桜の木の下で・初音ミクの日本文化論(9)

初音ミクの声はやはり、日本語がいちばん合っているのでしょうか。
日本語は一音一音の発声が平板でまぎれが少ないから、初音ミクのような舌足らずの電子音でも聞き取ることができるし、日本語そのものに愛らしさと美しさを感じる外国人もいるらしい。
日本人からすると、日本語なんて英語に比べると発音が鈍くさく野暮ったいとひがんでしまったりするのだが、外国人は、その発音そのものに清潔さと情感と、ときには神聖さを感じたりしている。
「さようなら」は世界でいちばん美しい別れの言葉だ、といっている外国人もいる。その音感がはかなくて哀惜感にあふれている、ということでしょうか。
人類の言葉なんか「アー」とか「ウー」というような一音一音の発声だったはずで、日本語は世界でもっともプリミティブな言葉だともいえる。そのプリミティブ(原始的)のまま洗練させてきたところにやまとことばの真骨頂がある。それは、孤立した島国であったために異民族の言葉の影響を受けなかった、ということもあるかもしれない。
日本語は中国・朝鮮から伝えられたとか、いや南方からだとか、北方の影響もあるとかといろいろいわれているが、もしそうなら日本語は弥生時代以降に定着して、縄文人は言葉を持っていなかったことになるし、じゃあ縄文以前の氷河期に人類の言葉がどの程度完成していたかということは未知数です。同じような言葉があるといっても、氷河期からそのようにいっていたかはわからない。
そしてもしも自分たちの言葉を持っていたら、異民族の言葉に変えるというようなことは絶対にしない。そんなことは侵略して言葉を奪ってしまうことしないかぎり不可能だし、言葉を持っていない民族に言葉を教えることも不可能です。言葉を必要としない暮らしをしているのだもの。必要なら自分たちの集団の性格や環境に合わせて自分たちでつくってゆくし、そうやって自然に生まれてくるのが言葉です。
言葉なんて、世界中どこでもだいたい同じころに、それぞれの地域の条件に沿ってそれぞれ自然発生してきたはずです。
言葉を異民族に教えられて使うようになった民族など、世界中どこにもいない。
また日本列島は、縄文時代の1万年は大陸と没交渉だった。大陸と交易していたといっている歴史家もいるが、丸木舟でどうやって玄界灘を渡っていたというのか。千年二千年後の遣唐使でさえ、たどり着けるかどうかわからない旅だったというのに。
また、弥生時代の渡来人といっても、日本列島から出かけていって連れてきたごく少数で、彼らは日本語を覚えないと住まわせてもらえないものたちだったのです。

1万3千年前以前の氷河期の日本列島は大陸とつながっており、北から西から南から、さまざまな地域から流れてくる人が集まっていた。
まあ、人類拡散の行き止まりの土地だったわけです。中国大陸や朝鮮半島は通過点の土地だから、邪魔者を追い出して純血主義の集団をつくってゆくこともできたが、行き止まりの日本列島ではもう、誰も追い出すことはできないし、誰も出て行くことができなかった。どこよりも雑多な人々が集まっている土地なのに、どこよりもみんなで仲良くやってゆくしかない状況を負っていた。
そこから日本列島の言葉の歴史がはじまっているとすれば、妙な国粋主義なんかそらぞらしいだけです。日本列島は、混血集団です。南方系の顔の人もいれば、中国朝鮮系の人もいるし、北方コーカソイド系の人もいる。
そしてたぶん1万3千年よりもずっと前の人類がやっと言葉を覚えはじめた時代には、「アー」とか「ウー」とうなっていただけだから、とうぜん誰も自分流儀の言葉など持っていなかった。
雑多な人々が集まってきて、それでもみんなで仲良くやってゆくしかない状況で、仲良くやってゆくための道具としてしだいに言葉がつくられていった。
そのとき発声の癖など様々だから、誰もが共有できるもっともシンプルで基本的な発声が選ばれていった。そうするしかなかった。そして、「アー」とか「ウー」でも通じるように、一音ごとに意味が付与されていった。そういう一音一音を組み合わせながら、少しずつ日本語(やまとことば)になっていったのでしょう。
もしかしたら日本列島の言葉の成立は、中国・朝鮮よりも早いかもしれない。みんなで仲良くやってゆくために、言葉がどうしても必要だった。純血主義の集団なら、言葉はなくても仲良くやってゆける。結束できる。
日本列島の言葉は仲良くやってゆくための道具として発達してきたから、「意味」を伝えるよりも「感慨」を共有してゆくことが優先された。だから今でも「情感が豊かな言葉」だといわれたりしているし、その代わりまぎらわしい同音異義の言葉も多い。そうして「やれやれ」とか「そろそろ」と「つくづく」とかの気持ちのニュアンスをあらわす擬態語(オノマトベ)がたくさんある。
そこは「世界の終わり」の土地だった。もう「意味」なんか問わない。「善悪」も問わない。すべてを許し合って、そこから生きはじめ、日本語(やまとことば)を生み出していった。

