都市の起源(その五)・ネアンデルタール人論156

その五・疲れ果てる


内田樹は「自尊感情」という言葉をよく使うのだが、「人は自尊感情を持てなければ生きられない」のだとか。
自尊感情、すなわちナルシズム。
笑わせてくれるじゃないか。
どんな顔をしているのか知らないが、自閉症のナルシストなんだろうね。
僕なんか、自分はこの世の最低の存在だと思っているが、それでもまだ生きている。僕の心は傷つき弱っているが、自殺しようとしたことは一度もない。傷つき弱っているが、自殺したくなるほど荒れ狂っているわけではない。自尊感情が欲しくないとはいわないが、そんな感情を持てるほどご立派な人間ではないし、そんな感情を基礎にした思考や行動は、幸か不幸か持ち合わせていない。人に対しても世の中に対しても、うんざりさせられることは多いが、それでも、悪いのは自分のほうだ、という気持ちがいつもある。世の中はどうなっているのだろうと考えることはあるが、世の中を変えたい、などと思ったことはない。そんな資格や権利や能力が自分にあるとは思わない。選挙で一票を投ずることさえ尻込みしてしまう。自分はこの世の中の一員だとは思っていない。僕なんか、この世の中のただの居候だ。だから、世の中に従うしかないし、世の中の動きに合わせることがうまくできない。出てゆけといわれれば出てゆくしかないし、戦争に行けというのなら、老い先短い身でなんの役にも立たないけど、そりゃあ行きますよ。
この世の中においては、僕の心はたぶん病んでいて、自尊感情を持っている人の方が健康なのだろう。
しかし、僕は特別でもなんでもなく、人間なんて誰の心の底にもそういう生きてあることのうしろめたさやうとましさのような思いが疼いているのではないかとも思う。
どうしてこの世の中に生まれてきてしまったのだろう。生きることも死ぬこともできずに宙ぶらりんのままに置かれてしまっている。べつに生きたいわけでもないのだけれど、それでも世界は輝いていて、僕を生きさせてしまう。僕は、あなたの笑顔にときめいてしまう。このごろますます、木の葉の緑とか風の気配とか、そんなありきたりものにすらときめいてしまうようになった。誰だってそうだろう。そんな心模様が人を生かしているのではないだろうか。
僕の人生なんかになんの意味も価値もないのだけれど、生きていることは何かと出会い続けることであり、この世界もあなたも輝いている。
都会で暮らしていれば、街や職場や学校で、さまざまな人と出会う。雑踏の中でただすれ違うだけの見知らぬ「あなた」に対してだって「出会いのときめき」はある。
雑踏の中にいることは、なんだか怖くて鬱陶しくて疲れてしまうのだけれど、疲れながら無防備になってときめいてしまっている瞬間もある。
都市生活は、人の心を疲れさせる。しかし心は、疲れながら華やぎときめいてゆく。
人は、「出会いのときめき」を求めて都市に集まってくる。
まあ都市に向かう表向きの理由は、勉強がしたいとか、金を稼ぎたいとか、出世がしたいとか、いろいろあるのだろうが、その目的意識の奥底のどこかしらに「出会いのときめき」を待つ心がはたらいているはずだし、ただ漠然とそんな気分で出てくるものの方がむしろ多数派かもしれない。
べつに金が稼げなくても出世ができなくてもかまわない。しかし、同性であれ異性であれ、「語り合える」相手と出会えなければ、その行動は失敗だったといえる。
それはもう、もとからの都市住民だろうと地方か出てきたものだろうと同じで、その体験なしに都市の暮らしは成り立たない。こんなにもたくさん人がいるのだもの、そういう相手がいないはずがないし、こんなにもたくさん人がいるのだからその中からそういう特別な相手とめぐりあうのはとても難しいともいえる。
そういう「都市の混沌」が、人の心を疲れさせもするし、華やぎをもたらしもする。
そして、疲れていなければ、ときめく心は起きてこない。
内田樹のように、自分の心の「安定と秩序」に充足してゆく「自尊感情」とやらに執着・耽溺しているものに体験できるはずがない。
疲れていなければ都市住民じゃない、ともいえる。自己の「安定と秩序」に充足しているものには「都市生活の疲れ」などない。世の中は間違っている、人々は愚かだ、と吠えまくって自尊感情に浸りきっているものに「出会いのときめき」なんかあるはずがない。どんなにたくさんの取り巻きがいても、内田樹の心にあるのは「取り巻かれていることの充足」だけで、じつは誰にもときめいていない。また、取り巻いているものたちも、同意してうなずきながらみずからの「自尊感情」を確認しているだけだ。自尊感情が大事だというネットワークに、ときめき合う関係などあるはずがない。彼らの充足しきった表情のどこにセックスアピールがあるというのか。セックスアピールを持たないものどうしがうなずき合っているネットワークなのだから、ときめき合う関係になるはずがないし、それは都市的ではない。
この生やこの世の中に打ちひしがれ疲れ果てているものたちのほうが、ずっと深く豊かにときめき合っている。
都市や都市住民のセックスアピールは、疲れ果てていることにある。都市住民は、誰もが疲れ果てた旅人なのだ。
誰もがセックスアピールを持っているから、誰もがときめき合う関係が生まれる。じつは、この関係によって人類拡散が起きてきたのであり、都市の発生の問題は人類拡散の問題でもある。
人類拡散の果てに氷河期の北ヨーロッパにたどり着いたネアンデルタール人がフリーセックスの関係の社会をつくっていたということは、誰もがセックスアピールをそなえた存在としてときめき合っていたということを意味する。そして、彼らのどこにセックスアピールがあったのかといえば、誰もが「疲れ果てた旅人」として生きていたということにある。その生きられない厳しい環境のもとに置かれて、誰もが疲れ果てていた。
この世のもっとも豊かなセックスアピールは、この世のもっとも「生きられない」もののもとにある。この生や自分の心の「安定と秩序」に充足しきっているものや、元気いっぱいに人や社会を憎んだり恨んだりして荒れ狂っている心のもとにあるのではない。まあ、そうした「安定と秩序」を欲しがるから、心が荒れ狂ってしまう。そうやって現代人は、自閉症認知症等々の心を病んでいる。スピリチュアルだかなんだか知らないが、そうやって「神」や「霊魂」や「生まれ変わり」等々の概念にすがりつく。