ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2016-07-28 都市の起源(その五十)・ネアンデルタール人論201

その五十・人の心は、この生からはぐれて途方に暮れている


ここで考えているネアンデルタール人の問題とは、つまるところ都市論であるのかもしれない、と思えてきた。

ネアンデルタール人の時代に都市があったはずもないが、彼らはすでに都市的なメンタリティをそなえていた。人類が地球の隅々まで拡散していったことは都市的なメンタリティを濃くしてゆく体験だったのであり、その歴史の果てにネアンデルタール人氷河期の北ヨーロッパに登場してきた。

都市とは見ず知らずの人々がたくさん集まっている場であり、そういう人たちの「出会い」が無数に起きている場であるということ。そしてそういう場が成り立つということは、その「出会い」のそれぞれに「ときめき」がともなっているということだろう。そこで殺し合いばかりが起きているのなら、みんなそこから逃げ出してしまうし、殺し合うために集まってくるわけでもなかろう。

基本的に都市とは、「出会いのときめき」が生成している場なのだ。どこからともなく人が集まってきて「出会いのときめき」が生まれる、そういう体験の果てしない繰り返しとして、人類は地球の隅々まで拡散していった。

その「出会い」の相手は見ず知らずの人間なのだから、無防備にならなければ「ときめく」ことなんかできない。

見ず知らずの相手でも、見ず知らずの相手だからこそ、ときめき合ってゆくことができる。そういう関係の作法が進化発展しながら、都市が生まれてきた。

一緒に暮らしてくっつき合っていれば、だんだん鬱陶しくなってくる。それが人類拡散の契機だったのであって、凡庸な人類学者たちがよくいう「住みよい土地を求めて」というようなことではない。そういう「未来に対する計画性」が人類史に進化発展をもたらしたんだってさ。冗談じゃない。人類拡散は、より住みにくい土地に住み着いてゆく現象だったのであり、より住みにくくても「出会いのときめき」あれば住み着いてゆくことができたし、その結果として住みにくさに耐えることができる文化が進化発展していったのだ。

氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人は、その当時の世界中のどこよりも「住みにくさに耐える文化」を持っていたのであり、それはたんなる技術的な問題だけでなく、無防備に他愛なくときめき合ってゆくことができる人と人の関係の文化も豊かに生成していたということを意味する。そこは、たかが原始人のレベルの文化で、ただ技術的な知能が発達していたからというだけで住み着いてゆくことができるような生やさしい環境ではなかったのだ。

彼らは、あえて生きにくさに飛び込んでゆくようにして生きていた。誰もが生きにくい環境にほんろうされながら、「もう死んでもいい」という勢いでときめき合い相手を生かし合っていた。ネアンデルタール人は、人類史上もっとも生きにくさを生きた人々だった。


人は、根源において「生きにくさを生きる」存在なのだ。原初の人類は、そうやって危険で不安定極まる二本の足で立つという姿勢を常態にしていった。

「生きにくさを生きる」ことによって心や命のはたらきが活性化する。

現在のこの国のように、平和で豊かな社会を生きていれば心や命のはたらきが活性化するとはかぎらない。幸せそうに生きている人がたくさんいる世の中だが、かえって現在こそ、心や命のはたらきが停滞・衰弱してきているともいえる。不平不満や不安はいたるところに蔓延し、「今ここ」の世界や他者に対する「反応=ときめき」を失って、「未来」ばかり追いかけている。

なにが「未来に対する計画性」か。この生は「今ここ」がすべてだ。「今ここ」のすべては赦されている。「今ここ」にときめいているなら、未来も過去もどうでもいい。「ときめき」の豊かさのぶんだけどうでもいい。

人類の知性や感性や人間的な魅力としてのセックスアピールは、そうやって「生きにくさを生きる」ところから進化発展してきた。未来も過去もどうでもいいと思い定めて「今ここ」の生きにくさに飛び込んでゆきながら、地球の隅々まで拡散していったのだ。

人に対しても世界に対しても、そういう無防備な「出会いのときめき」を体験してゆくところにこそ人間性の自然がある。

まわりの人や世界を警戒し緊張ばかりしていたら、「出会いのときめき」はなく、ひたすらみずからの心の充足安定という「幸せ」を追求するようになってゆく。まあそういう自意識の肥大化した人間にかぎって、他者に対するなれなれしさを過剰に持っている。自閉的だからこそ、他者との一体感に潜り込もうとする。そうして、第三者を排除してゆく。自分が支配するにせよ支配されるにせよ、一体感を持てない相手は、徹底的に排除してゆく。それは国家が戦争をする理由にもなっているのだが、国家や宗教という共同体は、そういう自閉症的な傾向を培養する場でもあるらしい。

自我自意識の延命と安定充足を求めるなら、さっさと死んで天国に旅立ってゆくのがいちばんだ。

文明や宗教の発生は、おそらく、文化というか知能が進化発展して万物の霊長の座に立った人類の自意識自我が肥大化してきたことによるのだろう。

平和で豊かな社会が価値だという現代社会の通念も、ようするに誰もが自意識自我の充足安定を欲しがっているということの証しである。現代は誰もがそういう制度的な観念を持たされる世の中になっているのだろうが、それでも基礎的な人と人の関係においては、自分も過去も未来も忘れて無防備にときめいてゆくという心の動きが起きている。


人間なら誰の中にも、この生からはぐれて途方に暮れている心が疼いている。文明社会においては、構造的に、自意識自我に執着しながら人を憎んだり裁いたり支配しようとしたりする心が避けがたく起きてくるような仕組みになっているのだろうが、それでも人と人は無防備に他愛なくときめき合うという体験をしているのであり、まあそういう体験が貧弱なものほど自意識自我に執着・耽溺するのだ。

そりゃあ文明人なら誰だって自意識自我は避けがたく抱えてしまっているのだが、誰もがそんな意識に執着・耽溺しているわけではない。自分に執着・耽溺するなんて、鬱陶しいばかりではないか。そういう自意識にけりをつけて解き放たれたいという願いとともに、人は人に他愛なくときめいてゆく。

だからひとは、自意識自我の充足安定に倦んで、生きにくさを生きようとする。人間性の自然においては、自意識自我の充足安定など求めてはいない。それは、たんなる退屈であり、精神の停滞・衰弱にすぎない。日本列島では、そういう状態のことを「けがれ」と呼んできた。

人は、自我の充足安定を求めて旅に出るのではない。その停滞からの解放を願って、都市に人が集まってくる。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。

人と人は、この生からはぐれて途方に暮れている心でときめき合う。

まあ、思考の論理の展開とか、美しいものに感動するとかということは、この生からはぐれてゆく心の動きというか脳のはたらきなのだ。

「はぐれている」というそのことを生きることができなくなって、充足安定という停滞に潜り込んでゆく。「はぐれているもの」は傷つき疲れているが、ときめく心をまだ失っていない。


2016-07-26 都市の起源(その四十九)・ネアンデルタール人論200

その四十九・えらそげに干渉してこないでくれ


人類史最初の「王」はおそらく、民衆から祀り上げられた受動的な存在だった。勝手に支配者として登場してくるということは、人間性の自然としてありえない。われわれの友人関係だって、自分勝手なエゴイスト支配欲の強いものは嫌われる。みんなに対して献身的なものがみんなから好かれてリーダーのような存在になってゆく。人類最初の「王」は、いわば民衆の「生贄」だったのだ。

