ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2017-11-17 おバカなギャルを侮るな・神道と天皇(106)

今どきの「かわいい」の文化における「ロリータキャラ賛歌」を、どう考えればいいのだろう。

それは、「魂の純潔に対する遠い憧れ」の問題ではないのか。つまり、その問題に対して大人たちよりも若者のほうがずっと切実だということを意味しているのではないだろうか。

ロリータ趣味とか処女崇拝なんか、もともとは男全般の趣味だと相場が決まっていたのだが、この「ロリータキャラ賛歌」は女たちも熱心で、むしろ女たちのほうがより切実だともいえる。だから少女たちの「ロリータ・ファッション」が登場してきたのだし、その延長として「AKB」や「ベビーメタル」や「きゃりいぱみゅぱみゅ」や「初音ミク」の人気が世界中に広がっていった。

現在の「ロリータキャラ賛歌」は、男だけの趣味ではないし、世界中に広がっているムーブメントでもある。

そしてここでの「ロリータ処女」という概念は、セックスを経験したかどうかということが問われているのではない。さっさと結論をいってしまうなら、「魂の純潔」の表象として賛歌されているのだ。

ジェンダー・フリー」などという言葉があるが、男か女かということを問わないのなら、その先の最終的な問題はどこにあるのか……そういう人間としてどうなのかという問題として「ロリータ処女性=魂の純潔」ということが世界中で問われるようになってきたのだろう。もはやこのことを問わなければ民主主義に未来はないという段階にさしかかっている。

人と人のときめき合う関係のない社会で「非正規雇用」や「派遣切り」をなくそうとしても、もはや無理な話なのだし、しかしそういう関係がなくなってしまったというわけでもない。そこに立って、若者たちによる「ロリータキャラ賛歌」が生まれてきた。

またたとえば、フランスにやってきたイスラム移民が素直に宗旨替えをしてキリスト教フランス人として溶け込んでゆくのならともかく、イスラム教徒のままイスラム教徒の社会をつくりながらそれをそのまま拡張してゆくというようなことをされたら、そりゃあ先住のフランス人だって右翼的になってしまう。人と人のときめき合う関係なんか生まれてこないに決まっている。

あのユーゴ民族紛争だって、もとはといえば移住してきたイスラム教徒にどんどん国土を蚕食されていったことにあるのだろう。

宗教自由」とは、いったいなんのだろう。イスラム教は、宗教自由の名のもとに、世界中で紛争の火種になっている。イスラム教自身だって、シーア派スンニ派で殺し合いも辞さない対立をしている。

宗教自由などといっていたら、世界の民主主義に未来はない。イスラム教だろうとキリスト教だろうとユダヤ教だろうと仏教だろうとヒンズー教だろうと、宗教によって民主主義が確立されることはない。

日本列島に宗教対立がないのは、民衆の伝統的な意識として宗教そのものを換骨奪胎してしまっているからであって、宗教自由の名のもとに宗教止揚しているからではない。

宗教自由の名のもとに宗教対立が激化する。宗教自由は、けっして平和的なスローガンではない。

今さら宗教をなくすことはできないのかもしれないが、せめて宗教換骨奪胎する文化を持たないことには、人と人が他愛なくときめき合い連携してゆく民主主義に未来はない。


宗教に執着されたら、人と人の関係にならない。

宗教においては世界の仕組みはあらかじめ決定されているのだから、それを信じてしまえば、世界や人に対して驚きときめくことはない。宗教は人を鈍感にする。鈍感になったものどうしを家族のようなひとかたまりにしてしまう機能を持っているからこそ、ひとりひとりのときめき合う関係は希薄になるというか必要がなくなるわけで、そのかたまりの外の相手とときめき合う関係はさらに生まれない。むしろ、外の相手を排斥することによってかたまりの絆が強化されてゆく。

宗教とはひとつの党派性であり、そこにおいて宗教と政治の本質は矛盾しない。そして矛盾しないから、政治は、宗教によって党派をつくられることを嫌う。政治だって、世界の仕組みをあらかじめ決定したところでなされている。

みんなが世界の仕組みなんかわからないという場に立った「ひとりぼっち」の存在になってこそ、はじめて誰もがときめき合う社会になることができる。おそらくそこにこそ民主主義の未来があるわけで、それはつまり、誰もが右でも左でもない「無党派層」になるということだ。

無党派層とは、世界の仕組みなんかわからないものたち、世界の仕組みを決定しないものたち、そうやって世界の「あはれ・はかなし」を思うものたちのことだ。

世界の「あはれ・はかなし」を思うとは、世界をつくった神とか死後の世界とか、そういう世界の仕組みを思わないということ、そういう宗教心の薄さこそが日本列島の精神風土であり、そこにこそ人と人がときめき合い支え合う民主主義の未来があるのかもしれない。

人と人がときめき合い支え合うことなしに民主主義の未来があるはずがないのだし、世界中が今、そういう未来を模索しているのではないだろうか。

そのための「魂の純潔に対する遠い憧れ」であり、そのためには宗教換骨奪胎してゆくしかないのではないだろうか。


日本列島において宗教は、「信仰」ではなく、たんなる生活習慣の作法にすぎない。

宗教とは神の存在を信じることだとすれば、日本列島では「存在」そのものを「あはれ」とか「はかなし」と見ている。

すべての「存在」には「外側」がある。「外側」があるから「存在」だとわかる。「私の身体」の外側のまわりには「空気(空間)」があるから、「私の身体が存在している」と思うことができる。

「外側」がなければ、「存在」は存在することができない。神がこの世界をつくったというのなら、神という存在の外側はどうなっているのか?

宇宙が存在するというのなら、宇宙の外側はどうなっているのか?さらにその外側もあるのか?さらにその外側……?そんなことを考えてゆくと、気が変になりそうになる。そうして「あはれ」とか「はかなし」というようなかたちでしか納得のしようがない。

色即是空、空即是色……という言葉もあるが、日本列島では、そうした二項対立の思考はしない。すべてをあいまいで混沌としたもの(=あはれ・はかなし)として納得してゆく。

よい人と悪い人がいるのではない、誰もが「あはれ・はかなし」として存在している。そう思い定めてときめき合ってゆく。

よいとか悪いというようなことを決めてもせんないことだ……これは、宗教的な態度ではない。

というわけで、キリスト教ユダヤ教イスラム教の「神」と神道の「かみ」とは同じではない。よく、日本列島ではそうした大陸の「神」も「八百万の神」のひとつとして受け入れている、などといわれるが、「神」と「かみ」は同じではないのであり、日本列島においては「神」もまた「かみ」でしかない。

日本列島の「かみ」は、たんなる「お話」というか「言葉」にすぎないのであり、「存在」ではない。

本居宣長は、古代人は古事記の神々を本気で信じていたというが、それは「お話」や「言葉」として信じていたのであって、「存在」として信じていたのではない。

日本人は「お話」や「言葉」を信じているのであって、「神」を信じているのではない。キリスト教ユダヤ教イスラム教の「神」だって、「お話」や「言葉」でしかない。まあ、あいまいで混沌とした「お話」や「言葉」でしかない。

いや、大陸の人々だって、そうした「神」をじつはたんなる「お話」や「言葉」として信じているだけであり、根源的には「神の存在」を信じることは不可能なのだ。だから欧米にだって、少なからず「無神論者」がいるのだろう。

「お話=物語」として「神が存在する」と思い込むことは可能だが、論理的にも無意識的にも、その「存在」を信じ切ることは不可能なのだ。

「信じる」とは何だろう?人間的な知性や感性の本質において、「信じる」というはたらきは成り立たない。すべてはあいまいで混沌とした「あはれ」で「はかなし」としかとらえようがない。

人間的な知性や感性は、最後の最後のところで「信じる」ということにつまずく。まあだから、学問や芸術の発展や移り変わりがある。


人は「魂の純潔」を信じているのではない。「遠い憧れ」を抱いているというだけのこと。

自分の中の「魂の純潔」を見出すことなんかできない。それは、乳幼児の段階を過ぎたときにすでに失って永遠に取り戻せないものであり、それでも他者の中にそのようのものを見たりする。他者の心なんかわからないからこそ、それを見たような気になってしまう。だから「遠い憧れ」なのだし、そうやって人と人はときめき合っている。こういうタッチは、世界の仕組みが神によってあらかじめ決定されていると信じている宗教者にはわかるまい。

