ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2017-01-24 身もだえする遺伝子・ネアンデルタール人論260

承前

利己的な遺伝子』という本の中で、ドーキンスは、とてもいいことをいってくれている。ちょっと話がずれるが、それはこういうことだ。

「問題が存在するとわかるほうが、答えを考えるよりずっとむずかしい(406ページ)」

その通りだと思う。

これこそ本格的な科学者の思考態度なのだと思う。まず、どこに問題が存在するかということに気づかなければ思考も研究もはじまらない。そこに気づけば答えはもう半分わかったようなものであるが、本格的な才能を持っていなければ問題に気づく(=見つけ出す)ことはなかなかできない。

本を読んだりネットで調べたりすればわかるような「答え」をどんなにたくさん知っていても、しょせんは二流の研究者でしかないし、そんなことでは研究者にはなれないともいえる。問題のありかに気づくことは、凡庸な才能ではなかなかできない。

問題に気づいて「問う」ということ、それは「わからない=生きられない」という状況に飛び込んでゆくことであり、たくさんの「答え」を知っているということは、そうやってみずからの「生きられる」能力に執着耽溺しながら本格的な知性が停滞してしまっている状態にすぎない。つまり、「もう死んでもいい」という勢いで「問い」という「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくだけの「ときめき」をすでに喪失してしまっているのだ。

そしてこのことは、われわれ庶民の人と人の関係についてもいえる。

ときめいている人は相手にいろんなことを問いかけてゆくし、ときめきを失って他人を警戒することばかりして生きている人間は、そういう「問い」を省いて自分で勝手に決めつけながらわかった気になってゆく。そうやって他人を安く見積もって安心しようとする。彼には「問題の存在」が見えない。まあ、今どきのえらそぶった大人なんか、たいていがこんなふうかもしれない。他人を裁くことばかりして、他人の存在に対する好奇心やときめきがまるでない。「問う」だけの知性を持っていない。

それでは、あなたの知性は「進化」しない。

生きものの進化は、「生きられなさ」の中に飛び込んで身もだえしながら問うてゆくことによって起きてきたのであって、みずからの生き延びる能力に執着・耽溺しながら起きてきたのではない。

生き延びようとしたのではない。「もう死んでもいい」という勢いとともに「今ここ」の状況に身もだえしていっただけであり、それによって生き延びることができるようになっていったのは、たんなる「結果」にすぎない。

生きものは、「生きよう」とするのではない。「生きてしまう」のだ。「もう死んでもいい」という勢いで身もだえすれば「生きてしまう」のだ。そこのところで僕は、ドーキンスの問題設定に対して、今ひとつ納得できない。まあドーキンスからすれば、「そうやって遺伝子のはたらきが個体の体を生かしてしまうのだ」ということかもしれないが、僕としては、そうした「遺伝子」のレベルにおいて、すでに「もう死んでもいい」という「生きられなさ」がついてまわっているのではないかと思える。

われわれの命は、身体と遺伝子のあいだで作動しているのだろうか。それは、「無意識」のはたらきについて問うことでもある。

この生のはたらきを問うことは、死について問うことでもある。すなわち、この生のはたらきは、「生きられなさ」に「身もだえ」することである。人の意識が死を知ってしまったということは、そういうことを知ってしまったということではないだろうか。

息をしないと死んでしまう。われわれの命は、それほどにはかない。それは、遺伝子そのものがそういう「はかない」存在だからかもしれない。


30数億年前の地球の海に原初の生命が生まれたとき、それは長く生きながらえたかといえば、おそらくそうではない。

生まれた次の瞬間に死んでいった。

なぜならそれは、地球環境の「異物」だったからだ。「異物」だから、地球環境にそれを除去しようとする化学反応が起きる。そうやってたくさんの生命が生まれてたちまち死んでゆく海になった。

まあ今でも、地球上の生きものなんか、すべて「異物」だろう。すべての生きものは、環境を壊しながら生きている。息をすることは、酸素を壊して炭酸ガスに変えてしまうことだ。すべての生きものが環境を破壊し、そうした「排泄物」をどんどん垂れ流しながら存在している。この地球の「異物」以外の何ものでもない。「生命の尊厳」だなんて、地球に対して失礼というもの。そんな傲慢で厚かましいことは、いうべきではない。

生きものの死体は土や水や空気になってゆく。それは、地球環境による「異物」を除去しようとする化学反応だろう。

そして生きもの自身だって、「異物」として「身もだえ」しなければならない。「身もだえ」しながら、分裂して、ドーキンスいうところの「自己複製子=遺伝子」が生まれてきた。

「この世界の<異物>として身もだえする」とは、「消えてゆこうとする」ことだ。それが、生きものの命のはたらきの根源のかたちではないだろうか。消えてゆこうとして分裂しながら、少しずつ生きながらえられるようになっていった。

生物学の専門的なことはよくわからないが、ドーキンスのいう「生きものの心や体は遺伝子の存在の影響下にある」ということは、おおいにうなずける。だからこそ、「生きようとする」という問題設定では納得できないのだ。

そのおおもとの遺伝子はこの世界の「異物」として生まれてきたのであり、「異物」が生きようとなんかするものか。それは、「異物」として、たえず地球環境から排除しようとする淘汰圧にさらされているのであり、自身もまた、「異物」として「消えてゆこうする」はたらきを持っている。

だから遺伝子は、細胞や身体などの幾重もの被膜に覆われている。飛膜で覆わないと生きられないのだ。

生きものの体が動くということは、「異物として身もだえする」ということ。「身もだえする」というかたちで「命のはたらき」が生まれてきたのではないだろうか。この生の「受苦性」は根源的であり、それこそが遺伝子の存在に由来するのではないだろうか。

生きものは「もう死んでもいい」という勢いで「生きてしまう」のだ。原初の生命の海でじっとしていればそのまま直ちに化学分解されて消えていったものを、「身もだえ」したことによって「生きてしまう」体になっていってしまった。それが「生命になる=遺伝子が発生する」という最初の現象だったのではないだろうか。


ウイルスは、生きものの体に病気になるとかの「作用」を及ぼす。それは、ウイルスが「身もだえ」する、という現象なのではないだろうか。そういう意味で、ウイルスだって(自律的に)動く、といえるのではないだろうか。

生命現象とは、自律的に動く、ということだろうか。

心が動くことは脳のはたらきが動くことで、たのしいとかうれしいということだって、生命現象としては、ひとつの「身もだえする」という現象ではないだろうか。生きものは、この世界の「異物」として「身もだえ」しながら生きている。「異物」だからこそ心が動くのであり、よろこびもすればかなしみもする。われわれ生きものは、地球環境から淘汰圧を受けながら「身もだえ」して生きている。

そして地球環境淘汰圧は、われわれ生きもののの体や生態を「進化」させる。それは、細胞の中の遺伝子淘汰圧を受けている、ということではないだろうか。おおもとの遺伝子淘汰圧を受けながら、遺伝子の集まりである細胞を進化=変化させてゆく。

遺伝子細胞に寄生していて、細胞は体に寄生している。そうやって遺伝子の「身もだえ」が、体のはたらきや組成にまで及んでゆく。そうやってまず遺伝子が、地球環境淘汰圧を受けている。遺伝子だって、「生きられない」存在なのだ。「生きられない」存在だから細胞に寄生するようになっていったのだし、「生きられない」存在だからこそ、生きるためのはたらきを生み出すのだ。「もう死んでもいい」という勢いで「身もだえ」しながら、「結果」として生きてしまうはたらきを生み出してゆくのだ。

遺伝子それ自体で生きられるのなら、何も細胞に寄生する必要もない。今なお地球の海というスープの中に漂っていればいいだけなのだが、今やもうそこには存在せず、すべての生きものに寄生して生きながらえている。


最後に『利己的な遺伝子』の結びの文章を引用しておくことにする。

自己複製子は、もはや海の中に勝手に散らばってはいない。彼らは巨大なコロニー(個体の体)の中に包み込まれているのだ。(…中略…)この地球でおなじみのような個体の体は存在しなければならない、というわけではなかった。宇宙のどんな場所であれ、生命が生じるために存在しなければならなかった唯一の実体は、不滅の自己複製子である。

そんなことをいったって、「自己複製子=遺伝子」が存在するためには、個体の細胞や体という「保護膜」が存在しなければならなかったのではないだろうか。それは、原初の海で、生まれてたちまち消えてゆく存在だった。それが生きながらえるためには、細胞のようなある「パッケージ」が必要だった。それは最初、水の泡のようなものだったのかもしれないが、泡そのものが遺伝子と反応し合って被膜のよう物質になっていったのか、とにかくそこに潜り込んだことによって、はじめて生きながらえることができるようになった。

細菌の遺伝子は、われわれの体の細胞に潜り込んでくる。命のはたらきとは、寄生することだろうか。

その、遺伝子の最小単位としてのおおもとの遺伝子は、原初のかたちのまま30数億年のあいだ途切れることなく自己複製し続けてきたのだから「不滅」といえば確かにそうなのだろうが、もとはといえば生まれてすぐに消えてゆくものだったのだし、今でも消えてゆきながら自己複製し続けているだけだろう。

