三浦瑠麗といういけ好かない女と天皇制の問題
1・三浦瑠麗という名の勝ち組の政治オタク
彼女は、おしゃべり上手な政治オタクになることによって勝ち組の女になることを目指した。
彼女にとって政治的な知識は勝ち組になるための道具にすぎなかったわけで、政治に対する純粋でひたむきな探究心はなかったらしい。
まあ、彼女だけでなく、今どきの政治オタクのインフルエンサーたちのほとんどは勝ち組の人生であることが第一義的な目的になっている。
勝ち組の人生はそんなに大事か?
僕が小学校6年のときに伊勢から九州博多に転校したとき、仲良くなった友達から人生の目的とか社会の仕組みなどを聞かされ、ひどく驚かされた。
その時僕は、人生の目的とか社会のしくみのことなど、まったく考えたことがなかったからだ。
あの頃の田舎の子供は、そんなことは考えなかった。
この国の戦後復興が軌道に乗り始めて都市に田舎の人々が流入してくるようになり、都市の発展が進んでくると、子供までもが人生設計や社会の仕組みを考えるようになってくる。それは、人々が資本主義や近代合理主義の価値観に洗脳されていった、ということを意味する。
そしてそういう価値観にうまく乗った者が勝ち組になってゆき、乗れなかったものたちはとうぜん負け組になるしかない。
で、この流れは現在まで続いており、バブルがはじけて不景気になった現在において極まったともいえる。
不景気だから、のほほんとしていたら、ふるい落とされてしまう。そうやって勝ち組と負け組の対照が際立ってきた。
勝ち組であろうと懸命に頑張るものと、べつに負け組でもいいやとのほほんと生きているもの。
まあこの国の文化の伝統には「敗者の美学」が流れているから、敗者であっても取り立てて不幸だとは思わない。
彼らはのんきに「俺たちバカだから」とか「負け組でも別にいいよ」などと会話しながら、年収200万円以下の非正規社員でも自分は中流だと思っている。
とはいえ中流だと思うことは、さらにその下の下流を差別している意識でもある。
また、日本人であるというそのことだけで、自分はまっとうな中流の市民であるという自覚にもなっている。
べつにこのままでもいいや…という意識。それはそれでほほえましい意識であるのだが、同時に無自覚な差別意識にもなっている。
そしてそういう若者に対して年長者たちは「無気力だ」と批判し、がんばって勝ち組になった者たちも彼らを徹底的にさげすんでいる。
勝ち組になることは負け組を軽蔑することだし、負け組もまた何らかの軽蔑する対象を持っている。軽蔑する対象を持って、「負け組でもいいや」と安心する。そうやって、いつの間にか差別意識が蔓延する世の中になってしまった。
2三浦瑠麗といういけ好かない女は…
三浦瑠麗はおそらく、勝ち組になろうと必死に頑張ってきたのだろう。
国際政治学者を名乗るのも、そのためなのだろう。本格的に国際政治を研究している学者からすればただのお嬢ちゃんのお遊びでしかなくても、世の中の政治家や庶民が相手ならいくらでもだますことができる。そうやって彼女は、永田町政治やマスコミ界隈をうまく泳ぎながら勝ち組としてのし上がっていった。
そして今、こんなにも叩かれるのは、勝ち組であることを世の中にアピールし過ぎたからだろう。
なんといっても、「敗者の美学」」は、この国の伝統であると同時に、人類普遍の美意識でもある。
誰にとっても勝ち組であるのはうらやましいことであるのだが、同時に胡散臭いとも感じている。
まあ、スノッブを絵に描いたような女だった。
べつに勝ち組であってもいいのだが、ほんとのお嬢様や本格的な研究者はそのことに無自覚だし、いささかの引け目を持っていたりする。
なぜなら、社会的な身分が何であれ、人間は存在そのものにおいて不幸で悲劇的な敗者なのだから。
そこには、金持ちも貧乏人もかしこいもバカもない。
三浦瑠麗はいけ好かない女だという感想と、いやいや知的で洗練された美女だと持ち上げるのと、いったいどちらが健全な反応だろうか?
たぶん彼女は、いけ好かない女になってでも勝ち組になりたかったし、いけ好かない勝ち組の女を見てもいけ好かない女だとは思わなかったのだろう。
われわれのような負け組のノンポリのものたちは、勝ち組であることや政治のことをよく知っていることを自慢する人間はなんだかいけ好かないなあ、と思う。
日本列島の民衆社会の伝統は、負け組のノンポリであることにあり、その上に立って集団性や人と人の関係性の文化を育ててきた。
ひろゆきであれ三浦瑠璃であれホリエモンであれ、どうしてこんないけ好かない人間ばかりがのさばる世の中になってしまったのだろう。
いけ好かなくても勝ち組であれば魅力的なのか?だとすれば、われわれ民衆の人を見る感性だって地に落ちてしまっている。
右翼でも左翼でもどっちでもいいから、もっと素敵な人が登場してきてほしいと思う。
三浦瑠麗やひろゆきには、勝ち組であることが自分の存在理由で、負け組を淘汰してゆくことが自然の摂理だと思っているらしい。
それに対して負け組でもべつにかまわないと言いながら、もっと下の層を差別してゆく者たちがいる。
これは、日本語の「かみ」」という言葉の問題でもある。
まあもともとのやまとことばとしての「かみ」は、西洋のような自然の摂理をつかさどる存在というような意味ではなく、自然の摂理それ自体のことを言った。
しかし現在のように西洋の近代合理主義に洗脳されている時代においては、日本語の「かみ」もまた自然の摂理を支配する存在であるかのように解釈されている。
そして因果なことに、この国では人間だって「かみ」になれる。
だから三浦瑠麗もひろゆきも、勝ち組になることは「かみ」になることだと思った。いけ好かない人間になってでも「かみ」になりたいと思った。
というか、「いけ好かない」と思う美意識=感性そのものをさっぱりと捨てて、ひたすら勝ち組になることを目指してきたらしい。
まあ勝ち組になることを目指すことは、負け組なんか人間じゃないという差別意識でもあり、その差別意識が彼らの言動や振る舞いのいやらしさになっている。
彼らは、いけ好かない人間を見てもいけ好かないとは思わないし、自分のことを「いけ好かない」と思う負け組のやつらはみんなひがみ根性なのだ、と思っている。
でも、勝ち組の人たちだって、多くがあの二人のことを「いけ好かない」と思っている。
なぜならこの国の美意識の伝統においては勝ち組であることを自慢するのははしたないことだという伝統があり、それは、勝ち組であろうと負け組であろうと人間は存在そのものにおいて不幸な負け組であるという認識が基本になっているからだ。
そういうセンチメンタリズムがこの国の文化の規定に流れている。
そしてこの国の民衆のセンチメンタリズムは、高度に哲学的な実存意識でもある。
3・三浦瑠麗と没落日本という泥船
三浦瑠麗やひろゆきのようないけ好かない人間がなぜもてはやされるのか。それはきっと、現在のこの社会が病んでいるからだろう。
この国には、人間が神になれる精神風土がある。
つまり、現在のこの国は三浦瑠麗やひろゆきが「かみ」になってしまう状況があるということだ。
もちろん彼らは「かみ」というほどの人間でもないが、この国ではこの世のもっとももてはやされる人が「かみ」になるわけだから、彼らだって「かみ」になることを目指しているのだろう。
そして現在のこの国では勝ち組の人間であることが「かみ」であることの条件であるかのような風潮があるわけだが、それはきわめて近代合理主義的思考であるに違いない。
そうやって彼らは、負け組のものたちを裁き、さげすんでいる。
