物語の向こう・ネアンデルタール人論266

ドーキンスダーウィンがいうように、おそらく生きものの命のはたらきや心のはたらきはすべて遺伝子の存在の仕方に還元できるのだろうが、その遺伝子の存在の仕方そのものは、彼らがいうような「利己的」とか「適者生存」とかというようなことではないのではないだろうか。
つまり、人であれ他の生きものであれ「進化」とは、「利己的」とか「適者生存」というような予定調和の「物語」を超えてゆくところでこそ起きているのではないだろうか。
進化とは、環境世界のはからいとして「生きられない」ものが生き残ってゆくことだ。
というわけで、人の世の時代の様相は、物語と非物語のあいだを往還し続ける。
この生の振幅。
息を吐くことと吸うこと。
幸せと不幸。
希望と絶望。
感動と幻滅。
歓喜と憂鬱。
喧騒と静寂。
この人生という物語がどちらに転んでも、けっきょく人は生きられない。
この生は、生きられない赤ん坊としてはじまり、生きられない老人や病人として終わる。そしてそれは、この生そのものの振幅でもある。生きられないところから命のはたらきが活性化してゆき、また鎮まってゆき、また活性化してゆく。そいう振幅が生きるいとなみになっている。
豊かに活性化してゆく命ほど、鎮まってゆく気配も深い。
活性化しない命ほど、この生や自意識に潜り込んだまま身動きできなくなってゆく。
潜り込むというか、閉じ込められているというか、生命賛歌とはそのようなものだろうし、あの世まで生き延びようとする欲望はなお自閉的だ。
人生という物語に閉じ込められてしまったら、心は活性化してゆかない。ときめきを失ってしまう。
人の心は、人生という物語から超出してゆこうとする。そうやって自分を忘れてときめいてゆくし、深くかなしみもする。
深くかなしむことができるものこそ、豊かにときめいてゆく。かなしみとときめきは、「非物語」として生成している。
心が宇宙まで広がってゆくということは、宇宙に閉じ込められている、ということでもある。死後の世界まで生き延びてゆくということは、「この生=人生」という物語に閉じ込められているということだ。
宇宙の外は、どこにあるのか。
「今ここ」にある。
心は、「今ここ」に消えてゆくことによって、「宇宙という物語」の外に超出してゆく。
「今ここ」という「片隅」に、「物語」を超えた「非物語」がある。
心は、物語の完結を目指しているのではない。というか、物語の完結とは、物語の外に出てゆくことだ。
「超えてゆく」ことは「消えてゆく」こと。終わらない物語はない。終わるものを、物語という。
まあ、そうやって「時代=流行」という物語は、必ず衰弱・消滅してゆく。
人の心は、物語を受け入れつつ、いつの間にか物語からはぐれていってしまう。
国家という物語。
人生という物語。
死後の世界という物語。
宇宙という物語。
「時代=流行」という物語。
「生きている」という物語。
「存在する」という物語。
心は、物語にとどまっていることができない。
物語とはひとつの虚構であり、心はどうしても「真実」とか「普遍」というものを追い求めてしまう。「非物語」としての真実や普遍に対する「遠い憧れ」があるというか、この生という虚構の物語は、「真実」や「普遍」という「非物語」に照射されている。そうやって人は科学や哲学や歴史といったものに引き寄せられてゆくのだろうか。
どんなに無知な庶民だろうと、心は、科学や哲学や歴史に対する「遠い憧れ」とともに生きている。
青い空を見上げて「ああ」と嘆息すること自体がすでに科学や哲学や歴史に対する「遠い憧れ」であり、それはもう、700万年前に原初の人類が二本の足で立ち上がったときから抱いてきた「普遍的な」感慨にほかならない。
青い空は、この生の物語の外にある。
時代の流行は、青い空に対する遠い憧れとともに衰退消滅してゆく。
青い空の向こうには天国や極楽浄土があると同時に、「何もない」世界でもある。
文明社会は「死後の世界」という物語をつくり上げてしまったが、それでも人の心の深いところでは、青い空を見上げて消えてゆく心地に浸されている。そうやって「ああ」と嘆息している。それが人の心の自然であり、いいかえれば人は、その「何もない=消えてゆく」ということを受け入れられなくていつまでも物語に執着しながら心を病んでゆく。

自分が消えてゆくことのカタルシスというものがある。この世に生まれ出たものはその体験とともに生きはじめ、その体験とともに死んでゆく。
