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2004-10-27

「私は研究者です」と発話すること

「私は研究者です」と発話することを含むブックマーク

tummygirlさんに言いたいことは、そもそもご自分が「最初に書いた文章」を、もう一度良く読んでいただきたい、ということです。

チェイニーの娘の件から始まって、彼女の「自己申告」を「否定」して、ブッシュ発言を「正しい」とする意見の表明。「変態」という言葉の連発。そして「持論」を展開して、締めは、「豆腐」だとか「あぶらげ」とかいう馬鹿にしきった「レトリック」。

なぜ僕があなたに意見せざるを得なかったかが、まったくわかっていない。

あなたが「バトラーの劣化コピー」のような「持論」を述べることはまったく自由ですが、それが文学芸術を<対象>にしているのではなくて、「生活者としての人間」を<対象>にしているという「認識」はどれほどあるんでしょうか。

フーコー的な歴史的構築性や権力の分配の分析と同時に、デリダ的な脱構築」をやりたいだけならば、なぜセクシュアル・マイノリティを「実験台」に乗せるんですか?

やりやすいからですか?

ハヤリだからですか?

「弱い立場の人間」ならば、研究対象として、勝手に(再)配置、(再)意味付けという「権力」を行使しても、かまわないと思っているんですか?

僕があなたの<嗜好理論>には無理がある、現実を無視している、というと、「SMフェミニスト」だとか「ブッチ・ダイク」だとか、様々な「相対主義」をし掛けてくる。

しかし、その場合でも、あなたは、なぜ、「SMフェミニスト」や「ブッチ・ダイク」のアイデンティティのことがわかるんですか。個人のセクシュアリティについては、ブッシュ大統領と同じく「わからない」と表明しているあなたが、どうして、セクシュアル・マイノリティの「アイデンティティ構築」について一言を主張できるのか、それが僕には納得がいきません。

あなたは、「SMフェミニスト」や「ブッチ・ダイク」、同性愛者を始めとするセクシュアル・マイノリティを、すべて<嗜好>による<構築物>だとしている。あなたには、そう「映っている」から。あなたには、そのように、セクシュアル・マイノリティが「立ち現れて」いる。だから、そのようなものとして、「絶対的に言い当てられる」という結論に至る。

もちろん、それは、最初にセクシュアル・マイノリティ研究対象が「主張」する<指向>を「判断停止」した「賜物」だ。「研究者」である<わたし>の主張のほうが、「研究対象」ごときの意見なんかよりずっと「厳密」であり、最終的に「彼ら」の利益にも叶うと信じるに足る。あなたは(安全圏にいる)「超越者」の「視点」で、セクシュアル・マイノリティ(のアイデンティティ)を「自分の理論」に「還元」している……還元しても良いと思っている、なぜなら<わたし>は「研究者」だから。

あなたの文章を読んでいると、フッサール的な「理念」(あるいは「楽観」)が「いきいきと」感じられる。

また、僕のあなたへの「反論」として、「生まれつき」だからこそ差別が発生した、差別の「根拠」は産出される、ということに対し、あなたはどう応えましたか。

「根拠もなく」ではなく「正当な根拠もなく」というべきだった。ここで「正当な」というのは極力「正義」にのっとった、という意味であり、私はこの部分を全面的に削除することはできないと考えている。

「正当」や「正義」は、そして無論「根拠」は、いったい、誰が決めるんですか。こういったことこそ、まさしくフーコーが分析したんじゃないんですか。同性愛者抑圧は、「正当/正義の根拠」の<主張>によってなされてきた。

しかもあなたはフーコーが「権力」として批判した「精神分析」を(留保を交えながらも)肯定している。精神分析がかつて行った「犯罪行為」には、まったく「関心」がないようだ。セクシュアル・マイノリティを「研究材料」としているのに、セクシュアル・マイノリティを「囲い込んだ<言説>」、差別の「歴史」には、興味がないんですか?

あなたは、本当に、

フーコー的な歴史的構築性や権力の分配の分析と同時に、デリダ的な脱構築

を目標に掲げているんですか?

