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2015-05-29

『幽霊貸家』(The Ghostly Rental, 1876)

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まず、この物語の梗概を記しておこう。神学を学んでいる「わたし」が発見する幽霊屋敷好奇心溢れる「わたし」が発見したその幽霊屋敷に取り憑いている幽霊──その幽霊は父親に死に追いやられた娘の霊であることを「わたし」は突止める。さらに、幽霊屋敷に住んでいる幽霊である娘は、年に四度、父親をそこに呼び出し──もともとその屋敷は父親が所有しており、妻の死後、娘と二人でそこに暮らしていた──その屋敷賃貸家賃を父親に手渡す。父親であるダイヤモンド大尉にとって、幽霊=娘から渡される家賃は、現在の彼の唯一の収入であった。老いた父親は「幽霊家賃」を頼って生活し、それによって辛うじて生活が成り立っていた。そんな幽霊人間関係、そんな奇妙な親子関係に対して牧師の卵である「わたし」が介入する。そこで「わたし」が実際に見出したのは……娘は実は幽霊の振りをした人間=「偽物の幽霊」であり、「わたし」がそのことを暴いたその最中に、娘は「本物の幽霊」=死の床にある父親を目撃し、驚愕し、持っていた燭台を床に落とし、それが原因で屋敷は跡形もなく燃え尽きてしまう……。

中村真一郎がこの作品をブラックユーモアと取るか、それとも親子の、部外者にはわからない父と娘の間に横たわる積年の葛藤を描いたシリアス物語と見るかで印象が変わると記していたが──まさに、どこに「視点」を置くかで「その印象」が変わるのは、ジェイムズ登場人物だけではなく、ジェイムズの読者にしても同じだろう──個人的に興味を惹くのは「偽物の幽霊」と「本物の幽霊」が逆転し入れ替わること、である。その鮮やかな仕掛け(トリックである。この作品には後のアガサ・クリスティがやりそうな叙述トリックが仕掛けられている。

そのトリックがどのように仕掛けられているのか、そのために読者が頼る「視点」となる語り手=「わたし」、すなわち幽霊を追跡する人物の言動を追跡しておきたい。

「わたし」は次のような自己紹介をする。

学友の一人とはとくに深い友情で結ばれ、かなりの時間を共に過ごした。不幸にもかれは片方の膝が弱かったので、引きこもりがちな生活を余儀なくされていたが、わたしはまめに出歩く人間だったから、二人の習慣はいささか違った。わたしは毎日散歩して、遠くまでよく足をのばした。握った杖か、ポケットの中の本だけが道連れだったが、脚を動かして爽快な野外の空気を吸っていれば、十分連れのかわりになった。それに、すこぶる視力の良いふたつの目に恵まれていたおかげで、社交的快楽もいくらか味わっていたことを言い添えるべきだろう。わたしの目とわたしとはとても良好な関係にあった。かれらは道端で起きるあらゆる事を疲れもせずに観察して、両目が楽しんでいる限り、わたしも満足だった。


ヘンリー・ジェイムズ幽霊貸家』(南條竹則坂本あおい 訳、創元推理文庫ねじの回転 心霊小説傑作選』所収)p.233 *1

何より旺盛な好奇心を持ち、観察に適した視力のよい両目に恵まれていたこと。その「習性」のおかげで、その「特権」を享受することによって、「わたし」はこの奇妙な出来事とかかわり合いになった、と「わたし」は語る。

わたしはあの灰色コロニアル様式の家を初めて見た時のことを思うと、帰納推理というものは時として直感と紙一重であると信ぜざるを得ない。というのも、結局のところ、わたしの導き出した重大な帰納的結論を裏づけるようなものは、表面上どこにもなかったからだ。わたしは退いて、道を横切った。夕陽が消え入ろうとする寸前に最後の赤い光が放たれ、この家の年古りた正面を、ほんの一瞬うっすらと染めた。光は扉の上にある扇型の窓に嵌められたガラスを一枚一枚、いとも整然と照らしてゆき、幻想的に瞬いた。やがてそれが消え果ると、家はいっそう陰惨な闇につつまれた。この瞬間、わたしは深い確信をこめてつぶやいた──「これは幽霊屋敷なんだ!」


p.236

この家は幽霊屋敷のようであるから……と直感し、推論し、だから「この家は幽霊屋敷なんだ!」……と確信する。その推理に自信満々である帰納推理というのは直観なのである)。次にすべきことは幽霊屋敷の調査である。「わたし」はすでに探偵になっている──誰からも依頼を受けていないのに。「好奇心」がそうさせているのである

「あの脇道の先にある家ですが──ここから一マイルほど離れた──一軒家のことですが、誰の家かご存知ですか?」

彼女はわたしをじろりと見、少し顔を赤らめたようだった。

「このへんの者は、誰もあこそを通りません」

「でも、メドフォードへの近道じゃありませんか」

彼女はつんと顔をあげだ。「かえって遠回りになるでしょう。ともかく、わたしどもはあの道を使いません」

これは面白い。まめまめしいニュー・イングランド人間時間節約できる道を通ろうとしないのには、それなりの理由があるにちがいない。「それにしても、あの家は御存知でしょう?」とわたしは言った。

「ええ、見たことはあります

「誰の家なんですか?」

彼女ちょっと笑って、そっぽを向いた。まるで他所者には自分言葉が農民の迷信のように聞こえるかもしれないと思っているようだった。「あそこに住んでいる人の家だと思います