しかし、もともと世界中どこの国の伝説においても、神やメシアは負け組の代表である乞食のような格好で現れると相場が決まっている。つまりその人は、異次元の世界からの使者なのだ。
同様に負け組とは世界の外に立つ存在であり、その異次元性が崇高さになっているわけで、この世界にへばりついて勝ち誇っている者が「かみ」であるものか。
三浦瑠麗は、若いころに書いたレポートというか論文の中で、日本が世界に貢献することは日本の「生き様」や「伝統」や「理想」を世界に提示することだ、というような意味のことを言っている。
まあ内容は、とても学者とは思えないような屁理屈で、彼女はこの国の「生きざま」や「伝統」や「理想」そのものを何もわかっていないと思える。
わかっていたら、勝ち組であることを自慢なんかしないし、現在の醜悪な老人たちが支配し腐敗しきった自民党にすり寄ってゆくことなんかしない。
お前には美意識というものはないのか、といいたくなる。
ほんとにセンスのいい女なら、勝ち組であることを自慢なんかしないし、あんな醜悪な老人たちと付き合うこと耐えられない。
センスが悪すぎるのだ。
センスがいいとは、世間的な善悪とか損得とか美醜とかの価値観を超えて、原始的で普遍的な拒否反応という直感を身体化して持っているということだ。
かんたんに言えば、うまいものが食いたいというのではなく、まずいものは食いたくないという拒否反応のことだ。
たとえば一流の研究者は、そうやって「これは違う、これは違う」という拒否反応を繰り返しながらどこまでも深く探求してゆくのであり、三浦瑠麗にはそういう拒否反応がなかった。
腹が減ってがつがつしていれば、何を食ってもうまい。三浦瑠麗もまた、世間的な善悪とか損得とか美醜とかの価値観に飢えてがつがつしているから、「勝ち組はエライ」といういちばん俗っぽい価値観に飛びついてしまった。
4・三浦瑠璃という女神の失墜と天皇制の問題
やまとことばの「かみ」とは神を認識することであり、神を認識することが「かみになる」ことだった。
つまり、古事記という物語は、われわれの祖先は「かみ」だった、と語っているわけで、そうやって「かみ」を認識することによってわれわれもまた「かみ」の末裔になる、ということだ。
古代の民衆は、その無意識においてそういう理屈を共有していたのだ。
だから誰も「かみ」になろうとは思わなかったが、魅力的な人間が登場するとみんなして「かみ」と祀り上げた。
日本列島の伝統においては、人間が「かみ」になる。
しかしそれは、「かみ」になろうとするな、「かみ」を知るものになれ、ということであり、だから「鰯の頭も信心から」という。
「かみを知る」ことを、「かみ」といったのだ。
そして「鰯の頭も信心から」ということはまた、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の中に「かみ」を見ることができるか、という命題を含んでおり、そこにこの国のセンチメンタリズムの伝統の源泉がある。
「かみ」になろうとするな、「かみ」」を知るものになれ、ということ。
この国の文化の伝統においては、勝ち組=「かみ」になろうとするのははしたないことなのだ。
そうやってわれわれは、三浦瑠璃やひろゆきのことをいけ好かない人間だと思っているし、それはまた天皇制の問題でもある。
天皇は「かみ」になろうとはしていない、われわれ民衆が勝手に「かみ」と祀り上げているだけなのだ。
そして天皇は、この世の外の存在、すなわち「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の身代わりとして存在しているわけで、だからこそ「かみ」として祀り上げられてきたのだ。
つまり天皇制は、日本人のセンチメンタリズムのよりどころなのだ。
天皇には戸籍もないし自分の人生を選択する自由もない。天皇とは究極の負け組であり、そこにこそ天皇の崇高さと「かみ」であることのゆえんがあ
一部の左翼のあいだでは、天皇制こそ差別の温床であるという認識があるらしいが、もともと天皇は、誰もが平等な原始共産制の社会における差別しないことのよりどころとして祀り上げられていたのだ。
だから原初の天皇は、まず乞食とか遊女とか旅芸人とか身体障碍者などの社会から落ちこぼれたものたちから祀り上げられ、それが一般の民衆のあいだに広がっていったのだ。
この国の天皇は最初から社会の外の存在だったし、今なおそういう存在であることによって祀り上げられているのだ。
天皇は、差別される負け組のものたちの心のよりどころであり、そうやって「かみ」として祀り上げられてきたのだ。
だから、ウチナンチューに差別されている沖縄やアイヌの人々は天皇が好きなのだろう。
まあ天皇主義の右翼に差別主義やミソジニーの人間が多いのが現実であるわけだが、それは明治以降の国家神道からくるものであって、日本列島一万年の伝統ではない。
ほんらい差別をしないことのよりどころであった天皇制が、なぜ差別の温床になってしまったのか、そのからくりが問題なのだ。
とにかく天皇は勝ち組の三浦瑠璃やひろゆきの味方でもないだろうし、安倍晋三や百田尚樹や櫻井よしこや杉田水脈が天皇に好かれているという話も聞いたことがない。
日本列島の民衆社会には差別しないという伝統があるし、この社会にへばりついて勝ち組であることを自慢したがる人間やコスパ主義に走りたがるこすっからい人間を「いけ好かない奴だ」と思う伝統もある。
やまとことばの「かみ」という言葉のもっとも重要な意味は「この世界の外」ということにあり、そうやって天皇が「かみ」として祀り上げられてきたのだ。
天皇はこの社会から置き去りにされている負け組のものたちの味方であり、たとえば「天皇家御用達」の起源は、武士や百姓ではないもの、すなわちこの社会の制度の外に置かれた存在としての職人や行商人や旅芸人や旅の僧や娼婦や乞食たちに列島中を漂泊できる自由と人権を与えるためのものだったのだ。
明治以前の天皇はもちろん勝ち組の権力社会に幽閉された身ではあったのだが、社会の構造として天皇が負け組のものたちの味方として機能しているという部分もあったわけで、天皇が日本列島に存在するということは、社会制度の外の「無主・無縁」の領域が担保されていたということを意味する。
天皇は「かみ」であると同時に「無主・無縁」の負け組の人であり、負け組であるところにこそ普遍的な人間性の真実が息づいているということを象徴しているのだ。
「世間」というこの社会のしがらみに縛られた存在である民衆は、天皇と同じようにそうしたしがらみから解き放たれている者をリーダーとして祀り上げてきた。
三浦瑠麗がなぜいけ好かない女かといえば、裸一貫の「無主・無縁」の場に立つことなく、逆に権力社会にべったりへばりつきながら「かみ」のふりをしてきたからだ。
この国の伝統において「かみ」とは世間のしがらみから解き放たれている存在であり、
だから「人は死んだら神になる」というのだ。
世間のしがらみの外に立てば、差別なんかないだろう。
世間のしがらみに縛られへばりついているから、勝ち組にあこがれ、勝ち組であることを自慢したがる。
しかしこの国の民衆は、世間のしがらみに縛られつつも、世間のしがらみを憂い、世間のしがらみから解き放たれている存在にあこがれてきた。
だから三浦瑠麗やひろゆきのようにこの社会に寄生して勝ち組であろうとすることにあくせくしている人間は、けっきょくいけ好かない奴だ、と嫌われることになる。
「おたがいさま」の精神としてのれいわローテーション
3
上から目線でれいわを非難する知ったかぶりした政治オタクのインテリやインフルエンサーたちとは、いったいどんな人種なのだろうか?
