ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2017-09-24 日本的な美意識・神道と天皇(88)

「パンとサーカス」という言葉がある。

大衆は愚かな生きものだから「パン」という物質的豊かさと「サーカス」という娯楽を求めるだけで、正義に対する信念など持っていない……というような意味らしい。

まあ、ローマ帝国はそうやって内側から腐ってゆくことによって滅びていった、という教訓として欧米で言い習わされており、今どきのこの国の気取った右翼インテリが好んで使う言葉にもなっている。そして彼らの考える「正義に対する信念」はおもに「国防意識」を指しており、目の前に中国・朝鮮からの脅威が差し迫っているというのにどうしてそのことを本気で考えようとしないのか、という。

しかしそんなことをいっても自分たちだって「パンとサーカス」が好きで、国を守ることは国の「パンとサーカス」を守ることだろう。その「国防」という意識そのものが、「パンとサーカス」に対する執着以外の何ものでもない。

自分たちだってただの俗物のくせにそういう気取ったことをいうところが、なんともうさんくさい。

そんなに「パンとサーカス」がくだらないのなら、国なんか滅びてもかまわない、といえよ。大衆なんかみんな死んでしまえ、といえよ。人類なんか滅びてしまえ、といえよ。人間が「パンとサーカス」以外の何で生きているというのか。


現在の外国人観光客がこの国の何にときめいているのかといえば、「パンとサーカス」がとても高度に洗練されたかたちで実現されていることにあるのだろう。

それはともかくとして、「パンとサーカス」の両方が満たされているに越したことははないが、どちらかひとつしか得られないというか、ほんとうにせっぱつまったときに人はどちらを選ぶだろう。

これは、かんたんだ。

食い物が得られなくても、娯楽としての快楽は体験することができる。人間の集団には、食い物以前に人との出会いがある。セックスがある。食い物が得られないと絶望すれば、娯楽を工夫しながら今ここをやり過ごすしかない。

貧乏人の子だくさん、などというが、貧乏人ほど「娯楽=サーカス」に対する希求が切実になる。ときには「パン」そっちのけで「サーカス」に耽溺していったりする。

この国の終戦直後の食糧難の時代をどのように乗り切ったかといえば、歌謡曲をはじめとする娯楽に耽溺してゆくことによって食糧不足に耐えていたわけで、食い物を買う金を削ってでも娼婦を買っていた男たちもたくさんいた。その「サーカス」を希求するダイナミズムこそ戦後復興の基礎になった。そのとき人々は、争って食いものを奪い合うことよりも、食い物不足に耐えながら、基本的に人と人がときめき合うという娯楽に対する希求を共有しながら連携していった。これは最近の大震災のときも同じで、「絆」などといいながらボランティア活動をはじめとする人と人のときめき合う関係を止揚してゆくムーブメントが起きていった。それは、「パンよりもサーカス」というムーブメントだった。

まあ学問や芸術だってもちろんそうだし、スポーツやセックスや恋愛だってひとつのサーカスだろう。人は寝食を忘れて熱中できることを持っている存在なわけで、それを「サーカス」という。

日本列島の食文化は、「見栄え」ということにとてもこだわる。それは、「食う=パン」ということから逸脱して、それ自体がすでに「サーカス」になっているともいえる。

今どきの右翼の妙な国防意識よりも、大衆の「サーカス」に対する希求のほうがずっと日本列島の伝統にかなっているし、集団運営のためのずっと高度な思考にもなっている。

今どきの右翼の論者たちに、右翼でないものは抹殺してしまえ、という衝動がないといえるか?僕は、潜在意識としてそれは「ある」と思う。まあ左翼だって同じかもしれないが、とにかく、大衆は愚民だという彼らのその「自己撞着」がグロテスクだと思う。

もう一度言う。人間が「パンとサーカス」以外の何で生きているというのか?えらそげな宗教心や政治意識で生きればえらいとでもいうのか?

彼らは大衆よりも鈍感な存在で、そうした大げさなスローガンという思想信条を持たないと自分を支えられないらしく、しかしその自分を支えようとする自己撞着自体が鈍感であることの証しなのだ。

日本列島の大衆にとっての生きることは、世の「処女思春期の少女)」たちのように他愛なくときめいてゆけばいいだけであり、しかしそこにこそ日本的な美意識が高度で精緻に洗練されてきた秘密がある。


イスラム教徒はやることも考えることも何かにつけて大げさで、良くも悪くも細部のニュアンスを大事にする日本列島の国民性とは対極にあるといえる。彼らは何かに対してひどく鈍感で、日本列島の住民は良くも悪くも敏感でナイーブな民族だともいえる。

結論から先にいってしまえば、彼らは「ときめき」のない民族なのだ。だって、世界でもっとも宗教らしい宗教に縛られている人たちなのだもの。

イスラム教徒の鈍感さは、宗教がいかに人を鈍感にしてしまうかということを物語っている。

この国にも「鈍感力」といった作家がいたが、そりゃあ鈍感である方が生きやすいに決まっているさ。

宗教は人の心から「ときめき」を奪い、鈍感にしてしまう。それによって救われよりよく生きることができるとしても、それはもう、そうなのだ。砂漠の民はもう、そのように生きるしかなかった、ということだろうか。

無防備に他愛なくときめいていってしまうところが無宗教の日本人の弱点だし、ユダヤ教イスラム教は、他者や異民族に対する徹底的な警戒心の上に成り立っている。

キリスト教だってユダヤ教から派生したきた宗教であるわけだが、ヨーロッパ人は、しかしときに日本人以上に他愛なく純粋だったりする。そういういわば「ピュア」な人が自己主張が強いヨーロッパで生きるのはとてもしんどいことかもしれないが、それでもそういう人が生まれてきてしてしまう文化土壌がヨーロッパにはあるし、誰もがそういう部分を持っている。イギリス人やフランス人はほんとにしたたかで高慢ちきな人たちだと思うが、それでも日本列島の文化の無防備な他愛なさや混沌としたあいまいさをいちばんよく理解してくれるるのも彼らなのだ。そこに、ヨーロッパ文化の奥深いところがあるのだろうか。彼らは、キリスト教文化に冒されているという以前に、他愛ないときめきを生きたネアンデルタール人の末裔でもある。


差別するつもりはないけど、世界中がイスラム教徒ばかりになってしまっていいかといえば、それはそれで世も末だと思わなくもない。人間というのはそんなものでもないだろうと思う。とうぜん彼らはそうなればいいと思っているのだろうが、そうとは思わない人間だってたくさんいるわけだし、イスラム教徒イスラム教放棄する日だって来るかもしれないし、イスラム教徒の中にも非イスラム的な部分がある。。

イスラム教徒の女がブルカという布を被る習慣はだんだん後退してきているし、イラン映画とかを見れば、女たちが男に支配され隷属する世の中なんかいやだと思うような状況になってきてもいるらしい。

イスラム教徒が増えつつ、イスラム教自体の宗教的な内容が衰弱してゆく、ということが起きないとも限らない。

人類社会はどのようなかたちになってゆくのだろう。

イスラム教は困ったものだが、イスラム教よりキリスト教のほうがすぐれているというようなことはいえない。

まあ、宗教的な救済をありがたがったり自慢したりしているかぎり、キリスト教イスラム教も仏教も天理教もスピリチュアルも安泰なのかもしれない。しかしそれでも、知性や感性が豊かだとかピュアだとか敏感だとかセックスアピールがあるとかのこの世の魅力的な人は、宗教的な傾向が希薄な人のほうに多い。たとえ信仰を持っていたとしても、誰だって、宗教から解き放たれたところで、魅力的な振る舞いや表情になっている。