オオカミの群れだって、もっとも献身的なものがリーダーになっている。オオカミの群れのリーダーは、メスを独占するというようなことはしない。むしろ他のものたちのほうが交尾の機会は多い。そしてネアンデルタール人は、リーダーを祀り上げてゆくことを、オオカミから学んだのであって、猿からではない。彼らは、オオカミを犬として飼っていたが、猿との関係などほとんどなかった。

人類史においては、みんなから祀り上げられているリーダーが「王」になっていったのであって、どこかからいきなり支配者=権力者がやってきたのではない。世界中どこの共同体にもそんな伝説を持っているが、王の支配=権力が生まれてきたことの「結果」として、その支配=権力を権威づけ正当化するためにそんな物語が紡ぎ出されていったにすぎない。

「王」という「権力者=支配者」は、自閉的な分裂病のような気質を持っている。「王」は、まわりが世話してやらないとうまく生きることができないし、「王」じしんがまわりに対して過剰に警戒し緊張している。だから「王」のそばには、つねに「王」を賛美したり笑わせたりする役目の「道化」がいた。

それは、「起源としての王」の気質ではない。時代が進んで生産力が高まり、その余剰の生産物を搾取支配してゆくことができるようになった「結果」として、そういう気質になっていった。

生きることにかつかつなら、世界の輝きにときめくという体験以外に人を生かす契機はない。

余剰の生産物を持たなかった先史時代の「起源としての王」と民衆は、たがいに「支配される無防備な存在」として関係を結んでいた。それが人と人の関係の基礎=自然であり、日本列島の天皇は、そうした「起源としての王」のかたちを保ちながら奇跡的に2000年という長い間続いてきた。

世界の輝きにときめいてゆく心のよりどころとして、天皇が機能してきた。

支配者=権力者」としての「王」は、いずれ別の「支配者=権力者」を目指すものよって必ず殺される。支配するものは、支配し返される。殺されるとはそういうことで、2000年も続いた王家など日本列島にしか存在しない。いろいろ歴史の紆余曲折はあったものの、基本的に天皇は「支配者=権力者」ではない。「支配されるもの」なのだ。つねに天皇の下に実質的な「支配者=権力者」がいて、天皇の本質はあくまで受動的な「祀り上げられるもの」であることにあった。

いいかえれば、日本列島の歴史において天皇はついに「支配者=権力者」になれなかった。日本列島は、「たがいに支配されるものになる」という人と人の関係の作法が歴史的な風土になっている。その、いわば原始的な風土性の上に天皇制が維持されてきた。

天皇は、人間性の自然の上に成り立ったもっともプリミティブな「王」であると同時に、究極の「王」でもあるのかもしれない。


支配する」とは、他者を警戒し監視すること。監視するために、他者を自分のそばに置いておこうとする。そうやって干渉してゆくことが「支配する」ということではないだろうか。

恋愛なんて支配欲の上に成り立っているだけだ、ともいえる。

子供を育てるのは親の義務だといっても、同時に、子供をそばに置いておこうとする支配欲がはたらいている。

そして人は、その「被支配」という鬱陶しく苦しい立場をどうして受け入れてしまうのだろうか。

文明社会においては、支配と被支配の関係が、ひとつのアンサンブルとして成り立っている。

他者を警戒し監視=干渉したがるのは、ひとつの生き延びようとする欲望であり、他者に疎まれ無視されて生きてきたとか、親による完璧な支配のもとに置かれてまわりの世界に気づかないような状況を体験しながら育ってきたとか、まあそのようにして支配欲が肥大化してゆくのだろう。他者を警戒し監視=干渉していないとうまく生きてゆくことができない、ということ。そういうタイプの人間は、程度の差こそあれ、今どきけっこうたくさんいる。

アフリカのサバンナに放り出された原初の人類は、まわりの肉食獣の存在を警戒し監視しながら、そこを横切っていった。

シマウマならライオンに追いかけられても逃げ切ることができるからライオンがそばにいても平然と草を食んでいられるが、人類にそんな能力はなかった。つねに警戒し緊張していなければならなかった。そうして森の中に逃げ込めば安全ではあるが、もう森の外の世界は見えない。見えないところで暮らしていれば、「気づく」という能力も失ってゆく。「気づく」能力が希薄になっているから、サバンナに出たときはよけいに警戒し緊張しなければならなくなる。まあそうやってそこでは、「一夫多妻」という「支配」の生態が育ってきた。

そしてこれは、現在の核家族の問題でもある。親の支配に囲い込まれて育った子供は、まわりの世界に気づく能力が希薄なために、家族の外に出ると必要以上にまわりの世界を警戒し緊張していなければならなくなる。そのあげくに「ひきこもり」になったりするのだが、小学校の教室での落ち着きのない挙動の子供だって、緊張感がないからではなく、無意識のうちに過剰に緊張してしまっているからだろう。そういう子供は、親による過剰な「囲い込み」の中に置かれていることが多い。まあ、サバンナの中の小さな森に隠れて暮らしていた原初の人類と同じで、そうやって「ミーイズム」が育ってゆくし、その「ミーイズム」こそ「支配欲」でもある。


無防備なものは、どうしても支配したがるものの餌食になってしまう。

支配したがる者は、つねにそういう対象を狙っている。彼らは、まわりの世界に対する警戒心や緊張感が強いから、まわりの世界から逃れたがっている。まわりの世界から逃れて、支配の対象との一体感に潜り込みたいのだ。支配したがるものほど、支配されたがってもいる。とにかくその一体感の関係において、はじめてまわりの世界に対する警戒心や緊張から解き放たれる。彼らは支配されることの恍惚というものを知っているから、支配することのうしろめたさなど何もない。おそろしくというか、あきれるくらいうしろめたさがない。

もともと人は、まわりの世界に対して無力な「生きられない」存在であり、そこに立って無防備になりながらまわりの世界に「反応」してゆくか、警戒し緊張しながらまわりの世界を無化してしまおうとするか、そういう二つの態度があらわれてくる。

他者支配しようとすることは、まわりの世界を無化して他者との一体感に潜り込んでゆこうとする衝動である。そして一方は無防備だからその支配を受け入れてしまうのだが、そのとき「一体感=恍惚」などはなく、その「生きられなさ」の「嘆き」とともに、あらためてまわりの世界の輝きに気づいてゆく。まあ、親に支配されている子供が、やがて家族の外で友情や恋を発見してゆくようなものだ。

健康な子供は、けっして親との「一体感=恍惚」など持たない。だから、幼児期の第一反抗期や思春期の第二反抗期がやってくる。子供は、親の支配を避けがたく受け入れてしまうが、それを嘆きつつ、あらためて世界の輝きにときめいてゆく。文明社会における支配者と被支配者である民衆との関係だって、このようなものだ。この世に支配されてしまう無防備で弱いものが存在するから、支配したがるものがあらわれてくる。支配したがるものが、支配されてしまうものを生み出すのではない。

人間なんて、もともとみんな「支配されてしまうもの」だったのだ。そういう「無防備な生きられない存在」として人類の歴史がはじまった。原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、そういう存在になることだった。したがって、支配したがるものがあらわれてくるのは、歴史の必然的な流れだったのかもしれない。

文明社会の人の世は、支配したがるものを生み出してしまうような構造を持っている。支配されることの「一体感=恍惚」とともに支配されたがっているものが、支配したがるようになってゆく。彼らは「支配=被支配」の関係の中でしか生きられない。


支配されることの「嘆き」を生きるか、それとも支配支配されることの「一体感=恍惚」を生きるか。人類の歴史は、支配されることの「嘆き」を生きる道を選んでしまった。しかしそれは、そこから解き放たれてこの世界の輝きにときめいてゆく体験をするということでもある。