われわれの体の細胞は、古くなったものを捨てて、たえず新しくつくりなおされてゆく。そのとき、細胞とともに遺伝子も消えてゆく。遺伝子とは、「消えてゆくもの」ではないのか。消えないのなら、「自己複製」する必要なんか何もない。遺伝子とは、この世界のもっともはかない存在でもある。それは、30数億年前の原初の海に漂っていたときと同じように、今でもたえず生まれては消えてゆくということを繰り返している。たしかに「不滅」ではあるのだが、ただ「不滅の」といっただけではすまない。それは、この世のもっともはかないものこそもっとも不滅である、という逆説の上に成り立っている。


ドーキンスは、「(遺伝子と比較して)個体はあまりにも大きすぎ、はかなすぎる遺伝単位である」といっているのだが、そのおおもとの遺伝子こそ「あまりにもはかなすぎる遺伝単位」であり、はかなすぎるから「不滅」になっているのではないだろうか。遺伝子のほうが、もっとはかないのだ。

「はかなさ」を命のはたらきではないとするその「文脈=語り口」が、僕にとっては違和感が残る。もしかしたらそれは、彼がキリスト教徒の国の人だからかもしれない。彼が語っていることはまったく正しいと思えるし、この本からたくさんのことを学ばせてもらったのだが、どうしても違和感が残ってしまう。

原初の生命物質は、生きものなのに生きられなくて「身もだえ」したから、「パッケージ」の中に入り込んでしまった。「身もだえ」することこそ、「進化」の契機なのだ。

遺伝子の身もだえが細胞に伝わり、細胞の身もだえが体に伝わってゆく。そうやって生きものの命のはたらきが起きているのではないだろうか。

命のはたらきとは、「生きられなさ」に「身もだえ」することではないだろうか。

「生きられない」という契機がなければ、命のはたらきは起きてこないのではないだろうか。

ips細胞は、どんな臓器の細胞にもなれるらしいが、それは「どんな臓器の細胞でもない」ということだろう。「どんな臓器の細胞でもない」のなら、「細胞であることすらできていない」ともいえる。その「生きられなさ」に「身もだえ」しながら、なにがしかの細胞になってゆく。まあ、ただの言葉遊びかもしれないが、僕はけっこう大真面目にそう考えている。

われわれは、この世に生まれ出て、「生きられない」存在の赤ん坊として生きはじめ、成長(進化)してゆく。いやもう、「生きられない」ひとつの精子あるいは卵子として生きはじめたのだ。

原初の生命だって、「生きられない」存在として発生し、やがて30数億年の「不滅」の歴史を歩みはじめた。

遺伝子を「不滅」というのは正しい。しかし正しいというだけのことだ。

命のはたらきが起きるためには、「生きられない」という契機が必要なのだ。その生きられなさの中で「身もだえ」することを、命のはたらきという。僕には科学的な言葉を駆使することはできないが、これは科学というか生物学の問題だろうと考えている。文学的な表現をしているつもりはさらさらない。そんなことよりも、ips細胞のことを念頭に置きながらそういっている。

個体が永遠に生きてゆくということなどできない。生きものの命は、つねに「誕生=発生」という体験にたちかえりながらつながってゆく。それは、「生きられなさ」に遡行して生きはじめる、ということだ。なぜ、わざわざそんなところからやり直さねばならないのか。たぶん、「生きられなさ」から命のはたらきが起きるからだ。それが命のはたらきの本質なのだ。

生きものの命の歴史は、つねに「遺伝子」のれべる、すなわち「生命の発生=繁殖」にたちかえりながらつながってゆく。まあドーキンスはこれを「ボトルネック」といっている。

そうやって30数億年の歴史を生きてきた遺伝子は、たしかに「不滅の存在」であるが、それと同時に、「自己複製」しないと生きられないということにおいて、「この世のもっともはかない存在」でもある。

生きものが生きるいとなみをするということは、環境世界から淘汰圧を受けているということであり、もっともそれを強く受けているのが遺伝子なのだ。遺伝子は、「生きられなさ」に「身もだえ」して震えている。だから、体や細胞など、幾重もの保護膜に守られている。

遺伝子が存在するためには、細胞や体が存在しなければならないのだ。それらの保護がなければ、遺伝子は存在できない。遺伝子=生命は、原初の海で「生きられない」存在として生まれてきた。その分子の鎖は、裸のまま環境世界に放り出されたら、たちまち分解して消えてゆく。

遺伝子は、「生きられなさ」を自己複製しているのだ。

生命とは「生きられない」はたらきである……これが僕の問題設定で、こんなことを門外漢がいっても、科学者からは一笑に付されるだけだろうが、僕としては、それほどかんたんな問題ではなく、一生かかっても解き明かせない迷宮に入り込んでしまっている、という心地で、科学の知識がないままこんなことを考えてもどうにもならない、と途方に暮れてもいる。


2017-01-21 「優秀な遺伝子」という欺瞞・ネアンデルタール人論259

ネアンデルタール人は、フリーセックスの社会をいとなんでいた。それはつまり、父親が誰であるかわからない子を産んでいたということだ。一般的には、セックスは自分の遺伝子を残そうとするいとなみである、などとよくいわれるが、もしそうであるのならフリーセックスなんか成り立たない。

人類史の99パーセントの時代は、フリーセックスの社会だった。それによって男は一年中発情している存在になっていったし、すべての男にセックスの機会が与えられていなければそういう進化は起きないに違いない。そうして、どんどん人口を増やしていった。おそらく人口増加による飢餓の危機は再三再四あったのだろうが、それでもセックスしまくって子を産みまくってきた。

「祭り」の場のフリーセックス、それによって人類は一年中発情している猿になっていったし、勃起したペニスが大きく硬くなっていった。

メスがオスを選ぶ社会で、オスの発情が一年中起きるようになってゆくということは、論理的にありえない。

「浮気型」の男は自分の遺伝子を広くばらまくことができるが、すべての男が同じ戦略をとり、すべての女が「尻軽型」でどんな男でも受け入れる社会になれば、すべての子供の父親が誰かわからなくなり、ばらまいていることの確証が持てなくなる。

したがってフリーセックスの社会では、男が「自分の遺伝子を残すためにセックスをする」ということは成り立たない。

それに対して女は自分で子を産むのだから半分は自分の遺伝子が子に伝わっていることがわかるが、もしも「遺伝子を残す」という目的のためであるのなら、残りの半分がどの男のものかわからないまま子を産むなんて不安だろう。

ネアンデルタール人にとっては、そんなことはどうでもよかった。優秀な遺伝子を残したい、という気などさらさらなかった。子供は、子供であるというそのことだけで愛らしく大切な存在だった。

まあ人間でさえそういう無邪気なことができるのだから、ほかの動物にだって「メスは優秀な遺伝子を残すためにオスを選択する」などというよく語られる動機があるのかどうかわかったものではない。

ドーキンスだって「何がオスとしての優秀さかということはわからない」といっている。

優秀な遺伝子の持ち主が生き残っていって進化が起きるのではない。優秀であるということは、それ以上進化しないということだ。優秀ではないことに身もだえしながら進化してゆくのだ。人類は、生きられない弱いものをけんめいに生きさせようとしてきたし、生きられない弱いものが生き残ってゆくことによって爆発的に進化してきたのだ。

進化の契機は、「生きられない弱いもの」のもとにある。そういうものを生きさせるかたちで「進化」が起きる。

ネアンデルタール人の社会においては、すべての男にセックスの機会があった。洞窟の中では、毎晩のように男と女が抱き合ってセックスしていた。その苛酷な環境のもとでは、誰もが「生きられない弱いもの」だった。そして男も女も、誰もが相手にセックスアピールを感じていた。

彼らに「優秀な遺伝子を残そう」という意図はなかった。誰もが「生きられない弱いもの」だったのだから、「優秀な遺伝子」という意識そのものがなかった。しかし彼らは、セックスアピールを感じる遺伝子を持っていた。


ドーキンスは「メスが優秀な遺伝子の持ち主のオスを選択するのは、遺伝子の要請である」といっているが、そうだろうか。

「優秀な遺伝子」などという言葉を軽々しく使われると、なんだか癇に障る。

一夫多妻制のライオンだろうとゴリラだろうとゾウアザラシだろうと、メスからすれば、ハーレムに君臨する強い個体だから「優秀な遺伝子の持ち主」だと思ってセックスさせているのではおそらくない。オスだったら誰でもかまわないからそのオスにさせてやっているだけのこと。ライオンの場合、草食獣の狩りなんか主にメスだけでしているだけじゃないか。ろくに狩りもしないで、優秀もくそもあるものか。メスの性器にセックスができる兆しがあらわれるときにそばにいるオスがやらせてもらうだけのこと。メスからしたら、そのオスでなければならない理由などない。だからオスは、ほかのオスが近づいてくると必死に追い払うし、メスがそのオスを優秀な遺伝子の持ち主だと認めてその遺伝子を残そうとするのなら、メスたちが協力して侵入者を追い払うことだろう。

