感想2018年11月6日・ひどい世の中

現在のこの国がどうなっているのかということを考えたとき、多くの人が暗澹とした気持ちになる。妙な右翼思想がのさばっている政治の世界だけでなく、民衆社会の人と人の関係もなんだかいびつになってしまっている。
逃げ出したいような世の中ではないか。
「出会いのときめき」が生成している場所、すなわち魅力的な人や気の合う人が集まっている場所はいったいどこにあるのか……そういう思いはいつの時代も誰の中にもある。
山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う……まあそうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していったともいえるわけだが、現代社会においては、故郷や家族の外の外に出てゆくことは「競争社会」に投げ入れられることであり、そういう社会の構造に飼いならされながら「出会いのときめき」をくみ上げる心を失い、他者を警戒したり裁いて排除しようとしたりする心ばかりが肥大化してゆく場合も多い。現代人はそうやって大人になってゆくわけだが、その競争はもう、生まれたときからすでにはじまっているともいえる。
社会の構造が、そういう人間たちをつくってしまう。
しかし、普遍的な人として生きものとしての本質というのもあるわけで、そこから逸脱してゆけば、いつかは元の場所に還ってゆこうとする動きも起きてくる。
今どきの若者が社会に出るということは、社会の矛盾に気づき、醜い大人に幻滅する体験であったりする。社会システムに飼い慣らされて大人の仲間入りしてゆく若者もいれば、大人に対するカウンターになってゆく若者もいる。
右傾化した若者がいるということは、そうでない若者が増えてきている、ということでもある。今やネトウヨなんか大人のほうに多い、といわれている。
多くの若者が自民党に投票するといっても、それは社会システムに飼い慣らされた者たちで、社会の矛盾や大人たちにうんざりしている若者たちのほとんどは政治には興味がなく、投票に行かない。もちろんそれは若者だけでなく大人たちの中にもたくさんいて、もしもそういう者たちが行動を起こして投票率がアップすれば、現在の政権なんかかんたんにひっくり返る。
この国には政治に関心がないものが多いということは、政治権力とは対極にある民衆社会独自の文化が根付いている、ということを意味する。政治に興味がないといっても、意識が低いとか考えが浅いというわけでもなく、政治権力に洗脳されていないということなのだが、今どきの大人たちの多くがすっかり社会システムに飼い慣らされてしまっている。したがってそれは、その分だけ民衆文化が衰退している、ということにほかならない。
権力社会と民衆社会の対比を大雑把にいえば、「競争する社会」か「助け合う社会」かということで、戦後の高度経済長は民衆社会までも弱肉強食の「競争」の論理に染め上げてしまった。
「幸せになりたい」とか「出世がしたい」とか「金持ちになりたい」「生き延びたい」とか、そういう上昇志向というか未来志向自体がすでに「競争」の論理だろう。
たとえば今どきは、健康志向の世の中で、多くの老人が「アンチエイジング」に励んでいるし、女たちは整形してでも美人になろうとしているわけだが、こういうこと自体が「競争原理」でありひとつの「強迫観念」である。
まあ努力をして運が良ければそういう願いが叶う社会になり、今やその願いが人間の本性であるかのように合意されている。だが、もしも明日死ぬ運命であるのなら、それらはすべてむなしい。すべての生き物は次の瞬間死んでしまうかもしれない「命」というものを持たされているのだから、生きものとしての本性においてはそんな願い(=未来志向)を持つようにはなっていないはずである。
「種族維持の本能」とか「個体維持の本能」などといっても、それは生物学的な「本能」でもなんでもなく、たんなる制度的な「強迫観念」なのだ。
日本人がそんな願いを持つようになったのはせいぜい明治以降のことだし、だれもが、というレベルになったのは戦後のことに過ぎない。
もともと日本列島の民衆は、今ここを面白おかしく生きていられたらそれでよい、という気分を共有しながら歴史を歩んできたのだし、その気分は現在の若者たちにだって引き継がれているはずであり、そこから「ジャパンクール」と呼ばれる「かわいい」の文化が生まれてきた。まあ若者は世界中いつの時代もそういう気分で生きているのだし、もともとそれが日本列島の民衆全体の気分だった。
だから戦後の進駐軍マッカーサーに、「日本人はみな13歳のままだ」といわれた。
日本列島はもともと地震や火事や洪水などの災害が頻繁に起こる土地柄で、そのたびに「一から出直す」ということ余儀なくされてきたわけで、「無常」こそこの生やこの世界の正味のかたちなのだ。
だから、あの大震災のときでも略奪や暴動を超すことなく、だれもが他愛なくときめき合いながら助け合ってゆく集団性が生まれてきたし、敗戦直後だってそういう状況だった。
日本人は、「世界の終わり」を受け入れ抱きすくめてゆくことができる。そうやって新しく生きなおす。しかし、大震災の後にそういう「生きなおす」状況が生まれたのはほんの一瞬のことで、「競争社会」や「格差社会」や「分断社会」の状況はさらにひどくなっていった。
ろくでもない総理大臣がのさばっているのはたしかに困ったものだが、そんな総理大臣を担ごうとするまわりの権力社会の構造があるのだし、民衆社会だってかなり劣化してしまっている。
ただ、あの大震災のときに一瞬だけでも人間的で豊かな集団性が現出したということはまだまだ伝統が受け継がれていることの証明であるのだろう。現在のや社会が競争原理で歪んでしまっているとしても、いずれはおたがいさまで助け合って生きようとする集団性が復活してくるのかもしれない。
オリンピックが終われば経済はさらに悪化してひどい世の中になるだろうといわれているのだが、そのときこそ日本人が新しく生きなおすための大きな契機になるのかもしれない。
何はともあれ、ひどい世の中になってしまった、という自覚が必要なのだ。そのときこそ「女神」が立ちあらわれてくる。
必要なのは「女神」であって、立派なリーダーではない。「無主・無縁」の混沌の中で、立派なリーダーに導かれるのではなく、自分たちで「女神」を祀り上げながら連携し助け合っていけばいいのだ。
日本列島には、アマテラス以来の女神の文化の伝統がある。
あの敗戦によって、明治維新以来封じられてきた女神の文化がよみがえった。
戦後の廃墟の都市にあらわれた「パンパン」と呼ばれる街娼は、まさに「女神の文化」がよみがえったことを象徴する現象だった。娼婦は「女神」である。しかも堅気の女がそういう行為を個人的な立場ですればいささかのトラブルはあっただろうが、とにもかくにも少なくない数であらわれ、それがひとまず職業として成り立っていたということは、この国には娼婦を「女神」として祀り上げる文化の伝統があったということだ。
「甘えの構造」などというが、「女神」はまさしくすべてを許し甘えさせてくれる。民衆は「女神」に甘えながら、民衆自身の集団性を活性化させてゆく。
権力社会なんか置き去りにして、民衆自身の連携し助け合う集団性を取り戻せばいいのだろう。というか、取り戻さなければ、権力社会だって変わってこない。
まず、民衆社会が先に変わらなければならない。
われわれは、裁き合うのではなく、ときめき合う関係を組織してゆくことができるか、と試されている。しかしそれは、難しいことではない。「女神」の微笑みを祀り上げ甘えていけばいいだけなのだ。その他愛ないときめきこそが、民主主義の未来の希望なのだ。

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
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