英雄だか救世主だか知らないが、支配者なんて、人類史のたんなる「スケープゴート」というか「お飾り」にすぎない。人類の歴史は、圧倒的多数の「被支配者」がつくってきたのだ。人は、避けがたく支配されてしまう無防備な心を持った存在であり、しかしまさにそのことによって知性や感性を花開かせてきたのだ。

言い換えれば、人は、支配欲の肥大化とともに知性や感性を停滞・衰弱させてゆく、ということ。他者に対して鈍感だから支配欲を発揮できるし、他者を警戒し緊張してばかりいるのだから、他者にときめき反応してゆくことなんか何もない。この世の中には、支配欲が肥大化して知性や感性が停滞・衰弱してしまっている人間が、けっこうたくさんいる。というか、程度の差こそあれ、誰の中にもそうした支配欲が疼いているともいえる。

文明社会は支配者を生み出してしまい、そのあげくに、その支配欲が誰の心にも染み入ってくるようになっていった。

支配者が人類の知性や感性をリードしてきたのではない。彼らは、リードできるような知性も感性も持ち合わせていない。彼らがリードしてきたのは、知性や感性の停滞・衰弱なのだ。

人類の知性や感性は、支配されてしまうような無防備な心の上に進化発展してきた。無防備だから、豊かにときめき反応できる。

支配されてしまう無防備な心を持ったものたちがいなければ、支配者は存在しえない。支配欲の強い人間なんか、ほんらいは不自然な心の持ち主として人類の世界から淘汰されてゆくしかないのだが、因果なことにその心は、「支配されてしまう無防備な心」に寄生しながら生き延び、増殖してゆく。これは、現代社会の人と人の関係のやっかいさの問題であると同時に支配の起源の問題でもあり、そうやって原始的な都市集落が制度的な「都市国家」へと変質していった。

文明社会の歴史とともに、人の心に「支配欲」が棲み着くようになっていった。

支配欲が強い人間はもう、本能的に「支配されてしまう無防備な心」に付け込もうとする。「愛」だの「やさしさ」だの「教育」だの「コミュニケーション」だのといっても、そういう欲望の上に成り立っていることも多い。自分だけはそんな卑しさとは無縁だと思うことはできない。いいかえれば、そういう欲望が強い人間ほど、それを正当化して恥じるところがない。用心しないと、その「支配したがる心」は誰の中にも住み着いており、そうやってこの世の人と人の関係がいろいろややこしく煩わしいものになっている。ともあれ、誰の中にも「支配されてしまう無防備な心」が息づいているからこそ、そういうことになってしまう。

この世は「憂き世」であるということ。しかしそれは、この世が間違っているからではなく、自分の中に「避けがたく支配されてしまう無防備な心」が息づいているからだ。

支配者とは人の世に寄生しているだけの存在であって、支配者が人の世をつくっているのではない。

人類の歴史は、「避けがたく支配されてしまう無防備な心」を持ったものたちの歴史だったのであり、そこにこそ人間性の自然や人間的な知性・感性の源泉がある。それはつまり受動的な「反応する」ということであって、舌なめずりして世界や他者を吟味したり裁いたりしてゆく能力のことではない。そうやって吟味したり裁いたりしながら「反応する=ときめく」という心の動きが停滞・衰弱してゆく。あるいは、停滞・衰弱しているから、吟味したり裁いたりする「支配欲」が肥大化してくる。

支配欲とは、他者の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」に寄生してゆこうとする衝動のこと。そうやって人が人を教育し、扇動し、支配してゆく。そうやって出世をしたり金儲けをしたり、まあ文明社会の政治経済が動いているのだろうが、それでもこの世の人と人の関係の本質=自然は、そんなところにはない。たがいに「避けがたく支配されてしまう無防備なもの」になってゆくところでこそ、より深く豊かにときめき合っている。「裁き合う」のではなく「許し合う」ということ。

僕は、他者の人間的な魅力について考えたいのであって、その能力の高さや正しさなんぞに興味はない。他者に対する「影響力=権力」を持っている人間に人間的な魅力が深く豊かにそなわっているとはかぎらない。いまどきは他者に対する「影響力=権力」を持ちたがる人間ばかりの世の中であったとしても、それでも人の世であるかぎり、他愛なく無防備にときめき合う人と人の関係が生成している。他者干渉してゆくのではなく、ただもう一方的に、他者に反応してときめいてゆくこと。そういうたがいの一方的なときめきが響き合うところにこそ、人と人の関係の基礎と究極のかたちがあるのではないだろうか。


2016-07-24 都市の起源(その四十八)・ネアンデルタール人論199

その四十七・この生は「今ここ」にしかない


ネアンデルタール人の社会に「家族」という関係はなかった。生まれた直後の乳児との母子関係があっただけで、それ以後はもう集団のみんなで子供を育てていた。

基本的に、ひとりひとりが孤立して存在している社会だった。しかしだからこそ、出会ったそのときその場で他愛なくときめき合いながら豊かに連携してゆくことができた。

男と女は、毎晩のように抱き合いセックスして眠りに就いていた。氷河期のヨーロッパは、そうしないと凍え死んでしまう環境だった。そして人の性衝動は、「出会いのときめき」から生まれてくるのであって、一緒にいることの満足によるのではない。家族、とくに核家族という一体感の濃い空間で暮らしている現代人は、どうしてもインポテンツに陥りやすい。

連携と孤立、そしてそのときその場の出会いにおいて即興的に連携してゆくことができるエスプリ(機知)、これが、今なお続くヨーロッパ社会の伝統になっている。

現在の人類学では、「未来に対する計画性」が人類の歴史に進化発展をもたらしたということになっているのだが、それは文明社会になってからのことで、原始時代の段階では、ひたすら「今ここ」を生きていた。

「今ここ」に対する豊かな「反応=ときめき」こそ、猿にはない人間性の特質なのだ。現在だって、そのことこそが知性や感性や人間的な魅力の源泉になっている。

何をもって知能というのかはよくわからないのだが、本格的な学者や芸術家は、「未来に対する計画性」をはじめとする予定調和の脳のはたらき以前に、「今ここ」に対する「反応=ひらめき」としてのエスプリ(機知)を豊かにそなえており、そこが一流と二流の差になっていたりする。一般的な庶民においても、人間的な魅力というのは、そういうところにあるのではないだろうか。その、「今ここ」に対する「反応」の鮮やかさが、表情やしぐさや言葉になってあらわれる。

「今ここ」に対する「反応」の鮮やかさとしての「エスプリ(機知)」こそが、人類史に進化発展をもたらした。「石器」「火の使用」「埋葬」「言葉」等々の起源論は、そういう角度から問い直されてもいいのではないだろうか。


この生は「今ここ」にしかない、ということ。過去も未来もない。「今ここ」に憑依してゆく心の動きのダイナミズムが、人類に進化発展をもたらした。人の心は、「今ここ」がこの生この世界のすべてだという勢いでときめいてゆくことができる。「今ここ」の目の前の対象に深く豊かに気づいてゆくこと、そこに人間的な知性や感性の自然=本質がある。

だから原始人は、地球の隅々まで拡散してゆくことができた。それは、どんなに住みにくい土地でも「今ここ」がこの生この世界のすべてだと思い定めて住み着いてゆく現象だった。そうやって過去も未来もないもないと思い定めることができる「(人や世界との)出会いのときめき」があったから住み着いてゆくことができた。ネアンデルタール人という原始人が氷河期の北ヨーロッパという苛酷な土地に住み着いてゆくことなんか、過去の思い出をまさぐり未来に対する計画をあれこれ思い描いていたらできるはずがない。