「でも、人が住んでいるんですか? まったく閉めきってありますよ」

「いいんです。けして外には出てきませんし、誰も入っていかないんですから」

そう言って、彼女は背を向けた。

だが、わたしは相手の腕をそっとつかんだ。「つまり、あそこは幽霊屋敷だとおっしゃるのですね?」

彼女は顔を赤くして身を引くと、唇に指をあて、そそくさと家に入った。たちまち窓のカーテンが下された。


p.237-238

微妙曖昧な受け答え、口ごもり、相手の迷惑そうな表情──そこから「わたし」が読み取るのは幽霊屋敷のことを知っているのに「知っていないふり」をしている「証人」の証言である。「わたし」の不躾な態度による相手の困惑幽霊屋敷であることを示す証拠でしかない──「わたし」の確信は、この証人のこの態度によって裏付けられた。「わたし」は(やはり)正しかった。「わたし」は、ますます、その家に対し想像を張り巡らせる。日を改め、再び偵察に向かう。偵察の最中軍服のような外套を着た小柄な老人が「幽霊屋敷」にやってくる。「わたし」は老人をつぶさに観察する──生者か死者かと言われても見きわめがつかなかったが、こういう人物は昔から変わり者と相場が決まっている、ただし目の前にいる者はちょっとやそっとの変物ではないようだ。こういう変わり者だから……と推論し、だから老人の一挙手一投足が不穏さを帯びている──と「わたし」は仔細な描写を披露する。

幻影か、本物の人間か──この家の住人か、それとも親しい訪問者か? それにしてもあの不可解な最敬礼のしぐさは何だったのか? あの真っ暗な家の中をどうやって動きまわるつもりなのだろうか? わたしは木陰から這い出て、いくつかの窓をつぶさに観察した。それぞれの鎧戸の隙間から、一定の間隔をおいて明かりが見えた。家の明かりをつけているのだ。パーティーでも始まるのか──幽霊の饗宴が? わたしはつのりゆく好奇心をどうやって満足させたらよいかわからなかった。強引に扉を叩いてみようとも考えたが、不作法だと思いなおし、魔法を──もしそこに魔法がかけれられているなら──破る方法を考えた。家のまわりを歩いて、一階の窓のひとつが開くかどうかを無理やりにではなく試してみた。そこは駄目だったが、別の窓を試したら今度はうまくいった。もちろん、わたしのやっているいたずらには危険があった──中から見られる危険、あるいは(もっと悪いことに)見て公開するようなものをわたし自身が見てしま危険が。しかし、わたしは好奇心に駆りたてられ、危険何するものぞと思っていたのだ。


p.241

建造物侵入。他人の看守する邸宅への不法侵入もなんのその。ここでは、観察という名の下に他人の家を覗き見をしているわけだが「わたし」はそのことにまったく罪の意識を感じていない。それどころか、むしろ「観察する権利」なるものを持ち出してくる──何しろ、そこは「幽霊屋敷なのだから、観察をされても/覗き見をされても、文句を言う資格がないとばかりに。ここでは、むしろ神学者の卵(あるいは「その」予備軍)の傲慢特権意識なるものが戯画されているのではないか、とも読めるかもしれない。「わたし」はついに「幽霊屋敷」の関係者発見し、中の様子を「覗き見」=観察する。そのことにゾクゾクする。興奮する。ほとんど法悦のような境地に至る。「この発見を──花びらを一枚一枚めくるように──しばらく弄んでいたい気持ちもあったのだ。わたしはそれからも時折、この花の香りを嗅いだ。風変りな芳香に魅了されたからである。」

「わたし」は憑かれたようにその老人を追い求める。「わたし」と彼は「秘密」を共有している──幽霊屋敷の「お仲間」なのである。もうすでに「顔なじみ」──実際には一度しか会ったことがないのだが、記憶想像の中で何度も何度も二人は会っていた、と「わたし」は告白する。

やっとのことでその老人を捕まえ、話をし、その老人がダイアモンド大佐という名前であることを突き止める。次にするべきことはダイアモンド大佐に関する情報を仕入れることである情報情報源はすぐに見つかった。生まれつき身体が不自由なために家から一歩もでない代わりに(片方の膝の弱い「わたし」の学友を思い出させる)、その家の窓から街全体を一望し監視している人物──デボラである

「さてと、あなた彼女はいつもこう切り出すのだった。「聖書批評の一番新しい珍説を聞かせてちょうだい」──デボラ嬢は当世の合理主義的思潮に憤慨するふりをしていたのである。だが、そのじつ彼女は峻酷な哲学者であり、人一倍過激な合理主義者で、その気になれば、我々のうちで一番大胆な学生でもおそれをなすような問題提起をすることができたにちがいない。彼女の窓からは街全体──というより、この地方全体が一望できた。低い揺り椅子に座り、かすれた声で鼻歌を歌っていれば、知識はひとりでに彼女のもとへ集まってきた。何でも真っ先に知るのは彼女であり、最後まで憶えているのも彼女だった。街の噂を熟知していて、会ったことのない人間に関してもすべてを知っていた。どうしてそんなに色々なことを知っているのですかと尋ねると、「観察するのよ!」とだけこたえた。

