人として腹を切るしかなかったのであり、そうやって戦後の歴史がはじまり、憲法第九条を定めた。そういう歴史のなりゆき=運命が、もはや消すことのできない「事実」として残った。

南京大虐殺がどの程度の規模であったのかはわからないが、虐殺があったという事実はちゃんと映像として残っているのであり、その事実そのものは受け入れるしかない。この国だって原爆や大空襲という虐殺(ジェノサイト)を受けたのであり、戦争とはもともとそういうものだし、そんなことくらいは世界中の人間が知っている。

憲法第九条の精神は、ただ戦争をしないというだけのことではない。自分たちは戦争を仕掛けていったものとしていかなる責めも甘んじて受け入れ、国として滅びることを覚悟して生きてゆく、つまり、人としての「魂の純潔」に殉じる、ということを宣言している。

戦後の日本人は、死者に対するある種の後ろめたさというか、生き残ったことに対する申し訳なさのような感慨を共有していた。

あの戦争で、どれだけたくさんの人が死んでいったことか。そして、生き残ったからといって安楽な暮らしが待っていたわけでもなく、めでたしめでたしという気分だったのではない。

日本列島には、生き残ることを賛美するような伝統はない。無念の死を遂げたヤマトタケル菅原道真平家物語のように、死者に対する親密な感慨を歌い上げるというか死者を祀り上げることこそ文化の本流なのだ。

敗戦直後も震災直後も、みんなして死者のことを想った。それは人類史の普遍的な伝統であり、日本文化はことにそうした原始的な性格を色濃く残している。

人類がチンパンジーやゴリラなどの猿に比べてものすごく人口を増やしてきたということは、そのぶんものすごくたくさんの死者を見送ってきた、ということです。もともとチンパンジーよりも弱くかんたんに死んでしまう猿だったのに、それでも圧倒的な繁殖力で人口を増やしてきた。

われわれ日本人は、あのひどい敗戦によって、どれだけたくさんの死者を見送ってきたことか。戦争が終われば、戦争はひどいものだという実感は薄れても、親しかった死者はもう二度と戻らない、という想いはそうかんたんには消えないし、死者のことがいっそう恋しくもなる。

1957〜8年に島倉千代子の「東京だよおっかさん」という歌が大ヒットした。これは、東京に出て働いている娘が田舎から母親を呼び寄せ戦死した兄のことを想いながら皇居や靖国神社に詣でる、という歌詞だった。

これがなぜ大ヒットしたかといえば、島倉千代子という歌手がその声や風貌に漂わせている処女性の気配と、戦後十年以上たってもまだ日本人は死者のことを想いながら暮らしていたということにある。

処女が清らかだというだけの話ではない。死者の超越性は、そのまま処女の超越性でもある。処女=思春期の少女の心は、現実世界にはなく、すでに死者の国に超出してしまっている、ということ。まあその歌は、そうやってそのころの日本人の心を大いに揺さぶったのであり、その「処女性」は戦後の憲法第九条の精神でもあったわけです。

つまりそのとき人類史の普遍的な伝統が憲法第九条としてよみがえったのであり、それが70年守られてきたことは普遍的な人としての「歴史の無意識」の問題であり、べつに意識的に守ろうとしてきたわけではない、ということです。気がついたらそうなっていた、というだけのこと。そしてそれが今、国民投票という「意識」のレベルで守るべきかどうかと問われる状況になっているわけで、そうなると多くの民衆が「いまさら聞かれてもねえ」とちょっと戸惑っている。

それが不合理なものであるのはわかりきったことです。しかしわれわれが人間であるなら、その不合理は肯定するしかない。命のはたらきも心のはたらきも、不合理すなわち処女の超越性においてこそ活性化する。合理的であることは、命も心も停滞し澱んでゆくということです。現在の社会は、合理的であることの正義を信奉しつつ、すっかり停滞し澱んでしまっている。

停滞し澱んでしまっているということは、権力社会であれ民衆社会であれ停滞し澱んでしまっている人間がのさばっている、ということです。そういう者たちが、「正義」を叫び「健康」や「生命賛歌」を合唱している。しかし、そんな正義・正論などどうでもよろしい。人々の心を動かすのは、言葉の「輝き=魅力=処女性」であって、正義・正論ではない。そのようにして終戦直後の人々は「娯楽」を切に求めたのであり、その不合理極まりない憲法第九条のもとで、正義・正論を旗印に戦争をすることを放棄した。