れいわを応援するやつらなんかバカな女と人生の敗残者ばかりだ、という彼らは、そういう政治意識の低いものたちが政治に参加してこられることに対する嫌悪感と危機感がある。
今やれいわ新選組は政界のマイノリティというか在日朝鮮人やブラジル人やベトナム人のような存在であり、j政界の右も左も一緒になってれいわを叩くことは一種のマイノリティ差別であり、それはもう関東大震災のときの朝鮮人虐殺事件と同じ心理なのだと僕は思う。
まあNHK党や参政党は単なる変わり種右翼のような存在であり、そんな政党は昔からあったし、今でも諸派というかたちでもっと小さな右翼グループもたくさんある。
しかしれいわ新選組は、右派からも左派からも排除されるアウトサイダーになってしまっている。
彼らの支持者の中心は、もともと政治意識の薄い庶民であり、世の政治オタクたちはそういうバカな女や人生の敗残者が政治に参加してくることに拒否感と恐怖があるらしく、それは関東大震災の時の朝鮮人虐殺と同じ心理ではないか。
つまり、現在の政治界隈のれいわ叩きは、バカな女や人生の敗残者に対する差別でもあるらしい。
では、かしこい女や人生の勝者である者たちは、そんなに偉いのか?
政治とは、政治意識が高いものたちの専有物なのか?
まあそれ以外にも、人に対する思いの深さや細やかさだって、政治に携わる者のたしなみのひとつに違いないわけだが、バカな女や人生の敗残者にはそれがないというのか?
人間に対して鈍感で冷酷だからこそ勝者として上り詰めてゆくことができたというか、そうやってめでたく政治家になることができたものだって少なからずいるだろう。
バカな女で何が悪い?
人生の敗残者で何が悪い?
人としての真実は、おバカな女や人生の敗残者のもとにこそ宿っている。彼らは誰よりも無意識的な存在であり、その無意識においてこそ人は、この世界の真実を深く認識しているのだ。
哲学者が差し出すこの世界の深遠な真実は、すでに人の無意識の中で認識されていることなのだ。
言い換えれば、人の無意識の中に奥深く分け入ってゆくいとなみをして哲学というのだ。すなわちマルクスが言うように、人はすでに認識していること以上のことを認識することはできない、ということ。
彼らがどれほど偉そうに知ったかぶりしてあれこれうんちくを並べ立てようと、おバカな女や人生の敗残者の認識以上のことを語っているわけではない。
まあ、愚劣で薄ぺらな連中なのだ。
ひとまず現代社会の勝者であるらしい彼らは、自分の人生や社会的立場を保証してくれるこの世界の秩序の上に立って、自分こそ正義だと主張する。
その自己撞着、それが彼らをして勝者タラ占めていると同時に、彼らの限界なのだ。
人類の歴史は、敗者として生きることによって、爆発的な進化発展を実現してきた。
たとえば、原初の人類が二本の足で立ち上がることは早く走れなくなることだったのであり、その敗者としての嘆きが自動車を生み出し、鳥のように空を飛べないという嘆きが飛行機を生み出した。
まあ過酷な環境で生きていた原始人は誰もが生きられない弱いものだったのであり、だからこそ猿のレベルをはるかに超えた連携や協力の関係を生み出してきたし、みんなして生きられない弱いものを生きさせるという生態と技術を進化発展させてきたのだ。
原始人の集団においては、生きられない弱いものは足手まといだから切り捨てる、というわけにはいかなかった。
なぜなら、誰もがひとりでは生きられない弱いものだったから、弱いものを切り捨てることは集団そのものの存在理由を否定することだった。
たとえば氷河期の極寒の地で暮らしていたネアンデルタール人は、どんなに強いものでも夜眠るときに抱きしめ合う相手がいなければ生きていられなかった。
まあヨーロッパ人のハグの習慣の起源はそこにあるわけだが、その近すぎる関係性が反転して、のちの文明国家の時代になって憎み合ったり殺し合ったりする関係にもなっていった。
そうして近代になると、その合理主義や優生思想によって、生きられない弱いものは足手まといだから切り捨てた方がよい、という考え方も生まれてきた。
原始時代の歴史を近代合理主義や資本主義に染まった思考、すなわち近代的な自我によって解釈すると、大きな間違いを犯してしまう。そしてそれはまた、人間性の基礎や本質を見誤る、ということだ。
つまり今どきの知ったかぶりした政治オタクのインフルエンサーたちだって、近代合理主義的な自意識で政治を語っており、その自意識でれいわを叩いているのだろう。
彼らは自分の人生や立場を保証してくれているこの世界の秩序の上に立って、自分こそ正義だと主張する。その自己撞着が、彼らをして勝者たらしめていると同時に、彼らの論理の限界にもなっている。
つまり、現在の世界にフィットして勝者になっているものたちが、新しい世界に分け入ってゆこうとするはずがない。
したがって勝者が社会の進化発展をリードすることはない。
社会の進化発展は、敗者たちの抵抗によってこそもたらされる。
れいわローテーションは選挙制度や議会制民主主義に反しているというのなら、それは現在の腐敗し歪んでしまったそのシステムを肯定していることになるわけで、そこに新しい選挙制度や議会制民主主義に対する展望はない。
だったら、それに抵抗しているれいわローテーションの方がずっとわれわれの希望になるのかもしれない。
つまりれいわ新選組の主張は「敗者の論理」であり、そこにおバカな女や人生の敗残者が集まってきた。
人類は敗者の論理によって進化発展してきた、というパラドックスがある。
敗者でなければ、新しい時代を夢見ることはない。
新しい時代を夢見るということは、この生やこの時代の不幸を嘆いているというとを意味する。つまり、そういうセンチメンタリズムこそが、新しい時代に分け入ってゆく原動力になっているのだ。
バブル崩壊以後のこの国が没落したのは、日本列島の伝統としての「敗者の論理」すなわちおバカな民衆によって守られてきたところの、この生や時代を嘆き新しい時代を夢見るというセンチメンタリズムを失ったからかもしれない。
センチメンタリズムは、もっとも原始的な心映えであると同時にもっとも未来的な心映えでもある。つまり新しい時代の構想はおバカな女や人生の敗残者の無意識にこそもっとも深く豊かに宿っているということであり、知ったかぶりした勝ち組のインフルエンサーやインテリから教えてもらうようなことではないということだ。
参議院議員をひとりで6年間やるのと、1年ずつ6人でやるのと、どちらが正しいのか?
彼らはそれを議会制民主主義の冒涜だというが、ほんとうにそうだろうか?
たとえ冒涜であろうと、それは少数政党の必死の抵抗であり、僕はそうかんたんに否定できない。
国会での審議拒否や牛歩戦術だってそれなりにやむにやまれない場合だってあるし、デモや暴動や革命やクーデターや暗殺が起きてくる因果応報のことわりだってあるに違いない。
とにかく、たまたま選挙に負けたものに回ってきた議席を負けたものみんなで分け合うこと、それはある意味、世界普遍の敗者の自然な生態である。
日本的にいえば、「おたがいさま」の精神、ということになる。
敗者のもとにこそ人間性の真実・自然が宿っているのであり、勝ち組であることなんか自慢するようなことでも何でもないのだ。
世の政治オタクが正義ぶって裁くれいわローテーション…その2
2 弱小政党の必死の抵抗としての…
そのアイデアは、憲法や選挙制度や議会制民主主義に反している、と知ったかぶりした世の政治オタクのインテリやインフルエンサーたちが言う。
それは、現在のこの国の状況における正義であり正論であり、確かにそうかもしれない。
しかし彼らの上から目線のその言い方のなんと胡散臭くうっとうしいことか。
しかし、現在のこの国の選挙制度や議会制度は健全に機能しているといえるのか?