アインシュタインユダヤ人だが、敬虔なユダヤ教徒だったわけではない。敬虔なユダヤ教徒キリスト教徒でいたら、大科学者にはなれない。

アメリカはキリスト教原理主義の国で、無神論者であることをカミングアウトしにくい社会状況があるのだが、アメリカの本格的な科学者や芸術家のほとんどがじつは無神論者であるらしい。もちろん原理主義者のいかがわしい科学者もたくさんいるわけだが、その研究はもう、科学というよりたんなる宗教にすぎない。欧米には「錬金術」の伝統があるから、そういうことも成り立つのだろうか。彼らの社会では、黒を白と言いくるめることも、ひとつの正義であったり学問であったりするわけで、子供のうちから「ディベート」というかたちでそういう自己主張のトレーニングをしている。つまり、宗教に汚染された集団においてはそういう生態が発達する、ということだ。

しかし黒を白と言いくるめる自己主張というならイスラム教ユダヤ教のほうがもっと本格的で過激で、だから彼らは商売がうまいし、キリスト教徒イスラム教に改宗させられることはあってもその逆はない、という現在の状況がある。


ヨーロッパにはユダヤ教徒差別弾圧するという歴史の伝統があるわけだが、ユダヤ教と同根であるイスラム教徒に対しても同じような感情や態度になるという情況にだんだんなってきている。そして差別弾圧すればイスラム教徒自己主張がおさまるかといえば、今ところは逆効果で、かえってイスラム教に侵蝕されてきている。

過激派でなくとも、とにかくイスラム教は、もっとも本格的な宗教になっているというその宗教的な性格そのものがやっかいなのだ。キリスト教の神もユダヤ教の神もイスラム教の神もみな同じで、イスラム教徒ほど深く強く神を信じているものたちはいない。

この世の中が宗教者ばかりになってしまったら、何もかも黒を白と言いくるめられてしまう。それでいいのだろうか。

つまり、黒を白と言いくるめる能力を持った人間が天下の世の中になる。彼らは「正義=神の裁き」の名のもとに黒を白と言いくるめる。今どきの右翼も左翼も、まあほとんどがそういう人種であり、それは、とても宗教的な態度なのだ。

この先の世界は、ますます宗教的になってゆくのだろうか。それとも非宗教的になってゆくのだろうか。

この世界のどんな宗教も、イスラム教徒を懐柔・改宗させてしまうような魅力は持っていない。もしそれができるとしたら、「他愛ないときめき」から生まれてくる非宗教的な集団性の文化によってであろう。

個人だろうと集団だろうと、魅力的じゃなければ誰もときめかない。そんなことはあたりまえすぎるくらいあたりまえのことで、正しければときめいてもらえるというような、そんな虫のいいことを望んでも何もはじまらない。正しいといったって、黒を白と言いくるめているだけなのだ。

憲法第九条を破棄せよという正義・正論が、守るべきだという愚直な論理よりも優れているという根拠などない。それだって黒を白だと言いくるめているだけであり、処女のように「混沌」を生きようとするのが伝統である日本人には、正しいことなどどこにもない、という感慨がある。そのくるおしさとなやましさを生きながら日本人は、日本的な美意識を洗練・成熟させてきた。


2017-09-21 処女の気むずかしさと憂鬱・神道と天皇(87)

今をときめく「ベビーメタル」の3人の娘は、拍子抜けするくらいメタルロックのおどろおどろした呪術的な雰囲気はなく、これじゃあAKBと大した違いはない、とさえ思う。

それでもAKB以上に世界中で大うけしている。一流の演奏者による高度なメタルロックの重低音をバックにしながら、オーディションによる選りすぐりの美少女たちは「かわいい」の表現に徹している。AKBとのいちばんの違いは、ここには「処女の気むずかしさ」がある、ということだろうか。AKBだって海外でも人気があるのだろうが、彼女らほどではない。

もちろんそこには音楽業界の大人たちのしたたかな商業戦略があるわけだが、それはそれとして、処女のかわいさの表現もここまで来たか、という感もある。処女のかわいさは「気むずかしさ」に極まる、ということだろうか。

処女宗教性ということなら、ヨーロッパにはマリア信仰がある。浮世離れしていなければ、処女じゃない。そのことの舞台装置としては、メタルロックがぴったりかもしれない。

その舞台は、宗教的でありながら、宗教を超えている。

異次元の世界に超出してゆくカタルシスは、けっして宗教によってではなく、宗教を超えてゆくことによってはじめて体験される。

宗教的な恍惚とはつまるところ自我に閉じ込められる体験であり、そこから解き放たれたところにこそ「異次元の世界」がある。

そして「処女の気むずかしさ」こそが、人々を「異次元の世界」に誘ってくれる。

とにかく、世界中でロリキャラがもてはやされるようになってきており、ロリキャラは日本列島の娘がいちばんサマになるらしい。欧米の娘は体格がすでに大人びているし、自我を漂わせてしまっている。

外国人は、日本人が漂わせている自我の薄い気配に感動する。

近代合理主義の自我主体性信仰が破綻しはじめている時代なのだ。

人々は、政治や宗教に縛られつつ、政治や宗教に飽き飽きしてきてもいる。


一般的に語られている、その、宗教に対する認識は違う。

その、神道に対する認識は違う。

その、天皇に対する認識は違う。

世の右翼も左翼も、自分では正義・正論を語っているつもりでいい気になっているが、正義・正論にとらわれているというそのこと自体が人間としてブサイクなのだ。

宗教であれ神道であれ天皇であれ、その基礎=前提となる認識=定義を世間で合意されている通りに受け入れ、そこから考えはじめるのならここでの論考ももっとスムーズに進められるのだが、ここではその基礎となる認識=定義そのものが信じられない。それをひっくり返してそこから進みたいのだが、これがそうかんたんにはいかない。何をいっても「これで人に通じるのだろうか?」という心もとなさばかりが先に立つ。

まあ、世の右翼や左翼や宗教者たちのような「信念を貫く」という態度はとれそうもない。その「信念を貫く」という態度そのものがひとつの迷妄にちがいなく、そんなものはただのオカルトだと思っている。

信念なんかないのだけれど、ひとまず戦略的確信犯的に「それは違う」といってしまうことは必要かもしれない、とこのごろ思いはじめている。

それにしてもこの世の中には、なぜこんなにも「それは違う」と思えることに溢れているのだろう。もしかしたら真実なんかどうでもよくて、「こういうことにしておこう」と勝手に自分たちの都合がいいように決めつけて世の中が動いているのかもしれない。

文明社会は、人を思考停止に陥らせる仕組みを持っている。もしかしたらわれわれ現代人は、原始人や古代人よりもっと迷信深いのかもしれない。

政治なんかただの呪術で、人類史においては、呪術が発展して政治になった。原初の王は、呪術の祭司だった。

文明社会は宗教=呪術とともに生まれてきた。宗教=呪術は、政治家の本能のようなものだ。いやもう、右翼であれ左翼であれ、政治を語りたがるインテリの思考においても、宗教=呪術の本能ははたらいている。

べつに政治なんか無用のものだというつもりもないし、文明社会は政治なしには成り立たない仕組みになっているのだろうが、宗教であれ政治であれ、それが崇高なものだとはさらさら思わない。

宗教家政治家に崇高な仕事をしているかのような気取った自意識を振りまかれると、うんざりする。

この世に崇高な仕事などというものはない。高潔な宗教家だろうと、こずるい詐欺師だろうと、夢中になってやればどちらがどうということもない。人は何かに夢中になる生きものだ、という事実があるだけだろう。つまり人は、自分を忘れて何かに夢中にさせられてしまう。それは、「自分」なんか「からっぽ」の存在にすぎない、ということだ。


