非日常のときめき・ネアンデルタール人と日本人83


日本人は、日本列島に住みはじめたときから、すでに「非日常」の世界に遊ぶ心の動きを持っていた。そういう伝統的な美意識というか世界観・生命観から能の話や舞の作法が生まれてきた。
日本語だって、あくまで日本的なそういう美意識や世界観・生命観とともに生まれ育ってきたと考えるべきである。
べつに、どこかの国から移植されてきたのではない。
原始人は、どこでもそうたいして違いのない音声の原始言語を単語のようなかたちで発し合っていただけだろう。それがいつから文節をつなぐかたちになってきたのかは知らないが、祖型・古型というなら、まず音声の発し方が地域によって違ってきた、ということがあるにちがいない。それは、気候風土や人と人の関係のあやなどの問題だ。
日本語の場合、原始人が人類拡散の行き止まりの地にたどり着き住み着いてゆくことがどういうことかと、まず考えてみる必要がある。
やまとことばは他の言語と似ているのか、大きく違うのか。似ている部分もあれば違う部分もある。それはもう、どこの国の言語だってそうだろう。しかし、原始時代に言葉を移植するなんて、不可能なことだ。
近代において政治的に大きな国が小さな国や民族の言葉を抹殺してしまうということはあっただろうが、そういうことでもしないかぎり移植するということはできない。
原始時代において、先住民が自分たちの言葉を捨てて旅人の言葉をまねてゆくという非効率的なことをするはずがない。
旅人の方が、自分の言葉を捨てて先住民の言葉を覚えていった。まあそんなことは二世代目からはかんたんにできることだし、三代目以降はもう前の言葉の痕跡もなくなってゆく。
先住民が集団全体の言葉を一からつくり変えてゆくということなど、するはずがない。もともと自分たちの気候風土や人と人の関係にもっともフィットしている言葉なのだから。
原始人が言葉を話していたということは、今や考古学の常識である。
たとえ原始時代だろうと、それぞれの地域で育ってきた言葉があったし、それぞれに違う気候風土や人と人の関係のあやがあった。どのように音声を発してゆくかという身体感覚は、そういうところから生まれ育ってくる。
日本列島にまだ人が住んでいなかったころ、朝鮮半島の人間が日本列島の中心まで何世代もかけて移住してくればそのあいだに言葉の質は変化してきているし、日本列島はそのとき北方からやってきた人も南方からやってきた人もいた。そこでそれらの人々の原始言語が混じり合い混沌としている中から起源としての日本語が生まれてきた。そのとき彼らが共有している日本列島の風土や人と人の関係に対する感慨の中から、共有できる純粋で普遍的な音声のニュアンスが抽出されていった。
そこから日本語の歴史がスタートしたのだ。
弥生時代朝鮮半島から人がやってきたといっても、彼らはみんな日本語を覚えながら日本列島に住み着いていっただけである。彼らがもとの日本語を抹殺して朝鮮語に変えてしまうということなんかできるはずがない。
おそらく縄文人はちゃんと日本語(やまとことば)を話していたし、その言葉は数万年前の氷河期から引き継がれてきたものだったはずである。



弥生時代に日本列島に朝鮮半島や中国から移植された言葉があったとしたら、それはもともと日本列島にはなかったものについての言葉だ。たとえば馬とか梅とか霊魂などという言葉だ。
「花が咲く」とか「旅をする」とか「海は青い」とか「墓に葬る」とか、そのような言葉はみな、日本列島土着の言葉なのだ。
「花(はな)」というやまとことばは、たとえば「はんなり」などという京言葉のニュアンスとも共通する。まあ「花なり」からきているのだろう。
「はんなり」とは、落ち着いて華やかなさま。花だって、向こうから何も主張してこなくてもこちらからつい目がいって見とれてしまう。そういうニュアンスで「はな」といったのだ。それはたぶん、中国人の「花(か)」という感覚とは違う。
その楚々としたさまを「は」といい、親密な感慨を込めて「な」という。楚々としているのに華やかである。そうしてそれを眺める親密な感慨から思わず「はあ」というため息が漏れてしまう。なんにせよ、そのようにして「はな」という言葉が生まれてきたのだ。
日本語は一音一音に思い入れがこめられているし、その思い入れのあやも、中国・朝鮮ともポリネシアとも違う。
中国・朝鮮人は外国語をそのまま発音することができるが、日本人は、日本語の音声感覚に直してしまう。日本人の「マクドナルド」という発音なんて、ほんらいの英語の発音とはずいぶん違ってしまっている。
日本人は、自分たち固有の一音一音のニュアンスに対する思い入れが強いが、そのぶん言葉の意味にはあまりこだわらない。「花(はな)」といっても、植物の花だけでなく、無数のニュアンスがある。「は」と発声し「な」と発声する感慨がある。その感慨の上に「はな」という言葉が成り立っているのであって、限定された意味があるのではない。
中国朝鮮語は、一音一音のニュアンスなど関係なく早口でまくしたてることをしても、言葉の意味には日本語よりもずっとこだわっている。
そういう言葉に対する感覚の違いは、気候風土や人との関係のあやの違いである。
朝鮮語はとても自己主張が強いし、中国語は説得しにかかる勢いがある。しかし日本語(やまとことば)には、そうした日常的現世的な機能とは無縁に「非日常」に向かってフェードアウトしてゆく気配がある。つまり、「意味」のフェードアウト。
日本列島に固有の言語感覚や音声感覚があり、それはもう、日本列島に人が住み着いて以来の歴史感覚でもある。
はじめて日本列島に住み着いた人々は、北方やら南方やら朝鮮半島やら雑多な人の集まりだったために、そのめいめいが発する音声に中から純粋で普遍的なニュアンスを抽出していった。雑多であったからこそ、そのように純粋なかたちでまとめてゆこうとする動きが生まれてきたのだろう。
どこからともなく人が集まってくる「祭り=市」の賑わいこそ、日本語が生まれ育ってくる場所だった。
日本語は、日本列島で生まれ育ってきたのであって、どこかの国から移植されたのではない。