現在の自民党議員の異常な多さや自民党政治の暴走のことなどを考えれば、それはすっかり停滞し歪んでしまっているという意見も多い。
だったらそんな状況=情況を生み出している政権与党や官僚たちの勢力に対する抵抗もあっていいだろう。
また今では、多くの野党勢力もまた抵抗を止めて無難な右寄りのポジションを取ろうとしており、彼らは左派的なにおいがあると民衆に支持されない、と思い込んでいるらしい。そしてそれだけでなく、民衆の側に立って抵抗しようとしているれいわ新選組をはじめとする勢力を排除し始めている。
そうやって今や大政翼賛会的な政治状況になってきているのだが、しかし何度も言うが、この国の民衆社会の伝統は反権力の反国家主義であり、権力社会や国家を置き去りにして民衆社会独自の集団運営の作法を構築してきたのだ。
正義ぶって知ったかぶりして、何が正しいか間違っているかは俺が決めてやる、お前らは俺に従え、といわんばかりに上から目線でれいわ新選組を叩くネット界隈のインフルエンサーたちの下品な態度のなんとうっとうしいことか。
何はともあれれいわ新選組は生きられない弱いものに寄り添って状況に抵抗しようとしている政党なのだから、まあ生暖かく見守ってやればいいではないか。
まあ知ったかぶりしたがる連中にとって山本太郎やれいわ新選組は叩きやすいし、自分の優越性を確認しようとしてつい叩きたくなってしまうのだろう。
彼らにとってれいわ新選組は政党として未熟だし、それを支持する政治的な意識が低い純粋素朴な民衆も政治に参加する資格がないということらしい。
だから、素朴な民衆すなわち山本太郎いうところの有象無象による市民運動を組織しようとしているれいわ新組が目障りになる。
彼らには、政治は政治意識の高いものたちによってなされるものだ、という思いがあるらしい。そのうっとうしさ。
というわけで選挙に行かない無党派層が増えているのも、インテリであろうとあるまいと彼ら政治オタクがのさばっていることの騒々しさもあるのかもしれない。
では、民主主義とは何なのか?
無知でおバカな民衆は政治に参加してはいけないのか?投票してもいけないのか?
野党は、この停滞して抑圧的な政治状況に抵抗したらいけないのか?国会で審議拒否や牛歩をしたらいけないのか?
野党としてこのひどい状況=情況を嘆くなら、市民運動としてのデモや暴動は否定できないだろう。
まあれいわ新選組は、そういうおバカな民衆=有象無象の市民運動を組織しようとしている。
今や選挙が二世三世議員の既得権益の場になっているこの状況において、名もない市民が永田町の政治に参加してゆくためには、そういうシステムの穴をこじ開けてゆくしかないのだろう。
この硬直化し澱んでしまった議会制民主主義システムにおいて、選挙で選ばれたものは有能か?選ばれなかったものは無能か?百万票と一票は、どちらが重いのか?
お偉い権力者や知識人は、ほんとうに民衆よりも賢いのか?
ドストエフスキーは、「哲学者が発見するどんなに高度な真理も、すでに民衆の無意識の中に宿っている」といった。
つまり、変なインテリの知ったかぶりした屁理屈よりも、名もなくおバカな民衆の無意識の方がずっと高度に哲学的なのだ。
そういう意味で民主主義の政治とは民衆の無意識を掬い上げてゆくことにあり、そこに人類の理想の未来があるのではないだろうか。
孤立無援のれいわローテーション……その1
1
れいわ新選組は、水道橋博士の議員辞職を受けて残りの任期を5人で回すという奇策を発表した。
で、れいわ支持者以外のすべての層からの批判が殺到している。
まあこのことの良し悪しは、僕にはわからない。メリットもデメリットもあるのだろう。
でもわれわれのまわりの、たとえば町内会の会長なんか一年交代だし、そのような例は世間にいくらでもあるのだろう。
古代ギリシャの民主主義だって、そうやってくじ引きで代議員を選び回していた。
ひとつの議席を6人で回せば、多様な政治活動が生まれる。
6人でチームを組んでひとつの政策を練り上げる場合もあれば、それぞれが多種多様な政策を提出することもできる。
重要な役職をひとりで6年もやっていると有権者との利害関係が生まれて不正なことが起きやすい。だから、役所であれ一般企業であれ、2・3年で異動転勤になったりしている。それが世間というもの、国会だって世間の縮図だろう。
まあ世間の縮図だからこそ、あちこちから「余計なことをするな」という批判が立ち上るということもある。
そりゃあ既存の政治システムに胡坐をかいている者たちにとっては大いに気に入らないだろうが、ローテンション制の方が民主主義にかなっている、という側面もあるにちがいない。
現在の選挙制度では到底議員になれそうもない人たちが一年でも議員活動ができるのなら、それはそれで結構なことかもしれない。
おバカな二世三世の議員が既得権益の永久就職のように居座っていることより、よほどましだと思う。彼らのような親ガチャに恵まれたものたちと、たとえ能力があっても一生薄給の派遣社員でいるほかないロスジェネ世代のものたちとの間に、こんな差があっていいのだろうか。
まあれいわ新選組は、世の中にそういう議論が起きてくるのを待っているのだろうか。
しかしなぜだか知らないが、現在の政治状況においては、政治家も支持者たちも、与野党問わず寄ってたかってれいわ新選組をつぶそうとしている。
NHK党も参政党もたんなるお騒がせの駄々っ子みたいな存在だし、自民党と同じ右寄りの立ち位置だから、本質的に危険な存在ではない。
しかしれいわ新選組は、この社会のシステムの一部を壊し、新しい時代に分け入ってゆこうとしている。それはまあ、世界中どこでも野党が掲げるスローガンであるのだが、現在の維新の会や立憲民主党は与党に近いスタンスを取り始め、そのためにれいわ新選組を排斥しようとするようになってきた。
しかも野党の中の野党である共産党ですら、現在の社会システムと妥協するような態度をとってきており、ときにれいわ新選組の過激な主張と対立したりしている。
現在の選挙におけるれいわ新選組に流れてくる票は、もともと立憲民主党や共産党が獲得していた票を削っているらしい。その危機感から立憲も共産党もれいわを排除しようとしているし、れいわは自民党だけでなく維新とも決定的に対立していて、今や孤立無援だ。
ここまでくればもう、れいわは、どの野党とも共闘することができない。
今やすべての野党がれいわをつぶしにかかっているし、現在はいろんなかたちで「分断化」の動きが起きている時代だから、民衆のあいだでも異分子を排除しようとする動きはそれなりに盛り上がったりする。
そういう「分断化」の社会状況が、永田町の中にも反映している。
もともとれいわ新選組は、名もない市民というか民衆の連携を組織しようとして生まれてきた。
まあそれがうまくいっているかどうかはいまだに投票率が低いということにおいて疑問も残るのだけれど、既成の政党の政治家もその支持者たちも、政治というのは政治意識の高いものたちだけでやればいいのだと考えている。だから彼らは、政治意識が低いものを巻き込もうとするれいわの活動が気に入らないのだ。
ただ、れいわの代表である山本太郎にしても、名もない民衆による市民運動は彼らに政治意識を持たせることによって盛り上がる、と考えているのだが、果たしてそうだろうか。
この国の政治意識が薄いものたちは、ただ知識教養がないからというのではなく、政治のことを考えたり語ったりするのははしたないことだ、という思いがある。