「じっくり観察しさえすれば」と、ある時彼女は言った。「あなたがどこにいようと問題じゃないわ。真っ暗な押し入れの中にいたってもいいんだから。必要なのはとっかかりだけ。一つのことが次のことにつながって、何事も絡みあっているんです。わたしを真っ暗な押し入れに閉じ込めてごらんなさい。しばらくすれば、その中にうんと暗いところと、そうでないところがあるのを観察していますから。それからもう少し時間を下されば、合衆国大統領が晩に何を食べるか、あててみせます」わたしはある時、つくづく感心して言った。「あなたの観察はあなたの針と同じくらい繊細で、おっしゃることは縫い目を同じくらい正確ですね」


p.250-251

当初、デボラ嬢はダイアモンド大尉情報について話すことに消極的だった。なぜならば、デボラ嬢に「そのこと」を話してくれた友人が「そのこと」をデボラ嬢に話したために死んでしまったからだ、と彼女は「わたし」に言う。自分も「そのこと」を話したら死ぬかもしれない──という怪奇小説怪奇小説であるために必要怪奇小説風な叙述をしながら、その一方で、作者ジェイムズは「そのこと」はデボラ嬢が直接観察したことではなくて伝聞情報二次情報であることを密かに仄めかす(だからデボラ嬢の証言全面的に信頼できないかもしれない)。しかし「好奇心で死にそうなんです」とほとんど病気になってしまった「わたし」に乞われ(それはほとんど巧妙な恫喝といえるだろう──病気になったのは、あなたが「わたし」に話してくれないからだ。だから「そのこと」で死ぬのは「わたし」である)、それに見かねて、デボラ嬢は重い口を開くのだった。

ところでこのデボラ嬢は始終、刺繍をしている人物として登場する。「わたし」と話している間も常に針で糸を縫っている。話ながら、「わたし」を見ながら──まるで「わたし」の反応をいちいち確かめながら──針で糸を縫っている。するとそこには「謎めいた模様」が表面に浮かび上がってくる──そして多分、布地の裏面には別の模様ができているのだろう。アリアドネのようなデボラ嬢が織りなし紡いでいくテクスト、それによって絨毯の下絵のように浮かび上がってくる物語が、例の幽霊屋敷レンタルし、その賃貸料を老人に支払っている、という奇怪なものであるダイアモンド大尉は可愛がっていた娘が自分内緒である若者結婚したために怒り狂い、そして「言葉によって」──悪態を浴びせ──娘を死に至らしめた、という奇妙なものであるもっとも、デボラ嬢は、刺繍をしつつそのことを話ながら「どんな糸にも弱いところがあるし、どんな針にも錆があります」ということを「わたし」に言い添えるのを忘れていなかったが。

しかし、「わたし」はデボラ嬢の話に満足する。「わたし」は、やはり正しかったのだ、と確信する。自信を取り戻した「わたし」は、まるで医者治療を受けた患者のように病からも回復する(そのように見える)。ただし、テボラ嬢の証言自分自身の観察によって得た情報自体に付随しているはずの「弱さ」や「錆」には目もくれない──見ようともしない。「わたし」の理路はこうである。デボラ嬢の証言(AoBpCq)と「わたし」の観察(AxByCz)において、AとBとCという事象が一致している、ならば残りのopqおよびxyzという事象も同時に成り立っているはずだし、そうでなければならない──「推理したんです。あなたが半分話してくださったから、残りの半分は想像しました。ぼくにはなかなか観察力がありまして」。だから、「あの家」を取り巻く状況はAoxBpyCqzという一連の連鎖因果関係で成り立つ物語を構成している。「わたし」は、そのために、それを確認するために、再びまた観察しなければならない──「わたし」は再びまた「観察する権利」を手中に入れた。「幽霊屋敷っていうのは重宝な財産ね!」とデボラ嬢は言う──それは多分、幽霊から家賃をもらっているダイアモンド大尉だけではなく、実体のないものを観察して「何か」を得ている観察者にとってもそうなのだろう。

この「わたし」のキャラクターは後年の『ねじの回転』や『聖なる泉』の主人公を思わせる。ほとんどプロトタイプと言ってもいいだろう。ふと「ささいな」出来事怪奇的な現象を見出し、単純な要素に対して次々と怪奇的な妄想を膨らませ、怪奇的なまでの拡大解釈をしていき、いつしか「その」理論家として怪奇的な理論を他人に講じるまでになっていく、そしてその理論に従うために/相手をその理論に従わせるために怪奇的な行動に走り、その結果、(そもそも存在しているかも定かではない)自分たちが追跡している「幽霊」や「吸血鬼」以上に怪奇的な人物になっていってしまう──それらと入れ替わってしまい、その結果、ときには死者まで出してしまう。あまりにも過剰な想像力とあまりにも過剰な好奇心が「彼ら」をそうさせてしまう。過剰さ──何事(n)に対しても「n+1」という量的な操作をすれば、いつだって自分を誰よりも物を知っているかのように見せかけることができ、それによって、どこにいても、何をしても/何もしなくても、いつだって自分を誰よりも優位な立場に置くことができ、その特権的地位を「それだけのこと」で占めようと画策することも可能であり、実際に「そう」しているのだ。

「私」は、先のいくつかの例と同様、あらかじめ想像によって予定した内容を、どのようにも受取れるささいな出来事を取り上げ、主観的意図的解釈を行うことによって、単になぞり直しているに過ぎないように見える。このことについて、「私」は「人並外れた好奇心が観察を産み、観察が想念を産むのだ」と言っているが、それに加えるとすれば、「私」の場合、しばしば想念が観察に先立ち、観察は想念の確認のために行われるのである