この国の職人仕事のレベルは高い、という評価があるとすれば、それだけ夢中になって仕事をしているというだけで、日本人の知能指数は高いとか、そういうことではない。その職人仕事のレベルは、その職人を取り巻く世界の伝統の蓄積とその職人の夢中になる態度との相乗効果によって引き上げられてゆく。そのとき職人は、その伝統の蓄積に憑依している。日本列島の職人仕事は、夢中になり方も含めて伝統のレベルが高いのであって、職人の個人的な能力そのものは、世界中どこでもとくに大きな差はない。そこのところにおいては、みな同じ人間なのだ。どこの国でも素質がある人もいればない人もいる。

日本人のレベルが高いのではない。日本列島の伝統のレベルが高いのだ。

同様に、宗教者がやっかいな信仰に凝り固まっているといっても、その人の内面がどうのという以前に、宗教がそのようにしてしまう力を持っている。

厳密な意味での「内面」などというものはない。あるのは自分を取り巻く世界の空気というか幻想空間だけであり、それはもう人類の歴史と言い換えてもいいし、宇宙の歴史だともいえる。そういう自分の外の世界によって自分の「内面」がつくられている。固有の内面などというものはない。内面は「からっぽ」なのだ。われわれは人類の歴史を生きているのであって、自分で自分の内面をつくっているのではない。自分の内面をつくっている自分、などというものはない。そういう「自分」などないから、「自分の内面」がつくられる。そういう「自分」があるというのなら、「自分の内面」をつくる「自分」とはいったいどんな「内面」を持っているのか、ということになってしまう。

われわれが死んでゆくとき、「自分の内面」は「人類の歴史」に溶けてゆくのだろう。

われわれは「からっぽの自分」を生きているからこそ、「内面」を持つことができる。

「自分」の本質は、「からっぽ」であることにある。「自分」なんか「からっぽ」にして夢中になってゆくから、「内面」を持つことができる。まあ乳幼児は、そうやってこの社会の歴史としての「言葉」を覚えてゆく。そうやって「内面」を形成してゆく。

われわれの心は、自分をからっぽにしてこの世界に「憑依=反応」してゆく。であれば、「自分」に対する執着が強いものほど鈍感だということになる。彼は、人類の歴史を内面化することに失敗している。そうやってこの世界にうまく反応してゆくことができないまま心を病んでゆくのかもしれない。


「神(ゴッド)」とはこの世界をつくった存在であるのだから、この世界が存在する前にすでに存在していたことになる。心の中に神との関係を持っているものは、それだけでこの生が完結してしまって、自分の外の環境世界に反応できなくなってゆく。

心の自然なはたらきにおいては、世界は出会うべき対象であって、すでに存在する対象ではない。心は、世界と出会って反応してゆく。

それに対して心の中に神との関係を持っているものは、世界や他者に対する反応を喪失したまま、世界や他者を神の裁きにしたがって支配してゆこうとする。そしてこれは宗教者だけではなく、文明社会で生きるものの普遍的心理であり、文明社会とはもともと宗教の上に成り立っている社会なのだ。

そうして、支配欲は人間の本能だ、という議論も生まれてくる。共同体の政治権力は民衆を支配し、大人たちは子供を支配してゆく。そうやって誰もが「神の裁き」を代行している。

文明人は、宗教を否定できない。なんといってもこの世界の宗教は甘やかされ過ぎている。キリスト教や仏教ならいいというものでもなない。どんな宗教だろうと、新興のいかがわしいカルト宗教以上でも以下でも以外でもないのだ。彼らは、世界や他者に対する反応を喪失しつつ世界や他者を支配しようとしてゆく。

しかし世の中はややこしい。たとえば「自然を守れ」ということ自体が自然を支配することであり、人類の文明がシロクマやクジラを滅ぼそうと、草食動物の群れが草原を砂漠に変えてしまおうと、人類だってひとまず自然の一部なのだから同じことなのだ。

残念ながら今どきは、文明社会の「主体性能動性」に対する信仰が大手を振ってまかり通っている。「近代合理主義」と言い換えてもよいのだろうか。その自意識過剰の論理。「自分」なんか「からっぽ」だということが認めてもらえない世の中だ。「自分」は「環境世界=人類の歴史=宇宙の歴史」によってつくられるのであって、「自分をつくる自分」なんか「からっぽ」であるのだし、自分をからっぽにして世界や他者の輝きにときめいてゆくということができないから心を病む。


宗教とは心を病んだまま生きてゆく装置であり、みんなが病んでいる世の中なら、病んだほうが生きやすい。まあ文明社会は、そういう構造になっている。

そしてそれでも人は、「自分をからっぽにして世界の輝きにときめいてゆくピュアな心」に対する「遠い憧れ」を手放すこともできない。なぜならそこにこそ人間性の自然があるわけで、人は、人間性の自然から逸脱しつつ、人間性の自然に回帰してゆこうともしている。

かんたんにいえば、生きているのは汚れてゆくことで、世の中は汚れてゆくことに居直った大人たちの思考にリードされて動いているわけだが、それでも誰もが心の底では「ピュアな心」に対する「遠い憧れ」を抱いて生きている、ということだ。

そういう「遠い憧れ」を失ったらときめき感動するという体験はできないし、その体験を失って心を病んでゆく。

しっかり自分を見つめて正しい自分を構築する……というようなことに頑張っても心の病の治癒にはならない。自分なんか「からっぽ」にして他愛なくときめいてゆけばいいだけのことさ。自分を知ることは自分を忘れることであり、すなわち自分が「からっぽ」であるのを知ることだ。

今どきの右翼や左翼が「正義・正論」を振りかざして政治を語るのは汚れていることに居直っている態度であり、今やそういう病理が庶民の大人たちの世界にも蔓延してしまっている。それはまあ、戦後の欧米的な民主主義や近代合理主義の洗礼によるのだろうが、そうした病理が蔓延してしまっているがゆえにそれにうんざりしている子供や若者たちもまた増えてきている。彼らは団塊世代ほど大人たちに反抗しないが、団塊世代よりももっと深く大人たちに幻滅している。

そりゃあ若者だっていろいろだが、彼らのあいだから「かわいい」の文化が生まれてきたということは、それだけでもう大人たちに対する幻滅をあらわしている。

「かわいい」の文化の中心は、ロリータ趣味(処女性)の美学にある。そしてこれこそが日本列島の文化の伝統であり、その他愛なくときめいてゆく処女性は、非宗教的なコンセプトの上に成り立っている。


日本列島は、何はともあれ先進文明国の中でもっとも非宗教的非政治的な国であり、その性格とともに処女性の文化が育ってきた。いつまでたっても外交交渉がへたくそで、憲法第九条もぐずぐずといまだに破棄できないでいる、この処女性という限界こそ日本列島の可能性であり、人類の希望でもある。

宗教的非政治的な日本列島が滅びたら、人類に残されている人間性の自然が滅びる。

現在のこの国に外国人観光客が増え続けているのは、たとえ買いかぶりにしても、彼らには、ここに来れば人類の可能性を見つけることができる、という思いもあるに違いない。

列車の正確な時間運行とか、多様な食文化があるとか、サービスの洗練度が高いとか、心地よく穏やかな自然があるとか、宗教的でありつつ宗教に冒されていない寺社のたたずまいとか、外国人はそこに、もっともプリミティブであると同時もっとも未来的な人間性であるところの「処女性」を見ている。