戦後十数年は、民衆のセンチメント=処女性がまだ生きていたわけで、そうやって演歌の泣き節が大流行していった。

センチメントなんてただの不合理です。しかしそれがなければ、ジョン・レノンの『イマジン』ではないが「戦争のない世界を夢見る」ことなんかできないのであり、じつはそれによってこそ心が活性化する。古いやまとことばではそれを「たおやめぶり」といった。それが日本列島の伝統的な精神風土であり、終戦とともによみがえった。

そのセンチメントこそが戦後復興エネルギーだったのであり、この国の民衆社会は「センチメント=たおやめぶり」によって活性化する。

島倉千代子の声や歌い方はまったくセンチメントそのものだが、そのころの民衆がそういう歌手を待望していたのであり、まぎれもなく彼女もまた戦後復興を支えた女神のひとりだった。

日本列島の集団は、処女的なセンチメントを共有しながら盛り上がってゆく。


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2018-12-19 感想・2018年12月19日

<女の中の処女性>

今、新しい電子書籍を三冊出そうと、あれこれ推敲したり書き足したりしているのだけれど、この作業がなかなか進まず、いつのまにかブログの更新のことも忘れてしまっていました。

なんでもやりっぱなしの性分だから、こういう腰を据えた地道な作業は苦手です。

このところは「女性論」をいじっているのだけれど、女の中の処女性が主題です。それは、日本列島の伝統文化の問題でもあり、たとえば、憲法第九条は処女性の上に成り立っている。

憲法第九条なんか国が滅びることを覚悟しないと成り立たないのであり、その覚悟とともにこの国の戦後がはじまったのだし、その覚悟こそがまさにこの国の伝統文化であり、人類普遍の「処女性」にほかならない。

ずるいようだけど。憲法第九条の是非はよくわかりません。しかしそれが戦後70年守られてきたという事実は、日本列島の伝統の精神風土として肯定します。

今どきの右翼は、そういう戦後史のスタートの状況も処女性も否定しているわけだが、それは、この国の伝統文化のことが何もわかっていないということです。

この世の中で「もう死んでもいい」という勢いと覚悟をもっとも深く豊かにそなえているのは処女思春期の少女であり、日本人の伝統的な無意識はそこから学びつつ「切腹」とか「神風特攻隊」という習俗を生み出したのだし、「水に流す」という「みそぎ」の文化だって「処女性」が水源です。

天皇処女性の象徴として祀り上げられてきたのであり、起源としての天皇は舞の名手としての「巫女処女」だった、ということは、ここ数年ずっと考えてきたことです。

生物進化における雌雄の発生は、処女童貞がセックスしたことが始まりだったのですよ。処女は、男にセックスをやらせてあげる本能を持っている。そうでなければ雌雄の生物世界は成り立たない。

処女にとって男にセックスをやらせて上げることは「もう死んでもいい」と覚悟することであり、覚悟することの恍惚がある。

生物の雌雄の世界は、「滅びの美学」の上に成り立っている。

原初の人類が二本の足で立ち上がったことも地球の隅々まで拡散していったことも、その本質は「滅びの美学」ですよ。

終戦直後の社会の処女性……この問題をちゃんと考えたいという思いがあります。そしてそれは、日本文化の伝統の処女性について考えることでもあります。

あの大震災の直後にひとまずみんなが他愛なくときめき合いながら助け合っていったことだって、処女性の問題です。

助け合うとは、たがいに「もう死んでもいい」と覚悟しながら相手を生かそうとすることです。その「もう死んでもいい」という覚悟=勢いが、心を活性化させる。

戦後の困窮に人々が耐えられたのはそういう覚悟=勢いがあったからであって、必死に生き延びようと競争し盛り上がっていったからではない。

そりゃあ、戦争に負けた上に満足に食うことすらできない時代だったのだもの、元気であったはずがないし、だれもが生き延びようと目が血走っていたのでもない。とにかく、大震災直後の被災地と同じだったのであり、それは、日本列島の伝統がよみがえったような状況だった。