こうして「私」の怪奇的「理論」は、観察によっても言語または非言語によるコミュニケーションによっても、正確な読み取り・伝達が行われないまま、「私」の主観という閉塞した空間の中でのみ連鎖的証拠付けがなされて行く。言い替えれば、その着想からすでに論理のズレを見せたこの「理論」は、その確認のためという名目のもとで、さらなるズレを積み重ねて行くのである。このズレは過剰で非人間的な想像力が生み出したものであるが、この物語の語りそのものが、想像をいつの間にか現実すり替えながら、さらにそれを前提に新たな想像を積み上げるという構造を持っており、やがて現実の手痛い応報が待っているのは自然成行であると言える。それはマザー・グースのなかの「二枚舌の男」(“ A Man of Double Deed")“ )を連想させる。この「男」は、「・・・のような」(“ like")と形容した比喩にすぎないものを実在するものと見なし、それを前提にさらなる比喩を重ね実在性を付与し続けて行った結果、その頂点において自らの嘘の犠牲となって死に至るのであった。「私」の運命はこれときわめて類似している。そして読者は、奇妙な一貫性を持ったこの連鎖上のどこかで、巧妙な論理の罠に気づくのである。これこそ、読者が完成させようとするもう一つの理論」、いわば、罠読み取りの「理論である



長柄裕美 『聖なる泉』におけるコミュニケーション不可能性 

http://repository.lib.tottori-u.ac.jp/Repository/detail/127820090928123505

ヘンリー・ジェイムズ小説登場人物自体が「そう」なのである。作中で「自信過剰推理屋」が戯画化されているのである。まるでメタ批評家批判として(も)読めるように書かれているのである──そう、多分、なぜなら、『幽霊貸家』の「わたし」がそうであったし、『ねじの回転』の家庭教師=「わたし」もそうであり、『聖なる泉』の「わたし」もそうであったのだから(そしてこのように書いている僕自身もそれを免れない奇妙な運命にとりつかれてしまう)。

そういえば、ジョン・サザーランドは、あるアメリカ批評家がジェイムズの作品(『鳩の翼』『密林の野獣』)に対して行った解釈疑義を唱えるために、フィリップ・ホーンが俎上に挙げた虚偽の三段論法を紹介している。

  1. ジェイムズは名づけえぬものについて書いている。
  2. 同性愛はしばしば名づけえぬものとして言及される。
  3. それゆえに、ジェイムズが名づけえぬものを指示する場合、それは同性愛意味である

ジョン・サザーランド現代小説38の謎』(川口喬一 訳、みすず書房) p.7

*2

サザーランドは、この「虚偽の三段論法」以外に、小説が書かれた歴史的コンテクストに即して「その解釈」に賛同しない。もし、そうであるならば……それを前提として構築された「理論」への信頼も揺るがざるを得ないだろう──そこにも、多分、「弱さ」や「錆」があるのかもしれないし、そのことを考慮しなければならないだろう。

「またABCの殺人ですか」

「ええ。ひどく大胆なやり口です。前かがみになって、被害者背中を刺したんです」

「今回は刺したのですか」

「ええ、手口を少しずつ変えてますね。頭を殴打し、首を絞め、今回はナイフです。多才な悪魔やろうだ──でしょう? ごらんになりたければ、ここに医者報告書があります

大佐報告書ポアロのほうへ押しやった。「ABC鉄道案内が床の、死んだ男の足のあいだにありました」と彼はつけ加えた。

「死者の身元はわかったのですか」ポアロが訊いた。

「ええ。ABCは今回ばかりは失敗したようです──それでわれわれの気持ちがすむものなら。被害者アールスフィールドといいます──ジョージアールスフィールド。頭文字はDではなくEではじまります。理髪師です」

「奇妙ですね」ポアロが言った。

「一字飛ばしたのかもしれませんね」大佐がほのめかした。



アガサ・クリスティ『ABC殺人事件』(堀内静子 訳、ハヤカワ文庫)p.299-300 *3


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2015-05-10

「福音の受肉」と学問に対する「連帯責任」

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北森嘉蔵の『神学入門』に附録された『神学短章』のいくつかの文章より、キリスト教信仰キリスト教神学、および、一般信徒神学者宣教者の関係について、そこで教え説かれていることをまとめておきたい。内容は、以前『神学入門』について書いたこと(そこで述べられていること)と重複する部分もあるが、ここでの「表現されること」の違いが、以前とは意味合い自体も変わってしまった「それに対する態度」を確認させてくれる。

神学者である北森は、まず、とりわけ信徒一般に向けて、信仰学問神学)の関係について両者の必然的な結びつきの理路を提示する。

信仰とは「真実」である真実をもってキリストに対するということは「責任」をもってキリストに対することになる。責任をもってキリストに対することは、キリストの御心を「厳密」に知ろうとする志に展開する。ところでキリストの御心は聖書の中に記されている。厳密に聖書を読むこと──言葉を調べたり専門家に教えを乞いながら丹念に聖書を読むこと──は(すでに)「学問的」であることだ。ゆえに信仰学問神学は直結する。

信仰真実責任→厳密性→学問性→神学

信仰」と「神学」の二項は相隔たっているようにみえるが、そこに「真実」責任」「厳密性」「学問性」という項を媒介することによって、その二項はつながるのである──そこには「種も仕掛けもない」と北森は強調するかのように述べる。

この理路に従えば、逆に、神学学問)がいらないということは「厳密でなくてよい」ということであり、そして厳密でなくてよいということは「無責任であってよい」ということであり、さらに無責任であってよいということは「不真実ということ」なのであり、つまり真実ということは「信仰がない」ことが導かれるだろう──逆もまた、と北森は「そうとは」述べていないが、これも「種も仕掛けもない」ことになるだろうし、「そうでなければならない」はずだ。ここで神学者であり牧師でもある北森嘉蔵が注意を促すのは、このように「逆算される」のがいやならば、信仰を持つということは、必然的に、学問的(神学的)になることを認めなければならない、ということである

