ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2017-02-23 幸せ自慢という不毛・神道と天皇(4)

『神は妄想である』という本でドーキンス宗教を否定してゆく語り口は、きわめて過激で説得力がある。無数の宗教原理主義者が跳梁跋扈している現在のこの世界で、よくこんな本が書けたものだと思う。世界中を敵に回している、という感がある。その勇気は、どんなに称賛してもし過ぎるということはない。

とくにアメリカやイスラム社会の原理主義的な状況はもう、信じられないくらい極端で、アメリカ人の90パーセントは「神が人間をつくった」というアダムとイヴの話を本気で信じているのだとか。そして、ドーキンスのもとにはたくさんの「殺してやる」という脅迫状が届いたのだとか。

ただ、この本の読者はとうぜんほとんどが知識階級だから、全体の賛否の割合は、「よくぞ言ってくれた」と賛成している人のほうがむしろ多いのだとか。

現在の世界は、宗教原理主義の嵐が吹き荒れ、宗教戦争そのままの民族紛争は後を絶たない。

そして増え続けるイスラム教徒のヨーロッパへの移民・難民の群れにしても、日本人のような「郷に入らば郷に従え」というようなエチケットの意識などさらさらなく、イスラム教徒のままでいることが当然の権利であるかのような顔をしている。彼らはもう、イスラム教徒であることしかできない。アメリカにしろイスラム世界にしろ、子供のときから徹底的に宗教教育を施され洗脳されてしまう、という社会の構造がある。

日本人からしたら「移民・難民としてお世話になるのだから、自分の宗教なんか捨てるくらいの覚悟で行け」といいたいところだが、本気で宗教を信じている人たちにそんな理屈は通らない。たぶん彼らは、無宗教になることはできても、キリスト教徒になることは絶対にできない。彼らにとってはイスラム教の神以外に神などいないし、「イスラム教の神を信じるか、何も信じないか」の選択肢しかない。そしてヨーロッパが神を信じることが許されている土地であるのなら、「アラーの神を信じて何が悪い?」ということになる。

たいていの日本人が無宗教になってしまえる可能性を持っているし、じっさいほとんどが無宗教であるのだが、彼らはそういうわけにはいかない。神を信じて生きていく以外の道はない。

問題は、欧米の無神論者はとても肩身の狭い思いをしているし、宗教者がむやみに尊敬される状況がある。だからドーキンスは、そういう状況を打ち破ろうとしている。宗教者を無神論者にしてしまうことなんかできないが、せめて無神論者であることをもっと気軽に告白(カミングアウト)できる状況があってもいい、でないと世界はますますひどい状況になっていってしまう、という。

この世に無神論者はたくさんいるが、それでもたとえ無神論者といえども、現代人の心はどこかしらで「神」という概念に支配されてしまっている。「正義によって人を裁く」とか「自意識の肥大化」とか不毛な「生命賛歌」とか「幸福論」とか、すべては「神」という概念から照射されている問題なのだ。

まあこの国は実質的に無神論者の国だともいえるのだが、それでも誰もが「神」という概念とは無縁でいられないという情況がある。そこに「神」という問題の根深さがある。


そこでドーキンスは、『神は妄想である』という本の最後の章で、このようにいっているのだが……


私は(…中略…)宗教などなくても幸福で充実した人生を送ることができるという主張を持って、本書を締めくくるつもりである。


こういういい方も、僕の癇に障る。

科学者ともあろう人が、何を通俗的なことをいっているのだろう。

人生は「幸福で充実」していないといけないのか?「不幸でむなしい」人生だったらいけないのか?

「不幸でむなしい」人生でなければ知ることができないものや味わえないものもあるし、どんな人生だろうと取り返しのつかない一回きりのものではないか。幸福で充実していることが、そんなに素晴らしいか?

人生なんか、幸福だろうと不幸だろうと充実いようとむなしかろうと、ぜんぶどうでもいいのだし、ぜんぶそれでいいのだ。

誰だって自分以外の人生は生きられないのだし、誰だって「こうしか生きられない」というところで生きている。

「自分」ということに関していうなら、自分の人生だろうと存在それ自体だろうと、あるのかないのかよくわからない。確かなことはただ、われわれの意識はそこに他者が存在し世界が存在するということをひとつの「事実」として認識している、ということだけだ。世界や他者が存在することの「事実」の尊厳、というようなことはあるかもしれないが、幸福で充実した人生と不幸でむなしい人生の差なんかない。論理的客観的科学的にいって、そんな差はないのであり、ただ肥大化した自意識の主観においてそういう価値意識を持ってしまうだけのことだろう。

ドーキンス先生、あなたがいくら「私の人生は幸福で充実している」と思おうと、もっと強く確かにそう思っている宗教者はいくらでもいる。あなたよりももっとつまらない人生を生きているものでも、宗教者なら、あなたよりももっと幸福で充実していると自覚している。宗教はもともとそのように思い込むための装置であり、そうやって自意識が肥大化し「全能感」に浸されてゆく装置なのだ。

宗教者にとっての「自分」は何にもまして確かな存在として認識されているのであり、われわれ無神論者にとってのそれは、そういう幸せな体験からすでにはぐれてしまっており、「自分」なんかどうしようもなくあいまいで、確かなものは目の前のこの世界や他者ばかりだ。


意識のはたらきにおいて「自分」という存在がいかにあいまいであるかということを知るなら、自分の人生のことをどうこう言ってもしょうがない。

意識のはたらきの自然・本質はこの世界や他者の存在をたしかに認識し「反応」してゆくことにあるわけで、自分の「全能感」や「幸福感」を確認するためにあるのではない。それはむしろ病的なはたらきであり、そこから人間的な知性や感性が豊かに生まれ育ってくることはない。

「自分の人生は幸福で充実している」と思うことのその満足は、知性や感性の停滞であるともいえる。僕はそういうことを自慢げに語る宗教者を何人も知っているし、ドーキンス先生、あなたはもっとたくさん知っているはずだ。それでどうして、人生が幸福で充実したものであらねばならないかのような言い方をするのか。

人の知性や感性のはたらきの自然・本質において、そんなことは「どうでもいい」のだ。

人類の進化の歴史は、そんなことを追求して流れてきたのではないし、生き延びることに汲々としてきたのでもない。ただもう、この世界や他者が存在することの確かさに驚きときめき祝福しながら流れてきたのだ。

ひとまず遺伝子のはたらきのことを「命のはたらき」というとして、それは、生き延びるためのはたらきでもなんでもなく、この世界に「反応」してゆくはたらきなのだ。僕はそう考えている。生き延びようとするから生き延びられるのではなく、「反応」するから生き延びることができたりするのであり、それはまあたんなる「結果」のことにすぎない。

原初の生命が30数億年後のここまで生き延びてきたのは、遺伝子が生き延びようとしたからではなく、この地球環境の仕組みに生かされてきただけではないだろうか。つまり、地球環境に反応して自滅していったり、反応できなくて消えていったり、そうやって「淘汰」されてきたのであり、遺伝子というか命に生き延びようとするはたらきがあるのなら、あまりにもあっけなく、あまりにもたくさん死に過ぎる。「もう死んでもいい」という勢いがあると解釈しないことには、つじつまが合わない。「結果」として環境が生きものを生かしているだけなのだ。

進化なんてただのおっちょこちょいなのだから、たくさん死んでゆくに決まっている。しかしだからこそ、それでもなんとか生き残ることができる形質が抽出されてゆく。

たとえば、思考実験によってひとつの答えを見つけようとするなら、まずできるかぎりたくさんの答えになる可能性のあるものを挙げ、ひとつひとつつぶしてゆき、最後に残ったどうしてもつぶすことができないものが答えになる。それと同じこと、一直線に「これが答えだ」というものが見つかるはずがない。たくさんの答えになりそうなものを「淘汰」してゆくことによって、残ったそれが答えであることの証明になる。生きもの自身に、これが進化の道だ、とわかるはずがない。それは、環境世界との兼ね合いで決定されてゆく。回り道しないと、進化は起きてこない。回り道したがるおっちょこちょいでなければ、進化してゆくことはできない。


遺伝子が「生き延びるはたらきである」とか「不滅である」といってしまうことは、「霊魂とは遺伝子のことである」といっているのと同じになってしまう。死んでも霊魂だけが天国に行ったり生まれ変わったりするということと、「自己複製」しながら遺伝子だけが生き残ってゆくということは、けっきょく同じになってしまう。「宗教などなくても幸福で充実した人生を送ることができる」といってしまうことは、「宗教などなくても肥大化した自意識自我)の充足は得られる」といっているのと同じではないか。だから、そういう言い方をされると、癇に障る。

「自己複製」するということは、「死んでゆく」ということなのだ。人は、死ぬことの恐怖と同時に、死んでゆくことの尊厳というものも意識している。

何はともあれ宗教は、人間性の自然と矛盾する。宗教は本能的に不変不滅であろうとするが、それでも人間性の自然は、宗教を少しずつ換骨奪胎しながら、やがて宗教を清算してしまうのかもしれない。そういう自然のなりゆきはあるのではないだろうか。人間性の自然は宗教とは無縁のところにある、それが人間性の自然の起源であり究極なのではないだろうか、と思う。

日本列島の仏教伝来以前に宗教などというものはなかったし、それ以後もたえず宗教換骨奪胎してゆくという歴史を歩んできた。宗教の本質である「戒律」なんかどんどんなくなってきたし、葬式仏教だって宗教の堕落以外の何ものでもないだろう。しかしそれこそが、人間性の自然のなりゆきなのではないだろうか。

欧米には「アーミッシュ」と呼ばれるいまだに近代以前の生活様式を守り続けている人たちがいるし、イスラム圏の女性は「ブルカ」という黒いかぶりものをまとっているが、それらもいずれなくなってゆくのだろう。

宗教は、この世界のことも人の生き方も、最初から神が決めた「こうであらねばならない」という法則を勝手に決めつけ押し付けているだけで、知ろうとなんかしていない。すなわち「反応」していない。

われわれの脳のはたらきは、神を信じることができるが、神を忘れることもできる。神すなわち「神と自分との関係」を忘れて、目の前のこの世界や他者に驚きときめいてゆく。自分の中の「神と自分との関係」に執着してしまったら、自分の外の世界に対して「反応」する心はどんどん停滞衰弱してゆく。

原始人は「神と自分との関係」なんか持っていなかったし、おそらく未来の人間もそのようにして生きるのだろう。たとえそれが千年一万年先のことであろうと、たとえそんな未来が来ないとしても、とにかくそれが人としての究極のかたちであるに違いない。

日本列島の縄文・弥生時代に「神(=アニミズム)」など存在しなかった。このシリーズは、ひとまずそこから考えはじめたい。ただ、今の世の中にそんな前提で語っている歴史の書物などないわけで、ここで考えることは最初から「トンデモ説」として退けられる宿命を負っている。

それでも僕としては、そういわずにいられない止みがたい思いがある。そう考えないことには、現在の日本人の宗教に対する意識がこんなにもいかげんであることのわけの説明がつかない。

