ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか

2011-02-28 直立二足歩行の起源 10・「孤立性」という習性

[] 05:49

人類が直立二足歩行をはじめたのは700万年前だといわれている。

しかし、そこからすぐに進化をはじめたのではない。最初の3、4百万年は、猿と同じ脳みそしか持っていなかったし、体の大きさも、今のチンパンジーとそう変わりはなかった。

この空白の数百万年のことを、どう考えればいいのだろう。

二本の足で立ち上がったからといって、人類はすぐに進化をはじめたのではない。

つまり、直立二足歩行は、人類の進化のための決定的な事件ではなかった、ということだ。それによってすぐに脳が発達していったわけでも、種としての繁栄がやってきたのでもない。

まあ、サバンナの中の小さな森で、二本の足で立って行動しているちょっと風変わりな猿として細々と生きてきただけなのである。

直立二足歩行そのものは、けっして生物学的なアドバンテージではない。

最初は、身体も知能も、チンパンジーとそう変わりはなかった。

直立二足歩行以外に何か違うところがあるとすれば、それはたぶん、チンパンジーよりも大きく密集した集団を形成していた、という生態にある。直立二足歩行は、そのためにはきわめて有効な姿勢である。そのために二本の足で立ち上がっていったともいえる。

しかし、チンパンジーのような猿が大きく密集した集団で行動することは、それなりに小さくはないストレスをともなう。

弱い生き物ほど大きな集団を形成する。弱い生き物にならなければ大きな集団を形成できない。人間が限度を超えて大きく密集した群れを形成する生き物であるということは、いったん弱い生き物になったところから歴史をはじめた、ということを意味する。

直立二足歩行をはじめた原初の人類がチンパンジーよりももっと大きな集団を形成していたとすれば、チンパンジーよりももっと弱い存在だったことを意味する。

二本の足で立ち上がることは、動物としての身体能力の多くを喪失することである。姿勢は不安定だし、胸・腹・性器等の急所をさらして、攻撃されたらひとたまりもない。どうか殺してください、といっているような姿勢なのである。それでも、その姿勢で行動すれば、大きく密集した群れを維持できる。

弱い猿として、小さな森でひっそりと生きていたのだ。

そういう最初の3、4百万年の歴史がある。

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とすれば、そのあと進化がはじまる契機になったのも、おそらく、さらに集団が大きく密集してきたからだろう。

もう、直立二足歩行の姿勢だけでは限界だった。

そのころ、地球気候が乾燥化して森がいちじるしく減少していった、ということもあったのだろう。そこで小さくなってゆく森伝いに移住しながらとうとうアフリカの外にも住み着くようになっていった。

その大きな集団を維持できるだけの森がなくなり、大きくなりすぎた群れの中に置かれていることのストレスも限界に達していた。

そういうさまざまな要素が重なり、群れはいったん解体されていった。しかしそれは、解体されるくらい大きな群れの中に置かれていることのストレスに耐えていた、ということだ。何しろ、3、4百万年のあいだ、ずっとそんなストレスと和解して生きてきたのだから。

耐えられないほどのストレスを抱えてしまったこと、それが、人類の脳が発達しはじめる契機になった。そして、さらに耐えられないストレスに耐えて生きてゆくことによって、ますます脳が発達していった。

直立二足歩行は、しらずしらずそういう資質を育てていた、ということかもしれない。

最初の3、4百万年の脳容量はずっと猿並みの450ccくらいだったが、その後の3、4百万年で3倍の1300ccを超えるまでになった。

ストレスとともに人間の脳は発達してきた。

ある研究者たちは、生き延びるために脳を発達させようとする戦略をとった、などと愚劣なことをいっている。脳が発達したことなんか、たんなる結果なのだ。「意思」とか「戦略」とか、そんな下品なことばで歴史を語ってくれるな。

ありあわせのものでやりくりしてゆこうとするのが生き物の本性なのだ。

何かの間違いで生まれてきた人間に「生きのびる戦略」などというものはない。何かの間違いであることにけんめいに耐えて四苦八苦してきたことの結果として脳が発達したのだ。

直立二足歩行は「生きのびる戦略」であったのではない。誰もが生き残ることを断念し、群れが密集してあることのストレスと和解してゆく姿勢だったのだ。

人間をなめてもらっては困る。人間はそんなかんたんな生き物ではないし、そこまでスケベったらしくもない。

何かの間違いで生まれてきた生き物に、「生きのびる戦略」などという本能は刷り込まれていない。必ず死んでゆく存在に、どうしてそんな本能が刷り込まれているといえるのか。生き物は、死んでゆくことと和解できないようにできているのか。「死にたくない」という現代人のそのスケベ根性が本能だというわけでもなかろう。

生きのびるために直立二足歩行をはじめたのではない。それは、何かのはずみのたんなる成り行きだったのだ。

というか、それによって人間は、ほかの動物以上に「生き延びる」という目的で行動しなくなっていったのである。

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直立二足歩行をはじめてすぐに犬歯が後退していったのは、仲間どうしの順位争いをしなくなったことを意味する。つまり、生きのびようとする衝動を解体し、それをぶつけ合うということをしなくなったのだ。

そしてチンパンジーのように二つの群れのテリトリーが「オーバーラップ・ゾーン」で「緊張関係=力関係」つくり、敵対しながら共存してゆくというようなことはせず、すべての群れがたがいのテリトリーのあいだに「空白地帯=空間」をつくって離れ離れで生活してゆくという生態をつくっていった。

