たかがポルノ、されどポルノ・神道と天皇(23)

宗教がないと生きられない……。
宗教なんかなくても生きられる……。
そんな水掛け論をしていてもしょうがない。生きものは根源において生きられない存在であり、生きられなさを生きることが生きるいとなみになっている。生きられなさを抱きすくめるようにして生きている。
宗教者と生命賛歌を争っても、宗教批判にはなりえない。そうやって宗教批判をするあなたもまた、「宗教的」なのだ。
生きものは、生と死のはざまを生きている。
宗教は生きるための装置であるが、宗教者だって、生きられなさを抱きすくめるようにして生きている。
それが人間なのだもの、それが生きものなのだもの。
明日も生きてあることを前提にしていたら、生きることの豊かさは生まれてこない。「今ここ」のこの世界に豊かにときめいてゆくという体験は、明日も生きてあることを前提にしない、あるいは明日も生きてあることはできないというところから生まれてくる。
すなわち、「無常」ということ。
「無常」とは、この世界や他者に豊かにときめきつつ、しかもこの生に深く幻滅している、ということだろうか。そのようにして生きていれば、いつ死んでもかまわないし、死にたいとも思わない。
小林秀雄は「現代人は鎌倉時代の生女房ほどにも無常ということがわかっていない」といったが、いつの時代も女は、男よりもずっと「無常ということ」がよくわかっているのではないかと思える。
もちろん今どきはわかっていない女だっていくらでもいるのだろうが、それでも女は、その本質において、男よりもずっと豊かにときめいてゆく資質や、ずっと深くこの生に幻滅してゆく潔さを備えている。
この生が素晴らしいものだなんて、ただの幻想であり、そう思いたいだけだろう。まあ今どきは、男だけでなく、女だってそう思いたい自意識をいっぱいに膨らませながら生きている人種が少なからずいる。

セックスをするときの男は、ときめきがあろうとなかろうと、意識するにせよしないにせよ、「やりたくてたまらない」という本能的な衝動を持っている。
一方女は、そのような本能的な衝動はないが、豊かにときめく心も「いつ死んでもかまわない」という無常感もそなえているから、「やらせてあげてもいい」という気になることができる。
そしてこれは、人間だけでなく、生きもののオスとメスの普遍的な関係性ではないかと思える。
人間も含めた生きもののメスは、「優秀な子孫を残すためにオスを選択する」というような本性を持っているのではなく、ただ「やらせてあげる」だけなのだ。「いつ死んでもかまわない」という無常感においては、むやみに特定の男に執着するということはない。そりゃあ人間の場合は、いい男かどうかとかセックスアピールとかを感じる文化的状況の中に置かれているわけだが、そういう相手に対してだって「やらせてあげる」という気になっているだけで、男の「やりたくてたまらない」という本能的な衝動とは別次元のことに違いない。
男はまあ、基本的には女なら誰でもいいし、女もまた、基本的にはどんな男が相手だろうと「やらせてあげてもいい」という気になることができる、
両方とも「やりたくてたまらない」ということは、「やりたくてたまらない」という衝動などなくてもセックスの関係が成立する、ということでもある。つまり、男と女が出会えばセックスをするということが前提になっているのであれば、今さらそんな衝動を持つ必要がないし、そんな衝動なしにセックスは成り立たないし、そういうダブルバインドに陥ってしまう。
男のペニスの勃起は、「やりたくてたまらない」という本能的な衝動の上に成り立っている。
生きもののオスとメスのセックスは、両方とも性衝動(性欲)があるという関係性の上には成り立たない。
オスの「やりたくてたまらない」という衝動は、セックスをすることの不可能性の上において、よりダイナミックに発現する。つまりそれは、メスには性衝動(性欲)がない、ということの上に成り立っている。猿から分かたれた人類は、そういう関係性がよりあからさまになっていったことによって、一年中発情しているというか一年中セックスしている存在になった。
発情期の猿のメスは、性器の色や形や匂いの変化によってオスの発情をうながすしるしをあらわす。しかし二本の足で立ち上がった人類の女は、性器を尻の下に隠し、性器の色や形や匂いの変化もほとんど示さなくなっていった。だからこそ、男の「やりたくてたまらない」という衝動がエスカレートしていった。そして女も、男のそうした勢いにほだされて「やらせてあげてもいい」という態度をかんたんに示すようになってきた。人類は、そういう関係性とともに圧倒的な繁殖率の高さを獲得して生き残ってきたのであり、現在においても男と女の関係の文化はつまるところそういう関係性の上に成り立っている。
男と女のセックスにおいては、まず男のほうからのはたらきかけがあり、女がそれに応じる、というかたちが基本になっている。べつに、女はつつしみ深く男に付き従うとか、そういうことではない。
前置きが長くなったが、古事記イザナギイザナミがセックスをする場面でそういう関係性を語っており、それは古代人がその人間としての普遍性を無意識のうちに自覚していたらしいということを意味する。彼らは、それがセックスをして子を産むことにおける最大の問題だと語っている。それがこの場面のもっとも重要なテーマであり、しかしこんなことを最大の問題にするのは、はたして宗教的な意識だろうか。

