水辺の馬は水を飲まない・神道と天皇(38)

神道の「かみ=かむ」という言葉には、政治や宗教に対する拒否反応が含まれている。それは、この生に執着することに対する拒否反応でもある。
人は、心の底の無意識の部分では、この生が取り返しのつかない過ちであることを嘆きながら、それでもこの世界の輝きにときめいて生きている。そうしたこの生に対する拒否反応が深くなればなるほど、心は「自分=この生」の外の世界の輝きにより豊かにときめいてゆく。
われわれは、ごく普通に「死んでしまいたい」と思ったり、「死ぬほどうれしい」といったりする。人は、この生に対する拒否反応とともに「死ぬ」ということを見出していった。
原始人が地球の隅々まで拡散していった歴史は、生きてあることに安住することを嫌って、どんどんより住みにくい土地へと移住してゆくことだった。そうやって人類は、「生きられなさを生きる」ことを習性にしながら歴史を歩んできたのであり、原始時代からすでに「死ぬ」ということを意識していた。
したがって人類が地球の隅々まで拡散していったことは、原始人が死ぬことがそれほど怖がっていなかったことを意味する。彼らは、「いつ死んでもかまわない」と思い定めながら、死に対する親密な感慨とともに生きていた。
しかし人類のそうした死生観は、文明発祥とともに反転していった。文明社会では、生命賛歌をしながら宗教や政治の観念を発達させてゆき、それとともに死ぬことを怖がる自意識を肥大化せていった。そうして生き延びるための政治や呪術を発達させてゆき、死んでもまだ死なないという「死後の世界」や「生まれ変わり」の観念を膨らませていった。
氷河期明けのおよそ6000年前以降のユーラシア大陸ではそうした文明の制度的な観念がどんどん広がっていったわけだが、四方を荒海に囲まれた日本列島では、幸か不幸かその洗礼を受けることなく、さらに数千年の歴史を歩んできた。
古代の日本列島の住民がなぜ仏教に対するカウンターカルチャーとしての神道を生み出したのかといえば、つまるところ仏教の世界観や生命観だけでなく宗教そのものに対する違和感というか拒否反応があったからだろう。
死んだら黄泉の国に行くと思っている人たちが、いきなり極楽浄土に行くといわれても、にわかには信じられない。宗教など知らなくても、死に対すれ切実な思いは人間なら誰の心の中にもある。それに、極楽浄土に行くものと地獄に行くものがあるという勧善懲悪の観念も、それまでの日本列島の伝統風土にはなかった。「善」と「悪」という概念は文明社会の制度から生まれてきたのであって、それまでの日本列島には「けがれ」と「みそぎ」すなわち「きたない」と「きれい」があっただけだ。
まあ今でも、「悪いことをする」といわないで「きたないことをする」といったりする。
日本列島には、「きれい」と「きたない」の文化の伝統風土がある。民衆の心の中に息づいているそういう文化が、6世紀の中ごろ、大陸から伝わってきた仏教=宗教に対する「違和感=拒否反応」を抱いた。
日本人は自我が確立されていない、などとよくいわれるが、それがそのまま思考の未熟さを意味するとはいえない。それは、この生やこの社会に対する「拒否反応=嘆き」の上に成り立っている。だから、現在まで心をまるごと宗教に染め上げられることなく歴史を歩んでくることができたのだ。
仏教伝来のころの日本列島の住民の思考力が大陸よりも劣っていたわけではない。ただ宗教を信じてしまえるほどの濃密な自我=自意識を持っていなかっただけのこと。
日本列島では、人間性の自然としてのこの生に対する拒否反応の上に成り立った世界観や生命観を基礎にした文化を守り育ててきた、それを「無常」という。心はそこから華やぎときめいてゆく。

まあわれわれは、表面的な意識においてはこの生に執着したり生命賛歌をしたりしながら生きているわけだが、それは、現在の社会がそういう欲望を生むような構造になっているからだし、それでも人間の本性としての無意識のところではこの生に対する拒否反応がはたらいており、じつはその拒否反応こそがこの生を活性化させている。
生きてあることは、まったくなやましいことだ。生命賛歌なんかしない人間のほうが、ずっと豊かにときめいている。
この生が活性化するとは、この生から逸脱してゆくことであり、この生を超えてゆくことだ。つまり人は、そこではじめて「生きた心地」を覚える。
宗教や文明社会の制度性は、われわれの中の「この生に対する拒否反応」を覆い隠そうとしてくる。
宗教や文明社会を持ってしまうことは人類の歴史の避けがたいなりゆきであるとしても、それを安直に「人間性の自然」だと決めつけてしまうことはできない。それでもこの地球上には、文明とは無縁の未開の社会が存在するし、われわれ文明人の中にだって原始的な心性は残っている。他愛なくときめいたり、かなしんだり、おどろいたり……。
そんな、計算ずくで生き延びることばかりにあくせくしていてもつまらない。抜け目なく人の道を守って生きていても、知らず知らず人間的な知性や感性が停滞衰弱してゆく。知性や感性が停滞衰弱した人たちがリードして安定した社会をつくっているとしても、われわれはつい道を踏み外して他愛なくときめいたりかなしんだり驚いたりしてしまう。
人は、「人の道」を説くことによって、人間的な知性や感性を停滞衰弱させてゆく。それは、神との関係を結んだ「自我」によって発想されている。彼らは、この生やこの社会が安定充足したものであらねばならないという。人の心は、そうやって安定充足しながら停滞衰弱してゆく。
政治や宗教は、この社会やこの生の安定充足を求める。その欲望とともに、神を頂点にしたヒエラルキーの世界像を描いてゆく。彼らは、そうやって神との関係を結びながら人を支配しにかかる。神は、彼らに人を支配する資格と権利を与える。彼らは、神の代理なのだ。人の心は、文明社会のそうした制度性に侵蝕されたり潜り込んだりしながら、人間的な知性や感性を停滞衰弱させたり人を支配しにかかったりしている。