あなたは、セクシュアル・マイノリティを「変態」と呼んだ。不適切で適当な「レトリック」を使った──セクシュアル・マイノリティ相手なら、そのような「馬鹿にしきったレトリック」を使っても良いと「判断」した。

それが、あなたの──お好みならば無意識の──態度です。

あなたの「セクシュアル・マイノリティ研究」は、セクシュアル・マイノリティに対し、「抑圧的」です。

HanaHana 2004/10/28 06:38 Hodgeさん、はじめまして。Hanaと申します。同性の恋人と暮らしています。
ここ数日の記事を読んで、共感するところが多かったです。やりとりを読みながらいろいろなことを思い出しました。うまくまとまっていなくて長くてごめんなさい。

ヘテロセクシズムに強い被抑圧感や違和感を持っており、自らの性的対象が積極的には異性のみで、戸籍性どおりの性自認を持っている方に、私はわりとよく出会います。
そういう方の中に、自分がヘテロセクシズムに強い被抑圧感や違和感を感じることを根拠に、「私はセクシュアル・マイノリティ」というアイデンティティを持つ人をちらほらと見かけます。
私の経験から見るところ、これらの人々は、自らのセクシュアリティを「ヘテロ」とアイデンティファイすることには、大きな抵抗感を持っています。
自分はヘテロセクシズムに抑圧を感じないような「単なるヘテロ」とは違う、という強い思いがあるのです。
かといって、これらの人々の性的対象はあくまで積極的には異性のみなので、「ゲイ」「レズビアン」「バイ」という性的指向性の他のサブカテゴリもあてはまりません。
だから、彼らは自らのセクシュアリティを既存の「性的指向性」では言い表せないと感じている。彼らにとって、これはずいぶん苦しいことだろうと思います。自らを定義する言葉を持たず、「私は○○ではない」という、否定文のアイデンティティしか持てないという状況を、試みに想像するにつけても。
こうした苦しさを抱えているためか、これらの人々は、他人が自分を「単なるヘテロ」と目することに大変敏感で傷つきやすいように、私には思われます。
セクシュアル・マイノリティのグループ内の他人が、これらの人々のセクシュアリティを「単なるヘテロ」に振り分けるのは、「性的指向性」概念に基づいてのことです。
このことを考えれば、これらの人々の中に、セクシュアリティについて考えてゆくうえで「性的指向性」概念はあまり有効ではないとか、不当に重視されすぎているとか、自分たちは「性的指向性」を重視するレズビアンやゲイに抑圧されているかと思う人が出てきても、不思議ではありません。

もちろん、彼らの意味世界を離れれば、「ヘテロ」「ゲイ」「レズビアン」「バイ」というのは、自らの性的対象が誰か/誰でないかということを通じて獲得されるアイデンティティであって、その人がヘテロセクシズムに被抑圧感を持っているかどうかなんて関係ありません。
だから、彼らは単に「ヘテロセクシズムに被抑圧感を持つヘテロ」にアイデンティファイすればいいだけじゃないかと、傍目にはいつも思ってしまいます。
でも彼らにとっては、そういう意見こそ抑圧的なのでしょう。他人にアイデンティティを押し付ける権利を持つ人は誰もいないのですから、「他人にどうこう言われるいわれはない」と主張されれば、それはそうですねとしか言いようがありません。
しかし、その結果、様々な困ったことが生じている現実があるように思います。

その一つは、セクシュアル・マイノリティのグループ内で彼らがヘテロセクシストな言動をしたとしても、それをヘテロセクシストな言動だったと認めたり謝罪したりするのが難しくなり、したがって被害が回復されにくい、ということです。
言うまでもなく、ヘテロセクシズムに抑圧感を持っているということと、自らがヘテロセクシストな言動をしないということは、全く別のことです。ヘテロセクシストな言動をする人は、ゲイにもレズビアンにもバイにもいます。もちろんヘテロにも。
でも、「ヘテロセクシズムの被害者である自分は、ヘテロセクシズムに無自覚な「単なるヘテロ」と違う」というところにアイデンティティを賭けている人々にとって、自分が無自覚にとった行動がヘテロセクシスト的だという指摘は、自らのアイデンティティへの挑戦に映るようです。非常に頑なな態度をとる人をしばしば見かけます。自分の言動を正当化しようとするあまり、更にヘテロセクシストな言動を重ねてしまった人も、複数知っています。
これでは、ヘテロセクシズムに被抑圧感を持つ他のカテゴリの人々と、良好な関係を築くのは困難です。誰にとっても不幸なことです。

