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2017-10-06

事実が小説より奇であるために、小説をこのように読んだ 〜 イアン・マキューアンの『蝶々』と高橋たか子の『人形愛』

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高橋たか子の『人形愛』を2回読んだ。1度目で、どのような小説であるのかをおおよそ理解した。一言で言えば、それは夫の自殺により絶望した中年女性の異様な心理状態幻想的に描いたものであった、と1行で済ませることができるだろう。ただ、これだと、「ネオリベラリズム親和性がある」(byアメリカの新興学問」)というキャッチフレーズと同じくらい内容空疎無責任棒読み感が否めない。

だからもう少しその内容を思い出してみると、そこで示唆されているある主題が気にかかる。イアン・マキューアンの『蝶々』を思い出した。マキューアンの短編小説を読み返し、再び、高橋たか子の長めの短編小説をマキューアンの小説主題に沿うようにして読んだ。以下、2つの小説が同じような主題を扱っているものと想定して読んだときの、2つの小説に関するメモである


イアン・マキューアン蝶々

一人称小説で「わたし」が語り手である。「わたし」は水曜日木曜日日曜日の3日間の出来事を語る。現在日曜日である現在日曜日から木曜日水曜日出来事を回想する構成になっている。

木曜日に「わたし」は川で溺れた9歳の少女死体見分を警察で行った。そして日曜日今日少女の遺族に会うことになっている。なぜなら「わたし」が川で溺れている少女を見つけ、警察に報告した第一発見者だったからだ。「わたし」は厄介ごとに巻き込まれたと思っている。誰もが「わたし」のことをうさんくさく思っている、と思っている。誰もが「わたし」を疑ってかかっている、と思っている。だから「わたし」が泳げなかったために少女を救うことができなかったことに対し世間は冷たい目で「わたし」を見ている、と「わたし」は思う、ことにしている。

わたし」は厄介ごとに巻き込まれた日のことを思い出す。それは水曜日のことだった。少女のことはずっと前から知っていた。どういう子であるのかも知っていた──木曜日警察官が微かに仄めかしたように。

その日……その9歳の少女が「わたし」に近づいてきた。おそらく「わたし」は危険なものを感じたのだろう。少女危険を感じるのではない。「わたし」が少女に対して危険なものを感じるのである。なぜならば少女存在が「わたし」を支配するからであろう。しかし「わたし」は少女から離れることもしないし、少女に近づくなと命じるわけではない。そういう少女であることを「わたし」は知っていたからだ。そういう少女であるから「わたし」は人形を買い与え、アイスクリームを食べさせてやった。アイスクリームで汚れた少女の口を「わたし」は自分の指で丁寧に拭ってあげる。それが合図のようなものだった。それがサインだった。もう駆け引きめいたものは必要ない。もう少女に対し危険を感じていない。その少女はやはり「わたし」が知っていた通りの少女なのである。「わたし」は少女に友だちになってもらいたかった。あの日、「わたし」は少女に友だちになってくれるよう説得しなければならなかったのだ。だから「わたし」は蝶々を見せてあげると川原のほうへ少女を誘う。信頼関係を構築した以上、少女はそれに従う。信頼関係を了承する「何かのサイン」を少女が示した以上、それに従ってもらわなければならない。蝶々を探しに、二人は川部を奥へ奥へと進む。そして、そういう少女であっても、ようやくそこに蝶々なんていないことを知る。

木曜日に「わたし」は少女死体と初めて対面した。

日曜日今日サッカーをしている少年たちを見て「わたし」はその仲間になりたがっている自分を見据える。あの少年たちと友だちになりたかった。彼らと友だちになっていたら、こういうことも、ああいうこともできただろう。友だちになりさえすれば。友だちになりさえすれば。しかしそんな機会はめったにないことも「わたし」は理解していた。そういう〈機会〉はめったにない──それは、手を伸ばすと、もう消えている、まるで蝶々のようなものだからだ。



高橋たか子人形愛』

とても文学的作品だと思う。文学的というのは、通常ならば原理的に理解の及ばないこと、すなわち理解する術をもたない他人心理を明晰に秩序立てて納得がいくように説明しているからだ──それは証明のような作業なのかもしれない。理解の及ばない、理解する術をもたない、あるいは理解したくないから「そのように」理解しているあることについて描いているため、ここでは特別な技巧を施して「そのように」描いている。夢だった、「狂人」の妄想だった、嘘偽りだった、ということである夢ならばそういうことが理解できるかもしれない。「狂人」の妄想ということならばそういうことが理解できるかもしれない。嘘偽りならばそういうことが何だって理解できるかもしれない。読者にそういう条件を指し示しつつ、そこに、その条件のもとに、その条件のもとでしか描くことができないと作者が判断したであろう「あのような」心理の動きを秩序立てて明晰に描き出す。「そのレベル」において、であると読者に対して半ば強制的了解させているので、「そのレベル」の枠内で大胆に踏み込んだ描写でまるで「それ」を間近で見て来たかのような臨場感をもって読者に現場の状況を説明する。しかし、最終的に、「そのように」描いているので「そのように」──つまり、夫の自殺により絶望した中年女性の異様な心理状態幻想的に描いたように──読めることになる。