日本列島で培われてきた固有の世界観・生命観があり、固有の人と人の関係のあやがある。それを、かんたんによその国から移植してくることはできない。そういうことを世界基準で語ってその通りにしようとしても、そうかんたんにはいかない。
世界基準そのものが疑わしいものであるかもしれない。まあ、氷河期明けに発生した共同体の制度性の上に立って正義だの民主主義だの世界基準だのといわれても、われわれには今ひとつピンとこない。
「市民」とか「生活者の思想」というのも、けっきょく共同体の制度性をなぞっているだけの論理にすぎない。
「生活」なんかどうでもいい。日本列島の住民は、生きてあることの嘆きとともに「非日常」に向かう視線で世界観や生命観や言葉や人と人の関係を紡いできた。
だから、言葉の意味にこだわらない。言葉の「非日常性=メタファ」を大切にする。日本語(やまとことば)には、言葉の一音一音にこめられた「メタファ=感慨のあや」がある。
メタファを共有してゆくことが日本語の作法であり、それを「ことだま」といった。
まあ「ことだま」とは「ときめきが起きる(生まれる)」ことをいう。「言葉の霊魂」などという意味ではない。
日本列島の伝統においては、言葉は説得するためでも伝達するものでもなく、ときめき合うためのものなのだ。
どこからともなく人が集まってくる「祭り=市」の場において起きるのはときめき合うことであって、説得したり伝達したりすることではない。そういう意味機能が解体される場なのだ。
だから、お金の価値も曖昧になって、少々高くても買ってしまう。そういう非日常性の場である。
人間には、生まれてきてしまったことのとまどいや嘆きがある。生きてあることを忘れてしまわないと、生きていられない。人類は、そういう「非日常」の感慨を共有しながら地球の隅々まで拡散していったのであり、行き止まりの日本列島は、そういう感慨が極まっている場だった。
今どきのこの国のインテリたちは、どうして日本語がどこかの国から移植されたといいたがるのだろう。
日本列島にたどり着いた人々の出会いのときめきがあった。その体験が日本語になっていったのだ。



生きてあることは、しんどい。しかし、しんどくてもかまわない。誰かと出会うときめきがあれば、それで生きていられる。まあそれが日本列島の伝統的な流儀なのだが、ときめきときめかれる関係を喪失すると、日本人は案外もろいところがあるし、その喪失感を埋めようとして騒々しくなったり悪あがきをしたりする人間もあらわれてくる。たとえば、婚活女性がけんめいに自己アピールするみたいなことは、それはそれでいたましかったりはた迷惑だったりしているのだろう。
対人障害、などという言葉もあるらしいが、この国ではそれが技術で克服できるような言葉の構造になっていない。何より自分が他者にときめいてゆく心を持たないと話にならない。
人間はもともと心の中に怒りや憎しみを持っていてそれを克服してゆくのが大人だ、というようなことをいう人もいるが、それは違う。もともと他愛なくときめき合う生き物なのだ。
文明人は、大人になるにつれて妙な怒りや憎しみを持つようになってゆく。そうなってゆくような社会の構造があるわけだが、普通に育てばあまりそんな感情を持たないのが人間である。持ってしまうのは、社会に毒されたいわば発達障害だ。
人はみな、自分で自分がどうすることもできない、こうしか生きられない、という部分を持っている。日本人が日本人以外の人種になれるわけではない。
日本人が朝鮮人や中国人になって生きるのはしんどいことだろう。日本人が、ちゃんとした中国人や朝鮮人になることなんかできない。また、日本人であることの幸せや不幸があれば、中国人であることの幸せや不幸があるのだろう。
そうそうかんたんに世界基準の人間にはなれないし、それがえらいわけでも幸せというわけでもないし、幸せでなければならないということもない。
そんなことは、よくわからない。
とりあえず、人間であるとはどういうことだろう、という問いがある。そして人間であることのかたちが、日本とインドとフランスではきっと違うのだろう。そして、日本人もインド人もフランス人もみな同じ人間だということがある。
まあ、いろいろとよくわからないことがあって、わかったようなことをいわれても、そうかなあとか、それは違うだろう、と思うことも多い。
いったい日本人であるということは、どういうことだろう。日本文化とはなんだろう。
それは違うのではないかということがたくさんある。



とりあえず日本語の起源を「どこからやってきたのか」という文脈で語るのは、いかにも愚劣だ。愚劣だけど、現在はもう、そんな言説で覆われてしまっている。世の中が、そんな言説に浸食されてしまっている。そんな言説に振り回されてしまっている。それだけではない。個人の生き方そのものが、この社会のありように振り回され侵食されていることも多い。
この世の学問というのは、ありがたくもあり、罪深く目障りでもある。
「4万年前のアフリカ人がヨーロッパに移住していった」とか、そんなあり得るはずもないことを平気であり得るように考えていることだって、それはそれで現在の人間世界のややこしさやゆがみを象徴している。われわれは、たくさんのこんな愚劣な言説に浸食されて生きている。そんなこんなに囲まれて個人が生きにくくなったりしている。
というわけでとりあえず「人間というのはもともと他愛なくときめき合うことができるような存在の仕方をしている」といいたいのだ。
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