それからもう一つ起こりがちな困ったこととして、既存のセクシュアル・マイノリティ定義やセクシュアル・マイノリティが置かれてきた社会的文脈の中で積み重ねられてきた議論を、一気にひっくり返したり、勝手に書き換えたりしようとする、ということがあります。
彼らは、傍目からはどのへんがセクシュアル・マイノリティなのかいま一つよく分からない人たちです。普通に考えれば、セクシュアル・マイノリティを自らが名乗る根拠を何か述べて、それが意味ある根拠と認められればメンバーシップ成立、ということになるでしょう。しかし彼らはそういう手続きは踏みません。私はセクシュアル・マイノリティなのだ、疑うなんて許せないことだ。私をセクシュアル・マイノリティに含まない現行のセクマイ定義は不十分だから書き直せ、議論もやりなおせ、「性的指向性」概念に特権的な地位を与えるな。こういう人が、意外にたくさんいるわけです。
これは実質的にセクシュアル・マイノリティ内部での覇権争いをしかけるのに他ならないわけですが、当人は自分はセクシュアル・マイノリティ集団のエスタブリッシュメントに抑圧される立場であるという自己認識ですから、被害者面での主張になります。それも事態をややこしくします。困ったことです。

macskamacska 2004/10/28 10:53 はじめまして、HODGE さん。
お二人の論争について、わたしのサイトでも少しだけ割り込ませてもらいました。
トラックバックがうまくいっていないようなので、こちらにアドレスを示します:
http://macska.org/?p=48

わたしの立場は、理論的な面については tummygirl さんとほぼ同じですが、今回特に HODGE さんが問いかけている「研究者としての責任」「マジョリティ(に近い者)の責任」という点では HODGE さんの意見に耳を傾けたいと思っています。例えば、HODGE さんの、

> 「フーコー的な歴史的構築性や権力の分配の分析と同時に、デリダ的な脱構築」を
> やりたいだけならば、なぜセクシュアル・マイノリティを「実験台」に乗せるんですか?

というのは非常に重要な問いかけであり、まず「異性愛強制社会」こそを第一に脱構築するべきではないかというのであれば頷けるところもあります。

しかし、わたしは tummygirl さんが「セクシュアル・マイノリティを実験台に乗せている」という風には感じません。 tummygirl さんが実験台に乗せているのは、例えば「性的指向」を「嗜好」とは違ったものに特権化している社会的な装置であったり、そうすることで同性愛者が「セクシュアル・マイノリティ」へと分節化される仕組みそのものだとわたしには感じられます。「セクシュアル・マイノリティを囲い込んだ言説」や「差別の歴史」に興味がないのではなく、そうした言説を解体するために「性的指向」という20世紀初頭のセクソロジー研究者によって生み出された概念を疑っているのではないでしょうか。

HODGE さんが気分をけがされた理由となった「豆腐」やら「髭あり/なし」といった例えにしても、それらが現在の社会において「同性愛」と等価の「嗜好」で有り得ないというのは、tummygirl さん自身がきちんと説明されています。それでも何故そうした一見「馬鹿にしきった」ように見える例えを使うのかというと、論理的に言って等価であってもおかしくないそれらの概念のうち、「豆腐好き」あるいは「髭のある人好き」に対する社会的な差別や抑圧が存在せず、「同性愛者」に対して過酷な差別や抑圧が存在する、その社会構造上の理由を明らかにし、それを解体することを目的としているからです。

わたしはそうした tummygirl さんの分析や戦略に同調するものですが、それらが有効であるかどうか、あるいは思いがけぬ弊害がないかどうかといった点においては、違った視点の持ち主によって厳しい批判や異論があっても良いと思います。でも、例えの意図を理解せずに「馬鹿にしきった」態度である、と決めつけられてしまうと、口を閉ざすしかなくなってしまいます。繰り返しますが、tummygirl さんは「豆腐好き」が「同性愛」と等価であるという意味で例えを使ったのではなく、「等価であってもよさそうなものなのに、そうではないのは何故か」を問うためにそうした例えを使ったのですから、「そんなの等価ではない、同性愛者が受けている差別を何だと思っているのか」と反発するのは筋違いです。