もう一歩踏み込もう。『人形愛』をそのタイトルに沿って一言で言えば、それは中年女性による蝋人形少年への偏執的な愛情を描いている、になるだろう。ただ、気になるのは、著者自身は、この『人形愛』という作品幻想作品シュールレアリスム)と言っていることだ。ファンタジー幻想ではなくシュールレアリスム幻想であること。シュルレアリスムといえば……思い浮かべるのはルネ・マグリットの『これはパイプではない』である。だからそれに倣えば『これは人形愛ではない』とも言える、かもしれない。そうとも言えるような技巧を叙述に施している。おそらく、そういう作為なしでは一人称で「この内容」を語りえないと作者が判断したのかもしれない。なぜそう思うのかと言えば、タイトルのように「人形愛」を描いているのだとしたら、このような作為めいた構成にする必要はないと思うからだ。このような作為がある以上、タイトルの『人形愛』でさえ、その作為構成する一つの要素に思えてくるからだ。小説にかぎらず、ある説明に微かな作為を感じたら、そこに不穏なある何かを覆い隠しているのではないか、と警戒すべきであろう。そうすることによって、あるとき、そのパターンがふと見えてくる。

だからまず著者が作中で施した作為を解明したいと思う。下記のそれは単なる一例であって、やるべきことは、とにかく複雑なものを(複雑に見えるものを)、単純な平易なものに分解するだけである。何が事実で、何がその事実解釈であるかを区別するだけである。それが導くものと、これが導くものを区別するだけである。それとこれがどのように合流しているのかを確認するだけである。そして……無意味な部分、例えば「ニッチな」専門用語の羅列、あのアメリカ人はこういっている、このアメリカ人はああいっているということだけを論拠にした断定、独りよがりイメージを多用し自分けがそれをわかっている風に見せかけるもの、Xを主張したいためにAという一連の流れを紹介しておいてそこにBというものをそれに近似させるべく誘導すること、どっかから拾ってきた占星術の図表みたいなものをこの社会構造を表したものだとありがたく拝み予言者のように振る舞うこと、前提に「それ」を含んでいるからこそ「それ」が導かれるのに、それをまるで帰納的に導かれたかのように見せるお約束の強引な導出、お約束知ったかぶりお約束学問領域自慢(なぜその学問領域があるということから「それ」を崇敬すべきだという話になるのか? ある国に国王存在していればその国の国民はすべて国王を崇敬しろみたいな話なんだろうか?)……などを無視することである


例えば……『人形愛』では玉男という名の少年が3つの異なったレベルで登場する。玉男という少年が登場する3つの場面は(次元というかレベルというか、その存在する位置というべきか)それぞれ異なっている、ように描いている。ただし視点人物である語り手はすべて中年女性の「私」である

整理しておく。

  • 最初に登場する「私」を"ω0"とする。
  • 次にこの"ω0"が見る夢の中に登場する「私」を"ω1"とする。
  • "ω0"を「亡霊」と見なす「私」を"ω2"とする。

するとそれぞれの「私」に対応するそれぞれの玉男も──玉男"ω0"、玉男"ω1"、玉男"ω2"とすることができる。

ここで「私」"ω1"を「私」"ω0"と区別したのは、玉男と対応づけるためである。文中では「私」"ω0"と「私」"ω1"は同一人物として描かれている。こうすることによって組み合わせ(カップリング)が明確になる。(「私」"ω0", 玉男"ω0")、(「私」"ω1", 玉男"ω1")、(「私」"ω2", 玉男"ω2")である

もし、この『人形愛』という小説ファンタジーではなくてシュルレアリスムであるならば……。この『人形愛』はシュルレアリスムである以上、曖昧なことは何一つ書かれていない、と考えるべきだろう。著者は最初から、この小説がどのようにプログラムされているのかをきちんと書いている、と読めるはずだし、そう読まなければならない。