「出会いのときめき」こそ人間的な知性や感性である、ともいえる。そうやって「発見」し「感動」する。「今ここ」に対する想いの深さと豊かさこそ人間性なのだ。

なにが「未来に対する計画性」なものか。

人類は、「今ここ」の「出会いのときめき」とともに地球の隅々まで拡散していった。

もちろん旅に出るということは「ここにはいられない」といういたたまれなさがあるからだが、それは「未来に対する計画性」ではなく、あくまで「今ここ」に対する想いの深さであり、そうやって生きものは体を動かす。気がついたらすでに体を動かしている。動かすのはあくまで「結果」であって、「目的」があってのことではない。

今どきの歴史解釈は、「結果」でしかないことを「原因」であるかのように決めつけていることが多い。

生きものが生きていることは、「気がついたらすでに生きてしまっている」という「結果」であって、生きようとする欲望が「原因=目的」としてあるのではない。

言葉の起源は「思わず音声を発してしまう」ことにあるのであって、その音声を「言葉」として自覚しているような「意味を伝達する」という「目的」があったのではない。

「住みよい土地を目指して」拡散していったのではない。「ここにはいられない」という想いとともに「思わず体が動いてしまって」拡散していったのであり、その「結果」としてどんな住みにくい土地でも住み着いていった。住みにくい土地なんか目指すはずもないが、それでもかまわなかったのだ。

「未来に対する計画性」で氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったりするものか。そしてネアンデルタール人はべつにいきなりそこで降って湧いてきたのでもなく、その当時の人類拡散の歴史をもっとも深く背負って登場してきた人々だったのだ。

10年前には、ネアンデルタール人がなにか人間以外の生きものであるかのようにいいたがる人類学者がたくさんいた。ネアンデルタール人は「現生人類」ではないと、格好つけてその「現生人類」という言葉を合唱している研究者人類学フリークは今でもたくさんいるが、ネアンデルタール人こそその当時のもっとも本格的な「現生人類」だったのだ。

ネアンデルタール人氷河期の北ヨーロッパという苛酷な土地に住み着いていたということは、人間性の自然=本質は「今ここ」にときめき憑依してゆくことにある、ということを意味する。

だから人類は、核兵器原発だってつくってしまう。「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」に憑依しときめいてゆくから、過去も未来も忘れてしまう。


人と人の関係の本質・自然は、一体感の中で過去をまさぐり未来を夢見てゆくことにあるのではなく、「出会いのときめき」にある。一緒に暮らしていてもたがいに孤立した存在として「出会いのときめき」が機能しているのであり、機能していなければ一緒に暮らせない。

一体感の中で過去をまさぐり合い未来を夢見合いながら、「今ここ」に対する「ときめき」が薄れ、関係が壊れてゆく。

ネアンデルタール人は、ひたすら「今ここ」の「ときめき」を生きようとしていた。夢もなければ思い出もなかった。だからこそ、豊かにときめいていた。そしてそれこそが、「都市」の本質なのだ。そこは、夢も思い出も共有していない見知らぬ人々の「出会いのときめき」の場であり、目の前に「あなた」が存在するということそれ自体にときめき合っている。そういう人と人の関係が純化してゆくいわば「結晶作用」が起きる場であり、そのための「エスプリ(機知)」なのだ。「ときめき」という「結晶作用」、それを体験している人は豊かな「エスプリ(機知)」を持っている、ということ。

他愛なくときめき合うことこそ、人と人の関係の基礎であり、究極のかたちでもある。豊かに「反応」し合うこと、人類の言葉だってそういうかたちで生まれ育ってきたのであって、「伝達」の道具であることが言葉の本質であるのではない。

ときめき合う関係においては、思わず「反応」してしまうのであり、「伝達」の「意図=目的」など忘れている。忘れていても、たがいに「反応」し合っているのだから、「結果」として伝達されている。

語り合うことのよろこびは、「伝達し合う」ことにあるのではなく、「反応し合う」ことにある。

相手と出会ってときめき、思わず「やあ」とか「おう」という音声がこぼれ出る。ヨーロッパの「ハロー」とか「ヘイ」とか「チャオ」という出会いの言葉だって、まあそのようなものだろう。これらが起源としての言葉だったとしたら、それは思わずこぼれ出る「反応」の音声であって、「伝達の意図」などほとんどない。その「ときめき」が純粋で無邪気であればあるほど、さらにない。これが、言葉の基礎=本質であり、言葉は、人の心の「反応=ときめき」の表出として生まれ育ってきた。


心が動いて、思わず音声がこぼれ出る。そういう体験の積み重ねとして、人類の言葉が生まれ育ってきたのだ。

その赤ん坊がどんなに賢くても、人やまわりの世界に対する警戒心や緊張を持った自閉症的な傾向が強ければ、なかなか言葉を覚えない。無邪気に「反応」しときめいてゆくことができる赤ん坊が、早く言葉を覚える。単純に知能が発達しているかどうかというだけの問題ではない。

人類史においても、人と人が他愛なく豊かにときめき合っている地域から最初に言葉が生まれ育ってきたはずだ。そしてその地域は、アフリカではなく、ネアンデルタール人がいたヨーロッパに違いない。

現在の人類学では、言葉はアフリカで生まれて世界中に広まっていった、と考えている研究者も多いのだが、その説は二重に間違っている。言葉は、アフリカで最初に生まれたのではないし、言葉の本質は「広まって」ゆくようなものではない。それぞれの地域社会で固有に生まれ育ってくるのであり、だから、それぞれに違う。同じ人間だし場所も近ければ、多少の似ている部分はとうぜんあるが、それでもそれぞれの地域で固有に発生してきたのだ。世界中どこでも、出会えば何らかの音声を交し合う人と人の関係の歴史を歩んできたのであり、言葉が発生してこない人間の集団などあるものか。

言葉は、それぞれの地域のときめき合う関係から、それぞれ固有に生まれてきたのだ。

まあ、言葉を「伝達の道具」として決めてかかっているから「広まってゆく」という発想になるのだろうが、言葉は、それぞれの地域の人々のときめき合う関係ともに、集団として「閉じられ」ながら生まれ育ってきたのだ。

ときめき合うものたちは「反応」し合っているのであって、「伝達」し合っているのではない。

「伝達」することは「支配」することであり、「広まってゆく」という、近ごろ流行りのグローバリズムでもある。文明社会は避けがたくそういう傾向を持っているわけだが、それは原始社会の傾向ではなかった。原始人だってすでに言葉を持っていたということは、言葉の本質が「伝達する」とか「広まってゆく」というような性格のものではないということを意味する。

原初の人類は「支配され合う」という関係になりながら二本の足で立ち上がっていったわけで、その生態から言葉が生まれてきた。「支配される」とは「反応する」ということ、それが言葉の機能の本質であり、じつは現代の都市の「エスプリ(機知)」の本質でもある。

言葉の本質は、人と人を他愛なくときめき合う関係にすることにある。だったらネアンデルタール人の社会から最初に言葉が生まれ育ってきたと考えなければつじつまが合わないし、それが今なお続く都市の「エスプリ(機知)」の伝統になっている。

都市住民の人と人の関係は、原始的なのだ。そしてネアンデルタール人の生態やメンタリティは、すでに都市的だった。都市のエスプリ(機知)は、「人と人がたがいに無防備になって他愛なくときめき合ってゆく関係になることができるセンス」として育ってゆく。「支配し合う」のではない、「支配され合う」関係になることができるセンスなのだ。


2016-07-21 都市の起源(その四十七)・ネアンデルタール人論198

その四十七・それは、「神のしわざ(=支配)」か?