宗教者は鈍感だ。宗教者になれば、ユダヤ人イスラム教徒のようにしたたかになることができる。宗教心の薄い日本人になれば、避けがたく他愛なくなってしまう。

したたかさと他愛なさ、文明人の心は、この二つの位相のあいだで揺れ動いている。

他愛ないときめきを失って民主主義に未来はない。世界は今、他愛なさに回帰することを模索している。だから、ジャパンクールの「かわいい」の文化が注目されている。

どれほどご立派な知能や人格を持とうと生まれたばかりの子供のような「かわいい」存在にはかなわないのであり、人類は、他愛なくときめき合うことによって進化発展の歴史を歩んできたのだ。

おバカなギャルのロリータ・ファッションにだって切実な「魂の純潔に対する遠い憧れ」がこめられているし、現在は世界中に広がりつつある。当初それは、特殊な一過性の現象のように見られていたが、そうではなかった。アジアや欧米の少女たちも、そのファッションに飛びつくようになってきた。彼女らはそういう潮流、すなわち民主主義の未来を模索する世界的な潮流を先取りして登場してきた、ともいえる。

少女たちのラディカルで本能的な嗅覚は、世界の一歩先の気配(潮流)をとらえている。

たんなるサブカルチャーとしてのギャルファッションだけの問題ではない、民主主義の未来の問題でもあるのだ。

現在の世界の民主主義の問題はもう、作為的に政治や経済をいじるだけでは解決がつかない。高度に発達した文明社会の政治や経済や宗教に汚染された人々の「心映え」が変わらなければどうにもならない段階にさしかかってきている。

二本の足で立っている人間であるのなら、「魂の純潔に対する遠い憧れ」は世界中の誰の中にもある。「ロリータキャラ賛歌」は、現在の民主主義の海で溺れかかっている、そうした人間性の普遍・自然としての「心映え」を救出しようとするムーブメントでもある。


2017-11-14 われわれは政治オタクなんかじゃない・神道と天皇(105)

現在のこの国が右傾化しているとか、ことに若者はそうだとかとよくいわれているが、そんなことはありえない。

この国のマジョリティはいつだって右でも左でもなく、無党派層という、いわば政治そのものに興味がない人たちであり、だからいつだって権力者の勝手な振る舞いを許してしまってきた。

この国の民衆は政治意識が低く、権力に対するチェック機能がちゃんとはたらいていないから、権力者が堕落するとどんどんだめな社会になってゆくし、権力者がむやみに堕落しない社会構造も持っている。

何はともあれ、いささかなりとも「魂の純潔に対する遠い憧れ」が息づいている精神風土の歴史を歩んできた。

近ごろは若者が右傾化して自民党支持だといっても、そんな状況は何かのはずみでかんたんに逆転しまう。それがこの国の伝統であり、いつの世も、政治オタクなんか、若者だろうと大人たちであろうと、ほんの一部にすぎない。

若者の投票率が40数パーセントで、そのうちの半分は、内部留保という言葉の意味も憲法第九条に何が書いてあるかということも知らない。

もしもこの国の右でも左でもない無党派層をまるごと取り込める政党ができたら、自民党=右翼の天下なんかあっという間にしぼんでしまう。無党派層は、共産党だって許すし、なりゆきで自民党右翼になびいてしまうこともある。

無常感ということだろうか、ネトウヨの心の中にだって、明日はどうなるがわからないという日本的無党派層的な無意識は息づいている。


右翼とは「私は日本人である」というアイデンティティが欲しくてたまらない人たちであり、ところが日本列島の伝統としての無常感においては、そうしたアイデンティティなど持たない無根拠の「あはれ・はかなし」の感慨とともにある。つまり、日本人は日本人であることの根拠アイデンティティなど持っていないのであり、持っていないところで生きようとするのが日本人なのだ。

右翼ほど日本人の伝統から遠い日本人もいない。

日本人は、日本人としての誇りなんか持っていない。自分=この生に正当性の根拠アイデンティティ)など求めえないところから「あはれ・はかなし」の感慨が浮かんでくる。この宇宙にたったひとりで置き去りにされた存在として立ち、その途方に暮れた感慨とともに世界や他者に他愛なくときめいてゆきながら生きはじめるのが日本人なのであり、そういう感慨は誰の中にもあるではないか。あるからこそその感慨を生きようとする人もいれば、あるからこそそれに耐えられなくて「私は日本人である」というアイデンティティに必死に執着してゆきもする。

日本人は世界でもっとも認知症になる率が高い、という統計があるのだとか。

そうだろうな、と思う。「あはれ・はかなし」を生きる民族であるがゆえに、それに耐えられなくて心を病んでしまう確率も高くなる。まあ現在は、耐えられなくさせてしまう社会構造になってしまっている。耐えられなくてもその「無常」を受け入れ耐えるしかない民族なのに、現在は耐えられない人間をむやみに製造してしまう社会構造になっている。そうやって安倍晋三や小池百合子のようなゴリゴリの醜悪な右翼がのさばる社会構造になっている。

もしも現在の右翼の政治オタク無党派層とどちらが認知症になる確率が高いかという統計を取れば、きっと前者の方が圧倒的に多いに違いない。

ネトウヨとひと口にいってもワーキングプアの若者から百田尚樹のような中高年の有名人まで年齢層はさまざまだろうが、レイシストである彼らはみな認知症予備軍なのだ。彼らのいうことが正しいかどうかということなどどうでもいい。とにかくみな一様にこの国の伝統であるはずの「あはれ・はかなし」の無常感を身体化していないから、その「姿・たたずまい」が卑しく下品なのだ。

正義・正論を手に入れたからといって、認知症にならなくて済むわけでも、その「姿・たたずまい」が美しくなるわけでもない。

まあ三島由紀夫だってそうだが、右翼の政治オタクなんて、自分が日本人であることに執着しているがゆえに日本人てあることに失敗している人たちなのだ。彼らは、無常ということが何もわかっていない。わかりたいのなら、自分=この生に正当性の根拠など求めるな。自分が日本人であることは背負うほかない運命ではあるが、自分=この生の正当な根拠になっているのではない。自分=この生の正当な根拠など持たないまま生きるのが、日本人なのだ。こういうのを世間ではニヒリズムというらしいが、そうではない。それはたんなる「他愛なさ」であり、気取っていえば「魂の純潔に対する遠い憧れ」にほかならない。


文明人は、人間という存在が競争原理や闘争原理の上に成り立っていると信じ込まされているために、自分の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を見失ったまま生きている。まあ、それによっては競争原理や闘争原理の上に成り立った文明社会の構造は語れないわけだが、彼らは、文明社会の構造を解き明かせばそのまま「人間とは何か」という問題も解き明かせると思い込んでいる。

はたして人間とはそんな存在だろうか。

「人間とは何か」という問題が競争原理や闘争原理で解き明かせると思っているから、世の人類学者も、「人類は原始時代から戦争ばかりして歴史を歩んできた」とか、「人類の知能は生き延びようとする衝動=欲望とともに進化発展してきた」というような愚にもつかないことをいいだす。それは、文明社会の歴史であって、人類700万年の歴史ではない。そうして、たとえ文明社会の中にあっても人は、競争原理や闘争原理では説明がつかない心の動きというか文化生態を持っている。

つまり「魂の純潔に対する遠い憧れ」という問題を抜きにしては普遍的人間性は説明がつかないのだ。

人間が戦争や人殺しをすることにだって、無意識のレベルにおいては「魂の純潔に対する遠い憧れ」ははたらいている。

生きることに価値を置いて執着することよりも「生きることなんかどうでもいい」と思うことのほうが魂の純潔であったりする。戦争や人殺しであれ、自分の命をなげうって他者の命を救うことであれ、どちらも「生きることなんかどうでもいい」という無意識の上に成り立っているわけで、それが生きものとしての普遍的な命の取り扱い方なのだ。

生きものの命は、「生きることなんかどうでもいい」というかたちではじめてはたらき出すようにできている。生きることは命のエネルギーを消費するいとなみであり、死に向かういとなみなのだ。生きようとしていたら、命のエネルギーを消費することなんかできなくなってしまう。