では、この小説はどのようにプログラムされているのか。それは最初の方で、占い師説明させている「死の円」と「生の円」というイメージが補助線のようなものになるだろう。簡単に意訳して言えば、それは負の向きに回転する円(「死の円」)と、正の向きに回転する円(「生の円」)についての説明である。円についての説明がある以上、読者は様々な円をイメージし、円のイメージ小説の様々な部分に当てはめ、さらには円のイメージ小説の全体に当てはめることを試みるべきである。円というものの本質は何か。その円の本質から導かれる性質小説構造と同一視すること──すでに京極夏彦小説を読んでいれば、バラバラ殺人説明があったら、バラバラ殺人イメージをその小説全体に当てはめ、その解を得、蜘蛛の巣説明があったら、蜘蛛の巣イメージ小説に当てはめ、その解を得るという既出の解法を思いだし、この問題にも積極的適用しよう。ここでは生と死は単なる正負であって円のイメージこそが重要だと思う、ことにする。この円の性質に注目することで、「私」も玉男もその回転する円の円周上にいる、という幻想的=シュルレアリスムイマージュを獲得しよう。その円の軌道上のどの位置いるかによって、"ω0"と"ω1"と"ω2"というそれぞれの現れ方をする。「私」の意識が変化することによって、玉男もそれに連動して一定の同じ量の変化を遂げ、円周上を移動する。(「私」"ω0", 玉男"ω0")、(「私」"ω1", 玉男"ω1")、(「私」"ω2", 玉男"ω2")は、「死の円」あるいは「生の円」をきれいに三分割したときの円周上のイマジナリーな3点であると見なす。それにより、その3点を頂点とする円に内接する正三角形が浮かび上がってくる。そうすることによって物語は、ω0→ω1→ω2、あるいはその反対方向に展開し、これを繰り返す。実際、この小説は、最初プロローグを除けば、ある場面が最後の場面に繋がり、もう一度同じストーリーが始まるような構造になっていることは(そしてそれが周期である)、容易に確認できるだろう……。

結局、長々と書いてきて何が言いたいのかといえば、「私」も玉男もすべてそれぞれ一人の同一人物で、それを別人のように描いているのが、この小説作為であるということだ。そう見なす。そう見なさないとわけがわからなくなる、だからそう見なす。そう見なして以下を続ける。


人形愛』という小説構造上の問題を上述のようにスッキリ解決させたので(解決したと想定して)、やっと本題に入ることができる。描かれている内容のレベルに踏み込むことができる。一言で言えば、それは少年性的虐待を加えている中年女性心理の動きを描いたものである、と1行で要約できる。イアン・マキューアンの『蝶々』と接点をもつのは叙述の作為を剥ぎ取ったこのレベルにおいてである

原因のわからない夫の自殺によって「私」は彷徨うようにT市にやってくる。ある女に(後でこの女は「私」"ω2"だとわかる)Tホテルを奨められ、そこに滞在する。最初の夜、少年等身大蝋人形ホテルの部屋に立っている夢を「私」は見る。「私」はいつのまにかその蝋人形少年を玉男と名付けていた──ずっと以前から「私」は玉男と一緒に生きてきた思いにとらわれる。ずっと以前から玉男と一緒に生きてきた、ということは、ずっと以前から「こういうこと」をやってきたと読める。つまり、これがホテル滞在の初日の出来事だとすれば、ホテル滞在以前に「こういうこと」を「私」はやってきた、と読める。「こういうこと」とは何か。読み取るべきは「私」が「こういうこと」をどういう風に描いているかである。例えば、「なぜか衣服がすべり」と「私」は、玉男との行為まことしやかに叙述するが、「私」が玉男の服を脱がし、性的虐待を行ったことは明らかである──なぜならば、もし玉男が本当に人形ならば、自然衣服がすべり落ちることはないからだ。こういう不自然な「私」の叙述は、読者がその不自然さに気づくために、作者がわざと仕組んだものだろう。「私」は事実事実認識を使い分けながら、自分自身心理の動きを説明しているのである

次の日の遅い時間に「私」は同じホテルの「同じ階」に滞在している少年に出合う。少年受験のためにホテル滞在していた。「私」はその少年に「玉男さんですね」と声をかける。否定されなかったので、その少年は玉男と名付けられた、と私は叙述する。この命名の儀式はいったい何なのか? 1つの解答は明快である。それはこの少年が本当に「玉男」という名前だからである。つまり、この少年は「私」の息子の玉男なのである。18年前に「私」が実際にそのような命名の儀式を行ったのである。しかしこのエピソードから読むべきものは、それだけじゃない。現在、新たな命名によって、ここに玉男が二人いるように「私」が叙述する意味は何なのか? ということである。これはこう考えれば説明が上手くいく。「私」自身が別なところで述べているように、これは「理性の最後間切り」で同じ玉男を昼の玉男と夜の玉男に分けただけある。夜の玉男は蝋人形である、と。こういう事実事実認識を使い分けることの意味は何か? それはおそらく、理性的に考えれば自分のしていることは間違っている、だから、それを否定する形で「夜の玉男」(蝋人形)を創造するのである。それは夢の中の出来事だと見なすのである。夢の中の「私」は、自分のしている性的虐待を明晰に秩序立てて、自分に納得がいくように説明する。夢の中で出来事であるからこそ(夢の中の出来事であると読者に断っているから)、「精魂をこめた愛撫」によって玉男に命の温みを与え、それは人形でありながら人形のようではなくなる、と事実事実認識を自然に混ぜ合わせることができる。