この世界の構造を解き明かしたつもりの宗教による妙な悟りなんかより、何もわからないまま他愛なくときめいてゆく「処女性」のほうがずっと人類の希望になりうる。

まったく、山手線や地下鉄が二分遅れただけで「遅延」になってしまうなんて、「処女の気むずかしさ」そのものではないか。その処女性によって、世界のハイテク技術をリードしているのだし、清潔で治安がよい街づくりを可能にしている。それは、宗教とは対極にあるコンセプトなのだ。

処女思春期の少女)のわがままな気むずかしさ……彼女らは、この生やこの世界の「混沌」を生きている。彼女らの生や世界は、神が定めた整合性(=秩序)を持っていない。

日本列島は信仰心があいまいだからこそ、電車のルーズな時間運行や不潔な町の景色を嫌う。それは、「規律正しい」というのとは違う。それは、細部のあれこれの「まぎれ」を徹底的に微調整しているのであり、そうやって「混沌」の中に身を投じてゆくことの上に成り立っているのだ。

神の秩序を信じているから、電車の10分や20分の遅れなど気にしない。遅れたって世界の秩序は神が保証してくれている。思考や行動がルーズな国ほど宗教が強く機能しているという傾向がある。

たとえば陽気なラテンの南ヨーロッパと陰鬱な環境の北ヨーロッパとどちらに宗教色が濃いかといえば南であり、「神は死んだ」という言説はつねにドイツをはじめとする北の哲学者によって提唱されてきた。

陽気で楽天的であることが悪いわけではもちろんないが、そのために集団の連携がいいかげんになるということもある。彼らは神を当てにし過ぎているし、日本人は神をほとんど信じていない。

日本文化の高い洗練度は、「混沌」を生きる処女の気むずかしさと憂鬱の上に成り立っている。

北ヨーロッパの先進国の人間なんか高慢でいけ好かないところも多いが、あんがい彼らこそ日本文化のよき理解者だったりする。彼らには、宗教を当てにし過ぎることに対する反省がある。

処女の気むずかしさと憂鬱こそ人類の希望なのだ。宗教も、えらそげな右翼の正義・正論の政治談議も、どうでもいい。


稲葉稲葉 2017/09/22 04:32 「枠を作ってしまう」ことに現代(文明社会)の、ときめかせない仕組みが隠れていそうですね。
「良い社会」だの、「悪い社会」だの。もとを辿ればメソポタミアの史上最初の「国家」という枠。
「違い」を「二項」に分けてしまうから優劣などに繋がる。
「果ての人類」が、ときめくのに長けているのは、「違い」を織り交ぜられる能力があるとでも言いますか。
特に日本は、国境も物理的に分かりにくいし、そんな意識を持ちにくい立地というのも影響してるかもしれませんね。

HIROMITIHIROMITI 2017/09/24 17:18 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

これはもう、あなたの仕事とも関係があるかもしれないですね。
大人たちは、集団を正義・正論の秩序=枠に閉じ込めてしまおうとする。
集団なんか誰もがときめき合っていることの上に成り立っているのがいちばんなのだろうが、集団=枠の論理を先行させて子供をそこに閉じ込めてしまおうとする。
現代の文明社会そのものが、正義・正論を競い合って集団の論理を先行させる仕組みになってしまっている。
たぶん明治維新で、西洋に追いつくために、かなり強引に「国家」という枠を確立しようとしていったのでしょうね。
もちろん人類史で最初に国家という枠をつくったのはメソポタミア文明だし、今なおイスラムという世界でいちばん強固な枠=縛りを持った宗教社会になっている。
そうなんですよね。海があるだけで国境線のない日本列島は、もともと枠をつくらない流儀で歴史を歩んできたのですよね。
なのに明治以後は、イスラムのようなみんなが枠に縛られている社会になってしまい、ほんらいの日本的な集団性を見失っていったのだろうと思えます。
いや、それでもいつの時代であれ日本列島は日本列島なのだけれど、いきなり太平洋戦争の暗黒時代になったはずもなく、明治維新からだんだん病んでいったのでしょうね。

2017-09-19 きよきあかきこころ・神道と天皇(86)

左翼も右翼も好きじゃない。

えらそうに正義・正論を振りかざされても、世の中は彼らのいう通りになるとはかぎらないし、世の中を自分の思う通りにしようとする、その権力志向のさまが鬱陶しい。日本人はいつからそんな自意識過剰の民族になってしまったのか、と思うばかりだ。

よい世の中をつくるといっても、彼らのようなグロテスクな人間ばかりが集まっても、ろくな世の中になるはずがない。彼らと出会って、いったい誰が「この世の中は捨てたものじゃない」と思うのか。

よい世の中をつくることなんかできない。なぜならよい世の中をつくろうとすること自体が、自意識過剰のいやらしい人間のすることだからだ。

よい世の中をつくるのではない、よい世の中に「なる」だけだ。なぜならよい世の中は、すでによい世の中なのだから、誰もよい世の中をつくろうとなんかしていない。

よい世の中をつくろうとするものは、「今ここ」の世の中を受け入れることはできない。よい世の中になっても、よい世の中を受け入れることはできない。

よい世の中をつくろうとするのはひとつの支配欲であり、そういう人間ばかりの世の中がよい世の中であるはずがない。

よい世の中とは、よい世の中をつくろうとするものがいない世の中のことだ。

世の中は、よい世の中をつくろうとしてどんどん歪んでゆく。よい世の中をつくるためには邪魔なものは排除しなければならないという発想も生まれてくるし、よい世の中をつくるためというスローガンのもとで個人が抑圧されるという事態もめずらしくない。右傾化、というのはそういうことだろうか。移民・難民の排斥とか、この国でも関東大震災のときに在日朝鮮人を集団でリンチするという事件があった。また、お国のためには特攻隊で死ね、という命令が正当化されている時代があった。

はじめに世の中があって、そのために個人あるのか。

人は人に献身する存在であって、世の中に献身するということが先に立つと、ろくなことはない。よく知らないが、JICAとかNGOとか、貧しい国を助けるといっても、基本的には人に献身しようとする心意気でなされているのだろう。

帝国主義だろうと共産主義だろうと、国家主義はいずれ破綻するというのは歴史の教訓だ。そしてなぜ国家主義かといえば、自分を正当化するためのよりどころとして国家という枠組みが必要になる、ということ。それはもう、宗教者が神の裁きや教団という枠組みに潜り込んでゆくのと同じだ。

自意識の強いものたちは、潜り込んでゆくことができる枠組みを欲しがっている。ひきこもりが自分の部屋に閉じこもるように、国家や宗教という枠組みに潜り込んでゆく。国家の正当性(=アイデンティティ)が、自分の正当性(=アイデンティティ)になる。

ナショナリズム自意識を棲み家としている。右翼だろうと左翼だろうと、つまるところは自意識過剰ナショナリストであり、それはまた精神を病んだ引きこもりとも宗教者とも何ら変わるところはない。みんな「自意識過剰」なのだ。


僕は、「分類する」ということは、あまり趣味ではない。なぜならそれは、そうやってひとまず納得し、思考停止しているだけだからだ。

たとえば古人類学では、こんなことをいっている。もともと人類は20以上の種に分かれていったが、最終的にはホモ・サピエンスだけ生き残った。だからホモ・サピエンスだけが人類種で、ネアンデルタール人をはじめとするほかの種は人類以外の種である……と。

何をバカなことをいっているのだろうと思う。

「20以上の種」といっても、オタクの学者たちが、目くそ鼻くその骨格の違いをあげつらって別の種だと勝手に分類しているだけで、そのていどの違いなど、男と女の骨格の違いよりもずっと些細なことなのだ。20だろうと30だろうと、みんな同じ人類だったに決まっているさ。同じ人類でも、環境や食いものの違いが骨格の違いになって現れただけだろう。ピグミー族とマサイ族だって同じホモ・サピエンスなのに、どうしてそんな目くそ鼻くその違いだけで別々の種にしてしまわないといけないのか。こだわるところが違うだろうという話だ。それは、環境や生態の違いであって、種の違いではない。