同じライオンだもの、遺伝子に優秀もくそもないのであり、ライオンの遺伝子ならなんでもいいのだ。おそらくそれが、ライオンの遺伝子がライオンに要請していることだろう。ドーキンスのいっていることは正しいと思うし、本格的な科学者の探求心はほんとにすごいなあとも思うのだが、「優秀な遺伝子」などという言葉は、なんだか知らないが耳障りが悪い。

セックスが遺伝子を残すいとなみであるということは、自然の摂理としてはきっとそうだろう。しかしその遺伝子が優秀でなければならない理由なんか、自然の摂理としては何もないのだ。

「おおもとの遺伝子の組成は起源から現在まで変わらないし、すべての生きものにおいてもみな同じなのだ。その最小の遺伝子に生きもの=生命であることの証拠がある」とドーキンスはいっている。だったら、「優秀な遺伝子」かどうかと吟味する必要なんか何もないだろう。そして自然界においては、「優秀な遺伝子」だから生き残るとはかぎらないのだ。シロクマはゴキブリよりも強くて優秀だが、シロクマのほうが生き残る能力があるわけでは絶対にない。もちろん,シロクマどうしゴキブリどうしのあいだでも同じこと。

論理的にというか科学的にいって、おおもとの遺伝子にとってその遺伝子プールが「優秀」でなけれなならない理由なんか何もないのだ。「優秀な遺伝子」だから生き延びるとはかぎらないし、おおもとの遺伝子にとっては、すべての遺伝子プールが等価なのではないだろうか。だから、多様な生物が存在しているのではないだろうか。

セックスが遺伝子を残すいとなみであるとしても、「優秀な遺伝子」を選択するいとなみであるのではない。

セックスアピールとは、「優秀さ」としての「強さ」でも「賢さ」でも、さらには「美しさ」でもない。それは、「思考停止に陥らせる気配」のこと。遺伝子は「利己的」だから、そのパッケージである生きものの体が滅んでゆくことと引き換えに生き残ってゆく。ここでいう「思考」とは「自己制御」のこと。われわれが「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」しながらわれを忘れて何かにときめいたり熱中したりしてゆくことは、その「おおもとの遺伝子」の要請なのだ、たぶん。


稲葉稲葉 2017/01/24 13:35 こういう事を言う学者たちって、結局は考えるふりをして、「始まり」と「現在」を直線で結んで、わかった気になっているとしか思えないんですよね。
紆余曲折してきた「過程」を無視してというか。
だから、取って付けたような「飾り」の持論を述べられても説得力がない。
「寒い土地に住んだから毛深いんだ」なんてレベルにしかたどり着けないような人たちの意見が蔓延ってるのですよね…

HIROMITIHIROMITI 2017/01/25 05:08 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

彼らの説明が間違っているとも思わないが、「文脈」の問題なのでしょうね。そういう文脈で語られても困る、ということが少なからずあるのですよね。
そりゃあ、本格的な研究には敬意を捧げるしかないですよ。
それでもキリスト教徒の国の人たちの「文脈」とわれわれの国のそれとが同じというわけにはいかない、その「文脈」の尻を追いかけても、どうしても納得できないものが残ってしまう。
もっともこの国にも、キリスト教徒の国の尻を追いかけてばかりいる半端なインテリもたくさんいるわけで、ただもう鵜呑みにして知ったかぶりしてくる。
そういう半端なインテリが、いちばんたちが悪い。

2017-01-19 セックスアピールの遺伝子・ネアンデルタール人論258

承前

生きものの体や命のはたらきは、「遺伝子の存続に都合がいい」というかたちで進化してきた、とドーキンスはいう。『利己的な遺伝子』という本を読めば、それはまあ、「ああなるほど、そういうものだろうな」とうなずける。

われわれの体は「遺伝子運転する遺伝子の乗り物」にすぎないのであり、われわれの「自分=自意識」が所有し支配しているものだと思うのはとんだ思い上がりにすぎない、ということだろうか。

誰の思考も行動も、けっきょくのところ「利己的な」遺伝子支配下にあり、遺伝子の存続に奉仕させられているだけだ、とドーキンスはいっているようにも思える。

たしかに、まあそんなところかもしれない。

生きものの命のはたらきは生きるよう出来ている、といわれれば、「そうだろう、きっと」とうなずくしかない。

まったく、たしかにそうなのだろうが、しかし僕としては、どこかしらに腑に落ちないものが残る。

何が?と自問自答してもよくわからないのだが。

たとえば……

人間でもハツカネズミでもいいのだが、やや飢餓的な状態に置かれた三つの個体がいて、そこにひとつの食料があったとする。この食糧は二つの個体で分ければひとまず飢餓状態を脱するが、三つに分ければ三つともさらに飢餓状態が続く。そしたら、三つのうちの二つの個体は、一番弱い個体には食べさせないという行動に出る。どうせ一番弱い個体が最初に死ぬのだからそれがいちばん合理的だ、と二つの個体の中の遺伝子が判断し、そのような行動に出るように仕向ける。生きものの世界には、たとえ親子や仲間どうしでも騙したり蹴落としたりする行動に出る例はいくらでもある。それはもう遺伝子のはたらきがそのように「利己的」になっているのだからしょうがないのだ、とドーキンスはいう。そうやって進化の歴史がつくられてきた、と。

では、このとき食糧にありつけなかった一番弱い個体はそのまま死んでいったかというと、そうではなく、なんとか踏ん張って生き残ったとしよう。そうしてさらに飢餓状態が進んでいったとき、飢餓状態に対する耐性を養った一番弱い個体が生き残って、あとの二つは耐えられずに死んでゆく、ということが起きたりする。

生きものの命は「もう死んでもいい」という勢いのはたらきを持っているから、飢えたからといっても発狂しないし、飢えに対する耐性は進化する必然を持っている。

で、この地球の環境世界は、いちばん生きられそうもない一番弱い個体を生き残らせた。

「自然淘汰」といっても、生きられそうもない弱い個体をどんどんふるい落としながら起きてきたというわけでもあるまい。

キリンの首が長くなってゆく進化のはじめにおいては、首の短い個体のほうが多く生き残っていった。これはもう、本格的な科学者数学的なシュミレーションをすると、どうしてもそういう答えになるらしい。首の短い個体どうしがみんなでゆっくりと長くなっていったのだ。それは、安全な地上の草を食べることをやめて、毒性のある木の葉ばかりを食べるようになってゆく歴史だった。「もう死んでもいい」という勢いで木の葉を食べながら、その毒性を解毒できる消化器官になっていった。「もう死んでもいい」という勢いがそうさせた。

「もう死んでもいい」という勢いは、必然的に生きられそうもない弱い個体のほうがより豊かにそなえいる。

まあ、これらのことだって「遺伝子の利己性」という理論で説明がつくことかもしれないが、ドーキンスのいうことだってどこかにほころびがあるのかもしれない、という気がしないでもない。

遺伝子のはたらきがそうなっているからといって、そうかんたんに生命賛歌をしてしまっていいのか、という疑問はどうしても残る。


ネズミの群れがさかんに繁殖して限度を超えて過密状態になってくると、自然に繁殖力が低下してゆくらしい。

これをドーキンスは、将来の飢餓状態にそなえてネズミ自身が調節しているのだ、という。いや、ネズミにそんな先のことがわかるというのではなく、長い進化の歴史を潜り抜けてきた遺伝子にそういうはたらきがあるのだ、といっているのだろう。

たとえ比喩だとはいえ、それでも「みずから調節する」などというのは、ちょっと言い過ぎではないのか。

そんなことは、べつに遺伝子のはたらきで説明しなくても、つまり遺伝子のはたらきなんかそっちのけでそうなってしまうということもありうるのではないだろうか。

群れの過密状態に対するストレスで自然にそうなるという説もあるわけだが、ドーキンスはこれをあっさりスルーしている。しかし僕は、この説のほうに説得力を感じる。

まあ、人間社会の都市と農村の比較においてもそうだが、過密状態の都市では、人に対して「すれて」くる。男と女の関係も「すれて」くる。女が男に対してすれてきて、かんたんにはときめかなくなり、「やらせてあげてもいい」という「思考停止」の状態になりにくくなる。

過密状態のネズミの群れでも、こういうオスとメスの関係の変化が起きているのではないだろうか。それに子宮のはたらきも衰え、いつもは5匹産んでいるのが3匹になるとか、オスだって精液の中の精子の数が減って受胎させにくくなるということも起きてくる。過密状態のストレスが、そうさせる。

現在の若者の精液の中の精子の数が減ってきているということは、ずいぶん前から言われてきたことで、今や日本中が「都市化」してきていることが原因のひとつになっているのかもしれない。「都市化」して、誰もが人に対して「すれて」しまっている。

ときめきが薄くなることは、命のはたらきが弱くなるということでもある。

遺伝子のはたらきにによって自然に産児調節が起きる、といわれてもねえ。いまいちピンとこない。

そんなことをいったら、人間社会のアフリカでは飢餓地帯になるのがわかりきっているのにどんどん子供が生まれてにっちもさっちもいかなくなる、という状況が起きているではないか。生き延びようとする遺伝子に操られているのなら、セックスなんかしなくなるはずではないか。

