洗練された集団性・神道と天皇(71)

天皇の存在は、日本人の集団性と分かちがたく結びついている。
だからといって、天皇制を大切にせよ、というつもりはない。僕は、むやみな天皇賛美も天皇制反対も好きではない。天皇(制)とは何かという問題はあっても、天皇制をどうするべきかという問題など存在しないと考えている。
誰もが「どうするべきか」という議論をやめたとき、それでも残るなら残ればいいし、残らないのならそれも仕方がない……まあそんなことをいってもしょうがないのだが、とにかく現在において天皇が存在し、過去にも存在していたのなら、それについて考えることができるし考えたくなってしまう。それだけのこと。
日本人の集団性および人類の普遍的な集団性について考えるとき、天皇とは何かと問うことによって浮かび上がってくる景色がある。日本人の集団性は、天皇の存在から照射されている。いや、日本人の集団性が天皇の存在を浮かび上がらせている、というべきだろうか。
文化とは集団性のことだ、ともいえる。世界中で言葉をはじめとする文化が違うということは、集団性が違うということでもある。そしてその違いの向こうに、誰もが人間であるかぎり共有されている普遍的本質的な集団性がある。
文化が集団性を成り立たせている。集団性が文化を成り立たせている。

山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう……人が旅をすることは集団から離れることであるが、どこに向かって旅をするかといえば、けっきょく「幸い」という別の集団=文化に引き寄せられているだけだったりする。
現在の人類学では、700万年前にアフリカで生まれた人類が地球の隅々まで拡散していったことを、「集団で移動していった」という前提で考えている。しかし人が旅をすることの本質は「集団から離れる」ということにあり、一人であれ二人であれ三人であれ、基本的には個人的な行動なのだ。そうして離れていったものどうしが新しい土地で出会って新しい集団をつくってゆく。それはもう、最初から新しい別の集団に引き寄せられていた、ということでもある。新しい土地の新しい暮らし=幸いに対する憧れが募っていたから、見知らぬものどうしの新しい集団をつくってゆくことができたのだ。
まあ個人どうしが出会うのだから、そこは、誰にとってももとの集団からそう遠くない場所だったに違いない。その果てしない繰り返しの上に人類拡散が起きていったわけで、原始時代の道なき道を女子供を抱えながら「集団で大移動してゆく」ということなどあるはずがない。
「集団で移動してゆく」ことが人類の旅の普遍的な本質であるのではない。そんなことは、集団どうしの争いが起きてきた文明発祥以降の生態にすぎない。集団が大きくなればなるほど移動は困難になるし、移動していれば集団がばらけていってしまうのが、二本の足で立っている人類の基本的な生態なのだ。原初のアフリカのサバンナでライオンに追われた人類集団が、草食獣の群れのように集団のまま逃げ続けるということなどできるはずがない。群れのまま二本の足で立って走っていれば将棋倒しになってしまう。そういう「人類の基礎的な生態」を、今どきの古人類学者たちは、なんにもわかっていないというか、なんにも考えていない。
基本的に旅は、集団を離れてさびしい思いに浸されてゆくことであり、そのさびしさと体の疲れが、新し土地の新しい暮らし=幸いに引き寄せられてゆく。
現代の旅だって、主要な観光地は「文化」を売り物にしているのであって、自然の景色だけでにぎやかな観光地が成り立つわけではない。
たとえば奈良と京都とどちらが見るべき景色が多いかといえば、これはもう圧倒的に奈良である。東大寺興福寺薬師寺唐招提寺法隆寺等の伽藍はさすがに壮観で、それらに比べたら京都には、それほどびっくりするようなお寺はないともいえる。それでも多くの観光客を集めているのは、町全体に文化としての景色や気配が豊かにそなわっているからだろう。
奈良はもう、お寺が半分くらい自然の景色になりかけている。だから、日帰りの観光客はものすごく多くても、街の賑わいそのものの活気はそれほどでもない。
街そのものに固有の賑わいの文化がなければ、観光客は泊まってくれないし、住み着いてくれる人もいない。