「えいやっ!」と力を入れて重いものを持ち上げるとき、必要以上のエネルギーを消費してしまおうとする衝動がはたらいているわけで、それもまた「もう死んでもいい」という勢いの、ひとつの「魂の純潔に対する遠い憧れ」にほかならない。まあそうやって人類は、進化の限界を次々に乗り越えてきた。

いや、どんな生きものにおいても、「もう死んでもいい」という勢いがはたらかなければ「進化」ということは起きないわけで、人間はそういう勢いがとくに強い生きものなのだ。そうやって人は殺し合いをし、命を投げ捨てて献身してゆきもする。

生きものの命のはたらきは、妙な生命賛歌や本能論だけでは説明がつかない。

誰の中にも「もう死んでもいい」という「魂の純潔」が宿っている。

人類が生きられないという理由でその土地を逃げ出すような生きものであったら、原始人が地球の隅々まで住み着いてゆくということは起きなかった。「もう死んでもいい」という勢いで、より住みにくい土地住みにくい土地へと拡散していったのだ。

そして、津波がいつかまた襲ってくるとわかっていてもその土地に住み着いていられるのもまた、人間的な「魂の純潔に対する遠い憧れ」のなせるわざだともいえる。


ある外国人が、「自分の信仰心のことを聞かれてポカーンとしてしまうのは日本人くらいのものだ」といっていた。それくらい日本人の信仰心というか宗教に対する態度はあいまいで混沌としている、ということだ。

まあ文明社会で宗教とは無縁に生きることはできない。社会はどうしても宗教に染められてしまう。しかしこの世界に日本人のような信仰心の薄い民族がいるということは、普遍的人間性の自然においてはけっして宗教を信じることにあるのではないということを意味するわけで、日本列島はまあ、文明社会は宗教とは無縁に成立することができるかという、ひとつの実験の場になっている。

宗教とはこの生の救済原理であり、あの世がどうのといっても、本質的には現世的通俗的な装置なのだ。したがって生き延びるための競争原理や闘争原理を否定しない。宗教においては死後の世界すらも生き延びる先の未来だということになっており、それは「文明社会=共同体」の欲望でもある。

一方日本列島の伝統としての神道的世界観や死生観においては、「死んだら何もない黄泉の国に行く」ということになっている。それは「死後の世界のことは思わない」という非宗教的な態度であり、「生き延びることなんか願わない=いつ死んでもかまわない」という態度だ。すなわち、そうやって「今ここ」がこの生のすべてだと思い定めて目の前の世界や他者に体ごと反応してゆくということこそ日本的な「無常」の伝統であり、それはまた普遍的人間性の自然としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」でもある。

死後の世界を思うことなんか文明社会のただの制度的思考であって、ここでいう「魂の純潔」すなわち人間性の自然は「死後の世界を思わない」ことにこそあり、それが日本列島の「無常」の伝統なのだ。

だからこの国は現在においても、「政治のことなんかよくわからない」とか「政治なんかに興味はない」とか「政治なんかややこしくて気味悪い」という「無党派層」がマジョリティになっている。


宗教心があいまいで混沌としているこの国では、政治に対する意識もあいまいで混沌としている。であれば、ひとまず民主主義である現在のこの国で民衆を代表する政治家の意識もあいまいで混沌としているということになる。そしてそれは、けっしてネガティブなことではない。それだけ「政治的な思考のキャパシティが広い」ということでもある。

たとえば、ヘイトスピーチをするものたちは、それによって自意識が満たされ完結してしまっているから、それ以上の思考の展開がない。自意識があいまいで混沌としているものこそ、より豊かな思考の展開を持つことができる。

ゆえに、やれ右翼だ自民党だとヘイトスピーチをしたがる政治オタクよりも、政治意識があいまいで混沌としている「無党派層」や「無関心層」のほうがずっと豊かな思考をしているのだし、それが現在のこの国のマジョリティすなわち「民意」であり、その「民意」を掬い上げてゆく政治が間違っているとはけっしていえない。

今どきは上から下まで右翼的な政治オタクがやいのやいのと騒いで目立っている世の中だとしても、そこに「民意」があるとかんたんに決めつけてしまうことはできない。

たとえそんな世の中であってもこの国の地下水脈においては「魂の純潔に対する遠い憧れ」がたしかに流れ続けているわけで、そこから今どきの「かわいい」の文化が花開いてきたのだろうし、だから自分の宗教心のことを聞かれてポカーンとしてしまうのだろう。

その「ポカーン」としてしまう他愛ないところに外国人はうらやましいと思っているのだが、日本人はもう、日本人としての誇りのことを聞かれても、やっぱりポカーンとしてしまう。日本人としての誇りがどこにあるかということなどよくわからないのがもっとも本格的な日本人であって、そんなことを自慢げに吹聴している日本人なんか、まあ日本人として邪道なのだ。

「誇り」などという自意識は、日本的ではないのだ。そして日本人のマジョリティはべつに政治オタクでもなんでもないのだから、かんたんに「右傾化している」などといってもらっては困る。若者の幼児化などといわれている現代においては、おそらく若者の政治意識がいちばんあいまいで混沌としているのであり、だからいちばん目立つところにいる自民党に引きずられているだけかもしれないし、引きずられているからといって直ちに「右傾化している」とはいえない。

右傾化している」などということは、若者たちの1割にも満たない政治オタクだけの世界の話なのだ。正確には「あいまいで混沌としている」というだけのこと。

大人だろうと若者だろうと、世の中が、ヘイトスピーチをして自己満足に浸っている人間ばかりであるはずがない。まあ誰だってそういうことをいいたいときもあるだろうが、誰だってそんなことばかりいいながら嫌われ者になったり心を病んでしまったりしているわけではない。

まあ総じて今どきは、大人たちよりも若者のほうがずっと深く豊かに「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っている。


2017-11-08 閑話休題・学術研究の耐えがたい軽さと愚かさ

最近のヤフーのニュース記事で、ネアンデルタール人に関する次のようなものを見つけた。


(引用)

スタンフォード大学のオレン・コロドニー氏と同僚研究者のマーカス・フェルドマン氏は10月31日に学術雑誌『Nature Communications』で論文を発表し、自分たちのアプローチを紹介した。

 両氏は、ネアンデルタール人と現生人類のそれぞれ複数の小集団が欧州やアジアの各地に生息していたという想定でコンピュータシミュレーションを実施。そうした小集団のうち、無作為に選ばれた一部の個体群が絶滅し、同じく無作為に——絶滅した個体群の種とは無関係に——選ばれた別の個体群に置き換わるというシミュレーションだ。

 シミュレーションは、どちらの種にも先天的な能力差はないとの想定で実施されたが、両者には1つだけ決定的な違いがあった。それは、ネアンデルタール人とは異なり、現生人類はアフリカから移住してくる増援隊によって常に補充されるという点だ。「巨大な波というよりも、むしろポツリポツリとした極めて小規模な動きだ」とコロドニー氏は語る。

 それでもネアンデルタール人と現生人類の比率をひっくり返すには十分だった。さまざまな想定の下でシミュレーションを100万回以上実施したところ、大体はネアンデルタール人が絶滅するという結果になったという。

 生存も死滅も運次第だったのだとすれば、現生人類の移住が何度も繰り返されたことによる影響は大きかったはずだ。「結局、ネアンデルタール人は負ける運命にあったということだ」とコロドニー氏は語る。

 同氏によれば、こうした移住が実際に起こったという証拠は決定的というより示唆的なものであり、「あまり多くの考古学痕跡は期待できない」という。

 人類の起源を研究する専門家によれば、この論文は今後、ネアンデルタール人を絶滅へと導いたさまざまな要因を解明する上で役立つものとなりそうだ。「この研究は、ネアンデルタール人の絶滅を、現生人類との行動能力の差異を想定せずに説明することを目指した最近の各種の研究とも合致する」とオランダのライデン大学ウィル・ローブレークス氏は語る。同氏によれば、近年はネアンデルタール人と現生人類の間にそうした差異があるとの仮説は誤りであることが概ね証明されているという。

 ドイツのテュービンゲン大学のカテリーナ・ハーバティ氏は、今回の研究はネアンデルタール人絶滅の謎の解明には有用かもしれないが、なぜ現生人類がアフリカから欧州やアジアに拡散したのかという疑問を解消するものではない、と指摘。「その拡散の背景に何があったかを解明することが重要だ」と同氏はメールで述べている。


こういう記事を読まされると、あまりにもくだらなくてほとほといやになってしまう。

どうしてこんな薄っぺらな問題設定の研究が一流の学術論文として成り立つのか。世も末だと思う。

ここでは「アフリカのホモ・サピエンス地球の隅々まで拡散していった」ということと「ネアンデルタール人は絶滅した」という二つのことが、疑うべくもない前提として問題設定されている。

まあ、現在のこの国の古人類学研究者はすべてこうした問題設定の信奉者ばかりで、そこを疑ったら古人類学者になれない仕組みになっているらしく、この二つの問題に対する論争はまったくといっていいほど起こっていない。したがってこの種の愚劣で一方的な論文しかジャーナリズムに紹介されないのが現状なのだ。

ほんとに5万年前前後のアフリカのホモ・サピエンス地球の隅々まで拡散していったのか?

