原初の人類が直立二足歩行を常態化させていったのには、何か契機となる「苦労」があったのだろう。
「淘汰圧」などといわれても、ぴんとこない。「苦労」といったほうがしっくりくる。そのとき何かしんどい思いがあったのだ。「因果論」というより「何かのはずみ」といいたい。そのほうがイメージが広がるし、考えも先に進める。
業界用語をもてあそんで何かわかったような気になってしまうのは、危険なことだ。あいまいなことばとともにつねに「わからない」という自覚に立っているから、掘り進んでゆくこともできる。
そういう業界用語をもてあそんで人類学業界の一員になりたいとなんか思っていませんよ。業界の一員になってしまっているから、彼らは、いつまでたっても凡庸な起源仮説しか提出できないのだ。
研究者の受け売りをしていい気になっているオタク連中なんか、みんな業界の一員になりたくて、なったつもりなんだろうね。なったつもりで、みんな行き詰っていやがる。
行き詰ったら、いったん業界用語から離れたほうがよい。
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既成の起源仮説なんかぜんぶアウトだ、というからには、僕は、それらの起源仮説すべてに反証を挙げてゆく義務があるのだろうか。しかしそんなことにかかずりあっていつまでも足踏みしているのは面倒だ。
ようするに、すべての起源仮説に対して、直感的に「そんなの嘘だ」と思っているだけのこと。
反論できなくもないけど、そういうことにしておいてくれてけっこうだ。
僕がどうしてこんな挑発的な物言いをするかというと、これから書いてゆく仮説に対する反論がほしいからです。僕は、その反論を乗り越えることができなければならないし、おおいに参考にもなるのだろうと思っているから。
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この国でも、何年か前に「親指はなぜ太いのか」(島泰三・著)という起源仮説の本が出たが、まったく同意できないものだった。
この本では、ようするに「サバンナで肉食(肉食獣が食い残した草食獣の死肉漁り)をはじめたことが契機になっている」というようなことをいっているのだが、「サバンナ」といってしまった時点でこの説はすでに無効だ。直立二足歩行は、それよりさらに4,500万年前の森の中での暮らしからはじまった、というのが考古学の定説になりつつある。
また、「石器を使って骨を砕いて骨髄を食べていたからだ」などともいっているのだが、「手を使うため」という発想そのものが粗雑である。
僕ははじめ、この本は、足の親指が地面を踏みしめるためにどれだけ重要な役割をしているか、という話だろうと思っていたのだが、石器を掴む手の親指の話なんだってさ。アホくさ。
手を使うということなんか関係ないのだ。手を使って道具を操ることなんかチンパンジーでもしているのだから、そんなことは「契機」にならない。
僕は、あるサイトで、「手を使うために立ち上がった」と信じ込んでいる人たちからよってたかって攻撃されたことがある。業界用語をもてあそんでいい気になっている人たちだ。いい気になって僕を見下した言い方をしてくる。
で、僕は、それなりにことばを尽くして反論したつもりだが、最後にとうとう「どいつもこいつもただの思いつきでえらそうなことばかり言ってんじゃないよ、こちらはそのへんの研究者より遠くまで考えているんだ」と、思わず書いてしまい、それで議論は終わりになった。
正直言ってそんな素人と議論していてもはじまらないのだが、プロフェッショナルだってこんな程度の低いことを言い出すのがこの業界なのだ。
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その議論のきっかけになったのは、あるサル学者の見解として、「人間の赤ん坊は仰向けに寝かされるから、そのとき自由になっている手を眺めながら手を使おうとする意識が発達し、それが直立二足歩行の契機になっているのかもしれない」という話が紹介されていて、それに僕が噛み付いたからだった。
まったく、アホじゃないかと思った。
いうほうもアホだけど、それに説得されるほうだってどうかしている。
原初の人類はただの類人猿だったはずで、ほかの猿と同じように、赤ん坊だって生まれてすぐにお母さんのオッパイににじり寄ってゆく能力を持っていたのだ。
仰向けに寝かされるようになったのは、脳が大きくなったつい最近のことで、頭を動かすことも持ち上げることもできないのだから、そうしないと呼吸ができなくなってしまう。
仰向けに寝かされた赤ん坊が自分の手をしげしげと眺めているというようなことが原初の人類においても起きていたなんて、そんなアホなことがあるはずないじゃないか。
この業界には、プロもアマチュアも含めて、こんなアホがわんさといる。
とにかくあの連中は「手を使うため」ということを錦の御旗のように振りかざしてきて、そのとき僕の主張がやっつけられたわけではないが、今思い出しても胸がむかむかする。
こんなアホばかりの世の中だったら、直立二足歩行の起源には永久に迫れない。
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まあ、上記の島泰三氏よりは「直立歩行(青土社)」の作者であるグレイグ・スタンフォード教授のほうが、もう少し先まで考えている。
これは、書き出しの部分。
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たいていの人は、高尚な知性とか親指を使ってものを掴む能力こそ、私たちを他の霊長類から隔てるものだと考えている。だが霊長類はすべて、ものを掴む親指を持っているし、猿の脳と私たちの脳の違いは、人々がしばしば思っているほど大きくない。決定的な再編成が起きた部分もあるが、人間の脳は基本的にはチンパンジーの脳を膨らませたものだ。
しかし習慣的に立って歩く能力は、私たちが祖先と違う種類の生物へと変化したことを意味している。二足歩行は、脳の拡大よりも500万年ほど早くに生じていた。これこそ人類のあけぼのを告げる出来事だった。二足動物になることで私たちはヒトになったのだ。
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つまり、直立二足歩行の常態化は、動物としてのアドバンテージを獲得したとか、そういうことではないのだ。それがアドバンテージになるまで500万年もかかっている、ということだ。
500万年前というのはちょっと大げさで、直立二足歩行の起源を700万年前とするなら、そこから3,400万年後からしだいに脳容量が大きくなりはじめている。そのあいだずっと、チンパンジーと同じレベルの知能しか持たない存在だった。ただ、チンパンジーとは、決定的に生態が違っていた。
なぜ3,400万年もかかったかというと、はじめは類人猿としてのアドバンテージすら失うことだったからだろう。そうして、それだけの年月をかけてかけて、その負債を返済していったのだ。
直立二足歩行の常態化をはじめることによって人類は「何かアドバンテージを得た」、という発想をしているかぎり、この空白の数百万年の説明はできない。
それは、類人猿としてのアドバンテージを失う体験だった。いったん類人猿以下の猿になって、そこから少しずつ挽回していったのだ。
そのとき原初の人類にいったい何が起こったのか。
それが、問題だ。

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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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