次に宣教する側(宣べ伝える者)の問題に関して、これまでの日本宣教成果への反省が述べられる。「宣教百年記念の年を迎えた日本教会は、一世紀の宣教成果について、いろいろの角度から反省を迫られているが、その最も大きな問題福音宣べ伝えかたに対する反省であろう」。北森日本における宣教がはばまれてきた「原因」を分析し、その解決のための方向性提示する。それが「受肉の福音」から「福音の受肉」へというテーゼである

受肉とは、神の言が徹底的に人間立場にまで成った、ということである。それなら、この受肉の真理を宣べ伝えときの態度も、この真理にふさわしく、受肉的でなければならないのである。すなわち、相手の立場にまで成る、ということを努めねばならないのである。神が相手たる人間立場まで成りたもうた、という受肉の福音は、宣べ伝えられるときにも、相手の立場まで成るという態度を私たち要求するのである


p.111 *1

「受肉の福音」が「福音の受肉」にまで展開すること。福音現代日本人宣べ伝えられるときには、その相手の立場にまで成って、その相手を考慮し、その相手の関心に訴えねばならない。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んで人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。……」(コリント9.19)

ここで植村正久の著作からヨハネ福音書に関する植村の指摘を引用する──「第四福音書研究したある人が、ヨハネはいかにも能く基督教を翻訳したものであると言った。翻訳という語が頗る面白い。著者はユダヤ人、而も北の方、ガリラヤ湖畔の漁夫である。第四福音書は、とてもこの人の著述とは思われぬ程、全く別世界のものの如き趣きがある。……彼は当時の思想に当てはめて基督教を翻訳し、ギリシャ哲学者がおぼつかなげに論じておったことを、的確に説明し、これを補足し、これを徹底し、これを充実せしめた。それが即ちヨハネである。我らも今日日本においては第四福音書著者と同じような使命を担っている。好く成功したいものである

そこで神学者であり牧師でもある北森嘉蔵は、植村正久の指摘した「翻訳」──キリスト教の/における翻訳について注意を促す。この「翻訳」は「妥協」と区別される。「妥協」は、自己本質から逸脱して相手の立場成ることである。しかしキリスト教の「翻訳」(受肉的な翻訳)は、自己本質に即しながら、相手の立場成ることである。受肉とは神が相手たる人間立場に成りたもうこと、だからである。相手の立場に成って相手を愛すること、だからである。「表現のもの」が相手の立場にまで成らねばならない──それが「翻訳である。受肉の真理が受肉的に表現されるとき翻訳されるとき)、それは、神が人間と「連帯化」したものである──と表現される。それは神が人間のために「連帯責任」を負うことなである

連帯化」あるいは「連帯責任」と言われるもの──その構造は、超越と内在という二つの契機が含まれている、と、この神学者は述べる。そして、ある種難解な「超越」と「内在」について、わかりやすい例を出して──相手の立場の即したのであろう表現翻訳で説明する。

例えば、甲という人間が「スリ」の嫌疑でつかまっているとき、乙という人間が甲と連帯化して彼を弁護しようとするならば、乙は甲がうけている「スリ」の嫌疑からは全く「超越」して潔白な人間でなければならない。甲を弁護しようとして現れてきた乙が、「スリ」の親分であるというように、甲と同じ立場に初めから内在しているならば、それは「一つ穴のムジナ」「脛に傷をもつ身同士」の同情にすぎず、真実意味連帯化にはならない。──神が人間の罪のために連帯化したもうとき、神は人間から全く超越した聖なる存在でなければならない。救い主イエス・キリストは「傷なき神の小羊」であり、人間の罪から全く超越した聖なる存在である。この超越性が、連帯性の第一の契機である

しかし第二に、その超越者が相手の立場と同じくなり、それに内在化することによって初めて、連帯化が実現するのである。「スリ」の嫌疑などから全く潔白な乙という人間が、嫌疑をうけている甲の立場に内在化し、彼と一体になるからこそ、弁護ができるのである。聖なる神の独り子がまこと人間となって、罪人の立場と同じくなり、罪人の世界に内在化したもうたということが、連帯化としての受肉である


p.114-115

この連帯化の構造は──「翻訳」の場合と同様に──罪の現状肯定、すなわち「妥協」と区別されることである。神と罪人の連帯化は、神が罪から超越的な聖なる神のままで内在化したものであるのだから、罪そのものはこの聖なる存在者によって審から除かれるべきものとして認識される。そうでなければ、罪との距離を抹消して罪の現状肯定に陥るだけだ。神と罪人との距離が、罪の現状肯定を許さなくするのである。現状肯定を許さないことが、すなわち、現状変革へと展開するのである。現状肯定という態度は「無責任」に他ならない。連帯化して相手のために「責任」をとるということは、相手の問題性を変革するということ、それが必ず伴ってくる。

宣教する側の取るべき態度、それが「受肉の福音」から「福音の受肉」である。そしてさらに、神学者であり牧師でもある北森嘉蔵は、律法福音区別することに注意を促す。なぜなら「キリスト論」すなわち福音の名のもとに律法が主張される憂慮すべき事態が(すでに)起きているからだ。キリスト論にとって最大の敵は、他者媒介的でない単なる自己主張である──これが福音に対する律法であるキリスト論における問題の焦点は、神という「自己」と人間という「他者」との関係である。神の「自己確立人間という「他者媒介によって成り立つことである。神と人間の「連帯化」である他者媒介的な自己貫徹ということが、キリスト論の真理内容である