イザナギイザナミが出会ってセックスをはじめる前に、こんな前ふりの場面がある。
まあ、これだって、読みようによってはじゅうぶんにポルノチックだ。

ここに天つ神もろもろの命(みこと)もち、イザナギノミコト・イザナミノミコトの二柱(ふたはしら)の神に詔(の)りたまはく、「このただよへる国を修理(おさめ)固め成せ」とのりたまひ、天(アメ)の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)ひて言依(ことよ)さし賜ふ。故(かれ)二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下して画(か)かせば、塩こをろこをろに画き鳴(な)して、引き上ぐる時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(かさな)り嶋(しま)と成る。是れおのごろ嶋なり。その島に天降(あまくだ)りまして、天の御柱を見立て八尋殿(やひろどの)を見立てたまふ。


まさに、セックスそのものの描写ではないのか。
天の浮橋」とは、天と地のあいだにかかっている虹のような橋のことで、そこに立って下の海(のようなところ)に「天の沼矛」を差し入れかき回していった、という。
これはもう、男が上になって女の膣の中にペニスを差し入れかき回せば、ペニスの先から精液がしたたり落ちた、と象徴的に語っているのだろう。そしてそれが固まって「おのごろ嶋」になったということ、つまり、精子卵子が結合して子供が生まれてきた、ということだ。
で、その島に降りて「天の御柱」を立てれば、それが立派な御殿(=八尋殿)になった。
ここでも本居宣長は「天の浮橋」はどのようなものかということや、橋の下の海は海ではなくこの話の最初に出てきた「浮脂のようなものが漂っている」状態のところだったのだということなどをこと細かに語っているのだが、それはまあ、われわれの関心ではない。「島ができた」といっているのだから、そのときすでに海があったということになっていても、さして不満も疑問もない。こういう話は、面白ければそれでいいのだ。
この話の肝心な問題点も面白いところも、それがセックスを象徴している、ということにこそある。
「天の沼矛(ぬぼこ)」とはどのようなものか?本居宣長はこれを、日本書記の記述を参照しながら、「玉飾りがいっぱいついた美しい矛」だと説明している。まあ、神道オタクのいいそうなことだ。しかしここでの「ぬ」は、そんなことをいっているわけではあるまい。「ぬ」という音声に宿っているニュアンスが問われねばならない。
「ぬ」は、「ぬるぬる」「ぬめり」「ぬえ」「ぬすむ」の「ぬ」、「知らぬ」の「ぬ」、「とらえどころががない」というようなニュアンスがある。つまり「万能」とか「侵入」ということで、「何にでも突き刺すことができる矛」といっているのだろう。さらに想像力を膨らませるなら、「勃起したペニスのような矛」と解釈することもできる。ペニスは勃起しなければ話にならないし、勃起すれば男に「全能」を得た心地にさせる。そういうニュアンスで「ぬ」といっているのではないだろうか。
矛は、もともと祝福の儀式に使うものとしてつくられていた。「ほ」は、「祝(ほ)ぐ」の「ほ」。「こ」は「凝る」の「こ」、「凝り固まる」こと。つまり、最初から「勃起したペニス(=命のはたらきがさかんであること)」の象徴だったのであり、古代においては誰もがそのことを知っていた。
「塩こをろこをろに画き鳴(な)して」は、「海の水をかき回して」といっているのではない。そのことはその前に「沼矛を指し下して画(か)かせば」とすでにいっているわけで、その結果として「矛=ペニスの奥の精液が『こをろこをろ』と震えた」といっているのだ。そうしてその先から「塩=精液」がしたたり落ちて固まり、「おのごろ嶋」になっていった。
「おのごろ」の「お」は、「強調」の音声。「の」は「乗る」、「堆積する」こと。「ご=こ」は「固まる」こと。「ろ」は「囲炉裏」の「ろ」、すなわち「中心」。「おのごろ嶋」とは、「矛=ペニスの中心からしたたり落ちたものが固まり堆積してできた島」ということになる。
まあこの部分は、本居宣長がいうような「神聖」なことを表現しているのではない。ただのポルノ、されどポルノ。