この国にはいまだに神など存在しないし、それでも神との関係を持っているかのような肥大化した自意識が育ってくる社会や時代の状況も、年々進行しつつある。神という意識はいいかげんだが、神という概念が機能していないともいえない。そこのところがやっかいでややこしい。

宗教とは何か?」という根源の問題を考えたい。それはきっと、現在の世界のけっして小さくはない問題でもあるにちがいないわけで。


2017-02-18 神なんか知らない・神道と天皇(3)

日本列島の仏教伝来以前においては、「神」は存在しなかった。

宗教なんかなくても、神なんか知らなくても、人は生きていられる。

日本人ほど神という意識がいいかげんな民族もいない。いいかげんでもこの生は成り立つ。そしていいかげんだから心の中に「神との関係」を持っていないかというと、そうともいえなくて、人が人や世の中を「裁く」ことは、神との関係の上に立ってしていることだ。人はこう生きねばならないとか、社会はかくあらねばならないとか、そういう絶対的な正義を持つこと自体が、すでに神との関係の上に立っていることを意味する。

われわれは、人類の歴史の無意識として、すでに「神との関係」の上に立たされてしまっている。おそらくそれは自意識の肥大化の問題で、「神との関係」を意識しようとしまいと、すでにそういう観念のはたらきを抱えてしまっている。

生き延びようとすること、すなわち文明人は多かれ少なかれ、無限に肥大化してゆく自意識をなんとしても守り育てようとする観念性を持ってしまっている。そうやって人や世の中を裁き、「天国」や「生まれ変わり」を想定したりしている。

人を憎むということ、それはなんとしても自意識自我)の牙城を守ろうとしていることで、それは無意識のうちに「神との関係」の上に立ってしまっているということなのだ。それは、その相手とは共存できないと自覚することで、その相手を抹殺しようとしていることだ。その相手が気になって気になってしょうがないというかたちで自意識の中に侵入されていることであり、肥大化している自意識ほど侵入されてしまうし、肥大化している自意識ほどそれを激しく拒否する。そうやって文明人は、すでに絶対で全能の「神」との関係を持ってしまっている。「神」との関係によって自意識は、絶対で全能のものへと肥大化してゆく。

そんなの気にしなければいいだけなのだけれど、肥大化した自意識は、避けがたく「侵入(侵略)されている」と自覚してしまう。そういう強迫観念とともに、相手を抹殺しようとしてゆく。それが、「憎む」ということではないだろうか。

人類は、宗教の発生とともに「憎悪」の感情から逃れられなくなってしまった。そうやって、パンドラの箱を開けてしまった。


人類の知性や感性は「神」なんか知らなくても成り立つし、知能が発達すれば自然に「神」を意識するようになるというようなものでもあるまい。意識するようになるのなら、この世に科学者など存在しない。彼らは、幼いころにまず「神」を意識し、それから科学に目覚めていったというわけではないだろう。

道端にしゃがみ込んで蟻の行列を飽きもせず眺めている子供が、そのとき宗教に目覚めているというわけでもないだろう。

子供には神や精霊に気づく力がある、などとよくいわれるが、それは自然に対して驚きときめいてゆく心のはたらきが豊かだというだけのことであり、子供は自然そのものを神だと思うことはあっても、神が自然をつくったというような発想はしない。そんなものは、何かにつけて作為的に生きているすれっからしの大人の発想だ。この世界やこの生をつくっている(支配している)神とか精霊などという概念は、大人から植え込まれるのであって、子供はただもう率直に驚きときめいているだけだ。

ひとまず宗教におけるこの世界の構造は、神が自然=生きものをつくり、精霊霊魂)が自然=生きものの生きるいとなみを支配している、ということになるのだろうが、人がそういう「つくる」とか「支配する」というようなややこしい関係に対する意識を先験的に持って生まれてくるわけでもないだろう。

ピーターパンやティンカーベルやトトロを空想することはべつに宗教でもなかろうが、この生を支配するものとしての精霊霊魂の存在が子供の思考の中で成り立つとは思えない。

精霊霊魂は不死の存在であり、不死を願う文明人の欲望から生み出されてきた。

この身体が有限であることは、誰でも自覚している。だからこそ、精霊霊魂という不死の存在がイメージされる。それは自意識の要請であり、精霊霊魂とは、身体が滅んでもなお生き延びたいという自意識の不死の形象化というか形代(かたしろ)なのだ。そんなものを、子供がイメージするはずがない。

文明人の自意識はまず、この世界をつくった「神」をイメージしていった。そうして自己と神との関係に入り込むことによって「全能感」に浸されていった。その「全能感」から、精霊霊魂という自意識の形見がイメージされていった。

おそらく起源としての宗教のひとつに違いない古代メソポタミアで生まれたユダヤ教は、自分たちは神に選ばれた民であるという自意識の上に成り立っている。

人類が「神」という概念を生み出したということは、「神との関係」に目覚めていったということでもある。そうしてその自意識は、さらに不死の「霊魂」という存在をイメージしていった。宗教はそうやって「全能感」に浸って生きるための装置として生まれてきたのであり、その「全能感」を宗教的法悦というのだろうか。

神との関係に入り込めば、「全能」だし「不死」だし、何をしようと「正義」はすべて自分のもとにある。人殺しをしてもかまわない。そうやって彼らは、戦争の歴史に突入していった。宗教こそ、人類普遍の戦争の原動力なのだ。

現代社会においても、べつに宗教を持っていなくても「自己正当化」の傾向が強い人間はみな、心の中に「神との関係」を持っている。

ユダヤ的な自意識、というのだろうか。現代社会には、そういう唯我独尊自意識が跳梁跋扈している。平たくいえば、そうやって「俺が、俺が」といいたがるし、ネット社会で「自分語り」のブログがあふれているのも、ひとまずそういうことかもしれない。


子供には、この生=自分やこの世界が存続しなければならないという自意識過剰強迫観念などない。

ドーキンスは、遺伝子にはこの生を存続させようとする「目的」を持っているかのようにいうが、そんなことはたんなる「結果」にすぎないのであり、生きものの命のはたらきが生き延びようとすることにあるとは僕は思わない。

生きものは「もう死んでもいい」という勢いで生きているのであり、そこでこそ命のはたらきは活性化する。

生きものはこの世界の「異物」であり、生きてあることなんかどうでもいいのだ。どうでもいいのだけれど、それでも生きる仕組みだけが残ってゆく。それを「自然淘汰=進化」という。環境は生きられない仕組みは生きさせてくれないし、必ず死んでゆく存在であるわれわれ生きものは生きられない仕組みしか持っていない。そうして、生きられない仕組みの生きられる部分だけが残ってゆく。

進化は、「生きられない仕組み」であるところのいいかげんでおっちょこちょいの気まぐれから起きてくるのであり、この生に「最適化」してゆく現象ではない。この生からはぐれてゆくというか、超出してゆく現象なのだ。そうしてどんどん死んでゆき、その果てに四苦八苦しながらもなんとか生きられるかたちになってくる。この生なんか無駄なことばかりであり、生きものはみんなその無駄を抱えて四苦八苦しながら生きている。

まあ、「どうでもいい」ことに憑依してゆくことによって「進化」が起きてくるのだ。キリンの首が長くなってゆくことなんか「どうでもいい」ことだったのであり、彼らが環境に「最適化」して生きているなんて嘘だし、この世界に「最適化」している生きものなんかいない。


原始人が、両手に石を持ってぶつけ合わせてみる。こんな「どうでもいい」ことは、猿はしない。しかしこの行為こそが、人類史の石器の発達の契機になった。そのとき人類は、科学に目覚めたのだ。

人類史は、宗教アニミズム)よりも先に「科学」があった。科学とは「どうでもいい」ことに憑依してゆくいとなみであり、この生からはぐれて(超出して)ゆくいとなみなのだ。

遺伝の法則を発見したメンデルをはじめとして、昔は科学の探求のための時間と資金を得るためにとりあえず聖職者になったという科学者はたくさんいるらしいが、神の存在を証明するために科学者になったという話はほとんど聞かない。

伊勢白山道という人はもともと理科系らしいが、けっきょく科学者になれなかった人だ。宗教者であることが、彼の科学者としての限界だった。

何はともあれ、現在の科学者のほとんどが無神論者であるということは、人の知能の発達に宗教なんか関係ないし、むしろそれは妨げになるということを意味している。

もちろん、神の存在を科学的に語るということはいくらでも可能なのだろうし、それによって民衆が洗脳されてしまうわけだが、それは宗教が科学を「くすねて」いるだけのことで、宗教は科学であろうとする本能を持っている。

人類の歴史は、まず科学に目覚めていった。そして、世界の構造を説明する科学として宗教が生まれてきた。そのとき宗教は、身の回りの自然とか、遠い星や月や太陽とか、生と死とかを説明する最先端の科学だった。

6世紀はじめに仏教を輸入した日本列島にしろ、近代になって「いつか白人の救世主があらわれる」と信じた南アジアの島々にしろ、文明社会の科学が、それを信じてゆく説得力になった。そのとき文明社会の科学を携えてやってきた文明人が、神や霊魂が存在するという世界の構造を説き、人々はそれを信じていった。

宗教者は、救世主のふりをしたがる。それによって自意識が満たされる。

人類の宗教の歴史は、まずはじめに人々の自意識が肥大化してゆく文明社会が出現したことにある。つまり、国家という共同体が出現したということ、そこからはじまっている。


では、国家という共同体は、どのようにして生まれてきたのか。

メソポタミアで最初に生まれた都市国家は、銀のインゴットを持っていて、それに憧れてあちこちから人が集まってきた。銀の精錬技術、それはまさしく最先端の科学だった。そしてそれは衣食住とはなんの関係もない「どうでもいい」ものなのに、人々はどうしようもなくそれに憧れた。そこは砂漠の中に築かれた都市だったのだけれど、まわりにはチグリス・ユーフラテス川の穀倉地帯が広がっていて、その生産物を銀と交換するためにどんどん人が集まってきた。そこは、世界の中心であると同時に、世界のヒエラルキーの頂点でもあった。その都市住民は、生きるための衣食住のことよりも、ヒエラルキーの頂点に立つという自意識の満足を追求していった。人間なんて、そういう「どうでもいい」ことに憑依してしまう存在なのだ。まあ、そうやって彼らは、ヒエラルキーの頂点に立つ「神」をイメージしてゆき、神と自分との関係を意識していった。もしかしたらユダヤ教を生み出した人々は、このような都市で育っていったのかもしれない。彼らはあくまで第一次産業とは無縁の人々なのだから、世界中のどこにでも住み着くことができた。そうやって彼らは、「世界宗教」の創始者になった。