生きものは、根源的には飢餓を怖れていない。先のことを怖れていない、と言い換えてもよい。「今ここ」しかない。「今ここ」に「反応」しながら、「結果」として生き残ってゆく。そのようなかたちで「進化」してきた。飢餓に遭遇すれば、飢餓を生きるように進化してゆく。命は「もう死んでもいい」というかたちではたらいているから、飢餓を生きることができるようになってゆくし、生殖しなくなるようにもなる。メスの命はそれ自体で完結しているから、セックスの衝動がないし、「もう死んでもいい」というかたちで「やらせてあげる」こともできる。

そのネズミの群れの危機は、現在の過密状態にあるのであって、未来の飢餓状態にあるのではない。飢餓なんかやってこないかもしれないし、飢餓に耐えられるように進化してゆきもする。過密状態であることそれ自体が危機であるし、「もう死んでもいい」というかたちで命のはたらきが起きる存在である生きものは、危機それ自体を生きようともする。だから、バッタのようなとんでもない規模の大群が発生したり、アフリカの飢餓地帯でなおも人口増加が続いたりする。

人類は、二本の足で立ち上がるという危機それ自体を生きながら、一年中発情している猿になっていった。だから、過密状態の飢餓に陥っても、なおも生殖する。貧乏人は「子だくさん」になる。そして、たくさん産んで弱い個体を振るい落としてきたかといえば、そうでもなく、弱い個体が生き残って進化してきたともいえる。弱い個体だからこそ、進化の可能性がある。弱い個体のほうが、「もう死んでもいい」という勢いを豊かに持っている。それは、遺伝子のはたらきに逆らうことではない。遺伝子だって、みずから滅んでゆく。ドーキンスによれば、それによって他者の体に棲みついた同じ遺伝子が生き延びることになるからだということだが、とにかく遺伝子には「みずから滅んでゆく」というはたらきも持っているということだろう。「みずから滅んでゆく」というはたらきを持たなければ「進化」は起きない。


科学オンチの僕には、この『利己的な遺伝子』という本の客観的な評価はできない。

まあ、西洋人の科学的な思考というのはすごいものだ、と感心させられる。これでもかこれでもかと理詰めで迫ってくる。そういう意味で、この本はマルクスの『資本論』に匹敵するのかもしれない、と思ったりする。

たぶん、ここに書かれてあることは、すべてといっていいくらい正しい。

しかし小林秀雄に倣っていえば、「たしかに正しい、しかし正しいというだけのことだ」という感想もぬぐいきれない。

生きもののの生は、「生き延びようとする」はたらきだとは思わない。「もう死んでもいい」という勢いの上に成り立ったはたらきだと思う。「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ生き延びられないし、進化は起きてこない。生き延びることや進化は、そういう逆説だと思う。

この生の根源に、「生き延びようとする意志」がはたらいているとは思わない。生き延びようとするのはあくまで「観念」のはたらきであって、遺伝子のレベルまで遡行した無意識のはたらきにおいては、「もう死んでもいい」という勢いのベクトルになっているのではないだろうか。


たとえばドーキンスは、「鳥の世界の求愛行動が執拗なのは、それによって鳥の遺伝子がもっとも効率よく生き延びる(=子孫に手渡されてゆく)ことができる関係のかたちになっているからだ」という。そうやってメスはオスを戦略的にじらせている、ということを理詰めで鮮やかに説明してくれている。それは、きっと正しい。なるほど進化論的にはそういうかたちになっているのだろうな、と思う。

ドーキンスは、生きものが生き延びて進化してゆく「数学的経済的な仕組み」を教えてくれる。それは、きっと正しい。しかしそれが生きものの本能的な衝動かといえば、どうしても腑に落ちないものが残る。

おそらくそのとき鳥自身はべつに遺伝子を効率よく子孫に伝えていこうという意識なんかないだろうし、メスは結果的にオスをじらせていることになるが、じらせようと思っているわけでもないだろう。

ようするにメスにはセックスの衝動がない。そう考えたら、間違っているのか?セックスの衝動がないということは、繁殖の意志がないということだ。それでもいつか「思考停止」して「やらせてあげてもいい」という気になる。「思考停止」するのは、遺伝子のはたらきが何はともあれ「滅んでしまってもかまわない」というかたちになっているからではないのか。

現在の地球上にどれだけたくさんの種が存在するとしても、30数億年のこれまでの生命の歴史においては、その何万何十万何千万倍の種が滅んでいったのだろうし、生きものが必ず死ぬというということは、遺伝子のはたらきそのものに「死ぬ」という仕組みがあるからではないのか。おおもとの遺伝子は30数億年前と同じかたちになっているといっても、そのつど死んで自己複製してきただけであって、30数億年前の遺伝子がそのまま残っているわけでもないだろう。地球という環境世界においてはその遺伝子でなければ生命(生物)というかたちにならない、ということはあるだろうが、生命(生物)になるということは「死ぬ」ということではないのか。

ウミガメの子は、卵からかえって海に出たとたんに99パーセントがほかの生きものに食べられてしまう。生きものの命のはたらきは「もう死んでもいい」という勢いを持っているから、そういう現象が起きるのではないのか。

遺伝子のはたらきは生き延びるためのはたらきである」といわれても、われわれの希望にはならない。それは、生き延びてきたのではなく、そのつど死んで「自己複製」してきただけではないのか。

ドーキンス進化論数学」においても、「生き延びるためには何でもする」という流儀の個体はすべて淘汰されてきて、けっきょくは「こうしか生きられない」というかたちで進化してきたということになっている。


大声を上げたり派手に羽を広げたりする鳥の求愛行動は、天敵に見つかって食われてしまうことを覚悟しなければできることではない。それでもオスは、必死にがんばる。鳥のメスは、なかなか「やらせてあげてもいい」という気にならない。ドーキンスはそれを「メスだっていいオスを見つけて繁殖したいのだけれど、あとになってオスが逃げてゆかないようにそういうかたちで担保を取っている。つまり、オスを子育てに参加させるための戦略である」という。それはまあ結果的にはそういうことで、そういう「比喩」は成り立つのだろうが、あくまで「たまたまのなりゆき」としての「結果」であって、自然環境によってそういう生態が淘汰選別されてきたともいえるはずだ。「遺伝子の意志である」といわれると、どうも違和感が残る。その論理で鳥が鳥であることの本質が語れるのか?僕は、そこが問いたいのだ。おそらくその行為は、オスもメスも「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」してゆかなければ成り立たないし、それ自体遺伝子のはたらきによるのではないのか。「思考停止」して戦略も意志も捨てたからそういう生態が生まれてきたのではないのか。

鳥は、哺乳類のように長くメスの体内で子育てする(=妊娠)ということはない。受精してすぐに卵を産み、メスの体の外で子育てをはじめる。だから、巣作りとか、卵を温めるとか、餌を運んでくるとか、オスがその行為に参加することができるし、参加してもらわないと困る。

哺乳類は、基本的にメスの世話だけで子育てができるようになっている。

だから鳥の場合は、セックスの衝動がより薄いメスが淘汰されて生き残ってきた。自然環境がメスをそのように進化させてきた。「遺伝子の意志だ」といわれても困る。遺伝子のプールとしての「細胞」は、役立たずの遺伝子がどんどん自滅してゆきながら整理統合されてゆくのだから、「べつに死んでしまってもかまわない」というはたらきを持っていないと成り立たない。


生き延びるためには何でもするというのではなく、「こうしか生きられない」というかたちで存在することは、「もう死んでもいい」というかたちで生きることだ。そしてそこから命のはたらきが活性化してゆく。

鳥にだって「こうしか生きられない」という事情がある。生きものが「生き延びるためにはなんでもする」という流儀で生きているのなら、「生物多様性」なんか成り立たない。今ごろは、もっとも生きることが上手なひとつの種に整理統合されている。動物であれ植物であれ、どんな生きものも「こうしか生きられない」というそれぞれの事情を抱えて存在している。

生きものなんか、みんな生きることが下手なのだ。その与件の上に立って命をやりくりしながら生きている。

この地球の環境世界が生きものを生きさせている。生きものが生きることは環境世界に「反応」することであり、それは生き延びようとするはたらきではなく、むしろ「もう死んでもいい」という勢いで起きている。そうやって命のはたらきが活性化する。

「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ、命のはたらきは活性化しない。生きることはエネルギーを消費することであり、「もう死んでもいい」という勢いがなければ消費されない。

がんばれば、疲れ果てるに決まっている。それでもわれわれ生きものはがんばって生きてしまう。

生きものは、「もう死んでもいい」という勢いで環境世界に「反応」してゆく。「反応」することはこの生のエネルギーを消費して死に向かうことであり、それでも「反応」してしまう。

実際問題として、生き延びる戦略に長けたものほど命のはたらきが豊かだとも魅力的な存在だともいえない。生き延びる戦略を持つことは正しい。しかし正しいというだけのことだ。