だから読者が注意して読み取るべきは、「私」の事実認識──それは幻想風に、つまりシュルレアリスムのように叙述されている──の依拠している事実と、それをどのように覆い隠して、どのように別の何事へ変換させているかである。すでに「私」がしていることは少年への性的虐待であると充分に判断できる証拠はそろっている。だとしたら、分析すべきは、「私」は、それをどのようにしてそうに思わせないよう叙述しているかである事実一見異なるように語られる事実認識は決して虚偽ではない。それは事実をそのように捉えうることが可能だということだ。そう事実を捉えることが可能だ、ということから、それによって何をどのように導くことも可能にしているのか。読者である私たちは、すでに犯人のわかっている推理小説を再読しているのであり、しかもその推理小説犯人は語り手だった──その犯人=語り手の手法を学んだ私たち読者は、今度は探偵として、その犯人の手口を分析し、その犯人を追いつめるのである。今は、小説相手にこのような訓練をしておくのである事実事実認識を巧妙に混ぜ合わせ、それでもって他人自由意志を奪おうとする者たちの手口を知るために。

性愛によって命の秘密が顕現される、と「私」は語る。そのとき「私」は徹底的に主体なのだ、と。このことを逆から考えれば、被害者は徹底的に客体になり、性的虐待によって生殺与奪を握られ、人間でありながら人間でないものへ、すなわち人形に成り果てる。人形被害者としての地位意味しているのである被害者人形のように扱われるのである。この意味で「私」の事実認識は、ある真理を語っている。

「私」は人形である人形のように扱われる)玉男の唇に口紅を塗る。「私」は玉男からくっくっと痙攣的な息が返されてくるのを感じる。「私」の唇よりもなめらかでしなやかである、と、もし、それが本当の人形だったらありえない描写をする。そして裸身に唇だけが赤く化粧されて「男をあらわす器官に命があつまっているといった姿の」玉男を嘆賞する。ここでの唇への執着は、マキューアンの『蝶々』で「わたし」がアイスクリームで濡れた少女の唇を拭うのときに感じた〈機会〉を得た、という充足感を思わせる。この被害者を客体化する「私」の理路は、シュルレアリスム的な幻想に彩られながらも、明晰で秩序だった叙述をし、それを完璧なものにする。「私」は玉男を植物に代置させるのだ。

植物は官能的なのである。なぜなら徹底的に受身だからである。玉男は植物的官能を持っている。官能的な植物とは何か。それは曼珠沙華である。玉男は行動しない。受身そのもので、「私」の愛撫を受けている。曼珠沙華が玉男から生えているのである。うつくしい全裸の玉男の股間から、蕾と茎だけの曼珠沙華が生えでている絵を描きたいと願う──そのとき、そこにいるのが「夜の玉男」ではなく「昼の玉男」であることを「私」は確信する。

ここに至り「私」の剥き出しの支配欲が露わになる。「私」の事実認識から、読者はその事実を導き出さなければならない。おそらく実際に「私」は実家でこのような状況の最中で、この戦慄すべき状況に酔い痴れながら、このような状況がずっと続くよう願いながらまるで絵を描くように自分行為を隅々まで記録していたのだろう──実際に写真を撮ったのかもしれない。そして、おそらく妻と息子のこのような関係を知った「私」の夫は、このことが原因で自殺したのだろう。


2017-09-21

それで、天使はどこに? 〜 出口裕弘『天使扼殺者』

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ジョリス=カルル・ユイスマンスエミールシオランジョルジュ・バタイユ翻訳でも知られているフランス文学者の出口裕弘小説を書いていたことを最近知った。その一つが『天使扼殺者』だという。天使扼殺者──その強烈なタイトルに心を鷲掴みされた。どういう内容なんだろう? ミルトンの『失楽園』みたいな堕天使が出てくるのだろうか? あるいはダンテの『神曲』のような地獄めぐり……。

ネット検索しても『天使扼殺者』の感想らしい感想はなかった。あまり読まれていないようだ。そういう読者を選ぶような、そういう秘儀的な感じも、ますます、気になる。もしかしたら天使というのは象徴的なものでドストエフスキーの『悪霊』みたいな小説なのかもしれない。多くの人が死に、殺される。屍の山が築かれ、それを怜悧な目で見つめるスタヴローギンのごとき天使。なんといってもユイスマンスシオランバタイユ翻訳者なのだから。そしてタイトルが『天使扼殺者』なのだから。

で、『天使扼殺者』を手に入れた。長さは約220ページ。長編にしてはそれほど長くはない。興奮しながらページをめくる。この小説ミルトンダンテユイスマンスシオランバタイユドストエフスキーらの作品とどのように同じでどのように違うのか? そんなことを考えながら一気に読んだ。

読んだ後、思った。やっぱりこの本についてネット情報があったほうがいい、と。『天使扼殺者』というタイトルがあまりに魅力的すぎるから。以下『天使扼殺者』の簡単概要感想をサクッと記しておきたい。

天使扼殺者 (1975年)

天使扼殺者 (1975年)