ほんとにネアンデルタール人は絶滅したのか?

彼らはどうしてそのようにしか問うことができないのだろう。そのようなことを証明する「考古学痕跡」など何ひとつない、ということが年ごとに明らかになってきているというのに。

「あまり多くの考古学痕跡は期待できない」だなんて、どうしてこんな逃げ口上がいえるのだろう。どうして「これからそうした考古学痕跡があらわれてくるだろう」といえないのか。

「アフリカから移住してくる増援隊によって常に補充される」だなんて、どうしてこんな粗雑でマンガじみた問題設定ができるのか、いったいどんな脳みそをしているのだろう。まったく、中学生のお昼休みの雑談じゃあるまいし。

旅というのは、行ったっきりの場合もあれば、もとの故郷に帰ってくる場合もある。「山のあなたの空遠く幸い住むという。ああわれ人ととめゆきて、涙さしぐみ帰りきぬ」という有名な詩の一節があるように、「帰ってくる」ということも勘定に入れないことには「アフリカのホモ・サピエンスは世界中に拡散していった」という仮説は成り立たないのだ。

アフリカの外に拡散してゆく能力があったら、アフリカに戻ってくる能力だってあったに決まっている。


最新のゲノム遺伝子の解析によれば、「現在のアフリカにはたくさんの純粋ホモ・サピエンスの人がいて、アフリカ以外の地域ではすべてネアンデルタール人の血が混じっている」という結果になっている。これは、アフリカに戻ってくるホモ・サピエンスはいなかった、ということを意味する。戻ってきたら、アフリカ人にだってネアンデルタール人の血が混じっているはずではないか。したがってこのデータは、5万年前のアフリカのホモ・サピエンスはアフリカの外には拡散していかなかった、ということをあらわしている。

原初の人類は拡散する猿として地球上に登場し地球の隅々まで拡散していったわけだが、アフリカに残ったものたちは、拡散しない種としてその生態遺伝子を洗練させていった。それが10数万年前にあらわれた「ホモ・サピエンス」であり、アフリカの外まで拡散していったものたちの一部がいったんアフリカの北部まで戻ってその遺伝子を拾い、やがて地球の隅々まで伝播させて混血していった。

人間なんてみな新しもの好きで、純血を保つことなんかほとんど不可能なのだ。それでもアフリカには今なお純血種がいる。それは、彼らがいかに拡散したがらない人種であるかということを物語っている。

余談だが、天皇家だって純血だとはいえない。2千年のあいだには、名もない民百姓や中国人朝鮮人の血だって混じることはあったかもしれない。

「事実というものは存在しない。解釈だけが存在する」

ニーチェがいったのだか、いわなかったのだとか。

天皇家の純血だってたんなる「解釈」だし、「アフリカのホモ・サピエンスは世界中に解散していった」とか「ネアンデルタール人は絶滅した」ということだって、脳みその薄っぺらな人類学者たちのたんなる「解釈」にすぎない。「事実」ではない。


「増援隊」などというのは、べつにアフリカからやってこなくても、ネアンデルタール人が旅の好きな人種であったのなら、いくらでもまわりの地域から人が集まってくる。そうやって彼らはヨーロッパ中で同じ文化を共有していたのだし、寒くなれば過疎になった集団が放棄されて一カ所に集まるということもしていた。

まあ、アフリカの北部あたりまで拡散していったネアンデルタール人の血の中にあるときアフリカのホモ・サピエンスの血が混じり、それが集落から集落へと手渡されながらヨーロッパ中に拡散してゆきネアンデルタール人が「現生人類」へと変質していっただけなのだ。

現在のヨーロッパ人の肌が白いとか目が青いとか金髪がいるとか老化が早いとか男は胸板が厚く毛深いとか、それらの身体的特徴はすべてネアンデルタール人痕跡だということにしないと説明がつかない。それだって「解釈」にすぎないといえばまあそうなのだが、とにかくそうなのだし、アフリカ人痕跡だという「解釈」では説明がつかない。

旅人はその土地の事情を何も知らないのだから、基本的には先住民の助けによってようやく生きてゆくことができる。

そして上の記事でも「巨大な波というよりも、むしろポツリポツリとした極めて小規模な動き」といっているのだから、近代ヨーロッパ人のアメリカ大陸維移住というような大規模なもなものではなく、先住民に助けてもらわないと生きられない少数の「旅人」の移住だったのなら、ほとんどはヨーロッパや西アジア等の入り口で吸収されて、イングランド島やシベリア等の奥地まで移動してゆくことはなかったに違いない。

人類が最初に西アジアからシベリアまで移住してゆくのに200万年くらいかかっている。新しい苛酷な土地に住み着く能力を獲得しながら少しずつ拡散していったのだ。であれば5万年前のホモ・サピエンスだって、いくら文化が発達していたといっても、一足飛びには移住してゆくことはできないし、先住隊は増援隊が来る前に滅びてしまう。

とにかく先住民よりも後からやってきた旅人のほうがその土地に住み着く能力において優れているなどということはありえないのだ。そこに住み着く能力が、そこに住み着いてきた経験値よりも旅をしてきた経験値のほうがまさっているなどいうことがあるだろうか。

先住民のところに「旅人という増援隊」がやってくるということは、「足手まといをか抱え込む」ということであり、しかしそれによって集団員どうしの関係が活性化して全体のパフォーマンスも上がってゆく。

人類の集団は、足手まといを抱え込んだほうが活性化しパフォーマンスが上がってゆく。そうやって人類の集団文化は進化発展してきた。これはもう、現代社会においても当てはまることだろう。


じっさいの人類史においては、住みやすい南の地域ほど人の往来が少なく、住みにくい北の地域ほど活発だったという証拠がある。まあ、北の地域は寄り集まっていないと生きられない環境だから、人恋しさも濃密になる。北のほうが「増援隊=旅人」はたくさんやってくるし、集団のパフォーマンスも高くなる。

3〜2万年前のヨーロッパでは北のほうが先にホモ・サピエンス化して、アフリカのすぐ隣である西アジアがホモ・サピエンス化したのはヨーロッパよりも後だったという考古学の証拠が残っている。このことを、あの研究者たちはどのように説明するのだろうか。このことは、「増援隊」などという中学生レベルの空想や妄想では説明がつかないのだ。彼らはこのことを平気な顔をして「人類史の謎」などといっているのだが、このことについて考えようとする態度があれば、「増援隊」などという問題設定が成り立たないことくらいすぐわかりそうなものではないか。

アフリカから人がやってきたのではない。北から順番にホモ・サピエンス化していったのだ。このことのわけを説明できなければ、何もはじまらない。

原始時代に、「旅人」である後発の集団が先住民を滅ぼすということなどあるはずがないし、後発の集団が存在したという考古学の証拠もない。それはもう、南から順番にホモ・サピエンス化していったということでなければつじつまが合わない。

現在の考古学では、ヨーロッパでいちばん最後のネアンデルタール人集落は、ヨーロッパの入り口であるバルカン半島あたりにあった。それは、北ではいち早く寒さに弱いホモ・サピエンスのキャリアの個体でも生きられる集団運営の能力を獲得していったが、南ではなかなかその能力が身に付かなかったということを意味する。そのころはまだ氷河期で、だからこそ南ヨーロッパや西アジアでもでも寒さに強い純粋ネアンデルタール人でなければ生きられなかったのだ。