キリスト教ユダヤ教イスラム教などの一神教では、「神が世界をつくり人間をつくった」という一足飛びの解答で決着がつけられている。
しかし古代の日本列島の住民は、そのような予定調和の世界観や生命観を思い描くことはできなかった。男と女がセックスして子供が生まれてくるように、すべての森羅万象には「原因(きっかけ)」があり「結果」があるという思考を手放すわけにいかなかった。
卵が先か鶏が先かという話で、人間がセックスをして子供が生まれてくるといっても、その最初の人間はどこから現れたのか、ということになる。だから彼らは、神がだんだん人間になっていった、と考えた。そしてその神はどのようにして現れたのかといえば、「存在=物質」としてではなく、たんなる「気配」として、すなわちあくまで純粋な「原因=きっかけ」それ自体として現れた、と考えた。それが「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」で、その神はそこが天の中心であるということだけを定めて消えていった。その神は、何もつくらなかった。たんなる「気配」として現れただけ。このあたりの想像力(イマジネーション)はとても高度で抽象的で、すでに宗教を持っているものたちにはできない。彼らは、宗教を持っていないことのなやましさとくるおしさで、けんめいにそうした世界のはじめや世界の構造を思い描いていった。そのとき社会はすでに「国家(=共同体)」支配の段階にさしかかっており、もはやそうした世界観を持たないと生きられなかった。
そうして、たんなる「気配」である神は、人間になることによってはじめて「存在=物質」になった、と考えた。
だから、人間が「身体」という「存在=物質」を持っていることは、神であることから逸脱してしまっていることの「けがれ」である、と考えた。というか、もともとそういう「けがれ」の意識を持っていたから、そういう話になっていった。
神であり続けているのは天皇だけあり、天皇は、人間がかつて神であったことの証明だった。天皇は神であるが、けっして人間とは別の存在ではない。古代の民衆の天皇に対する憧れと親密感は、そのように形成されていた。
人間はみな神の末裔であり、神と神がセックスして人間が生まれてきた。
神はたんなる「気配」であるが、つねに森羅万象が生まれてくる「きっかけ」になっている。
人間は、神とセックスすることができる。神社の巫女は、神とセックスする。神はたんなる「気配」なのだから、その現場を誰も見ることができないが、そのとき巫女は、確かに深いオルガスムスを体験している。
人の心は、「気配」に憑依してゆく。
女のセックスの快感のほとんどは、「気配」に対する憑依として体験されている。その場の「雰囲気」によってその気になったり、深く感じていったりする。不感症の女は、「自分」に対する関心ばかりで、自分の外の「雰囲気=気配」に憑依してゆく心が欠落している。
女は、自分の膣の中にペニスが入ってきている「気配」に憑依しながらセックスの快感を汲み上げている。
まあ男だってそれは同じで、セックスをすることは、つまるところ「気配」に憑依してゆくことかもしれない。
自分に対する関心ばかりで自分の外の気配に憑依できない男が、インポテンツになってゆく。歳を取ると男は、女以上に、自分に対する関心ばかりになってゆく。

万物は移り変わってゆく。人間だって、日々変化し続けている。明日の自分は今の自分ではないのだから、今の自分に執着することなんかできない。
自分なんかどんどん変化してゆくのだから、神が「自分=人間」をつくったといっても、なんの意味も持たない。そもそも自分に対する関心が希薄なのだから、神が「自分=人間」をつくったというテーゼに対する関心が持てない。
すべてのものは変化してゆくのだから、今ここに世界に世界が存在するという事実をたしかなものとしてとらえることはできない。たしかなことは、そこに変化してゆく「気配」が生成しているということだけだ。
世界は、「気配=画像」として存在している。「気配=画像」に気づいてゆくことが、生きるいとなみになっている。
神は「存在=物質」をつくることができるとしても、「気配=画像」をつくることはできない。それは、それ自体として存在し、たえず変化してゆく。それは「物質」ではないのだから、つくることができない。それは、百人百様に感じているものだから、神といえどもつくることはできない。神といえども、人それぞれの感じ方を支配することはできない。
この世は、神が決めたとおりに誰もが同じように感じるというかたちで動いているのではない。
宗教の理想は、誰もが同じように感じ、すべてが神の決めたとおりに動いてゆくことにあるのだろうが、日本列島では、すべてはそれ自体として存在し何もわからない、という前提に立って驚きときめいてゆくという流儀で歴史を歩んできた。それが「無常」の世界観であり、この世界観は宗教のそれと同調することはできない。古事記の物語は、神について語りながら、そういう非宗教的な世界観の上に成り立っている。