人々は食い物と同じかそれ以上に心を慰める「娯楽」を求めたのだし、戦争で死んでいった多くの者たちのことを思えば、生き延びようとあくせくするわけにもいかなかった。

生き延びようとすることが人間の本能・本性ではない、ということが証明されている時代だった。そんな欲望が人類に進化をもたらしたのではない。

人類は、生き延びるために日本の足で立ち上がったのでも、地球の隅々まで拡散していったのでも、火を使い始めたのでも、言葉や石器などの道具を生み出していったのでもない。

生物進化だって、「生き延びるため」という問題設定では解けないのです。

現代人はその問題設定をあたりまえのように信じてしまっているから、一部の功利現実主義的新自由主義者たちにしてやられるのだし、だれもがそういう問題設定の社会システムに踊らされて思考し行動してしまっている。養老孟や内田樹上野千鶴子らがいくらもっともらしいことをいったって、彼らだって時代に踊らされているただの功利現実主義的新自由主義者に過ぎない。その「生き延びる=生命賛歌」という問題設定そのものが違うのです。「それは違う」というのが年寄りの役目なのに、先頭になって時代に踊らされてしまっている。

生きものの命のはたらきは、生き延びるためのシステムであるのではない。生きものは死んだってかまわないのだし、国も会社も家族も滅びたってかまわないのです。その滅びたってかまわないという覚悟=勢いが国も会社も家族も個人の命も、結果的に生かしてのであり、われわれ日本人はあのひどい敗戦や大震災原発事故によって身を持って体験したはずなのに、なぜだかいまだにそれが骨身にしみていない。いまだにおためごかしの善人ぶった生命賛歌にたぶらかされてしまっている。

いまだに、というより、まあ平和で豊かな社会だからそういうおためごかしがのさばる、ということでしょうか。

しかしどんな世の中であれ、生きられない弱い存在であるところの年寄りも赤ん坊も処女も病人も障害者も、そんな安っぽい生命賛歌で生きているわけではない。

そしてこのブログは、いつだって何をモチーフにしようと、とにかくそういうことが言いたいわけです。


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2018-11-21 感想・2018年11月21日

<戦後の女神たち・はた迷惑な世代>

人の心は、「喪失感」を抱きすくめながら華やぎときめいてゆく。それが大震災のときの「吊り橋効果」だったのだろうし、震災直後はひとまず誰もがそのような気分になっていった。それを、なぜすぐに打ち消し忘れてしまうのか。いまや、そのあげくに社会が分断され、どんどん病んだ状況になっていっている。

団塊世代は、右肩上がりの経済成長社会とともに「希望」ばかりを紡いで生きてきて、「喪失感」を抱きすくめてゆくということを知らない。まあ、日本人全体がそうなっていったともいえるわけだが、このところのたびかさなる大震災で、「喪失感を抱きすくめる」とか「死者と語り合う」という日本列島の伝統が一時的によみがえった。というか、その伝統が伏流水としてずっと流れていたことに気づかされた。それをすぐまた「希望」の名のもとに地下に封じ込めてしまっても、そういう瞬間があったという事実はもう消えない。

だから、「喪失感」を抱きすくめることのできない団塊世代はこれからも嫌われたままだろうし、これまで嫌われてきたのはそういうことだったのだ。

つまり、ずいぶん長い前置きになってしまったが、70年前の敗戦直後は「喪失感を抱きすくめる」とか「死者と語り合う」という日本列島の伝統がよみがえったのであって、けっしてただ単純に「アメリカナイズされていった」という表層的な風俗現象だけで説明がつくような時代ではなかった。

われわれは、敗戦後の時代を、日本列島の伝統を携えて歩みはじめたのだ。生まれたばかりの子供だった団塊世代はかんたんにその風俗に洗脳されていったとしても、日本人全体は喪失感を抱きすくめながら死者と語り合っていたのであり、その感慨を共有しながらときめき合い助け合う復興の歩みのダイナミズムを生み出していった。