政治意識の薄さはこの国の民衆社会の伝統であり、しかしその政治意識の薄さにこそこの国の民衆社会における連携の可能性がある。
「生きられない弱いものを生きさせる」というれいわのスローガンは正しいし、この国の民衆社会の伝統にかなっているのではないだろうか。
だから、その理念に賛同してボランティアに加わるものも多い。
しかし彼らの政治意識が高くなると、内部で権力闘争をして、つまらないいざこざも多く起きてくる。
政治の当事者になるということは、権力闘争が使命になるということだ。
この国の文化の伝統に沿った市民運動は、政治に参加して政府を転覆させることではなく、中世の一揆や幕末のええじゃないか騒動や大正の米騒動のように、政府なんか置き去りにして民衆だけの連携を盛り上げ大きくしてゆくことにあるわけで、厳密には政治運動ではないのだ。
権力闘争に明け暮れる永田町など置き去りにして、民衆どうしが他愛なくときめき合い連携してゆく動きが盛り上がれば、永田町だってそれについてくるだろう。
まあこういう動きが起きてくるのを阻んでいるもう一つの勢力が現在のマスコミで、彼らもまた市民を見下した永田町寄りの人種でしかない。
聖徳太子の十七条の憲法になぜ「和を以て貴しとなす」」と書かねばならなかったかといえば、当時の権力社会が殺し合いの連続の陰惨な権力闘争を繰り広げていたからであり、民衆社会がそれを置き去りにして他愛なくときめき合い豊かに連携し合っていたからだ。
また「篤く三宝を敬い…」などといって仏教で国を治めようとしていたのに、民衆社会は神道の祭りで勝手に盛り上がっており、けっきょく「神仏習合」の政策をとってゆくしかなかった。
あのとき偉かったのは、聖徳太子ではなく、国の政治なんかに何の興味もない民衆社会だったのであり、それは、民衆社会には民衆社会独自のもっと高度で本質的な政治システムがあった、ということを意味する。
この国の民衆は政府の政治に興味がないといっても、政治センスがないというわけではない。民衆には民衆の政治に対する思いと作法がある。つまり、古代以来「村の寄合」として培ってきた政治手続きがある。
「村の寄合」はつまり、お上のいない平等の集まりであり、そのまま古代ギリシャ市民の民主主義に通じている。
世の良識派を自認する人たちは、れいわ新選組は議会制民主主義や基本的人権が大事だというこの社会の共通合意を壊そうとしている、という。
それは確かに正義・正論だが、しかしこの社会には、議会制民主主義や基本的人権よりももっと大事なことがあり、そのためには現在の議会制民主主義が壊れてもかまわない。
ただし、壊れてもかまわないということは、議会制民主主義を否定しているのではない。もっと新しい別の議会制民主主義があるだろうということ、議会制民主主義のオルタナティブを見つけようということだ。
この国の歴史風土に合った新しい議会制民主主義があるに違いない。
選挙で選ばれた一人が六年やるというのが現在の制度だとしても、一人一年ずつ6人で回した方がいいだろうという意見のものがいれば、当然そういう試みをしてくる。
それを許さないというなら、許さない制度にすればいい。
とりあえず法的に許されるのなら、許すしかないだろう。
まあ、より良い議会制民主主義を目指すなら、そういう試みもあっていい。
現在の議会制民主主義が絶対的な正義だというわけでもあるまい。絶対的な正義なら、こんなにもひどい政治状況になっていないだろう。
何はともあれ「生きられない弱いものを生きさせる」ということにおいてれいわ新選組はもっとも熱心で切実であり、そういう政党があってもいいではないか。
生きられない弱いものの人権は生きられる強いものの人権よりももっと大事であり、それは、誰もが他愛なくときめき合い連携してゆくという原始共産制の精神、すなわち普遍的な人間性の自然を取り戻すことにある
まあ山本太郎とれいわ新選組は、そういう世界を目指しており、だからいろんな掟破りのことをしてくるし、あちこちから排斥されもするのだろう。
僕は、たとえ今回のれいわローテーションという決定が社会常識的に間違っているとしても、れいわ新選組の「生きられない弱いものを生きさせる」というその理念と心意気に引き寄せられて集まってきた素朴な市民の群れの動きは応援したい。
彼らはもともと政治的な意識が薄いからこそその根本の理念に引き寄せられたのであり、民衆の心を引き寄せるのは、政策ではなく理念と心意気なのだ。
政治意識が薄い純粋で素朴な民衆の「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いをどう組織することができるか、それが問題だ。それが、投票率のアップにつながるのではないだろうか。
「エンドレスの哀歌」…山上徹也とひろゆきとロストジェネレーション
先日暇空茜という人が、ツイッターで「仁藤夢乃のコラボというNPO団体は、東京都からの補助金を不正に流用している」と騒ぎ立てたのだが、監査の結果、特に不正はなかったらしい。
そりゃあ経理上の細かいミスの二つ三つはあるだろうが、そんなことはどんな団体にもあることで、不正というほどのことではない。
まあそんなことは東京都がちゃんと指導したり周りの支援者がサポートしたりすればいいことで、仁藤夢乃の主たる責務ではない。
彼女の、家出をしてきて夜の街にさまよう若い娘たちに援助の手を差し伸べるというその活動に第一義的に必要なものは、理念と心意気であり、そういう娘たちを性的に消費しようとする下品なオヤジたちは許さないという正義感というかファイティングスピリットだろう。
暇空茜やひろゆきやあまたのネトウヨたちがなぜなぜそんなにも仁藤夢乃を攻撃するかといえば、彼女が生意気な女であり、性的に消費されやすい弱い存在である若い娘たちを助けようとしていることにあるらしい
それは、資本主義や近代合理主義などのすなわち今どき優生思想的コスパ主義という社会の流れに反する行為であると同時に、それを扇動する現在の政権与党にたてつく行為でもあるのだ。
現在のネット社会で暇空茜やひろゆきが正義ぶって悪目立ちしていることは、この社会が病んでいることの表れであり、彼らのような人間がたくさん生み出されているということを意味する。
現在のこの国がろくでもないということは、日本文化の伝統や人類史の伝統すなわち人間性の本質から逸脱してしまっているということであり、そうやって社会や集団の動きや人々の心が停滞してしまっているのだろうし、その停滞に付け込んで暇空茜やひろゆきをはじめとする多くのネトウヨ文化人がのさばっている。
彼らは、現在のこの国の魑魅魍魎であり、コスパ主義の俗っぽい妖怪だらけの世の中になってしまっている。
彼らはこの世界を俯瞰して眺めているアウトサイダーのふりをしているが、じつはこの世界にべったり寄生している単なるインサイダーでしかないのであり、彼らにたてついてもみくちゃにされている仁藤夢乃や仲間の家出むすめたちの方がはるかに本格的なアウトサイダーだと思える。
家出とはひとつの異世界転生であり、異世界転生は人類普遍の願いなのだ。
女三界に家無しというように、女は存在そのものにおいてアウトサイダーであり、アウトサイダーであることによって、避けがたく現実社会に幽閉されてしまっている男にとってはすべて存在そのものにおいてめんどくさい対象なのだ。
暇空やひろゆきをはじめとするミソジニーの男たちは仁藤夢乃のようなめんどくさい女は嫌いだというが、この世にめんどくさくない女などいないのであり、めんどくさい対象であることによって女は魅力的なのだ。