最新のゲノム遺伝子解析の結果によれば、現在のアフリカ以外のすべての人類にネアンデルタール人遺伝子が数パーセント混じっているらしいのだが、これは、残りの90パーセント以上はネアンデルタール人遺伝子ではないということを意味するのではない。あえて乱暴に言ってしまえば、もともと90パーセント以上はネアンデルタール人ホモ・サピエンスも同じだったということであり、つまり、現在のアフリカ以外の人類はみなネアンデルタール人そのままの末裔なのであり、状況証拠としてしてはそうでないとつじつまが合わないのだ。

現在のアフリカだけにはネアンデルタール人遺伝子が混じっていない純粋なホモ・サピエンスがたくさんいるわけだが、そんな彼らが爆発的に人口を増やしながら世界中に散らばっていったのなら、彼らと同じ純粋ホモ・サピエンスも現在の世界中にいくらでもいるはずだろう。

アフリカ人ほど拡散しない生態の民族もいないわけで、だから、ピグミー族とマサイ族が同じアフリカのすぐそばで暮らしながら、まったく没交渉のままあんなにも大きな身体形質の違いになってしまったのだし、このことに照らし合わせるなら、数万年前のアフリカ人は何処にも拡散していっていない、と考えるしかない。彼らは、遺伝子配列がホモ・サピエンスとして完成すればするほど、ますます拡散しない生態になっていったのだ。そうして、その後の世界の文明の歴史からどんどん取り残されていった。

というわけで、原初の人類は20以上の種に分かれていったというのなら、現在の高身長のマサイ族と低身長のピグミー族が別の種であることをきちんと説明していただきたいものだ。


話は横道にそれたが、とにかく、むやみに政治のことに執着する右翼も左翼も引きこもりもご立派な宗教者も発達障害アスペルガー統合失調症も今どき流行りの迷惑老人も、「自意識過剰自己愛」ということにおいてはみな同じなのだ。そしてたいていの場合、自分は人よりましな人間だとうぬぼれているし、うぬぼれるほどにはまわりの人から好かれても尊敬されてもいない。

今どきは、誰もがみずからの自己愛正当化したがっているというか、見て見ぬふりをしたがっているというか、そのようにして自己愛が許される社会になっているから、自己愛の強いものほど社会の表面にしゃしゃり出てくる傾向があるし、自己愛(自己撞着)に閉じ込められて精神を病んだりするものも少なくない。

たとえば、ネトウヨと呼ばれている若者たちなんか、ただの精神を病んでいるだけの嫌われ者なのだろうが、マスコミの表舞台で活躍する右翼知識人だって増えてきているし、政治の世界でも陰に陽に大きな勢力をつくっている。

彼らは人からちやほやされたくてたまらない人種で、だからどんなに見え透いたお世辞でもだらしなく喜ぶし、同時にどんなささいな悪評や反論に対しても、必要以上に傷ついたり怒り狂ったり憎んだりする。まあ右翼でも左翼でも、自己撞着の強い人間は、共通してそういう傾向を持っている。宗教者だって、そうやって神に隷属しながらよろこんだり、他者に対しては、自分は神との関係のもとにあるというそのことに優越感を抱いて支配しにかかる。彼らの中には、傲慢な支配欲と、みずから進んで何ものかの奴隷になりたがる卑屈な欲望とが共存している。

誰もがそうした支配欲と奴隷根性を併せ持つことによって、共同体がもっとも過激に機能することができるのだろう。そのお手本がイスラム社会で、この国の右翼だって同じような精神構造を持っている。ただこの国の社会は、イスラム社会ほどにはそれを徹底させることができるだけの仕組みになっていない。

つまりこの国には、イスラム社会ほど強力な神の支配も救済もない。


天皇処女性。

清明心……やまとことばで「きよきあかきこころ」というのだろうか。この国には神の裁きも救いもないが、そういうピュアな心に対する憧れというか信仰のようなものが歴史の無意識として深く息づいており、それが特攻隊の「大和魂=散華の精神」のよりどころになっていた。

この国にはイスラム社会のような「神の全能性」に対する信仰はないが、「かみ」の「きよきあかきこころ=処女性」に対する遠い憧れが歴史の無意識として社会を覆っている。

日本人は、誰もが「きよきあかきこころ」を持っている、というのではない、誰もが「きよきあかきこころ」に対する遠い憧れを抱いている、ということだ。

そして「きよきあかきこころ」の体現者=形代として「天皇」を祀り上げてきた。

日本人が「きよきあかきこころ」の持ち主だというのではない。誰の中にもそういう心に対する遠い憧れがあって、それが歴史の無意識としてこの社会を覆う「空気」になっている、というだけのこと。そしてその「遠い憧れ」は、日本人でなくても、宗教という覆いさえ取り除けば、世界中の誰の中にもある。それはおそらく、普遍的な人の心の属性なのだ。

まわりの国を警戒しなければならないというのは世界の常識であるが、他国に対してであれ他人に対してであれ、いっさいの警戒もなしに他愛なく無防備な心のままに生きられたらどんなにいいだろうという思いだって、誰の中にもあるだろう。まあ、そういう思いに引きずられて原始人は世界の隅々まで拡散していったともいえる。

警戒するのが正義・正論に決まっているが、それでも人の心の底には他愛なく無防備な心のままに生きたいという思いが、やみがたく息づいている。

正義・正論を振りかざせばえらいというわけではないし、正義・正論の通りに歴史が動いてゆくわけでもない。

正義・正論という神の裁き。神の裁きに従えば正義・正論で生きられる。しかし、正義・正論の通りに生きたいと願うのが人の心の本質であるのではない。人の心は、そんなものよりもっと高貴な「きよきあかきこころ」に対する遠い憧れがある。

だから、右翼であれ左翼であれ、彼らがどれほど正義・正論を振りかざそうと、彼らがうぬぼれるほどには、彼らが人から好かれることも尊敬されることもない。

この生やこの社会が存続するための正義・正論をどんなに振りかざそうと、人は、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」のこの世界や他者にときめき感動してゆく心の動きを持っている。ときめき感動してゆく心を肯定するなら、この生やこの社会の存続のための正義・正論をまるごと肯定することはできない。どれほど肯定しても、それでも人の心の底には「いつ死んでもかまわない」という感慨が息づいているし、その感慨とともに人類の知能や文化は進化発展してきたのだ。

正義・正論をいい気になって振りかざしてばかりいるなんて、人間としてブサイクだ。

この社会の存続のためにというコンセプトで憲法第九条のことをどうのこうのといっても、人の心の底には「いつ死んでもかまわない」という感慨が疼いているのであり、この社会この国どころか、人類滅亡というそのこと自体を、じつは誰もが心の底では不幸なことだとは思っていない。しょうがないではないか。人類の知能や文化はその「覚悟」とともに進化発展してきたのだし、その「覚悟」なしには、知性も感性も人から好かれる人間的な魅力も育たない。

三島由紀夫は「武士道とは<きよきあかきこころ>である」というようなことをいつもいっていたし、自分がその心の持ち主のつもりでもいた。まったく、その心根のなんとブサイクなことか。そんな自意識過剰武士道であるのなら、武士道なんかドブに捨ててしまってもかまわない。

生きているのは汚れてゆくことであり、誰も「きよきあかきこころ」なんか持つことはできない。でも「きよきあかきあかきこころ」に対する遠い憧れなしに生きることもまたできない。そして、「汚れている」という自覚のないものにその「遠い憧れ」を持つことはできないし、その自覚は誰の中にもある。