初音ミクはいちおう「天使のように無邪気な女神」なのだから、相手をたぶらかすようなわざとらしい媚は売らないし、俗世間的な喜怒哀楽も薄い。それでも観客は、その声と言葉に癒されている。言葉そのものに情感があるし、人間臭い感情を持たないその透明な気配に対しても、人はひれ伏したくなる。
日本語の問題として、日本人は「意味」に説得されるということがあまりない。「意味」の「空虚」にこそ引き寄せられてゆく。「すべてを許す」ということ。そうやって日本語の歴史がはじまったわけで、日本人はその「世界の終わり」から生きはじめようとする。その「世界の終わり」の向こうに、豊かなときめきがある。
まあ、初音ミクは、この世界のすべてを許していますよ。それに気づいて観客は、初音ミクにひれ伏し、涙している。
土下座の文化。日本人は、「ひれ伏す」ことはするが、「許しを乞う」ことはできない。なぜなら日本列島の歴史は「すべてを許している」ところからはじまったわけで、「許しを乞う」という文化の伝統を持っていない。
許しは乞わないが、腹を切る、という文化。「世界の終わり」は拒まない。「世界の終わり」こそ安住の地だ。
許しを乞うてひれ伏すのではない。「すべてを許している」ものにひれ伏す。
日本人は、戦後しばらくのころまで、訪問先の座敷に上がれば、おたがい畳に頭をこすりつけてあいさつしていたのですよ。それは、「許し合う」作法だった。
「世界の終わり」に立たなければ許すことはできない。
初音ミクのコンサートの観客は、「世界の終わり」に立って「許し合う」社会を夢見ている。
「許す」とは、「意味」を問わないこと。
「意味」なんか問うていたら、泣けてくるような感動は体験できませんよ。
無条件にときめいてゆくのです。
初音ミクの観客は、その声と言葉の音感に耳を澄ませているのであり、言葉の「意味」はさしあたって大きな問題ではない。これは、「きゃりいぱみゅぱみゅ」のボーカルにもいえることだろうが、初音ミクのほうがやはり姿も声も「他界的」であり、その神々しさのようなものは実際にコンサート会場に立った観客にしかわからないのでしょうね。われわれはもう、「神々しいのだろうな」と推測するばかりです。