京都は、さすがに天皇家のお膝元としての長い歴史を歩んできているから、町全体に観光客を惹きつけてやまない賑わいの文化を持っている。基本的には、べつに観光客を呼ぶために町をつくったのではなく、町を住みよくするための文化がほかにはないようなかたちで洗練発達している。
景色だけではなく、町そのものに賑わいの文化がなければ、観光客は泊まってくれないし、住み着いてくれる人もいない。
街の賑わいの文化、すなわち文化としての集団性。京都の町には、そういう町の暮らしや歴史が、とても洗練したあでやかなかたちとした満ち溢れている。人は、その「集団性」に魅せられる。
もちろん旅人がいきなりそこに住み着いて楽しく幸せに暮らせるとはかぎらないわけで、何代も住み着いてようやくなじんでゆくことができる。京都の人だって、そういう歴史とともにそういう文化をはぐくんできたのであり、そういう文化を身体化しているものだけがそこで楽しく幸せに暮らせるような仕組みになっている。京都には京都の暮らしの作法と流儀というものがある。
同じ住民として一緒に暮らす作法と、旅人をもてなす作法は違う。もてなす作法を心得ているものは、もてなされることに対するはにかみがある。もてなされることに対するはにかみを生きる作法がある。
もてなされることを望んではいけない。望んでいるものに上手なもてなしはできない。もてなされることを望むのはひとつの支配欲であり、もてなすことは、ひざまずいて献身してゆくことだ。それを望むことのはしたなさは、もてなすことが上手な京都の人がいちばんよく知っている。知っているから、もてなしの作法がどんどん洗練してきた。もてなされることを望んでいない相手をもてなすにはどうすればいいか……そのような問いともにその作法が洗練されてきた。京都における人と人の関係の文化は、そういう「混沌」に身を置きながら洗練発達してきた。
だから、京都で暮らすことはとてもややこしい。旅人気分では暮らせない。
京都の人はやさしそうに振る舞いながら、けっこう底意地が悪いとか、それはまあそうなのだが、ただのお人好しで洗練されたもてなしの文化がつくれるはずもない。

たとえば舞妓の文化は、その界隈の街全体がひとつのチームとして連携してゆくことの上に成り立っている。着物や下駄やかんざしをつくる職人、売る商店、踊りや三味線や唄などを教える師匠たち、そして料亭等々、すべてが一流のレベルをそなえながら舞妓の活動を支えている。
街全体で舞妓の美しさを愛おしみ大切にしている。置屋の女将の仕事はというかリーダーシップは、舞妓にそういうことを感じさせてやることにある。もちろん街全体にもそういう慣習作法が行き渡っているわけだが、女将が損得勘定に長けた商売人かというと、あんがいそうでもなく、おっとりした部分もそなえている。彼らは、金に不自由しない暮らしを大事にしても、金に執着しているわけではない。金に執着したら、それが舞妓にも伝染する。それでは、上質な舞妓は育たない。
しかし外部の人間には、誰もが「おもてなし」とは何かということを心得ている街というのは、ちょっと怖い。もてなすことだけが頭にあって、もてなされることなど考えていない人たちなのだ。舞妓は彼らの作品であり、ひとまず「おもてなし」の精神を注ぎ込まれた存在だといえる。彼らは、洗練されたもてなしの作法を交し合いつつ、誰もがもてなされたがることをとても嫌っている。
客だって、もてなされても、もてなされることを願ってはいけない。これはまあ日本中の花街の原則でもあるのだが、客もまた一緒になって遊べる芸を持たないと、もてない。だから遊び人のほうも、長唄や踊りを習う。もてなされることを願わないでもてなされるというのも、けっこうしんどい修行なのだ。