稲葉稲葉 2017/09/20 09:25 主観的に「良い社会」を作ろうとすると、当然それにそぐわない者には「悪い社会」となる。二項対立を産んでしまう。
「良い」か「悪い」かなんて個人の問題で、それぞれが「感動」や「ときめき」を感じられれば済みますよね。
「能動的」に人に干渉する人って、やはり動物的ですよね。まさに弱肉強食の二項対立。

HIROMITIHIROMITI 2017/09/22 02:00 稲葉さまへ
コメントありがとうございます。

現在のこの国が「よい社会」になっているのかどうかと問えば、きっとおおむね「よい社会」なのでしょうね。
そりゃあよその国に比べたら、治安がよくて街は清潔で、たいていの外国人観光客はうらやむ。
じゃあ日本人は「よい社会をつくろう」というスローガンで歴史を歩んできたかといえば、たぶんそうじゃない。社会なんか「憂き世」すなわち「生きにくい世の中だ」と思うばかりで、社会をどうこうしようとする気持なんかなかった。
日本列島の街づくりなんかけっきょくのところなりゆきまかせで、東京なんか、そのカオスであるところが面白い、と外国人はいう。
カオスなのに、治安がよくて清潔にできている。
それはきっと、「よい社会をつくろう」というスローガンなんか持たずに、ただもう人と人が助け合い連携してゆこうとしてきた結果なのでしょう。日本列島の伝統には、そういう無意識の集団性がはたらいてきた。
よい社会をつくろうというスローガンが大手を振ってのさばる時に戦争が起こるし、社会の内部もどんどん弱肉強食化してゆく。

人は、集団という枠の中に入ると、人に干渉したがるようになってくる。集団という枠の中にいると、必ず何人かの干渉したがる人間がいて、ほんとにいやになります。彼らは、よい集団=社会をつくろうとしてどんどん人に干渉するようになってゆく。
そんなよけいなことは思わずに、目の前の人とときめき合い連携してゆけばいいだけなのに、そういうときめき合いを持てない人にかぎって、「よい集団=社会をつくるため」というスローガンを振りかざしたがる。それはもう、国づくりだろうと、小さな集団のチームづくりだろうと同じなのでしょうね。
ブサイクな人間ほど人に干渉したがる。ほんとにうんざりです。
そうして誰もが、いやな世の中だなあ、生きにくい世の中だなあ、と思う。
でも、そういう干渉したがる人間は人に好かれないから、けっきょく彼らの思う通りのチームや国にはならない。
僕はほんとに、いやな人間ばかりのいやな世の中だなあ、とうんざりすることばかりなのだけれど、人の「無意識」に対しては、それなりに他愛なく信じている部分もあります。そこにおいてはみな同じようなものだろうし、そうやって誰もが無意識的になったほうが、変なスローガンを振り回すよりもずっとましな町づくりやチームづくりができるのだろうと思っています。
おっしゃる通り、「二項対立」にはまり込んだ観念ほどくだらなく鬱陶しいものはないですよね。

2017-09-17 高貴なもの・神道と天皇(85)

近ごろのマスコミにおける「日本万歳」のブームだって、多くの日本人が「自分は正しい」という思い込みに酔いたがっている、ということだろうか。

日本人はいつから自己批判できない民族になってしまったのだろう……という声がどこかから聞こえてきそうだが、日本人であるかぎりそういう声がなくなることもない。どんなに右翼マスコミが「日本万歳」を煽り立てようと、その短絡的な自己陶酔に対してうんざりしたりしらけたりしている人たちだっている。

中国や韓国・朝鮮による日本批判というか日本憎悪に対する反動ということもあるのだろうか。

それに、この国の左翼知識人たちがその批判や憎悪をむやみに擁護するという風潮もいまだに続いている。

戦後民主主義によって、民衆が平気で国を背負ったような物言いをするようになった。その点においては、右翼も左翼も同じだろう。

僕は、自分が韓国や中国の人に謝罪するという理由をうまく自覚することができない。日本が侵略したといっても、韓国や中国だろうとアメリカやイギリスやフランスやロシアだろうと、国家権力なんてどこでもそういうことをしたがるものだろう。そんなことはもう、国家権力どうしで処理してもらうしかないことで、民衆の関知するところではない。こっちだって戦争に駆り出された被害者なのだし、ましてや戦後生まれのわれわれに何を思えというのか。

われわれは国家に支配されているが、国家を背負っているのではない。日本列島の民衆は伝統的にそういう感慨があるから民衆どうしの連携の文化を育ててくることができたということもあるわけで、政治意識が高いからえらいというものでもない。政治意識の高さで民度の高さが測れるのだろうか。

また、外国人旅行客がどれほど日本文化や日本人の魅力をほめようと、今どきの右翼論客たちが魅力的だということの証明にはならない。日本人が魅力的でも、日本万歳して悦に入っているものたちのその自己撞着が魅力的であるはずもない。その自画自賛の態度に日本列島の伝統があるのではない。

「日本万歳」などと自己撞着していることなんか、薄気味悪いだけで、そんな思考態度に誰が追随しようとなんかするものか。


四方を海に囲まれた日本列島の歴史は、基本的にというか、少なくとも民衆レベルでは、比べるべき異民族を意識してこなかった。だから、自分たちを優秀だとも劣っているとも思ったことはなかった。日本人とは何か、と問うことなしに歴史を歩んできた。

日本人であることを意識しないまま避けがたく日本人であるほかないのが、もっとも日本人らしい日本人なのだ。

日本人であることをとくに意識することもないが、自分たちの住む場所については、世間世間であるというそのことにおいてすでに「憂き世」であるという感慨がある。それはひとつの自己批判であり、だから、日本人のどこがすぐれているかということなどよくわからない。また日本人のどこが劣っているのかということを意識したこともない。

右翼のように日本人であることを過剰に賛美するのも、左翼のように日本人を批判して日本人を変えようとするのも、日本人としては極めて不自然な思考であるといえる。右翼は、自分は日本人だから優れていると思い、左翼は、自分は日本人よりも優れている日本人だと思っている。日本人は、いつからそんな自意識過剰の民族になってしまったのか。どちらに転んでも彼らは自己批判ができなくなってしまっているわけで、それは、自分を捨てて(=忘れて)世界や他者にときめいてゆく契機を失っている、ということを意味する。

彼らは、人間性の自然にもっとも近い他愛なくピュアであることに対するリスペクトがなさすぎる。誰だってそんな存在であることはほとんど不可能であるが、不可能である自分に対する反省・批判とそんな存在に対する憧れはあってもよいだろう。

おそらく天皇とはそんな存在であり、じっさいの天皇はどうかという以前に、とにかくそんな存在であるという前提で祀り上げている。

まあ赤ん坊がそうであるように、他愛なくピュアな人こそこの世でもっとも愛される存在であり、どんな正義よりも人はそのことにもっとも深く切実に憧れているのだ。

正義を振りかざしたからといってあなたは愛されるわけでも尊敬されるわけでもないし、正義によって歴史がつくられるわけでもない。

ドストエフスキーだって、つねに「他愛なくピュアな人」の存在を意識しながら小説を書いていた。それはもう人類の普遍的な憧れであり、ことに日本列島の文化はそこから照射されながら育ってきた。いや日本人でなくても、人はそこから照射されている存在だからこそ、たがいに自分を捨てて連携してゆくという関係を持つことができるのだ。

西洋のオーケストラやコーラスの複雑で高度な連携プレーはほんとにすごいと思えるが、バリ島のケチャという合唱の摩訶不思議なリズムとアンサンブルだって、とても人間業とは思えない。

