ミーイズム・ネアンデルタール人論14

 これ以上ネアンデルタール人論を続けても今まで書いてきたことの繰り返しになるだけだけれど、もうしばらく何がなんでもネアンデルタール人論です。
 ここからはたぶん退屈な書きざまになってゆくのだろうが、ここからが思考実験の本番かもしれない。
 この国に出回っているネアンデルタール人や人類拡散のことを書いた本と、ここでのネアンデルタール人論や人間論とでは、あまりにも違いすぎる。
 たとえば彼らは、言葉とか洞窟壁画とか埋葬とかの起源は、「象徴化の知能」という判で押したような問題設定で考えている。
 とくに「集団的置換説」の人びとは、ネアンデルタール人がその苛酷な環境を生きていたということに対する敬意があまりにもなさ過ぎる。ただのパズルゲームをして遊んでいるていどの思考しかしていない。世界的な権威のストリンガーだって、ほんとにアホだなあと思う。
 現在はクレーマー全盛の時代らしいけど、ネアンデルタール人は滅んだという結論を下すことだって、ようするにクレーマーと同じ論理です。正義ぶって他者を裁く、そうやってネアンデルタール人は滅んだと裁いている。滅んでしまうような知能が低くて愚鈍な人種だった、ということにして平気な顔をしている。まあ、それが頭にきます。どうしてそんな卑しいことを考えるのか。
 問題は、ネアンデルタール人はなぜ滅んだのかということにあるのではなく、ネアンデルタール人はあんなにも苛酷な環境をなぜ生き残ってくることができたのか、ということにある。 
 愚鈍で知能が低いままで生き残ることができるはずがないじゃないですか。


 いったい人間の知能とはどのようなことを指すのか。
 ただ記憶力がいいとか計算ができるというようなことだったら、自閉症および自閉症的な人には誰もかなわないでしょう。
 ひとまず知能とは、知性や感性のことをいうのでしょうか。ただ記憶力がいいとか計算ができるということだけでは、知性や感性とはいえない。そんなことは、コンピュータで間に合う。コンピュータのような脳のはたらきを知能というのでしょうか。
 ネアンデルタール人の場合、たがいに他愛なくときめきあっていたのだから、自閉症的とはいえない。したがって、そのような知能はなかった。しかし彼らが知らない相手にも他愛なくときめいてゆくという「飛躍」の心模様を持っていたとすれば、それは知性や感性の源泉になりうる。それが、探究心になり感動になる。
 探究心とは、未知の世界に分け入ってゆくことでしょう。その心の動きは、拡散せずにアフリカにとどまったサバンナ民の歴史の無意識よりも、拡散の歴史を背負ってヨーロッパの北の果てにたどり着いたネアンデルタール人に宿っている。人類は、そういう拡散の歴史とともに探究心や感動を深くしていったのです。
 700万年もそこにとどまっていたサバンナの民がいきなり拡散していっただなんて、どう考えても変だし、拡散の歴史を背負っているネアンデルタール人に探究心や感動がなかったはずがない。
 まあ考古学者は、原始人の知能を石器の証拠で測ろうとする傾向が強いのだが、その集団がどのような歴史を歩んできたかということも考える必要がある。たぶん、そちらのほうが重要な要素であるはずです。
 大きな集団を組織したことがないサバンナの民がいきなり大きな集団を組織してヨーロッパに移住していったなんてあるはずがないし、だいいち彼らは世界でいちばん移住して行きたがらないメンタリティの民だったのです。だからそこに700万年も住み着いてきた。体も心も生態も、すっかりその地と調和してしまっている。ホモ・サピエンスとして進化したということは、ますますその地以外では暮らせない体になってしまったということです。
 その遺伝子のキャリアになって北ヨーロッパで暮らせるのは、北ヨーロッパに住み着いてきた歴史(=体や心や生態)を持っているネアンデルタール人だけなのです。知能がなんであれ、北ヨーロッパに住み着く能力は、先住民であるネアンデルタール人のほうが圧倒的にそなえているのです。そんなことは、当たり前じゃないですか。それはもう、世界中がそうだったはずです。近代のアメリカ移住民が圧倒的な武力でインディアンを追い払ってしまったのをそのまま延長して、原始時代の旅人がそこに住み着いて先住民を凌駕してしまうなんて、どうしてそんなくだらない妄想をするのか。そんな証拠なんて何一つないのであり、あなたたちの妄想の中だけで成立していることです。