舞台60年代パリのようだが意図的にその言及はない。地名フランス語も出てこない。ただ外国の街というだけ。しかし「学生街」から「河岸」に歩き橋を渡ると「島」があり、そこには「大寺院」があって、さらに橋を渡るともう一つの「島」があり、そこは瀟洒建物が並んでいる……とくればどこの都市だかすぐにわかるだろう。
語り手の「私」は日本人中年男性で、主に少年向け小説を書いている作家である。「私」は文壇ボス対立し干される。それで東京からこの外国の街へ逃げるようにやってきた。「私」は場末のエレヴェーターがないアパート最上階の屋根裏部屋を借りる。偶然にも、隣室に住んでいたのは20歳ぐらいの日本人青年で、名前は天馬だという──ペガサスの「天馬」です、と天馬青年は紹介する。学生なのか、どういうわけでこの街滞在しているのかはまったくわからない。

(そうか、この天馬が天使なのかもしれない。字面からも容易に「そうだ!」と推定できる。こんな変わった意味深名前をつけるのは何か意味があるに違いない。なにしろアパート最上階に住んでいる天馬=ペガサス。あまりにも出来過ぎた偶然。この天馬青年天使に違いない。だた、作者は天馬をさほど魅力的に描いていないのが気になる──つまり絶世の美青年という風ではないのだ。天馬は片足が不自由らしく、足を引きずっている。そこには天馬青年過去秘密でもあるのだろうか?)

「私」は天馬青年を見て、学生時代の友人、高杉を思い出す。高杉は戦後成金の裕福な家の出であるが、父親に反抗するためにあらゆる退廃に浸っていた。「私」に春画を見せ、女をあてがったのも高杉だった。ただ高杉は政治的には右翼思想の持ち主で、「私」をはじめ左翼学生とも議論を闘わせていた。そんな高杉であったが、ある日、「私」の目の前で飛び降り自殺をする。それもあって以来「私」は高杉に対して特別感情を抱いている。特別感情を抱いていることを隠さない。天馬を見て高杉を思い出す。高杉を思い出すと天馬が気になる。外国の街で学生時代の男友だちのことばかり思い出す「私」……。小説は、現在パリらしき街での出来事過去の「私」と高杉の思い出が交互に描かれる。

(わかった。高杉が天使かもしれない。いや、高杉も、と言ったほうがいいかもしれない。なにしろ「私」の目の前で飛び降り自殺をした高杉……その場面は意図的なんだろうがどこか曖昧でどこかもどかしく描かれている。本当に自殺だったのか、もしかして「私」が殺したのかも……と読者に思わせたいのではないか、と思わせる。それにしても金持ちの出で退廃好みで、それでいて右翼思想の持ち主で自殺……なんか三島由紀夫を思わせる。ちらっとウキペディアを見たが、出口裕弘ユイスマンスを訳したのは三島に薦められたからとあった。この小説雑誌掲載の後、1975年単行本刊行された。三島自殺1970年。)

天馬の紹介、という天馬の策略で「私」はある日本人女性と知り合う。「私」はその日本人女性をどういうわけかシャオと呼ぶ。天馬は「私」のことをどういうわけかボースンと呼ぶ。どういうわけか、みんなそれを了解する。
「私」が思うには、天馬とシャオは何かいかがわし仕事をしているらしい。おそらく春画だろう推測する。(ここでやっとこの小説では「春画」はポルノ意味することがわかった。「私」と高杉も「春画」を介してより交友を深めたような記述があった。そんなこと馬鹿正直に書く必要もないのに、と思ったが、「春画」→「酒」→「女」を経て、「私」は高杉に反撃するすべを知ったと「私」は述懐している。「私」の行動原理パターンとしてそれを記憶しておこう。)
「私」が気になるのはシャオと天馬の関係だ。天馬とシャオの家で夜を明かしたとき、天馬が全裸の上に革のスーツを着たシャオボタンを一つ一つ外しているいるのを「私」は目撃、したように思う。本当にあったことなのか夢なのか、それはわからない。ただ、そのイメージに「私」はとらわれる。

(なるほど、シャオが(も)天使かもしれない。彼女天使だとすれば、これで天使候補者は3人。天馬、高杉、シャオ天使候補者複数いれば、真の天使と贋の天使、という構図も考えられる。ところでシャオが素裸に革のスーツを着るイメージ、よほど作者が気に入っているようで、「私」は繰り返しそれを回想するのだが、どこかでそれと似たようなイメージを見たことがあるような──それってアラン・ドロンマリアンヌフェイスフルの映画『あの胸にもういちど』じゃないか。あの映画には「春画」としての要素もあったはずだ。)

天馬の策略はシャオの策略でもあった。シャオは「私」に恋人役を務めてほしい、そしてこの家に一緒に住んでほしい、と乞う。なぜなら夫である本城四郎が息子の正身とともにこの外国の地へやってくるから、自分を連れ戻しにくるから。本城四郎がこの家へ踏み込んできたとき、この家に「私」がいてほしい、と。
「私」はシャオの強引な要求に驚いただけではなかった。「私」が真に驚いたのは、シャオ本城四郎の妻、本城明子であったことだ。「私」は同世代作家本城四郎の作品なめるように読んでおり、「本城の精密な読者」として本城のことはよく知っていた。本城のことは作品を通してよく理解していた。「私」は本城という人気作家仕事20年間も追跡してきた。本城自身も知らぬことでも「私」は知っていた。

