無能であること・ネアンデルタール人論46

 人類史上、火とのもっとも親密な関係を結んでいたのは、氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人でしょう。それは暖をとるためのものであると同時に狩りの獲物を焼くためのものでもあったし、さらには洞窟の中での語らいの場における大切な舞台装置でもあった。
 人類の知能の進化は火を有効利用することを覚えた……と人類学者はいう。しかし最初は、猿と同じように火が怖かったはずです。それはもう、生き物の本能のようなものかもしれない。そこから火を有効利用しようとする発想が生まれてくることはあり得ない。
 まず、火に対する親しみを抱いていったのがはじまりでしょう。そうやって火とともに生きる生活習慣が生まれ、その結果として暖をとったり肉を焼いたりする有効利用の方法が見い出されていった。
 最初は、暖を取ったり肉を焼いたりするためのものではなかった。ただもうみんなでそのゆらめく熾(おき)火=焚き火を囲んでぼんやり眺めていただけだったはずです。それによってその場の親密な空気が生まれていった。そのときもしも言葉を持っていたら、語り合いの空気が華やいでいった。おそらくそれこそが、最初に見いだされていった火の効用だった。
 人類の文化の起源は、生き延びるためのいとなみ(=労働)として生まれてきたのではない。それは、この生をなだめだり心が華やいだりしてゆくたんなる「遊び」だった。
 人の心は、生き延びることができたという達成感で華やいでゆくのではない。生き延びることに達成感などない。「もっともっと」という欲望というか飢餓感が永久に続いてゆくだけです。
 熾火のゆらめきを眺めていると、「もう死んでもいい」という心地になってゆき、心はそこから華やいでゆく。遊びとは、生き延びようとすることを忘れて「今ここ」に憑依してゆくことです。自分を忘れて夢中になってゆくこと。
 遊びのカタルシスは、「今ここ」に憑依し、「今ここ」に自分が消えてゆくことにある。人類の文化は、そのカタルシスとともに生まれ育ってきた。
 火との親しい関係を持つことなしに有効利用の方法が発想されることはありえない。
 火は生き物の命を滅ぼすものであるのになぜ人類だけは親しみを抱いていったのか。それは、「滅びる」ということそれ自体に対する親密な感慨があったからでしょう。人の心の底には「もう死んでもいい」という無意識の感慨が息づいており、心はそこから華やぎときめいてゆく。原初の人類は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに二本の足で立ち上がっていった。その無意識の感慨とともに火に対する親しみを抱いていった。
 山火事の怖さがどうのという話ではない。それは、小さな「熾(おき)火」に対する感慨からはじまった。山火事のあとの燃え残っている木切れを拾ってきてみんなで眺めている……それは、やがて消えて(滅んで)ゆくものです。ゆらめきながら消えて(滅んで)ゆく。その様子を眺めていると、心が癒される。そのゆらめき=ときめき、人類は、まず最初にそういう体験をした。それが、おそらく火の使用の起源です。
「もう死んでもいい」と思えることこそ人類にとっての解放であり、生き延びることが約束された「予定調和の世界」を実現することではない。心は、その消失感覚とともに華やいでゆく。その「結果」として火の有効利用を覚えていっただけのこと。


言葉の起源だって同じです。まず、音声を発することや聞くことのときめきがあった。その意味を伝達して他者との予定調和の関係(共生関係=一体感)をつくろうとしたのではない。
そのさまざまなニュアンスを持った人間的な音声を発したり聞いたりすることによって自分を忘れてときめいてゆく体験があった。自分を忘れること、自分が消えてしまうこと、すなわち滅びること、そこに人間的なときめきがある。
 人は、他者との「共生関係=一体感」を生きているのではない。他者にときめいて自分が消えてゆくことこそ生きられないこの生からの解放であり、その体験を契機にして人類の文化というか人間的な知性や感性が進化発展してきた。