アウトサイダーとは、この世界の外に立っている者のこと、すなわち死者からの視線を持っているということだ。
まあ現在のこの社会は病んで停滞しているからこそ、そこに付け込んで甘いお汁を吸おうとする暇空茜やひろゆきのような人種が生まれてくるし、その病んで停滞している状況を告発しようとする仁藤夢乃のような人間も登場してくる。
そしてあの山上徹也だって、死者からの視線の上に立ってそういう状況を告発しようとして安倍晋三を銃撃したのだ。
山上徹也は、この病んだ状況において、暇空茜やひろゆきをはじめとする今をときめくインフルエンサーたちの対極に立つ存在である。
ある人が、山上徹也のキャラクターについて考える上でのキーワードとして、「エンドレスの哀歌」」と「因果応報の理(ことわり)」という二つの言葉を挙げている。
なるほどそうだなあ、と僕も思う。
で、この二つの言葉の意味するところについて考えてみたい。
まず、「エンドレスの哀歌」について。
やまとことばとしての「かなしみ=かなし」は、親しい他者の死に際して深い喪失感を抱いたところから生まれてきた言葉である。
「か」は「カッとなる」の「か」で、気持ちがこみあげてくることを表している。
「な」は「なあ、お前」の「な」で、親密な感慨を表す。
「し」は「静か」」の「し」で、「しみじみそう思う」」という感慨を込めた形容詞の語尾。
というわけで「かなし」というやまとことば、深い愛着と喪失感を同時に表している言葉である。
そして山上徹也もまた、そうした深い愛着と喪失感をエンドレスで抱きながら生きてきた人にほかならない。
世間ではよく「ロストジェネレーションの不遇」ということが取りざたされ、山上徹也もその被害者のひとりであるといわれているが、それが彼にああいう行動を起こさせた第一義的な要因だとは言えない。
彼はすでにみずからの不遇を受け入れていたのであり、そのことの絶望やルサンチマンから安倍晋三銃撃を計画したのではない。
彼はあまりにも深く父や兄の死を嘆き、その喪失感から逃れられなかった。
そうしてその喪失感を振り払って自分の人生の建設に歩みだすということができなかった。
彼の心は、すでに死者とともにあった。
統一協会に人生をめちゃくちゃにされた母親だって、彼にとってはすでに死者の世界にいる対象だった。そうやって彼は、彼をネグレクトして育てた母を恨むのではなく、深く愛していた。
それが、彼の「エンドレスの哀歌」だった。
そして彼にとって母を愛することは、統一教会を許さないと決意することだった。
次に「因果応報の理(ことわり)」ということ。
統一教会は、先祖供養という因果応報の理屈で山上の母親を洗脳し、1億以上の金を巻き上げ、その精神も人生も破壊してしまった。
したがって山上だって、因果応報という思案は、表面的にも潜在的にも常に付きまとったに違いない。
また因果応報は、日本文化の伝統であり、日本人なら誰もがそのことを潜在的に意識している。
罪を犯した者は、死者の怨霊によって裁かれねばならない…これが日本的な倫理観の通奏低音であり、統一教会や安倍晋三は、統一教会を恨んで死んでいいた祖父や兄によって報いを受けなければならない、と山上は思った。
たとえば古事記や日本書紀を編纂した大和朝廷の権力者たちは、われわれの祖先は神であると名乗っているわけだが、それは、彼らの祖先が朝廷内の権力闘争でさんざん政敵を殺してきた歴史の、そのうしろめたさを覆い隠すためのものでもあった。
平安時代における御霊信仰は、現世に災厄をもたらす平将門や菅原道真の怨霊を鎮めるためのものだったし、中世の能の物語の主題の多くは死者の怨霊を鎮めるということにあり、そこから江戸時代の四谷怪談や番町皿屋敷などの物語が生まれてきた。
そして現在まで続く精霊流しもまた、ひとつの先祖供養にほかならない。
柳田国男は日本的な信仰の基礎は先祖供養にあるといっているし、統一教会はそこに付け込んで信者をたぶらかして大金を巻き上げ、安倍晋三はその活動に積極的に加担していった。
まあ統一教会の先祖供養という教義のあくどい呪縛力には、日本列島のそういう歴史が重くのしかかっている。
暇空茜やひろゆきやメンタリストダイゴもホリエモンや三浦瑠璃などの今をときめくインフルエンサーという名の悪霊たちはみな不思議なことにロスジェネ世代であり、そういう栄耀栄華を謳歌する勝ち組と出口のないトンネルの中で不遇をかこつ負け組のものたちとに、見事に両極化している。
俗物のインフルエンサーとして社会状況に寄生しつつ栄耀栄華を謳歌しているロスジェネと、負け組として途方に暮れながら心が社会の外にさまよっているロスジェネ。前者は、後者を差別し軽蔑し、自業自得だと排斥している。
勝ち組のものたちが共有している加速主義的新自由主義的思想は、生きられない弱いものは全部消えてしまえばいい、そうなれば世界はもっと良くなる、という。
そりゃあ勝ち組のものたちは社会がどんなに衰退しようと自分の人生は安泰だろうが、それによって今にも死にそうな弱いものたちを見捨ててしまっていいのか。彼らにはそういうことに対する想像力がない。情がない。愛がない。その冷酷で薄っぺらなニヒリズムに、人間であることの真実や本質があるのだろうか。
彼らは人間に対して鈍感だし、物事の表面をなぞるだけで、深く考えるということができない。
それに対して負け組のひとりである山上徹也の思考力や愛は、勝ち組のインフルエンサーたちよりもはるかに本格的で深く豊かだ、と僕は思う。ヒューマニズムというか人間性の本質は、負け組の彼らによって回復されるに違いない。人が人であることの真実は、彼らのもとにこそある。
われわれは、山上徹也のあの事件によって、人間とは何かとか社会とは何かとか日本人にとって宗教とは何かというような問題を改めて考えさせられたのではないだろうか。
ボブ・ディランは、「時代は変わる」という歌の中で「一周遅れのランナーこそがじつは先頭を走っているのかもしれない」と歌ったが、時代から置き去りにされて時代の外に立たされている者こそ、じつは時代をリードしているのかもしれない。
暇空茜やひろゆきやホリエモンや三浦瑠璃などの今をときめくインフルエンサーたちは、時代をリードしているのではなく、時代に寄生しているだけなのだ。
新しい時代に分け入ってゆくということは、今の時代の外に出るということだ。
時代に置き去りにされて途方に暮れている者こそ、新しい時代を見ている。
山上徹也がなぜ安倍晋三襲撃の計画に熱中したかといえば、安倍晋三の死の向こうに新しい時代の気配を感じていたからだろう。
われわれは今、この病んで停滞した時代の中で、健康な人間性の回復を願っている。人々がいがみ合い対立する社会の中で、誰もが他愛なくときめき合う社会の到来を待ち望んでいる。たとえその実現が百年先千年先であろうと、われわれは待ち望んでいる。われわれは、永久に待ち望み続けてゆくのだ。
あの連中は、生きられない弱いものたちが存在しない世界を想像する。なぜなら生きられない弱いものたちは、自分が生きてゆくうえで足手まといだからだ。そしてそれはダーウィンのいう「自然淘汰」の論理に似ているし、近代合理主義に通じる今どきのコスパ主義の論理でもある。
つまり彼らは、未来を展望しているのではなく、現在に寄生しているだけなのだ。
それに対して山上徹也は安倍晋三がいない世界を想像したわけで、それは生きられない弱いものたちが生きられる世界であると同時に、この世界の外の世界だった。
人は根源において「異世界転生」を夢見ているし、人類の歴史は「異世界転生」」を夢見ながら新しい時代を迎え、進化発展してきた。