人類の歴史は、まず「世界宗教」があらわれ、それが世界中に伝播していって原始宗教アニミズム)が生まれてきたのだ。

宗教なんかなくても、人間ならやがて科学に目覚めるし、社会における祭りの習俗や人と人の関係の習俗はそれなりに育ってゆくが、神という概念に気づいて神と自己との関係を結んでゆくメンタリティは宗教がなければ育ってこない。そうやって自意識が肥大化してゆくことによって宗教が生まれてきたのだし、自意識が未熟のまま宗教を受け入れるなら、原始宗教アニミズム)になってゆくほかない。



稲葉稲葉 2017/02/20 00:36 誰もを救う、緩いプロテスタント=北ヨーロッパ、緩い仏教=日本。
信じる者しか救わないユダヤ、カトリック、イスラム、初期仏教。
介護、おもてなしのプロテスタント、日本仏教。
戦争に敏感なユダヤ、カトリック、最近ではインド(初期仏教)も。
なんともわかりやすい結果が見えてるのですけどね。
プロテスタントは詳しく知りませんが、日本仏教って、最終的に「崇拝」ではなく、「故人への感謝」を目的にし、宗教としての目的を破棄していますもんね。お供え物だって、一種の「おもてなし」ですものね。決して「戒律」ではない。

HIROMITIHIROMITI 2017/02/21 22:23 稲葉さまへ、
コメントありがとうございます。

「戒律」で人を縛るなんて、ほんとにいやらしいことですよね。日本人はそう思うけど、アメリカのキリスト教原理主義者やユダヤ教徒やイスラム教徒にとってはそれが神との関係を生きていることの証しになるから、それこそがもっとも大切なものであるらしい。
神との関係が薄い地域では戒律が弱くなってゆく。西アジアは神との関係みずからを見出していった地域だが、ヨーロッパにしろ日本にしろ、神との関係を輸入したに過ぎない地域なのですよね。
そしてそのとき、すでにそれに変わる文化を持っていた。人を赦し、他愛なくときめき合う文化、というのでしょうか。
戒律とは、人を赦さない文化でしょう。人を警戒し緊張して生きているところから「神」が生まれ「戒律」が生まれてきた。
われわれは子供の「他愛ないときめき」から学ぶところは大きいと思えます。
あれしちゃいけないこれしちゃいけないという大人の文化をむやみに振りかざすべきではない。ルールが大切だとかなんとか言いながら今どきは、社会の仕組みとして、どうしても「戒律主義」になってしまいますよね。それが問題です。
まあ命とか人生とかお金とか幸せとか、大切なものを抱え込みすぎている。すべては「どうでもいい」ことなのに。現代人がそれに執着してしまうことはしょうがないことだけど、それは必ずしも正義ではないという自覚くらいは持っていてもいいのではないでしょうか。日本列島はむやみ人正義にこだわらない文化だから、「戒律」がなくなっていったのだと思うのですけどね。

稲葉稲葉 2017/02/21 23:38 根本は、「こうなってはいけない」「ああなってはいけない」と、「こうでもいい」「ああでもいい」の差ということですかね。
「ときめき」の余地を消す前者。
「ときめき」の機会だらけの後者。
ここを考えると、「国家」ってなんなのでしょうね。という気持ちになります。

HIROMITIHIROMITI 2017/02/23 00:47 稲葉さまへ

ほんとに、国家というのはなんだろうと思ってしまいます。
われわれ団塊世代周辺の高齢者たちは、よい国家とか理想の国家を信じているのですよね。いや、ネトウヨや左翼的な市民運動に走る一部の若者たちだって国家というものを信じているのだろうが、けっきょく宗教も国家も、「ときめきの余地を消す」装置なのだろうという気がします。
国家と宗教はコインの裏表みたいなものだと思います。
国家に弾圧された宗教だって、コンセプトに変わりがあるわけではない。
そこでここでは、「国家の外部」について考えてみたいと思っているわけですが、はたしてこの先どうなることやら。
われわれ現代人は、国家と宗教の両方から思考や感受性を制限されて生きている。宗教をやっていないとか政治活動をしていないとかといっても、誰だって神や国家に支配されている心を持ってしまっているわけで、国家や宗教に反対すればそれだけでそういうものからの影響を逃れられているといういうものではない。
国家や宗教の外部、という問題はたしかにあると思います。

2017-02-16 原始宗教(アニミズム)なんかなかった・神道と天皇(2)

先史時代の日本列島の住民は「神」というものを知らなかった。

まず、このことからはじめないといけない。

それは、仏教という大陸文化の伝来とともにはじめて知ったにすぎない。

縄文時代や弥生時代には、「神」はおろか、原始宗教アニミズム)というようなものすら存在しなかった。

ただ「祭り」があっただけだ。どこからともなく一か所に人が集まってきて、歌ったり踊ったり、さらにはフリーセックスの賑わいになってゆく。そんな生態を人類は、100万年も200万年も前から持っていたのであり、その生態とともに地球の隅々まで拡散していったのだ。そうやって氷河期の北ヨーロッパにネアンデルタール人が登場してきた。「祭りの賑わい」が人類拡散をもたらした。

ネアンデルタール人が大勢で狩りをしていたことだって、ひとつの祭りだった。

洞窟で焚き火を囲みながら、みんなで語り合ったり、歌ったり踊ったり……そんな生態なしにネアンデルタール人の暮らしは成り立たなかったし、そのことにアニミズムを結び付けねばならない理由なんかない。

人が寄り集まって暮らしていれば、たとえ原始人だろうと寄り集まっていることの賑わい=娯楽は生まれてくるし、それがなければ寄り集まっている暮らしは成り立たない。

人類は、はじめに「祭り」を生み出した。その賑わいとともに集団の数が猿のレベルを超えていった。


人類の歌や踊りがいつごろから始まったのかは知らないが、少なくとも宗教の歴史よりはずっと古いはずだ。祭りの賑わい、すなわち人が集まって歌ったり踊ったりすることに、必ずしも宗教が必要なわけではない。それは、人と人の出会いのときめきの表現であって、集団のアイデンティティを確認するというようなことは、他の集団と戦争をしたりするようになってきてからのことだ。

宗教は、集団のアイデンティティを確認するためのよりどころとして生まれてきた。

人はわりとかんたんにデマゴーグを信じてしまう。集団催眠というのか集団幻想というのか、ひとりなって考えればかんたんに嘘だと思えるようなことでも、集団の中にいると信じてしまう。時代に踊らされてしまう。集団幻想としてお化けを信じ、集団幻想として戦争に突入してゆく。

神が存在するなんて、ひとりになって考えれば信じられるはずもないのだけれど、集団の圧力がかかるとだんだん信じられてくる。

集団の圧力がかかると、「個体」としての意識が薄れて、集団の輪郭に自己の存在の輪郭を重ね合わせてゆくようになる。つまりそのとき、「個体」として世界と向き合っているのではなく、集団として世界と向き合っている。集団がそのデマゴーグを信じていれば、自分も疑いなく信じてゆく。

「神が自分を支配している」と思うとき、「個体」としての存在の輪郭を失って、神と自分との関係が自分の存在の輪郭になっている。

自閉症的」であるとは、自分の存在の輪郭が膨張してしまって、「個体」であることができないことの不安と、自分の存在が膨張していることの全能感とのあいだを揺れ動いている状態にほかならない。そうして、その「不安」を覆い隠すために、「全能感」に浸りきろうとする。そうやって全能の神に支配されつつ、全能の神との一体感に浸っている。そうやって、自分はナポレオンの生まれ変わりだとか神だとかと言い出す。

つまり氷河期明けの人類の歴史は、猿=自然としての限度を超えた集団の膨張による集団の圧力とともに「個体」としての輪郭を失ってゆき、神との関係の「一体感=全能感」を持つようになっていった。

「神は存在しない」といっても、人類はすでに「神という概念」を持ってしまった。有神論者たちにしてみれば、神が存在することは「科学的な真理」ではなく、あくまで「信じる」ということの上に成り立っている真理であり、科学者がどんなにその「非存在」を説いても、「信じる」ということを手放すつもりはない。

彼らは、神との関係の「一体感=全能感」を生きている。

まあ国家をはじめとして共同体の制度そのものが「信じる」ということの上に成り立っているわけで、ありえないデマゴーグを信じる「都市伝説」というのもそういう状況から生まれてくる。そうやって人は、ありえない神を信じている。そこには、「集団の圧力」が作用している。

自閉症的」、すなわち「自閉症スペクトラムアスペルガー症候群」とか「統合失調症=分裂病」などというのは共同体の病で、彼らの生存は、何が客観的な真実かということよりも、あくまで主観的な「個体」としての自己の存在の輪郭を取り戻すことこそが喫緊の問題になっている。彼らは自己を失っているがゆえに「自閉症的」になってしまっているわけで、そういう傾向は、この社会で暮らすわれわれの誰もが多かれ少なかれ抱えてしまっている。だから「スペクトラム(諧調)」という。たとえ未開社会の民族であれ、人類の観念というか脳のはたらきはすでに社会的自閉症的にになって、「個体」としてのみずからの存在の輪郭を失いかけている。

人類史における神の存在を信じる宗教は、集団が無際限に膨張していった「文明の発祥」の地で生まれてきた。

人類最初に「神」という概念発見し「宗教」を持ったのは、6千年前のメソポタミア文明の地だったのだ。それは、原始宗教アニミズム)として生まれてきたのではない。


人類史の原始的な段階の社会にはアニミズムが存在しなければならないのか。多くの歴史家がそう決めつけているのは、現在の未開社会にそのような習俗があるからだろう。それが進化してきて、やがてユダヤ教キリスト教や仏教のような世界宗教になってきた、と彼らは考えている。

だったら、未開の民族たちはなぜ、5千年も1万年も、あるいはもしかたら5万年も10万年も、そんな未発達の宗教のままでいるのか。彼らが人類最初に神を発見したのなら、彼らの社会(とくにアフリカ)でこそ人類最初の世界宗教が生まれてこなければならない。

アフリカだろうとアジアの南の島々だろうとアマゾン奥地だろうと、彼らの宗教が未発達なのは、つい最近宗教を持つようになったからだ。そんなのは、あたりまえじゃないか。

水が上から下に流れてゆくように、人類の文化は、文明社会から未開社会へと伝播してゆく。未開社会の文化が文明社会に伝わって文明社会の文化の進化発展をもたらす、ということなどありえない。文明の発達(=観念の上昇)は、後戻りなんかできない。それはもう、文明社会と未開社会とではどちらが先に「言葉」を持ったのか、ということと同じで、未開人が先だったということなどありえない。

では、古代エジプト・メソポタミアで生まれた宗教は、現在の未開の民族のアニミズムと同じようなものだったのかといえば、そうともいえない。なにしろ現在の未開人の宗教は、文明社会から伝播してきたものを自分たち流にアレンジして、つい最近獲得したものなのだ。