はたして命のはたらきは、「生き延びるための戦略」という問題設定だけで説明がつくのか。たしかに生き延びることができるものが生き残ってゆくのだが、「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ命のはたらきは活性化しない。われわれ生きものの命は、生きるか死ぬかのぎりぎりのところではたらいている。「生き延びるための戦略」を持たねばならないと同時に、持ってはならない。


鳥のメスはセックスをする気がない。それでも最後には「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」して、「やらせてあげてもいい」という態度になってゆく。鳥のセックスは一瞬で終わる、などとよくいわれるが、それは、やる気がないものにやらせてもらうのだから、あまり長くやるのはメスに対して失礼というものだからかもしれない。

われわれ人間が娼婦を買うときだって同じことで、初見からいきなり長く挿入し続けるのは相手に対して失礼というもの、すぐに射精してしまっても、相手はありがたいお客だとほっとすることはあっても、バカになんかしない。セックスを楽しみたかったら、長く通ってねんごろになってからすればよい。それが、フーゾク通いのエチケットというか、たしなみというもの。

オスに執拗な求愛ディスプレイをさせる鳥のメスの態度を、ドーキンスは「生き延びるための恥じらい戦略」だという。それはまあ結果的にそうに違いなく、その論理は正しいのだろうが、正しいというだけのことで、その「比喩」がはたして命のはたらきの本質を表現しえているだろうか。それでは、クジャクのオスの羽模様が豪華で派手になっていったことの説明はつかない。メスにそんな「戦略」があるのなら、オスの羽模様なんかに関係なくただもう長く続けさせればいいだけだし、羽模様が貧弱なオスほど求愛行動が成功するということになる。

その羽模様は、メスを「思考停止」に陥らせる。命のはたらきは、生き延びることなんか忘れて、すなわち「思考停止」しながら世界に「反応」してゆくことによって活性化する。

ドーキンスは、「進化は、遺伝子が生き延びる戦略をひたすら緻密に思考してゆくことによって起きる」という「比喩」で語っている。それは論理としては正しいが、正しいというだけのことだ。

それでもここでは、こういいたい。生きものの命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」しながら「愚かで弱いもの」になってゆくことによって活性化する、と。

ドーキンス説明なら、遺伝子のはたらきは生きものを生きることが上手な賢いものにしてくれるということになり、それは数学的科学的に正しい論理だろうが、正しいというだけのことだ。それでもわれわれは、生きることが下手な「愚かで弱いもの」として「こうしか生きられない」というかたちで生きている。そういうかたちでしか命のはたらきは活性化しない、という与件を背負って生きている。おそらく数学的科学的にも、それが現実の命のはたらきではないだろうか。

思考停止しながら「自分=生き延びる」ことなど忘れて世界の輝きに他愛なくときめてゆくことによって命のはたらきが活性化する。

「自分=生き延びる」ことに執着ばかりしていたら、「ときめく」という命のはたらきはどんどん停滞衰弱してゆく。


僕は、「セックスアピール」とはなんだろう、とずっと考えてきた。いろいろ考えてみたが、どうしても「これだ」という解釈にはたどり着けなかった。でも、「思考停止に陥らせる」ということはかなり納得できるし、今のところこれ以上の答えは浮かんでこない。

われわれ愚かな弱いものたちは、「思考停止」という言葉をもっと大切に扱わないといけない、とあらためて思う。それは、命のはたらきにおいて、とても大切なことなのだ。

思考停止に陥る」とは、「自分=生き延びること」を忘れて「世界の輝き」に他愛なくときめいてゆくこと。命のはたらきが活性化する仕組みは、科学的にも数学的にも、じつはそのようになっているのかもしれない。

原初の生命が二つに分裂したことは、「自己保存」を維持することの失敗であり、「もう死んでもいい」という勢いの現象だった、といえなくもないに違いない。傷が癒えて、新しい皮膚が生まれてくる。いったん死ななければ、新しく生まれてくるということは起きない。死んでゆくはたらきのない生命なんかない。「思考停止に陥る」とは「死んでゆく」ということ。命のはたらきは、そこから活性化してくる。

まあ、生きていれば、余分なものがどんどんたまってくる。それらをたえず捨てながらというか、洗い流しながらわれわれは生きている。生きることは足し算ではなく、引き算なのだ。長く生きてきたからえらいというものではない。生きてあることの基本のかたちは誰しも同じで、生きることが上手になってゆく足し算なら人によって差が生まれてくるだろうが、引き算なのだから、いつまでたっても差がつかない。つまり、生きることの基本のかたちを保ちながらいつまでたっても生きることに慣れない人は、いつまでたっても驚きときめくことができる。

遺伝子のはたらきは、べつに生きることが上手になるためのはたらきでもなかろう。そうやって生きることに慣れてしまったらおしまいなのだ。そこから命のはたらきの停滞衰弱がはじまる。

生き延びるための戦略なんか知らない。われわれはもう、生きてあることの不思議となやましさといたたまれなさに身もだえしながら、出たとこ勝負で生きてゆくしかない。


2017-01-16 人類なんか生き延びなくてもよい・ネアンデルタール人論257

承前

人の体は、遺伝子が自己複製しながら永遠に生き続けるための、たんなる入れ物=生存機械にすぎない、とドーキンスはいう。人の体がバスだとしたら、運転手も乗客もみな遺伝子で、この乗客たちは時と場合によって運転手を交代する。遺伝子が体のはたらきを操作している。人の体が死滅するのは、それが遺伝子の存続に都合がいいかららしい。

しかしこの問題は、ちょっとややこしい。

だったら、人の体が死滅することによって遺伝子が存続させられている、ともいえる。人の体のはたらきが遺伝子によって操作されているといっても、遺伝子に「意志」なんかないわけで、遺伝子はただ存在しているだけの物質にすぎない。

われわれの遺伝子のはたらきは、この地球環境でしか通用しない。地球環境がこの遺伝子をつくった。地球環境が、遺伝子の詰まった人の体を生かしている。

地球環境が変わってすべての生きものととともにすべての遺伝子が消滅してしまうこともありうる。

もしも地球上の生命の歴史を最初からやり直したとしたら、またヒトが登場くるという保証はないが、また同じようになる可能性がなくもない。ともあれ、いろんな「たった一回だけの偶然」が重なってヒトという生きものの登場になった。

遺伝子は、世代から世代へと、ほとんど半永久的に手渡しされてゆくようにプログラミングされているらしい。

遺伝子をつくったのは自然というか地球の環境世界で、それによって生きものの命のはたらきが淘汰・決定されてきた。環境世界にうまく適合している生きものだけが生き残り。適合しなければたちまち滅びてゆく。そして、環境世界に適合するように進化してゆく。進化はたんなる「結果」で、環境世界がそのように選り分けて(淘汰して)きたにすぎない。

遺伝子の最小の単位は30数億年前と同じものらしいが、それは環境世界がそのようにしてきただけであって、遺伝子自身がそのようにあろうとしているといってもせんないことではないだろうか。その遺伝子だって、しょせんは地球環境でしか存在しえないのだ。


落葉樹の葉のほとんどは、まわりがギザギザになっている。それが落ちて木のまわりの地上に積もったとき、そのギザギザによって葉と葉がくっつき合い、かんたんには風に吹き飛ばされなくなる。そしてそれがカーペットの役割を果たすことによって木のまわりの土を冬の寒気から守り、やがて腐葉土として木の栄養になってゆく。自然というのはうまくできているものだなあと思う。ギザギザのない葉の落葉樹は、すべて淘汰されてきたのだろう。葉がギザギザになる遺伝子がある。その遺伝子がギザギザになるようにデザインしているらしいのだが、しかし、そういう遺伝子を生み出したのは環境世界だともいえる。夏と冬がなければ、ギザギザの葉の落葉樹は存在できない。その葉が勢いよく繁ったりやがて落葉して腐葉土になってゆくライフサイクルは、環境世界によってデザインされている。

ギザギザのない葉の木が淘汰されてきたということは、遺伝子が生き残ろうとするはたらきを持っていないことを意味する。生き残ろうとするはたらきを持っているのなら、そんな葉にはならない。すべては「なりゆき」まかせで、生き残ったり滅んでいったりしているだけだ。

人間であれほかの動物や植物であれ、すべての生きものは「こうしか生きられない」というところで生きているのであって、生き残るための戦略なんか持っていない。生き残るかどうかは、環境世界が決定する。

生きものは、生き残ろうとして生き残ってゆくのではない。環境世界が、生きものを生き残るようにデザインしてゆく。そういう「なりゆき」を「進化」というのだろう。

確かにドーキンスの思考はそれこそ天才的に自由自在でとても鮮やかな語り口だと思うのだけれど、英語には「なりゆき」という言葉がないし、「なりゆき」という言葉になじんでいるわれわれからすると、「利己的」といわれると、どうしても違和感が付きまとってしまう。


細胞内にはたくさんの遺伝子が詰まっていて、遺伝子は自分が生き残るように生きものの体をデザインしてゆくといっても、ほかの遺伝子のはたらきがより活性化するようにみずから死滅してゆく遺伝子もあるのだ。今は活性化している遺伝子でも、環境しだいではみずから死滅してゆくことにもなる。「もう死んでもいい」というはたらきを持たなければ、遺伝子であることはできない。