HODGE さんの、

> それが、あなたの──お好みならば無意識の──態度です。
> あなたの「セクシュアル・マイノリティ研究」は、セクシュアル・
> マイノリティに対し、「抑圧的」です。

という指摘についても、「マイノリティ研究」がマイノリティに対して抑圧的に機能するというのは、tummygirl さんに限らずあらゆる研究についていえることだと思います。いや、マイノリティに限らず、暴論っぽいのを承知でいうなら、研究という行為自体が一般的に暴力的なのです。そのことに研究者は敏感であって欲しいし、無意識でいてはいけないと思います。

しかし、それはそうした研究をやめれば良いというわけではありません。わたしのページの方で書いた通り、「研究者として」あるいは「マジョリティとして」社会的な抑圧の問題に関わることは、どう転んでもどこかで抑圧の一部に加担することに他ならないのですが、かといって傍観しているわけにもいきません。自らの関与の暴力性や抑圧性に敏感になりつつ、できる限りそれを抑えつつ、ポジティブな方向に関与できるよう努力するというのが、研究者やマジョリティの責任であるとわたしは思います。

tummygirltummygirl 2004/10/28 14:46 Hodgeさん(それからHanaさん)
応答を私の方のブログにアップしました。よろしければご覧ください。

conjuntoconjunto 2004/10/28 22:12 始めまして。

30数年へテロとして生きてきましたが、今は同性のパートナーと暮らしています。

私自身は、「指向」とも「嗜好」とも「アイデンティティ」とも言えず、困っております。

>「偶発的」なのは、人が異性愛者として生まれるか、同性愛者として生まれるかあって、そこには「選択」の余地はない。「選択」するのは、今日はSMを「プレイ」し、明日は別の「プレイ」をチョイスするだけだ。

そういう方が大勢いらっしゃるのも知っています。
しかし、私の場合、「指向」とすれば異性愛かなと思いつつ、人生のパートナーは同性を選びました。(性愛ももちろん含め)

自分が「同性愛として生まれた」とはどうしても思えず、そのため、ゲイコミュニティにもなじめずにおります。

Hodgeさんとtummygirlさんの議論は、正直のところ私には難しく、議論の内容にコメントすることはできませんが、個人的には、「同性愛として生まれる」と限定するよりは、人間の性は豊かに変化するもするのだということを、ご理解いただければと思いました。

個人的なコメントで申し訳ありません。

HODGEHODGE 2004/10/29 00:06 Hanaさん、macskaさん、conjuntoさん、そしてtummygirlさん、こんにちは。
帰宅が遅れたので、意見は明日でも。

と思ったのですが、ちょっとだけ。

残業をしながらふと思ったのですが、要するに僕が言いたかったのは、自分のアイデンティティは「性的なもの<だけではない>」ということなんです。

たしかに自分としては、異性愛者との「(性的)差異」を「主体」として、権利獲得や反差別行動をしていますが、しかし、それは一時的な通過点ではないか、と思っています。つまり異性愛者との<性的な>差異は、よく考えたら、一日24時間のうちの、ほんの一時間程度なんですよね。つまりほとんどの時間は、セックス以外の「こと」に費やされている。それ以外は、パートナーとは、食事をしたり、映画を見たり、旅行したりと、「単なる人間的な関係」だけです。

「性的差異」を強調しているにもかかわらず、本心では、それ<だけ>で自分を捉えられたくはない、と思っている。

だから、「性的内容」が<より>重視される<性的嗜好>でアイデンティファイされたくないし、したくもない。というか、ほとんどの「異性愛者」(つまりセクシュアル・マイノリティではないと「思っている」人たち)は、「異性愛指向」「異性愛嗜好」で自分をアイデンティファイしていない。

ただ、同性愛者の場合は、パートナーと「生活を営む」ときに、どうしても自分たちが「同性愛者」であることを、痛感させられる。

自分(たち)で、「嗜好」でアイデンティファイするのではなくて、一方的に「性的内容」=「嗜好」で「名づけられる」。

僕が「嗜好」という言葉を使いたくないのは、そういうことがあるから。そしていつかは「性的内容」によるアイデンティティ「表明」をする必要がなくなることを期待しているからだ。

バトラーやフーコーやデリダを「捨て去る日」はいつなのか、ということを、職場で Excel に数字を打ちこみながら思っていた次第。