山の中という禁制・ネアンデルタール人と日本人88


山の中に入ってゆくこと……吉本隆明の『共同幻想論』もそこから出発している。
しかし『遠野物語』も『共同幻想論』も、「山の中に入っていったらいけないよ」という「禁制=タブー」の話である。
もともと共同体は人々の「日常」を支配する装置であり、それに対して山の中は「非日常」の世界である。日本列島の支配者は歴史的につねに山の中に入ってゆくことを禁じてきたし、日常を嘆きつつ生きる民衆はつねに山の中に入ってゆくことにあこがれ続けてきた。
まあ人類のもともとの生息域は「森=山」の中だったのだ。
中世以前の街道はほとんどが山道だった。山道を歩くことが日本人の旅だった。その山道は民衆自身が切り拓き歩いて踏み固めながらつくってきたものであったわけで、江戸時代以降にようやく権力が主導で海沿いの街道がつくられていった。
おそらく、徳川幕府の支配の強化によって人々の山の中に対する意識がゆがんでゆき、山の民に対する差別意識もふくらんできたのだろう。
遠野物語』は、日本人の山の中に対する意識がゆがんでゆく過程で生まれてきた話なのだ。
しかし日本列島の歴史を通じての日本人のメンタリティ=文化の基礎は、あくまで「山の中に入ってゆく」というコンセプトの上に成り立っている。



したがってここでは、「山の中に入ってゆくことこそ人の心を解放し豊かなときめきを生む、人間は山の中に入ってゆきたがる存在だ」ということを考えたい。
それは、「日常」の[閉塞感=けがれ]から解放されて「非日常」の中に入ってゆく「みそぎ」の体験である。
そしてそういう「非日常」性として入眠幻覚が人の心に起きる。それはまあ「夢を見る」という体験とそう変わりはない。
吉本隆明は、その禁制に支配された心が入眠幻覚を起こすといっているし、フロイトもそのようなことをいっているわけだが、「禁制」だけが夢の内容を支配しているわけではない。空を飛ぶ夢だって見る。
そこで人が妖怪変化や幽霊を見るのは、日本列島ではそれが「非日常」的な存在として解釈され合意されているからだろう。
夢の中では、なんでもありだ。見たことがないものでも見てしまう。しかしそれは自分の人生体験の中で見たものや感じたものをつぎはぎして浮かんできている画像にすぎない。
とにかく「禁制=タブー」がそういう画像を見させるのではない。そんな禁制など知らない子供だって山に入ってゆけば入眠幻覚を起こす。怖いからといって、それはわけがわからない怖さであって、山に入ったら罰せられるとかというような怖さではない。それは共同体の「制度性=禁制」が怖がらせているのではない。ふだんとは違う「非日常」の空間に入ってきているという怖さである。そりゃあ、はじめてならわけがわからないから怖いに決まっている。でも、何度も来て様子がわかってくれば、べつに怖いということもなくなってくる。むしろ、その空間に対する親しみが深くなる。
人間は、山の中に入ってゆきたがる心を持っている。それは、禁制を破るたのしみとか、そういうことではない。ただもうその空間の「非日常」性に親しんでゆく。
追い詰められて金縛りになるとか怖い夢を見るということはある。金縛りは、だいたい体が疲れていることが契機になる。そして、追い詰められて心細くなっていれば、怖い夢も見るだろう。
しかし、妖怪変化や幽霊だけが怖い夢なのではない。いろんな怖い夢がある。
夢の中では、妖怪変化や幽霊と親しくなっていたりもする。
能の物語には、旅の僧と亡霊が親しく交歓するという話がたくさんある。
日本列島住民にとっての山の中や山の中の妖怪変化や幽霊は、「禁制」の問題ではない。
縄文人は1万年も山の中で暮らしてきたし、山の中の娼婦の里は江戸時代まであった。まあ、「夜這い」の習俗なんて、山の中に入ってゆく感覚だ。日本人は、山の中が好きだし、「山の中に入ってゆく」というコンセプトの上に日本文化の伝統が成り立っている。
山の中は、べつに「禁制」の場所でもなんでもなかった。ただもう「非日常」の「他界」だった。それだけのこと。