 生きられない生を生きることが人類の文化の起源の契機になった。
 人の意識においては、世界はぼんやり見えていると同時に、世界の一点に焦点を結んでいる。
ただ、文明社会における世界との「世界の調和=共生関係=一体感」を構築した生きられる状態においては、世界の細部のすべてに焦点が結ばれている。そうした状態においては、目の前の一点に焦点が結ばれることは世界の調和が乱される異常事態であり、したがってそのときの心模様は、「ときめき」ではなく、ネガティブな「憎しみ」や「恐怖」として体験されている。そうやって戦争が生まれてきた。
 世界は調和したものであらねばならない、この世のすべては神によってすでに決定されているものであらねばならない、という強迫観念ともに文明社会がつくられていった。
 文明社会は、人の心をそのように染め上げる。そのとき意識においては、目の前のすべてのものに焦点が結ばれ、一点に焦点を結んでまわりが「ぼやけて見える」ということがない。まあ世界がすべて自分と調和し自分の支配下にあると思えるなら、それこそ「リア充」に浸ってゆくことができるでしょう。だが、ひとたびネガティブな状況に置かれれば、世界のすべてが敵のように思えて、ひどく不安になり、その不安が憎しみへと増殖してゆく。自分の生きのびる資格というか自分が持っている「世界の調和」が侵害されたと思う。意識の焦点が世界の細部にくまなく結ばれているから、世界がすべて敵になってしまう。
 自分に生きのびる資格があると思うなんて、人か人生に対するよほどの恨み(ルサンチマン)があるからでしょう。現代社会は、そういう自我の肥大化を培養してしまう構造を持っている。そういう傾向が強い人は、乳幼児体験として「世界の調和」のさなかに置かれてそれを刷り込まれたか、それを渇望する状況に置かれたか、家族をはじめとするそういう生育環境があったのでしょう。
「世界の調和」を生きようとする強迫観念というか自我の肥大化は、人間性の自然ではなく、文明社会の心の病です。


 人は、自然・根源において、けっして「世界の調和」を生きていないし、渇望してもいない。人の心は、「世界の調和」からはぐれて一点に焦点を結んでときめいてゆく。人の意識は、根源において世界の調和を喪失している。世界はぼやけて見えている。だからこそそこから一点に焦点を結んでゆくときめきが生まれ、人間的な「イノベーション=飛躍」としての文化が進化発展してきた。
 原初の人類集団は、猿の集団の形態から派生して生まれてきた。そのせいか、集団が定着すると、もとの猿の集団のような「順位制」という調和=秩序を持ってくる。しかしもともと人類の歴史はそうした調和=秩序からはぐれるようにしてはじまったのだから、とうぜんそこからはぐれてゆく動きが生まれてくる。
 集団が定着すれば、どうしても秩序=調和を持ってくるし、そうなればそこからはぐれていってしまうのが人間性の自然です。原始時代の人類は、そうやって地球の隅々まで拡散していった。
 しかし氷河期明けの文明社会においては、個人がはぐれてゆかないような、より大きな集団をつくっていった。つまり、「神」を頂点にした完結した秩序=調和の世界をイメージし、それをもとにして共同体(国家)という集団を定着させていった。そうしてその完結した秩序=調和から逃げ込む場所として「家族」が生まれてきた。文明社会の歴史は、そうやって「はぐれてゆく」という人間性との帳尻を合わせてきた。
 人の心は、どうしても世界の秩序=調和からはぐれていってしまう。この世界に秩序=調和が存在しないところに人間の生のかたちの自然がある。われわれのこの生は「何かの間違い」であり、間違いに気づくことこそ人間的な知性や感性です。間違いに気づいて脳のはたらきが新しく組み換わるのが知性や感性です。
 したがって太宰治が「生まれてきてごめんなさい」といったのも、それはそれで人間としての率直で普遍的な感慨だともいえる。
 まあこのブログの主題はあくまで「起源論」であり、現在の高度な学問や芸術を語るつもりも能力もないのだが、その本質は「起源論」と通じているはずです。人間性の自然に、原始時代も現代もそして未来もない。そして、もっとも高度な学問や芸術の本質は、「この世のもっとも弱いもの」の存在のかたちと通じている。