そして、福音の名のもとに律法が主張される憂慮すべき事態が(すでに)起きている、今まさに起きようとしている。

年収250万…早稲田大の非常勤講師らが、大学を刑事告発 突然の雇い止めの実態 [Business Journal]

2013年3月末、突然、非常勤講師を5年で雇い止めにするという就業規程が非常勤講師らのもとに送られてきた。そうでなくとも首都圏大学非常勤講師組合などの調査によると、非常勤講師の平均年収は300万円そこそこで、そのうち250万円未満が4割もいるといい、彼らにとっては死活問題だ。

一方、専任教員の平均年収は、組合との団体交渉の場で副総長が約1500万円と明らかにしているが、実際には1400万円を切っていると専任教員たちは話している。授業計画の作成実施試験問題作成、採点、成績評価など、専任非常勤仕事内容に大差ない。

早大教員のうち非常勤講師は59%(12年度末)で、授業の半分近くが非正規教員によって行われている。つまり多数派教員(ほとんどは博士)がワーキングプアか、それに近い状態に置かれているのだ。

(……)

就業規程強行制定の背景には、13年4月1日に施行された改正労働契約法がある。有期雇用労働者雇用期間が通算5年に達した場合、その労働者は期限の定めのない無期雇用への転換を申し込める権利を得た。無期雇用に変えても賃金その他の労働条件は従前のままでいいのだが、多くの大学で、その期限が来る前に雇い止めにしようという動きが強まり早大も同じだった。

一般企業でも同様の動きをみせているところがいくつもある。12年の厚生労働省調査によれば、有期契約労働者は1200万人いるとされているが、早大で噴出している問題は、これらの人びとすべてに影響するといえる。

ただ、その中でも早大の悪質なところは、5年雇い止め就業規程を強行制定するために“偽装選挙”を実施したことである

就業規程を変更または新規に制定する時は、労働基準法90条によって、全労働者の半数を超える加盟者のいる組合があれば、その組合意見を聴き、それがない場合には、「過半数代表者」を選出するべきことが定められている。選ばれた過半数代表者意見書を提出し、その意見書就業規程を労働基準監督署に届けるのが正しい方法なのだ

ブラック大学・早稲田が「非正規5年で無期転換」阻止のため偽装選挙で就業規則制定 学内労働法教授らが鎌田総長を刑事告発 [MyNewsJapan]

4261人(2012年度)もの非常勤教員を抱える早大は「本学の財政事情において無期雇用転換を受け入れる余裕がない」と、同月1日付で非常勤教員契約を最長5年とする就業規則の制定を強行した。その手口は、大学ロックアウトされる入試期間中を狙って非常勤教員に知られぬよう公示書を投函する騙し討ち。さらに労基法では就業規則制定において過半数を代表する者による聴取必要だが、その代表候補者から非常勤は除外されていた。

(……)

雇用を安定化するという改正労働契約法趣旨とは真逆に専任教授既得権を守るため、ただでさえ不安定かつ低賃金非正規労働者雇用を、さらに不安定化しようとする早稲田大学ブラックぶりが明らかとなり、学内労働法名誉教授からも総長告発されるという異常事態に発展しているのが本事件だ。

早稲田大・非常勤講師の給与明細が語る“大学内搾取”の構造 [MyNewsJapan]

博士号を取得し、専任教授と同じように講義しても、年収250万円ほどで研究費・出張費も自腹、社会保障もない劣悪な待遇で暮らす人たち。それが大学非常勤講師だ。その実態を探るべく当事者取材し、2010年度早稲田大学文学部の年間トータル講義数と500人強に及ぶ非常勤講師リストを照合したところ、全2032コマのうち、実に51%が非常勤講師担当であることが分かった。搾取の上に成り立つ早大は、賃金格差5倍の身分制度放置する「格差拡大装置」と化している。正規非正規問題を論じる学者は、まず足もとを改革してから公の場に出てくることだ。

(……)

本来学問の府というのは、そうした世の中の理不尽さを糺す人材を輩出するところであるはずなのに、その大学講義の場自体が、理不尽な“搾取”の場と化しているのである

搾取”を土台とした大学――そこを出た人たちが中核をなしていく社会は、政治経済文化科学教育、家庭など社会のありとあらゆる分野で、搾取を「再生産」していき、格差を推し進めることになりはしないか。大学は、未来社会の鏡であるがゆえに、心配、と言わざるを得ない。


「その嫌疑」から「超越」しているどころか、「その嫌疑」そのものになってしまうこと──だから「その罪」を糊塗するために、「その罪」を自分たちの外部に責任転嫁して、それによってそれを批判する立場占有しようとすること。「その名」において律法を説き、しかし自分たち自身の利害のために、その律法でさえ「使い分ける」こと。律法学者のしていることは──その手口は、所詮、相変わらず、大昔から、そんなことだろう。まさしく「白く塗った墓」(white-washed tombs)の喩えのように。

律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分たちでそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである

律法学者たちとファリサイ派の人々あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。


マタイによる福音書23.2-5、27-28(新共同訳聖書

このとき最初信仰(一般信徒)と神学(者)の関係に立ち戻ったらどうなるだろうか。

信仰真実責任→厳密性→学問性→神学

この逆算は、神学がいらない→学問的でなくていい→厳密でなくていい→無責任であってよい→不真実である信仰がない、であった。

しかし、果たして、これは逆算であろうか。「真実」責任」「厳密性」「学問性」が顧みられず──媒介されず、反故にされてしま事態こそ問題なのではないか。

どうして自らが宣べ伝え翻訳」した「その」理論(学)を自分たち自身の「態度」に向けて適用しないのか、適用できないのか、適用させないのか──それは「厳密でなくていい」ということなのか、つまり学問的でなくていい」ということなのか、すなわち「無責任でいい」ということなのか、したがって、そこには、最初から「信憑性などない」ということなのか。