人の心はけっきょくのところ、物語が解体された非物語の、消えてゆくことのカタルシスに浸されてゆく。そこから科学や哲学が生まれてきたのだし、そうやってたえず時代=流行を終息させながら歴史が移り変わってきた。
人の心は、消えてゆくことのカタルシスとともにときめき、そしてかなしむ。人の世は、出会いのときめきと別れのかなしみの上に成り立っている。いつまでも祭りのさなかにいることはできない。祭り=物語が始まりそして終わるということ、その振幅として歴史が流れてきた。
始まることと終ること、それがなければ命のはたらきにはならない。
「始まる」ことは、「まだ生きていない」という状態がなければ起きない。それはつまり、「生きられない」状態のことだ。息苦しいから、息を吸うという行為が起きる。この生は、「生きられない」という悲劇から始まる。そして「もう生きられない」という悲劇で終わる。
「生きられない」ことこそこの生の通奏低音であり、そこに立って「生きる」といういとなみが起きている。「生きる」ことは、「生きられなさ」に「身もだえ」することだ。われわれの心も体の細胞も、「生きられなさ」に「身もだえ」している。そこから「消えてゆく」ことのカタルシスが生まれてくる。
「生きられなさ」から始まり、「もうじゅうぶんに生きた、もう死んでもいい」という状態にたどり着く……息を吸ったり吐いたりするように、体の細胞がたえず再生産されてゆくように、命のはたらきはこの反復として成り立っている。それは、「もう死んでもいい」というところから始まり、「もう死んでもいい」というところで終わる、ということでもある。人は、そうやって生きはじめ、そうやって死んでゆく。それは、われわれの一生の道程であると同時に、生きてある「今ここ」の命のはたらきでもある。
心が「もう死んでもいい」と思うのではない。これはたんなる比喩で、生物学的な問題としての命のはたらきはそういう「生きられなさ」をともなっている、といいたいのだ。
「生きられなさ」をともなっていない命のはたらきなどないのであり、心もまた、「生きられなさ」を受け入れるというか「生きられなさ」に飛び込んでゆくというかたちで豊かなはたらきが起きてくる。それは、命のはたらきが始まるときと終るとき、すなわちこの生と死との境目としての「出会い」と「別れ」において体験されている、ということだ。
「生きられない」状態にこそ命のはたらきが起きる契機があり、人の心は「生きられなさ」が受け入れられないその過剰な自意識とともに心を病んでゆくし、その過剰な自意識を武器に「生き延びる」ことがコンセプトのこの社会と調和しながら成功していったりもする。
そうして、この社会と調和しながら、知らず知らず心や命のはたらきを停滞衰弱させていったりもしている。
この世のもっとも豊かな命のはたらきは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとに宿っている。
なんのかのといっても、「生きられなさを生きる」気配を持った人は魅力的だし、セックスアピールがある。
美人は何はともあれこの世の稀少な存在で、美人であるということそれ自体が「生きられない気配」になっている。人はそれを、「この世のものとは思えない」などという。
美人でなくとも「生きられない気配」を感じることはできる。たとえば、着るものの趣味であれ、言葉遣いであれ、感じ方や考え方であれ、「センスがいい」ということは、「生きられなさ」をけんめいにやりくりしていることの結果であり、そこにその人の魅力があらわれている。
この世界や他者に豊かに「反応」するということは「生きられなさ」をやりくりしていることの表現であり、その豊かさにおいて人は猿から分かたれた。「生きられなさを生きる」ところにこそ、人の人たるゆえんがある。それは予定調和の「物語」を超えてゆくことであり、そうやって人は、自分を忘れてこの世界や他者にときめいてゆく。その豊かさ=ダイナミズムとともに人類の文化は進化してきた。
命のいとなみは「生きる」いとなみには違いないのだけれど、それは、「もう死んでもいい」というところでこそより豊かにはたらいている。
「愚かで弱いもの」であることこそ、人の人たるゆえんなのだ。
あなたたちがどんなにみずからの生き延びる能力の賢さや強さや正しさを自慢しても、「愚かで弱いもの」は、あなたたちよりももっと美しく魅力的で、もっと豊かな命や心のはたらきを持っている。