アフリカのホモ・サピエンスの遺伝子は世界中に伝播していった。しかしアフリカの文化は伝播していかなかったのです。そうして彼らは、その後の文明の歴史から取り残されていった。
 現代の社会は、ネアンデルタール人の文化が世界中に伝播していった結果としてあるのです。ネアンデルタール人の文化を基礎にして現代社会が成り立っている。
 10〜4万年前のアフリカ人が世界中に住み着いて世界中の文化の基礎になっていったのではないのです。そのころの純粋ホモ・サピエンスというアフリカ人は、アフリカの外のどこにも行っていないのです。アフリカの出口あたりでその純粋ホモ・サピエンスネアンデルタール人の遺伝子が交じり合い、それが世界中に伝播していったのです。
 世界中の人間がホモ・サピエンスだといわれているが、みんな純粋ホモ・サピエンスではないのです。
 人類の遺伝子は、またたく間に世界中で交じり合ってしまう。人間の世界では、集団からはぐれて出て行ってしまうものがいつの時代もどこにもいるからです。
 しかしアフリカの中央部には、いまだに純粋ホモ・サピエンスのキャリアの人間が残っている。これはちょっと驚くべきことで、それほどにアフリカの中央部では外部とは交渉のない歴史を歩んできた。つまりそれは、彼らは拡散してゆかない人々だった、ということの状況証拠になっているはずです。
 現代人の文化の基礎をアフリカ中央部の純粋ホモ・サピエンスに求めても無理がある。3〜4万年前以降のヨーロッパのクロマニヨン人はアフリカの純粋ホモ・サピエンスではないのです。
 アフリカの純粋ホモ・サピエンスは、現代の世界の文化の基礎にはなっていない。そんなことは考えるまでもないことなのに、そのアフリカの純粋ホモ・サピエンスクロマニヨン人を強引に結びつけてつじつまを合わせようとしている。そんなことをしてもつじつまが合うはずがないのに、何がなんでも合わせようとして程度の低い文化談義を繰り返している。彼らには、文化の本質に迫れるような思考力も想像力も直感も持っていない。
 いやもう、現代の世界中の人びとの歴史認識が、何か変です。「生命の尊厳」とか「下部構造決定論」とか「労働史観」とか、そんな前提で考えていたら、人類史の全体や人間とは何かという問題のつじつまが合うはずがない。
 彼らは「人間性の基礎は自己意識にある」という。いまどきは、ほとんどの哲学者も歴史家も、この前提で考えている。人間なんか自分からもこの生からもはぐれていってしまう生き物なのに。


 人類史は、ミーイズム=自己意識の段階に差し掛かっているのでしょうか。
 それならそれで仕方ないことだが、人類の過去の歴史をミーイズムで語っても無理がある。それではつじつまの合わない論理のほころびがいっぱい生まれてきてしまう。
 人類の文化の起源を自己意識やミーイズムでは語れない。生きのびようとする自己意識を人間性の基礎として認識したところから導き出されるのが「生命の尊厳」であり「下部構造決定論」であり「労働史観」です。しかし原始時代の歴史は、そんな法則で動いてきたのではない。原始時代は、この生からはぐれて「もう死んでもいい」という感慨を抱きすくめてゆくところで動いていた。そこにこそ、文化の起源を解き明かす鍵がある。
 たぶん、現代人の世界観や生命観と原始人のそれとのあいだには、大きなへだたりがある。逆立している、ともいえる。
 これはまあ文明社会と原始社会の違いともいえるのだが、現代社会はとくにこのミーイズムの志向が顕著になってきている。