大陸の人々は、神や死者の霊魂すなわち天国・極楽浄土を「日常」無限遠点にイメージしている。だから彼らには、日本人ほどの「非日常」に対する志向性はない。彼らは日本人に比べると、大いに現実的でリアルな思考をする。それに対して日本人の思考や感性は、何か情緒的非現実的で、彼らとうまく外交交渉ができない。それは、神や霊魂や妖怪や幽霊という存在を、日常の無限遠点に置いていないで、「今ここ=日常」の裂け目の「非日常」の空間でイメージしているからだ。
外国人は、日本人ほどの「非日常」に対する親しみはない。地平線の向こうの無限遠点を眺めて歴史を歩んできたからだろうか。
それに対して日本人は、海の水平線の向こうは「何もない」と思い定めて山の中という「非日常」の空間に入ってゆく歴史を歩んできた。
まあギリシャも山が多いから、古代には山の中に入ってゆく物語がたくさんあって、神々も「今ここ」の「非日常」の空間の存在としてイメージされている。それでも彼らは異民族との緊張関係も持っていたから、日本人ほどナイーブなままではいられなかった。
とにかく、日本人にとっての「山の中に入ってゆく」という体験は、「禁制=タブー」であったのではなく、その体験と親しみながら文化を紡いできたのだ。
「山の中」という空間の「非日常」性は、「禁制」の問題ではない。
日本人にとっての「他界」は、「今ここ=日常」の無限遠点にあるのではなく、「今ここ=日常」それ自体の裂け目の向こう側にある。それが、「山の中に入ってゆく」という体験である。
したがって、折口信夫のいうような、「日本列島の歴史は海の向こうに神の国があるという認識(あこがれ)からはじまっている」ということでは絶対にあり得ない。それはあくまで大陸の「無限遠点」の思考なのだ。
また、山の中に入ってゆくことが「禁制」であるということにしても、すなわちそれは海の向こうの無限遠点に神の国があるという思考でもあるのだから、日本的な「非日常」に対する親しみとも矛盾する。
日本人は、仏教伝来とともに神や妖怪変化や亡霊のイメージを持たされたあとも、怖がりながらも「山の中に入ってゆく」メンタリティで歴史を歩んできたのだ。



吉本隆明は、なぜ「山の中は禁制の場所だ」という認識から共同幻想論を書きはじめたのだろうか。
そりゃあ、はじめて入ってゆけば誰だって怖い。かんたんに方角がわからなくなって道に迷うし、狐に化かされたのだという入眠幻覚も起きる。
しかし人の心は幻覚を見るようにできている。そんなことくらい、夜の暗がりでも密室の中でも起きる。
夜がいやだといっても、夜とつき合っていかないことには人は生きられない。夜があるからこそ、この生にさまざまなニュアンスが生まれる。夜と親しむようにして日本人は、山の中に入り山と親しんできた。
日本列島には遠い昔から山の中で暮らしてきた人々がたくさんいるわけで、「里山」とか「森林浴」などという親しみを込めた言葉もある。日本人がどれほど山の中との親しい関係の歴史を築いてきたかということを、吉本はなぜ考えなかったのだろう。
山の中が禁制の場所だということは、山の中に住む人はみな日本人じゃないといっているのと同じだ。彼らは、日本人であることができなくて山の中に逃げていったのではない。日本人はみな山の中で暮らしていたのだ。
サンカとか部落民は罪を犯して逃げていったものたちの末裔だという、妙な風評がある。しかしサンカや部落民の出自も江戸の下町の庶民の出自も同じであり、もともとは、弥生時代以降に平地に下りてきて田んぼを与えられたか、そんなものいらないといって山の中で暮らし続けたかの違いだろう。
山の中は、「禁制」の場所でもなんでもない。日本人にとっては、あくまで「非日常」の親しみ深い空間だった。それを、江戸時代以降の国家制度や庶民の迷信深さや差別意識によって、しだいに「禁制」の場所のイメージになっていった。
入眠幻覚と「禁制」なんか関係ないといえば関係ないのだ。
たとえば、病気をして熱にうなされていれば、幽体離脱を起こすことはよくある。それはべつに共同体の制度としての「禁制」とは関係ないことだろう。
山の中に入って入眠幻覚を起こすのは、そこが「非日常」の場所だからであって、「禁制」に追いつめられているからではない。
まあ熱にうなされているときと同様に、存在そのもの不安から追いつめられているとはいえるのだが、人はその不安から世界や他者にときめいてゆく。
山の中に入っていって「非日常」の世界に身を置くとは、そういう不安の中に身を置くことであり、だから入眠幻覚も起こるが、世界や他者に対する豊かなときめきも起きてくる。
そしてそれはたぶん、原初の人類が二本の足で立ち上がったときに体験したことでもあるはずで、人間はそういう「非日常」に対する親しみを持った存在の仕方をしている。
というわけで、どうして山の中が「禁制」の場所だといわねばならないのか。おそらく、サンカをはじめとする山の民が差別されてきたという歴史が吉本隆明の頭にあったからだろう。
山の民が差別されてきたのは、山の中が禁制の場所だったからではない。平地で暮らす人々にとってはむしろ逆にひそかな憧れの場所でもあったわけで、そのあたりの屈折した心理はちょっとややこしいのかもしれない。
かつてそこは、共同体の法制度が行き届かない場所(民俗学的にこれを『アジール』というらしい)であった。平地での暮らしの文化が発達すれば、山の中が暮らしにくいところだということはいやでもわかる。それでもそこは人々のあこがれの場所でもあるのだから、下りてきて法にしたがえともいえない面もあった。
吉野の山里である十津川村は江戸時代には年貢を免除されていたし、多くの山の民は共同体の制度とは無縁の暮らしをしていた。そしてまあ、そこに犯罪者が逃げ込むということもあったかもしれない。
山の中は、人と人が豊かにときめき合う場所である。険しい山道の逃避行で疲れ果てている人間が一夜の宿を乞うてくれば、たとえ犯罪者だとわかっていてもかくまってやったりもしたのだろう。べつにすべての山の民が犯罪者の末裔だということではもちろんないのだが、共同体の制度の重圧にあえぐ平地の民の屈折した心理もあいまって、何かそのような差別をされるようにもなっていったのかもしれない。
山の中に入ってゆくことに対する憧れと畏れ、それが、日本的な差別をややこしいものにしている。
しかし『遠野物語』にしても、人は山の中に入ってゆきたがるということが前提になった話なのだ。