またそれは、明治から敗戦までの時代がいかに日本人の伝統精神から逸脱してしまっていたか、ということでもある。そしてその「脱亜入欧」「富国強兵」のコンセプトは、そのまま団塊世代のメンタリティでもある。いや、その政治思想がどうのというのではなく、前のめりの上昇志向をたぎらせながらどんどん唯我独尊的になってゆくところが、だ。もちろんそういうタイプの人間はほかの世代にもいるが、団塊世代ほど多くはない。とはいえ、そういうタイプの人間が増えていっているのが現在の状況なのだろうか。団塊世代は、そういう騒がしい状況のトップランナーとして戦後社会を生きてきたし、そういう状況が震災被災者をさらに孤独な場へと追い込んでいる。

震災後に世の中が多少なりとも変わったのなら、今ごろはもっと人々がときめき合い助け合う社会になっているはずだが、少しもそうなっていない。相も変わらず前のめりのヘイトスピーチばかり目立つ分断された世の中で、そうなった原因の一端は団塊世代にもあるだろうし、明治以来のなりふりかまわず近代化を急いできた歴史の遺産だともいえる。

前のめりの上昇志向など、日本列島の伝統でもなんでもない。

日本列島の伝統的な精神風土は、「喪失感=かなしみ」を抱きすくめてゆくことにある。心は、そこから華やぎときめいてゆく。われわれは、その「喪失感=かなしみ」を大震災被災者と共有してゆくことができただろうか。その直後の一瞬はたしかにできたのだが、しだいに忘れていった。戦後の歩みの結果として、いまや忘れさせるような精神の退廃が蔓延してしまっている。

日本人は「世界の終わり」において伝統精神に目覚め、その「喪失感=かなしみ」を共有しながら集団を活性化させてゆく。それが、70年前のあの敗戦後の精神状況だったのであり、よくいわれている「あくなき生への希求」というような「上昇志向」として戦後復興がはじまったのではない。

「あくなき生への希求」によってもたらされるのは暴動や混乱であり、憎しみや怒りなのだ。また、現在の政治家官僚が嘘をつき倒していることやネトウヨがヘイトスピーチをまき散らして大騒ぎしていることだって、まさしく前のめりの「あくなき生への希求」から生まれてくるのであり、そうやって停滞し澱んだ社会状況になっている。それは、現在の社会状況をあらわしている病理であって、終戦直後は敗戦の「喪失感=かなしみ」とともにいったん洗い流したものだった。

この生は「もう死んでもいい」という勢いで活性化してゆくのであって、「あくなき生への希求」が肥大化すると、かえって停滞してゆき、憎しみや怒りの自家中毒を起こしてしまう。


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です。


hifumin36hifumin36 2018/12/02 14:57 HIROMITI様

お久しぶりです。

以前どこかの記事で投稿させて頂いたhifumin36です。

お元気そうで何よりです。

最近は、いよいよ生きる気力が無くなって来て、もう本当にダメかもしれないと思っています。

ダメだと思っているなら、生きることに必死になればいいはずなのに、全くその気力が湧いてきません。

しかし、消えてゆくことが禊の一種であるならば、それもまた良いのかもしれない、とも一方では思います。

それでも、何だか人恋しくなって、またここに投稿してしまいました。

どうぞ、お許し下さい。

みのきゆる ゆふてりはなき
  しけのはの けしきなはりて ふゆるゆきのみ

(身の消ゆる 夕照り花木 繁の葉の 景色隠りて 増ゆる雪のみ)

解説

夕(ゆう)は「日が暮れて夜になろうとする時。ゆうぐれ。ゆうがた。」、花木は「花の咲く木。」、繁(しげ)は「しげみ。木の生い茂った場所。」、隠る(なばる)は「かくれる。」の意味です。