 それにしても現代人は、なぜこうも「世界の調和」を理想のように語りたがるのだろう。
 人間はもともと理想など持たない存在だった。もしも原始人が「世界の調和=住みよい土地」という理想を持っていたら、人類拡散など起きなかった。拡散していった先はつねにより住みにくい土地だったし、原始人が旅をすることは生きられない状況に置かれることだった。そのとき彼らを動かしていたのは、未来の理想ではなく、「今ここ」の目の前の他者という「一点」に焦点を結んでゆくときめきだった。その体験があれば人類はもう住みにくさや生きられなさなど厭わなかったし、そこから心が華やいでいった。その生きられなさこそ、人類の知性や感性の進化発展の契機になっていった。


「世界の調和」を理想として目指すなんて、自閉症の世界です。現代人は、そうやって心が病んでゆく。
 文明社会は、たしかに自閉症的です。
 自閉的な心は、「世界の調和」によって保障されている。孤立しているのではない。すでに「共生関係=一体感」を生きている。「共生関係=一体感」を生きながら、意識は絶えず「自分」にフォーカスしてゆく。そのことの恍惚と不安を生きている。「共生関係=一体感」を得ようとして得られなければ、たちまち精神を病んでゆく。得ようとすること自体が、すでに病んでいる。
 人は、「共生関係=一体感」によって解放されるのではないし、それを得ようとするのが人間性の自然というわけではない。それを得ようとする欲望は、文明社会の病です。
現代人はもう、自分は美しいかとか自分は正しいかとか、つまり自分はこの世界と調和して存在しているかということばかり気にして生きている。「世界の調和」という「共生関係=一体感」を生きていれば、世界に対する反応は起きてこない。反応する必要がない。反応する必要がない、と約束されている。そうして意識は、ひたすら「自分」にフォーカスしてゆく。
 世界に対する「反応」としての「世界の輝き」は「世界の調和」の上に起きるのではない、世界からはぐれた心によって体験される。そのとき世界はぼやけて見えている。しかしだからこそ意識は「印象」という人間的な認識体験を持つことができる。そうしてそのとき、世界は存在するということそれ自体で輝いている。
 それは、世界のすべてが輝いている、ということではない。意識は、世界のすべて、すなわち「世界の調和」なんかとらえられない。
 人間性の自然としての意識は、「目の前の今ここ」という一点に焦点を結んでゆく。それが「ときめく」という体験です。その体験によって人類の知能や文化が進化発展してきた。
 意識が一点に焦点を結べば、そのまわりはぼやけている。
 われわれは世界の調和の中に組み込まれて存在しているのではない。世界からはぐれて存在している。われわれの根源的な意識は世界の調和を知らない。ただそれは、世界は混沌としているということではない。調和も混沌も知らない。ぼやけているだけです。
世界からはぐれてしまった心は、ただもう「目の前の今ここ」という一点が鮮やかに浮かび上がっているだけです。人の心は、そうやってときめいている。
 世界はぼやけているからこそ、輝いている。ゆらめきながら輝いている。それが、「印象」という反応です。それが、ときめくということであり、人の気持ちを察するということです。
 自分を世界との調和の中において、たえずクリアな世界とクリアな自分を意識しているなんて、それはたえず「警戒心とともに緊張している」ということです。人類はもともと猿よりも弱い猿だったのであり、二本の足で立っていれば、天敵のみならず仲間にだって攻撃されたらひとたまりもないという存在の仕方をしている。それは、緊張しないで無防備になる、ということの上に成り立っている姿勢だった。世界がぼんやり見えているから無防備になれる。原初の人類はそういう流儀で歴史を歩んできたのだが、いつの間にか文明を発達させて「万物の霊長」の地位に登りつめてしまった。そうして、「世界の調和」を手に入れているような生き方というか観念のはたらきをするようにもなってきた。そこでは、世界の細部がクリアに意識されている。クリアに意識して世界の細部の隅々まで支配している。そうやって現代人は「世界の調和」というまどろみ(=リア充)を獲得したのだが、二本の足で立っている猿としての無意識(=本能のようなもの)が消えたわけではない。「まどろみ=リア充」に失敗すると、一挙に猿よりも弱い猿としての世界や他者に対する恐怖や不安が噴き出してくる。