そのころの奈良盆地では、無際限に人口は膨らんでゆくし、着々と整備されてゆく国家制度による支配は覆い被さってくるし、もう、神という概念とともにこの世界の外部について考えるほかない状況が切迫していた。
もともと彼らは、祭りの賑わいとともにこの生の外部に超出してゆくカタルシスを汲み上げながら生きていた。そうして仏教伝来とともに「神」という概念を知ったとき、彼らはそこで「神」と出会ったのではなく、そこに神を置いてみたのだ。
そこで語られている神は、本居宣長がいうほど無条件な信仰の態度ではなく、きわめてアクロバティックな思考や想像がはたらいている。それは、信仰から逃れようとする信仰だった。
たとえば宣長は、はじめのころに現れた国之常立神(クニノトコタチノカミ)からイザナギイザナミまでは地にとどまった神だといっているのだが、彼はこの場合の「国(くに)」という言葉を見誤っている。それは「天の国」という意味であって、「国(くに)」がそのまま「地」をあらわすわけではない。「国(くに)」とは世界の「実体」のことであり、「天の国」もあれば「地の国」もある。
はじめは天の世界に「天の国」だけがつくられていったのであり、そこから「イザナギイザナミ」が降りてきて地の世界の「国生み」をはじめたといっている。すでに「国」があったのなら、「国生み」なんかする必要がないではないか。
はじめに天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が現れて「天の中心」が定められ、「天の国」だけがつくられていった。天と地の関係などなく、天だけがあった。イザナギイザナミが降りてきたということは、そういうことを意味しているのであり、宣長がいうように、その地上にいる二柱の神が天の指令を聞いて天に上がってゆき降りてきた、というようなことでもあるまい。
古事記の神は、天から地に直接指令を出すことはできない。そういうときは、必ず「使者」の神をつかわす。それが、古事記すなわち神道における「関係性」の基本なのだ。神の姿は人間からは見えない、というのと同じ。神は、森の姿を借りて人間と向き合っている。
それはつまり、それほどに大和朝廷の支配に息苦しさを覚えていた、ということだ。彼らは、仏から支配されることにも朝廷から支配されることにも馴染めなかった。そういう支配と被支配の「関係」から逃れたかった。そういう試みとして、古事記の物語(=神道)を生み出していったのだし、人と人のあいだにできるだけ「支配=被支配」の関係をつくるまいとする文化をすでに持っていた。彼らにとって祭りはそういう関係を解体する体験であり、神社はそのような場として機能していた。神社に立てば、「憂き世」の「けがれ」から超出してゆくことができる。神のことなんか知らない時代からそのような体験の場として神社で祭りをしてきたのであり、古事記は、「神のことなんか知らない」という立場で神について語っている物語なのだ。
心の中に自分を支配したり守ってくれたりする神との関係を持たない……そういうコンセプトで神について語っているのであり、それが自意識の薄い民族の神との関係の作法なのだ。
とにかく本居宣長は、「古語のふり」をちゃんと把握していない。「天の沼矛」が「玉飾りがたくさんついた矛」だなんて、神道オタクが何をそらぞらしいことをいっているのだろう。それは、「勃起したペニス」の象徴であり、大和朝廷の支配を受け入れつつそこから逃れようとする民衆の切実な言葉遊びだった。
そのとき権力者は、天皇の命令だといえば民衆がなんでもいうことを聞くのをよく知っていた。なぜなら天皇は、民衆自身が祀り上げている神のような存在だったからだ。彼らは、神に支配されつつ、「神はけっして支配しない」という物語を紡いでいった。神道は、神の支配が存在しない祭事であると同時に、権力者にとってもっとも都合のいい支配の道具でもあった。そこに、神道が「国家神道」へと変質してゆく契機があった。
いつの時代も民衆は、権力者がもたらす天皇の命令に支配されつつ、しかし「天皇に支配されている」という意識はなかった。天皇の命令で泣く泣く神風特攻隊にされても、ひたすら「天皇ために」と願って死んでいった。
日本列島の神と人の関係は、つねに一方的で、相互関係のない関係だった。人と人の関係だって、つねに「おたがいさま」で、貸しも借りも支配も被支配もなかった。
神の話を下世話なポルノにしてしまうその語り口に、彼らの嘆きの切実さと人間性の真実がこめられていた。