そんなことがあってはならない。

すでに「宣教者」によって「福音の受肉」を与った〈わたしたち〉は、それこそ、信仰真実責任⇔厳密性⇔学問性⇔神学といった双方からの道筋を、双方とも遵守しなければならないのである信仰を守るために、そして、そのために必然的な「学問」を守るために。逆算すれば、「学問」を守らなかったら、信仰も守れないのだから。

だから、「宣教者」が福音ではなくて律法を説いていたら、それを止めさせるのも〈わたしたち〉の役目である。「学問」を守るために。「宣教者たち」が説く〈悪〉を、「宣教者たち」自身に「〈それ〉をさせてはならない」──「宣教者たち」を「〈それ〉の親分」にしてはならない、「〈それ〉と一つ穴のムジナ」にしてはならない、「〈それ〉と脛に傷をもつ身同士」にさせてはならない。「宣教者たち」は〈その嫌疑〉から超越していなければならない。「学問」を守るために、すなわち信仰「真実」なものとするために。

宣教者」が「福音の受肉」として〈わたしたち〉に即して「翻訳」してくださった学=理論を、〈わたしたち〉はそれを「厳密に」受け取らなければならない──それが〈わたしたち〉の「責任である。だからこそ、「宣教者たち」自身がそれを律法にしてしまう動きを察知したら、〈わたしたち〉がそれを止めさせなければならない──それも〈わたしたち〉の「責任である。「学問」を守るために、すなわち、信仰を「不真実」なものにさせないために。「学問」を蔑にすることは──それを律法にしてしまうことは──〈わたしたち〉にとっても多大な損失を被ってしまうからだ。
〈わたしたち〉も福音の名のもとに律法が説かれる事態に対して「連帯責任」を負っているのである



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神学入門 (新教新書)

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2015-04-12

”私たちはイスラエルのごろつき連中とは違います、清潔で上品でまるで違うユダヤ人です”と喚いている奴らへ──『イスラエルに生きる人々』より

| ”私たちはイスラエルのごろつき連中とは違います、清潔で上品でまるで違うユダヤ人です”と喚いている奴らへ──『イスラエルに生きる人々』よりを含むブックマーク


イスラエル作家アモス・オズ(Amos Oz, b.1939)は、エルサレムに生まれ、ヘブライ大学哲学文学を専攻、1967年の「六日戦争」(第三次中東戦争)及び1978年の「ヨム・キプール戦争」(第四次中東戦争)に従軍した。『イスラエルに生きる人々』(In the Land of Israel)は1982年6月に始まった第二次レバノン侵攻の数か月後にオズイスラエル国内を駆け巡り「同胞の声」を聴き取り、彼らと議論し、そこから民族の「確執史」を導き出したものである

以下に引用するのは、「あるところではちょっとは知られた経歴の持ち主」である50歳前後の”Z”という男性の声。イスラエルの地で聞かれる一つの声であり、同じユダヤ人でありながら、しかし「別の同胞である人々に対する思いが率直に語られる──そこに横たわる確執主題作家であるアモズ・オズが読み取り、拾い上げ、ときに「それ」を促し、”Z”という人物を通して荒々しい音調で響かせる。

「おれのことだったら、好きに呼んでくれていいよ。化け物と言おうが、人殺しと言おうが勝手さ。でもたのむから、おれがアラブ人を憎んじゃないってことは、ちゃんと言っといてくれ。まるで逆なのさ。おれ個人としちゃあ、奴らといるほうが──とくに遊牧民ベドウィン)だがな──ユダヤ野郎(ジド)といるよりずっと気分がいいんだ。アラブ人ていうのは、おれたちがまだ骨抜きしていない奴は、誇りをもっているし、物がわかった連中なんだ。ただ、ことと次第によっちゃ残酷にもなるし気前もよくなる。ユダヤ野郎は、とことんねじくれている。奴らの姿勢をなおしてやろうと思ったら、まるで別の方向へ思いきってねじ曲げてやらなくちゃだめだ。要するにおれの言いたいことは、そういうことなんだ。

「おれに関するかぎり、あんた、このイスラエル国についてどんなひどい言い方をしてもかまわんよ。レイボウィッツ先生流にユダヤ人ナチと言ったっていいさ。それで結構格言じゃ何て言ってる──『死せる聖人よりも生けるユダヤ人ナチのほうがましだ』、そうだろ。おれは、自分カダフィ扱いされてもかまわん。非ユダヤ人にほめてもらいたいとも思わんし、愛されたいとも思っちゃいない。でも、あんたみたいなユダヤ人にも愛されたくないね。おれは生きのびたいのさ。子どもたちにも生きのびてもらいたいと、たまたま思っているだけよ。ローマ法王に祝福されようがされまいが、いろんな教え(トーラー)をたれるニューヨーク・タイムズの賢い連中が祝福してくれようがくれまいがだ。もしだれかが、おれの子どもたちに手をあげようもんなら、おれはそいつをぶっ殺してやる──そいつ子どももな──あんたが自慢する『純自衛のための武力』であろうとなかろうとだ。相手がキリスト教徒だろうとイスラム教徒だろうとユダヤ人だろうと異教徒だろうと、知っちゃこっちゃない。いつだって自分人殺しなんかに関係ないと思ってた奴は、みんな殺されたんだ。それが鉄則さ。