たとえば、現在のアジアのポリネシア諸島には、「もしもわれわれの未来に飢えて困窮するときがあれば、どこかから白い肌をした救世主がたくさんの荷物を持ってやって来てくれるだろう」という信仰がある。これなどは西洋近代の大航海時代に生まれたものに違いなく、それまで「白人」の存在など知らなかったはずだ。彼らは、白人によってそういう「神=救世主」という観念を植え付けられてしまった。おそらくそこから彼らの宗教がはじまっているわけで、それはべつに原始宗教(=アニミズム)でもなんでもない。

そして彼らは、子供と同じようにかんたんに「信じてしまう」人たちだった。

ドーキンスは、子供がかんたんに信じてしまうことをダーウィン流の「自然淘汰」の問題として、こう説明してくれる。「子供は親の庇護がなければ生き延びることができないのだから、それは自然淘汰という遺伝子存続のための戦略として必然的にそうなっている」、と。

しかしそうはいっても子供は、親のいうことだけでなく、自分を庇護してくれる対象でもないまわりの人間すべてや、犬や猫やおもちゃのいうことすらも信じてしまう。この世に生まれてきて間もないない子供は、この世界のことが知りたくてうずうずしているのだ。また、三歳ころに第一反抗期がやってくることを、ドーキンスはなんと説明してくれるのだろう。反抗し疑うことも生き延びることに重要な戦略だと目覚めるからだ、とでもいうのだろうか。そんなことをいったって、それならまず、親以外の対象に向けられねばならない。なのに、人格など持たないはずのおもちゃに対しては、ますます人格を持った対象であるかのように信じて親密になってゆき、ときにはおもちゃと話をしたりしている。そうやって子供の心は「もう死んでもいい」という勢いでこの生の外に超出してしまっているのであり、そこでこそ命や心のはたらきがよりいっそう活性化している。

そのときポリネシア諸島の人々は、「ああそうか、神という存在はいるのだ」と信じてしまった。白人は、自分たちとは異質な顔かたちをし、自分たちの外の世界からやってきて、またそこに帰っていった。それは神に違いない、と思った。

この生の外の世界があると知ること、それが神の発見であるらしい。

「生きられなさ」を生きている存在である人の心は、どうしてもこの生の外に引き寄せられてしまう。とくに子供や未開人はそうだ。


人類は、猿のレベルを超えて無際限に大きな集団を持っていったことによって、この生の外の存在である「神」という概念を発見した。その大きな集団の中に置かれていることの「生きられなさ」は、「神と自己の関係」を意識することの「全能感」という自意識の肥大化によって癒されていった。そうしてその自意識は、異質な神を持つ異民族と敵対していった。人類史における起源としての戦争は「宗教戦争」だったのだし、現在でも本質においては変わりない。

人類史における宗教は、世界の構造を説明するひとつの新しい「科学」として生まれてきた。

古代エジプト・メソポタミアの宗教者はすべて科学者だった。現在の欧米の宗教者が科学のことに口をはさんでくるのはそういう伝統であり、彼らは、異質な世界観をけっして許さない。この世界は神によって決定されている。その世界のかたちを変更しようとするものは、科学といえどもけっして許さない。というか、自分たちこそ真の科学者だという思い込みがある。

「科学では解き明かせないものがある」などというが、彼らからすれば、宗教は科学では解き明かせないものすらも解き明かしている科学なのだ、という思い込みがある。

古代エジプト・メソポタミアでは、神を頂点とするヒエラルキーの世界を構築していった。ピラミッドやバベルの塔はまさにそういうかたちをしているし、王は神にもっとも近い存在かもしくは神の子であると認識されていった。

それに対して文明社会からもたらされた「宗教=神」を受け入れていった未開社会においては、大きな集団に投げ入れられているストレスも異民族との敵対関係もないから、「神と自己との関係」を意識しながら自意識を安定させる必要も事情もなかった。神はあくまで、この世界の外の存在として認識していった。たとえ「精霊」や「生まれ変わり」を信じても、それが「神のはからい(デザイン)」だとは思わなかった。他の動物や森の木が神の分身だと思っても、神そのものは、あくまで自分たちが困ったときに助けに来てくれるこの世界の外の存在としてとっておきたかった。

森の中で不思議な音がこだまして「神の声」だと思うことはあっても、「創造主」としての神はうまくイメージできなかった。彼らにとって神は創造主ではなく、自然そのものだった。


人類史における創造主という神は、文明社会の「自意識」において、はじめて見出されていった。

「神」とか「霊魂」とか「生まれ変わり」とか「天国・極楽浄土」とかという問題は、文明社会の自意識=制度性の問題であって、原始社会ののどかな暮らしから生まれてきたのではない。

宗教は原始社会から生まれてきたということは、宗教は子供が生み出した、子供が最初に神を発見した、といっているのと同じなのだ。この世の中は、子供が大人によって洗脳されることはあっても、子供が大人を宗教に目覚めさせてやる、などということはない。

原始社会に宗教などというものは存在しなかった。それは、文明社会から伝播してこないかぎり、生まれてくるはずがない。

この国の縄文時代や弥生時代に原始宗教アニミズム)などというものはなかった。四方を荒海に囲まれた日本列島は、世界中でもっとも宗教共同体の観念が伝播してくるのが遅れた国のひとつであり、そのあいだに独自の言葉や祭りや集団の文化を洗練発達させていた土地柄でもあった。何しろ1万5千年以上前の氷河期においては、世界でもっとも発達した石器文化や土器文化を持っていたのだから。そして、だからこそ1500年前に大陸から宗教(仏教)や共同体の制度の文化が伝播してきたときには、たちまちそれを自分たちのものにしていった。

残念なことにアフリカでは、それができなかった。未開社会に宗教が植え付けられると、文化の発達が停止してしまう。原始社会に原始宗教アニミズム)が存在していてそれが世界宗教に発展してゆくのなら、今ごろそれは世界のどこにも存在していないはずだ。

国家文明を持たない原始社会に宗教など存在しなかった。

宗教は世界の構造を説明する「科学」として生まれてきたのであり、世界の構造を変更することを許さない。だから、アフリカやポリネシア諸島だけでなく、文明発祥の地であるエジプト・メソポタミアだって、その後の歴史においては時間が止まってしまったような停滞が続いた。

それに対して人類拡散の行き止まりの地であるヨーロッパや日本列島においては、世界の構造に対する認識を変更してゆくことができる文化風土があった。そこは人類拡散の歴史を背負ってそこにたどり着いた人々の土地だったのであれば、どこよりも人の往来がさかんで、誰もが旅人がもたらす知らない世界の情報に好奇心を抱いていった。

メソポタミアの地で生まれたユダヤ教が世界に対する警戒心と緊張の上に成り立っているとすれば、ギリシャ神話は人に対する好奇心があふれている。それは、中国大陸から伝わってきた仏教が「戒律」の上に成り立っているのに対して、日本列島の古事記の神々に与えられた豊かなキャラクターとの違いにも似ている。

ユダヤ教も仏教も「戒律」とともに人の生き方を支配してくる仕組みになっているが、ギリシャ神話古事記もそこのところにはほとんど触れていない。前者は、徹底的に人と神(仏)との関係にこだわり、後者はあくまで神々の世界だけを語っている。

ヨーロッパもまた、日本列島と同じように、輸入物の宗教が主流になっていった。ギリシャ神話古事記も、げんみつには宗教とはいえない。なぜなら「自己と神との関係」がないからだ。だからヨーロッパの知識人の多くは「神は死んだ」といいたがるし、日本人は、そういうことをいう必要もないくらい神との関係を持っていない。「神は隠れて見えない」という。神に手を合わせても、「関係がないという関係」しかない。つまり、日本人の神との関係は、つねに「一方的」なのだ。神はけっして人を支配してこないし、人もまた神との一体感を持つことがない。

われわれはべつに、ユダヤ人のように「神に選ばれた」民族ではない。

神と自己との関係を持ってしまうと、人との関係が不調に陥る。「自閉症的」になって、たとえ人との関係を支配しコントロールする能力が身に付いたとしても、人に対する他愛なく豊かなときめきは湧いてこない。そうやって文明発祥の地の歴史が停滞していったのだ。

ヨーロッパはキリスト教で、日本列島は仏教で、どちらも借り物の宗教で歴史を歩んできた。しかしだからこそ、骨の髄まで宗教に汚染されてしまうことなく、この世界の構造に対する認識を変更してゆくことができる文化的な自在性や、人と人がときめき合う文化を進化発展させてくることができたともいえる。


稲葉稲葉 2017/02/17 09:27 西アジアで最初に国家ができた時、「拡散の能力」を持った人民を縛り付けるために宗教が生まれた。と見ていいかもしれないですね。国としてまとめるためには、拡散のベクトルを、国内に向けさせる必要がある。
国の中心に「絶対的存在」を創り出し、まさに民を「自閉的」にしてしまうことで団体として機能する。ユダヤの始まりとして辻褄が合いませんか?
「ユダヤ=西アジア=メソポタミア」「キリスト=南ヨーロッパ=ローマ」「仏=インド=インダス」
すべて拡散の道中で、文明とともに起きていますね。
そして面白いのが、ユダヤで極まっている「戒律」ですが、拡散の距離に反比例して戒律が緩くなっていますね。
果ての地では無いに等しい。おそらく北ヨーロッパと南ヨーロッパのキリスト教も戒律に差があるのではないでしょうか。
プロテスタントなどの派生は、そこから来ているのかもしれません。

HIROMITIHIROMITI 2017/02/18 20:38 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

そうなんでしょうね。
そしてそれは、「政治」に目覚めることでもあった。起源としての宗教は、政治でもあった。
もともと政治と宗教は、別のものではなかった。宗教の長が、最初の「王」になった。
宗教は「祭り」ではなかった。
祭りは宗教=政治以前に存在し、やがて宗教=政治に吸収されていった。吸収されたというか、宗教=政治に寄生されていったということでしょうか。民衆を支配するためには、祭りを支配する必要があった。
ともあれ、祭りと宗教=政治は、相容れないベクトルを持っている。宗教=政治は「法=戒律」の上に成り立っているし、祭りはそれ無化した「混沌」の中で盛り上がってゆく。
祭りとは「遊び」であり、そういう文化が発達した土地で「戒律」をいい過ぎると宗教も政治も成り立たなくなる。
おっしゃるように、ユダヤ教から始まって、南ヨーロッパのカトリックから北ヨーロッパのプロテスタントへと変質してゆくにしたがって、戒律が緩やかになっていったのでしょうね。
ユダヤ教の神なんて、神への忠誠を誓うなら自分の子を殺して生贄として差し出せ、と要求してくるのですからね。徹底的に縛り付けてくる神なのですよね。そのかわり、自分たちは神に選ばれた存在なのだ、という自意識の満足を与えてくれる。
イスラエルのパレスチナ侵略は、そういう選民意識であり、神の命令なのでしょうね。神の命令なのだもの、いいも悪いもない。彼らはもう、侵略しないとエホバの神に対する裏切りになると、心底思っているのではないでしょうか。

2017-02-14 進化論という無神論・神道と天皇(1)