暇空茜やひろゆきはこの世界に寄生し、山上徹也は異世界転生を夢見た。
とりあえずこれがこの論考の結論である。
2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。
二年ぶりの更新です。
ほんとうは続けたいと思っているのに、なんとなくさぼってきました。
そのあいだ、YOUTUBEをやっていました。しょぼい番組だし、まわりの家族や友達みんなから「やめとけ」といわれているから、いちいち恥ずかしさと後ろめたさが付きまといます。
その都度それを振り払ってやろうとするから、あまりうまく進まないし、結構しんどい二年間でした。
まあ、YOUTUBEのための原稿をそれなりに丁寧に書いているから、それを転載するかたちで、これからはもう少しブログもまめに更新しようと思っています。
さしあたり、去年の暮れに書いたものを転載します。
【2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。】
2022年はウクライナ戦争の勃発とともに始まり、この国では安倍晋三をはじめとする低俗な右翼たちによる核兵器共有論や軍備増強論に引きずられた「気分はもう戦争」という状況になっていった。
そして7月の安倍銃撃事件がそれに拍車をかけた。
ロシアはなぜ戦争に踏み切ったのか。
プーチンは長い間かけてロシアの誇りとかアメリカやEUの脅威とかウクライナはファシストに支配されているなどの言説を振りまいて民衆を洗脳してきた。だからロシアの中高年や地方都市の民衆のほとんどは戦争に賛成している。
反対しているのは、モスクワやサンクトぺテルブルグ等の大都市の若年層だけである。
そしてこの国もまた、長い間の自民党右派勢力の支配によって、多くの男たちがそのプロパガンダに引きずられてしまっている。
まあ世界中どこでも女は、宗教や政治等のプロパガンダにかんたんに洗脳されるか威勢よく反対するかの両極端までいるが、男はおおむね中途半端な日和見が多い。
ロシアであろうとこの国であろうと、男や年寄り連中は権力者のプロパガンダに引きずられやすい。多くの男は、一部の女のように丸ごと洗脳されるということもない代わりに、日和見を決め込んでずるずると権力社会のプロパガンダに引きずられてしまう。
そうやってこの頃は、憲法改正論や防衛費倍増論になんとなく賛成してしまう日和見主義者たちが増えてきているというか、日和見主義が正義であるかのような風潮になってきている。
日和見主義の男たちが、正義ぶって知ったかぶりして偉そうなことを言ってくる。薄っぺらなやつらだ、と思う。
しかしこのところロシアの劣勢が伝えられるようになってきた。それは、何を意味するのか。
プーチンは、さんざん強迫観念的なEU脅威論を国内に振りまき、全体主義的権威主義的国家体制をつくってきた。それは、戦前のこの国の状況と一緒だし、現在の岸田政権下の防衛費倍増論議もそれと同じだろう。
2022年のこの国の権力社会や右翼界隈は、そのような「気分はもう戦争」という流れだった。
ただ、現在のロシアは負け始めている。それはアフガン戦争やベトナム戦争と同じで、侵略した大国が弱小国に負けるという流れであり、侵略されたときは最低限の武力でも撥ね返せる、ということだし、防衛費を二倍にすれば侵略されないで済むというものでもない。
下手な外交をしていたら、どんなに軍備を増強しても侵略されるときは侵略されてしまう。台湾だろうとこの国だろうと、相手国を挑発するようなことをしていたら、侵略される危険はさらに強くなる。
岸田政権は、アメリカと一緒になって中国や北朝鮮やロシアと対立しようというのか。
侵略されたら、死に物狂いで戦うしかない。死に物狂いで戦えばなんとかなるということを、アフガンやベトナムやウクライナが教えてくれている。
台湾だって、もしも中国から侵略されたら、死に物狂いで戦うのだろう。
それに、海に隔てられた相手国を侵略することは不可能であるという地政学的な普遍性がある。
まあ弱い国が侵略されないためには、仲良くするしかない。死に物狂いで仲良くできる関係を構築してゆくしかないし、軍備を増強しようとするまいと、対立すれば侵略されるリスクは高くなる。
敗戦後のこの国は、戦う能力のない弱い国として生きてゆく決意をし、そういう憲法をつくった。
その憲法を今なお持っているということは、いまだに敗戦直後だということであり、永遠に敗戦直後の国として生きてゆこうと決心したのだ。
「気分はもう敗戦」、永遠の敗戦直後、それがこの国の文化の伝統だ。
敗戦直後であるということは、生まれたばかりの赤ん坊のような生きられない弱い存在になるということであり、生まれ変わって生きるということだ。そうやって他愛なくこの世界の輝きにときめきながら生きてゆくということだ。そのように、好奇心旺盛なおっちょこちょいであることこそこの国のメンタル風土であり、そこにこそこの国の文化的ないとなみのダイナミズムの源泉がある。そうやってダイナミックな戦後復興を果たしてきた。
気分はいつも敗戦直後、それがこの国の文化の伝統としての滅びの美学だ。
国だろうと文化だろうと守るべきものなど何もない、それが滅びの美学だ。
失われた20年とか30年などといって、この国の経済も精神状況もどんどん衰退していっている。
そこで宮台真司をはじめとするインテリたちがもっとだめになればいいという加速主義を唱えるのは、自分の既得権益だけは守られているからかもしれない。だとすればそれは、既得権益を守ろうとしているのと同じことになる。
もっとだめになればいいなんて、そんな残酷なことを言うべきではないだろう。すでに死の淵に立たされている人たちがたくさんいる。世の中が立ち直るためにそういう人たちは死んでしまえばいいのか。だったらそれは、優生思想と同じだろう。
景気がよかろうと悪かろうと、いつだって敗戦直後の気分で生きてゆくのが人間社会のダイナミズムであり、そうやってバブル全盛のころに美空ひばりの「みだれ髪」や石川さゆりの「天城越え」などのこの上なくセンチメンタルないわゆるド演歌が大流行したのだ。
自分だろうと国家だろうと人類の世界だろうと、必ず守らねばならない大切なものだというわけではない。
滅びる運命に遭遇すれば、滅んでゆくしかない。
滅びの美学がこの国の文化の伝統だし、たとえば自己犠牲とともに滅んでゆくことが美しいとか崇高だとかというのではなく、ただもう人の心のはたらきには滅んでゆくことの恍惚がある、というだけのことで、それはもう世界中どこでもそうなのだ。
自己犠牲の説話なんか、世界中どこにでもある。美しいとか崇高とか、そんなことはどうでもいい。人間はそういうことをしてしまう生き物だということ、そこに恍惚=快楽がはたらくから自分を投げ捨ててしまおうとするのだ。どんなにコスパが悪くても、そうしてしまうのだ。
人は、生きるために生きているのではない。この命を守るために生きているのではない。この命のコスパを追求して生きているのではない。われわれはすでに生きているのであり、すでに生きてあるという事実とどう和解するかというテーマで生きている。そしてそのために必要なことは、この生を守ることではなく、生きながら心がこの生の外に跳躍してゆく恍惚=快楽であり、そうやって心や命が活性化するのであれば、は死んでもかまわないということでもある。
というわけで2023年はもう、「この国はもうすでに滅んでしまっている」という認識で歩み始めた方がいいし、つねにそうやって歩んできたのが縄文以来の日本列島の歴史だ、とここでは考えている。