彼らは、「生きのびようとする衝動」をぶつけけ合う関係を解体しつつたがいに連携してゆくことによって、より大きく密集した群れをつくることができるようになっていった。

そのころ人類の群れは、チンパンジーの群れよりもずっと大きく密集していたかもしれないが、ひとつの森でチンパンジーの群れと共存することも人類の群れどうしが共存することもなかった。すべての群れが孤立していたと同時に、連携していた。彼らは、直立二足歩行によってサバンナを横切ってゆくことができたし、それを厭わなかった。

人間は、みずからの身体の孤立性を守ろうとするし、群れの孤立性を守ろうともする。

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まず、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくることによって「孤立性」を確保していった。これが、直立二足歩行をはじめたきっかけである。

原初の人類は、「孤立性」がもてない密集状態の中に置かれ、そこから二本の足で立ち上がるということで「孤立性」を確保していった。

人間は、先験的に「孤立性」をそなえているのではなく、「孤立性」をもてない状況の中から「孤立性」をやりくりしてゆく存在なのだ。そういうかたちでしか、猿が二本の足で立つことを常態化してゆくという事態は生まれない。

われわれは、先験的に孤立した存在であるのではない。つまりわれわれのこの生は、「自我=自意識」という「孤立性」を確立したところからはじまるのではない、ということだ。「自我=自意識」を持たないまま他者と関係してゆくところから「孤立性」を汲み上げてゆく存在なのだ。「自我=自意識」によって他者と関係するのではなく、他者との関係によって「自我=自意識=孤立性」がもたらされる。

たがいに「孤立性」を確保しようと連携してゆくことが、人と人の関係なのだ。

人と関係しなければ「孤立性」は確保できない。人間の心は、そのようにはたらくようにできている。連携しなければ孤立性を持つことができない、これが、人間存在のかたちである。

「孤立性」を持っているのではない、「孤立性」を紡ぎだすのが人間なのだ。

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人間がほかの動物に比べてどれほど高度な連携をつくることができるかは、いうまでもないことに違いない。しかしそれは、連携によってしか「孤立性」がえられないからである。人間的な連携の成果は「孤立性」を得ることにあるのであって、「共生」を実感することにあるのではない。われわれは先験的に「共生」の中に置かれてあるのであり、そのうっとうしさを克服するために連携してゆくのだ。

それぞれが孤立した存在だから連携が成り立つのであって、体をぶつけ合って押し合いへし合いしていたら、連携もくそもないだろう。邪魔だからあっちへいけ、といいたくなるだけである。

赤ん坊は、お母さんの身体と離れているからお母さんの模倣行動ができるのであって、抱かれていたら身動き取れないではないか。まあ、そんなようなこと。

「共生」は、人間が直立二足歩行することによって得たものではない。それは先験的に負わされていたものであり、直立二足歩行することによって「共生」のうっとうしさを克服していったのだ。

人間の本能は、「共生」しようとすることではない、「孤立性」を得ようとすることにある。

「共生」などということは、先験的に負わされているうっとうしい事態なのだ。そのことを、勘違いするべきではない。「共生」などということを人間の目指すべき理想であるかのように振りかざされると、うんざりする。

人間の本能は、「共生」ではなく、「孤立性」にある。「孤立性」を行動様式として持っているから、高度な連係プレーができるのだ。

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原初の人類が最初に得た連係プレーは、狩をすることか、それとも天敵から逃げることか。

どちらも違う。

狩をする能力は、直立二足歩行ををはじめて500万年後くらいからようやく芽生えてきただけである。それまで知能はチンパンジー並みだったし、チンパンジーよりずっと身体能力の劣った猿だった。早く走れないのだから、追いかけるということそれ自体の能力がなかったし、二本の足で立っていれば、相手につかみかかってゆくことも上手くできない。そういうことは、前傾姿勢を持っているチンパンジーのほうがずっと上手かったはずである。

そして逃げることだって、直立二足歩行していれば早く走れないし、四足歩行のような小回りもきかない。また集団で走れば、すぐ将棋倒しになってしまう。今でも、イベント会場などでそんな事故がしょっちゅう起きている。

だいいち、四足歩行の生き物が二本の足で立ち上がることは、胸・腹・性器等の急所を外にさらして、攻撃されたらひとたまりもない姿勢である。

直立二足歩行は、逃げることにおいても絶望的に無力な姿勢なのだ。

原初の人類は、そういう条件を抱えながらサバンナの中の孤立した小さな森で生きていた。

その孤立した小さな森は、ライオンなどの大型草食獣から身を潜めて生きることのできる場所だった。

チンパンジーというライバルからも身を潜めて生きてきた。

身を潜めること、隠れること、これによって原初の人類は生き延びてきた。それ以外に生き延びるすべはなかった。

「かくれんぼ」は、人間の本能である。

やまとことばの「かくれる=かくる」とは、離れたところで息をつめている、というようなニュアンスのことばである。そのようにして人類は生きのびてきた。

「隠れる」という「孤立性」、これが、直立二足歩行によって獲得した習性である。そして、隠れるという習性によって、ひとつのスタジアムに10万人が群れ集まるという事態を実現してゆく。そのとき、みんなでスタジアムに隠れているのだ。そういう「異空間」をつくってみんなでそこに「隠れる」ということを人間はする。

人間にとっては、群れるということそれ自体が「隠れる=孤立性」を止揚してゆくいとなみになっている。

このへんがやっかいなところだが、何はともあれ、「隠れる」という「孤立性」の上に人間という概念が成り立っている。

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