はじめに

ネアンデルタール人論はしばらく中断することにしました。

今、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』という本を読んでいます。これが、とても面白く刺激的です。で、僕もそういうことが書きたくなりました。読んでいる途中だからこの本の感想文を書くつもりもないけど、宗教に対するアプローチが、ヨーロッパ人でしかも科学者であるあの人のようにはいかない文科系の日本人としてはちょっと引っかかるところがあって、ひとまず文科系のアプローチというか、日本列島の歴史としてこの問題を考えてみたくなったというわけです。

ヨーロッパはキリスト教が深く定着している地域だから、彼らは「神は存在するか否か」という議論を当然のことのようにしてきた。ドーキンスは「それは科学の問題である」と言い切る。この無限の宇宙のことを知ろうとしたら、とうぜんそういう問題にぶつかる。無限の彼方のそのまた彼方のそのまたまた彼方に神がいるのか。そしてキリスト教の神は人間を創造し人間を裁いたりしてくる「人格神」でもあり、このことは「進化論」の科学と決定的に対立している。欧米の宗教者は、人間は猿から進化したという「進化論」をけっして認めない。しかし科学者は、すべての生きものの歴史は一個の極小の遺伝子(あるいは有機物質)だったところから始まっているのであって、べつに神がつくったわけではない、という。

まあ、宇宙であれ生きものであれ、おおもとのそういう「起源」のところに「神のはからい」があったのだという宗教者もいるわけだが、そんなことをいっても聖書には神が人間や猿や犬や虫や魚や木や草をつくったと書いてあるし、今でもそのことをかたく信じきっている民衆がたくさんいて、信じ込ませようとしている宗教者がいる。欧米では、ほとんどの科学者無神論者であるにもかかわらず、民衆のあいだにはそういう「迷妄」が今なお強くはびこっているという状況になっているらしい。そうやって科学者神学者が、「神は存在するか否か」という問題を議論し続けている。

科学者宗教に転ぶのは思考停止だし、宗教者が「進化論は間違っている」などと科学の問題に口を挟むのは越権行為だ、とドーキンスはいう。

しかしこの国では、そういう議論で盛り上がるということはほとんどない。もともと神なんか知らない民族だし、神なんかすべて受け入れるし、神なんかそのときその場に合わせた「衣装」みたいなものだというお気軽な感覚で歴史を歩んできた。

まあ信じようと信じまいとそれはただの「概念」であり、神が存在するという証拠などないのだ。人類はあるときからそういうものの存在を信じるようになってしまった、という歴史の事実があるだけで、誰でもその存在を信じることができるという証拠などない。今どきの伊勢白山道とか江原なんとかとか、この国にもその存在を人々に信じ込ませることができる扇動者はうようよいるが、その証拠を取り出して見せたものなど世界中にひとりもいない。

地球は丸いという証拠ならいくらでもあるが、神が存在するという科学的な証拠などひとつも存在しない。神を信じたくなる人の心があるだけだし、信じたほうが「生きられなさ」から逃れて「自分」を支えることができる。無神論者になったら、「生きられなさ」を生きなければならない。べつに科学者になるつもりもないのだし、科学的な「問い=生きられなさ」などないほうが気が楽だ。すべて「神のはからい」ということにしておけば、それで何もかも裁くことができる。それで、自意識は満足できる。



神は存在しない、と示せる証拠もないが、存在しないという「蓋然性(確率)」を数値として導き出すことは可能だし、それは科学の仕事だ、とドーキンスはいっている。

それはまあそうだろうし、ひとまず僕も無神論者なのだけれど、次に引用するような言い方をされると、「ちょっと待ってくれよ」といいたくもなる。

宗教は極めて浪費的なもので、非常な無駄遣いである。そしてダーウィン流の淘汰はふつう、浪費を狙い撃ちにして、消滅させる。自然はしみったれた会計係で、一銭でも出し惜しみ、時間ばかり気にし、ほんのわずかな浪費にも罰を与える。(…中略…)自然には、勝手気ままな洒落遊びを許す余裕などない。たとえつねにそのように見えないにしても、非情な功利主義勝利を収めるのだ。」

宗教の歴史においては、はたくさんの人が殉死していったし、たくさんの敵を残虐に殺してもきた。そういう意味において「浪費的」なものかもしれないが、それは自分たちの教義アイデンティティ(=自意識)を守ろうとするもので、宗教こそきわめて「しみったれた会計係」である」といえなくもないだろう。

僕は、「自然淘汰=進化」は、「勝手気ままな洒落遊び」で起きてきたものだと思っている。

キリンの先祖が草を食むことをやめて頭上の木の葉を食おうとしたのは、「勝手気ままな洒落遊び」だったはずだ。木の葉には毒性があるし、上を向いてばかりいたら天敵の接近にも気づかない。だから最初は、木の葉ばかり食いたがる首の長い個体から順番に死んでいったのだが、やがて全体でゆっくりと首が長くなってゆき、木の葉ばかり食うようになっていった。最初の木の葉ばかり食いたがった首の長い個体は、進化の歴史のいわば「殉死者」だったのかもしれない。

進化は、気ままでおっちょこちょいの洒落遊びから起きてくる。地球上の生きものが現在のようなかたちになってくるまでには無数の試行錯誤があり、その過程で無数の滅びていった種や個体がある。生きものはおっちょこちょいの洒落遊びをしてしまうから、現在のような多様な種に分岐してきたのだろう。べつに遺伝子という「しみったれた会計係」が、「その中のひとつでも生き残ればいい」という計算で多様な種をつくろうとデザインしたわけでもないだろう。それだったら「遺伝子は神か?」ということになってしまう。

クジャクの羽模様があんなにも派手なのは繁殖して遺伝子を残すのに有利だからだ、とドーキンスはいうが、それだって最初は、羽模様が他のオス以上に派手で見せびらかしたがるおっちょこちょいの個体から順番に天敵から食われていったはずで、そういう「無駄=殉死」を潜り抜けながらみんなでゆっくりと派手になっていったのだろう。今やクジャクのオスの羽模様にそれほど大きな個体差などないはずで、どのオスにもチャンスはあるはずだ。いつどこでメスがその気になるか、という問題があるだけだろう。べつに群れをつくって共演し、その中のとびきり派手な模様の持ち主が選択されるというわけでもなかろう。そんな生態なら、派手になってゆくことなんかできない。

羽模様が派手ではないクジャクのオスというのがいるのか?

クジャクのメスは、人間の女みたいにあれこれオスの羽模様を見比べているのか?

おそらく「進化=自然淘汰」は「勝手気ままな洒落遊び」であり、創造主としての神は「しみったれた会計係」なのだ。宗教の不自然さは、そこにこそある。



キリスト教神学者がアダムとイヴの話にこだわって「進化論」を認めようとしないのは、それだけ宗教がかたくなで「しみったれた会計係」だということを意味するのではないだろうか。だから彼らは、生まれ変わろうとしたり、天国まで生き延びようとしたりする。

僕は文科系の人間だから、ドーキンスの理論が間違っているということなどいえない。『利己的な遺伝子』や『神は妄想である』という本はとても興味深い読み物だし、それでもしかし「進化」や「宗教」に対する彼の考え方というか言い回しには、どうしても違和感が残ってしまう。

日本列島と西洋の宗教的土壌の違い、ということもある。

ドーキンスによれば、宗教は生き延びることに有効ではないということだろうが、僕はそうは思わない。なにしろ、天国まで生き延びることができるし、何度でも生まれ変わることができる装置なのだ。霊魂は、けっして死なない。永遠不滅であるらしい。

しかし生きることの自然は、生き延びようとすることではなく、この生を超えてこの生から消えてゆこうとすることで、生きものはそうやって生きて死んでゆくのだと僕は考えている。

キリンは、「もう死んでもいい」という勢いで木の葉を食うようになっていったのだ。生きものの進化には、そういう「無駄死に」が無数に堆積している。すべての生きものは、滅んでゆくことと背中合わせで生き残ってきた。そういうことを「天の配剤」といったりするが、それはもうただの偶然のなりゆきで、滅んでしまってもかまわなかったのだ。神が生き残るように按配してくれたわけではもちろんないし、「しみったれた会計係」としての遺伝子がそのように計算したわけでもない。


ドーキンスは、「現在の生物のすべての種は、長い<自然淘汰>の蓄積の歴史の結果として環境に<最適化>して存在している」という。「自然(淘汰)はしみったれた会計係である」という彼の文脈ではとうぜんそういうことになるのだろうが、こういう言い方をされると僕は、すごく癇に障る。

どこが「最適化」しているのか?すべての生物は、存続と滅亡のはざまで四苦八苦しながら生きているだけではないか。この世界に「最適化」して存在している生きものなどひとつもない。

今ここで山火事が起きれば、木も草もシカもネズミもリスも、みんな死んでしまうのだ。生きものは、環境に適応しているのではない、環境に対する「異物」なのだ。

まあ、人類が二本の足で立ち上がったのも意識のはたらきを発達させたのも、ひとつの「受難」だったのであり、そのためにつねに滅亡の危機に置かれてきたのだ。とっくに滅んでしまっていても、なんの不思議でもない。生き残ってきた必然性など、何もない。たまたま生き残ってきただけだ。それは、神のはからいでも、遺伝子という「しみったれた会計係」の計算だったのでもない。

命のはたらきは、生きるためのはたらきであると同時に、死んでゆくためのはたらきでもある。純粋に生物学的な問題としてそうではないかと、僕は思う。

われわれが二本の足で立っていることの不具合は、骨や筋肉から内臓のはたらきにいたるまで、いくらでも挙げることができる。そのために死んでゆかねばならない人もたくさんいる。意識の発達のせいで、心を病んだり発狂してしまったりする危機を誰もが抱え込んでしまっている。人の心なんか、誰だってどこかしら病んでいる。

人類滅亡は、明日かも知れない。滅亡したって、不思議でもなんでもない。「もう死んでもいい」という勢いで命をはたらかせて生きているのだもの。

われわれは、神がデザインした通りの存在ではない。

最適化」などというようなことをいうから、神学者につけいられるのだ。

進化なんか、ただのおっちょこちょいの気まぐれなのだから、いつ滅んでしまってもしょうがないのだ。神がいたら、進化なんか起きないし、神は進化を許さない。


「自然は神だ」といわれれば、人は「なるほどそうかもしれない」と思う。この国の神道は、ひとまずそうやって生まれてきた。

人間は自然ではない。自然と向き合っている存在なのだ。したがって自然=神が人間をつくったのではない。神は神をつくるだけで、人間なんかつくらない。これが、古事記によって語られている神道というか神の物語だ。

生きものは、この世界の「異物」として存在している。「個体」であるということは「異物」であるということだ。人間以外の生きものだって、「個体」であるということにおいては、自然の一部ではない。自然と向き合っている自然の外の存在なのだ。

古事記という神の物語を生み出した古代の日本列島の住民は、けんめいにこの生の外の存在を模索していった。だから人間離れした神ばかり登場してくる。そうして、神がだんだん人間になってきた、というストーリーになっている。日本列島においては、神は人間ではないと同時に、人間でもある。神は、人間をつくらないが、人間になった。

