2018年7月24日

<不幸について考える、ちょっとだけ>
先日、母子家庭の貧困のことについてちょっと書いた。
不幸は、貧困だけのことではない。夫婦関係が悪いとか、職場の人間関係が最悪だとか、いじめにあっているとか、さらには顔かたちがブサイクだとか、病弱だとかという生まれつきの不幸もある。
不幸が人をみすぼらしくするということはない。
不幸の「嘆き方」のセンスによって、輝いてくる人もいればみすぼらしくなる人もいる。
貧しい母子家庭の主婦がみな所帯やつれしているというわけではない。貧乏は不幸ではないし、「清貧」などといって祀り上げられるべき正義でもない。
不幸であれば、誰だって嘆く。嘆いても自分を客観視している人もいれば、べったりと自分に執着して自家中毒を起こしている人もいる。
魅力的な人は、自分に不幸をもたらす相手に幻滅しても、憎みはしない。幻滅するセンスというものがある。
不幸に対しては、生き文化の投げやりな気だるさを持っていたほうがいいのだろうし、その投げやりな気だるさの水源は「かなしみ」にある。
「かなしみ」こそが人をもっとも輝かせるし、その先にこそ心の平安としての「癒し」も、そして「快楽=ときめき」もある。
「かなしみ」を深く知っている人は魅力的だし、怒ったり憎んだり恨んだりしてばかりいたら自家中毒を起こすだけだろう。そういう感情をバネにして社会的に成功する人もいるのだろうが、そういう感情を民衆のあいだに組織させて社会を変革しようとか戦争をしようとかと扇動されても、それはちょっと「やめてくれよ、よけいなお世話だ」と思う。