 このミーイズムを、たんなる利己主義とか自己中心主義のような人生観としてすませてしまうべきではない。それは「人間の本生は自己意識にある。人間の生きるいとなみの本質は生きのびようとすることにある」というような倒錯した人間観のことで、そうやって「生命の尊厳」という概念が導き出される。「私は世のため人のために活動している」などといっても、人間は生きのびようとする生き物で生きのびることに価値があると考えているのだから、それもひとつのミーイズムです。
 ネアンデルタール人の心は、世の中からも自分からもはぐれていた。世の中は人間がつくるものではなく、人間の前にすでにあるものだと思っていた。
 彼らは生きのびることに価値があるなどとは思っていなかったし、「尊厳」などいうものは死者のもとにあるのであって生きている人間のもとにあるのではない、と思っていた。彼らは、この生からも自分からもはぐれてしまっていた。そして自分を忘れて世界や他者にときめいていった。そういう心模様を持っていたから彼らは氷河期の北ヨーロッパという苛酷な土地に住み着いてゆくことができたのであり、その人類史の貴重な実験を基礎にして人類の文化文明が花開いてきた。
 良くも悪くも、サバンナの文化を基礎にして現代の文化文明が生まれてきたのではない。かなしいことではあるが、サバンナの文化は取り残されていったのが歴史の厳粛な事実です。
 生きてあることに価値があるというのは、生きのびようとする自分に執着していることでしょう。けっきょくそんなヒューマニズムも、いまどきのミーイズムと別のものではない。
 人間=自分は死んだら天国に行くとか生まれ変わるというのも、自分の死に執着している自己意識から生まれてきた。
 しかしネアンデルタール人は、人間=自分が死んだらどうなるかということなど考えていなかった。自分を忘れてゆくことを作法にして生きていた。死んだら自分が消えてなくなることだと思っていた。彼らの世界観・生命観に、「死後の世界」などなかった。
 まあ、人間存在の根拠を「自己意識」にあると考えているなら、ミーイズムです。


 現代人は、どうしてこうも「自己意識」で人間を語ろうとするのだろう。
 赤ん坊は、大人のような自己意識は持っていない。大人になるにつれて自己意識が肥大化してゆく。つまり、現代人は、昔の人よりもはるかに寿命が延びた。それも自己意識にこだわる世の中になってきたことの一因でしょう。人は、長く生きれば生きるほど自己意識が肥大化してゆく。そしてもしも永遠に生きるとしたら、自己意識だけになってしまうのかもしれない。
 人類は、天国とか死後の世界という概念によって、「永遠の生」というイメージを持ってしまった。そして科学技術によって未来はほんとに死なないですむようになるのなら、なおさら避けがたく自己意識は肥大化してゆくほかない。死も死者もないのなら、社会も人の心もずいぶん違ったものになってしまうにちがいない。
 また、現代人の生は快適で、この生や自分からはぐれてしまう体験をしなくなってきている。生きてあることの嘆きを持つことが罪悪であるかのような世の中になってきている。
 今やもう、自己意識の薄い原始人の生のかたちなど誰も想像できなくなっている。自己意識の薄い生など知能が低くて愚鈍なだけだ、と思っている。そうして誰もが「自己意識こそ人間性の基礎である」と合唱している。
 しかしそれでも人間の意識のはたらきの基礎は、自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくことにある。それが「認識する」という心的現象の根源です。人間が意識を持っている存在である限り、「自分を忘れてしまう」という体験はどうしてもする。そのときめきがなければ人は生きられない。
 長く生きてくると、自分を忘れてしまうときめきが薄れて自己意識が肥大化してくる。ときめきよりも自己意識で生きてゆこうとする。自己を律して生きてゆく、というのでしょうか。こんなことを自慢たらしく吹聴したがる大人は多い。これも、ミーイズムです。
 いまどきはもう、子供のうちから自己意識が発達してあどけなさを失っていたりする世の中にもなっている。
 自己意識が社会で成功する武器になるし、自己意識で精神を病んでゆきもする。