5万年前から2万5千年前くらいのあいだは一時的に寒さがやや緩んだ間氷期で、北ではいち早くホモ・サピエンス化し、南は最後のころになってようやくそうなっていった。

北のイギリス・フランス・ドイツは、南のスペインやギリシャやイスラム社会よりも集団運営の文化の伝統が発達している。それは、たんなる技術的な問題だけではない。ときめく心であり人恋しさの問題でもある。そういう心を共有しながら培われていった集団運営の技術なのだ。

人恋しさは、北の地域ほど切実で豊かになる。西アジアが出自のユダヤ人は、けっきょくヨーロッパ人とのときめき合う関係をつくれなかった。現在のイスラム移民にしても、人恋しさやときめきが希薄だから、ヨーロッパ社会にまるごと溶け込んでゆくことができない。

ヨーロッパが西アジアやアフリカよりも集団性が進化発展しているのは、環境風土による伝統であって、アフリカのホモ・サピエンスの末裔だからではない。アフリカのホモ・サピエンスヨーロッパ人になって集団性を進化発展させたのなら、現在のアフリカ人だってそれなりの集団性を備えているはずだが、彼らの伝統は「ミーイズム」にある。


「アフリカから増援隊がやってきた」だなんて、世界一流の古人類学者ともあろう人達が、何をくだらない研究をしているのだろう。

アフリカ人は、違う部族のものと一緒に暮らすことを嫌がる。それがアフリカの伝統であり、だから今でもあちこちで内乱が起き、どこでも国家の運営が上手くできないでいる。そんな人たちが、ただ同じアフリカ人というだけでわざわざ「増援隊」になってヨーロッパに出かけてゆくことなどするはずがない。

南アフリカのホッテントットがケニアのマサイ族の集落に行って歓迎してもらえるとでも思っているのか。そういうことをしない人たちだから、アフリカではいくつもの身体形質の種族に分かれてしまっているのだ。別れてしまっている、ということは、何万年何十万年も昔からそういう生態の人たちだったことを意味する。

「増援隊がやってきた」というような現象は、ネアンデルタール人の社会でこそ起きるのだ。氷河期の寒さが厳しくなって集団の存続が困難になれば、まわりの集落からどんどん旅人がやってきた。極寒の時期は、そのようにして小さな集団が消滅してしまうことがよくあった、という考古学の証拠が残っている。彼らは旅をする人々だったのであり、寒いときは集落の数を少なくしてまとまり、暖かいときは多くの集落に分散していった。

ヨーロッパでは集団の離合集散が頻繁に起きてどんどん血や文化が混じり合い、、アフリカではたくさんの集団に分かれたままそれぞれ独自の身体形質や言語文化になっていった。

何が「増援隊」か。十数万年前に登場したアフリカのホモ・サピエンスは人類史上もっと拡散したがらない人種だったのに、今ごろの世界の古人類学者たちはどうしてわからないのだろう。アホばっかりだと思う。ほんとに、ほんとに、いやになってしまう。

アフリカから「増援隊」がやってくることなどあるはずがないことくらいちょっと思考実験すればわかることなのに、今どきは世界的に猫も杓子も勝ったか負けたかの競争原理で人間を考える癖がついてしまっているから、どうしてもそういう問題設定になってしまう。

文明はどんどん進化発展していっているのに、人間的な知能の本質としての論理的な思考力も感性的な想像力も、そして人と人が他愛なくときめき合う関係性や集団性も、ますます後退してしまっている。

何度でもいう。「魂の純潔に対する遠い憧れ」を失って人類の民主主義の未来はない。

ネアンデルタール人は滅んだのではない。そして人類史上もっとも苛酷な環境を生きたネアンデルタール人こそ人類史上もっとも切実に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を生きた人々であり、われわれがネアンデルタール人の末裔であることこそ、われわれの希望なのだ。そこのところを、あの人たちはどうしてわからないのかなあ。


2017-11-06 醜悪な思想・神道と天皇(104)

今回の選挙の結果はひとまず民意が示されたのだというが、投票率50パーセントで何が民意か。投票に行かなかった50パーセントの人の心は民意ではないとでもいうのか。その人たちをむりやり投票に行かせたら、まるで違う結果になるかもしれない。無党派層が投票した党は、立憲民主党が3割で、自民党が2割だった。まあ、台風がやってきたし、野党はごたごたしてしまったし、いろんな偶然が重なってたまたまそうなってしまっただけだろう。避けがたい歴史のいたずらだった、ということはいえても、そうそう安直「民意だ」などといってもらったら困る。希望の党と立憲民主党を足した比例得票数は、自民党よりも多かった。それだって民意だろう。

いったい「民意」とは何かという問題は、単純な議席数だけではすまない側面がたくさんある。

自民党が過半数を取ったといっても、日本人の過半数自民党支持者だということを意味するわけではない。この国では、右翼でも左翼でもない無党派層がいちばん多いのであり、それを「サイレントマジョリティ」という。

政治オタク右翼なんか、ほんとにうっとうしい。彼らは、人をさげすんだり憎み倒したりすることばかりしている。そうしてこの国を右翼ばかりの社会にしてしまいたがっている。それは、傲慢であると同時に右翼以外のものたちを怖がっている心理でもあり、ある種の不安神経症強迫観念)なのだ。嫉妬、と言い換えてもよい。なぜなら右翼ではないということは、嫌われ者ではない、ということでもあるからだ。

彼らは他者を洗脳しようとする。まあそうやってみずからの正当性を確認したいのだろうが、なぜ「あなたのことが知りたい」と問いかけることができないのか。

右翼というカルト宗教、まったく気味悪い。

宗教とは、洗脳する装置なのだ。


全共闘運動の学生たちはマルクス主義という宗教を信奉していたし、現在の右翼たちは国家神道という宗教を信じている。

そしてこの社会では、「宗教自由」などといいながら、宗教が何か人間性の自然・本質に沿ったものだと合意されている。

どうしてこんなにも宗教に甘いのだろう。

まあ、文明社会そのものがすでに宗教的な構造を持ってしまっているからだろうか。

宗教を否定したら現在の世界は成り立たない、ともいえる。

文明人は、誰もが多かれ少なかれ宗教的な観念を抱えてしまっている。

しかしやはり、宗教はひとつの不自然であり、病理なのだ。

信心しているからといってえらそうな顔をされても困るし、世の右翼の多くも同じような人種なのだろう。自分が優秀な人間であるつもりの右翼宗教者はけっこう多い。

信仰はひとつの病理だし、宗教者であろうとあるまいと、文明人なら誰だってそうした自意識過剰の病理的な傾向を抱えてしまっている。

日本列島の仏教の歴史は、仏教を解体してゆく歴史だった。仏教を解体するとは、自意識を解体するということだ。そのようにして、仏教伝来から500年後の中世には、禅や浄土真宗が生まれてきた。

また神道は、アンチ宗教として仏教伝来のあとに生まれてきた。そのとき人々は、仏教が提示する「神の裁き」を信じなかった。日本人は、宗教者に「神の裁き」を示されても、じつは心の底で「なんのこっちゃ」と思っている。どんなに宗教者を偉いと崇めても、いざとなったら「神の裁き」など無視するのが日本人なのだ。

たとえば罪を犯して警察に追われている息子から「かくまってくれ」とすがりつかれた母親は、進んで受け入れることも多い。日本列島では、正義よりも情が優先される。

正義・正論を吐く宗教者や知識人政治家は、おおいに尊敬されつつも、じつはもろ手を挙げて愛されているというわけではない。日本人は、いざとなったら「神の裁き」も「正義・正論」も無視し、情を優先する。そうやって終身雇用制が守られてきたし、そうやってたとえ不合理だとわかっていても憲法第九条を守ってきた。それは、たとえ憲法違反とわかっていても自衛隊の軍備拡張が許されてきたということでもあるし、この国の精神風土はまあ、それでいいことになっている。

あえていってしまうなら、われわれ日本人にとって「憲法」という「神の裁き」など、いざとなったら無視してしまう対象でしかない。何しろ、仏教の戒律をことごとく骨抜きにしてしまった民族なのだ。

憲法第九条はそれなりに美しく捨てがたい文言だし、自衛隊の軍備が世界最先端のレベルを目指しているのなら、それもまためでたいことだ。そして、それでもわれわれは、戦争のない世界を夢見ている。