ネアンデルタール人の集団がつねに離合集散を繰り返していたということは、彼らには「監視する」という制度的なメンタリティすなわち支配欲が希薄だったことを意味する。

神の本能は人間を監視することにあり、そうやって宗教は「戒律」の上に成り立っている。

そして共同体=権力の本能は、民衆を監視することにある。

支配欲とは、監視しようとする衝動のこと。

人類の支配欲は、国家文明の発祥とともに本格化してきた。そこで登場してきた支配者=権力者の支配欲が肥大化していった果てに「神」という概念が見い出されていった。

支配者=権力者の「支配」を正当化する根拠として「神」という概念が見い出されていった。

文明人の支配欲が「神」という概念を発見した、と言い換えてもよい。

起源としての「神」は、この世界をつくり支配している存在(=創造主)だった。メソポタミア文明発祥の地から生まれてきたであろうユダヤ教は、世界でもっとも古い宗教のひとつであるのかもしれない。それは、現在の未開人のアニミズム精霊信仰)よりももっと古いかたちの「神」という概念を持っている。アニミズムなど、「神=創造主」のバリエーションにすぎない。

「神=創造主」、これが起源としての宗教であり、現在においても、基本的にはそういうかたちで「神」という概念が信じられている。


人は森羅万象の不思議と出合うと「神=創造主」を想起する……などと彼らはいうのだが、それは「支配する」ということを知っていてはじめて可能なのだ。支配欲の強い人ほど「神=創造主」を強く信じている。だから、政治の世界は宗教あるいはオカルト(呪術)の巣窟になる。そして、分裂病とかアスペルガー症候群のような自閉的な傾向が強い人ほど支配欲も旺盛で、彼らは他人に対しても自分に対しても究極の支配欲である「殺意」を向けたがる。彼らは、心の中に、「神=創造主」を頂点とする「支配」のヒエラルキーを持っている。そうやって彼らの世界は「完結」している。

森羅万象の不思議が「神のしわざ」だと思えるのなら、それはもう不思議でもなんでもなく、世界は秩序を持って完結している。「わけがわからない、いったい何だろう?」と問う必要なんかなく、「神のしわざだ!」と感動し満足していればいい。それは、「支配欲」なのだ。

しかし人は、世界の果てまで「いったい何だろう?」という問いを積み上げてゆく存在であり、そうやって地球の隅々まで拡散していった。世界の果てに「神=創造主」がいるのなら、そこは「果て」でもなんでもない。

世界は完結していない、人は永遠に問い続けるし、「今ここ」のこの世界がそもそも「わけがわからない」という「問い」の対象としてあらわれている。

目の前に「あなた」が存在すること自体、どうしようもなくなやましくくるおしい「不思議」ではないか。いやもう、蟻一匹が存在することだって、「神がつくりたもうた」というだけではすまない「不思議」に満ちている。

人類はもともと誰もが「支配される」存在として生き、「支配する」ということを知らなかった。原始人の集団に、リーダーのような存在はいても、猿山のボスのような絶対的な「権力者=支配者」はいなかった。だから、つねに集団の離合集散を繰り返しながら、地球の隅々まで拡散していった。

人類史における「権力者=支配者」は、文明発祥とともに本格的に定住することを覚え無際限に人口が増えていったところから登場してきた。

「森羅万象の不思議と出合えば神が思い浮かぶ」などという単純な論理では説明がつかない。それは、「支配する」ということを知っていなければ思い浮かばない。

人は、支配欲の強さのぶんだけ神を信じている。あるいは、支配にすがっているぶんだけ神を信じている。さらには、神など信じていないといっても、無意識のところではちゃんと信じており、支配欲を募らせ神のように振る舞いたがる人もいる。今や神という概念は、人間社会に浸透してしまっている。

文明国家の発祥とともに「神=創造主」という思考が生まれてきた。つまりその思考は、文明国家の「支配者=権力者」たちのあいだから生まれてきたのであって、人間性の普遍として民衆の暮らしから自然に生まれてきたというようなことではない。


そんなことをいっても日本列島の「古事記」は民衆のあいだから生まれてきた神々の物語ではないか、という反論もあるかもしれない。しかし、そこで語られれている「神」は世界の「創造主」ではない。最初の神々は「アメノミナカヌシ」「タカミムスビ」「カムムスビ」等々、この世界の混沌の中から「生まれ出た=あらわれ出た=なりませた」のであって、「この世界をつくった」とは言っていない。そうしてなぜか、あらわれ出てすぐに消えていった。

まあ、あらわれ出て消えてゆくのがこの世界の森羅万象の本質だからだろうか。このことは、重要だ。古事記の基本的な世界観は、すべての森羅万象はそれ自体として生成しているのであって森羅万象をつくったものなどいない、ということにある。

古事記という物語は、それまで「神」という概念を知らなかった民衆が、仏教とともに権力の側から下りてきたそれをどんなものかと模索し語り合ってゆくところから生まれてきたのだろう。そのころの「神」は、仏の弟子として認知されていた。創造主としての仏についてはもう考える余地がないし、畏れ多いことでもあるし、いまいちしっくりこないところもあったが、創造主ではない天界の住人である「神」についてはいろいろ想像力がふくらんだ。そしてそれを日本列島のはじまりの物語として翻案していった。

日本人は、外来文化をデフォルメして自分のものにしてゆくのが好きだ。

乱暴者である神の「スサノヲ」は、「阿修羅」のような神が発想のもとになっているのかもしれない。

いずれにせよ古事記について語り合った民衆には、「創造主」という観念はなかった。それは、「権力者=支配者」が発想する。民衆にとっての世界はあくまで「混沌」だったのであって、「創造主」をヒエラルキーの頂点とする世界の「秩序」など思い浮かばなかった。

なぜなら民衆は、「支配されるもの」だったからだ。世界の輝きに「ときめいているもの」であり、支配され合いながらときめき合っているものたちだったからだ。そういう「受動性」を共有しながらときめき合ってゆく人と人の関係を生きていた。この世界をつくり支配している存在などイメージしたら、この世界それ自体の輝きが薄れてしまうではないか。この世界をつくり支配している存在などに興味がなかった。

「あなた」がそこに存在することは、「あなた」それ自体の輝きであって、その向こうに神の輝きを見るなんて、よけいなお世話だ。彼らにとって生きてあることは「嘆き」の対象だったのであり、だからこそこの生も自分も忘れて世界の輝きにときめいていった。

たぶん「神」という概念は、「自分=この生」や「この世界」に秩序と安定をもたらす存在としてイメージされていったのだろう。「自分=この生」に執着・耽溺する支配者=権力者たちは、「神」の支配のもとで永遠の生を得たいとも思ったのかもしれない。そうやって天国や極楽浄土を発想していった。

平和で豊かなこの社会では、意識が「自分=この生」に停滞してしまって、世界の輝きにときめく心がどんどん薄れてゆく。

お願いだから、むやみな「生命賛歌」や「幸せ自慢」ばかりしないでくれ。その正義の論理こそが、人を追いつめ弱らせてゆく。少なくとも古事記は、そんなコンセプトの上に成り立っている物語ではないからこそ、われわれの心を魅了するのだ。

誰にだって、世界や他者に他愛なくときめきながら生きてゆけたらという願いはあるに違いない。まあ「都市」という空間は、そういう願いを起こさせるような構造を持っている。そういう願いとともに都市の文化が花開いてゆくし、そういう願いや他愛ないときめきを喪失したころで都市の病理や犯罪が生まれてくる。