古代人が、仏教とともに大陸から輸入した概念である「神」をやまとことばの「かみ」として読み替えたことには、「仏」による支配を拒否して人間的な知性や感性の領域を守ろうとする無意識がはたらいている。「かみ」とは、そういう他愛なくときめいたりかなしんだり驚いたりする心の動きをあらわす言葉でもある。
起源としての古代神道における「かみ」と人との関係はあくまでたがいに一方的なもので、「支配=被支配」の関係にはなっていない。そして人と人の関係もまたそのようにたがいに一方的に他愛なくときめき合っていくものとし、そのためのよりどころとして天皇を「かみ」として祀り上げていった。彼らは、「かみ=天皇」にどんな恩恵も願わなかったし、「かみ=天皇」もまた、けっして支配しにかかることなくすべてを許した。そうしてたがいに、ただもう一方的に相手を祝福していった。
他愛ないときめきは、関係に対する「拒否反応」の上に成り立っている。関係なんかつくらないという関係、関係の不可能性の上に成り立った関係、そうやってたがいに、ただもう一方的にときめいてゆく。そういうタッチを持っていなければ、こんな鬱陶しい人の世は生きられないではないか。

弥生時代から古代にかけての奈良盆地は、日本列島の歴史上初めて生まれてきた都市集団だった。そのふくらみすぎた集団の鬱陶しさをどのようにやりくりしてゆくかという問題に対して彼らは、「結束」するのではなく、淡い関係のままたがいに一方的にときめき合ってゆく関係をつくっていった。
異民族との軋轢のないそこでは、「結束」するべき理由がなかった。集団としての目的など、何もなかった。それでも集団は、際限なく膨らんでいった。集団なんか鬱陶しいばかりなのに、それでも誰もが他愛なくときめき合っている「祭り」の場に集まっていった。「他愛なくときめき合う」という関係が、彼らの集団を成り立たせていた。
向かうべき未来など持たない無目的の集団、それは、原初の人類が二本の足で立ち上がったときに遡行してゆくムーブメントだった。
原初の人類がなぜ二本の足で立ち上がったかといえば、膨らみすぎた集団で体をぶつけ合っていることの鬱陶しさに耐えきれず、二本の足で立って身体が占めるスペースを最小限にしながらたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合っていったことにある。それはまあ、ひとつの「みそぎ」であり、体をぶつけ合う関係に対する「拒否反応」の上に成り立った関係だった。
「拒否反応」は大事だ。それがなければわれわれの命のはたらきは、排便をはじめとして体にたまった毒素を排出することができなくなってしまってしまう。
生きるいとなみは、生きることに対する「拒否反応」の上に成り立っている。生きてあることの「けがれ」を自覚しつつそのつど「みそぎ」を果たしてゆくことが生きるいとなみになっている。
神との関係を結んで「けがれ」を自覚していない宗教者の心は、安定充足しつつ停滞衰弱している。彼らの集団は、神との関係のもとに「結束」している。「結束」しているということは、関係に対する拒否反応がないということであり、彼らには、関係の不可能性の上に立って「遠い憧れ」を紡いでゆくというタッチがない。

古代人の天皇に対する純粋無垢な「遠い憧れ」は、関係の不可能性の上に成り立っていた。
縄文時代の男と女は、一緒に暮らすことをせず、豊かな「出会いのときめき」と深い「別れのかなしみ」を繰り返しながら生きていた。それはまさに、関係の不可能性の上に成り立った関係であり、その関係性こそが日本列島の伝統なのだ。その関係性の上に立って、弥生時代祭りの場天皇の前身となるカリスマが祀り上げられていった。
他愛なく豊かにときめき合う関係は、関係に対する「拒否反応」の上に成り立っている。古代の奈良盆地の人々は、そういう関係性を守るためのよりどころとして天皇を祀り上げ、神道を生み出していった。
まあ天皇制がいいのか悪いのかということなど僕にはよくわからないのだけれど、日本列島の歴史における民衆にとっての天皇は、政治や宗教に対する拒否反応のよりどころとして機能してきたのではないだろうか。われわれは。政治や宗教を受け入れつつ拒否してきた。政治や宗教に支配されながら歴史を歩んできたのだけれど、いまだにどこかしら政治や宗教に対して無関心な部分がある。それは、人間としての未熟さというよりも「拒否反応」なのだ。
社会であれ家族であれ、ときめき合っていたいものだと思うのだけれど、「結束」してしまったら、その瞬間からどんどん関係が病的になって停滞衰弱してゆく。日本列島の歴史においては、関係の不可能性の上に立って関係を結んでゆくというアクロバティックなことをしてきたわけで。
結束する家族とか社会というのは、あまりいいものではない。宗教や政治や戦争は、民衆を結束させる。権力者はそうやって支配を強化安定させようとする。それが文明社会の避けがたい構造であるとしても、人が生きるということはそれだけではすまない。
馬を水辺に連れてゆくことはできるが、水を飲ませることはできない……ということ。日本列島の住民はかんたんに宗教や政治に支配されてしまうが、同時に宗教や政治に対する拒否反応も持っている。宗教や政治のことを語るその言葉の中に、宗教や政治のことに対する拒否反応が含まれている。