この国には「神の裁き」が機能していない。敬虔な信仰者など、ほとんどいない。いざとなったら「神の裁き」よりも「情」を優先する。しかしそれは、愚かだからではない。神や国家による「裁き=法」など当てにしなくても、民衆自身による集団をいとなむ作法を洗練・発達したかたちで持っている、ということだ。

無知なじいさんばあさんは弘法大師や親鸞をしんそこ偉いと崇めているが、そのじつ弘法大師や親鸞の教えの通りに生きているわけではない。宗教に矛盾した村の習俗はいくらでもある。たとえば「黄泉の国」という概念など、もっとも非宗教的な言い習わしのひとつだろう。日本列島の住民は、宗教(=神の裁き)以前の生きる作法を、すでに縄文時代以来の歴史の伝統として高度に洗練・発達したかたちで持ってしまっている。

無知な村びとの習俗が、すでに宗教を超えてしまっているのだ。

四国のお遍路は、無知な民衆が高度で切実な実存感覚としての「旅のかたち」を追求することによって生まれてきた習俗であって、真言宗の教えに従っているのではない。人が生きているということの問題は、たかだか宗教や政治だけで解決するわけではない。

四国をお遍路することは弘法大師と二人で旅することだ、という言い習わしなど、真言宗の教えにあるわけではないだろう。これは、死者は極楽浄土に行く、という仏教の教えを無視している。弘法大師のような聖人でも極楽浄土にはいかない。死者の霊は今なお幽霊のように空中に漂っており、人は死者とともに生きている、という思考というか実存感覚なのだ。


日本列島では、宗教意識が希薄だからどんな宗教も他愛なく受け入れてしまう。そうやってオウム真理教をはじめとしてさまざまなカルト宗教に洗脳されてゆく。

また、かんたんに洗脳されてしまうからこそ、宗教宗教以外のものにしてしまう。

戦国時代から江戸時代にかけてキリスト教が広がっていったのは、それだけ既成の宗教宗教のかたちをなしていなかったからかもしれない。

日本人の宗教に対する他愛なさといい加減さは、いったいなんなのだろう。

江戸時代のキリシタン弾圧といっても、神道や仏教と対立したというより、幕府が、あっけなく洗脳されてゆく民衆のあまりの他愛なさや、たとえば宣教師から中国や東南アジアへの「からゆきさん」という人身売買やスパイ行動などやりたい放題にやられてしまっていることに対する苛立ちや危機感を持ったからだろうし、それによって鎖国政策が本格化していった。ようするに、ヨーロッパ人の侵略姿勢があまりに差別的でえげつなく、日本人が宗教的にも文化的にもあまりに他愛なかったからだろう。

キリスト教宣教師は、あんがい傍若無人なところがある。信仰心がいいかげんだからではない。信仰しきっているから尊大になる。仏教の僧侶だって同じで、聖職者になると、自分では意識しないまま人や世の中を見下す癖がついてしまう。

坊主の説教なんか、たいていの場合、ろくなもんじゃない。

信仰というのは、ほんとにたちが悪い。信仰などいいかげんな方がいいし、いいかげんなのが日本人だ。


日本列島の歴史においては、宗教戦争といえるようなものはない。それだけ宗教そのものが本格的ではないからだろう。平安時代以降の「僧兵」はそれぞれの寺院がそれぞれの地域の政治権力集団として活動していただけのことで、戦う相手は公的な支配権力であって、他の宗教集団というわけではなかった。

江戸時代のキリシタンが決起した島原の乱にしても、幕府と戦ったのであって、仏教や神道と戦ったわけではない。

17世紀のヨーロッパではカソリックプロテスタントかということで「30年戦争」という深刻な事態が起こった。

一方古代の日本列島では、新しい宗教である仏教をすんなり受け入れていった。そうしてそれを契機にして神道が生まれてきたわけだが、両者か共存できたのは、神道がもともと本格的な宗教のかたちをなしていなかったからだろう。

宗教ではないのだもの、古代の神道は、仏教のライバルではなかった。まあ、今でもそうだともいえる。

平安時代の文書には仏教を輸入する際に神道と仏教が呪術の能力を争ったという記述があるらしいが、それは大和朝廷内部の、仏教が必要だという蘇我氏とそんなものはいらないという物部氏のたんなる権力闘争であって、宗教戦争ではなかった。そのときはまだ神道などなかったのであり、仏教伝来以前にアマテラス信仰などなかった。もしあったら、天皇アマテラス信仰も、物部氏とともに滅ぼされている。

神道と仏教が争ったのではなく、蘇我氏物部氏が権力争いをしただけだ。日本列島の歴史に神道と仏教の争いなどない。「神仏習合」なんて、こんないいかげんな宗教姿勢もない。

日本人が他の宗教に寛容なのは、基本的に信仰心が薄いからであって、べつに上等な信仰を持っているからではない。

明治維新の廃仏毀釈にしても、それによって仏教徒の氾濫なんか何も起きなかった。そのとき民衆のほとんどは、仏教でなければならないとも神道でなければならないとも思っていなかった。そうして権力の庇護からこぼれ落ちた多くの小さな神社が消えていった。だから、日本人の心のふるさととしてのそういうさびれてゆく神社を守ろうという運動が起こったくらいだ。

明治政府は、天皇神道を支配の道具として利用しながら、神道天皇ほんらいのかたちをひどく変質させてしまった。

今どきの右翼は、明治維新から戦前までは神道天皇が正常に機能していたと考えているらしいが、そんなのは大嘘であり、彼らは神道天皇の歴史的な本質を何もわかっていないし、彼らほど神道天皇を冒涜しているものたちもいないのだ。いやまあそれはこの国の支配権力の伝統であり、神道天皇に対する認識は、起源以来つねに支配権力と民衆のあいだではまったく異質だったし、民主主義の今どきは、ただの民衆でも権力者のような意識で神道天皇を認識している。

神道はや天皇は、国家や個人を生き延びさせるための装置であるのではない。国家においてであれ個人においてであれ、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」を深く豊かに生ききるための装置であり、その結果として国家や個人が生き延びるかどうかということはもう日本人のあずかり知らないことだ。


国家神道がなぜ神道として本質的ではないかといえば、もともと神道は国家を運営するために生まれてきたものではないからだ。

古代の大和朝廷は、国家を運営するために仏教を輸入した。

そして民衆は、仏教の死生観や世界観とは異質な民衆自身の死生観や世界観に沿って神道を生み出していった。

国家が、民衆を働かせて効率よく税を徴収してゆくためには、民衆に生き延びようとする欲望を持たせる必要があった。そのための戒律と救済を示しているのが仏教だったわけだが、民衆は、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」の他愛なくときめき合い許し合う関係のカタルシスを生きていた。そういう「お祭り気分」をどうしても手放せないまま、気がついたら仏教に対するカウンターカルチャーとしての神道を生み出していた。

そのとき民衆は、国家の運営には興味がなかった。なぜなら異民族に侵略されたことのない土地柄で、国家という単位を意識するはずがない。彼らには国家にたよるべき理由がなかった。とりあえず仏教は受け入れたが、仏教だけではすまなかった。

そしてそれは国家を意識しないものであるがゆえに、国家の庇護が必要なものになっていった。なぜなら、庇護がなければ、弾圧されるからだ。原初的な神道国家神道へと変質してゆくのは避けがたいなりゆきではあったが、それは神道としての本質を失ってゆくことでもあった。国家を運営するための神道だなんて、自己矛盾以外の何ものでもない。

起源としての神道は、国家を運営するためのものでも、生き延びるためのものでもなかった。

宗教など知らないものにだって世界観や死生観はある。仏教伝来のときの民衆はすでに仏教とは異質な世界観や死生観を持っていたし、それは、仏教によって吸収されるようなかたちのものではなかった。そうしてそのあとの「神仏習合」の社会状況によって神道も仏教もそれぞれ変質していったわけだが、両者が合体してひとつになるということはついになかった。このあたりが日本的なところで、そのとき仏教は多くの戒律がどんどん骨抜きになってゆきながら宗教としての本質から逸脱していったし、神道は呪術的な要素を加えながらなんだか宗教であるかのようなかたちになっていった。いずれにせよ、どちらもすでに宗教の本質から逸脱していたから共存してくることができたのだろう。

対立しない宗教なんか宗教ではないのだし、対立する左翼を叩いていい気になっている右翼なんかまさに宗教であり、けっして魅力的でも日本人的でもないわけで、「なんだかなあ」というしらけた感想しか浮かんでこない。


右翼思想なんか、しょせんは宗教でしかない。

政教分離といっても、実質的に宗教から分離された政治など、この世のどこにもない。

政治家にしろ評論家にしろ、彼らが語る政治理念はたんなる宗教としての信仰であったりする。文明人はもう、知らず知らず宗教的な思考の罠にはまってしまっている。

政治は宗教から切り離されて存在することができるか?