(え、もしかして本城四郎が天使? 「私」によると本城は文武に優れ、しかも美貌の持ち主だという。たしかに「私」の本城に対するストーカーめいた言動は単なる「読者」を超えている。「精密な読者」である「私」は、「精密な読者」であるという武器によって本城仕事崩壊させようと画策する。「私」もいちおう作家であるから、ここはメタフィクションみたいな感じと読めないこともない。本城四郎が天使で「私」が贋天使だろうか? それともその逆か。)

本城四郎が息子の正身とともに日本からこの(パリらしき)街にやってくる。4人、そして天馬を合わせて5人は、とりたてて大騒ぎすることなく、話し合ったり会食を取ったりする。ただ、正身少年は異質の存在で、「私」のことを避けるような受け答え、「私」のことを避けるような身のこなし、「私」のことを避けるような表情を「私」は見逃さなかった。

(5人目の天使候補者はこの正身だ。容貌からすると天使にはうってつけだ。もし、正身少年天使だとすれば、その扼殺者は誰なのか? 小説も半ばを過ぎ、こうなってくると、もう、この小説ファンタジーではない。天使堕天使悪魔そのものが出てくる余地はもうない。神学主題も、この流れでは、出てこないだろう。このパリらしき街の日本人5人組は、米ドラマフレンズ』みたいに仲間内で愚だ愚だやっている、だけのように思える。おそらくそういう小説でもあるのだろう。本城四郎がきてからは高杉の影が薄くなるのは必然か。)

本城四郎と「私」との鍔迫り合いが数ページに渡って描かれる。「私」がシャオと肉体関係を結んでからは、「私」はより大胆に振る舞う。だが、紳士協定のごとく一線を引き、大きな問題が起こることはない。「私」には余裕がある──なぜならば、「私」は本城四郎の「精密な読者」だからだ。本城のことはよく理解している。その行動原理パターンも把握している。こうすれば、そうするだろう。そうすれば、こうするだろう。これは「私」のゲームなのだ

外国人がこの様子をみたら日本人同士が腹の探り合いをしながら商談でもしているように思うだろう。)

事態特に進展することなく、本城四郎と正身は一時帰国する。結局、妻を日本に連れ戻すことができなかったのでこれは本城の敗北とも取れる。しかし「私」はなぜか浮かない。本城帰国してからは心にぽっかり穴が開いたよう気がする。だからシャオを連れベニスらしき街へ旅立つ。ベニスらしき街で「私」が嬉々とすることは──本城手紙を書くことだった。何通も。合計30通近い長文の手紙本城に送りつける。そしてこの「私」から本城宛ての手紙の中で、やっと天使が登場する。ベニスらしき街の観光を綴った手紙の中で唐突に。

この贋天使、もう何百体も柔媚な本物の天使たちを縊り殺しながら、彼自身は世にも優しく甘く寂しげな面持ちをしている。どうして僕はこんな変な奴を見てしまったんだろうね。見た以上、もう二度と脳裏から消すことはできやしない。この誰にも見えない扼殺者と僕はきっと生涯にわたってつきあうことになるんだろうね。天使たちを断首し、天界パニックを捲き起こすがいい。流血は歴史に書きとどめられ、末の世まで語りつがれるはずだ。縊るとはまたなんという陰気な殺伐だろう。なんといういかがわしい殺しであることだろう。ぜめて血を流すがいい。邪悪な剣が肉を断つ音を響かせるがいい。


出口裕弘天使扼殺者』(中央公論社)p.201-202

(どうしてこんな変な奴を見てしまったんだろうね、と言われても……本城さんは返事のしようがないんじゃないかな。天使は「顔も躰もはっきりと若く凛々しい男子であるべきだ」と言われても……同じく。もし、それが「私」と自分関係示唆しているのだとしても、おそらく本城さんは妻を寝取ったぐらいの男にそこまでの過剰なイメージを実際には抱かないと思う。本城四郎のような売れっ子作家なら、誰かがそう思っていることを、まるで自分の懊悩であるかのようにいくらでも書けるだろし……もしかして本城は「そのようなこと」をどこかに書いていたのかもしれない。もしかして「私」は本城四郎がある小説で描いた「その懊悩」を、本城自身の懊悩として理解しており、このように書けば、そのように思うだろうと、「精密な読者」としての武器をここぞとばかりに発揮しているつもりなのかもしれない。本城四郎はある小説の中で「このようなこと」を書いていた、「私」の手紙は、それに対する、それに当てつけた返答である。だから出口裕弘の『天使扼殺者』しか読んでいない僕のような読者にはわからないことが──わからなくてもいいことが──書いてある。そうでなければ、この唐突に描かれる天使と贋天使の話の挿入の意味が、本当にわからない。)

本城四郎は再びこのパリらしき街へやってくる。今回は息子の正身を連れていない。「私」、シャオ本城、天馬の4人は会食をし、それが済むと、みんなバラバラに帰る。

(え、これで終わり? 天馬って結局何している人だったの? 高杉の自殺の件はどうなった? シャオ精神を病んでいてそれを思わす偏執的な絵ばかり描いているという説明もあったが、それは? 「私」とシャオ行為を正身が見ているという夢に意味はないの? そもそも本城って何しに来たの? もしかしてこれがヌーヴォー・ロマンってやつ?)