猿が言葉を話すことができないのはそれがひとつの連携プレーだからであり、そのことを覚える契機は「知能」ではなく「他愛ないときめき」にある。人は知能が発達してから言葉を話すようになるのではなく、「他愛ないときめき」によって言葉を覚えてゆくのだ。つまり人間社会は「他愛ないときめき」の上に成り立っているわけで、そういう人間社会の「空気」が知能の未発達な赤ん坊に言葉を覚えさせてしまう。

一才の赤ん坊と大人のチンパンジーと、どちらの知能が発達しているだろうか。


人は、高い知能よりも、他愛なくピュアな心に対してこそもっとも深く切実にリスペクトしているのであり、この国の天皇制はそういう人間性の本質にかかわる問題として問い直されるべきではないだろうか。

明治天皇制なんか薩長の下級武士によってでっち上げられた歪んだというか偽物の天皇制であり、「天皇はこの国の家父長的存在である」だなんて、なにをバカなことをいっているのだろうと思う。明治政府も今どきの右翼も、この世のもっとも高貴なものは何かということを、まるでわかっていない。

本居宣長は天皇が国の家父長のような存在であるということなど何もいっていないし、彼もまた、「かみ」の徳としてのほんものの「やまとごころ」は女子供のような「他愛なくピュアな心=処女性」、すなわち「嘆き=哀惜の念」にあるといっている。まあそういう意味では、明治政府よりも天皇を政治にかかわらせなかった徳川幕府のほうが天皇の本質をずっとよく知っていたのかもしれない。

徳川幕府天皇を冷遇したが、天皇が高貴な存在であるという意識は持っていた。

天皇が神であろうとあるまいと、天皇は高貴な存在なのだ。それがやまとことばの「きみ」の意味するところであり、天皇は権力者と歴史に登場してきたのではない。人々が他愛なくときめき合いながら連携してゆくためのよりどころして祀り上げられていったのだ。だから古代以前は、インフラ整備の土木工事も、民事調停も、すべて民衆自身でやっていたのであり、それが日本列島の伝統になっている。

紛争の調停は、大陸では、「ハムラビ法典」のように国家の法によってはじめて可能になったが、日本列島では国家が生まれる前からすでに民衆自身でそのシステムをつくり上げていた。それは、国家制度が生まれる前からすでに、民衆と天皇の関係による集団のシステムが成り立っていたことを意味する。国家権力は、その関係に寄生するようにあとから生まれてきたにすぎない。

日本列島では、国家制度や宗教を持つ以前から、すでに天皇制に基づいた都市集落をいとなむシステムをつくり上げていた。これは、日本列島の集団性や天皇制を考える上でのとても大きな問題だろう。

とにかく天皇制の起源と本質は、国家制度の上に成り立っているのではない。国家制度とは無縁の都市集落のシステムとして生まれてきた。日本列島というか古代以前の奈良盆地は、国家制度が生まれてくる前からすでに天皇を中心にした洗練された都市集落のシステムを持っていた。それは、とても原始的な集団性であると同時に、もしかしたら現在の文明国家を超える集団性でもあるのかもしれない。

そのとき民衆は、天皇の「権力」を祀り上げていたのではない。あくまでこの世のもっとも美しく高貴な存在として祀り上げていたのだ。


明治政府は、天皇を「家父長」すなわち権力の象徴としての通俗的な存在に貶めた。

天皇は家父長や将軍のような「偉い」存在ではない。「高貴な」存在なのだ。

戦後の天皇のほうが、その処女性において、ずっと高貴な存在たりえている。

人の「高貴な」という感慨は、「価値意識」としてではなく、手の届かない異次元的な遠い存在であるほかないことに対するある種の「傷ましさ」というか「哀惜の念」として体験される。高貴な存在は傷ましい存在なのだ。

高貴な存在は、「価値」を持っていてはならない。人は「価値」に「執着」するのであって、「感動」するのではない。

「高貴な」ということなんかかんたんだが、価値意識があるかぎり、ピュアな感動は体験できない。

「哀惜の念」を持っているものでなければ、「高貴な」という感慨(感動)は体験できない。

今どきの右翼が抱いている天皇に対する感慨は、権力者たちがそうであるように、その「価値」に対する「執着」であって、「高貴な」というピュアな感動ではない。

まあ、宗教者だって、「神」という権威=価値に執着しているだけで、彼らにピュアで他愛ないときめきとしての感動などありえない。

それは、神を知らないものによって体験される。人の心のときめきや感動は、「神の裁き」から解き放たれたところでこそ体験される。


2017-09-15 呪術と正義と、右翼という立場・神道と天皇(84)

人はかんたんに洗脳されてしまう生きものである。

だから、宗教がこの世界からなくならない。

しかしそれと同時に、すべてを疑う生きものでもある。

なぜなら、その信じている真実が、ただ洗脳されただけのものにすぎないのなら、とうぜん疑ってみようという気持ちも生まれてくる。そうやって人類の知能は進化発展してきたのであり、猿にはそうした他愛なく洗脳されて信じてしまうこととそれを反省してもう一度疑ってみるということの振幅がない。

人は、猿よりももっと他愛ない存在なのだ。しかしそのかんたんに信じてしまう他愛なさが、人ならではの深い探求心を生む。


この前ネアンデルタール人のことについて発言しているYOUTUBEを検索していて、武田鉄矢があれこれうんちくを語っているラジオ番組があることを知った。僕は武田鉄矢なんか好きでもなんでもないのだが、まあ彼は勉強家だし、ファンもけっこういるのだろうか。しかし彼のダメなところは、受け売りばかりして自分で考えるということができないところにある。内田樹にしても、彼らは、つまらない常識を批判して考えているように見せる芸だけは達者だが、ほんとうは何も考えていない。あんがいかんたんに思考停止してしまって、よく見ると受け売りに終始しているだけで、思考の展開力というものがまるでない。

最初からつまらないと思っている説を批判することなんかかんたんで、じつは、自分がいちばん感銘を受け信じ込まされたその説をもう一度疑ってみる、ということができるところにこそ人間的な思考の本領がある。それを「進取の気性」というのだし、そこにこそ日本列島の精神風土の伝統がある。

仏教伝来のときの日本人はいったん仏教に洗脳されてしまったが、いつの間にか仏教なんかただの風俗ファッションになってしまっている。

「正義・正論」というのは、たしかに人を洗脳してしまう。しかし人の本性というか無意識は、知らず知らずそれをなし崩しにしながら超えていってしまう。

今どきの「正義・正論」を振りかざしている右翼や左翼のいうことだって、いつかは民衆の無意識という人としての本性に超えられてしまうのだろう。彼らはけっきょく、受け売りをするだけで、展開してゆく能力なんかないのだ。「正義・正論」というのはようするにそのようなもので、人は「正義・正論」というかたちで思考停止していってしまうのだ。

どんなに正義を振り回しても、歴史はその通りにおさまってゆくわけではない。

歴史は、正義が動かすのではなく、人間性の自然すなわち人々の無意識とともに動いてゆく。

この国の国民性をいったい誰がつくったというのか。このような国民になってしまうような避けがたい歴史のなりゆきがあっただけだろう。


人はかんたんに正義に洗脳されてしまうそんざいだからこそ、他人を正義で裁くスキャンダルでみんなが盛り上がる。

しかし正義なんか、ただのオカルトだ。

正義を信奉することは、ひとつの呪術的思考にほかならない。まあその「正義」という地平で思考停止してしまっている。

むやみに正義を振りかざしたがる今どきの右翼や左翼が深く思考しているとは、僕はぜんぜん思わない。

まあ政治などというものは、その本質においてひとつの呪術でありオカルトなのだ。

宗教と同様にもはやこの世界から政治制度がなくなることはないだろうが、ひとつの理想として「政治制度に縛られていない人の集団」というイメージは成り立つのではないだろうか。そういう理想をわれわれは、あれこれのプライベートな場面で体験しようとしているのではないだろうか。