古代の奈良盆地という都市集落の民衆は、権力者や仏による「支配=監視」からの解放として古事記という「神」の物語を語り合った。そうして、話せば長くなるけれど、「支配=かんし」からの解放のよりどころとして「天皇という神」をみずから祀り上げていった。天皇はその本質において空虚な存在であり、民衆を「見守る」ことはしても「支配=監視」することはしない。すべてを許している。その起源においては、民衆から祀り上げられて登場してきた受動的な存在だったのであって、支配者としてどこかからやってきたのではない。とりあえず権力者よりも上の存在として祀り上げるためには、そういう話を捏造しておく必要があったのかもしれない。いや、このことには、今は深入りするまい。


人類はもともと誰もが「避けがたく支配されてしまう無防備な存在」だったが、それゆえにこそ誰もが「支配する」ということを知らなかった。したがって原始時代に「神」という概念などなかった。われわれの「意識」のはたらきは、根源において、この生やこの世界に「支配される」という受動的なかたちで生成している。つまりわれわれの「意識」は、この生やこの世界の存在を前提としてはたらいているのではなく、この生やこの世界からのはたらきかけによってその存在に気づかされるのだ。この生やこの世界の存在がなければ、「意識」が発生してくることもない。つまり「意識」は、この生やこの世界に「支配されて」生成しているというか、「先験的に避けがたく支配されてしまう無防備なはたらき」であり、それが人の心の自然ではないだろうか。

原始時代に帰れというつもりなど毛頭ないが、現代社会に生きていようと、人の心の根源というか自然はどのようなかたちになっているのかという問題はあるではないか。無意識の問題、と言い換えてもよい。そして、現代社会のすべての人間がまるごと「神」という概念を信じ切っているわけではないということは、原始時代にそんな概念などなかったということを意味するのであり、われわれの心は、神という概念を人間性の自然として信じているのではなく、神という概念に冒されてしまっているのだ。

自然の不思議を前にすれば自然に「神」という概念が思い浮かぶだなんて、嘘だ。それが「神」のしわざだと決定できるのなら、不思議でもなんでもない。そのとき人の心の自然は、「どうなっているのだろう?わけがわからない」と思うだけであり、そうやって驚きときめきながら人類の知能というか文化が進化発展してきたのだ。

文明人は、神のしわざ、すなわち神による支配、という観念を植え付けられているから「神」という概念が思い浮かぶだけのこと。神という概念を知っているから、神という概念が思い浮かぶだけのこと。「支配する」というはたらきを知っているから、「神が支配している」と思うだけのこと。

原始人は、「支配する」などということは知らなかった。誰もが「支配されて」存在していた。彼らは、究極の「支配される」というかたちを思い浮かべることはあっても、究極の「支配する」というかたちなど、思い浮かべようもなかった。

起源としての「神」という概念は、支配者の支配正当化するための根拠として発想されていった。人間はもともと「避けがたく支配されてしまう無防備な存在」なのだから、その支配はたちまち定着していった。それはまあ、「パンドラの箱を開けてしまった」というようなことだったのかもしれないが、人の支配欲や「神」を発想することが人間性の自然だとはいえない。

人の心の自然は、あくまで「支配される」ということにある。「支配される」ことは「支配する」こととの関係の上に成り立っている、といわれそうだが、ここでは、そうは考えない。「支配される」とは「受動性」ということ。人の心の自然と本質は、そのようなかたちになっているのではないだろうか。

人類の歴史は、もともと誰もが「支配される=受動性」で生きていたのだが、文明発祥のあるときから、「支配する=能動性」が強く機能する世の中になっていった、

そうして今どきは、「能動性」すなわち生き延びようとする欲望のはたらきこそ人間性の豊かさのようにいわれているが、人類の歴史の進化発展は、あくまで「もう死んでのもいい」という勢いで自分=この生を忘れてときめいてゆく「無防備受動性」としての「反応」の豊かさによってもたらされてきたのではないだろうか。世界は輝いているのだ。

人類の歴史は、生き延びるためにまわりの世界に対して警戒し緊張しながら進化発展してきたのではない。そういう警戒や緊張による能動性や支配欲が、心に停滞・衰弱をもたらし、だんだんときめかなくなってゆく。

「世界の輝き」が人類に進化発展をもたらしたのだ。「もう死んでもいい」という無防備な心で「世界の輝き」にときめいていったからだ。生き延びようとする欲望によってではない。

生きることなんか、執着・耽溺しなければならないほど大切なものでもない。どうでもいいことだ。人間性の自然においては、「死にたい」のでも「生きたい」のでもない。「世界の輝き」に引き寄せられてとりあえず「生きてしまっている」だけのこと。そういう「ときめき」がないから、生き延びようとする欲望を募らせないといけなくなる。自分=この生に執着しないと生きられないなんて、とても不自然だし、何か病んでいる。愛に飢えているのかねえ。愛される自分でありたいと能動的に画策しつつ、かえって人の心が自分から離れてゆく。相手が自分を愛しているかどうかと監視してゆき、かえって嫌われる。愛されることなんかどうでもいいじゃないの。「世界の輝き」に「反応」しときめいているのなら、そんな自己満足など必要ないはずなのに、彼らはどうしてもそれが欲しくて監視せずにいられないらしい。

正義が欲しいんだよね。正義で人の心を縛れると思っている。それは共同体=権力による「支配」の手法だが、人と人のときめき合う関係は、そこから解放されたところにある。

うんざりさせられることばかりの世の中だけど、それでも世界は輝いているから、われわれは生きてしまっている。


2016-07-18 都市の起源(その四十六)・ネアンデルタール人論197

その四十六・人生はなりゆきまかせだ、いっぱい後悔して泣けばいい


人と人の関係の基礎は、二本の足で立って向き合っていることにある。

くっついて支え合っているのではなく、離れたまま、ともにひとりで立っている。ひとりで立つ姿勢を安定させるために向き合っている。その姿勢は、前に倒れやすい。しかし向き合っていれば、相手の身体が心理的な壁になって、倒れにくくなる。原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、たがいに向き合う関係になる生態をつくっていった。それによって正常位でセックスをするようになり、さらには言葉が生まれてきた。

離れて向き合っているから、思わず音声がこぼれ出る。「伝達」するためではない。そんな「目的」などなく、「思わず」こぼれ出るのだ。他者と向き合う関係になることによって二本の足で立つ姿勢が安定しときめく。その感慨とともに「思わず」音声がこぼれ出る。他者と向き合う関係になる生態を持ったことによって人類は、猿のレベルを超えたさまざまなニュアンスの感慨を抱く存在になっていた。他者と向き合って立っていると、さまざまなニュアンスの感慨が生まれ、さまざまなニュアンスの音声がこぼれ出る。話すものも聞くもののも、その「音声」を聞きながら、それが「言葉」であることに気づいていった。最初は出合った相手に対する「やあ」とか「おお」とかの音声だけだったが、やがてその音声は、まわりの世界に対するさまざまな感慨を共有してゆく手段になっていった。他者と向き合って立っていると、他者に対してもまわりの世界に対しても、さまざまな感慨が生まれてくる。そうやって人類は、猿のレベルを超えたさまざまなニュアンスの感慨を抱くようになり、さまざまなニュアンスの「音声」を発する存在になっていった。

言葉は、たがいの身体のあいだの「空間」で生成している。自分の頭の中で生成しているのではない。人類は、言葉を生み出そうとして生み出したのではない。言葉を知らない段階で言葉を知っていた、などということは論理的にありえない。気がついたらいつの間にか音声=言葉を交わし合う存在になっていたのだ。