2017-09-13

『ウルトラQ』から3つのエピソード

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怪獣プロレスをするウルトラマンの前史、というわけで敬遠──というか見くびっていた『ウルトラQであるが、いくつかのエピソードを見て、これは面白い、と素直に脱帽した。そこには、どこか懐かしいモダン日本科学信仰に対する健全批判が描かれていた。今となっては古びたSFガジェットも、どこか懐かしく、カールハインツ・シュトックハウゼンの初期電子音楽を聴いているかのような趣きがあった。まだすべてを見ていないのだが『ウルトラQ』の中にも怪獣路線とそうでない路線があって、個人的には後者の『トワイライト・ゾーン』みたいな不思議エピソードの方が、いまのところ気に入っている。

ウルトラQ』について……なんていまさらであるが、素直に見て面白かったので素直にその面白かったところを──つまり面白く感じたことを感じままに書いておきたい。


『1/8計画

人間を1/8に縮小すれば今後訪れるであろう人口過剰問題、それに伴う資源問題を一挙に解決できる。1/8サイズ人間になって、1/8人間専用のS13地区住民になれば、国民の三大義務から免れることができる──とくに勤労の義務納税の義務からの解放が強調される。そういった触れ込みに被験者殺到する。老いも若きも、夫婦独身者も。産児制限はなく子どもは何人でもOK、全部政府が面倒を見る、そこはユートピアだ、というわけだ。

ではS13地区ではいったい何をすればいいんですか? とのS13地区入所希望者の質問担当係員が「何でも好きなことを。絵を描いたり、学問研究をなさったり」と真顔で応える。

そこへレギュラー登場人物新聞記者江戸川由利子が大勢被験者の波に押し寄せられ、いつのまにか、本人の意思確認インフォームド・コンセント)もなされずに勝手に強引に1/8の人間に縮小させられてしまう。その後は、縮小された人間が、それに比して大きくなったモノ(電話機や鉛筆)と対比されたり、S13地区市街地に戸川由利子を探しにきた仲間の万城目淳と戸川 一平が、映画ズートピア』での「リトル・ローデンシア」に入り込んだジュディみたいだったりとシュール映像表現を見せる。シュールといえば、1/8化された戸川由利子が入った鞄──内側はリカちゃんドールハウスみたいになっている──を川で見つけるのが修道女、というのも映像的にシュールだった。

一見、楽園建設のような触れ込みの1/8計画であるが、S13地区住民は元の名前が「消去」され数字の番号で識別されるという非人間さがあって、それは当時にあっては現実的だった共産主義国家への批判になっているのかな、と思ったが、しかし共産主義国ならば労働がないなんてことはありえない。1/8計画は、労働意欲のない国民を募り、その人たちを安楽死させるための計画なのではないかという思いがよぎる。そして労働意欲のない国民を釣るエサが「絵を描いたり」(芸術)だったり「学問研究」というのもいろいろと考えさせられる。


『あけてくれ!』

誰かと思えば死神博士こと天本英世が異色のSF作家、友野健二役で登場する。このSF作家の暗い情念がこの物語の核となり、彼の本を読んだ人たちを突き動かす。それは、この現実社会とは別の、時空を超えた心地よく秘密めいた場所がどこかにあり、特別電車が、特別に選ばれた人たちをそこへ連れていってくれる、というもの。
新興カルト宗教的役割をここではSF小説が果たす、と考えればそれほど荒唐無稽な話ではなくなり、SFガジェットに託した救済の物語になる。夜空を走る電車は、厭世観渦巻くこの現実社会から、まだ見ぬ理想郷へと「読者」を連れて行ってくれる、そう信じるのだ。そう信じることによって、「あの場所」へ向かう電車切符を手に入れる。友野健二が小説で描いた内容は、彼の経験に基づいた正真正銘の現実だった──ふと乗ったエレベーター無限下降し、この世に嫌気がさした作家別世界へと導いてくれた。

作家教祖)と読者(信者)による、それ自体で完結し充足したフィクション世界に亀裂が走り、現実社会交錯するのは、「読者ではない」一人の酔っ払った中年サラリーマンが誤って別世界へと人々を運ぶ電車に乗ってしまったからだ(それによってレギュラー登場人物たちの介入が始める)。
そのサラリーマンはまだ現実世界を捨てることはできなかった。現実世界に未練があった。だから、未知の場所へ人々を運んでいく電車から降りようとし、ドア叩いて「あけてくれ!」と何度も何度も叫ぶ。電車の窓からは、家族をはじめ多くの人たちが、まるで軍隊召集された人たちを見送る出征祝いさながらの様子で、日の丸の旗を振りながらサラリーマンに「行ってこい」とばかりに声援を送っているのが見える。この頃のテレビドラマには健全反戦思想視聴者の間で普通に共有されていたかもしれないが、そうだとしたら、このイメージには、戦死という、かつてあった現実を呼び起こさせるものであっただろう。

