感想・2018年7月19日

<弱者とは誰か?>

今どきの自民党の政治家は嘘つきばかりで早くやめてもらいたいと思っている人たちが半分いて、べつにこのままでもかまわないとか自民党のほうがいいんだと評価している人たちが半分いる。
いずれにせよ社会的弱者はマイノリティで、大なり小なりの既得権益の中にいる「市民」がマジョリティの世の中だから、全体の流れとしてはけっきょく「このままでいい」ということになる。
「現在の政治に何を望みますか?」という街頭インタビューをすると、巣鴨の地蔵通りを歩いているジジババでさえ、判で押したように「景気をよくしてもらいたい」というような返事をする。老い先短い彼らまでも、みずからの既得権益にしがみついて離そうとしない。それは、自分の命にしがみついている、ということでもある。
老いも若きも自意識過剰が蔓延している世の中だ。
自分や景気のことなど忘れて「弱者のための世の中であってほしい」という人なんか、めったにいない。
まあ年寄りなんか自分が弱者のつもりでいるから、自分のための世の中であるのが当然だ、と思っているのかもしれない。
年寄りだろうと身体障害者だろうと、「自分は弱者である」と思うべきではない。この世の中には、もっと弱いものが存在する。誰だって次の瞬間に死んでしまう人より弱い存在ではないのだし、道を歩いていて知らない間に蟻んこを踏みつぶしてしまった経験は誰もがしている。蝉の一週間の命に比べれば、みんなもうじゅうぶんに生きたではないか。
この世の「弱者」は、「他者」として存在する。
そして自分を忘れて「他者」に命を捧げようとするのが、人間性の自然なのだ。
人は、根源において、生き延びようとしている存在ではない。「もう死んでもいい」という勢いで「異次元の世界」に飛躍・超出してゆくところにこそ、人の心のダイナミズムがある。そうやって心は華やぎ、この世界の輝きにときめき、何かをひらめいたりしている。
現在の政治状況が「このままでいい」だなんて、自意識過剰になって自分の命にしがみついているからであり、そうやって心が停滞し澱んでしまっている。