人と人が言葉を交し合うとき、たがいに相手からさまざまな感慨を抱かせられ、さまざまな言葉を想起させられている。つまり、たがいに「支配される」関係になっている。


言葉は、人と人が向き合う関係になることによって育ってくる。これは、現在の幼児が言葉を覚えてゆくことだって同じで、自閉症的な傾向の子供は言葉を覚えるのが遅い。知能の発達の問題ではない。自閉症的な傾向とは親との「一体感=結束」にまどろんでいる状態であり、「離れて向き合う」という関係になっていない。つまり、親との関係に、言葉が生成するための「空間」が機能していない。

一体感による結束は、自意識自我)の恍惚をもたらす。それに対して連携とは、自分捨てて相手にサービスし合うことだ。

支配=被支配」のタイトな関係の一体感で「結束」してゆくのではなく、たがいに孤立して向き合いながら、その緩やかな関係の中で「連携」してゆく。

水のような淡い関係になりながらたがいにサービスし合い連携してゆくのが都市における人と人の関係の作法であり、なぜ淡い関係でいられるかといえば、ともに自分を忘れて相手のことばかり想っているからだ。その心模様は、淡い関係の中でこそ生成している。

他者との関係に一体感を持ってしまえば、意識は「自分」に向かって逆流してくる。そのとき相手を想うことは、「自分」を想うことでもある。他者を想っているようで、想っていない。

「人を想う」ことは、「自分を忘れる」ことだ。そうやって、たがいにときめき合い、サービスし合ってゆく。たがいに「生きられない弱いもの」として向き合い、「もう死んでもいい」という勢いでそういう関係になってゆく。それが都市的な「連携」の作法だ。

サービスすることは一方通行の関係で、相手にサービスし返してもらうことすなわちそういう「贈与と返礼」のの一体感の関係によって完結するのではなく、相手のよろこんだ顔を見たところで完結する。笑顔が「返礼」だ、ともいえるが、自分を無にしてサービスしてゆくのだから、「自分に返ってくる」という自覚は持てない。自分を忘れて相手にときめいているだけなのだから、自分と相手との一体感など持ちようがない。

日本列島にもヨーロッパにも、一体感をつくってゆくという「結束」の文化風土はない。

「一体感=結束」は、それによって自分を満足させることであり、「連携」は、自分を消してゆくところから生まれてくる。自分に対する意識を引きはがし、それをまるごと相手に向けてゆく。相手に意識を集中してゆく。それが「ときめく」という心の動きであり、そこから「連携」という関係が生まれてくる。

都市にやってくるものたちは、その淡い関係に耐えきれず田舎以上に一体感の関係になろうとする者もいれば、都市住民以上に淡い関係を生きようとする者もいる。都市とは、その本質において「よそ者」の集まりであり、たがいにこの生からはぐれてしまったものどうしとして向き合っている。

まあ、もともとの都市住民だって、嫌われ者は、都市で生き延びるための知恵として、支配と被支配の一体感の関係を生きようとする意欲が強い。また。そういう意欲が強いから、都市においては嫌われる。

ようするにこの世の中にはいろんな人がいるということであり、しかし都市の本質は、それはそれとして人間性の起源と究極の問題としてちゃんとあるということでもある。


現在、「都市」を政治と経済の問題として考える言説は多いが、ここでは、「人間とは何か?」と問うてゆく問題として考えている。それは、直立二足歩行の起源と本質の問題であり、人類拡散の問題であり、言葉の問題であり、祭り=遊びの問題であり、人と人の関係の本質の問題でもある。

今は東京という「都市」の知事選挙のことが話題として持ち上がっているが、ここで考えていることなんか、みごとなくらいその問題からずれてしまっている。

笑ってしまうくらい役に立たないことばかり考えている。しかしじつは、われわれの暮らしをどう活性化させるかという問題は、身の回りの人と人の関係をどう活性化させてゆくかという問題でもある。なんのかのといっても、人はそのことを基礎にして生きている。

嫌われ者になってもいいから裕福に暮らしたいと考えている人も多いかもしれないが、裕福になれもしないくせにそんな夢ばかり見るなよ、という話だ。今のそここそこの暮らしを既得権益として守ってゆきたいといっても、そんなことばかり考えているから、人にときめくことができなくなってゆくし、ときめかれるほどの人間的な魅力を持つこともできないまま死んでゆかねばならない。「そこそこの暮らし」に満足しながら、どんどんみすぼらしい人間になってゆく。今の世に自分の人生に満足している人はたくさんいるのだろうが、そのぶん彼らが豊かに人にときめきときめかれる魅力的な存在たりえているとはかぎらない。まあ同じ人種どうしのネットワークの中でほめ合いじゃれ合っていればそういう満足も保たれるのだろうが、基本的に都市は裸一貫の人間どうしが出会ってときめき合ってゆく場であり、誰だってそういう体験をしているのに、それでも自分の暮らしや自分の人生のことばかり考えたがる世の中になってしまっている。

人の心は、「暮らし=この生」という「日常」から解き放たれたところで華やぎ活性化してゆく。そういう体験として人と人の出会いがあり、ときめき合うという関係が生まれてくる。「この生=自分」を忘れてときめいてゆく。その「もう死んでもいい」という勢いで人と人の関係が活性化するのであり、そういう関係が生まれてくる場として人類史に「都市」があらわれてきた。

まあ「この生=自分」が大切な人にとっては、政治や経済がいちばんの関心事なのだろう。彼らは、自分の人生に満足して死んでゆきたいらしい。しかし、満足していたら死ねなくなってしまうのであり、「後悔しない」とは「満足する」ことではなく、「忘れてしまう」ことだ。

後悔をむりやり押し殺して満足を生きようとする。そんなふうに無理に無理を重ねて、ときめく心が停滞・衰弱してゆく。今どきの大人たちのよくあるパターンだ。

生まれてきてしまったことは、取り返しのつかない過ちなのだ。いっぱい後悔して嘆きながら生きているのが人としての自然ではないのか。心は、そこから華やぎときめいてゆく。人はもともといっぱい後悔して嘆きながら生きている存在だからこそ、自分を忘れて他愛なく豊かにときめいてゆく心を持つようになっていったのではないだろうか。


稲葉稲葉 2016/07/21 00:58 「生きた心地がしない」というのは、まさに生きているから感じてしまう感情ですね。
逆に、精一杯やった後や、感動している時は、生きていることを忘れている時。
どちらも生きているからこそのもので、「生きる」って難しい。

HIROMITIHIROMITI 2016/07/21 14:12 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

「生きた心地がしない」とは、意識が自分に向かって逆流している状態でしょうか。
恐怖とか怒りとか憎しみとか不平不満とか、意識の「糞詰まり」状態。
じっさい、うんちが詰まったまま出てこないというのは、かなりの恐怖ですよね。
おしっこが出ない、という老人病もあるらしい。
「生きている」と感じることは、「生きた心地がしない」ことでもある。
「自分=この生」はひとつの「けがれ」であり、たえず「排泄する」という「みそぎ」をしていないと、どんどん心の糞詰まり状態になってゆく。人は、「自分=この生」に満足しながらというか、満足することを欲しがりながら、どんどん心の糞詰まり状態になってゆく。そうやって現代人は、年をとればとるほど恐怖や怒りや憎しみや不平不満を募らせてゆく。
子供だって、ぐずって駄々をこねるような泣き方をするのが癖になっている子がいますよね。これだってきっと心の糞詰まり状態なのだろうし、そういう光景を見せられると、なんだかこちらまで悲しくなってしまうし、「やれやれ」とも思う。
ああいう癖は環境要因によってつくられることがほとんどなのだろうが、生まれつきの脳の不具合とかホルモンの分泌の不調というようなこともあるのでしょうか。
ある精神疾患があるホルモンの投与で大幅に改善されたというような実験例というか臨床例があるらしいのだけれど、それはつまり、その精神疾患が生まれつきの脳の不具合にあるのではないということの証明でもありますよね。
子供の精神疾患を「生まれつき=遺伝子」の問題にしてしまえば親は救われるのだろうが、たぶんそれだけでは解決はつかない。まあ、脳に不具合があるからそのホルモンの分泌が弱くなっているのだという理屈も成り立つのだろうが、それとは別の幼児体験の怖さと大切さという問題はやっぱりあるのでしょうね。