世界宗教などといっても、人間性の普遍・自然の上に成り立っているから世界中に広まったのではなく、積極的に布教活動という洗脳活動をしたからだ。それだけのことさ。人間は洗脳されてしまう生きものだということに普遍・自然があるとしても、宗教そのものに普遍・自然があるのではない。

日本人ほど洗脳されやすい民族もないと思えるのに、どうしてキリスト教徒イスラム教徒は1パーセントにも満たない数しかいないのか。日本人は洗脳されやすいから、すべての宗教に洗脳されてしまう。日本人はキリスト教徒であると同時に仏教徒でもあり、ときにはイスラム教徒にもなるし、さらには宗教とはいえないような宗教である神道の世界観や死生観を歴史の無意識として持っている。

現在のこの世界に日本人という例外が存在するということは、宗教人間性の普遍・自然の上に成り立ったものではないことを証明している。


イスラム教は近未来の世界史においてどんな位置を占めることになるのだろう。移民・難民問題も含めて、これは、現在の世界の大問題だろう。とくにヨーロッパは大変だ。

宗教とはようするに神に対する信仰であり、それが「自分は正しい」という思い込み根拠になっている。自分の信仰を否定することは、神を否定することでもある。イスラム教徒ほど「自分は正しい」という思い込みの強い人たちもいない。彼らの人格がどうのというわけではなく、そういう宗教なのだ。

人が人であることの根拠においては世界中どこも違いはないのだから誰を責めるつもりもないのだけれど、宗教という観念性がそうした人間性の自然を封じ込めてしまっている事実はたしかにあるわけで、イスラム教はお騒がせでやっかいな宗教だという感想は世界中のイスラム教徒以外の人々の心にある。

戦闘的なイスラム教はだめで平和なイスラム教は素晴らしいとか、そういうことではない。平和なイスラム教のほうがなおたちが悪いともいえる。イスラム教こそもっとも宗教らしい宗教で、彼らほどしんそこ神を信じ切っている人たちもいない。それはつまり、「自分は正しい」という思い込みをけっして手放さない、ということでもある。

彼らに「それは違う」といってもぜったい通じないし、「自分は正しい」という主張を押し付けられることほどうっとうしいこともない。それは、こちらに考えることを許さないという支配欲をぶつけられていることでもある。まあ、そうやって世間の子供たちは親に反発したり屈服したりしている。

日蓮宗の人たちの「折伏」もそうとうしつこく押しつけがましいが、イスラム教徒はそれに輪をかけて徹底している。いや、キリスト教が世界中に広まったのも宣教師の布教活動によるのだし、宗教はすべて、「自分は正しい」という思い込みによる支配欲の上に成り立っている。そして彼らのその支配欲はまず、子供に向けられる。彼らは子供を徹底的に洗脳してゆくわけで、それによって宗教が人類の世界から消し難いものになっている。

宗教者ほど子供を洗脳することに熱心なものたちもいない。それは、それほど支配欲が強いということでもある。まあそれは今どきの右翼たちも同じで、森友学園の幼稚園の動画がみごとに証明している。彼らの「自分は正しい」という思い込みの強さは、いったいなんなのだろう。相手が子供であろうとなかろうと、彼らは、人を洗脳することになんの後ろめたさもない。おそらく、自分がかんたんに洗脳されてしまうたちだから後ろめたくないのだろうし、それが正義だと信じて疑わない。

どうしてそこまで自分を正当化できるのだろう、正当化したがるのだろう。

相手を洗脳しつつ自分を正当化することに成功したからといって、そのぶん相手からときめかれたり尊敬されたりしているとはかぎらない。なぜなら人は言葉に洗脳されても、ときめきは相手の存在そのものに対して抱く感情だからだ。

自分を正当化することよりも、この世界にときめいていることのほうがずっと心地よいことなのに、彼らには自己批判というものがないのだろうな。


言葉は他者を説得・洗脳したり自分を正当化したりするための道具になる。しかし人と人がときめき合うのは相手の存在そのものに対して反応することであり、どれほど相手を説得・洗脳してみせても、相手からときめかれているとはかぎらない。文明社会は、言葉のそうした機能が先行して、人と人のときめき合う関係が希薄になってしまう構造を持っている。つまり観念思考ばかりが肥大化してときめくとかかなしむとかの情緒のはたらきが鈍くなってしまったものから順番に、言葉のそうした機能を頼りに自分を正当化することに執着してゆく。世界や他者に対する「反応」を失って、勝手に他者に執着しながらすり寄っていったり憎んだりさげすんだりしてゆくというかたちで自家中毒を起こしてしまう。

人は先験的に集団の中に置かれている存在であり、心が自家中毒を起こすことは、他者に執着しているというか、人よりも強く他者の存在にとらわれてしまっていることでもある、という逆説が成り立つ。つまり「人を愛する」といっても「人を憎む」といっても、どちらもひとつの「自家中毒=自己撞着」として起きている心的現象だ、ということになる。

「愛憎」という言葉もあるが、今どきは愛憎ばかり強くて、自分を忘れて他愛なく世界や他者の輝きにときめいてゆくというピュアな人間性を喪失した人間が妙に大きな顔をしてのさばりはじめている、という傾向はあるかもしれない。まあネトウヨなんてそんな人種ばかりだろうし、神社本庁とか日本会議というような右翼組織だって別段それと変わるところはない。いやそんな極端な人たちだけの話ではなく、現代社会の構造そのものの問題かもしれない。

しかしそんな正義・正論を振り回して自己正当化に執着しても、自分が思うほど人から好かれるわけでも尊敬されるわけではないし、世の中の流れの一部にそうした傾向に対する反省が生まれてきているようにも思える。そうやって「かわいい」の文化が生成しているのではないだろうか。

まあマスコミやネット社会で、どんなに正義・正論を振り回して自己正当化に執着したたがる人種が跳梁跋扈しているとしても、現実のこの国の歴史の無意識というか伝統として機能しているのは、けっきょくのところ自分を忘れて他愛なくときめき合いながら連携してゆくという原始的な集団性だろうし、天皇をはじめとしてそういうピュアな存在こそが愛される社会なのだ。

いや僕は、べつに日本人がいちばん美しく優れていると思っているわけではない。ときには、ネアンデルタール人の末裔であるヨーロッパ人のほうが日本人よりももっとピュアな部分を持っている、と感じることはよくある。ピュアな人は世界中のどこもにいるし、ピュアでない日本人もたくさんいる。それは、人によるのだ。つまり日本人はピュアだといいたいのではなく、地勢学的な条件ゆえか、この国にはそういう原始的でピュアなものを止揚してゆく文化がもっとも洗練発達したかたちで生成している、といいたいだけだ。

人は、猿以上に心の底にこの生や自己に対する幻滅や嘆きを深く抱えている存在だから、猿以上にこの世界の輝きにときめいてゆくことができる。

他愛なく深く豊かにときめき感動してゆくピュアな心を持った人は、心の底に深い嘆きも持っている。このことはもう、万国共通だと思える。そしてこのことはなかば生来の資質の問題で、われわれ俗物が努力して得られるというようなものでもないし、自己正当化に執着しきっているさらなる俗物たちが自己正当化に成功したからといって、それ自体がなお文明制度に汚され冒されてしまっている絶望的な状態にほかならない。