山の中に入ってゆきたがるということは、「非日常」の世界に対する親しみを持っているということだ。
日本人の知性や感性が持っている「非日常」性、それがたぶん「ジャパンクール」といわれているものではないだろうか。
大陸の人々は「日常」無限遠点に神や天国や極楽浄土を描いている。しかし長いあいだ絶海の孤島であって日本列島は、そうした観念性とは無縁の歴史を歩んできた。「無限遠点」にあこがれないで、「今ここ」の「非日常」に対する親しみとともに、「山に入ってゆく」というコンセプトの文化を育ててきた。
だから、たとえ外来文化であろうと目の前の「今ここ」に豊かに反応してゆくし、なんでもかんでも「非日常」に向かってフェイクしてしまう。それがときに外国人には「おしゃれ」であったり「ミステリアス」であったり「クール」であったりする。
日本人は、「非日常」の世界に入ってゆきたがる。
それは、もともと「日常=生活」に対する執着が薄い民族だったことを意味する。
われわれは「日常=生活」を嘆きながら歴史を歩んできた。それが日本的な無常感であり、「あはれ」や「はかなし」や「わび・さび」の世界観や生命観であり、美意識なのだろう。
そんなものはただの気分だといえばまあそうなのだけれど、論理的な思想だからえらいというものでもないし、どちらがわれわれの思考や感受性や生態を決定しているのかといえば、後者だともいえない。



日本人の生きてある気分、これは大いに考えるに値する問題だと思う。
日本の将来はどうあるべきかとか、人間はどう生きるべきかとか、そんなことを論理的な思想とやらで決めつけてもらいたくないし、日本社会がその通りになるとも、人がそのように生きられるとも思えない。
日本列島はとくに、何につけても人々の気分で決まってゆく部分が多い。
人間の生きてあることに対する「気分」とか「情」とか「心」とか「感慨」といったものを無視することはできない。
ネット社会の日本人の操る絵文字がなぜこんなにも多彩であるのかは「気分」の問題だろう。日本人は、いともかんたんに「非日常」に向かってフェイクしてしまう。このフェイクのタッチは、なかなか外国人には真似できないらしい。「かわいい」のファッションだって同じで、このタッチが生かされている。あっけらかんとしているようで、微妙なフェイクのタッチを持っている。
しかしそれは、いいことだけではない。あの無残な戦争をなかなかやめられなかったのも、「非日常」の世界に入り込んでいたからであり、「日常」の現実問題をちゃんと考える能力があったら、とっくにやめていたはずだ。
日本人は勝ち負けも現実の利害も無視して「非日常」の世界に入ってしまうところがあるから、日本人を責めてばかりいる中国も韓国も少しは用心しておいたほうがいい。堪忍袋の緒が切れたら何をしでかすかわからない民族なのだから。
現在、ネット右翼という人たちが増えてきて新大久保の町で騒いだり都知事選で極右候補が60万票を取ったりする情況は戦後の今までにはなかったことで、それが何を意味するのか。
もう「右傾化したらいけない」ともいえない情況になってきているし、べつに左翼だから正しいともいえない。
いずれにせよ、「今ここ」の情況においても、政治や経済という「下部構造=現実=日常=生活」とは無縁の「非日常」の世界に向かってフェイクしてゆく心の動きがきっとあるのだろう。
右翼とか左翼とかそんなことではなく、日本人は、心のどこかしらに政治にも経済にも無関心なところがある。それによって江戸時代の農民は幕府の強引な抑圧を甘受させられてきたし、現在の労働条件の悪化の一因にもなっているのだろう。
政治や経済に興味を持たないといけない、という。しかし日本人の誰もが、どこかしらに本気で興味を持てない「非日常」性を避けがたく抱えてしまっている。「山の中に入ってゆく」というコンセプトの文化の歴史を歩んできたから。
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