それに対して西洋の場合は「神が人間をつくった」ということになっている。人間は自然の一部で、人間も神がつくった。インテリジェントデザインというのだろうか、西洋の神は万物創造主で、そうなると科学者の仕事なんかなんの意味もなくなってしまうし、神学者が科学のことに口を出してくることにもなる。そうやって彼らは、「神は存在するか否かと」と飽きもせず議論し続けている。そうして、どちらがこの生の真実に届いているかという議論になり、どちらが生きることに有効かということにもなってゆく。

ガリレオ地動説を唱えて処刑されたなんて、日本人からしたら信じられないことだ。この国の宗教者は、そこまで口出しはしない。浄土真宗が「死んだら極楽浄土に行けるということなんか考えるな。そんなことはすべて、世界の中心である阿弥陀如来にお任せせよ」と説いたように、世界の構造や外縁を無理に知ろうとしない、「今ここ」の世界の「中心」が定まればそれでよい、という流儀で歴史を歩んできた。

まあ四方を海に囲まれた土地柄だから、この世界もこの生も「外縁」など知りようがないし、どうでもいいのだ。

日本列島の「無常感」においては、世界の外縁すなわち死んだら天国や極楽浄土に行くということどころか、生き延びることそれ自体がどうでもいいのであり、「今ここ」においてこの世界が輝いて見えればそれでいいのだ。そうやって古事記を語り合った古代の奈良盆地の民衆は、ひとまず自然が輝いていることの根拠として「自然は神だ」ということにしていった。

そういう意味において、この国の神道宗教だとはいえないのかもしれない。

この国の歴史においては、生きることははかなくどうでもいいことで、生き延びるためには何が有効かという議論など存在しない。そういう「しみったれた会計係」など存在しない。

生き延びることなどどうでもいい、誰の生存だろうと無駄な生存であり、誰の死もただの無駄死になのだ。「それでも世界は輝いている」というだけのこと。これは、文科系の発想だろうか。日本的な発想だろうか。

まあ、日本列島の伝統ということだけでなく、ネアンデルタール人以来の人類の伝統として、この国の神道天皇制の問題を考えてみたいわけです。


稲葉稲葉 2017/02/16 11:02 日本人は「おもてなし」「わびさび」、いわば「ときめく存在」ですよね。
「神」の話が入ってきた時、宗教家が言う「神」としてではなく、万物を「神」と擬人化して、
「感謝(ときめき)対象」にしやすくしたのかもしれないですね。
まぁ、ひとつの遊び心とも言えますね。

HIROMITIHIROMITI 2017/02/17 03:38 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

「遊び心」なのでしょうね。
すなわち「お祭りの文化」で神をイメージしていった。
それに対してユダヤ教=キリスト教も仏教も、その教えは人に対する警戒と緊張の上に成り立っている。まあそれによって処世術が身に付くのだからそれなりに共同体の中では有効にはたらくのだろうが、それでも日本列島の民衆は人と人が他愛なくときめき合う祭りの文化を失いたくなかった。祭りの文化を存続させるためには、仏教だけではなく神道が必要だったのでしょうね。だから、古代の神道は宗教とはいえない性格を持っている。
宗教は、道徳というかたちでひとつの処世術を与えてくれる。それに対して「そんなことはどうでもいいんだよ、人に対してときめきときめかれる関係が持てればいいだけさ」という「祭りの文化」がある。そういう「祭りの文化」は、はたして宗教(=処世術の文化)を超えてゆくことができるか、それが問題なのだろうと思います。なんのかのといっても現在の世の中は、「処世術の追求」が主流になっているのではないでしょうか。
子供が塾に通うことだって、ひとつの「処世術の追求」なのだろうし。

稲葉稲葉 2017/02/17 08:12 子どもの世界で、まさに「塾(進学)」=「制度」、「遊び」=「祭り」なんですよ。
塾に集まる事と、公園に集まる事と、世界が違うんですよね。

HIROMITIHIROMITI 2017/02/18 18:34 稲葉さまへ

しかしこの世の中の流れはもう、後戻りできないできないのでしょうね。
別に塾通いがいけないということもないし、公園に集まって遊んでも、いつの間にか「競争」してしまっているということもあるのだろうし、連携しておもしろさをを追求するというイマジネーションのある遊びができるか、という問題もあるわけじゃないですか。競争して勝つことが「おもしろさ」だというのでは、イメージ貧困すぎる。まあ親が親だから、そういうイメージ貧困な子供も増えてきているようにも思います。とくに都会の公園では。
いや昔だって、小学生になるとだんだん無邪気に遊べなくなってきて、中学高校のころのほうがずっと無邪気に遊べたりしたような気がします。
ある人がいっていました。「小学生の男子なんて、しょせんは親に飼いならされている生きものさ」と。
まあ、女の子のほうが上手に遊んでいるような気がします。
そういう世の中の仕組みになってしまっているからしょうがない、ということでしょうか。遊び道具は有り余るほどあるけど、「遊ぶ」ということに対するイメージが貧しくなってきているのかもしれないと、ふと思うことがあります。。
なんか支離滅裂な返信になってしまいました。ほんとに子供たちにはしんそこたのしく遊んでほしいと思うのだけれど。

通りすがり26歳通りすがり26歳 2017/02/21 00:48 ドーキンスの言う最適化という言葉を、完全無欠という意味と勘違いしてると思います。
山火事という稀にしか起こらない現象を自然淘汰が予知することはありません。
もし山火事が頻繁に起こる過酷な環境なら、それに合わせた適応が生じるでしょう。
もっと過酷な環境に適応した生物も地球には実際に存在しますよ。
しかし巨大隕石衝突のような地球にとって数千万年に一度しか起こらないことに対する適応は永遠に起こりませんね。
自然と適応のもっと詳しい話は『虹の解体』の第9章利己的な協力者、を読むと理解が深まると思います。

HIROMITIHIROMITI 2017/02/21 22:40 通りすがりの26歳さまへ
コメントありがとうございます。

山火事の例を挙げたのは、確かに不用意でした。でも、べつに「最適化=完全無欠」と思っているわけではありません。生きものなんかかんたんに死んでしまう存在だ、ということがいいたかっただけです。原始人なんか、風邪をひいただけでかんたんに死んでいった。どこが「最適化」なのですか。「可能な限り適応している」としても、それでも生きものはみんな四苦八苦して生きている。
僕は、ドーキンスのいうことが間違っているとは思っていません。ぜんぶ正しいのだろうし、なるほどそうなのかと感服しながら読んできました。ただ、「思想」の問題として、「どうしてそんな言い方をするのかなあ」という違和感がどうしても残ってしまうわけです。
科学がそういう言葉を使うのは便宜上しかたないとしても、それは「思想」の問題ではない。
『神は妄想である』はひとまず「思想」の本であるわけで、あの場合「生命賛歌」の文脈で「最適化」といっている。それが癇に障るといいたかったのです。生物学は「生命賛歌」じゃないと成り立たないのでしょうか。科学というのは「事実」を探求する学問でしょう?生命賛歌なんかどうでもいいし、思想としても、それでは甘いしナイーブ過ぎるし、それでは宗教批判になりにくい。だって、宗教そのものが「生命賛歌」を根拠にしているわけで、彼らにしてみれば、われわれのほうがもっと豊かに「生命賛歌」をしているという自覚がある。神を信じることを選択するほうがずっと豊かに「生命賛歌」ができる、と思っているし、もしかしたらそれはまあその通りかもしれない。彼らの合言葉は、どのようなかたちであれ、「生かしてもらってありがとうと神に感謝をささげよう」というものです。
ドーキンスは、宗教がなくても生きることの意味や価値や喜びや幸せを得ることができる、というけど、生きることなんか単なる「事実」であって、意味も価値もよろこびも幸せもどうでもいいことです。そんなところで宗教者と張り合うなんて、ある意味不毛です。
そりゃあ僕だって「生命の不思議」に対する驚きは大いにありますよ。でもそれは。あくまで「事実」そのものとしてであって、生きることの意味や価値や喜びや幸せとはなんの関係もないことです。そんなことが大事だなんて、「思想」としてはただのナイーブな甘ちゃんなのですよ。
「生き残る」ということが起きるときには「どんどん死んでゆく」ということも起きているわけですよね。自然は、適応していなければ生きさせてくれない。情け容赦なく死なせてしまう。そういう「自然淘汰」は、自然のがわが決定しているのであって、遺伝子のがわに適応しようとするはたらきがあるとは思えない。というか、適応状態をどんどん逸脱してゆくのが命のはたらきだろうと考えています。逸脱してゆくから、無数の死者を生み出しながら、それなりの進化が起きてくる。逸脱してゆくから、多様な種が存在している。それは、生物の命のはたらきなんかしっちゃかめっちゃかだということを意味しているのではないでしょうか。
生きものの体が動くこと、すなわち行動すること、すなわち生態、すなわち「生きる」といういとなみ、それは「最適化」の状態から逸脱してゆくことだともいえる。最適化しているのなら、床の間の壺のようにじっとしていればいいだけです。そうしていられなくて動くというのは、「最適化=適応」状態から逸脱してゆくことのはずです。それは、体にたまったエネルギーを失くしてゆくことでしょう。生きものは、エネルギーを失くしてしまおうとする衝動を持っている。それを僕は、ひとまず「もう死んでもいいという勢い」といっています。
ips細胞がどんな臓器の細胞にもなれるということは、そこでips細胞としてひとまず死ぬことでしょう。ドーキンスだってそのようにいっているはずだし、それでどうして「生命賛歌」しないといけないのか。そこのところの彼の「思想」のかたちが、僕にはよく理解できません。
生きもののがわには生き残ろうとするはたらきなんか持っていないのに、自然環境はそれに合った個体を残し、それに合った生態にさせてゆく。「利己的」というなら、自然のがわにあるのではないか。生きもののがわは、あくまで「死んでゆく=エネルギーを消費する」というかたちで生きているだけでしょう。
進化なんかただのおっちょこちょいの気まぐれで、キリン首が長くなってゆく進化の歴史のはじめには、長い個体から先に死んでいった。それはもう、最先端の科学の数学的なシュミレーションによって証明されている。ドーキンスの好きな「蓋然性=確率」というやつです。
あえて「最適化」という言葉を使うなら、最適化しようとするはたらきの上に最適化が起きているのではなく、自然のがわが無数の逸脱した個体を摘み取った「結果」として最適化ということが起きている。しかしそれは「可能な限り適応している」というだけのことであって、げんみつには「最適化」とはいえない。たとえ人間であれ、生きものはみんな四苦八苦して生きている。
生きものなんかかんたんに死んでしまうし、身体障害者だって生まれてくる。生きもののがわに生き残ろうとするはたらきがあるのなら、身体障害者なんか生み出すな、という話です。身体障害者が生まれてくることは、べつに例外ではなく、それも生きものの命のはたらきの一部だからでしょう。というか僕は、彼らこそ「もう死んでもいい」という命のはたらきを代表し証明している存在だ、と考えています。30数億年もの歴史を歩んできて、どうして今なお身体障害者を生み出しているのか。生き残ろう(最適化しよう)とするはたらきの長い進化の歴史があるのなら、身体障害者なんか生まれてくるはずがない。そして人の心は、身体障害者をこの上なく美しい存在だと思うはたらきも持っている。それは、遺伝子のはたらきに矛盾していることなのか。僕はそうは思わない。遺伝子のはたらきはきっと「もう死んでもいい」という勢いを持っているのだろう、そこから命のはたらきがはじまるのだろう、と考えています。
「最適化」していないことの尊厳というものがある。まあこれは、文科系のたんなる思想の問題かもしれないが、「最適化」していないことの「嘆き」を共有していなければ人の世なんか成り立たない。「最適化」していることのよろこびと誇りの上に人の世を成り立たせようなんて、恐ろしくてぞっとします。最適化するまいとするはたらきがあるからさらなる最適化かが起きてくるというか、それは、「最適化」から逸脱していった無数の死者の堆積の上に起きてきたことであって、生きものの命のはたらきが「最適化」しようとしているからではない。生きもの自身に「最適化する未来」なんか想定できるはずがないじゃないですか。
生きものは「今ここ」に「反応」しながら生きているだけであって、未来のことなんか想定していない。想定しているように見えるだけでしょう。したがって、論理的に「最適化」しようとするはたらきがあるということはいえない。進化なんて、ただのあてずっぽうでしょう。出たとこ勝負ですよ。生きものは、永遠に「最適化」から逸脱し続けてゆく。逸脱できるから、ips細胞がどんな臓器の細胞にもなれる。
僕は、断じて「ニヒリズム」でこんなことをいっているのではないが、「生命賛歌」なんかやめてくれよ、と思います。そんないやらしく手前勝手な心理を宗教者と共有したいとは思わない。
生命賛歌なんかしてしまったら、ただの堕落だと思います。それこそ「事実」に目をそむけた「ニヒリズム」だと思います。生きることなんか何の意味も価値もないのだという「事実」に。