 人間にとって世界がクリアに見えているということは、たえず世界に対する不安や恐怖にさらされているということです。現代人の自我による「リア充」とか「幸せ」などというものは、そうした不安や恐怖と背中合わせで獲得されている。
 生き延びようとする自我=欲望が肥大化すると、そうやって人間としての自然に裏切られる。
 社会的に成功して満足だといっても、心の奥にそうした不安や恐怖を飼い慣らしていることが多い。だから、その成功を失ったり人間関係に失敗したりすると、たちまち鬱病等の精神の変調を引き起こしてしまう。
 歳を取って呆けてきたりするのも、「万物の霊長」としての肥大化した自我とともに不安や恐怖を心の奥で飼いならして生きてきたことのツケを支払わされているのかもしれない。


 世界がとてもクリアに見えているのに、人の気持ちに鈍感で、自分のことばかりしゃべっている……今どきはこういうタイプの人が多い。とくに大人たちに多い。クリアに見えていることが能力として評価される社会だから、当人は大いに賢いつもりになれる。そうして内田樹先生などは、いまどきのぼんやりした若者は何もわかっていないから教え諭して導いてやらないといけない、などとえらぶっていう。
 しかし、その「クリアに見えている」ということが病理なのです。
 まあいまどきは、そういうアジテーターがわんさか登場して、それに引きずられる人間がわんさかいる世の中です。「啓蒙書」というのか「自己啓発本」というのか、そういうコンセプトの本が大いに売れているらしい。
 まったく大きなお世話なのだけれど、それにすがろうとする人が後を絶たない。「元気をもらう」とか「勇気をもらう」などといって、自分が何者かになったような高揚した気分が欲しいらしい。
 そしてその一方で、「俺たちバカだから」といいながらまったりと生きている若者も増えてきている。
 いったいどちらが人間性の自然に沿っているか?
 世界がぼんやり見えていることのほうが人間的であり、じつはそこにこそ人間的な知性や感性が豊かに育ってくる契機が潜んでいるのです。
人の気持ちを察することができるという能力が知性か感性かよくわからないが、その「印象」という心のはたらきは、世界がぼやけて見えているところから育ってくる。それは、人はこういうときにはこういう心模様になる、というあらかじめ頭にインプットされてある知識よって察するのではない。そんな知識に頼るのは察する能力を持っていないからです。そのときの他者の心模様はいろいろだし、たんなる知識以上の微妙なニュアンスも持っている。それはもう、そのときその場のなりゆきで察したり感じたりすることで、それが「印象」を汲み上げるという心のはたらきです。そんなあらかじめの知識をいっぱい詰め込んでいたら、それだけにたよって「印象」という心のはたらきは起きてこない。言い換えれば、「印象」という心のはたらきを持っていないから、あらかじめの知識を詰め込もうとする。
あらかじめの知識を持っていないぼんやりした心のほうが、豊かに「印象」を汲み上げるのです。


 今どきは、世間ずれしてどんどん有能になってゆく人間の階層と、ニートやフリーターのような無能な階層とに二極化していっているのでしょうか。知識の二極化、収入の二極化、そういう階層化が進んでいる。
 このブログでは、有能であることにはあまり興味がないし、有能にさせてくれるらしい「自己啓発本」の薄っぺらな人間理解なんかほんとにくだらないと思う。人間という存在があの程度の理解ですむはずがない。あの連中だけじゃなく、世の多くの人類学者だって「あの程度」の人間理解で済ませているから、いけしゃあしゃあと「ネアンデルタール人は滅んだ」などと合唱してはばからない。
 今、パラダイムシフトは可能か?