 すくなくとも今のところは、自己意識の肥大化は精紳を病んでゆく契機になるという状況はあるし、そういう世の中だから人類学者が原始人の心模様に推参できなくなってしまっている。彼らが言葉や埋葬や洞窟壁画の起源を語っても、的外れなことばかりです。そんな本を読んで何かがわかったつもりになっている人も多いと思うが、ほんとにもうすべてぜんぜんだめです。そうして僕のいうことなんか彼らの説明から大きく外れていたり逆だったりすることばかりだから、多くの人からただのトンデモ論にしか受け取ってもらえない。どいつもこいつも自分の説の正しさを証明できるだけの根拠もないくせに、ひたすら自分の説に執着している。「自己意識は人間性の基礎である」という前提をけっして手離そうとしない。そうしたければそうすればいいけど、それでは原始時代の歴史の説明はつかないし、僕のいうことを否定する根拠にもならない。
 原始人は生きのびようとする欲望で生きるいとなみをしていたのではなく、生きることからはぐれながら非日常の世界に入ってゆく心の華やぎによってそれをしていた。それは死者とともに生きる、といういとなみだった。人類の歴史は、そういう死にたいする親密な感慨を無意識として育ててきた。そこから人間的な文化が生まれ育ってきた。
 人類の文化の起源は、アニミズムや生きのびようとする生産行為(経済活動)では説明がつかない。なのに現代人の自意識は、あくまでそれで説明しようとする。
 いまどきは、ミーイズムは困ったものだと合唱しながら、誰もがミーイズムに浸されてしまっている。自分だってミーイズムに浸されてしまっているくせに、自分だけはミーイズムと無縁のつもりでいる。


「生命の尊厳」とか「自己意識」といっているかぎり、みんなミーイズムです。
 人は、自分を起点にして他者に気づくのではない。自分を忘れて他者に気づいてゆくのです。赤ん坊に「自分」という意識などはない。この世界には「他者」が存在するだけです。自分の身体の苦痛だって、対他的な意識なのです。自分が空腹なのではない、お腹が空腹なのです。そのとき意識は、「自分」に気づいているのではない、他者としての「お腹」に気づいているだけです。
 つまり、自分に気づいてしまったら、すでに他者に気づいてゆく契機を失っている。そうやってときに「自閉症」になったりする。自己意識が強い子供は、どうしても世界や他者に対する反応が鈍くなって表情が乏しくなる。大人だって表情が乏しい人には、そういう傾向がある。
 そして傷ついたりはにかんだりおびえたり怒ったりすねたりということがすぐ顔にあらわれる人もいる。そういう人は「自分」をちゃんと持っていないからポーカーフェイスがつくれない。
 自己意識が強いと世界や他者に対する反応が鈍くなる。そんな問題意識で原始時代の考察をしてもけっきょくは薄っぺらでステレオタイプなもので、気取ってみせても内容は人の受け売りばかりしている。
 古人類学なんて実質的には近代からはじまった学問だから、最初から「人間の本性は自己意識にある」という前提の思考しかしてこなかった。たぶん古代の人が考えたら、同じ問題に対してももっと別の解釈があるのでしょう。ネアンデルタール人の心模様は、彼らのほうがよくわかるのかもしれない。
 氷河期明けの文明の発生は、人類の世界観や生命観を一変させた。現代人のそれはますます原始人から離れていっているが、それでも誰の中にも人類700万年の歴史の無意識は息づいている。われわれだってけっきょく、自分を忘れてときめいて(熱中して)ゆくという心が華やいでゆく体験の上にこの生を紡いでいるわけで、ミーイズムがいいとなど誰も思っていない。思っていないのに、観念の世界ではミーイズムの思考をしてしまう。
 ミーイズムを持たないと成功できない世の中で、しらずしらずミーイズムに浸されながら、それでもミーイズムはよくないと合唱している。
 なんともなやましい話です。
 ともあれ、「人間性の基礎は自己意識にある」などという前提で考えていたらいつまでたっても原始人の心模様には推参できない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