ともあれ僕は今、理科系の人と話をすることに飢えているから、とてもうれしいコメントでした。ありがとうございます。

通りすがり26歳通りすがり26歳 2017/02/22 00:31 長文の返信ありがとうございます。

やはり進化論をあまり理解してないように思われます。たしかにドーキンスの言い回しはやたらに詩的な表現が多く、誤解しやすい人もいるかもしれません。しかし、ぜんぶ正しいのだろうし、という割には明らかにドーキンスの話と真っ向から矛盾する主張が多いようです。
科学的事実という一見無味乾燥な、人の心とは無関係な場所に横たわっているだけに見える真実に、どのようにして生命賛歌のような意味を見出しうるのかという問題は古くから議論されてきました。HIROMITIさんの疑問を要約すると、宗教的信仰や神秘主義的なものを一切否定してしまうと、「この世界に聖なるものなど何もないのか?」という哲学の最大のテーマになるかと思います。これは科学に加えて、意味論という学問の立派な研究対象であり、事実としての生き物の存在や活動など全く意味も価値も無いと言ってしまうのは現代の思想家としてあまりに悲観的で短絡的だと思います。
このへんの生命の意味の話はドーキンスよりも、ドーキンスの本にもしょっちゅう名前の出てくるダニエル・C・デネットの方が一枚上手だと思います。

適応主義的進化論にいまいち納得がいってない理由も明白です。
HIROMITIさんは進化の単位として「個体」に拘りすぎてます。個体も重要な単位の一つではありますが、適応と進化による最終的な受益者はあくまで遺伝子そのものです。そのためには個体の死もいとわない利己的な存在が遺伝子なのです。遺伝子の生き残りの戦略は、遺伝子プール全体に渡って、生物個体の外でも内部でも起こります。遺伝子が個体の死というものにいかに無関心であるかは利己的な遺伝子の中で、がんの遺伝子という例を用いて説明されていたはずです。そもそも個体に寿命や、死の苦しみという悪夢のような矛盾が存在するのも、全ては遺伝子という自己複製子が効率よく自分の複製を増やすという唯一で絶対の法則のみに基づいて進化してきたからです。
もちろん遺伝子と自然淘汰に予知とか想定という能力は全くありません。これはドーキンスも繰り返し口を酸っぱくして言っている進化の鉄の掟です。

もう一つ。HIROMITIさんのいう自然とか自然環境とは何のことでしょうか?いまや自然は生命にあふれかえっており、全ての生物=全ての生物の遺伝子が互いに影響を及ぼしあって様々な形で共生しています。全くの別種の生物の遺伝子がいわゆる淘汰圧となり進化の方向性を決めるのです。我々の生存に不可欠な酸素が、植物によって作り出されていることを考えればわかりやすいでしょう。これほど多様な種がいるからこそ生物界は成り立っています。自然に対して生物個体が異物であるという認識は誤りであり全くその逆です。

HIROMITIHIROMITI 2017/02/22 22:57 通りすがりの26歳さまへ
再度のコメントありがとうございます。

「生きものの存在や活動に何の意味も価値もない」と考えるのは「悲観的」なことでしょうか。意味や価値を付与したがることのほうがずっと悲観的ですよ。
生きもののオスがメスに向かうのは、メスがメスであるという「事実」そのものに驚きときめいているからであって、「きれいだから」とか「心が優しいから」とか「優秀な遺伝子を残すため」とか、そんなことはどうでもいいのです。遺伝子のはたらきに、「何が優秀か」という価値基準や意味基準などあるはずないじゃないですか。遺伝子は遺伝子であり続けているだけであり、べつに「優秀な遺伝子」であろうとしているわけではない。もとになる遺伝子の単位は30数億年前から不変なのだもの、そこは、そんなスケベ根性がはたらく場ではない。
意味や価値などなくても、それでもその「事実」だけで「世界は輝いている」のです。
意味や価値がないとときめくことができないだなんて、それこそ「悲観的」で「短絡的」ですよ。ただもう無邪気にときめいてゆけばいいだけなのに、文明社会はそれができなくなってしまうような構造を避けがたく持ってしまっている。それが問題です。
ヨーロッパはキリスト教が根付いていった土地だから、宗教がこの生の意味や価値(=生命賛歌)を止揚するもっとも有効なアイテムとしてのさばっていて、科学のがわも、どうしてもそこのところで張り合ってしまう。
僕は、ヨーロッパの科学者がどれほど科学に生命賛歌を見出そうと議論を重ねてこようと、全然興味はないし、それが科学の使命だとも思わない。そんなペシミズムに興味はない。
ドーキンスはたしかに思想的には「ナイーブな甘ちゃん」だけど、「ナイーブな甘ちゃん」でないと見い出せない真実があるし、持つことのできないときめきや勇気もあるわけで、それがいけないとも思っていません。そうやってお気楽な生命賛歌にうつつを抜かしていられるなんてうらやましくもあるけど、まあ僕はそれどころではありません。
まあ誰だってじつは、無意識のところでは女が女であるという「事実」そのものにときめいているのだし、女とそれなりに深い関係になれば、誰だってその「事実」こそが何より大きな問題として迫ってくるのです。たとえ美人で心やさしい女と一緒になっても、その「事実」の重さと確かさを突き付けられるのです。
動物のメスが優秀な遺伝子の持ち主のオスを選択するだなんて、笑っちゃいますよ。そんな意味や価値よりも、オスがオスであるという「事実」のほうが重く確かなのです。
とにかく、ヨーロッパの思想や哲学における「生命賛歌」の潮流がどうであれ、僕の知ったことではありません。そんなものをありがたがらねばならない義理なんかない。
遺伝子が遺伝子であるという事実は、生き残ろうとすることにあるのではない。未来なんか想定していないといいながら、どうして未来に向かって生き残ろうとするのですか。言語矛盾じゃないですか。つまり、生き残ることなんか遺伝子にとっての「利益」でもなんでもないということですよ。「受益者」だなんて、そう軽々しく言ってほしくない。結果として生き残ったという「事実」があるだけのこと。
ドーキンスだって、安直に生命賛歌なんかしてしまうから「個体の意識は遺伝子に反逆することができる」というような苦し紛れのことをいわねばならなくなる。遺伝子にとっても個体にとっても、本質的なはたらきにおいては生き延びることなんかどうでもいいのですよ。

遺伝子がたえず死滅しながらたえず自己複製子を残してゆくということは、個体と遺伝子は「死との親密な関係」を共有しているということでしょう。それは、「生き残る」ことではない、「たえず死滅してゆく」ということ。
まあそんなことを考えるということは、僕はドーキンスのいうことを何も理解していないということかもしれません。進化について僕が考えていることは、ドーキンスの受け売りだけですむわけではないし。
遺伝子だろうと細胞だろうと個体だろうと、「自己複製」するということは、自分が死滅する、ということでもあるはずです。形が同じでも、それは「別のもの」です。自分のクローンをつくってもらっても、自分が生き残ることにはならないでしょう。それと同じこと、そんなことを「生き残り戦略」などといってもせんないことです。
自己複製するということは、もとの遺伝子なり細胞なり個体なりが「死滅する」ということであり、それらはそういうかたちで死との親密な関係を結んでいる、ともいえるはずです。
「遺伝子は個体の死に無関心である」ということは、「遺伝子は個体と<死に対する親密な関係性>を共有している」ともいえる。
「無関心」ということは、利己的でもなんでもない。利己的なら、殺さないといけない。歳を取ると多くの脳細胞が自殺してゆく、などとよくいわれるが、それは、他の有用な細胞に「殺される」のではない。あくまで自殺してゆくだけ。だとしたらそれは、細胞どうしが「死に対する親密な関係性」を共有しながら細胞群が成り立っている、ということかもしれない。
遺伝子だろうと個体だろうと、自己複製するだけで、自分は死んでゆくのだもの、死んでゆく現象として自己複製が起きる。
遺伝子は個体を殺さない。だったら、「利己的」とはいえない。
個体を生かそうとするなんて、よけいなお世話なのです。「無関心」でいいのです。おたがい何かを共有し、むやみに干渉し合わない。それは「利己的」とはいわないでしょう。
「無関心」は大切です。無関心こそ愛だ、ともいえる。愛なんて言葉は好きじゃないけど。
僕が「個体」にこだわるのは、個体は遺伝子のレベル(まあ無意識と言い換えてもいいかもしれません)に遡行することによって命のはたらきも心のはたらきも活性化すると考えているからです。心は、「死との親密な関係」から華やぎときめいてゆく。そして遺伝子そのものが「死との親密な関係」を持っている、ということです。
この地球に生命があふれていることなんかわかりきったことだし、われわれの体だって寄生細菌も含めて無数の生命によって構成されている。とすれば、自然環境とは「生命の外部」ということです。この地球は、生命体だけのものですか?生命のはたらきそのものに、「生命の外部(=死)」に超出していってしまうはたらきがある。生き延びることが「受益」だというようなことではすまないのですよ。
つまり、生命体そのものが「生命の外部」の存在であるということ。
たとえ相手が生きものであっても、個体にとってはこの地球上のすべてが「生命の外部」であり、その「生命の外部」に憑依してゆくことを「ミーム」というのではないのですか。それはまあ「死の衝動」と言い換えてもいいわけだけれど、たとえば耳にこびりついて離れないコマーシャルソングの短くキャッチーなフレーズだって、「生命の外部」として機能しているのですよね。それは「もう死んでもいいという勢い」で「生命の外部」に憑依していっている体験であるわけで、そのフレーズをしらずしらず何度でも口ずさんでしまうということは、そうやって自分を見失いながら(=死にながら)「自己複製」し続けているということです。
生き延びることは、個体にとっても遺伝子にとっても「利益」でもなんでもない。そこのところで僕は、ドーキンスは「甘ちゃん」だなあ、と思うわけです。その生物学的な素養がどんなに深く豊かで天才的であっても。
まあ僕は、命を懸けて、生命賛歌なんかちゃんちゃらおかしいんだよ、といい続けるつもりです。そんなものは、ただの短絡的なペシミズムにすぎない。考えることが安直すぎますよ。科学者がそんなところで張り合わねばならないのがユダヤ=キリスト教に汚染されたヨーロッパの伝統風土で、お気の毒ではあるのだけれど、日本人はそんなことに興味はない。本居宣長はそういう思考を、「やまとごころ」に対する「漢意(からごころ)」といってしりぞけています。僕はべつに右翼でもなんでもないのだけれど。