命のはたらきとは、「もう死んでもいい」というはたらきであり、そういうかたちで活性化する。

勃起したペニスは。膣の中で射精してしぼんでゆく。それは、死んでゆくみたいなことだろう。「もう死んでもいい」という勢いで勃起して射精するのだ。

生きものは「なりゆき」に身をまかせて生きている、生き残るかどうかは、環境世界が決定する。遺伝子だって、生きものの体にそんなことを要求しているのではあるまい。「もう死んでもいい」という勢いで生きよ、あとは「なりゆき」まかせでよい、というようなかたちでわれわれの体にはたらきかけてきているのではないだろうか。それはつまり、「(今ここに)反応せよ」ということで、ドーキンスだって「遺伝子のはたらきに未来という時間は勘定に入っていない」というようなことをいっている。

遺伝子自身が生き延びようとする目的を持っている」だなんて、そんな比喩はピンとこない。

ドーキンスによれば、遺伝子は、最終的には自分が住み着いた体に対して「遺伝子が生き延びるためにはなんでもせよ」という指令を発するのだとか。それがまあ「利己的」ということなのだろうが、そういう言い方は、何かキリスト教の匂いがする。

命のはたらきとは「反応する」ことで、生きものの歴史は、「反応する」ことによって生き延びられるように淘汰されてきたのではないだろうか。「もう死んでもいい」という勢いで「反応」してゆくことによって、逆説的に生き延びてきたのではないだろうか。

人の体も心も生き延びてゆくようにプログラミングされている。しかしそれは、「もう死んでもいい」という勢いを持つようにプログラミングされている、ということでもある。

30数億年前の太古の遺伝子のかたちが現在の遺伝子の中にも残っている。だから遺伝子には「利己的」に「自己保存」してゆくはたらきがあるといっても、みずから滅んでゆくはたらきもあるのだ。滅んでゆかなければ、残ってくることはできなかった。

遺伝子自身にだって生き延びようとする目的なんかない。

われわれのこの生は、30数億年の生命の歴史によって積み重ねられてきた天文学的数字の無数の偶然による「幸運」ではなく、「不運」なのだ。

人間なんかこの地球の役立たずの存在で、人間が存在しなくてもこの地球はちゃんと存在できるのだ。そのほうがもっと地球らしく存在できる、ともいえるのかもしれない。

生き延びることなんか無意味だ。人類は、生きることの「嘆き」を共有しながら知能や文化や人と人のときめき合う関係を進化発展させてきた。

この世の中というか文明社会には、生き延びるための処世術に汲々としながら知性も感性もどんどん麻痺させている人間が少なからずいて、うんざりさせられる。


はるかに遠い将来、地球の寿命が尽きて滅亡のときがやってきたとき、すべての人類が別の星に移住してゆくかといえば、ぜったいそんなことにはならない。ほとんどのものは置き去りにされて、地球と運命を共にするしかないことだろう。また、みずからの思いで地球と運命を共にしながら滅んでゆこうとするものも少なからずいるにちがいなく、人は「生きられなさを生きる」存在であり、その滅亡のときこそ人類がもっとも深く豊かに生きる時代であるのかもしれない。

「すべての人類がほかの星に移住してゆく」だなんて、のんきな科学者のただの空想・妄想にすぎない。

人類なんか、地球と運命を共にしたほうがいいのかもしれない。まあ、「この生」や「自分」に執着・耽溺したブサイクなものたちだけで移住してゆけばよい。そうしてブサイクな世界をつくればいいさ。

ネアンデルタール人は「もう死んでもいい」という勢いで氷河期の北ヨーロッパに移住していったのであって、それが生き延びるための最善の方法だったのではない。生き延びるための最善の方法なんか選んでいたら、学問も芸術もスポーツも人と人がときめき合う関係も進化しない。生き延びる方法を手に入れることなんか、ただの堕落であり、命のはたらきの衰弱でしかない。文明人は、そうした「幸せ」に執着耽溺しながら、どんどんブサイクになってゆく。

遺伝子は、けっして「利己的」ではない。「利己的」ではないからこそ、30数億年という歴史を生き残ってきたのだ。いいかえれば、「利己的」でないことが「利己的」であることだともいえるわけで、人間だろうとほかの動植物だろうと、すべての生きとし生けるものが、じつは、ある意味「利己的」に「こうしか生きられない」というところで生きているのであって、「生き延びるためには何でもする」というわけにはいかないのだ。利己的であることは利己的でないことであり、利己的でないことは利己的なのだ。

シロクマはもう滅んでゆくしかないのだろうし、滅んでゆくことの尊厳というのもある。そしてそれはきっと、遺伝子のはたらきにプログラミングされていることに違いない。

あなたは、すべての人類が他の星に移住してゆく時代がやってくると思うか?

僕は、生き延びるためには何でもする人間が偉いとも自然だとも思わないし、遺伝子にそんなはたらきがあるとも思わない。。

生きものにとってセックス(=生殖)することは、生き延びるための行為ではなく「もう死んでもいい」という勢いで滅んでゆこうとする行為であり、もしかしたらそれは遺伝子による指令かもしれない。命のはたらきは、その勢いとともに活性化してゆく。


2017-01-13 クジャクの羽と利己的な遺伝子の関係・ネアンデルタール人論256

僕は理科系のことに疎いから、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』のちゃんとした感想文は書けないが、ただ、クジャクの羽の進化についてちょっと気になる記述があり、そのことから何か展開できないだろうかと思った。

あの豪華で派手な目玉模様の尾羽のこと。

ドーキンスだけではないが、多くの生物学者が、「メスはその模様に引き寄せられる」という。それはまあそうなのだが、「引き寄せられる」ということは、その模様を豪華で立派だと思っているわけでも、それがオスとして健康で優秀な遺伝子の持ち主であることの証拠だとわかっているということ意味するわけでもないだろう。

生きものの体内の遺伝子はたらきは「利己的」で、役立たずでできそこないの遺伝子はどんどん死滅させていってしまうそうだ。そうやって役に立つ遺伝子ばかりが生き残ってくることによって生きものは「進化」してきたわけで、それがダーウィンのいう「自然淘汰」のほんとうの意味だ、とドーキンスは語っている。

だから、優秀な遺伝子の持ち主に「引き寄せられる」ということだろうか。

しかしきっと、クジャクのメス自身は、本能的にも表面的な意識のはたらきにおいても、そんなことは何もわからないのだ。

それでもそのオスとの交雑を受け入れてしまう。それが問題だし、そんな「引き寄せられる」という言葉では説明がつかない。

そのときメスは、セックスをしたがっているわけではない。したがっているのなら、メスほうから寄ってゆくし、そうなればオスは何もわざわざ羽を広げる必要もない。人間じゃあるまいし、相手がいい男かどうかとか自分が生きてゆくのに役立つかどうかと吟味したりして、それではじめてセックスがしたくなるというようなことがあるものか。いいかえればそうやってデートがしたいとか結婚したいと思うことは、厳密な意味でのセックスの衝動ではない。たんなる人間社会の制度的な思考習性の問題だろう。


クジャクのオスが羽を広げることは、それだけ天敵から見つかりやすいことだし、天敵が近づいていることに気付いて羽を閉じて飛び立つまでに数秒の遅れが生じる。そんな危険を冒してまで、どうしてそんなことをしないといけないのか。それは、メスにその気がないからだろう。そしてメスは、その羽模様を見て、セックスがしたくなるのではない。「もうどうでもいい」と思考停止に陥るだけだ。それは、たくさんの大きな「目玉」に見つめられる体験であり、本能的に思考停止に陥り動けなくなってしまう。それだけのことではないだろうか。

メスにはセックスしたいという衝動がない。だから、オスの求愛行動がどんどん進化エスカレートしてきた。

人の世界においても、男のセックスアピールの根本は、女を「思考停止」に陥らせることであって、べつに男としての優秀さをひけらかすことにあるのではない。そんなことをされて女が引いてしまうのは、よくある話ではないか。

一夫多妻制のゴリラの世界では、オスとメスの体格差が大きい。オスの体の大きさは、メスを思考停止に陥らせる効果になっているのだろう。人間の社会でも、男の権力が強い社会では一夫多妻制になっている。

「性選択」などというが、メスはオスを選択なんかしない。生きものにそういう「意識」があるのではなく、あくまでも「自然淘汰」としての遺伝子のはたらきによって起きている、たんなる「結果」のことにすぎない。カマキリのメスは食べてしまいやすい力の弱いオスを選択するわけではないだろう。それはもう、ゴリラのようにオスが優位の関係においてもそうで、オス=男に寄ってこられてメス=女が思考停止に陥ったときがセックスをするときだ。

まあ、男を社会的な「意味」や「価値」の意識で「選択」した女ほど「マリッジブルー」に陥りやすい。そうやって彼女は、本能としての遺伝子のはたらきに裏切られる。彼女には、メスとしての「思考停止に陥る」という本能が欠落している。その「もう死んでもいい」という勢いが。