一旦は、異次元へと「読者」を運ぶ電車から飛び降りることができたサラリーマンであるが、自分のことを嘲り刺々しく非難する妻や娘、そして会社上司の彼を蔑むかのような言動を目の当たりにしてこの現実世界に嫌気がさす。あの電車のことを思い出す。あの電車の中で友野健二が語ったことを思い出す。一度「そのような世界」の存在を知ってしまったサラリーマンは、もう元の自分に戻れない。会社を辞め、なんとかしてこの厭世観渦巻く現実社会からの逃避を図る。
夜空を見上げたサラリーマンの目に空中を走っていく電車が映る。サラリーマンは「連れて行ってくれ!」と叫ぶ。


悪魔ッ子』

奇術師の娘リリー精神と肉体が分裂する。精神は肉体の軛を逃れ、肉体の眠りとともに目を覚まし、夜な夜な徘徊する。肉体から解放された精神は、地上、水上、空中と、あらゆる場所に現れ、交通事故航空機事故を引き起こす。大人にとってはガラクタにすぎない機械部品やピン、ときには家族同然の魔術団の女性のブローチを手に入れるために、それらを所有している人を死に追いやって、自分の宝物としてそれら手に入れるのだ。ただし、リリー自身は分裂した精神がしていることを知らない。朝、目が覚めるとなぜかひどく疲れており、どういうわけか体が汚れていたり手に血がついていたりする。いつしかリリーの分裂した精神は、さらなる解放を目指して、その解放邪魔になるリリーの肉体を死に追いやろうとする……。

というストーリーなのだが、リリーの身に起こる現象は二つ要因で説明される。一つは催眠術依存による精神と肉体の分裂。もう一つは奇術ショーで披露される幽体離脱による影響。この二つはともに科学的な説明があるのだが、いまいちピンとこない。それは、科学的根拠信憑性問題ではなく、単に因果関係が明瞭でないからだ──催眠術で眠らされることで精神と肉体が分裂し幽体離脱が起こるのか、幽体離脱の結果として、それが精神と肉体の分裂を意味するものなのか。
幽体離脱とはそういうものだ、と言われれば、そうでしかないのだが、しかし、そうすると奇術ショーにおける幽体離脱(そのときリリー催眠術で眠らされていない、覚醒している)はあくまでも「擬似幽体離脱」で、そこに何かトリックみたいなものがある普通手品と変わらないはずだ。催眠術による「本当の幽体離脱」と奇術ショーにおける手品としての「擬似幽体離脱」は、それぞれ独立した手順を踏んだ結果であるにもかかわらず、相互混同され、相互に影響関係があるかのように描かれることは、それぞれの科学説明以前に気にかかるし、ひとたびそういうことが気になると、そのことだけがずっと気になる。

だからこう考えてみたらどうだろうか──と自分に語りかける。前半のリリーが空中や水上に現れる場面は端的にオカルト現象なので説明不要、そういうものだと納得するしかない。語るべきは(このブログでぜひとも書いておきたいのは)後半で、これまで他人を死に追いやっていたリリーが、今度は自分自身に目を向け、自分自身を殺そうとすること、そこに戦慄を感じた、ということである

前述したように幽体離脱という精神と肉体の分裂は父親である奇術師催眠術が原因で、それにちょっとした科学説明が加わるが、それはどうでもいい。なぜなら、精神と肉体が分裂したのならば、肉体側リリーには思考能力がないはずだし、そうであるならば、肉体側のリリーを陥れるために精神側のリリーが策を講じることができなくなるからだ。だからここは、マーガレット・ミラー小説のように、人格の分裂、しかもそれがきれいに二つの対になって分離する二重人格と想定したほうがいい。AかBか。0か1か。そうすればこの『悪魔ッ子』は、マーガレット・ミラーのある小説を『鏡の中の他人』(邦題)として映像化したヒッチコック劇場のものよりも、はるかマーガレット・ミラーの「あの世界」を、より効果的に、より繊細に、そしてより残酷映像で描いているように思えてくる。最初は一つの肉体で共存していた「わたし」と「あなた」は、次第に敵対し、一つの身体というスペースをめぐる戦いになる。誰がリリーなのかという戦いになる。AかBか。0か1か。「わたし」か「あなた」か。

リリーはもう一人のリリーを殺そうとする。リリー母親に会わせると言ってリリーを連れて行く。それは嘘ではない。母親はすでに死んでいるのだから。リリーリリー線路を歩いていく。列車が向かってくる。