稲葉稲葉 2016/07/21 20:14 返信ありがとうございます。
大人になっても「洗脳」ということができる。これは大人や制度性により、子どもを壊すことができることの証明にもなり得るのではないでしょうか。

HIROMITIHIROMITI 2016/07/22 19:53 稲葉さまへ

そうですね、大人でさえ「洗脳」されてしまうのだから、子供の心なんかもっとかんたんに支配してしまうことができる。
佐世保の女子高生が同級生の体を切り刻んで殺してしまった事件や秋葉原通り魔事件の加藤君のことなどについて、ある評論家が、「彼らは心の底で親に対して悲鳴を上げながら育っていった」と語っていたのですが、「悲鳴を上げる」のならまだ救いもあるのだけれど、それこそ心の底というか無意識的にというか、知らず知らず親の心を模倣して自分の中に埋め込んでしまったのですよね。悲鳴を上げるくらいなら壊されはしない。「子は親の鏡」というけど、知らず知らず親を模倣しながら壊れてゆくのですよね。僕は、その評論家のいうことなんか、ただのセンチな思い込みにすぎないと思います。悪い親なら子供に慕われないなんて、あんた甘いよ、といいたいです。
悲鳴を上げて壊れたんじゃない、「洗脳」されて壊れてしまったんだよ、といいたいです。どんなひどい親でも、子供は親を慕い、親を模倣してしまう。加藤君の親がどんなにひどい親であっても、親は親、親として慕っていたのですよね。佐世保の女子高生が親を金属バットで殴り殺しかけたといっても、親を慕いながら育ってきてしまったことの裏返しなのですよね。
親に「洗脳」されてしまったことの悲劇なのですよね。親を模倣したけど、親とは違う時代環境で違う体験をしながら育ってきたから、とんでもない歪み方をしてしまった、ということでしょう。

稲葉稲葉 2016/07/23 11:58 親子だから似るのは当たり前です。同じ生活をしてるのですからね。
ただ、生活模様や、何気ない仕草が似るだけで、心はあくまでもそれぞれです。生まれ出たそのときからそれぞれです。
それを「洗脳」という虐待で、いつ爆破するかわからない爆弾を埋め込まれるといった形でしょうか。
あるいは心まで干渉されてロボットのように育てられ、こういう結果を招いてしまったということでしょうか。

HIROMITIHIROMITI 2016/07/24 20:51 稲葉さまへ

夏目漱石は、幼児のころの一時期、養子に出され、養家の親たちからとてもかわいがられたのだけれど、ただ、毎晩のように、
「お前の本当の親は誰か?」
「はい、あなたたちです」
という問答を繰り返し強制されたそうでそうで、それがとても苦痛だったと述懐しています。
それは自分たちの老後の面倒を見させるためだったらしく、じっさい彼らからは死ぬまで金をせびり続けられたそうです。
漱石はその後まもなく実家に戻されたのですが、、そのとき実家の両親は祖父母だということになっていたそうです。
そうしてあるとき女中から彼らこそ実の両親だと知らされるわけですが、子供心にも何か複雑な思いをしたのだとか。なぜなら実家の両親のほうがずっと自分に冷淡だったから。
まあそんな体験が、漱石の人間観察の深さの原点になっているらしいのだけれど、彼は、つねに支配を受け入れながら、けっして洗脳されなかった。
金をせびられ続けていやだいやだと言っているのだけれど、「これ以上はもう駄目だ」とはねつけてしまうことができなかったからそういう愚痴になってしまうのですよね。それほどに彼は「避けがたく支配されてしまう無防備な人」であったと同時に、「けっして洗脳されない人」でもあった。そこに彼の苦悩があったわけだが、漱石は、都市住民の「エスプリ(機知)」を誰よりも豊かにそなえている人だったと僕は考えています。
本格的な都市住民の子供は、無防備に支配されてしまうが洗脳されることはない。
そして犯罪に走る子供の多くは、親を警戒しつつ知らず知らず親に洗脳されながら育ってゆく。
ようするに犯罪に走るというのは、人を支配しようとする衝動なのでしょう。彼らは、自分に覆いかぶさってくる親の支配欲を、そのまま自分のものにしていった。
今、都市住民の心をあれこれ考えているのですが、試行錯誤するばかりで、なかなかすっきりとまとめきることができないで困っています。

稲葉稲葉 2016/07/24 23:30 都市住民、日本の都市は、世界のそれとは一味違いますよね。
世界の都市は、いわゆるアメリカンドリームだったり、地域の結束だったりで、ベクトルがおなじですよね。
しかし、日本の都市は、ベクトルとかいう問題ではなく、「人だかりへの憧れ」というか、それこそお祭りに行くのと変わりない集まり。
そして日本人は、それを受け入れて織り交ぜていく。
ただ、海外の様々な文化や陰謀やも受け入れ続け、カオスとなってしまっている。
そして受け入れるキャパもスピードも追いつかなくなり、二項対立や、金儲けなどのベクトルが生まれてしまった。
バブルの辺りはこの流れがモロに出てるというか。
どうしても予想、感想の域を抜けられませんが、どうでしょうか。

HIROMITIHIROMITI 2016/07/26 04:16 稲葉さまへ

これは、宗教を持っているか否かの違いも大きいのでしょうね。
宗教は戒律の上に成り立っているから、どうしても自己規制してしまう。
しかし基本的に無宗教の日本人は、自己規制しないでなんでも受け入れてしまう。それほどに受動的で「支配されてしまう」民族なのだと思います。
問題は、支配されても「洗脳」されはしない、ということにあるのでしょう。洗脳されないから、受け入れたものをどんどん自分流にアレンジし展開してゆくことができる。バブルのころはもう、お金とか「幸せ」という概念にに洗脳されて、日本人が「一体化」していたのかもしれない。一体化して盛り上がっていた。それは、カオス=祭りのようで、そうはなかった。おっしゃる通り何もかも「二項対立」で片付けて一体化=結束していた。お金があるかどうか、幸せかどうか、正義かどうか、未来に向かって生き延びることができるかどうか等々、この流れというか余韻は、きっと今も続いているのでしょうね。
「なるようになる」という「カオス」を生きることができなくなってしまった。
お金がなくても、頭が悪くても、体が弱くても、それでもそんなものたちがなんとか生きていられる世の中ではなくなってしまった。誰もが、お金がないと生きてゆけない、頭が悪いと取り残されてしまう、正義のがわに立って生き延びよう、健康やアンチエイジングに対する信仰……もう二項対立ばかりですよね。
なにもかもいいかげんで「なるようになる」で生きていられる世の中や心ではなくなってしまっている。
僕なんかは、そりゃあもう、適当にいいかげんに「なるようになるさ」で生きていたいですよ。お金も幸せも健康も生きがいも自己のアイデンティティも、ぜんぶどうでもいいといえばいいことなのですよね。