2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。
二年ぶりの更新です。
ほんとうは続けたいと思っているのに、なんとなくさぼってきました。
そのあいだ、YOUTUBEをやっていました。しょぼい番組だし、まわりの家族や友達みんなから「やめとけ」といわれているから、いちいち恥ずかしさと後ろめたさが付きまといます。
その都度それを振り払ってやろうとするから、あまりうまく進まないし、結構しんどい二年間でした。
まあ、YOUTUBEのための原稿をそれなりに丁寧に書いているから、それを転載するかたちで、これからはもう少しブログもまめに更新しようと思っています。去年の暮れに書いたものを暮れに書いたものを転載します。
【2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。】
2022年はウクライナ戦争の勃発とともに始まり、この国では安倍晋三をはじめとする低俗な右翼たちによる核兵器共有論や軍備増強論に引きずられた「気分はもう戦争」という状況になっていった。
そして7月の安倍銃撃事件がそれに拍車をかけた。
ロシアはなぜ戦争に踏み切ったのか。
プーチンは長い間かけてロシアの誇りとかアメリカやEUの脅威とかウクライナはファシストに支配されているなどの言説を振りまいて民衆を洗脳してきた。だからロシアの中高年や地方都市の民衆のほとんどは戦争に賛成している。
反対しているのは、モスクワやサンクトぺテルブルグ等の大都市の若年層だけである。
そしてこの国もまた、長い間の自民党右派勢力の支配によって、多くの男たちがそのプロパガンダに引きずられてしまっている。
まあ世界中どこでも女は、宗教や政治等のプロパガンダにかんたんに洗脳されるか威勢よく反対するかの両極端までいるが、男はおおむね中途半端な日和見が多い。
ロシアであろうとこの国であろうと、男や年寄り連中は権力者のプロパガンダに引きずられやすい。多くの男は、一部の女のように丸ごと洗脳されるということもない代わりに、日和見を決め込んでずるずると権力社会のプロパガンダに引きずられてしまう。
そうやってこの頃は、憲法改正論や防衛費倍増論になんとなく賛成してしまう日和見主義者たちが増えてきているというか、日和見主義が正義であるかのような風潮になってきている。
日和見主義の男たちが、正義ぶって知ったかぶりして偉そうなことを言ってくる。薄っぺらなやつらだ、と思う。
しかしこのところロシアの劣勢が伝えられるようになってきた。それは、何を意味するのか。
プーチンは、さんざん強迫観念的なEU脅威論を国内に振りまき、全体主義的権威主義的国家体制をつくってきた。それは、戦前のこの国の状況と一緒だし、現在の岸田政権下の防衛費倍増論議もそれと同じだろう。
2022年のこの国の権力社会や右翼界隈は、そのような「気分はもう戦争」という流れだった。
ただ、現在のロシアは負け始めている。それはアフガン戦争やベトナム戦争と同じで、侵略した大国が弱小国に負けるという流れであり、侵略されたときは最低限の武力でも撥ね返せる、ということだし、防衛費を二倍にすれば侵略されないで済むというものでもない。
下手な外交をしていたら、どんなに軍備を増強しても侵略されるときは侵略されてしまう。台湾だろうとこの国だろうと、相手国を挑発するようなことをしていたら、侵略される危険はさらに強くなる。
岸田政権は、アメリカと一緒になって中国や北朝鮮やロシアと対立しようというのか。
侵略されたら、死に物狂いで戦うしかない。死に物狂いで戦えばなんとかなるということを、アフガンやベトナムやウクライナが教えてくれている。
台湾だって、もしも中国から侵略されたら、死に物狂いで戦うのだろう。
それに、海に隔てられた相手国を侵略することは不可能であるという地政学的な普遍性がある。
まあ弱い国が侵略されないためには、仲良くするしかない。死に物狂いで仲良くできる関係を構築してゆくしかないし、軍備を増強しようとするまいと、対立すれば侵略されるリスクは高くなる。
敗戦後のこの国は、戦う能力のない弱い国として生きてゆく決意をし、そういう憲法をつくった。
その憲法を今なお持っているということは、いまだに敗戦直後だということであり、永遠に敗戦直後の国として生きてゆこうと決心したのだ。
「気分はもう敗戦」、永遠の敗戦直後、それがこの国の文化の伝統だ。
敗戦直後であるということは、生まれたばかりの赤ん坊のような生きられない弱い存在になるということであり、生まれ変わって生きるということだ。そうやって他愛なくこの世界の輝きにときめきながら生きてゆくということだ。そのように、好奇心旺盛なおっちょこちょいであることこそこの国のメンタル風土であり、そこにこそこの国の文化的ないとなみのダイナミズムの源泉がある。そうやってダイナミックな戦後復興を果たしてきた。
気分はいつも敗戦直後、それがこの国の文化の伝統としての滅びの美学だ。
国だろうと文化だろうと守るべきものなど何もない、それが滅びの美学だ。
失われた20年とか30年などといって、この国の経済も精神状況もどんどん衰退していっている。
そこで宮台真司をはじめとするインテリたちがもっとだめになればいいという加速主義を唱えるのは、自分の既得権益だけは守られているからかもしれない。だとすればそれは、既得権益を守ろうとしているのと同じことになる。
もっとだめになればいいなんて、そんな残酷なことを言うべきではないだろう。すでに死の淵に立たされている人たちがたくさんいる。世の中が立ち直るためにそういう人たちは死んでしまえばいいのか。だったらそれは、優生思想と同じだろう。
景気がよかろうと悪かろうと、いつだって敗戦直後の気分で生きてゆくのが人間社会のダイナミズムであり、そうやってバブル全盛のころに美空ひばりの「みだれ髪」や石川さゆりの「天城越え」などのこの上なくセンチメンタルないわゆるド演歌が大流行したのだ。
自分だろうと国家だろうと人類の世界だろうと、必ず守らねばならない大切なものだというわけではない。
滅びる運命に遭遇すれば、滅んでゆくしかない。
滅びの美学がこの国の文化の伝統だし、たとえば自己犠牲とともに滅んでゆくことが美しいとか崇高だとかというのではなく、ただもう人の心のはたらきには滅んでゆくことの恍惚がある、というだけのことで、それはもう世界中どこでもそうなのだ。
自己犠牲の説話なんか、世界中どこにでもある。美しいとか崇高とか、そんなことはどうでもいい。人間はそういうことをしてしまう生き物だということ、そこに恍惚=快楽がはたらくから自分を投げ捨ててしまおうとするのだ。どんなにコスパが悪くても、そうしてしまうのだ。
人は、生きるために生きているのではない。この命を守るために生きているのではない。この命のコスパを追求して生きているのではない。われわれはすでに生きているのであり、すでに生きてあるという事実とどう和解するかというテーマで生きている。そしてそのために必要なことは、この生を守ることではなく、生きながら心がこの生の外に跳躍してゆく恍惚=快楽であり、そうやって心や命が活性化するのであれば、は死んでもかまわないということでもある。
というわけで2023年はもう、「この国はもうすでに滅んでしまっている」という認識で歩み始めた方がいいし、つねにそうやって歩んできたのが縄文以来の日本列島の歴史だ、とここでは考えている。