マルクス主義はただの宗教だというのはよくいわれることだが、民主主義とか平和主義とか、この世のすべての「主義=イズム」は宗教であるともいえる。

現代社会におけるお金は神だともいえる。まあ、ホリエモンはそういっている。

「神に代わってお仕置きよ」というのはどこかで聞いたことのあるセリフだが、アメリカはそういう心理でイラクや北朝鮮に戦争を仕掛けるのだし、これはもう文明発祥以来の普遍的心理だともいえる。

宗教は、文明社会が避けがたく背負ってしまっている現在なのだ。文明人にとって宗教はひとつの「けがれ」であり、だからこそそうした状態に対する「みそぎ」の願いも切実になる。

文明人は、宗教に対する親密さと拒否反応のあいだを揺れ動きながら生きている。

リチャード・ドーキンスのように「宗教は妄想である」と言い切ってしまえる人間はそう多くないが、それはたしかに真実であり、真実だと思いたくない人間も少なからずいる。たしかに真実だが、その宗教という妄想から完全に解き放たれて存在することができている人間などひとりもいない。

ただいえることは、「魂の純潔」は宗教のもとにあるのではなく、宗教すなわちいっさいの「主義=イズム」から解き放たれたところにあるということだ。われわれが完全に宗教から解き放たれてあることができないように「魂の純潔」を持つこともまた永遠にかなわないことであるのだが、それでも人は「魂の純潔に対する遠い憧れ」を失うこともまたけっしてない。まあ日本列島においては、そうやって「みそぎ」という習俗が生まれ、神道が生まれてきたのだ。

日本列島の精神風土においては、大陸諸国に比べると「魂の純潔に対する遠い憧れ」が切実で、つねに「みそぎ」を意識しながら歴史を歩んできた。

ネトウヨはもちろんのこと、今どきの右翼というのは、自分が「日本人である」ということのアイデンティティに病的なくらい執着している。それは「自分の正しさや清らかさは生まれながらにそなわっている」ということであり、つまり、「みそぎ」をしなくてもいいと居直っているのだ。「みそぎ」をしながら生きるという作法を失った(あるいは、捨てた)嫌われ者が、右翼という信仰にすがりついてゆく。

嫌われ者ほど、みずからの正当性=アイデンティティを欲しがる。そうやって人の心は病んでゆく。なぜ、自分のことなど忘れて他愛なく世界や他者にときめいてゆくということができないのか。それができなければ民主主義の未来はないし、もともと人はそのように他愛ない生きものなのだ。

右翼とはヘイトスピーチの温床であり、お偉い知識人であれただのネトウヨであれ、さかしらに正義・正論ぶっている今どきの右翼なんか、ほんとに愚劣で鬱陶しい。


2017-11-02 鬱陶しい・神道と天皇(103)

現在のこの国は、欧米諸国と違って、必ずしも右傾化しているとはいえない。そうなるような歴史の伝統にはなっていない。

なるほど明治維新から太平洋戦争の敗戦までの約百年は国ごと国家神道右翼思想に染められてしまったが、戦後になってたちまちそれを捨ててしまったのは、もともとそういう伝統ではなかったからだ。

そして唯一残ったのが、「天皇を祀り上げる」ということだった。

天皇制右翼思想は、また別のことなのだ。このことはこれまで何度も書いてきたが、どこまで書ききれたかは自信がない。

とにかく日本列島の民衆は、基本的には「政治」も「国家」も好きではない。できることなら、そんなことは忘れて生きていたいと思う。

今どきの論客は、左翼であれ右翼であれ、良いナショナリズムと悪いナショナリズムというようなことをいっているが、もともと日本列島の伝統にナショナリズムなどというものはない。だから、明治になるまで国歌も国旗もなかった。

今どきの右翼たちは、戦後の左翼的風潮を「日本人が日本人としてのアイデンティティを失っていた時代」などと評しているが、それでも日本人は日本人だったのであり、その証拠に天皇を祀り上げる心はけっして失わなわなかった。

ナショナリズム天皇を祀り上げることは同一ではないのであり、同一にしてしまったのが明治維新というか、大日本帝国憲法であり教育勅語だった。

現在でもこの国には、無党派層が5割以上いる。彼らは、政治にも国家にも関心がない。このような状況で、どうして「右傾化している」といえるのか。

小池百合子も希望の党が失速したのも、失言がどうのということ以前に、国民の右翼に対する拒否反応に触れてしまったからだろう。国民のほとんどは、小池百合子が日本会議とつながるゴリゴリの右翼思想の持主だということを知らなかった。都知事選以来ずっと自民党と対決してきたいきさつから、おそらく保守中道というようなイメージを抱いてはずで、彼女自身も「私はフェアウェイのど真ん中だ」といっていた。

右翼思想も、まあカルト宗教みたいなものだ。だから「保守」と言い換えて耳障りをよくしようとしたりするが、彼らほど世の中を変えようとしているものたちもいない。彼らは革命家なのだ。彼らは右翼思想に賛同するものでなければ許さない。世の中を右翼思想で塗りつぶそうとしている。ファシズムは彼らの本能のようなものだ。彼らは、日本人の心や文化が多様であいまいで混沌としたものだということを許さない。


嫌われ者は正義・正論で武装して自分を正当化しようとする。アイデンティティの不安を生きる彼らはもう、自分の正当性を確かめることでしか自分を支えるすべがない。ひととときめき合うことができるのならそんな目的を持つ必要もないのだが、できないのであれば、正義・正論を共有してゆくというか正義・正論を押し付けてゆくことでしか他者との関係(=集団)をつくれない。彼らには、誰もが自分のことなど忘れて他愛なくときめき合っている集団はつくれない。

現在の世界で右翼が増えているということは、他者にときめくこともときめかれることもできなくて、人と人の関係が分断されてしまっていることを意味する。ネトウヨの多くは、ふだんの生活場面で孤立してしまっているものが多い。彼らは、他者に承認されたがっているし、何より自分で自分を承認するためのよりどころを切実に欲しがっている。そうやって既成の正義・正論に取りついてそれを振りかざそうとするし、既成の優勢な勢力集団に潜り込もうとする。ネトウヨは自民党が好きだ。彼らは裸一貫の存在として立つことができないわけだが、裸一貫の存在でなければ他者とのときめき合う関係はつくれないし、すでに他者とのときめき合う関係の中にあるものは裸一貫の存在として立っている.

世間では「承認願望」は人間の本性だという意見もあるが、もともと人はすでに他者とときめき合い承認されている関係の上に存在しているのであり、わざわざ欲しがらねばならないのはひとつの病理にほかならない。

ネトウヨだけではない、この世の右翼ほど他者の承認を欲しがっているものたちもいないし、彼らほど他者から嫌われているものたちもいない。彼らはこの世の正義・正論の場に立つことによって自分を支えようとしているわけだが、その自分を支えようとすることが病理なのだ。

すでにときめき合っているものは、すでに支え合っている。根源的には、人は他者に承認されている存在であって、承認されたがっているのではない。

まあ、自分を支えようとする前に他者を支えようとしろよ、という話であり、他者を支えることによってしか自分を支えるすべはないのだ。つまり、自分なんか捨ててしまうというか忘れてしまうことによってしか自分を支えるすべはない、ということ。それがときめき合うことであり、そうやって人類の世界に「祭り」というイベントが生まれてきた。その原始的な「祭り」の盛り上がりこそが、人と人が助け合う関係の集団が生まれてくることの基礎になっている。

現代は、人と人のときめき合う関係が希薄になり、社会が分断されてしまっている。そのようにして世界の右傾化が進んでいるのだろうし、世界中が今、それを克服するすべを模索している。


日本人は新しもの好きで進取の気性が豊かな民族であるのは、たしかなことにちがいない。四方を海に囲まれた島国だからこそ、避けがたく新しいものや遠いものに憧れてしまう。もともと右翼的な国粋主義だけではすまない精神風土の伝統があるから、戦後にはその反動であっさりと左翼的な思潮になっていった。