HIROMITIHIROMITI 2018/12/04 16:11 hifumin36さまへ
お久しぶりです。

源氏物語の登場人物たちは、ほとんどが「孤独死」なのですよね。
孤独死が不幸なのかどうか、僕にはわかりません。
孤独にならないと死んでゆくことなんかできないし、孤独になるから世界が輝いて見えてくる。
原節子は94歳まで生きたけど、後半の60年の人生は見事に孤独だったし、あれもひとつの孤独死なのでしょうね。その不幸に幸福があった。
地に足がついた生き方、などというが、置きざりにされて宙ぶらりんになっているときほど幸福な気分もない。そのときこそ、世界は輝いている。
地に足をつけている状態は、とても居心地が悪い。それは心が「地=現実世界」に縛られて身動きできなくなっている状態で、「こんなことしていられない」と思ってしまう。
人は、宙ぶらりんの状態になるために学問や芸術に向かう。
政治経済がちゃんと機能していれば生きてゆけるはずなのに、それでもこの世から学問や芸術はなくならない。学問や芸術なんか生きてゆくのに何の役にも立たないのに、それでもなくならない。
われわれの「魂」は、宙ぶらりんにならないと生きられない。
人は、この世でもあの世でもない宙ぶらりんの世界を夢見ている。そこが「魂」の住処なのでしょう。そして昔の人たちは、そういう世界をしっかり感じていた。そうやって藤壺や紫の上や宇治の大君は死んでいった。
原節子は宇治の大君みたいだなあ、といつも思います。42歳で引退した時、すでに死んでいたのだし、そのあとの宙ぶらりんの状態はきっと幸福だったのでしょう。世界は輝いていたのでしょう。地に足をつけて女優をやっているときなんかよりもずっと。
こんなにも医学が発達してしまったら、そう簡単には死ねない。彼女は95歳まで生きてしまったけど、とっくの昔に死んでもいたし、その宙ぶらりんの世界で遊ぶ知性と感性と品性が彼女にはあった。
知性や感性にもいろいろあって、品のない知性や感性もあるから、人間について考えるのはほんとにややこしい。

返歌というほどのものではないけど、あなたの歌に刺激されて、ふとこんなものを作ってみました。形式は、和歌というより、連歌でしょうか。僕にはアーティスティックな才能は何もないけど、おっちょこちょいだから、ついこんなこともしてみたくなるのですよね。まあ本居宣長も結構へたくそだったのだから、笑って許してください。

夕暮れの肩の落葉を拾う指 目を伏せて聞く風の遺言

hifumin36hifumin36 2018/12/04 19:25 HIROMITI様

返信ありがとうございます。

世界はなおも輝いているけれど、それも最早、自分とは程遠い異世界の出来事のように感じます。

HIROMITI様の歌は、とても心地よいですね。

私の場合、言葉は飲み込んでしまうばかりだけれど、歌を書くとなぜか心が落ち着きます。

それでは。

なかきよの せかいかんうの
  をさまるま さをのうんかい かせのよきかな

(長き夜の 世界寒雨の 収まる間 さ青の雲海 風の良きかな)

解説

寒雨は「冬の冷たい雨。」、さ青(さを)は「あお。」の意味です。

HIROMITIHIROMITI 2018/12/06 04:00 hifumini36さまへ
コメントありがとうございます。

現実を異世界と思うことは、自分の心がすでに異世界に漂っているということであり、あなたのかなしみに対してとても失礼な言い方になるかもしれないけど、それこそがこの世のもっとも贅沢なことだと僕は思っています。
やっぱり源氏物語の姫君たちの死は、この世のもっとも贅沢で美しい死であり、そこに多くの少女たちが感動したのでしょうね。
光源氏なんかただの狂言回しで、べつに読者の少女たちが理想の男性としてあこがれたというような話ではなく主題はあくまで「姫君たちの死」ではないでしょうか。
死は自分の力や意志の及ばないことだけど、死を夢見ない心はとても不健康だし、そうやって今どきの社会がゆがんだものになってしまっているのかなあ、とも思ったりします。
とにかく、われわれのように現実世界に縛られている人間なんて、ほんとにどうしようもなくみみっちい存在だと思えてきます。そしてそのみみっちさに気付かずに、飽きもせず能天気な幸せ自慢を繰り返している林真理子とか上野千鶴子をはじめとする今どきのあまたの「女性論」のなんと愚劣なことか……というようなことを書いたものをまた電子書籍にしようと今準備しています。
それでこのところブログの更新が滞ってしまっているのだけれど、まあ、世の中は愚劣なことが溢れていて、それでも人恋しいのは我ながらなんだろうと思ってしまいます。書きたいこと、つまり誰かに聞いてほしいことはまだまだいっぱいあり、いつまでたっても店じまいできずにぐずぐずこんなことをしています。