舞妓は日本中からからやってきた娘たちだが、まず徹底的に京言葉を仕込まれる。それは、お客がそれを喜ぶからということだけでなく、「花街のチームの一員になる」という通過儀礼にもなっている。
そして舞妓の踊りである京舞は「色気を見せない」ことがコンセプトで、「秘すれば花」の能舞から派生してきたといわれている。色気を隠すからよけい色っぽくなる。つまり、「もてなされることを願わない」ということだ。「誘惑する」ことはひとつの「おもてなし」だが、媚は売らない……そういうややこしい「芸」を持っていないと、京都での暮らしはつとまらない。
舞妓は恋愛禁止だといわれているが、「誘惑すること」が「媚びを売ること」に堕落してしまったら美しくない、という京都人の美意識がはたらいているからであり、たしかに思春期の少女の美しさは「誘惑しても媚は売らない」という態度によって担保されているのかもしれない。まあ思春期の少女でなくても、いい女はみなそういう傾向を持っている。魅力的なのだから誘惑してしまうのはあたりまえで、魅力が足りないから媚を売ることでそれを補おうとする。
お客は勝手に転ぶものであって、お客を転がすようなことはしてはいけない。それが京都の花街のたしなみであり誇りであり洗練なのだ。
秘すれば花、媚は隠すのがいい女としてのたしなみで、思春期の少女は本能的にそれができている。たとえ美人でなくても、本能的にそれができる。自分の体に対する鬱陶しさを持っていれば、わざわざ自分から体を差し出そうという気にはなれない。
恋愛が成就すれば人生が完結するが、それでは舞妓の「花」は成り立たない。舞妓の「花」は「混沌」を生きることにある。
舞妓の化粧が濃いのを、ただのつくりものの美しさだといってもはじまらない。それは彼女らの自傷行為であると同時に「媚び」を隠しているのであり、能面のバリエーションとして「非日常」の世界を生きる存在であることをあらわしている。彼女らは一生のあいだでいちばん美しい肌の時期を生きているのに、それでも素肌を隠す。
美人は化粧が薄いとはかぎらない。素顔のほうがきれいなのに、それでも素顔を隠す。
女たちは、その「混沌」の中に飛び込んでゆく。

僕はどちらかというと京都よりも奈良のほうが好きだが、集団性としての町の文化は、やはり京都のほうが洗練発達していると考えざるを得ない。
奈良が種をまいて、京都が収穫した、ということだろうか。
天皇は日本人の集団性の上に成り立った存在で、京都は、なんといっても天皇のお膝元として千年の歴史を歩んできた。
天皇を生み出したのは奈良盆地だが、京都のほうが長く天皇とともに歴史を歩んできた。
江戸時代の日本人はみんな天皇のことを忘れていたといっても、京都は別だったし、幕府自身はずっと天皇を意識していた。だから幕末・明治にはかんたんに尊王思想になっていったわけで、天皇は日本人の無意識の中に棲み着いている。
徳川慶喜は、天皇と戦争をすることができなかった。
京都の町の集団性が洗練発達しているのは、やはり天皇のお膝元だということが色濃くかかわっているのではないだろうか。
みんなで天皇を祀り上げてゆくことは。混沌を混沌のまま洗練させてゆく美意識を共有することであり、それが京都の町の集団性になっている。天皇は、けっして「規律=法」を下してくる存在ではない。天皇神道の「かみ」と同じで「隠れている」存在であり、民衆を救いもしないし罰しもしない。まあ日本列島の歴史においては、つねに権力によって天皇が「規律=法」を下してくるように偽装されてきたが、京都は天皇のお膝元だから、天皇との直接的な関係の意識をそなえている。
京都は、もっとも保守的であると同時に、もっとも革新的な土地柄でもある。もっとも権力の影響を受けやすいと同時に、もっとも権力から遠い土地柄でもある。なんにしても天皇はこの国の「超一流」なのだから、天皇との直接的な関係の意識があるということは、日本的な美意識の高さや洗練度においてアドバンテージを持っているということでもある。彼らは、その美意識を基礎にして集団をいとなんでいる。そしてそれはもう、京都ほどではないにせよ、日本列島全体の集団性でもある。
この国の歴史的根源的な精神風土においては、規律=法を持たない混沌のまま「連携」してゆくという集団性がはたらいている。