現在だって、右傾化しているようで、じつはそれほどではない。ほとんどは右でも左でもない無党派層なのだ。進取の気性の民族なのだもの。

枝野幸男は、「右でも左でもない。そして上からの政治ではなく、下からの草の根の民主主義の社会をつくっていきましょう」と訴えた。

もしかしたら彼は、そのへんの凡庸な評論家が見るよりずっと深く確かに現在の状況を察知していたのかもしれない。つまり「人は根源において闘争・競争するのではなく助け合う存在だということを信じなければ、もはや民主主義の未来はない」という思いが切実にあって、民衆がそれに共感したのかもしれない、ということだ。

安倍政治によって世の中はどんどん闘争・競争原理に傾いてゆく。それによって得する人もいるが、とうぜん割を食う人もいて、世の中が活性化するというわけにはいかない、むしろ停滞し澱んでゆく。

おたがいさまで助け合うということが機能していなければ世の中は活性化しない。そのことが信じられなければ民主主義の未来はないし、人は根源・自然において信じることができる存在だ、と枝野幸男は信じていた。

安倍晋三が「自民党を支持すればこんなにも得することがありますよ」と説き、枝野幸男は「おたがいさまで助け合う社会にしてゆきましょうよ」と訴えた。それは、とてもシンプルであると同時に、とても高度な政治理念が隠されているのかもしれない。そして「ここからこの国の民主主義は新しいステージに踏み出した、と後からいわれるようにしましょう」といった。これはもう、青臭いともいえるひとつの志(こころざし)の宣言だろう。その「魂の純潔にに対する遠い憧れ」が民衆の心に響いた。

今回の選挙で枝野幸男は、少なくとも「無党派層」とか「選挙に行かない層」と呼ばれる人たちには必ずしも「あなたの得になりますよ」というメッセージが説得力になるともいえない、ということを証明してみせた。彼は、社会集団の健康な存在の仕方を問うてみせた。

早い話が枝野幸男の演説がかっこよかったとか感動したというだけのことで立憲民主党に投票したのかもしれないわけだが、それこそがじつは「自分の得になるから」とか「日本が安定・繁栄するから」という理由で投票することよりもずっと高度な政治的判断なのだ。

枝野幸男の演説だけは特別だった。自民党のようにあらかじめ組織的に人を集めたのではない。ほとんどは勝手に集まってきただけだったが、それでも自民党の街宣よりも聴衆が多かった。

損得勘定ではなく、ただ「みんなで助け合う社会をつくろう」といっただけで、それをただ感動したというだけで人が集まってきた。それはとても素敵なことだし、そこにこそ民主主義の未来があるのかもしれない。

民衆の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を揺さぶったということにおいて枝野幸男は、民衆がどんな政治演説に感動するかということに、ひとつのイノベーションを起こした。彼は、「民主主義の新しいステージに踏み出す」という志を持って演説をした。立憲民主党がこの先どうなってゆくかは知る由もないが、その演説に多くの人々が感動したという現象は、たしかに新しい何かを感じさせた。その「何か」をあえていうなら、「民主主義の新しい胎動」ということだろうか。


アメリカは、いつまでたっても人間を競争原理・闘争原理の上で考えることしかできない。そこに現在のアメリカの停滞と病理がある。

ほんとにアメリカは進歩・進化しない国なんだなあと思わせられる。なぜ、進歩・進化しないかといえば、歴史=伝統がないからだろう。歴史=伝統こそが文化を前進させるのであり、アメリカはそのための土台がないという不安を抱えたままいつまでたっても新しいステージに踏み出せない。

現在のアメリカはユダヤ資本に支配された社会らしく、ユダヤ文化もイスラム社会も、つまるところ競争原理や闘争原理の上に成り立っている。

そしてこれは現在の民主主義の問題でもあり、人間の本質・自然を競争原理・闘争原理で考えているかぎり、もはや民主主義に未来はない。世界は今、民主主義のパラダイムシフトを迫られている。

勧善懲悪は、ユダヤ的複雑巧緻な権力ゲームの免罪符になっている。しかし競争原理・闘争原理である権力ゲームを肯定しているかぎり、たとえば銃社会を失くすことはできない。それは「人は闘争原理・競争原理の権力ゲームのない社会を夢見ることができるか」という問題であり、アメリカのような権力ゲームが無際限に正当化されている社会で銃を失くすことなどできるはずがない。勧善懲悪には銃が必要なのだ。

銃を失くすことができない社会で、核兵器廃絶など叫んでも絵に描いた餅でしかない。

そしてこの国もまた、権力ゲームが大好きな「日本会議」というロビーイスト団体の暗躍がどんどん活発化してきている。そうやって世界は右傾化してきているからこそ、権力ゲームのない世界を夢見る心もいよいよ切実になってきているわけで、そういう状況から「きゃりいぱみゅぱみゅ」や「初音ミク」や「AKB」が登場してきて世界中でもてはやされている。

現在の世界の新しい女のトレンドは、女っぽいのでも、男以上の競争原理・闘争原理=権力ゲームの能力を持っているのでもない。社会の制度に汚されている存在である男にはない、「魂の純潔」を持っている存在としてイメージされている。だから、その答えのひとつとしてこの国の「ロリータ=かわいい」系のキャラの文化が受けるのだし、世界の民主主義の文化はもう、そういう方向にパラダイムシフトし始めている。

小池百合子は「魂の純潔」を演じてブームをつくり、もともと「魂の純潔」とは無縁の腹黒い女であることに気づかれ失脚していった。

「魂の純潔に対する遠い憧れ」なしに民主主義の未来はない。

たとえ世の中が権力ゲームの駆け引きで動いているものであるとしても、せめて自分の生活圏はそういうゲームとは無縁でありたいという願いは、そりゃあ世界中の誰にだってある。たぶん枝野幸男は、民衆のその願いに訴えて風を起こしたわけで、彼がAKBのファンであることはけっして偶然ではない。


まあ右翼だろうと左翼だろうと、権力ゲームに夢中になっている政治オタクなんて、みなそのような人種なのだ。

五十年前の全共闘世代の大学は政治的な空気が色濃く漂っていたが、革命を信じている政治オタクの学生なんかほんの少しで、じつはノンポリを決め込む学生のほうが多かったし、多くの民衆は彼らの行動を支持していたわけではない。

フランス革命やロシア革命が起きた西洋と違ってこの国の民衆には、権力者と権力ゲームをするという歴史と伝統がない。

政治とは権力ゲームであり、そのことに対する拒否反応はこの国の民衆の伝統なのだ。

この国の民衆は、いつの選挙でも、候補者の政策を吟味して投票行動をしてきたわけではない。選挙なんか、ただの人気投票だ。誰もが時代の「空気」にうながされて投票しているだけであって、気の利いた政治意識などというものは持っていない。

そりゃあ選挙なんかただの人気投票だし、民衆なんかただの愚民だ。しかしその愚かさは、政治や宗教による正義・正論よりももっと美しく崇高なものに対する遠い憧れを持っている、ということでもある。

人は「魂の純潔」に対して避けがたくときめき感動してしまう。それは、宗教や政治の正義・正論よりももっと美しく崇高なのだ。

この世でもっとも美しい「魂の純潔」を備えているのは生まれたばかりの赤ん坊だ。

人は、成長するにしたがってだんだん汚れてゆく。われはもう、死ぬまで「魂の純潔」を失ったまま生きるしかないし、死ぬまで「魂の純潔」に対する「遠いあこがれ」を抱いたまま生きてゆかねばならない。

「遠いあこがれ」すなわち「夢見る」ことは、存在そのものの喪失感から湧いてくる。そしてそれは、人が人であることの最後のよりどころでもある。

人は実現可能なことを計画する。と同時に、かなわないことを夢見る存在でもある。あなたがキリストになることもイチローになることもかなうはずはないが、夢見ることはできる。人は、鳥のように空を飛べたら、とあこがれ夢見る。

原初の人類は、木々の向こうの青い空に対する「遠いあこがれ」とともに二本の足で立ち上がった。

人は、戦争のない世界を夢見る資格と権利がある。

人は、人と人が助け合う世界を夢見る資格と権利がある。