長き夜=よきかな……ですか。面白いですね。その二つの言葉のなんと幸福なめぐりあわせであることか。僕は愚痴っぽいことばかり書いているけど、「よきかな」という言葉は大好きです。「長き夜=かなしみ」がなければ、「よきかな」という「ときめき」も体験できない。
本居宣長は「なげき」の語源は「長息」だといったけど、「長き夜」のほうがずっと「なげき」にふさわしい。「黄泉の国」だってまあ「長き夜」であり、そこにこそ古代人の「なげき」と「ときめき」の源泉がある。

「さ青」という表現した古代人の心にも、やっぱり死に対する親密な感慨が息づいているように思えます。
空や海の「青」には、「さ」という音韻の怖いような懐かしいような透明感と永遠性がそなわっている。まさに「さ青」は、古代人の死に対する親密な感慨をあらわしている。
「あを」は、畏れと感動をあらわす言葉です。たぶんそれが語源で、後世になって色の名称にした。

「夜」や「よき」の「よ」だって、古代人はしみじみと心が安らぐことをいったわけで、だから時の移ろいや人の世の出会いと別れのことを「代(よ)」とか「世(よ)」というようになっていった。それはきっと、あなたが歌をつくるときの心模様でもあるのでしょうね。

hifumin36hifumin36 2018/12/06 20:20 HIROMITI様

こんばんは。

もう、これぐらいでやめておこうと思いつつ、返信の言葉につられて、ついつい書いてしまいます。

そうですね。この悲しみというか、どうしようもない絶望感は、ある意味、贅沢な体験なのかもしれません。

>本居宣長は「なげき」の語源は「長息」だといったけど、「長き夜」のほうがずっと「なげき」にふさわしい。

確かに、いつ明けるとも知れない夜のほうが、悲壮感はありますね。(笑)

それにしても「なげき」とは何でしょうかね。個人的には「無げ」の言葉を思い浮かべます。事も無げのニュアンスで、ここに無いはずなのに、自分にだけ感じられる空気というか、見えないのに見てしまう、というか、そんな感じでしょうか。

それは、遠い憧れの一つの形であり、同時に、それをもう手に入れられない悲しみでもあり、といった感じがします。

>「黄泉の国」だってまあ「長き夜」であり、そこにこそ古代人の「なげき」と「ときめき」の源泉がある。

「黄泉」と聞くと、私は夕暮れ時をなぜか連想してしまいます。

感覚的には、ヨを見る、で、ヨミという感じです。通常では夜見(よみ)と解釈するのでしょうが、夜ではしっくり来ない。

夕は幽、暮れは暗いに通じている感じがして、幽(かす)かな暗い時、場所、と考えるとつじつまはあっている気はします。

学術的に正しいのかはわかりませんが、自分の感覚のまま説明するとすれば、ヨは四であり、三(み)の次の状態という感じです。

つまり三(=み=身=自分自身)の、もう一つ先の次元の世界、自分からでは到底知り得ない異次元の世界を、今ここの世界から垣間見てしまう、という感じです。

また、生きている身としては、夜(=死の世界)ではなく、夕方(=これから死んでいってしまう世界)までしか認知できないので、夜見がしっくり来ないのかな、とも思います。

そういう意味では、「黄泉」という漢字が、また「よみじ」(黄泉路)とも読むことが出来ることにも納得します。「黄泉」は、生身の人間が観念的に思う「死の世界」ではなく、あくまで「死へと続く路(みち)」なんだ、と。

そういえば、死ぬのが怖いという思いと、消えてしまいたいという思いが同居しているのは、何だか不思議な感じがします。むしろ怖いからこそ、いっそ消えてしまいたい、ということなのかもしれません。

下記は、昔どこかで書いたいろは歌なのですが、願わくは、このように死んでいけたらどんなに良いか、と思います。

あふまかときも みえわたり
ゆれてにほへる さくらはな
むゐをうつろひ よしゑのせ
おこすいちねん やけそめぬ

逢ふ魔が時も 見え渡り
揺れて匂へる 桜花
無為を移ろひ 縦ゑ乗せ
起こす一念 焼け染めぬ

解説

逢ふ魔が時(あふまがとき)は「夕方の薄暗いとき。たそがれどき。大禍時。」、見え渡るは「一面に見える。どこまでも見える。」、無為(むゐ)は「自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと。また、そのさま。ぶい。」、移ろふ(うつろふ)は「色づく。染まる。」「花が散る。」、縦ゑ(よしゑ)は「たとえどうなろうと。ままよ。」、一念は「深く思いつめた心。一筋の思い。一心。」「きわめて短い時間。六十刹那せつな、または九十刹那とされるが、単に一瞬の意で用いられることが多い。」「一つの心のはたらき。一瞬の意識。」の意味です。