 彼らの人間理解を転倒させないといけない。
 社会的に無能な人間のほうが知性や感性が豊かに育ってくる契機を持っているのです。
 知性や感性が豊かになってくれば、無能になるほかないのです。そこでは、世界はぼやけて見えている。人類は、世界がぼやけて見えていることによって文化を進化発展させてきたのです。
 原初の人類が火に対して親密になっていったのは、それがゆらめきながら消えてゆくことにみずからの生=命のはたらきをシンクロナイズさせていったからです。そうやって「もう死んでもいい」という生き物としての普遍的で本能的な感慨を引き寄せていった。心は、そこから華やぎときめいてゆく。
 有能になる方法なんか、「勝手にやってくれ」というしかない。
 ここで知りたいのは、人はなぜ「無能」になってゆくか、ということです。
 人類の歴史と向き合っていると、人は無能になってゆく。今どきのダメなニートやフリーターたちの心は、人類の歴史すなわち人間性の普遍・自然と向き合っている。その無意識に「もう死んでもいい」という感慨が息づいている。そう思い定めれば、有能にならねばならない必要などどこにもないし、そこでこそ出会う人間性の自然がある。
彼らの心は、ゆらめきながら消えてゆく「熾(おき)火」のようだ。人類の歴史は、不可避的にそういう無能な人間を生み出してしまう。人間は、生きられない生の状況に身を置いてしまう習性を持っている。そこから心が華やぎときめいてゆく。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
生き延びようとすることがコンセプトの文明社会ではとうぜん生きる能力を持った人間がもてはやされるが、それでもいつの時代もそのことがうまくできない無能な人間を一定数生み出してしまう。彼らの心は病んでいるのではないし、彼らの中から文化のイノベーションをもたらす才能があらわれてくる。心は、生きられないところから華やぎときめいてゆく。彼らの心は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」にときめいているし、みずからもまたそういう存在として生きようとしてしまう。それが人間性の自然であり、その生きられなさこそが根源的なセックスアピールになっている。
なんのかのといっても生き延びようとあくせくしている人間は嫌われるし、生きられないことを許してゆくのが人間性の自然になっている。
今どきの大人たちは「生きられる人間になれ」といい、生きられる人間の正当性を確認しあう社会をつくろうとしているのだろうが、それなのに生きられない無能な人間があらわれてきてしまう。これほどに生きられる人間になるための教育や情報が発達している社会になっても、生きられない無能な人間の群れはじわじわ増殖しつつあるとさえいえる。
貧富の格差が増大しているといっても、無能な人間が貧しくなってしまうのはしょうがないことだともいえる。有能にさえなれば金持ちになれる社会です。それでも多くの人が無能な存在として生きてしまう。
人間は、自然・本能として生きることに有能になり切れないものを持ってしまっているし、無能であることを許し、ときにはそこにセックスアピールや尊厳を見出したりしている。
介護とは、無能であることの尊厳にひざまずいてゆく行為なのでしょう。
人間は根源・自然において生きられないことを許している。生きられないことにこそセックスアピールがあり、人間であることの尊厳がある。原初の人類が熾(おき)火のゆらめき消えてゆく炎に魅入られていったのもそういうことで、そこに生きられないことの尊厳を見出し心が華やいでいった。まずそういう体験があり、そのあとから生き延びる技術としての煮炊きや暖を取ることを覚えていった。
つまり、煮炊きや暖を取ることを覚えていったのがイノベーションだったのではない、火との親密な関係を持っていったことこそがイノベーションだったのです。
生きることに無能である人間が文化のイノベーションを生み出す。
 生きることにあくせく頑張れば有能にも金持ちにもなれるが、それはただ凡庸なだけです。ホリエモン現代社会の代表的な有能な人間の一人で多くの人をうらやましがらせているのだろうが、あの凡庸さはいったい何なのでしょう。彼のところからは何も生まれてこないし、彼に人間的な魅力があるとも思えない。生き延びようとする自我の欲望こそが人間性の基礎だと繰り返し主張し続けている内田樹の思考のあの凡庸さと品のなさにはうんざりさせられる。
 生きることに有能であることの凡庸というものがある。だから人は、悲劇に魅せられる。そこにこそセックスアピールと尊厳がある。原初の人類がゆらめきながら消えてゆく熾火の炎に見入ってしまったように。
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