「あんたに知っといてもらいたいが、おれ個人としちゃあ、ホメイニとかブレジネス、カダフィアサドサッチャー夫人、あるいはハリー・トルーマン──ニ発のすてきな爆弾日本野郎ジャップ)を50万ばかり殺した奴さ──そういう連中よりましになりたいなんて、これっぽっちも思ってないんだ。そんな理由もない。連中より賢くなりたいとは思うさ。もっと頭がきれて、器用で、有能だったらいいとは思うけど、連中よりカッコをつけて、人間的にも上等になりたいなんて、夢にも思わんね。正直なところを言ってくれ、世界中見わたして悪い奴らがほんとにひどい目にあってるかね。そいつらが不自由しているものでもあるかね。そういう奴にだれかが指一本でもふれようとすりゃ、腕や足まで切られちゃうんだ。時には何もしないのに、同じようにひどい目にあわされるんだ。そういう奴らが何か食べたいと思えば、簡単につかまえてぶっ殺す。それが奴らの流儀さ。それでも奴らは胃もこわさなきゃ、天罰ひとつ受けるわけじゃない。だからこれからは、おれとしちゃ、イスラエルにそういう連中の仲間入りをしてもらいたいのさ。

「それともう一つ。これはたぶん、これまでのことより大事なことかもしれん。あのレバノンでのおいしい戦争の最大の収穫は、イスラエルけが敵役でなくなったことだ。いまや、おれたちのおかげで、パリロンドンニューヨークモントリオールはじめ世界中の穴にもぐっていた、もったいぶったチビユダヤ野郎が全部、憎まれることになったんだ。とうとう、上品ぶったユダヤ野郎も憎まれるってわけよ。私たちイスラエルのごろつき連中とは違います、清潔で上品でまるで違うユダヤ人です、とわめいていた奴らがさ。そう言えば、五〇年ばかり前にウィーンベルリンにいて同化したユダヤ人も同じように反セム主義者にぺこぺこ頭をさげてたっけな。私と、ポーランドウクライナのうすぎたないゲットーあたりからまっすぐドイツ人文明社会にもぐりこんだ、金切り声を立てる鼻もちならない〈東方ユダヤ人(オストユーデ)〉とを、いっしょにしないでくださいってな。でも、ウィーンベルリンでうまくいかなかったみたいに、こんどだって、お上品ぶったユダヤ野郎はうまくやれっこないさ。そりゃ、へとへとになってぶっ倒れるまで、わめくことはできるだろうさ。私たちイスラエル非難しますだの、ハエ一匹殺すつもりもなく殺せない善良な人間ですだの、いつだって闘うぐらいなら殺されたほうがましですだの、異教徒キリスト教を説いて報復をいましめる役を引きうけてますなどと、ごたくは並べられるだろう。でも、まるっきり通じないさ。その連中がおれたちのおかげで、だんだんわかってきたんだ。あんたに言っときたいね、そいつを見ているのはうれしいもんだ。ほんとに楽しいよ。ユダヤ野郎ってのは、非ユダヤ人にむかって、ベトナムの奴らにもホメイニやブレジネフにも降参するように説教をたれた連中なんだ。子どものころ貧しかったからシェイク・サキ・ヤマニ*1には同情すべきだと言ってみたり、一般論として、戦争するより愛し合おうなんて言っていた連中さ。そうかと思うと、どっちもやめて愛と戦争についての博士論文を書こうなんてぬかしたんだ。でも今となっちゃ、すべておしまいよ。これからはユダヤ野郎がどんなに気どってみたって最下層のきらわれ者さ。イエスをはりつけにしただけじゃ、おさまらなかったんだ。だからサブラとシャティーラでアラファトをはりつけにしたんだ。もう、奴らはおれたちと同じさ、もう区別なんかつかないね。すばらしいこった! 奴らの墓地は汚され、会堂(シナゴーグ)は燃やされ、むかしなつかしい仇名で呼ばれてるわけだ。お偉いさんが行くクラブからはたたき出され、ユダヤ人のレストランで食事の真最中に撃たれたりしてるんだ。奴らの子どもだってあっちこっちで殺られている。だから家の戸口からメズーザーをはずし、いまの住み家から引っ越し仕事を変えなきゃならないんだ。もうすぐ奴らの豪勢な家の門に、むかしのまんまのスローガンを塗りたくられるぜ。『ユダヤ野郎パレスチナへ行け!』とな。そうするとどうなる? 奴らはパレスチナへ来はじめるのさ! ほかに行くところがないからね。

「こうしたことが、レバノンでの戦争の直接のボーナスってわけさ。正直に言ってくれ、それでもあの戦争は引き合わなかったかね。いいかね、お前さん、こうなりゃいまにも、いい時代が始まるのさ。ユダヤ人がやって来始めるのさ。移民して来る奴は出ていかないし、出てった奴は帰ってくるよ。同化しようとした連中だって、結局、異教徒の真似をしてみてもはじまらんことが分かるし、自分から『人類良心』になろうとしたところで何にもならんことに気がつくのさ。その『人類良心』とやらは、とろい頭じゃ分からないことを身体で思い知るわけだ。非ユダヤ人どもはいだってユダヤ野郎とかそいつらの良心とかにはうんざりしてるってことをな。そうなるとユダヤ民族としてできることは、たった一つしかなくなってくる。故郷へ帰ってくることだ。今すぐ、みんな。



アモス・オズイスラエルに生きる人々』(千本健一郎 訳、晶文社) p.101 - 106



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