羽が立派なクジャクのオスは、天敵が近づいたときに羽を閉じて逃げる時間がそのぶん遅れるし、メスを思考停止に陥らせる成功率が高いから、閉じて逃げようとする判断も遅れがちになる。だから、羽が立派なオスが選択されてその遺伝子ばかりが残ってゆくとはかぎらない。羽が立派なオスから順番に天敵に食われてしまう。結果として、羽が貧弱なオスのほうが長生きする。貧弱なオスはメスに求愛行動をしないというわけではないし、メスの身体生理や気分のタイミングさえ合えば、そんなオスでもやらせてもらえる。そうやって貧弱ななものどうしみんなで羽が立派になっていったのだ。このことをドーキンスだって「共進化」といっている、

キリンの首が長くなっていったことだって、その進化の最初のころは木の葉を食ったり草を食ったりしていたのだろうが、首の長い個体は上を向いて木の葉ばかり食っているから、やっぱり天敵の接近に気づくのが遅れてしまう。それに、そのころはまだ木の葉の毒性を完全に解毒できる消化器官になっていないのだから、とうぜん寿命も短くなってしまう。キリンの首だって、首の短い個体どうしが、みんなでゆっくりと長くなっていったのだ。「もう死んでもいい」という勢いで首が長くなっていったのだ。それが生き延びるために有利だったからではない。

繁殖力が旺盛な種は、すべての個体に交配の機会が与えられている。その種が残ってゆくためにはたくさん繁殖した方がいい場合もあれば、その機会が抑えられていたほうがよい場合もある。肉食動物が増えすぎたら、食料となる草食動物がいなくなってしまう。まあ、結果としてちょうどいいところで進化してゆく。

ともあれ、すべての個体に繁殖の機会がなければ、個体数が増えてゆくことはない。人類が爆発的に個体数を増やしてきたのは、すべての個体に繁殖の機会があったからだろう。

では、すべての個体に繁殖の機会が与えられるためには、女もセックスの衝動を持てばいいのかといえば、そうはいかない。女にもそれがあれば、男のそれが発達する必要はない。そうしてけっきょく、おたがい相手を選び合って、選ばれたものどうししか繁殖の機会を持てないし、男の性衝動もあまり強くならないから、それほどたくさん繁殖しない。ペニスだってあまり固くならないから、いつもセックスができるというわけにいかなくなってゆく。

自然の摂理というか、ドーキンスのいう「自然淘汰」の問題において、男のペニスが硬く勃起するためには、女にセックスの衝動がない方がいいのだ。


西洋の夫婦は女のほうがセックスに積極的で、それでも離婚が多くなってしまうのは、それだけ男たちが「女房が相手ではもう勃起できない」という状態になってしまうことが多いのかもしれない。この国でもだんだんそうなりつつあるらしいが、そうなるともう、婚姻生活を続けるためには、趣味や知的レベルの共有によって会話が弾む(=価値観の一致?)とか、経済の安定が保証されているとか、そういう要素のほうが大事だったりする。そうやって、「少子化」の現実になっている。

女=メスにも性衝動があったら繁殖力が豊かになるとはいえない。極端にいえば、メスにも性衝動があったら繁殖できないのだ。だから自然は、メスには性衝動がないようになっている。メスはもう、「思考停止」して「やらせてあげてもいい」と思うだけなのだ。今どきは、女が「思考停止」しないから、「少子化」になってしまっている。男と女の関係も、おたがいに選択し合って、なんだかぎくしゃくしてきている。

選択する」とは、「決着しない」ということ。それは、もっといいもの、さらにもっといいもの、と追いかけ続ける永久運動になってゆく。「選択する」ことには、「思考停止」という「決着」がない。「思考停止」しなければ「決着」はつかない。

根源的には、生物の世界に、メスによる「性選択」、などという現象はない。どんな生きものも、現実にはちゃんと「決着」してセックスしている。

おそらく自然としての遺伝子には、メスの性衝動などというものは組み込まれていない。そうでなければ繁殖は成り立たないのだ。

クジャクのメスは、オスの尾羽の模様に「引き寄せられる」のではない。「思考停止」しながら、「もう死んでもいい」という勢いで「やらせてあげてもいい」という状態になっているだけなのだ。そしてオスだって、「もう死んでもいい」という勢いで羽を広げているのであり、その勢いがなければ羽を広げることはできない。

カマキリのオスは、「もう死んでもいい」という勢いでメスと交尾してゆく。

生きものの命のはたらきには、「もう死んでもいい」という勢いが組み込まれている。その勢いがなければ、命のはたらきは活性化しない。おそらく、そういう遺伝子の仕組みになっている。

したがって、われわれの生きてあるこの状態が、どんなに天文学的な数字の確率の偶然の達成であれ、「幸運」だとはいえない。生きものは、それを「不幸」として「もう死んでもいい」という勢いを紡ぎながら生きている。

楽しいことだって、「もう死んでもいい」という勢いで体験されているのだ。

人類の「祭り」は、「もう死んでもいい」という勢いの「ときめき」が豊かに生成するフリーセックスの場として生まれてきた。

ただの生命賛歌では、進化の本質も人間性の自然も語れない。命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いで活性化する。女は、「もう死んでもいい」という勢いでセックスをし、子を産み育てている。

おそらく数学的にも、オスにもメスにも等しく性衝動があるという問題設定でシュミレーションしても、それで爆発的な繁殖が起きてくるという答えにはならないのではないだろうか。女に性衝動があったら、男の性衝動は発達しないし、爆発的な繁殖も起きない。そこのところでは「共進化」というわけにはゆかない。「共進化」は、「もう死んでもいい」という勢いのところで起きている。

遺伝子のはたらきは、「自己保存」にあるのではない。自己を死なせて「自己複製」してゆくところにある。そして「自己複製」しながら親から子へと伝えられてゆく過程で、遺伝子の仕組みの一部分に必ずその個体特有の「まぎれ」が加わる。そうやって「進化」してゆく。べつに「突然変異」がなければ「進化」は起きないというわけではない。


まあ『利己的な遺伝子』という本の思想的色合いは一種の生命賛歌で、そこのところはちょっと気に入らないのだが、世界に対する新しい見方を提出した、という功績はたしかに大きいのだろう。そのことはなんとなくわかるし、魅力的な本だとも思う。

現在の世界はもう、「オタク」や専門家がものしりを気取って業界用語や専門用語をあれこれ振り回しながら自分を見せびらかしてゆくという時代は終わっているのだ。

ドーキンスは、遺伝子研究の新しい発見をしたわけではない。遺伝子について語りながら、世界や進化についての、誰も気づかなかった新しい見方を提出したのだ。

僕だって、人間に対する新しい見方を提出したくてこのネアンデルタール人論を書いているわけで、ただドーキンスとはちょっと違って、生命賛歌では生命は語れない、という思いがある。

ドーキンスのいう「利己的」とは、遺伝子群のはたらきは役立たずの遺伝子をどんどん死滅させながら「自己複製」してゆく、ということだろうか。

植物であれ動物であれ人間であれバクテリアのような微生物であれ、すべては30数億年前の地球で一個の生命(有機物?)が発生したところからはじまっており、現在のすべての生物はその気が遠くなるような長い「進化」の歴史の果てに存在している。そうやって30数億年のあいだ「自己複製」を繰り返しながら現在まで生命が引き継がれてきた。そのあいだには無数の生物が(役立たずの存在として)絶滅していったわけで、われわれが今ここに存在することはものすごい天文学的な数字の確率の「偶然」であり、その幸運に感謝しよろこんでも罰は当たらない、とドーキンスはいう。

だいたい、セックスして子供が生まれるということだって、何億分の一の精子が生き残って起きることだ。

まあ感謝しよろこぶのは人の勝手だが、そうやって偶然この世に生まれ出てきたことをとんでもなくありえない確率の「不幸」だと考えても、べつに間違いだともいえないだろう。科学的には、そういう「事実」があるだけで、「幸運」でも「不幸」でもないだろう。それを「幸運」としようと「不幸」としようと、人それぞれの勝手というもの。たとえ不幸であっても、われわれはこの世界の輝きにときめきながら生きてしまっている。それはきっとこの生命の根本である「自然淘汰」のはたらきによるのだろうが、そこに「意味」や「価値」を付与してゆくのは、科学の役割ではないだろう。そういう「事実」になっている、というだけのことだろう。

価値だからよろこぶというのではなく、とにかくそのとき、既成の命のはたらきでは対応しきれない状態に陥り、体じゅうの血や脳のはたらきが揺らいでいるのだろう。もしかしたらそれは、「役立たずの遺伝子」が死滅していっている状態かもしれない。もしかしたら、優秀な遺伝子が生き残ることよりも、役立たずの遺伝子の死滅してゆくはたらきのほうが重要であるのかもしれない。なにはともあれ、そうやって命のはたらきが活性化する。

ドーキンスは、遺伝子の「利己的」なはたらきを裏切るというか克服するかたちで人に「利他的」な心が生まれてくる、というようなことをいっているのだが、それはちょっと科学的におかしいのではないだろうか。その「利己的」なはたらきそのものが「利他的」なはたらきでもあるのではないだろうか。われわれが「本能」と呼んでいるものは、それがネガティブなはたらきであれポジティブであれ、すべてはそういう遺伝子のはたらきに由来しているのではないだろうか。生きものの「意識」のはたらきの根源は、遺伝子のはたらきに由来しているのではないだろうか。

カマキリのメスが交雑するときにオスの体を食べてしまうことは、メスの「意識」が「利己的」という以前に、カマキリの遺伝子の「自然淘汰」の仕組みがそうなっているというだけのことで、それはドーキンス自身がそういっている。

まあ、「利己的」とか「利他的」とかというようなことをいってもしょうがないのかもしれない。キリスト教文化圏の人はそういい方をしたがり、そういういい方が説得力を持つのかもしれないが、われわれのような無宗教文化圏というか雑多な宗教が混在している文化圏の人間には、いまいちピンとこないところがある。


役立たずの遺伝子を死滅させることは「利己的」か?