意訳

(日がようやく傾いて)この世のものとは思えない夕暮れ時の風景も一面に見えて、その中で静かに揺れて照り輝いている桜花。刻々と日が落ちる中、黄金色に染まっていくひと片があり、そのまま散ってしまうひと片がある。

このあまりに美しい光景に、我が身の全てを乗せて起こす一念。言葉にならないハッとする瞬間の意識。この瞬間を全部切り取って永遠に見ていたい、と切望してしまう、この一瞬前の一念。この一念が胸に焼き付いて、私をすっかり染めてしまったよ。

HIROMITIHIROMITI 2018/12/07 04:06 hifumini36さまへ
コメントありがとうございます。

「な」は「なつく」「なれる」「なじむ」「なあ、おまえ」の「な」で、親密な感慨をあらわす音韻でしょう。
「なに?」は、わからないことに対する親密な感慨。
古代人は、「なく」とか「なげく」ということをネガティブな体験だとは思っていなかった。
結論から先にいってしまえば、「なげく」は、「喪失感を抱きすくめてゆくこと」だと考えています。
「なげき」「なげく」の「き」と「く」は単なる語尾だとして、問題は「なけ」ですよね。
「な」は「親密」で、「け」は「蹴る」とか「けっとふてくされる」とかの「け」で、「分裂」とか「変化」とか「放出」とか「喪失」のニュアンス。「ある」が「ない」に分裂変化することは「喪失」ですからね。
喪失感を抱きすくめてしみじみと泣くことを「なげく」という。
だから「無げ」も「無し」も、親密感をあらわしている。
「なけなし」というのは、「あれこれ」というように、同じようなニュアンスの言葉を二つ並べていかに大切かということを強調しているのでしょう。「失ってしまったら悲しくてたまらない」という気持ちを込めて「なけなし」という。
おっしゃるように「失って二度と手に入れられないものに対するかなしみと遠いあこがれ」を「なげき」というのであり、それが語源なのだと僕は思っています。「長息」などという説明の道具として言葉が生まれてくることなどありえません。
人と人の関係の基本というかプリミティブなかたちは、「感慨」を共有してゆくことであって、今どきの会社の規律や商売の駆け引きじゃあるまいし、「意味」を共有してゆくことなんかではないでしょう。言葉に「意味」意味を付与してゆく発想なんか後から生まれてきたものにすぎないのであり、それはやまとことばの語源=本質ではない。。

黄泉の国の「よみ」という音の響きは、やっぱり夕方の感じかもしれないですね。まさに「夜見」の時刻。
やまとことばの「や」「ゆ」「よ」は、だいたい「過程」をあらわしています。
「や」は、移り変わってゆく先。カタストロフィ。だから「かなしや」という詠嘆に使う。
「ゆ」移り変わりつつある途中の段階。だから「湯(ゆ)」という。これはれっきとしたやまとことばで、中国語では「タン=スープ」のはずです。中国人も欧米人も「温泉の湯」とか「湯沸かし」などとは言わない。それは「ボイルド・ウオーター」という。
「よ」は、移り変わってゆくことそれ自体をあらわし、だから「代」とか「世」というのだし、「夜」の底では夕方から朝への移り変わりが進行している。
「よみ」の「み」は「出現」の語義で、「夜が出現する気配」ということでしょうか。
天国や極楽浄土は現世とは離れた遠い遠い世界で、「黄泉の国」の入り口はちゃんと日本列島の土地にある。そして黄泉の国だって「死んでゆく」過程の場所で、死後の世界ではない。
死んだら黄泉の国に行くとは、死後の世界などない、といっているのも同じです。大切なのは死んでゆく過程の瞬間なのだ、ということ。あなたはまさしくそれをいろは歌であらわされた。
たくさんの考えることの刺激を与えていただき、ほんとうにありがとうございます。