700万年の伝統回帰・神道と天皇(108)

現在の若者たちによる「ロリータキャラ賛歌」には、この国の伝統としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」がはたらいている。
なるほど秋元康はなんだかうさんくさいようなイメージもなくはないが、それでもAKBの少女たちはかわいいということはたしかにあるわけで、それはもう、オタクの若者たちだけでなく、多くの少女たちも感じており、今や世界中にファンがいる。
いったいどこがかわいいのかということを分析すればいろいろあるのだろうが、とにかく世界中で今「かわいい」ということに注目する現象が起きている。
まあプロデュースするがわが彼女たちに「総選挙」だとか「センター争い」とか「分派騒動」とかのさまざまな権力ゲームをさせて人気をあおるというのはなんともえげつない戦略だと思えるのだが、今のところは、それによってかえって少女たちの「魂の純潔」が浮かび上がるというような流れにもなっているのかもしれない。「恋愛禁止」にせよ、彼女たちは、あんがいそうした「悲劇性」を帯びて存在している。だからファンも、ほおっておけない気持ちになる。
大人たちの商業戦略に翻弄される少女たちをファンが救出する……というような仕掛けなのだろうか。今までのような一方通行のスターシステムではなく、握手会とかなんとか、アイドルの少女たちとファンがたがいに献身し合う、という仕組みになっているらしい。
いずれにせよ「ロリータアイドル」は、日本列島においては古代の「巫女」以来の伝統なのだ。歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国だってもとはといえば春日大社の「ロリータアイドルの巫女」だったのだし、現在の京都には「舞妓」がいるし、そうした伝統がどのようにして生まれ育ってきたかといえば、つまるところ日本列島が人類普遍の「魂の純潔に対する遠い憧れ」が色濃く機能している精神風土になっているからではないだろうか。

現在のこの国の若者が右傾化しているなどというのは嘘だ。
多くの若者がネトウヨを嫌っている。ネトウヨなんて、ほんの一部の政治オタクにすぎない。
ただ、戦後70年たって、今までアメリカナイズされてきたことの反動として日本人の意識が伝統回帰の傾向にあり、それが若者の無意識(あるいは潜在意識)においてもっともラディカルに起きているのだろう。
伝統回帰=保守化、AKBの人気だってひとつの伝統回帰だし、近ごろの日本礼賛のテレビ番組の急増もしかり、多くの日本人が「日本人とは何か?」とか「日本列島の伝統とは何か?」ということを知りたがっている。四方を海に囲まれた日本列島の民衆は、古代以来そういうことを意識しないですむ環境を生きてきたわけで、しかももともと自意識の薄い民族だからそういう問いを持つまいとする傾向もあって、いまだにそのことをうまく認識することができないでいる。
明治以後の日本列島は、文明開化の「脱亜入欧」以来、欧米崇拝と伝統回帰のあいだを揺れ動いてきた。けっきょく「日本人とは何か?」とか「日本列島の伝統とは何か?」ということがよくわからなくて不安だからそういう揺れ方をしてきたのだし、じつはそういう不安を生きることこそこの国の伝統であり、この世界もこの生も「あはれ・はかなし」と思い定めて歴史を歩んできた。
日本人には、この国は「美しい国」だとか「神の国」だとかといって自画自賛できるほどの自意識はないのであり、そういう態度のはしたなさを自覚しているのがまっとうな日本人なのだ。
日本人には、安倍晋三のように自分のことを「謙虚」だとか「誠実」だとかという趣味はない。そんなことは人さまが決めてくれることであって自分からひけらかすものではない、と思っている。
日本人は「魂の純潔」を持っているのではない、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っているのだ。そしてそれは、世界中の誰の心の中にもある。そうやってこの国の「ロリータキャラ賛歌」が世界中に広まっていった。
ロリータ趣味なんか世界中にあるのに、どうしてこの国の「ロリータキャラ賛歌」だけが「クール」ともてはやされるのか。
この国の「ロリータ」は、たんなる「美少女」という意味だけではすまない。それは、「魂の純潔」の表象であり、「神=かみ」なのだ。そうやって「初音ミク」が登場してきた。
そうやって今、この国で伝統回帰が起きている。そしてそれは、マスコミ界隈を跋扈している凡庸な右翼たちよりも、若者、とりわけおバカなギャルたちのほうがずっと本質的に伝統と向き合っている。
初音ミク」のブームを生み出した若者たちの伝統回帰の心性は、すごいと僕は思う。
神道における「かみ」とは「魂の純潔」のことだ。
「かみ」はたんなる「お話=物語」であり「言葉」であり、あるいは「概念」であり、「実体=存在」ではない……「非存在」の表象である「初音ミク」を賛美する若者たちの無意識は、すでにそのことを知っている。