まあ擬人化していえば、役立たずの遺伝子がみずから滅んでいっているだけのことかもしれない。滅んでゆくことはけっして不幸なことではないし、交尾中のカマキリのオスは、メスに頭部を食われて滅んでゆくその「思考停止」の瞬間にこそ、もっともダイナミックに放精する。

もしかしたら役立たずの遺伝子が滅んでゆくことこそ、命のはたらきにもっとも重要な役割を担っているのかもしれない。そうやって「思考停止」しなければ、命のはたらきのダイナミズムは起きない。

ここでいう「思考停止」の「思考」とは、命のはたらきを制御するシステムのことであり、そうやって人は「思考=選択」しながら生き延びようとするし、「思考停止」して「もう死んでもいい」という勢いの命のはたらきの活性化が起きる。

人間には、みずから役立たずの存在になろうとする衝動がある。女は、女としての美しさを失ってでも子を産もうとする。ひとまずそれは社会的な美しさにすぎないのであるが、「もう死んでもいい」という勢いでこの生からもこの社会からもはぐれてゆかなければ、子を産むという「自己複製」はできない。

役立たずの遺伝子が滅んでゆかなければ、進化しない。役立たずの遺伝子が滅んでゆくことこそが進化を生み出している。それはきっと、人の心のはたらきの基礎にもなっているのだろう。

「致死遺伝子」というようなものがあって、年をとればそれが増えてくるらしい。ともあれ年をとれば、誰だって役立たずの存在として滅んでゆくしかないのだし、若くても、けっきょく命のはたらきはみずから滅んでゆくというかたちで活性化する。若者ほど「もう死んでもいい」という勢いを持っているし、男よりも女のほうが「もう死んでもいい」という勢いを豊かに持っている。

むやみに生命賛歌をすると、命のはたらきは停滞衰弱してしまう。そういう正義は、科学的ではない。ドーキンスは、生きものの命のはたらきを知ることはとてもおもしろい、といっているわけで、その「事実」だけでいいのではないだろうか。

生きてあることの不幸やかなしみを共有している社会が悪いともいえない。人の世は、だいたいそういうものではないだろうか。「社会=集団」の単位が小さくなればなるほど、生きてあることのいたたまれなさやかなしみの「嘆き」が共有されてゆく。「国家」とか「地球人類」とか、その集団意識が大きくなればなるほど、生命賛歌が共有されてゆく。

生きてあることのかなしみは、「この世界の片隅」で共有されている。

アメリカやイスラム社会の宗教原理主義の「神がこの世界や生命をデザインした」という世界観は、けっきょく「自己の充足」ばかり追求して、「今ここ」の現実の「世界の輝き」を見失っている。

幾何学模様のアラベスクに覆われたモスクの中にいると、じつにまったりと自己が充足してゆくらしい。「神がこの世界や生命をデザインした」ということにしておけば、じつにまったりと自己が充足してゆく。それはきっと命のはたらきが停滞衰弱している状態で、そうやって人は、自己の充足安定に執着耽溺しながら、自己の外の「世界の輝き」を見失ってゆく。

「世界の輝き」は、「自己=この生」のいたたまれなさやかなしみに浸された心のもとにあらわれる。誰の心も、じつはそうしたいたたまれなさやかなしみに浸されているのではないだろうか。この世の役立たずの存在として、役立たずの遺伝子が滅んでゆくことのいたたまれなさやかなしみとともに。


稲葉稲葉 2017/01/14 06:47 すべては「たまたま」で、今の生き物が先を見越して対応できる者が生き延びたのではなく、受動的にそうなってしまっただけの話ですよね。
人間だって、暑さ寒さに合う進化をしたのではなく、受け入れることで、「洋服」や、「冷暖房」を発明してしまったのですよね。
もし、先を見越して生き延びるのが進化なら、そろそろ人間の身体は、放射線に耐えられる身体になっていくのか、と言いたくなってしまいます。

HIROMITIHIROMITI 2017/01/15 23:51 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

その通りなのですよね。
世の中には、「先を見越して」こずるいことをするものや用心深くなったりするものや、まあいろんな人がいるのだろうが、けっきょくのところ、損得勘定も裏表もなく、ただもうひたすら豊かに「反応」してゆくことができる人のそのダイナミズムにはかなわないのですよね。
こずるいことをして他人を出し抜けば得をすることができるのだから、そういう人間ばかりの世の中になるかといえば、けっしてそうはならない。
天敵がいるぞ、という警戒の鳴き声を発する習性を持った鳥がいて、餌を見つけたときにわざとそういう鳴き声を発して仲間を近づけないようにして独り占めしてしまう個体がいたりするらしいのだけれど、全員がそういうことをするようになることはけっしてない。なぜなら全員がそういうことをしていたら、その鳴き声の効果がなくなって、けっきょくその集団は滅びてしまう。
天敵と餌の両方を同時に見つけたときがきっかけになっているのかもしれないですね。
人間の場合は、親がお手本になって覚えてゆくのでしょうか。
でも、そういう人間は人に好かれないから、そういう人間ばかりの世の中になることはけっしてない。そういう人間どうしの狭い世界をつくっていることもよくあるのかもしれないが。
そうですね、暑さ寒さになれたら、「洋服」や「冷暖房」は生まれてこない。
「慣れ」たら生きやすいけど、「慣れたら負け」だということもある。「世界の輝き」に対する驚きやときめきがどんどん麻痺していってしまう。そうしてまわりから「つまらない人間だなあ」と見られるようになってゆく。
生きやすさを選んでしまったら「進化」はない、ということでしょうか。きっと誰だって、無意識のところでそういうことに気付いているのでしょうね。
今回もまた、考えるきっかけになる言葉をありがとうございました。

稲葉稲葉 2017/01/16 08:40 返信ありがとうございます。
そういえば、「やまとことば」がピタリと合いますね。
「たまたま」=「玉」。
すべての出来事は、珠玉の出来事なのですよね。
先を見越せたら、こんな感動もなにも起きないですもんね。
「たまたま」起こる出来事が、どれだけ素晴らしいことでしょうか。

HIROMITIHIROMITI 2017/01/16 17:31 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

「たま」とは、もともと「感動で胸がいっぱいになる」というニュアンスをあらわす言葉だったのだろうと考えています。だから「たまらん」とか「たまげた」ともいう。「たま=たましい」とは「胸の中の中心を占めているもの」ということで、だから「役者だましい」とか「職人だましい」などという。べつに「霊魂」という意味だったのではない。「たまざかる」とか「たまかつま」とか「たま」がつく枕詞はたくさんあるけど、それを「霊魂」と訳すと歌のニュアンスとつじつまが合わなくなってしまう。後の時代になって霊魂という意味になってきただけのこと。「たまたま」のほうが先にあった。最初から「霊魂」という意味だったのなら、「たまたま」という言葉は生まれてこない。もともと日本人は、霊魂なんか知らなかった。
霊能とか霊視などといって、霊魂とは「先を見越す」ことができるものですからね。古代以前の日本人は、そんな精神風土で生きていたのではない。「先を見越す」ことよりも、「今ここ」の「なりゆき」に胸を躍らせながら生きてきた。まあそこに、日本人の可能性と弱みがあるのだろうけど。
「たま」という言葉は、日本人の精神風土の歴史においてとても大切な言葉だったのだろうと思います。
西洋の近代合理主義においては「先を見越す」ことはとても大切な能力で、それが人間的な知能の本質であるかのように合意されている。そんなことをしたければすればいいのだけれど、それで普遍的な人間の知能を計量されたり、その能力を自慢されたりすると、「おいおい、ちょっと待ってくれ」といいたくなってしまいます。そういうことに熱心な人は、えてして他人の人格とか考えていることを安く見積もり「こんなものだろう」と勝手に決めつけて安心したがるようなところがあって、好奇心を持って「問う」という手続きを省いてしまいがちなのですよね。愛が薄い人だなあ、というか、けっきょく「自意識の安定・充足」をまさぐっているだけのこと。