初音ミクは「すべてを許している」が、宗教の「神(ゴッド)」は「意味=善悪」にこだわって人を裁いてくる。初音ミクは神々しいが、宗教ではない。
裁かない非宗教的な神は、日本人にしか生み出せないのかもしれない。
心が「他界」という「非存在=異次元」の世界に超出してゆくことは、べつに宗教心などなくても体験しているし、宗教心などない方がもっと純粋にラディカルに体験できるのです。
宗教の「神(ゴッド)」は「裁く」などという人間臭いことをしてくるし、「天国」や「極楽浄土」はこの世界の延長として「存在」している。
「存在」していたら、「他界=異次元の世界」とはいえないのです。こういうことは宗教者や外国人にはわかりにくいらしい。
日本人は、宗教心が薄いから「かわいい」の文化を生み出すことができた。
人の心は「非存在」をイメージしているのであり、「ときめき」も「癒し」もそこにこそあるのです。
ノアの箱舟」のように宗教にも「世界の終わり」のイメージはあるが、しかしそれによって世界を再生しただけのこと。これは、選ばれた人間だけが生き残ればいい、と考えているわけで、ハリウッドのパニック映画はすべてこの思考だし、アメリカではいまだに優生保護法のようなことがキリスト教原理主義とともに横行している。
アメリカの富裕層はきっと「自分たちのような優秀な人間だけが生き残ればいい」と考えているのでしょう。彼らにとってはそれが「神の裁き」であり、それが実現する機会として「世界の終わり」を待ち望み、せっせとパニック映画をつくっている。
それに対して「かわいい」の文化は、「世界の終わり」の向こうの「非存在」の世界に超出してゆく。そこでは「すべては許されている」のであり、日本列島の歴史は「みんなで仲良くしてゆくしかない」という条件からはじまっているのです。
「かわいい」の文化にとって「世界の終わり」は未来にやってくるものではなく「今ここ」の立っている場所であり、「かわいい」とときめいてゆく場所です。みんなが「今ここ」の「世界の終わり」を抱きすくめてゆけばみんながときめき合える、という文化です。
「世界の終わり」においてこそ「世界は輝いている」のです。
「かわいい」の文化は日本列島の歴史のはじめから存在していた。
まあ支配者は「世界の秩序」を構築しようとし、民衆は「世界の終わり」の「混沌」とともにあらわれる「世界の輝き」を夢見るカウンターカルチャーの歴史を歩んできた、ということでしょうか。
桜吹雪の美しさ、みたいなものかな。そういう「混沌」こそが民衆の文化の伝統であり、混沌でなければかわいくない。

初音ミクの最大のヒット曲は、『千本桜』でしょうか。
ロックバンドをバックにした疾走するようなリズムの絢爛たる曲ですが、歌詞もすごい。明治以来あくせく積み上げてきたこの国の安普請の近代文明の右往左往ぶりをみごとに批判しています。それは、せっせと積み上げてきたように見えて、いつだってじつは桜吹雪が舞い散るように太平洋戦争の敗戦とバブルの崩壊という「世界の終わり」に向かって突っ走ってきただけだった、といっている。
「大胆不敵のハイカラ革命」という出だしで、「ここは宴、鋼の檻、断頭台で見下ろして」と続き、「きっと終幕(さいご)は大団円、拍手の合間に千本桜夜に紛れ、君の声も届かないよ」とたたみかけてゆく。ほんとに、すごい。けっこう難しい言葉が並んでいるが、ちゃんと初音ミクにふさわしい歌詞になっている。
それは、美しい季節だったのか、それともグロテスクな季節だったのか、ともあれこの国はそのめまいの中で散り果てた。
初音ミクは「世界の終わり」を歌い、「世界の終わり」から生きはじめる歌を歌う。
もうひとつのヒット曲「ハンド・イン・ハンド」は、素直にもう、涙の向こうに向かって手と手をつないで歩いてゆこうよ、と明るく爽やかに人類の未来を歌っている。こういう歌詞も今風で、最近のアイドルはもう、欅坂46のように、あからさまなラブソングは歌わない。10年前にデビューした初音ミクは、そういう時代の先駆者のひとりだったともいえる。
大人たちは、今どきのマンガ・アニメの「かわいい」の文化を指して「今の若者は生身の女を怖がっている」などと評しているが、そういう問題ではない。現在のこのこひどいありさまになっている時代や大人たちに対する幻滅をどうすればいいのか、という問題があるのですよ。
真綿で締め付けるような陰険な大人たちの支配がますますエスカレートして身動きできなくなっている。われわれは、そんな支配の秩序を生きていたいのではない、みんなでワイワイガヤガヤしながらこの世界から消えてしまいたい。
千本桜が散り果てたこの終わりの世界に立って「光線銃を打ちまくれ」……と初音ミクも歌っているわけで。