2017-02-13 狂気としてのやさしさ・ネアンデルタール人論269

ムンクの「叫び」という絵は、誰もが目にしたことがあるに違いない。

発狂寸前のあの顔、それともすでに発狂してしまっているのか。

ムンクはノルウェーの画家で、極寒の地の長く厳しい冬に閉じ込められたら、誰だって心の中にあのような騒々しくエキセントリックな「叫び」を抱え込んでしまうほかないらしい。

ネアンデルタール人は、まさにそういう極限の冬を生き抜いた人々だった。

人はなぜそんなところで生きようとするのか。

ヨーロッパ人は今でも並大抵ではない冬の厳しさをすでに承知しているからそれほどの驚きはないかもしれないが、われわれ日本列島のの住民からしたら、それこそきちがいざただというくらいに思えてしまう。

いや日本列島だって、原始人の文化で北海道や青森の冬を生きることはけっしてかんたんなことではなかったはずだ。

世界最高峰の文学者といえば、まずドストエフスキートルストイの名が挙がる。

ドストエフスキーの小説なんか、まったく狂気じみている。登場人物のほとんどが、ムンクのあの絵のような風貌を帯びている。日本人にはけっしてたどり着けない境地なのだろう。なにはともあれ世界最高峰の文学なのだ。ロシアは、クラシック音楽やバレエの分野などでも、世界的な芸術家を数多く輩出している。

そういうことを考えれば、極寒の地で歴史を歩んだネアンデルタール人にだって、そんな狂気じみたメンタリティと文化=知能の発達はあったに違いない。

トルストイの深く静謐な献身性と、ドストエフスキーの騒々しい狂気。どちらもロシアの苛酷な環境風土から生まれて育ってきた伝統であり、それはそのままネアンデルタール人以来の伝統でもある。

人間的な文化=知能とはつまるところ、ひとつの狂気としてのこの生からの逸脱であり、それは「非日常」の世界で生成している。

「やさしさ」とは、ひとつの「狂気」なのだ。まあそういう「狂気としてのやさしさ」を豊かにそなえている魅力的な人はめったにいないが、それでもそこにこそ人間性の基礎があるわけで、誰だって少しくらいはそういう部分を持っている。


現在でもフリーセックスは極北の地の文化であり、ひとつの狂気の上に成り立っているのかもしれない。明日なんかない、今ここしかない、そういうせっぱつまったところで生きていれば、家族とか自分の遺伝子を残すとか、そんなことはどうでもよくなってしまうし、誰が相手でもかまわない。人恋しさの極限の文化。

そこには、ドーキンスのいう「生き延びるための利己的な遺伝子」とか、ダーウィンの「適者生存」とか、そういう生物学的な問題など存在しない。いいかえれば彼らのいっていることなど、生物学的な問題でもなんでもなく、たんなる文明社会の制度性の問題かもしれない。

ダーウィンは、人類の肌が白くて体毛がないというかたちで進化してきたのはそういう個体が好まれ繁殖に有利だったからだと説明しているが、それこそまさに「民族主義」という文明社会の制度的な観念性にすぎない。

ネアンデルタール人は、相手は誰でもよかったのだ。男が男であること、女が女であること、そのことにときめいていった。そうやって抱きしめ合うことは、相手を生きさせようとする体験であると同時に、自分が生かされる体験でもあった。誰もが、「もう死んでもいい」という勢いで相手を生きさせようとしていた。それは、「もう死んでもいい」という勢いなのだから、相手を選ぼうとする自意識なんかはたらいていない。

ドーキンスをはじめとする多くの生物学者は、「メスは、みずからの遺伝子の存続のために優秀なオスを選択する」などというが、「存続のため」なら、オスがオスであればそれだけでいいのだし、どのオスと交配すれば存続するためにもっとも有効かということなど、「結果」としてしかわからないことだ。もっとも貧弱な個体と交配して、結果的にもっとも長く子孫が存続するということだってありうる。生きものの進化に、もっとも優秀な血脈だけが選択的に残ってゆくという法則などない。生きものは、「生きられなさ」に「身もだえ」することによって、その身体や生態が「進化=変化」してゆく。生きものは「選択」などしていない。基本的に、オスがオスであればそれでいいのだ。メスがメスであればそれでいいのだ。

ネアンデルタール人の男たちは、女が女であるというそのことにときめいていた。女であれば、抱きしめずにいられなかった。あるいは、人であれば抱きしめずにいられなかった。それが、彼らの「狂気としてのやさしさ」だった。


まあ、人のやさしさなんか、狂気と紙一重なのだ。本質的には「もう死んでもいい」という勢いで我が身を投げ出してゆく心の動きであり、人類は二本の足で立ち上がったときからずっと死と背中合わせの状況を生きる歴史を歩んできた。

死んだら楽になれる、ということ。猿にはない人間的な「連携」の文化は、その無意識の感慨から生まれ育ってきたのではないだろうか。人と人は、「もう死んでもいい」という勢いで助け合う。そういう文化は、生きられない環境を生きていたネアンデルタール人の社会でこそより豊かに機能していたにちがいない。オーケストラのハーモニーもサッカーのパスも本質的にはそういう連携の文化であり、それによって人類の集団は猿の集団の規模を超えていった。ときには10万人以上が集まるサッカースタジアムの観客席では、みんなで応援のコールを合唱したり、狂気と紙一重の連携を生み出す。生きられない人間の赤ん坊をけんめいに介護して育てることだって、「もう死んでもいい」という狂気がなければできることではないだろう。

氷河期の北ヨーロッパで発狂しそうになりながら生きていたネアンデルタール人は、おそらくそういう「狂気としてのやさしさ」を極限的に持っていた。彼らのフリーセックスの社会は、「自分の遺伝子を残す」ということも「適者生存」ということも、どうでもよかった。すなわちそれは、もっとも生きられない存在である赤ん坊や老人や障害者を自分の命と引き換えにするかのようにけんめいに生かそうとしていた、ということだ。そういう狂気を持っていたから50万年の歴史を生き残ってくることができたのであり、その狂気こそがその後の人類の歴史における人間性の基礎になっているのだろう。その狂気を基礎にして共同体をつくったり宗教を生み出したり戦争をしたり人を殺したり自殺をしたり、また、命懸けで献身したり恋をしたり学問をしたり芸術をしたりスポーツをしたり、人の世はいろいろとややこしいさまになっている。


人は、根源において、この生を超えてゆこうとしているのであって、生き延びようとしているのではない。生き延びようとしていたら、文化や文明の進化発展はない。「もう死んでもいい」という勢いで進化発展してきたのだ。生き延びるためなら、住み慣れた場所に住んで自分の生き方も感じ方考え方も何も変えないのいちばん有効なのだ。

しかし人類は、この生を超えてこの生から消えてゆこうとしていった。すなわちそうやって、この世界や他者に深く豊かにときめいていった。そうやって新しいものを発見し、ときめいていった。それはすなわち、この生なんかどうでもよかった、ということだ。

ネアンデルタール人は、この生なんかどうでもよくなってしまうくらいの苛酷な環境のもとに置かれていた。その「狂気」とともに生きた彼らの寿命は、とても短かった。さっさと死んでいって、さっさと後の世代にバトンタッチしていった。生きることなんか一夜の夢で、遊び呆けて生きて死んでいった。それが、彼らのフリーセックスの文化だった。それは、ひとつの「狂気」だった。そしてその「狂気」こそがその後の人類史の進化発展の基礎になっていったのであり、われわれ現代人だって、誰の心の奥底にも「もう死んでもいい」とか「生きることなんかどうでもいい」というような「狂気」が息づいている。

この国の中世の「一期は夢よ、ただ狂え」という言葉なんか、ネアンデルタール人の心が突然そこによみがえったとしか思えない。

この生やこの世に、大切なことなんか何もない。すべては「どうでもいい」のだ。

それでも人は、この世界や他者に深く豊かにときめいてゆく。

人は、原爆原発をはじめとして、人が死ぬ可能性のあるものを平気でつくってしまう。飛行機や自動車や船だって例外ではないし、そもそも他の動物と違って「火」との親密な関係を持っているということ自体が、死を勘定に入れた上でこの生を紡いでいるということを証明している。人の心の中には、そういう「狂気」が息づいている。そしてそれによって他者を殺してしまうか生かそうとするのかはもう、紙一重なのだろう。

狂気とは、すなわち命懸けの飛躍、すなわちこの生の外の「非日常」世界に超出してゆくこと。人の心は、この生を超えてゆく。

原始人が猿から分かたれて二本の足で立ち上がったり言葉をしゃべるようになっていったことだって、脳のはたらきに、ひとつの狂気としての「飛躍」の機能があったからだ。そしてそれは、そういう遺伝子を持ったということではなく、そういう状況に置かれたということだ。「もう死んでもいい」と思えるような状況に置かれた、ということだ。

この世の中には、狂気のようなやさしさを持った人がいる。つねに誰かの役に立とうとすることせずにいられない、そうやって生き急いでいるというか、死に急いでいるというか。まあ、処世術としてやさしさを売り物にしながら生き延びようとしているような凡人はいくらでもいるが、「もう死んでもいい」という狂気を心の底に持って献身してゆくことができる人はめったにいないし、しかし必ずどこかにいるし、誰だって何かのはずみでそういう勢いを持ったりする。