感想・2018年9月26日

<戦後の女神たち・4>
三丁目の夕日』という映画がおもしろいのかつまらないのかよくわからないが、とにかくあれは戦後復興の歩みのポジティブな側面を称揚している映画であり、あんなにも貧しかったのに人々の心は華やぎ、人と人の豊かに助け合う関係が生まれていった。それはきっとそうで、その歩みが10年以上続いて戦後の困窮を脱し、やがて高度経済成長の時代へと突入していった。
では今どきの大震災後の復興の歩みも同じようになっているのかといえば、一瞬そうなりかけたがけっきょくはそうはならなかった。
その違いはいったいどこにあるのだろうか?
敗戦直後の廃墟になった都市は困窮を極め、未来への希望などなく、敗戦の「喪失感」に覆われていた。しかしだからこそ人々は、その「喪失感」を共有しながら、ひたすら「今ここ」のときめき合う関係を温めていった。そうやって他愛ないサークル活動とか祭りとか歌謡曲・映画等の芸能とかセックスとかの、さまざまな「今ここ」の「娯楽」に熱中していったわけで、それこそが戦後復興の推進力になっていった。
「娯楽」は、人の心に華やぎをもたらす。そしてそこから、人と人が助け合うダイナミズムが生まれてくる。敗戦直後の人々は、切実に「今ここ」の「娯楽」を必要とするほどに深い「喪失感」に浸されていた。「もう死んでもいい」という気分で「今ここ」の「娯楽」に熱中してゆくその勢いで、誰もが他者を生きさせようと献身してゆく。そのカタルシスとともに戦後復興のダイナミズムが生まれていった。
生き延びようとあくせくするより、「もう死んでもいい」という勢いで自分を忘れて何かに熱中してゆく方が気持ちいいに決まっている。つまり、「生命賛歌」や「希望」で人の心や集団のダイナミズムが生まれるわけではない、ということであり、そういうスローガンこそが人の心や集団の動きを停滞させる要因にもなる、ということだ。そうやって現在の震災後の社会が停滞している。
震災直後にはあんなにもみんなで助け合おうという気分が盛り上がったのに、今やそんなことなど忘れて、「格差社会」や「分断社会」や「非婚化」や「少子化」や「セックスレス」等の停滞した社会状況がどんどん進行している。
敗戦直後にあって現在にないもの、それは「喪失感」を共有しながらみんなの心が華やいでゆくということであり、「生命賛歌」や「希望」を合唱した結果がこの惨状なのだ。


日本列島の伝統は、死=滅亡に向かう心を抱きすくめながら死者とともに生きてゆくことにあり、だから幽霊を見てしまうし、その、かんたんに「異次元の世界」に超出していってしまう心こそが日本的な「進取の気性」の内実でもあり、そうやって戦後復興が進んでいった。
子供を抱えた戦争未亡人が「パンパン」という街娼になることだって、日本列島ならではのひとつの「進取の気性」なのだ。
敗戦後や震災後には、幽霊を見てしまう人がたくさんいた。震災のときは、とくに仮設住宅などで「孤独」を強いられた人が多かった。そうして、まるで死に魅入られたかのようにだんだん衰弱して死んでいった。親しい他者に死なれたことの喪失感と、生きてあることそれ自体の喪失感、いったいそれを誰と共有できるのか?「希望」なんか押し付けてこられたら、よけいに孤独になってしまう。
敗戦のときは、これで世界は終わった、という感慨が誰の中にもあった。しかし阪神淡路大震災東日本大震災のときには、高度経済成長に浮かれてきた余韻で、日本中の誰もがむやみな「生命賛歌」や「希望」を合唱していったのであり、それがかえって孤独な被災者の心や命を追いつめ衰弱させていった。

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